「 2019年09月 」一覧

第1983話 2019/09/06

難波宮から「己酉年(649)」木簡が出土していた?

 大阪歴博が発行した『難波宮 百花斉放』という「難波宮大極殿発見50周年記念」(平成24年〔2012〕発行)パンフレットを見ていて、驚きの発見をしました。このパンフレットは平成24年2月25日に大阪市中央公会堂で開催されたシンポジウムのレジュメとして作成されたもので、それこそ百花斉放の名前に恥じない内容です。プログラムには次のように講演者と演題が記されています。

【プログラム】
第1部(午前) 発掘成果による『最新報告 難波宮』
1. 再見!難波宮の建築 大阪歴史博物館学芸員 李陽浩
2. 続々新知見!難波宮の官衙と難波京 大阪文化財研究所難波宮調査事務所長 高橋 工
3. 新発見!木簡が語る難波宮-戊申年木簡と万葉仮名木簡- 大阪府文化財センター調査課長 江浦 洋

第2部(午後) 講演『日本の古代史と難波宮』
1. 聖武天皇の時代と難波宮 大阪市立大学名誉教授 栄原永遠男
2. 高津宮から難波宮へ 大阪府文化財センター理事長 水野正好

第3部
1. 難波宮復元AR披露
2. 対談『難波宮-半世紀の調査から未来に向けて』
    水野正好、栄原永遠男、長山雅一
    司会:朝日新聞社記者 大脇和明

 以上のように大阪の考古学界と歴史学界を代表する研究者によるシンポジウムです。わたしは参加していませんが、このパンフレットを読んだだけでもその学問的意義は感じ取れました。そのパンフレット中に驚きの資料があったのです。
 収録されている水野正好さんのレジュメに難波宮出土木簡を紹介した「12.大阪府警本部用地の木簡、大化4・5年のエト、王母 赤糸・・木簡」があり、そこに有名な最古の干支木簡「戊申年」(648年)木簡とともに「己酉年」(649年)木簡の図(「六号木簡」)が記されていたのです。わたしは難波宮から「己酉年」木簡が出土したという報告を全く知りませんでしたので、とても驚きました。「戊申年」木簡に次いで古い干支木簡は芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した九州年号「白雉元年壬子」の痕跡を示す「元壬子年」(652年)木簡だとされていますので、もし難波宮から「己酉年」木簡が出土していたのなら、それが二番目に古い干支木簡となります。
 レジュメの図によれば、「己」の下部分と「酉」と読めそうな文字、そして「年」のような字形をしているが明確には断定しにくい文字が記された木簡でした。そこで真偽を確かめるために大阪歴博を訪問し、同遺跡の発掘調査報告書『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ』(2002年、大阪府文化財調査研究センター)を閲覧させていただきました。そこには「図版47 古代 木簡」(谷部16層出土木簡)に同木簡の赤外線写真が掲載され、[本文編」23頁では次のように解説されていました。

 【以下、転載】
(6)6号木簡(図11-6、写47-6・53-2)
   (64)・23・4 スギ 板目
 上部は折れているが、下端は方頭で端部が遺存している。上端は表面側の右斜め上から切り込みを入れて、その後に上部を折り取っている。下半部にも同様の切り込みが裏面から行われており、文字の部分を切っていることなどから廃棄作業に伴うものである可能性が高い。
 左右の側面は両面とも整形面が残っている。文字は表面には3文字が確認できる。第1文字目はオレのために末画しか残っておらず、判読しがたい。第2文字目は「面」の可能性が高いが、「酉」の可能性もわずかに残す。ただし、第3文字目については、判読は難しいが「年」の可能性は乏しく、「子」などの可能性も指摘されている。裏面に墨痕はない。
 【転載おわり】

 以上のように2002年発行の報告書の解説からは「己酉年」とは判読できないようで、この見解が〝公式見解〟となって、今日まで流布しています。ところが、平成24年〔2012〕シンポジウムのパンフレットでは、大阪府文化財センター理事長の水野正好さんにより、「己酉年」と判読され、「大化五年(649年)」のこととされているのです。大阪歴博の学芸員の村元健一さんにこの件についておたずねしたところ、経緯についてはご存じなく、公式見解は報告書の方とのこと。そこで、水野さんに直接お会いしてお聞きしようと思い、水野さんの所在を教えてほしいとお願いしたのですが、残念ながら水野さんは既に亡くなられているとのことでした(2015年没)。ご冥福をお祈りします。
 確かに大阪府文化財調査研究センターの報告書が公式見解ということは理解できるのですが、その10年後に大阪府文化財センター理事長の水野正好さんが公の学術的なシンポジウムのパンフレットに掲載されているのですから、その10年間に公式見解が変更されている可能性もあるのではないでしょうか。同シンポジウムで水野さんがどのように説明されたのか、ご存じの方があればご教示ください。
 なお、同シンポジウムで講演された江浦さんのレジュメでも難波宮出土木簡のことが紹介されており、当該木簡などについての報告書を転載されており、そこには「□面□」とありました。なお、江浦さんはレジュメの末尾を次の感動的な言葉で締め括られています。

 「『地下の正倉院』。
 これは平城宮跡から掘り出される木簡群を東大寺の正倉院宝物になぞらえた呼称である。
 難波宮跡では、高燥な上町台地ゆえに木簡の出土はさほど期待されていなかったが、近年の調査によって、谷部の湿潤な地層では木簡が腐朽せずに残っていることが明らかとなっている。
 難波宮跡の周辺においても、未だ多くの谷が木簡を抱いて埋もれている。」

 近い将来、難波宮跡から九州年号木簡などが出土することも夢ではないかもしれません。それまで、わたしは前期難波宮九州王朝複都説の研究を続けたいと思います。


第1982話 2019/09/04

『続日本紀』に見える「○○根子天皇」(2)

 『続日本紀』宣命などに見える「倭根子天皇」という称号の「倭根子」について、岩波の新日本古典文学大系『続日本紀』では、倭(やまと・今の奈良県)の中心に根をはって中心で支えるものという趣旨の解説がなされています。しかし、わたしはこの解説に納得できませんでした。というのも、元明天皇即位の宣命(慶雲四年)では天智天皇を「近江大津宮御宇大倭根子天皇」と呼び、聖武天皇即位の宣命(神亀元年)でも「淡海大津宮御宇大倭根子天皇」と呼んでおり、先の解説が正しければ滋賀の大津宮で即位し、その地で没した天智は「近江根子」か「淡海根子」であって、「倭根子」ではないからです。
 他方、奈良県(倭・やまと)の飛鳥で即位し、その地で没した天武天皇は『続日本紀』宣命では「倭根子」と呼ばれることはなく、聖武天皇の「太上天皇に奏し給へる宣命」(天平十五年)では「飛鳥浄御原宮ニ大八洲所知シ聖ノ天皇」と称されています。ところが、奥さんの持統天皇は元明天皇即位の宣命(慶雲四年)で「藤原宮御宇倭根子天皇」とあり、「倭根子」と称されているのです。天武も持統も共に倭(やまと、奈良県)に根をはった天皇であるにもかかわらず、この差は一体何なのでしょうか。
 このような疑問を抱きながら『続日本紀』宣命を読んでいると、あることに気づきました。『続日本紀』宣命の中で「倭根子」と最初に称された天皇は天智であり、それよりも前の天皇は誰も「倭根子」とはされていないのです。そこで思い起こされるのが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が出された〝九州王朝系近江朝庭〟という仮説です。すなわち、近畿天皇家出身の天智が九州王朝を受け継いで近江大津宮で即位し、九州王朝(倭国)の姫と思われる「倭姫」を皇后に迎えたというものです。この仮説に基づけば、「大倭根子天皇」と宣命で称された最初の天皇である天智は、奈良県の倭(やまと)ではなく、九州王朝「大倭国」の倭に〝根っこ〟が繋がっていることを意味する「大倭根子」だったのではないでしょうか。この点、宣命には天智だけが「大」がつく「大倭根子天皇」とされていることも、わたしの仮説を支持しているように思われます。
 この仮説に立てば、天智と血縁関係にある子孫の天皇は「倭根子」を称することができ、そのことを定めたのが「不改の常典」とする理解も可能となります。そのため、天智の娘である持統は「倭根子天皇」と宣命に称され、天智の弟の天武は九州王朝を受け継ぐことができなかったので宣命では「倭根子」と呼ばれなかったのではないでしょうか。
 なお、淳仁天皇は天武の孫であり、通常〝天武系〟とされますが、祖母は天智の娘(新田部皇女)であるため、天智の子孫として「倭根子」を称することができたと考えることができます。文武天皇も同様で、父親は天武の子供の草壁皇子で〝天武系〟とされますが、母親は天智の娘(元明天皇)で、祖母は同じく天智の娘の持統です。
 この「倭根子」の仮説が成立するか、これから検証作業に入ります。まずは『日本書紀』の「倭根子」記事の調査と検討からです。(つづく)


第1981話 2019/09/03

『続日本紀』に見える「○○根子天皇」(1)

 『続日本紀』に見える文武元年の即位の宣命には、「現御神と大八嶋国知らしめす天皇」「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世」「天皇が御子」「倭根子天皇」「天皇が大命」「天皇が朝庭」と、「天皇」という称号が使用されているのですが、中でも「倭根子天皇」という表記に興味を持ち、『続日本紀』宣命を調べてみたところ、次のような「○○根子天皇」の使用例がありました。

○文武元年(697)八月条 即位の宣命「現神ト大八洲国所知倭根子天皇」(持統天皇)
○元明天皇慶雲四年(707)七月条 即位の宣命「現神八洲御宇倭根子天皇」(元明天皇)
○同上 即位の宣命「藤原宮御宇倭根子天皇」(持統天皇)
○同上 即位の宣命「近江大津宮御宇大倭根子天皇」(天智天皇)
○元明天皇和銅元年(708)正月条 改元の宣命「現神御宇倭根子天皇」(元明天皇)
○聖武天皇神亀元年(724)二月条 即位の宣命「現神大八洲所知御宇倭根子天皇」(聖武天皇)
○同上 「現神大八国所知倭根子天皇」(元正天皇)
○同上 「淡海大津宮御宇大倭根子天皇」(天智天皇)
○聖武天皇神亀六年(729)八月条 改元の宣命「現神御宇倭根子天皇」(聖武天皇)
○聖武天皇天平元年(729)八月条 立后の宣命「現神大八洲国所知倭根子天皇」(聖武天皇)
○聖武天皇天平感宝元年(749)四月条 陸奥国に黄金出でたる時下し給わへ宣命「現神御宇倭根子天皇」(聖武天皇)
○孝謙天皇天平勝宝元年(749)七月条 即位の宣命「現神ト御宇倭根子天皇」(孝謙天皇)
○孝謙天皇天平宝字元年(757)七月条 諸司並に京畿の百姓に給へる宣命「現神大八洲所知御宇倭根子天皇」(孝謙天皇)
○淳仁天皇天平宝字二年(758)八月条 即位の宣命「現神坐倭根子天皇」(淳仁天皇)
○淳仁天皇天平宝字三年(759)六月条 御父母の命を追称し給へる宣命「現神大八洲所知倭根子天皇」(淳仁天皇)
○称徳天皇神護景雲元年(767)八月条 改元の宣命「日本国ニ坐テ大八洲国照ヒ給フ倭根子天皇」(称徳天皇)
○称徳天皇神護景雲三年(769)五月条 縣犬養姉女等を配流し給ふ宣命「現神ト大八洲国所知倭根子掛畏天皇」(称徳天皇)
○光仁天皇宝亀元年(770)十月条 即位の宣命「奈良宮御宇倭根子天皇」(光仁天皇)
○光仁天皇宝亀元年(770)十一月条 先考等を追尊し給ふ宣命「現神大八洲所知倭根子天皇」(光仁天皇)
○光仁天皇宝亀二年(771)正月月条 立太子の宣命「現神御八洲養徳根子天皇」(光仁天皇)
○光仁天皇宝亀四年(773)正月月条 立太子の宣命「現神大八洲所知ス和根子天皇」(光仁天皇)
○桓武天皇天応元年(781)四月条 即位の宣命「現神坐倭根子天皇」(桓武天皇)

 今回はまだ『続日本紀』全巻を精査したわけではありませんし、宣命の他にもありますが、「倭根子天皇」「大倭根子天皇」「日本根子天皇」「養徳根子天皇」「和根子天皇」といった表記が見え、いずれも「やまとねこすめらみこと」と訓まれていたと思われます。通説ではこれらを天皇の尊称と理解されているようですが、『続日本紀』宣命においてはどの天皇にも使用されていたわけではないようです。わたしはこの使用範囲に着目しました。(つづく)


第1980話 2019/09/02

大化改新詔はなぜ大化二年なのか(2)

 文武の即位年(697)は九州年号の大化三年に相当します。ご存じの通り、『日本書紀』にはこの大化年号が50年遡って転用されており、そのため大化元年は645年(孝徳天皇元年)となっています。そして翌年の大化二年(646)には有名な大化改新詔が次々と発せられます。この重要な大化改新詔が大化元年ではなく、なぜ大化二年なのかがよく分からなかったのですが、もし、この大化二年の改新詔が646年ではなく、九州年号の大化二年(696)の詔勅とすれば、翌年の文武即位を前にして、持統天皇が九州王朝の天子に国家システムの大きな変更を命じる詔勅を出させたのではないでしょうか。その場合、その詔勅には九州王朝の天子の御名(薩野馬か)と「大化二年」の年次が記されていたここととなります。そして『日本書紀』編纂時には、その詔勅をそのまま50年遡らせて、孝徳天皇が「大化二年(646)」に発した改新の詔勅とする記事が造作されたものと思われます。
 もちろん『日本書紀』に記された大化改新詔の中には、646年(九州年号の命長七年)に九州王朝が出した詔勅も含まれていると思われますが、それは個別の詔ごとに検証する必要があります。
 一例を挙げれば、大化二年正月の改新詔中に見える、「凡そ京には坊毎に長一人を置け。四つの坊に令一人を置け。」は、完成した藤原京の条坊の管理組織についての命令と考えざるを得ません。646年であれば近畿にはまだ条坊都市がありませんから、これは696年の大化二年のことと思われます。
 同じく、同改新詔に見える、「凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里より以下、四里より以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。」も従来の行政区画「評」から「郡」への変更を命じた「廃評建郡」の詔勅ではないでしょうか。もしそうであれば、696年(大化二年)に「廃評建郡」の詔勅を九州王朝の年号の下に告示し、その5年後の701年(大宝元年)に全国一斉に評から郡に置き換えたことになります。すなわち、696年の「廃評建郡」の命令から五年をかけて全国一斉に郡制へと変更し、同時に大宝年号を建元し、朝堂院様式(朝庭を持つ巨大宮殿)の藤原宮において文字通り「大和朝廷」が成立したわけです。すなわち、九州年号の大化二年(696)改新詔とは、九州王朝からの王朝交替を行うための一連の行政命令だったのではないかと、わたしは考えています。
 そしてその記事を『日本書紀』では「大化年号」とともに50年遡らせているのですが、七世紀中頃に九州王朝が全国に評制を施行した事績(県制から評制への変更「廃県建評」)を大和朝廷が実施した郡制樹立のこととする政治的意図をもった転用だったのではないかと推測しています。
 『続日本紀』の文武天皇の即位の宣命には、「禅譲」を受けた旨が記されていますが、この「禅譲」とは祖母の持統天皇からの天皇位の「禅譲」を意味するにとどまらず、より本質的にはその前年の「大化二年の改新詔」を背景とした九州王朝からの国家権力の「禅譲」をも意味していたのではないでしょうか。少なくとも、まだ九州王朝の天子が健在である当時の藤原宮の官僚や各地の豪族たちはそのように受け止めたことを、九州王朝説に立つわたしは疑えないのです。


第1979話 2019/09/01

大化改新詔はなぜ大化二年なのか(1)

 近畿天皇家の「天皇」号使用は王朝交替した701年(大宝元年)からで、文武が最初とする古田新説を検証するため、諸史料を精査してきました。中でも『続日本紀』冒頭に記された文武天皇の即位の詔勅(宣命)は同時代史料を収録したものとされており、初めての「宣命体」の詔勅としても貴重です。
 この「宣命」の研究には、岩波文庫の『続日本紀宣命』(倉野憲司編)がコンパクトで便利です。論文執筆にあたっては岩波書店の新日本古典文学大系『続日本紀』が一元史観による編集・解説ですが優れており、お勧めです。個人的には古田学派の研究者による『続日本紀』勉強会を開催したいと願っています。
 さて、その文武元年(697)八月に詔せられた即位の宣命には、「現御神と大八嶋国知らしめす天皇」「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世」「天皇が御子」「倭根子天皇」「天皇が大命」「天皇が朝庭」と、「天皇」という称号を使用しています。この宣命体の即位の詔勅は当時の記録を『続日本紀』に収録されたものと考えられていますから、それによれば近畿天皇家の文武は701年の王朝交替以前の697年には「天皇」号を使用していたことになります。そうであれば、古田新説を是としても、若干の修正が必要となるようです。(つづく)