第2457話 2021/05/11

九州王朝と大和朝廷の「都督」(1)

 草野善彦さんは著書『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注①)に読者から寄せられた意見「〝倭国の都城がはじめから太宰府〟というのは、違うのではないか」に対して、「倭国の都城・太宰府について」(注②)において自説の説明と反論を行われ、次のように述べられています。

 「私は『倭の五王』の都城は太宰府と考えております。今日、太宰府政庁跡と呼ばれている遺跡に『都督府古跡』と彫った石碑が立っています。この『都督府古跡』とは何なのか。通説はこれに沈黙しているのではありませんか。」
 「『倭王・武の上表』に従えば、五世紀の新羅・百済の都城・王宮を凌駕した規模でなければならず、(中略)すなわち今日の太宰府の遺跡群こそは、『倭の五王』の都城と思います。」
 「私は、三世紀から五世紀、『倭国』の都城・首都は移動していないのではないか、と考えています。」『多元』159号、10~11頁。

 これだけ明解にご自身の見解を表明されると、読者の理解は進み、賛否の意見も出しやすくなり、精確な論議が可能となり、学問研究の発展にも寄与します。わたしはこの草野さんの姿勢を歓迎したいと思います。誰に対する批判なのか、どの意見に対しての反発なのかわからない意味不明の文章も散見される昨今ですから、尚更です。
 この草野さんの見解で同意できる点は、都城の規模を問題にされていることです。倭国の代表者の宮殿・都城であるからには、朝鮮半島諸国との比較、国内の他の遺構との比較が重要とすることは当然です。ただし、ことは都城・王宮にとどまらず、王墓(古墳)の規模や数も比較の対象となりますが、このことについては別に論じることとします。
 今回は、大宰府政庁跡に立つ「都督府古趾」(注③)の「都督」について、多元史観による説明をしたいと思います。(つづく)

(注)
①草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。
②草野善彦「倭国の都城・太宰府について」『多元』159号、2020年9月。
③大宰府政庁跡に立つ石碑には、「都督府古跡」ではなく、「都督府古趾」と彫られている。明治4年、乙金村(現、大野城市乙金)大庄屋高橋善七郎が建立した。

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