2019年09月10日一覧

第1986話 2019/09/10

天武紀「複都詔」の考古学

 古田学派には文献史学の研究者は多士済々なのですが、残念ながら本格的に考古学を研究分野とされている方は少数にとどまっています。たとえば関西では小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表、神戸市)や大原重雄さん(古田史学の会・会員、大山崎町)、その他の地域でも古代信州の条里などを研究されている吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)の活躍が管見では注目される程度です。
 こうした背景もあり、「古田史学の会」では各地の著名な考古学者を講演会にお招きして、考古学の最新研究に触れられるよう取り組んできました。わたし自身も、特に七世紀の須恵器編年の勉強をこの十年ほど続けてきました。難解でなかなか理解できなかった考古学論文も初歩的ではありますがようやく読み取ることができるようになってきました。そのため、当初はその重要性を理解できずに読み飛ばしていた部分も、今では正しく認識できるケースが増えてきました。今回は、その一例を紹介します。
 前期難波宮九州王朝複都説の研究において、わたしが注目してきた『日本書紀』の記事がありました。天武12年(683)12月条に見える「複都詔」と呼ばれる次の記事です。

 「又詔して曰はく、『凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都つくらむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ』とのたまう。」『日本書紀』天武12年12月条

 この記事について当初わたしは、天武の時代には既に前期難波宮が存在しているのに、難波にもう一つ都を造れというのは明らかにおかしい、従って既にあった前期難波宮は天武(近畿天皇家)の宮殿ではなく、九州王朝の宮殿と理解すべきと指摘したことがありました。
 しかしその後更に理解は進み、「洛中洛外日記」1398話(2017/05/14)「前期難波宮副都説反対論者への問い(3)」では次のように論じました。

【以下、転載】
 (前略)この「副(ママ)都詔」を精査して、あることに気づきました。それは、今まで岩波『日本書紀』の訳文で記事を理解していたのですが、「先づ難波に都つくらむと欲(おも)う」という訳は不適切で、原文「故先欲都難波」には「つくらむ」という文字がないのです。意訳すれば「先ず、難波に(の)都を欲しい」とでもいうべきものです。
 後段の訳「是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」も不適切です。原文は「是以百寮者各往請家地」であり、「これを以て、百寮はおのおの往(ゆ)きて家地を請(こ)え」と訳すべきです(西村秀己さんの指摘による)。すなわち、岩波の訳では一元史観のイデオロギーに基づいて、百寮は天皇のところに「まかりて」、家地を天皇から「たまわれ」としているのですが、原文の字義からすれば、百寮は難波に行って(難波の権力者あるいはその代理者に)家地を請求しろと天武は言っていることになるのです。もし、前期難波宮や難波京を天武が造営したのであれば、百寮に「往け」「請え」などと命じる必要はなく、天武自らが飛鳥宮で配給指示すればよいのですから。
 このように、前期難波宮天武期造営説の史料根拠とされてきた副(ママ)都詔も、実は前期難波宮や難波京は天武が造営したのではなく、支配地でもないことを指し示していたのでした。(後略)
【転載おわり】

 このように天武による難波京造営の命令と理解されてきた「複都詔」の原文は「難波に都が欲しい」という記事だったことに気づいたのでした。また、この詔勅の約2年後の朱鳥元年(686)正月には前期難波宮は焼失しており、もし天武12年(683)12月に難波宮都造営を命じたとしても、それまでの短期間に上町台地を整地し、巨大宮殿を完成できるはずもなく、この「複都詔」を根拠とした前期難波宮天武朝造営説は常識的にみて成立不可能なのです。
 他方、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からは別の視点から「複都詔」への新理解を提示されました。それは「34年遡り説」というもので、天武12年条(683)に記された「複都詔」は34年前の649年に九州王朝が前期難波宮造営(難波複都建設。完成は652年)を命じた記事であり、『日本書紀』編纂時に34年ずらされたものという仮説です。
 このように文献史学では「複都詔」について諸仮説が提起され、研究が深化していました。ところが考古学の分野でも同様に「複都詔」などに基づく前期難波宮天武朝造営説が明確に否定されていたことに改めて気づきました。それは佐藤隆さん(大阪歴博)の論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要 第15号』(平成29年3月)の次の記事です。

 「また、天武12年(683)には『凡都城・官室非一処。必先欲都難波。』といういわゆる『複都制の詔』が出されているが、土器資料からみるかぎり、難波宮の宮城およびその周辺における動きは低調である。」(10頁)
 「(前略)水利施設が廃絶した後の堆積層(第6a層)から難波Ⅳ古段階の土器が出土しており、天武朝に当たる7世紀第4四半期には既に機能していなかった(後略)」(15頁)

 この記事に見える水利施設とは前期難波宮の北西側の谷から出土した水利施設(石積みの水路と木桶など)で、井戸がなかった前期難波宮に水を供給した施設と見られています。この水利施設造営時の層位から7世紀前半から中頃の土器が大量に出土したことや、木桶に使用された木材の年輪年代測定値(634年伐採)などが決め手となり、前期難波宮の造営が『日本書紀』孝徳紀白雉三年条(652年。九州年号の「白雉元年壬子」に当たる)に見える巨大宮殿完成記事に対応するという見解が通説となりました。
 そして、この水利施設廃絶後に堆積した層位(第6a層)から難波Ⅳ古段階(7世紀第4四半期)の土器が出土しており、天武朝に当たる7世紀第4四半期には既に水利施設は機能していなかったと指摘されています。すなわち、「複都詔」が出された頃には前期難波宮の水利施設は廃絶されていたわけで、そのことは前期難波宮自身も大勢の官僚が勤務できる状態ではなかったことを意味します。おそらく、その頃には前期難波宮の官僚群は完成間近の藤原宮(京)に移動していたのではないでしょうか。そうでなければ、水利施設は整備利用されていたはずだからです。
 以上のように、文献史学の研究成果と考古学の最新知見の双方が前期難波宮天武朝造営説を否定し、天武紀に見える「複都詔」を疑問視しています。この文献史学と考古学のダブルチェックともいえる研究成果は大きな説得力を有しているのですが、前期難波宮天武朝造営説論者からの史料根拠(エビデンス)を明示した論理的(ロジカル)な反論は聞こえてきません。わたしは〝学問は批判を歓迎する〟と考えています。エビデンスとロジックを明示したご批判を待っています。