『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)
唐代の1里を何メートルとするのかについて、唐代の尺(モノサシ)を求め、その実測値から1里に換算するという方法がありますが、唐尺には小尺(約24cm)と大尺(約30cm)とがあるため、どちらの尺を採用したかで、「小里」(約430m)と「大里」(約540m)という大差が発生します。この問題の存在に気づいていましたので、『旧唐書』地理志の里程記事は「小里」で記されたのではないかと推定していました。しかし、そのことを結論づけるだけの史料根拠や正確な検証方法がわかりませんでした。そこで、京都府立図書館で先行研究論文を調査し、次の記事を見つけました。
「唐尺に關しては徳川時代以來議論があつて、その大尺を棭齋の如く九寸七分とするものヽ外、曲尺と同じとし又は九寸八分弱とする説がある。近頃でも關野博士は後者を採り(平城考及大内裏考二二頁)足立氏は前者に與さる。(前掲書三〇頁以下)この両説に對して棭齋は本朝度考中に詳しく批判してゐるから茲には論究しない。足立氏は大尺を曲尺の一尺として、唐里は大程が曲尺の千八百尺、小程が曲尺の千四百九十九尺四寸とする。棭齋の考證より算出した里程とは五十尺前後の差があるが、小程は大約わが四町に、大程は五町に相當するといひうるであらう。而して大程は長安、洛陽両京の城坊に適用されたのみで、一般にはなほ漢里の訛長した小程が用ひられた。唐末から宋代に至って漸く一般に大程が行はれたのである。(足立氏前掲書四九頁)」森鹿三「漢唐の一里の長さ」(注①)
ここに見える「小程」「大程」こそ、わたしが仮称した「小里」「大里」に相当します。そして、注目したのが「大程は長安、洛陽両京の城坊に適用されたのみで、一般にはなほ漢里の訛長した小程が用ひられた。唐末から宋代に至って漸く一般に大程が行はれたのである。」という指摘でした。そこで、この「小程」「大程」という概念の出典を調べたところ、足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注②)でした。そこでは次のように定義されています。
「左に唐里の大程と小程とを比較すると、
大程 一歩は大尺五尺、一里は三百六十歩、即ち大尺一千八百尺。
小程 一歩は小尺六尺、一里は三百歩、即ち小尺一千八百尺で、我が曲尺千四百九十九尺四寸。
である。」(44頁)
そして、『旧唐書』地理志などの里程記事は小程で記されていると、次のように指摘しています。
「兎に角唐里の長安・洛陽間の八百五十里は小程の計算であって、事實に適合することが推定せられる。なほ又他の地方に就いても、舊唐書地理志の里程と實測里程とを比較して見ると、皆小程を用ひたことが明である。同時に漢書及び舊唐書に記載した里程は決して無稽の數字でないことが知られる。
以上の諸例に就いて考へて見ると、大程は隋若くは初唐に制定せられて、之を両京の城坊に適用したが、一般に励行せられたのではなくて、地方の里程・天文又は司馬法の如き舊慣の容易に改め難いものは、なほ舊制に近い小程が用ひられたのである。茲にも前に述べた劃一的でなく、また急進的でない支那の國民性が窺はれる。我が大寶令雑令の
凡度地五尺為歩、三百歩為里。
も亦此の小程を採用したものだと思はれる。大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になったと見えて、宋史・長安志・新唐書の類が皆之を用ひて居る。」(49~50頁)
以上のように、わたしが悩み続けて至った「小里」「大里」という概念が、昭和八年に「小程」「大程」として既に発表されていたのでした。先達、畏敬すべきです。なお、足立喜六氏(1871~1949)は土木技術者・数学の専門家で、長安遺跡の実地踏破を行った人物です。(つづく)
(注)
①森鹿三「漢唐の一里の長さ」『東洋史研究』1940年。
②足立喜六『東洋文庫論叢二十之一 長安史蹟の研究』財團法人東洋文庫、昭和八年(1933年)。