「九州王朝律令」復元研究の予察 (5)
大和朝廷と九州王朝の戸令のように類似していたと推定できるものがある一方で、恐らくは大きく異なっていたであろうと思われるものもあります。それは軍防令です。
『養老律令』には七十六条からなる「軍防令第十七」があります。それらはいわゆる陸軍・陸戦・陸地での行動などに関する条文で、海軍や海戦に関係する条文は見えません。すなわち、大和朝廷の軍事行動(戦闘行為)が陸上で行われることを前提にした律令なのです。言い換えれば大和朝廷は海上武装軍団を有していないことの証でもあります。このことは、白村江戦を戦ったのは大和朝廷ではないということを示唆しています(注①)。
それに比べると、九州王朝(倭国)は663年の白村江戦(注②)を筆頭に、『宋書』に見える倭王武の上表文に「渡平海北九十五國」とあるように朝鮮半島に何度も軍事侵攻していますから、渡海のための輸送船団や海戦のための海軍を有していたことを疑えません。あるいは『万葉集』に見える「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」(注③)の歌からも、倭国軍は海戦を戦ってきたことがうかがえます。
以上の考察により、九州王朝は強大な海軍を有していたと考えられ、そうであれば軍防令には海軍の兵士・水夫の訓練、海戦・輸送を担う船舶の維持管理に関する条文があったはずです。従って、九州王朝と大和朝廷の軍防令には大きな差異があったと思われるのです。(つづく)
(注)
①このことを中小路俊逸氏(故人、追手門学院大学元教授)からお聞きした。
②『三国史記』新羅本紀によれば千艘の倭国海軍が白村江(白沙)で唐・新羅軍と戦い、敗北を喫している。『旧唐書』劉仁軌伝には、倭舟四百艘が白江の戦いで焼かれたとある。
③『万葉集』巻十八の「賀陸奥国出金詔書歌」、大伴家持作。