第2992話 2023/04/21

「九州王朝律令」復元研究の予察 (4)

670年(白鳳十年)に庚午年籍が全国的に造籍されていることから、九州王朝律令には造籍方法を定めた戸令が含まれていたと考えられます。恐らく、律令による全国統治の都として造営された前期難波宮(難波京)創建時にはこの戸令があったはずです。戸籍は律令制統治にとって重要なシステムだからです。しかも一度造れば終わりというものではなく、定期的な造籍による人名や年齢、家族関係などの把握が必要です。ですから大和朝廷は6年ごとの造籍を戸令で規定していますが、九州王朝も同様であったと考えられます。
九州王朝が6年ごとに造籍していたことを確認するため『日本書紀』を調べたところ、孝徳紀に次の記事がありました。

「東国等の国司に拜(め)す。よりて国司等に曰はく、(中略)皆戸籍を作り、また田畝を校(かむが)へよ。」大化元年(645)八月五日条(東国国司詔)
「甲申(十九日)に、使者を諸国に遣わして、民の元数を録(しる)す。」大化元年(645)九月条
「初めて戸籍・計帳・班田収授之法を造れ。」大化二年(646)正月条(改新詔)

大化二年(646)に、初めての造籍・班田収授之法を造れとの詔が出されています。その前年の八月には「皆戸籍を作」れと東国の国司に命じ、九月には諸国の「民の元数」を記録したとあり、このとき初めての造籍が開始されたことがうかがえます。この646年と庚午年籍(670年)の間隔24年が6で割り切れることから、6年ごとの造籍「六年一造」(注①)と整合します。この理解が妥当であれば、九州王朝による最初の全国的造籍は646年のこととなります。この最初の戸籍をわたしは九州年号を用いて「命長七年籍」と命名しました(注②)。
他方、大化元年(645)八月五日条の「東国国司詔」は、九州年号の大化元年(695年)のこととする正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の有力説があり(注③)、その場合は、大化二年正月条の造籍記事も大和朝廷による初めての造籍(持統十年籍・696年、九州年号の大化二年)と捉えるべきかもしれません。この問題は古田学派内でも諸説あり(注④)、やや難解ですので、別の機会に詳述したいと思います。(つづく)

(注)
①「大宝律令」戸令には「戸籍、六年一造~」とあったと復元されている。
②古賀達也「洛中洛外日記」2163~2165話(2020/05/30~31)〝造籍年間隔のずれと王朝交替(1)~(3)〟
「造籍年のずれと王朝交替 ―戸令「六年一造」の不成立―」『古田史学会報』159号、2020年。
③正木裕「盗まれた国宰」『古田史学会報』91号、2009年。
「『東国国司詔』の真実」『古田史学会報』101号、2010年。
④古賀達也「洛中洛外日記」2555~2566話(2021/09/04~13)〝古田先生との「大化改新」研究の思い出(1)~(9)〟

フォローする