「 2014年04月 」一覧

第702話 2014/04/30

菊水史談会「会報」19号

 熊本県玉名郡和水(なごみ)町の菊水史談会「会報」19号が、同会事務局の前垣芳郎さんから送られてきました。前垣さんは和水町の「石原家文書」の中に「納音(なっちん)」付き九州年号史料があることを発見された方です。
 同会報にはその九州年号史料発見のいきさつと、同史料が「古田史学の会」ホームページで紹介されて有名となり、全国各地から研究者の来訪ラッシュとなっていることが紹介されています。同九州年号史料の写真も掲載されており、地元でも有名になることでしょう。和水町の「宝」にしていただきたいと願っていま す。
 また、古田先生が九州年号や九州王朝説を提唱したことも紹介されています。5月3日にはわたしも当地を訪れ、「石原家文書」を見せていただけることに なっています。翌4日には菊水史談会主催・和水町教育委員会後援により、「『九州年号』の古代王朝」というテーマで講演させていただきます。和水町のみなさんに、わかりやすく古田史学・九州王朝説や九州年号を説明させていただく予定です。わたしもとても楽しみにしています。


第701話 2014/04/27

ONライン(701年)の画期

 読者の皆様やHP運営担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人、東大阪市)のおかげで、「洛中洛外日記」も701話を迎えることができました。感謝申し上げます。そこで、701話にふさわしいテーマについて触れることにします。
 ご存じのように、古田先生は九州王朝(倭国)から近畿天皇家(日本国)への王朝交代の画期点として、701年を重視され、「ON(オーエヌ)ライン」と 命名されました。「ON」とは「オールド・ニュー」のイニシャルです。旧王朝から新王朝への交代年をこのように表現されたのですが、その主たる根拠は次の ような点でした。

1,『二中歴』などに見える九州年号は700年(大化6年)で終わり、701年からは近畿天皇家の最初の年号「大宝」が「建元」されます。『続日本紀』には大宝を「改元」ではなく、初めての年号制定を意味する「建元」と記されており、大宝が近畿天皇家最初の年号であることは明白です。
2,藤原宮出土木簡などから、700年までは行政単位は「評」であり、701年からは一斉に「郡」に変更されています。
3,『旧唐書』に見える「倭国伝」と「日本国伝」の記事は、倭国から日本国への政権交代が701年とする古田説と整合します。

 以上のような、文献(九州年号)と考古学的史料事実(木簡)、そして外国史料(『旧唐書』)などの一致を根拠に、王朝交代の画期点を701年とされました。わたしもこの古田説に賛成です。
 ところが、この10年間ほどで九州王朝研究は進展し、王朝交代の実体が複雑なものであることも判明してきました。例えば、九州年号は701年以後も継続しており、「大化」は703年まで続き、その後「大長」が712年までの9年間続いていたことがわかりました。そのため、701~712年の間は近畿天皇家と九州王朝がそれぞれ年号を持って併存していた可能性が出てきました。その間の九州王朝の実体はまだよくわかりませんが、701年に単純な王朝交代が行われたのではないようです。今後の九州王朝史研究の課題です。


第700話 2014/04/26

学術論文の「画像」切り張りと修正

 今回はSTAP論文騒動で「研究不正」行為とみなされている、学術論文での「画像」切り張り・修正について考えてみました。マスコミや「学者」の発言を聞いていると、何か本質とはかけ離れた自分たちの「村のおきて」が、「正義」であるかのように主張されており、学問研究の本質からは間違っているような気がしたためです。
 わたし自身の例を紹介しますと、前期難波宮九州王朝副都説の論文において、7世紀中頃において前期難波宮の規模・様式(朝堂院様式・八角殿・14朝堂) が突出していることをわかりやすく比較するために、前期難波宮の他、大宰府政庁跡や藤原宮・飛鳥板葺宮跡・平城宮などの王宮の平面図を他の書籍からコピーして切り張りしました。これは読者に自説を説明する上で、理解しやすいように行った善意による「画像」の切り張りです。その際、各図面の縮尺を統一するために一部の図面複写にコピー機の拡大・縮小機能を利用しました。これもまた善意による「画像」の修正です。もちろん、こうした図面を掲示しなくても、前期難波宮九州王朝副都説という仮説は成立しており、「画像」の切り張り・修正行為そのものは仮説成立の当否とは直接関係ありません。いわば、読者への便宜をはかった善意の画像掲載なのです。
 ところが、今回のSTAP論文騒動では、小保方さんの善意による「画像」切り張り・修正と単純な画像取り違えが、「悪意・不正・捏造」と理研により判断され、マスコミや多くの評論家や「学者」までもが、同様に小保方さんへのバッシングを続けました(2枚の画像取り違えは、小保方さん自身が気づき、マスコミから指摘される前に理研に訂正を申し入れています)。そのあげく、理研の調査委員会トップの過去の論文にも同様の行為があったとされ、当人は調査委員長を辞任するという「オチ」までつきました。いったい、いつから読者への便宜をはかる目的での善意の「画像」切り張りや修正までもが一律に「悪意・不正・捏 造」とされるようになったのでしょうか。そもそも、そうした学問的定義が、いつ誰によりなされ、学界や法律上でも合意したのでしょうか。マスコミや評論家・御用学者などによる「村のおきて」ではなく、学問上・法律上の厳密な定義の合意について、どのような論議・検討がいつ誰によりなされたのでしょうか。 ご存じの方がおられたら、教えていただきたいと思います。
 わたしが学んだ学問研究の方法や論文発表における「画像」使用の目的から考えれば、無いものをあったかのようにする、事実とは異なることを事実であるかのようにする、という悪意のある意図的な「画像」切り張りや修正は絶対に許されませんが、読者への便宜をはかる、あるいは仮説をよりわかりやすく丁寧に説 明するための善意による「画像」切り張り・修正はまったく問題のない行為です。従って、今回の騒動におけるマスコミや評論家・「学者」による小保方さんへ のバッシングは、かなり悪意のある行為としか、わたしには見えないのです。


第699話 2014/04/24

特許出願と学術論文投稿

 昨日は大阪の特許事務所に行き、新規開発品の特許出願の打ち合わせを行いました。若い頃は特許明細を自分で書いたものですが、近年は特許戦略や出願技術が高度で複雑になってきましたので、特許事務所の弁理士さんに書いてもらうことが多くなりました。仕事柄、特許出願や開発に関わることも多いのです が、企業研究(「お金」のための研究)では新発見や新発明を商品開発にまで進め、事業化により社会に貢献し、利益(お金)をいただき、事業継続を可能とします。わたしはこうしたビジネスに誇りをもっていますし、開発品が店頭に並び、みなさんに喜んで買っていただけることは、とても嬉しいものです。
 他方、特許出願とは異なって、学会などで企業研究の成果の一部を発表(無償で「公知」にする)することもあります。もちろん企業機密を守りながら、企業や商品の宣伝効果やお客様や学界への知的便宜をはかり、貢献し信頼を得ることが主たる目的です。7月にも繊維機械学会で講演を行いますが、そこでの資料やパワーポイントの画像に取り違えやミスがあるかもしれませんし、著作権や版権に問題なければコピペもします。間違いに気づけば謝り訂正しますし、それ以上聴講者から非難されたりバッシングされることもありません。企業の知見を無償で「公知」とするのですから、感謝されこそすれ、叩かれることはありません。 だから安心して発表できます。
 ところが、基本的に同じこと(自らの発見と仮説を論文発表することにより無償で「公知」にした)をした小保方さんはマスコミや評論家、御用学者から集団でバッシングされました。狂気の沙汰としか思えません。学術論文というものは、それまで誰も知らなかったことや定説とは異なる発見や仮説を発表するもので、その結論が「真理」かどうかはその時点では誰もわからないケースがあるのは当然ですし、だからこそ厳しい査読を経て、学術誌に掲載に値する仮説や発見と認められて掲載されるのです。
 従って、小保方さんの場合、STAP細胞やSTAP現象が真理かどうか、再現できるかどうかは、論文発表においては本来は問題とされません。何故なら、査読する方はそんなことまで実験して調べることはできませんから、仮説として論理的に成立しているかどうか、推論や論理展開に矛盾がないか、「公知」にするほどの内容かどうかが問題とされるのです。ですから、小保方さんがあれほど醜いバッシングを受ける理由がわたしには全く理解できません。写真の取り違えや、悪意のない画像修正(むしろ見やすくするための修正)は、訂正すればすむ問題であり、あれほどバッシングを受けるようなことではありません。
 理研の対応も理解に苦しみます。小保方さんに論文を取り下げろというのなら、その小保方さんの発見や成果に基づいて出した理研の特許も取り下げますというべきです。わたしはどちらも取り下げる必要はないと考えていますが。ちなみに、理研の特許を検索したところ、アメリカで国際特許を昨年4月24日に出願していました(PCT/US2013/037996)。同特許にはバカンティーさんや小保方さんらの名前も見え、そして恐らく開発に協力した日米の病院名も記されています。小保方さんのネイチャー誌への投稿が昨年3月10日ですから、ほぼ同時期に理研は論文と特許を出したことになります。
 通常、特許は出願してから1~2年ほどして公示されるのですが、同特許は専門的になりますが「先願権主張」のため、あえて早く公示される特許戦術を理研はとったものと推察されます。従って、理研はSTAP細胞やSTAP現象が正しいと確信していたはずです。でなければ膨大な経費(税金)を使って国際特許出願などしないでしょう。
 理研もマスコミもこの特許出願のことは全く知らぬふりをして、小保方さんの論文だけを「親の敵(かたき)」のようにバッシングしているのは、まったく理解できません。なぜ理研が出願した国際特許は叩かないのでしょうか。理研もなぜ特許の取り下げはいわないで、論文取り下げだけを問題とするのでしょうか。 特許による「お金」儲けは大切だが、発見した研究者の将来や名誉はどうでもよいと考えているのでしょうか。そうだとすれば、理研は血も涙もない非情で非常識な組織です。日本もいやな社会になったものです。若者の理科離れがこれ以上進まなければよいのですが。
 今回のSTAP論文騒動を見て、わたしは「和田家文書」偽作キャンペーンを思い出しました。マスコミや雑誌、御用学者を動員して研究者や文書所有者を執拗にバッシングするという構図がそっくりです。あの偽作キャンペーンが一つの契機となって「古田史学の会」は誕生したようなものですから、今回のSTAP論文騒動を契機として、日本の学問やマスコミ、学者や研究者のあり方が問い直されることを期待したいと思います。何よりも、国民が学問や研究のあり方、「お金」のための研究と真理追究のための研究を区別して判断する機会になればと思います。そうすれば、マスコミも日本社会ももう少し良くなるのではないで しょうか。
(本稿は4月の古田史学の会・関西例会で発表した内容を要約したものです。)


第698話 2014/04/23

「梅花香る邪馬壹国の旅」

 松浦秀人さん(古田史学の会・四国)から素敵な写真付きの旅行記が送られてきました。「古田史学の会・四国」福岡旅行(2/28~3/03)の記録です。本ホームページに「史跡探訪と講演会参加 梅花香る邪馬壹国の旅」として掲載していますので、是非ご覧ください。

 古田先生の福岡講演や宮地嶽神社神官による筑紫舞を中心に、水城・大宰府政庁跡・太宰府天満宮・観世音寺・宮地嶽神社や九州国立博物館、九州歴史資料館、古賀市立歴史資料館訪問の写真などが掲載されています。中でも、古賀市立歴史資料館で、「邪馬台国」の「台」の字が「壹」の字に貼り替えられた展示を「発見」されたことは感動的でした。同資料館の判断で、『三国志』原文を改訂した従来説(邪馬台国)を否定し、『三国志』原文の「邪馬壹国」が正しいとする古田説を採用した痕跡だからです。さすがは「九州王朝」のお膝元だけあって、古田史学・多元史観は公的な資料館でも着々と受け入れられていることが わかります。

 古田史学・多元史観の夜明けは、わたしたち古田学派が思っているよりも早いのかもしれません。全国の古田ファンのみなさん、「古田史学の会」会員のみなさん、古田学派研究者のみなさん、志と力をあわせて前進しましょう。わたしたち「古田史学の会」はその先頭に立つ決意です。


第697話 2014/04/22

『古代に真実を求めて』17集の採用稿

 発行が遅れています『古代に真実を求めて』第17集(2013年度賛助会員に進呈)ですが、掲載される論文等についてご報告します。同号は古田先生の米寿記念と「古田史学の会」創立20周年記念号となります。友好団体や「古田史学の会」地域の会からの米寿のお祝辞なども掲載させていただきます。鋭意、編集作業中ですので、申し訳ありませんが、今しばらくお待ちください。発行時期が決まりましたらご報告します。

○巻頭言 古田史学の会・代表 水野孝夫

○古田先生からのメッセージ

○古田先生米寿の祝辞

○古田武彦氏講演録
二〇一三年一月十二日 新年賀詞交換会
 「邪馬壹国」の本質と史料批判
二〇一四年一月一一日 古田史学新年賀詞交換会
 歴史のなかの再認識
 論理の導くところへ行こうではないか。たとえそれがいずこに至ろうとも

○会員論文
聖徳太子の伝記のなかの九州年号  岡下英男
邪馬壹国の所在と魏使の行程  正木 裕
奴国はどこに  中村通敏
須恵器編年と前期難波宮  服部静尚
天武天皇の謎  合田洋一
歴史的概念としての「東夷」について  張莉・出野 正
赤淵神社の史料批判  古賀達也
白雉改元の宮殿  古賀達也
「広瀬」「龍田」記事について  阿部周一

○会則・役員名簿・地域の会紹介

○原稿募集・編集後記


第696話 2014/04/19

隼人の吠声(はいせい)は警蹕(けいひつ)

 本日の関西例会はいつもより発表件数が少なかったこともあり、昨今、マスコミや一般国民も巻き込んで話題となっているSTAP論文騒動について、学問の問題としての視点から、急遽、わたしの見解を発表することとなりました。
 ネイチャー誌に論文を発表したこともなければ小保方さんのSTAP論文(もっとも査読が厳しいとされるネイチャー誌が掲載に値するとした論文)さえもまともに読んだこともないようなマスコミによる常軌を逸したバッシングを「集団によるリンチ(私刑)」ではないかとわたしは思っていましたので、そもそも学術論文とは何か、「お金」のための研究(例えば特許出願。新発見の事業化により社会に貢献する)と真理追究のための学術論文発表(自らの発見や仮説を「公 知」として社会に無償提供し、科学の発展や人類の幸せに貢献する)の性格の違いと、それぞれに必要とされる要件(実験ノートの必要性の有無など。「お金」 のための研究の場合は工業的所有権〔特許権〕の争いを想定して、詳細な日付入り実験ノートの作成が要求される)の違いについて見解を述べました。幸い、多くの例会参加者のご賛同をいただき、昨今のマスコミや御用学者の「多数意見」に惑わされない「古田史学の会」関西例会参加者が多いことに安心しました。
 本日の関西例会では下記の発表がなされました。中でも正木さんの発表は、隼人の吠声(はいせい)とされているものは九州王朝における警蹕(けいひつ。天 子の移動の際の先触れの声)であり、神聖な儀礼の一つであるとされました。警蹕は現在でも神社の御神体の移動などで神官により発声(「おー」という発声)される重要で伝統的な所作であることを、ユーチューブの動画(大麻比古神社〔阿波国一宮〕の御遷座の様子)をプロジェクターの映像で説明されました。
 更に能楽の「翁」の三番叟(さんばそう)の舞に、隼人舞の起源とされる海幸・山幸伝承に記された海幸の奇妙な所作が伝承されているとされ、これもプロジェクターによる映像で説明されました。インターネット時代らしくハイテク技術を駆使して、古代の真実を明らかにするという発表方法も素晴らしいものでし た。

〔4月度関西例会の内容〕
1). 故中小路氏の仏教公伝論について(八尾市・服部静尚、代読:竹村順弘)
2). STAP論文騒動への批判的考察(京都市・古賀達也)
3). ニギハヤヒを追う(東大阪市・萩野秀公)
4). 「魏年号銘」鏡(京都市・岡下英男)
5). 海幸・山幸と「吠ゆる狗・俳優の伎」(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・『古代は輝いていたⅠ』ミネルヴァ書房から復刊。II・III も続刊・古田先生検査入院予定・『古代に真実を求めて』17集編集状況・明石~淡路島ハイキング「絵島」「大和島」見学・紹興本『三国志』に「倭人傳」と いう伝目はない・小磯千尋著『インド哲学と食』・その他


第695話 2014/04/18

一元史観による四天王寺創建年

 先日、西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人、大阪市)より資料が郵送されてきました。4月12日に行われた「難波宮址を守る会」総会での記念講演会のレジュメでした。講師は京都府立大学教授の菱田哲郎さんで、「孝徳朝の難波と畿内の社会」というテーマです。近畿天皇家一元史観による講演資料ですので、特に目新しいテーマではありませんでしたが、四天王寺の創建時期についての説明部分には興味深い記述がありました。
 そこには四天王寺について、「聖徳太子創建は疑問あり」「瓦からは620年代創建 650年代完成」とあり、「620年代創建」という比較的具体的な創建時期の記述に注目しました。かなり以前から四天王寺創建瓦が法隆寺の創建瓦よりも新しいとする指摘があり、『日本書紀』に見える聖徳太子が6世紀末頃に 創建したとする記事と考古学的編年が食い違っていました。菱田さんのレジュメでは具体的に「620年代創建」とされていたので、瓦の編年研究が更に進んだ ものと思われました。
 四天王寺(天王寺)の創建年については既に何度も述べてきたところですが(「洛中洛外日記」第473話「四天王寺創建瓦の編年」・他)、『二中歴』所収 「年代歴」の九州年号部分細注によれば、「倭京 二年難波天王寺聖徳造」とあり、天王寺(現・四天王寺)の創建を倭京二年(619)としています。すなわち、『日本書紀』よりも『二中歴』の九州年号記事の方が考古学的編年と一致していることから、『二中歴』の九州年号記事の信憑性は高く、『日本書紀』よりも信頼できると考えています。菱田さんは四天王寺創建を620年代とされ、『二中歴』では「倭京二年(619)」とあり、ほとんど一致した内容となってい るのです。
 このように、『二中歴』の九州年号記事の信頼性が高いという事実から、次のことが類推できます。

 1,現・四天王寺は創建当時「天王寺」と呼ばれていた。現在も地名は「天王寺」です。
 2.その天王寺が建てられた場所は「難波」と呼ばれていた。
 3.『日本書紀』に書かれている四天王寺を6世紀末に聖徳太子が創建したという記事は正しくないか、現・四天王寺(天王寺)のことではない。(四天王寺は当初は玉造に造営され、後に現・四天王寺の場所に再建されたとする伝承や史料があります。)
 4.『日本書紀』とは異なる九州年号記事による天王寺創建年は、九州王朝系記事と考えざるを得ない。
 5.そうすると、『二中歴』に見える「難波天王寺」を作った「聖徳」という人物は九州王朝系の有力者となる。『二中歴』以外の九州年号史料に散見される 「聖徳」年号(629~634)との関係が注目されます。この点、正木裕さんによる優れた研究(「聖徳」を法号と見なす)があります。
 6.従って、7世紀初頭の難波の地と九州王朝の強い関係がうかがわれます。
 7.『二中歴』「年代歴」に見える他の九州年号記事(白鳳年間での観世音寺創建など)の信頼性も高い。
 8.『日本書紀』で四天王寺を聖徳太子が創建したと嘘をついた理由があり、それは九州王朝による難波天王寺創建を隠し、自らの事績とすることが目的であった。

 以上の類推が論理的仮説として成立するのであれば、前期難波宮が九州王朝の副都とする仮説と整合します。すなわち、上町台地は7世紀初頭から九州王朝の直轄支配領域であったからこそ、九州王朝はその地に天王寺も前期難波宮も創建することができたのです。このように、『二中歴』「年代歴」の天王寺創建記事(倭京二年・619年)と創建瓦の考古学的編年(620年代)がほとんど一致する事実は、このような論理展開を見せるのです。西井さんから送っていただいた「一元史観による四天王寺創建瓦の編年」資料により、こうした問題をより深く考察する機会を得ることができました。西井さん、ありがとうございま した。


第694話 2014/04/15

JR中央線から富士山を見る

 今朝、特急シナノ号で京都から塩尻・岡谷に行き、今は特急アズサ号に乗りJR中央線で東京・新宿に向かっています。南アルプスのごつごつとした異様な山容の隙間から、秀麗な富士山がときおり顔を見せ、なんだかほっとした気持ちになります。いつもは東海道新幹線で静岡県側からの富士山を見慣れていることもあってか、長野・山梨側から見る富士山はちょっと雰囲気が異なるような気がします。もちろん、どちらの富士山も素晴らしく、日本に生まれて良かった、日本に富士山があって良かったと、つくづく思います。
 その富士山について、小論を書いたことがあります。富士山の「ふじ」の意味と語原についての考察でした。このテーマは何年も考え続けているのですが、最近は「ふ」は「生む・生まれる」の意味ではないかと思うようになりました。というのも、北陸出張で福井県の武生(たけふ)を列車で通過するたびに、なぜ 「ふ」に「生」の字が当てられているのだろうかと不思議に思っていたのです。もしかすると古代日本語で「生む」「生まれる」「生きる」という意味で「ふ」 という言葉があり、その音に漢字を当てる際に「生」の字が選ばれたのではないかと考えました。
 日本古典文学や言語学の研究者にとっては周知のことかもしれませんが、古代日本語の「ふ」という音の意味に「生む」「生きる」という意味があったとすれ ば、富士山の「ふじ」とは「生む(ふ)」「古い時代の神様。じ(ぢ)」の合成語で「創造神」あるいは「生きている神(現人神)」ではないかという作業仮説 (思いつき)に至ったのです。
 この「思いつき」の欠点は、富士山の富士は「ふじ」であり、「ふぢ」ではないということです。ただ『日本書紀』などにも「じ」と「ぢ」が混用されている少数例もあるので、可能性のある「思いつき」ではないでしょうか。傍証としては、静岡県西部に敷知(ふち)郡という地名があり、この「ふち」と富士山の 「ふじ」の語原が共通しているのではないかとも考えています。
 また、「ふ」の神様を示唆する地名に「福井(ふくい)」などがあります。「ふ」の「くい(神)」という合成語です。扶桑も「ふ」の「そ(神)」ではないでしょうか。この点、「洛中洛外日記」40~45話で論究しました「古層の神名」をご参照下さい。
 この「思いつき」が当たっていれば、日本各地に「創造神」あるいは「現人神」を意味する地名や山名が遺存していることになり、多元的「天地創造神話」の可能性もうかがわれ、興味深いと思われるのですが、この「思いつき」はいかがでしょうか。


第693話 2014/04/13

古田武彦『古代は輝いていた I』復刊

 ミネルヴァ書房から古田先生の『古代は輝いていた I』が復刊されました。同書は古田先生による九州王朝通史で、全3冊の最初の一冊です。副題に「『風土記』にいた卑弥呼」とあるように、縄文時代から『三国志』倭人伝までの九州王朝の淵源から弥生時代の邪馬壹国までが論述されています。
 1984年(昭和59年)に本書は朝日新聞社から発刊され、後に文庫化されました。古田史学による初めての本格的通史であり、かつ刺激的な新発見が全3巻に掲載され、多くの古田ファンが魅了されました。今回の第1巻での新発見は、『三国志』倭人伝の女王卑弥呼(ひみか)が、「筑紫国風土記」に「甕依姫」 (みかよりひめ)として記されていることを発見、論証されたことです。本当に衝撃的な新発見で、わたしも大きな刺激を受け、北部九州の現地伝承や現地史料の再調査を改めて実施した記憶があります。
 これから第2巻、第3巻が引き続き復刊されますが、いずれにも当時としては画期的な新発見やテーマが取り扱われており、ミネルヴァ書房からの復刊により、新たな古田ファンが誕生することでしょう。まだお持ちでない方がおられたら、是非これら3冊を書架にそろえられることをお勧めします。