『隋書』俀国伝に記された
都の位置情報 (5)
『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置認識に関する次の(5)の記事には、ある問題点がありました。このことについて説明します。
(5)〔大業四年(608年)〕上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。
このうち、俀國の都への行路記事は次の部分です。
(a) 度百濟行至竹島南望羅國。
(b) 經都斯麻國逈在大海中。
(c) 又東至一支國。
(d) 又至竹斯國。
(e) 又東至秦王國
(f) 又經十餘國達於海岸。 ※古田説では傍線行路とする。
簡略化すると次のような行程です。()内は進行方角です。
百済→竹島→都斯麻国→(東)一支国→竹斯国→(東)秦王国→十餘國→海岸
わたしはこの行程記事を読んで不審に思いました。これでは第一読者である唐の天子には、俀國の都がどこにあるのか理解不能と思えたのです。なぜなら、百済から一支国や秦王国へは進んだ方角は東とあるのですが、竹斯国や十餘國への方角が記されておらず、これでは都が置かれている「邪靡堆」がどの方角にあるのかわからないからです。現在のわたしたちであれば、手元に世界地図や日本地図がありますから、恐らくこのへんではないかと想像でき、現代の情報に基づき諸説を提案できますが、当時の読者は『隋書』俀国伝の記事から得られる位置情報に基づいて考えなければなりません。他方、『隋書』編纂者は〝読めばわかるはず〟〝読めばわかるように書いている〟と考えていたはずです。そうでなければ史書編纂者として失格だからです。
そこで、わたしが重視したのが、「洛中洛外日記」3060話で指摘した〝読者は俀国伝を初めから読み始め、俀国に対する認識を構成するはず〟と考えるフィロロギーの基本的な学問の方法でした。この視点により注目したのが、読者が(5)の行程記事の前に読んだであろう(1)と(3)の俀國とその都「邪靡堆」の記事(位置情報)の存在です。(つづく)