「 2016年03月 」一覧

第1159話 2016/03/31

小保方晴子さんがホームページ開設

 小保方晴子さんがご自身のホームページ「STAP HOPE PAGE」を開設され、STAP細胞作成の詳細なレシピを開示されました。全文英文で、分子生物学の専門用語が駆使されていますので、時間をかけて少しずつでも読んでみようと思っています。
 STAP細胞製造の詳細なレシピが開示されていますので、恐らく世界中の研究者が再現性試験を開始していると思われますが、実は昨年11月にアメリカのテキサス医科大学の研究チームによる、機械的に損傷させた細胞からSTAP現象の再現に成功したとする研究論文がネイチャーの電子版に掲載されました。小保方さんのハーバード大学(バカンティー研)での研究論文も参考にしたことが同論文には記されています。
 理研の発表では小保方さんは酸による刺激でSTAP細胞を作成していますが、物理的刺激でも作成可能と説明されていました。テキサス医科大学の研究チームはこの物理的刺激を機械的損傷という処方で行ったことになり、小保方さんのSTAP現象が別の方法で再現されたことになります。
 残念ながら日本の大手マスコミはこの研究論文をほとんど報道しませんでした。あれほどのメディアスクラムで笹井さん(自殺)や小保方さん(NHKの取材で全治3週間の怪我、博士号の剥奪)をバッシングしてしまった手前、いまさら「アメリカでSTAP現象の再現に成功」とは報道できなかったのでしょう。
 今回の小保方さんのホームページ開設をきっかけとして、世界中でSTAP現象が追試されることにより、学問研究に対するマスコミの報道姿勢や「弱いものバッシング大好き社会」が少しはまともになると良いのですが。和田家文書偽作キャンペーンによる古田バッシングを体験したわたしの切なる願いです。


第1158話 2016/03/31

『邪馬一国への道標』が復刻

 古田先生の追悼会で、わたしは先生の代表的著作21冊を紹介しながら、そこに展開された学説や学問の方法、研究史上の位置づけなどについて紹介させていただきました。その概要は『古田武彦は死なず』に略載していますので、ご参照ください。
 3冊ずつ7項目に分けて紹介したのですが、時間的制約などのため紹介できなかった著作も少なくありませんでした。もし、あと一冊だけ紹介できるとしたら、躊躇なく『邪馬一国への道標』を上げるでしょう。その『邪馬一国への道標』が本年1月にミネルヴァ書房から復刻されました。喜びにたえません。
 同書には全編が口語体の柔らかい表現で読者に語りかけるように歴史研究の醍醐味や新発見が綴られています。巻末には小松左京さんとの対談録も収録されています。わたしが同書の中で最も感銘を受けたのが『三国志』の著者陳寿の生涯や人となりを紹介された第二章でした。『晋書』陳寿伝に記された陳寿の性格「質直」について、古田先生は次のように翻訳・解説されています。

 「(陳寿は)文章のもつ、つややかさは、司馬相如には劣りますが、“質直”つまり、その文章がズハリ、誰にも気がねせず真実をあらわす、その一点においては、あの司馬相如以上です。そこで漢の武帝の先例にならい、彼の家に埋もれている『三国志』を天子の認定による“正史”に加えられますように」(『晋書』陳寿伝中の上表文)

 この中にある「質直」について、古田先生は次のように解説されました。すなわち、「質直」とは「飾り気がなく、ストレートに事実をのべて他にはばかることがない」ということで、『論語』顔淵編の次の一文を出典として紹介されました。

 「『達』とは質直にして義を好み、言を察し、色を観(み)、慮(おもんばか)りて以て人に下るなり」

 この文を古田先生は次のように解説されています。

 「あくまで真実をストレートにのべて虚飾を排し、正義を好む。そして人々の表面の“言葉”や表面の“現象”(色)の中から、深い内面の真実をくみとる。そして深い思慮をもち、高位を求めず、他に対してへりくだっている」

 この古田先生の解説を読み、わたしは初めて自分の名前「達也」の出典が『論語』にあったことを知ったのです。「達とは質直にして義を好む」この一文を知り、以来、わたしは自らの名に恥じぬよう、「質直」を人生の指針としました。残念ながらとても陳寿のような立派な人物になれそうもありませんが、陳寿を尊敬することはできます。こうして古田先生の名著『邪馬一国への道標』は、わたしにとって忘れ得ぬ一冊となったのでした。


第1157話 2016/03/29

好評『古田武彦は死なず』の目次紹介

 この度、明石書店から発刊された『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)はご好評をいただき、「古田史学の会」内外からたくさんご注文をいただいています。「古田史学の会」2015年度賛助会員(年会費5000円)の方へは、明石書店から順次発送されますので、しばらくお待ちください。一般会員の皆さんも、お近くの書店などでお買い求めいただければ幸いです。
 同書の目次を紹介します。ご覧のように古田先生の追悼特集にふさわしい内容とすることができました。また、優れた研究論文も収録しています。おかげさまでとても良い本となりました。今は亡き古田先生にも喜んでいただけるものと思います。

『古田武彦は死なず』 目次

○巻頭言
二〇一五年、慟哭の十月  古田史学の会代表 古賀達也
古代の真実の解明に生涯をかけた古田武彦氏  古田史学の会全国世話人・事務局長 正木 裕

○追悼メッセージ
古代史学の「天岩戸」を開いた古田先生を讃える  荻上紘一
弔意  創価学会インターナショナル会長 池田大作
古田武彦先生を悼む  東北大学教授 佐藤弘夫
古田武彦さんを悼む  学校法人旭学園理事長、考古学者 高島忠平
古田武彦さんを忘れない  中山千夏
古田先生を悼む  桂米團治
追悼 古田武彦先生  森嶋瑤子
同志、古田武彦先生を悼む  明石書店代表取締役会長 石井昭男
古田武彦先生を偲んで  古田武彦と古代史を研究する会会長 藤沢 徹
追悼  多元的古代研究会会長 安藤哲朗
古田先生と齋藤史さん  古田史学の会まつもと 北村明也
古田先生との思いで  古田史学の会・北海道代表 今井俊圀
古田武彦先生への追悼文  古田史学の会・仙台会長 原 廣通
古田武彦という人をどこまでも愛して  古田史学の会・東海会長 竹内 強
古田史学とわたし  水野孝夫
古田先生をしのぶ  古田史学の会・四国会長 阿部誠一
古田武彦先生 追悼文  久留米地名研究会(編集長) 古川清久
「倭人伝」のご返事-古田先生の書簡のご紹介-  野田利郎

○特別掲載 古代史対談
      桂米團治・古田武彦・古賀達也
     (KBS京都ラジオ「本日、米團治日和。」の妙禄。茂山憲史氏による)

○〔再録〕古田武彦先生の記念碑的遺稿
村岡典嗣論 -時代に抗する学問-  古田武彦
アウグスト・ベエクのフィロロギィの方法論について〈序論〉  古田武彦
真実と歴史と国家 -二十一世紀のはじめに-  古田武彦

○論説・古田史学 〔資料 古田武彦研究年譜〕
古田武彦先生の著作と学説  古賀達也
学問は実証よりも論証を重んじる  古賀達也
「言素論」研究のすすめ  古賀達也
資料 古田武彦研究年譜  西村秀己

○研究論文
孫権と俾弥呼
 古田武彦氏の「俾弥呼の魏への戦中遣使」論証を踏まえて  正木 裕
四天王寺と天王寺  服部静尚
盗用された「仁王経・金光明経」講説
 -古田武彦氏の「持統吉野行幸の三十四年遡上」論証を踏まえて-  正木 裕
鞠智城神籠石山城の考察  古賀達也
「イ妥・多利思北孤・鬼前・干食」の由来
 -古田武彦氏の『隋書』イ妥国伝、「釈迦三尊光背名」の解釈を踏まえて-  正木 裕
九州王朝にあった二つの「正倉院」の謎  合田洋一
『日本書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城
 -古田武彦氏の『書紀』斉明紀の解明を踏まえて-  正木 裕
「唐軍進駐」への素朴な疑問  安随俊昌
倭国(九州王朝)遺産一〇選  古賀達也
「坊ちゃん」と清  西村秀己

○古田史学の会・会則
○「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
○編集後記  服部静尚
○二十一集投稿募集要項
○古田史学の会 会員募集


第1156話 2016/03/26

『肥さんのこの10年〜50代「半ば」の仕事』

 「古田史学の会」会員の肥沼さんから『肥さんのこの10年〜50代「半ば」の仕事』が送られてきましたので、ご紹介いたします。肥沼さんとは、多元的「国分寺」研究サークルを立ち上げて、共同研究しています。以下、肥沼さんのブログからの転載です。

 肥さんのこの10年〜50代「半ば」の仕事

 上記のミニガリ本を作ったので,お知らせしておく。
 最近『歴史地理教育』誌に書かせてもらったので,それを収録して仮説や古田史学の資料集とした。
 内容を説明すると,以下のようなものだ。
(1) 肥さん年図
(2) これまで書いた「論文」たち
(3) 「私の授業の工夫」(「くわ」1月号掲載)
(4) 小川洋著『空 見上げて』の書評(『たの授』11月号掲載)
(5) 「仮説実験授業の《世界の国ぐに》と立体教材「GDPボックス」」(『歴史地理教育』2月号掲載)
(6) 「国分寺」はなかった!
(7) 多元的「国分寺」論に有利な事象
(8) 12弁の菊花紋は,九州王朝の家紋か?
(9) 「12弁の菊花紋」無紋銀銭の出土地
(10) 日本古代ハイウェーは,九州王朝の作った軍用道路か?
 付録 (国分寺の塔が,回廊の「内」か「外」かのグラフ)


第1155話 2016/03/25

「誰も知らなかった古代史」セッションのご案内

 古田史学の会・事務局長の正木裕さんが主催されている「誰も知らなかった古代史」セッションのご案内をいただきましたので、ご紹介します。6月のセッションにはわたしも「カタリスト」として出席予定です。少人数を対象とされており、古田史学入門編として面白いテーマが毎回取り上げられています。ふるってご参加ください。

【お知らせ】
 「誰も知らなかった古代史」セッションの第3回、第4回を事務局長の正木さんの主催で次の通り開催されます。

第3回 4月22日(金)18時30分〜20時。
「縄文・弥生人は南米に渡った」
【カタリスト】大下隆司さん(古田史学の会・会員)

下に掲載済み

第4回 5月13日(金)18時30分〜20時。
「実在したイワレヒコ(神武)」
【カタリスト】正木裕さん(古田史学の会・事務局長)

□会場 森ノ宮キューズモール(大阪市 中央区森ノ宮中央二丁目一番。JR大阪環状線森ノ宮駅西徒歩五分)の二階「まちライブラリー」。

□定員20名(参加費ドリンク代500円)。

□申し込みは正木さんまでメールで。
 Babdc106@jttk.zaq.ne.jp


第1154話 2016/03/23

「長良川うかいミュージアム」訪問

 今日は岐阜市の金華山(岐阜城)を望む長良川岸に仕事で行きました。ちょっと空き時間がありましたので、近くの「長良川うかいミュージアム」を見学しました。
 大きなスクリーンに映し出された長良川の鵜飼の歴史や展示はとても勉強になりました。『隋書』「イ妥国伝」に記された鵜飼の記事の紹介や、大宝二年の美濃国戸籍に「鵜養部」が見えることなどが紹介されていました。現在は六軒の鵜匠により鵜飼が伝承されており、その六軒は宮内庁式部職の職員とのこと。
 鵜飼の鵜は二羽セットで飼育されており、その二羽はとても仲がよいとのことなので、雄と雌のペアであれば『隋書』「イ妥国伝」の表記「ろ・じ」※(鵜の雄と雌、※=「盧」+「鳥」、「茲」+「鳥」)に対応していると思いましたが、同ミュージアムの売店の方にお聞きしたところ、鵜は外観からは雄と雌の区別はつかず、二羽セットも雄同士や雌同士の可能性もあり、雄と雌のペアとは限らないとのことでした。そして、長良川の鵜飼では大きな鵜が好まれることもあって、海鵜(茨城県の海岸の海鵜)を捕獲するときも大きな雄が選ばれるので、結果として長良川の鵜飼の鵜は雄がかなり多いのではないかとのこと。雄同士や雌同士のペアでも仲がよいのかとお聞きすると、よいとのことでした。
 『隋書』の記述とは異なる点として、『隋書』では鵜の首に小環がつけられているとされていますが、長良川では紐で首や体がくくられています。その首のくくり加減が重要で、小さな鮎は飲み込まれ、大きな鮎だけが首にとどまるようにするとのことでした。
 鵜飼の風景をビデオで見ますと、船の先端に吊された篝火を鵜は全く恐れていないことに気づきました。動物は火を恐れるものと考えていたのですが、鵜飼の鵜たちは篝火や火の粉を全く気にすることもなく鮎を捕っているのです。こうしたことも現地に行かなければ気づかないことでした。本当に勉強になりました。皆さんにも「長良川うかいミュージアム」はお勧めです。入館料は500円で、駐車場もあります。なお、5月から10月までは鵜飼のシーズンとなりますので、今の季節が空いているのではないでしょうか。


第1153話 2016/03/21

空海と「海賦」(1)

 今朝の東寺は「弘法さん」で賑わっていました。毎月の21日は空海の月命日にあたり、毎月のこの日は「弘法さん」で出店や骨董市が並び、大勢の人が東寺に集まりますが、とりわけ空海の命日の3月21日は「本弘法」と呼ばれ、特別な「弘法さん」です。
 わたしは不勉強から、空海の名前の意味を「空(sky)」と「海(sea)」だと永く漠然と思いこんでいたのですが、よくよく考えると仏教用語としての「空」に「そら(sky)」の意味はありません。般若心経などに見える「色即是空」で有名なように、「色」は「物質」、「空」は「非物質」のような概念ですから、空海の名前には「空」なる「海(sea)」ということになるのでしょうか。空海の名前の由来について、ご存じの方がおられればご教示ください。
 わたしの全くの推測ですが、空海は自らの名前を強く意識しており、『文選』にある「海賦」(海の物語)を読んでいたと思われます。というのも、空海の著作中に「海賦」に類似した記載があるのです。(つづく)


第1152話 2016/03/20

考証・和紙の古代史(2)

 日本列島での国産和紙製造は、倭国初の全国的戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(670年)造籍に膨大な紙が必要ですから、この時期までには行われていたと思われますが、更に遡る可能性が高いのではないでしょうか。
 たとえば現在も越前和紙の産地として有名な福井県越前市今立町には、5世紀末〜6世紀初頭(継躰天皇が子供の頃)に「岡太川の女神」から製紙の技術が伝えられたという伝承があります。もちろんその伝承が歴史事実かどうかただちには判断できませんが、時代的に考えて、荒唐無稽とは言い難く、歴史事実を反映した伝承ではないかと推定しています。機会を得て、現地調査したいと考えています。
 もし越前への製紙技術伝播がこの頃だとすれば、おそらく九州王朝のお膝元である北部九州への製紙技術導入は更に遡ると考えられますから、古墳時代には伝わっていたのではないでしょうか。今後の研究課題です。なお、九州最古の和紙産地とされる福岡県八女地方では、その製紙技術は文禄4年(1595)に越前からやってきた日蓮宗僧侶の日源により伝えられたとされています。これも歴史事実かどうか検証が必要ですが、日本最古の和紙製造伝承を持つ今立町と福岡県八女地方との間に和紙製造で関係があったこととなり、興味深いものと思われます。
 なお、大寶2年(702)筑前国戸籍断簡が正倉院に現存しており、これには現地の和紙が用いられていると考えられており、当時の筑前か筑後では和紙生産が行われていたことを意味しますので、16世紀に伝わった八女の和紙を「九州最古」とすることの根拠が不明です。「現存最古」という意味でしょうか。


第1151話 2016/03/19

律令時代の中央職員数は九千人強

 本日の「古田史学の会」関西例会では、冒頭に服部静尚さん(古田史学の会・全国世話人、『古代に真実を求めて』編集責任者)よりミネルヴァ書房から出版された『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』の説明があり、会場で特価販売を行いました。『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)も刊行され、2015年度賛助会員へは明石書店から順次発送されるとの報告がなされました。
 その服部さんから、古代律令時代の中央職員数に基づく考察が発表されました。養老律令によれば総勢九千人以上の職員が宮殿や官衙(平城宮)で勤務していたとのこと。従って、7世紀中頃に九州王朝が評制による全国支配をしていた宮殿として、九千人が勤務したり、家族と共に生活できる都は前期難波宮か太宰府しかないとされました。一元史観の通説では孝徳天皇没後に前期難波宮から飛鳥宮へ遷都したとされていますが、九千人もの職員やその家族を収容できるような宮殿も官衙も飛鳥宮にはありません。この矛盾を一元史観では全く説明できないのです。
 こうしたことから、前期難波宮が造営された難波には、職員やその家族が生活する「宅地分譲」のために条坊が同時に造営されたとする高橋工さん(大阪文化財研究所)の説を紹介されました。わたしもこの7世紀中頃の前期難波宮と条坊造営説に賛成ですので、服部さんの数字を示しての発表には説得力を感じました。
 3月例会の発表は次の通りでした。高知市から別役(べっちゃく)さん(古田史学の会・会員)が夜行バスで初参加されました。

〔3月度関西例会の内容〕
①「宮城と官僚」-難波宮・飛鳥宮・太宰府政庁・藤原宮・平城京(八尾市・服部静尚)
②推古紀は隋との国交を記録していた(姫路市・野田利郎)
③中国風一字名称について -『二中歴』年代歴の「武烈」の理解-(高松市・西村秀己)
④定策禁中(京都市・岡下英男)
⑤弥生の硯が証明する古田論証(川西市・正木裕)
⑥ニギハヤヒを考える(東大阪市・萩野秀公)
⑦『日本書紀』の盗用手法について -大和中心にベクトルを転換-(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田光河氏より来信・史跡巡りハイキング(大東市立歴史民俗資料館)・ミネルヴァ日本評伝選『三好長慶』を読む・東大寺二月堂「お水取り」に関する水野説(長屋親王への慰霊)・TV視聴・その他


第1150話 2016/03/15

上田正昭著『東アジアと海上の道』の思い出

 古代史研究者の上田正昭さんが3月13日に亡くなられました。享年88歳。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。昨年の古田先生のご逝去に続いて、古代史学界の重鎮が相次いでお隠れになり、新時代の到来を感じざるを得ません。
 古田先生も上田さんの著書『日本の神話を考える』の書評を産経新聞(1995.2.14、夕刊)に書かれたことがあります。『古田史学会報』6号(1995.4)に転載していますので、ご覧ください。
 わたしも上田さんの著書『東アジアと海上の道』(明石書店、1997,4)を持っていますが、発刊の年に明石書店の石井社長(現会長)からいただいたものです。その中に興味深い内容がありました。皇位継承のシンボルとして「三種の神器」の他に、百済国からもらった「大刀契(たいとけい)」という剣の存在が紹介されているのですが、百済国から献じられたということですから、本来は九州王朝がもらったことになります。
 百済国からの献上物として有名なものは石上神社の七支刀がありますが、これ以外にもこの「大刀契」というものがあったことが様々な史料に残されています。とても興味深いテーマだと思いますが、九州王朝研究としてまだ誰も取り上げていないのではないでしょうか。わたしも取り組んでみたいテーマです。