王朝交代時の九州年号「大化」の考察 (2)
九州年号「大化」の字義は〝大きく化する〟ですから、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代を見据えた年号ではないか、あるいは大化元年(695)が持統天皇の藤原遷居(694年12月、注①)の翌年(翌月)に当たることから、藤原遷都に関係したものではないかとも考えてきました。しかし、そうであれば大化改元は大和朝廷の意向(禅譲の強要か)にそったものとなり、大和朝廷が大宝建元(701)したときに九州年号「大化」は廃止されると思うのですが、大化は九年(703)まで続き、その後は「大長」と改元され九年まで続き、九州年号は王朝交代の11年後に終わります。この「大化」「大長」の九州年号が、単純な禅譲説を斥けるのです。
『日本書紀』では大化改元が、九州年号「大化」を孝徳紀まで50年遡らせていますから、大化の字義を〝広大なる化導。大なる徳化。徳を以て大いに導き、人心をよき方向にかえること。〟のように孝徳天皇の意志や業績と関連づけた建元(注②)と理解されているようです。しかし九州王朝説では、大化は王朝交代直前の九州王朝による改元ですから、こうした解釈では、5年後に交代する新王朝への讃辞のような字義となり、ちよっと不自然のような気がします。(つづく)
(注)
①持統九年十二月条に「藤原宮に遷(うつ)り居(おは)します。」とあり、「遷都」としていないことが注目される。
②日本古典文学大系『日本書紀』(岩波書店)の頭注には次の説明がある。〝大化は、広大な徳化の意。尚書、大誥に「肆予大化誘我友邦君」。(中略)書紀では大化が年号のはじめ。〟。