2021年05月一覧

第2476話 2021/05/31

土木工学から見た水城の建設技術

 ―林 重徳「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む」―

 水城の創建年代などに関する小論(注①)を近年発表してきましたが、そのおりに土木工学や土木史の先行研究論文から多くのことを学びました。その中の1つ、林重徳さんの「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む」(注②)は刺激的でとても勉強になりましたので、紹介します。
 論文の目的と概要について、次のように説明されています。

〝ここではまず、”水城”築堤の目的と当時の情勢に基づいて、現代の土木工学と水利・水文学的視点から、水城の構造を検討するとともに、御笠川・欠堤部の復元について考察する。つぎに、建設技術・地盤工学の観点から過去の調査報告書等の内容を考察するとともに、最近の水城堤の断面調査および西門門柱基礎の調査結果等から、”水城”に 用いられている築堤上の工夫・建設技術について検討し、設計・施工を指揮監督した古代人の意図を推察する。続いて、水城の堤体から採取された不撹乱試料の土質試験結果などから、盛土の土質特性に及ぼす約千三百年の歳月による効果(年代効果)を 考察する。〟

 論文中、わたしが最初に注目したのは水城の築造期間について、『日本書紀』など文献を根拠に一年足らずの短期間で完了したとされていることです。

〝このような記録にみられる歴史背景と情勢から明らかなことは、”水城”の築堤は、何時敵の襲来があるかも知れないという非常な恐怖心と緊迫した状況の下で、施工されたものであり、失敗は許されず、1日でも早い完成が要求された工事であったと云うことができる。また、敗戦直後の当時の国力からも、水城の築堤工事と2つの山城の築 造を平行して施工したとは考え難いので、水城の築堤 工事は基本的 にわずか1年足らずの短期間で完了したものと考えられる。
 即ち、水城の築堤は、緊急の防衛施設工事であり、今日云うところの”急速施工”と”確実施工”が求められた大規模土工工事であったと言えよう。〟

 古田学派内では『日本書紀』を根拠に、唐軍が進駐している白村江戦後の筑紫で水城のような巨大防衛施設が造れるはずがないとする解釈が主流意見ですが、同じく『日本書紀』の記述を根拠にして、逆の解釈が成立していることがわかります。従って、水城の造営年代については、実物が現存していますから、その調査・観察に基づいた考古学的手法により判断するのが合理的です。この方法であれば、両論者が同一の考古学的事実に基づいて、建設的な論議が可能だからです。
 同論文の「まとめ」では、水城の築造技術について土木建築学の視点から、次の所見が記されており、いずれも興味深いものでした。

1) 超軟弱な箇所では、梯子胴木的工法を採用している。
2) 工事途中ですべり崩壊を生じた箇所では、抑止杭工と石材投入によるカウンターウェイトエを施工している。
3) 本堤の高盛土部においては版築工法が、また低盛土部においては通常の締固め施工が行われているようである。
4) 出土した”えぶり”等を用いて敷均しと撒出し厚の管理がなされていたと考えられる。
5) 木樋付近においては版築工法が用いられ、締固め後に掘削して木樋を敷設するなど、木樋に作用する土圧を軽減するための処置が施されており、土圧の概念を認識していたと考えられる。
6) 急傾斜側を密に締固め、緩傾斜側は比較的緩く締固めるとともに、緩い傾斜の締固め層および排水層を施工することにより、力学的な安定化とともに雨水・浸透流に対する堤体の侵食対策が組み込まれている。
7) 沖積地盤上に約10~14m規膜の急勾配の築堤を、しかも短期間に確実に施工するために、押え盛土工および敷粗朶による補強土工などの対策が必要であることを、盛土の最下部の施工段階から認識していた。
8) 敷粗朶は地下水位以下に使用しており、まさ土の鉄分等により、敷粗朶を酸欠状態に置き、腐植を防止できること、即ち、耐久性の確保を認識していたとすれば、驚くべきことである。
9) 西門門柱の基礎の硬質粘土層は、門柱の腐植防止(耐久性確保)、荷重の再配分、の意図とともに、免振対策としての工夫であると推察することは十分可能であり、現代技術の積層ゴムを用いた場合の半分強の効果がある。
10) 敷粗朶についても、補強土工法が地震に強いことを十分に認識した上で、使用した可能性がある。

 この指摘にあるように、水城の築造技術思想が現代の建築技術に通じるものがあることに感激しました。何よりも、基底部の造成段階に採用された各種技術が、最終完成物(水城土塁)にとっての必要性を認識して使用されていた可能性に言及されていることは重要です。
 水城が、土木工学的には当初から計画的に強度・耐震設計されていたと推定でき、このことは水城が短期間に造成されたとする見解を指示するものです。少なくとも、今後の水城築造年代についての論議は、文献史学における解釈論にとどまることなく、林さんによる土木工学の所見も踏まえた上でなされるべきと思います。もちろん、土木工学的に林さんの所見が間違っているという学問的な批判も、当然あり得ることでしょう。
 林さんは論文を次のように締めくくっておられます。

〝この河内狭山池(依網池)においても、築堤の基部から複層の腐植層が確忍されており、関西においては”敷葉工法”と名付けられている。材料こそ天然のものであるが、またそれ故に耐久性までを考慮に入れているとしたら、水城築堤に用いられているこれらの”古代の建設技術”は、千数百年を隔てる”現代の技術”を凌駕しているとさえ言うことができる。遺跡・遺構を豊かな想像力と洞察力をもって見直すことにより、現在の建設技術を見直し、未来に活かすことのできる古代の建設技術が発見されるであろう。〟

 なお、同論文末尾に挙げられた参考文献欄に、「古田武彦;古代史60の証言 金印から吉野ヶ里まで、騒々堂、1991」があったことも紹介しておきます。

(注)
①古賀達也「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2017年5月。
 古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
 古賀達也「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2017年8月。
②林 重徳「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む ~特別史跡・水城を中心として~」『ジオシンセティックス論文集』第18巻、2003.12。


第2475話 2021/05/30

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(5)

 ―坂田測定「水城出土杭」、もう一つの可能性―

 「坂田測定」でBC300年頃とされた水城出土杭ですが、その測定値が正しければ、大きく異なる他者の測定値(七世紀以後が大半)と整合できるもう一つの可能性があります。それは、弥生時代に造成された河岸の補強杭が、七世紀の水城築造時に再利用されたか、そのまま水城堤体内に取り込まれたというケースです。今回はその可能性について説明します。
 考古学的出土事実に基づいた土木史研究では、縄文時代・弥生時代から河岸の防護に木杭などが使用されていることが注目されています。安保堅史さんらの研究(注①)によれば、治水遺構や利水遺構に木杭が古代から使用されていたことが、次のように報告されています。

〝(1)治水遺構について
1.堤防遺構
 (中略)最も大規模なのは7世紀後半から築造されたといわれている「水城大堤」で、幅40m、高さ10mである。当時の国防施設であるとはいえ、これほど大規模な築堤はわが国では江戸期まで例はない。同時期の狭山池も大規模な築堤であったことがわかる。これら2つの堤防に共通することは、どちらも後述する特徴的な工法(古賀注:敷葉・敷粗朶、版築、護岸・土留め杭など)によって堤体強度を上げていたということである。(中略)「護岸・土留め杭」は先述の「原の辻」両堤からみつかっており、中世の「佐堂」江戸期の「浅山新田」など、各時代の堤防で行われていたようである。「基礎杭」のなかでも多くの杭を打ち込んだ工法が見られるのは古墳期「津寺」からで、その後、鎌倉期の「百間米田」左岸堤防を最後に見られなくなる。(中略)

2.護岸・水制遺構
 (前略)「杭・矢板」は土留めや低水護岸のために岸に流路に沿って杭を打ち込む工法で、最古は縄文後期の「袋低地」があり、奈良・平安期まで確認されている。(中略)

(2)利水遺構について
1.堰遺構
 (中略)年代的に見ると、杭を使った堰で、「杭群」形式は弥生期のみの発掘で、「那珂久平」など数千本の杭を使ったものがあったが、古墳期からは事例がない。構造型の「柵枠」「斜め柵」は最も古くからある堰の形式で、縄文後期の「牟礼」から、古墳期の「免」などがある。また「合掌型」は弥生中期から弥生後期まで見つかっている。(中略)「杭・横板」は弥生後期の「能峠中島」が最も古いが、古墳期の「纒向」のころから灌漑水路の分水堰として機能している。大木を横たえる「丸太型」は弥生中期の「軽部池」から、古墳期の「森脇」までの事例があった。〟

 以上のように、杭が治水・利水遺構に古代から使用されていたことが確認されています。水城が築造された地域も御笠川をはじめとするいくつかの水路があったことが知られており、そのため水城基底部の補強に敷粗朶工法が採用されています。何よりもそうした豊富な水量が確保できることが前提条件にあって、「水城」という大型の濠を持つ防衛施設が造営可能だったわけです。「水城」というネーミングが、そうした古代建築や古代人の防衛認識を象徴しているのではないでしょうか。
 従って、この地域に居住していた縄文・弥生・古墳時代の人々(注②)にとって、治水・利水は必須であり、そのための施設に多くの杭が使用されたことをわたしは疑うことができません。ですから、この時代の杭が水城に再利用されたり、そのまま取り込まれた可能性も一応は抑えておく必要があります。しかしそれであれば、尚更に「坂田測定」を根拠に水城の造営年代を論じることは危険ですし、ましてや大宰府政庁「倭の五王」王都説のエビデンスとして「坂田測定」を使用することもできないのです。(つづく)

(注)
①安保堅史・藤田龍之・知野泰明「発掘記事にみる治水・利水技術の変遷に関する研究」『土木史研究』第21号、2001年5月。
②『水城跡 上巻』(九州歴史資料館、平成二一年〔2009〕、150~151頁)の「水城築堤以前の遺構」では、縄文時代の竪穴式住居や弥生時代の竪穴式住居・貯蔵穴・土坑の出土が報告されている。


第2474話 2021/05/29

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(4)

 ―水城出土物の放射性炭素年代測定値―

 「坂田測定」では「1950年より2250年前±80年」とあるKURI 0102「大宰府町水城堤防の中の杭」は水城本体からの出土ですから、その測定値(BC300年頃)が正しければ、それは水城の造営年代を示すはずです。しかし、これまで報告されている水城出土物の放射性炭素年代測定値とは大きく異なります。たとえば次の測定値が報告されています(注①)。

○第35次発掘調査(2001年)
敷粗朶層サンプル中央値 660年(最上層)、430年(坪堀1中層第2層)、240年(坪堀2第2層)
(第38次調査出土木材測定時に追加測定)
暦年較正年代(1σ) 粗朶540~600年、葉653~760年、葉658~765年

○第38次調査(2004年)
暦年較正年代(1σ) 木杭(外皮)777~871年

○第40次調査(2007年)
暦年較正年代(1σ) 敷粗朶木片675~719年(41.7%)・742~769年(26.5%)、炭化物675~718年(42.0%)・743~769年(26.2%)
 ※測定値が示す年代期間に複数のピークが存在する場合、複数の年代が発生し得ます。その場合、どちらの年代がどの程度妥当かの確率を示したものが()内の%の数値です。(古賀)

 以上のように、水城の学術発掘調査により検出した木材などの放射性炭素年代は、その大半が七世紀以後の測定値を示しています。古いものでも三世紀です。従って、「坂田測定」による杭の年代(BC300年頃)だけがかけ離れたものであることがわかります。従って、他の測定値を否定して、「坂田測定」のみを是とすることは、学問的にはあり得ないことです。
 もし「坂田測定」の値を正しいとできるケースがあるとすれば、樹齢千年以上の大木を裁断加工して杭に使用し、大木の芯中部分をサンプルとして測定したという場合ですが、水城から出土している木杭は、「全て広葉樹の丸木材で、基本的には先端を加工しただけの簡単なもの」(注②)と報告されていますから、それは考えにくいと思います。
 結論として、「坂田測定」を根拠に水城の造営年代を論じることは危険と言わざるを得ません。同時に、大宰府政庁「倭の五王」王都説のエビデンスとして「坂田測定」を使用することもできないとするのが、合理的で穏当な判断ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『水城跡 下巻』九州歴史資料館、平成二一年(2009)、327~332頁。
②同①、219頁。「杭(26~48) 全て広葉樹の丸木材で、基本的には先端を加工しただけの簡単なものである。」


第2473話 2021/05/28

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(3)

 ―「坂田測定」水城堤防出土サンプルの由来

 坂田武彦さんによる太宰府遺構出土物の放射性炭素年代測定値について、最も説明が困難なものがKURI 0102の「大宰府町水城堤防の中の杭」でした。水城本体からの出土ですから、造営年代を示すはずですが、「坂田測定」では「1950年より2250年前±80年」とありますから、その杭にはBC300年頃の年輪が含まれていることになり、従来の編年(七世紀後半頃)や他の科学的年代測定値(注①)と大きくかけ離れているからです。発掘者は福岡県教委とされていますから、その出土を記した調査報告書を探索しました。
 九州歴史資料館から出された『水城跡 上巻・下巻』(注②)には、福岡県教育委員会による昭和44年度立会調査に始まって、1次調査(昭和46年)から45次調査(平成20年)までの概要が示されており、「坂田測定」のKURI 0102「大宰府町水城堤防の中の杭」の出土がどのときのものかを調べました。「坂田測定」が記された坂田さんの手紙には昭和52年の「2月17日」と思われる日付がありますので、それ以前の調査で杭が出土した事例を探したところ、次の三例が見つかりました。

 3次調査 昭和47年(1972) 東土塁西端部・東外濠部
 4次調査 昭和48年(1973) 御笠川欠堤部
 6次調査 昭和50年(1975) 東内濠推定部

 概要などが次のように記されています。

〔3次調査〕
《概要》九州縦貫自動車道を建設するに先だって行われた調査で、東土塁西端部及びその北側の外濠推定部分の調査である。土塁上からは掘立柱建物2棟、溝2条が検出され、下成土塁からは積土と杭列が確認された。また外濠部分からは、外濠と目される砂層堆積を確認した。(上巻27頁)
《杭列》
 SX025(3次)(Fig.17)
 東土塁西端の下成土塁積土内で検出した。積土中位には、黒灰色粘質土下位で淡青灰色粗砂に包含される敷粗朶があり、さらにその下位の積土内で木杭列とシガラミを確認した。ちょうど砂層の地山面上に積んだ、黒灰色や青灰色粘質土の間に木杭とシガラミを埋設している。木杭の大きさは27~63cm程度で、30cm間隔に4本打っている。また、それに絡むシガラミは土塁軸線に並行している。杭先は最下層の暗青灰色粘質土で止まり、上層も粘質土に覆われていることから、積土中の土砂の流出を防ぐためと考えられる。(上巻36頁、38頁)
《東外濠部》
 SX030(3次)(Fig.75)
 3次調査では、下成土塁から外濠部にかけて2箇所のトレンチを設定した。(中略)Aトレンチでは、基底部裾から約60m付近で砂層が急に立ち上がり、シガラミ状の遺構を検出した。木杭と横に打たれた板状の木材を確認したが、周囲に粘度が充填されていた。このシガラミを古代水城の外濠遺構と即断することはできないが、60mの距離については、5次調査と一致する。(上巻92頁、94頁)

〔4次調査〕
《概要》九州自動車道の橋脚建設中に、石敷遺構が発見されたために急遽行われた調査である。旧御笠川の河床にあたる部分に人頭大の石敷遺構が見られ、奈良時代を中心とした中世まで含む遺物が見つかった。この石敷遺構は、洗堰等の古代水城に関連するものと考えられる。(上巻27頁)
《杭》
 SX013(4次) (Fig.105)
 SX014の石敷の間に打ち込まれた杭である。40~50cm間隔で打たれており、礫が置かれた砂層下の粘質土まで達している。杭には、角杭と丸杭の2つがある。礫同士の押さえのために打ち込まれたと考えられる。(上巻177頁)

〔6次調査〕
《概要》東土塁西側の下成土塁の南側の調査で、下成土塁積土層を検出したほか、土塁の南側において、幅10mの溝状の砂層堆積を確認した。この溝状遺構は古代~近世までの遺物を含んでいるが、木樋取水部との関連が想定された。また、シガラミ遺構や杭列なども検出された。(上巻28頁)
《東内濠部》
 SD055(6次)(Fig.90・91、PL.57)
 6次調査東土塁の西端基底部下で検出した。土塁にほぼ並行して、東西に走る溝状の遺構である。(中略)この他、基底部SA001とSD055の間に自然流路があるが、この流路内では、南北方向に走る杭列SA056とシガラミSX057を検出している。(上巻105頁)
《杭列》
 SX056(6次)(Fig.90、PL.8)
 6次調査SX056内で検出した。杭列は2条認められ、流路に対してやや南へ傾いている。砂層に打ち込まれているが、時期比定は困難である。(上巻114頁)

 以上のように、3、4、6次の調査で杭の出土が報告されています。「坂田測定」の説明では、「水城堤防の中の杭」と表現されていますから、土塁端部の溝や地山付近に打ち込まれた杭よりも、水城堤体中から出土したものの方がより妥当と思われます。そのように考えると、「東土塁西端の下成土塁積土内で検出した」とされる、3次調査出土杭列SX025から採取されたサンプル(杭)の可能性が最も高いのではないでしょうか。3次調査は昭和47年(1972)に実施されていますから、時期的にも矛盾はありません。(つづく)

(注)
①『水城跡 下巻』(九州歴史資料館、平成二一年〔2009〕)に記載された「水城跡出土木片・炭化材の放射性炭素年代測定」(327~332頁)によれば、その殆どが七世紀以後であり、最も古い値のもの(35次調査、敷粗朶層坪堀2第2層から検出されたヒサカキ)でも中央値240年である。このサンプルについては「洛中洛外日記」1355話(2017/03/17)〝敷粗朶のサンプリング条件と信頼性〟で紹介した。
②『水城跡 上巻・下巻』九州歴史資料館、平成二一年(2009)。


第2472話 2021/05/27

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(2)

 ―「坂田測定」サンプルの試料性格―

 古田先生が大宰府政庁「倭の五王」王都説の根拠とされたであろう坂田武彦さんによる太宰府遺構出土物の放射性炭素年代測定値について、同じサンプルによる再測定などは、わたしにはできませんので、基本的に同測定値が正しく測定されたとする前提で考察することにします。また、坂田さんの時代と比べて、現在では測定精度や補正精度が格段に向上しており、その結果、一般的傾向として当時(昭和五十年代)の測定値よりも新しい年代を示すことが知られています。しかし、今回の考察ではそのことも一端保留して、坂田測定値のままで考察を進めます。
 最初に、「坂田測定」サンプル(注①)の試料性格を確認しておきます。それは次のようなものです。

(1)太宰府関連施設、あるいは近隣遺構から出土したものですが、大宰府政庁遺構の創建年代をそのまま表すものではない。

(2)KURI 0112の「大宰府町水城堤防の中の杭」以外の試料は「炭」「木炭」であり、政庁など建築物の出土木材ではない。

(3)KURI 0005、KURI 0102に至っては製鉄関連遺跡であり、大宰府政庁の創建年代とは関係づけられない。

 以上のように、大宰府政庁創建年代判定のエビデンスとして採用できないものが大半です。しかし、KURI 0030については、「都府楼の基礎石下」から出土した「炭」であり、この試料と測定値は注目する必要があります。「都府楼の基礎石下」とありますから、おそらく大宰府政庁の礎石の下から出土したものと思われます。なお、なぜかこれだけは発掘者が記されていませんから、学問的にはやや問題(由来不明)がありそうです。
 また、礎石の下からと言っても、大宰府政庁はⅡ期とⅢ期が礎石を持った建物ですから、どちらの時期の礎石かが示されていないので、やはり試料性格が明瞭ではありません。おそらく、地表に露出しているⅢ期の礎石の下からの可能性が高いと考えられます。というのも、Ⅱ期の礎石はⅢ期に転用されるケースが多いようで、Ⅲ期の整地層中に埋まっていたⅡ期の礎石はそれほど多くはないからです。更に、天慶の乱(注②)で焼失したⅡ期の焼土層の上にⅢ期が造営されたため、礎石の下の「炭」ということであれば、Ⅲ期の礎石下からの出土の可能性をうかがわせます。そうであれば、十世紀の天慶の乱の焼土層の「炭」ということになるので、大宰府政庁Ⅰ期やⅡ期の年代判定には適さない試料と言えます。
 しかも、「坂田測定」によれば、「1950年より2840年前±60年」という測定値ですから、それは紀元前900年頃の年輪を持つ木材ということになります。これは天慶の乱とは約1,800年も離れた年代であり、政庁遺構の年代判定の参考にはとてもなりそうもありません。「坂田測定」を信用するのであれば、天慶の乱のときに焼失した木材に樹齢二千年ほどのものがあり、その中心部分の「炭」を偶然にもサンプリングして測定したという他ないように思います。(つづく)

(注)
①次の「坂田測定値」が紹介されている。
〔KURI 0005〕筑紫郡大宰府町池田鬼面 古代製鉄登釜の木炭
 1950年より1570年前±30年
 発掘者 福岡県教育委員会
〔KURI 0030〕大宰府町都府楼 基礎石下の炭
 1950年より2840年前±60年
〔KURI 0102〕大宰府町都府楼 ちいさこべ製鉄製銅所跡
 出土物、銅滓、鉄滓、土器、木炭。
 1950年より2140年前±50年
 発掘者 福岡県教委
〔KURI 0112〕大宰府町水城堤防の中の杭
 1950年より2250年前±80年
 発掘者 福岡県教委
②天慶二~四年(939~941)に勃発した藤原純友による乱。このとき大宰府政庁Ⅱ期が焼失した。発掘調査により、現在、地表に現れている礎石が焼失後に再建されたⅢ期の政庁のものであることが判明した。


第2471話 2021/05/26

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(1)

 古田先生が、なぜ考古学的エビデンス(五世紀の王宮遺構の出土)がない、「倭の五王」王都を大宰府政庁とする仮説に至ったのかについて気になっていましたので、著作を精査したところ、『古田武彦の古代史百問百答』(注①)の次の記事が目にとまりました。

〝もう一つ紫宸殿というのでなくて、権力者の建物ということになると、内倉さんが書かれたように弥生時代から、建物の跡が連綿と続いています。わたしは『邪馬壹国の論理』の最後に書きましたが、九州大学が古いと言って出しているものを、今の考古学会は知らない振りをしているわけです。そういう問題をクリアしなければならない。〟『古田武彦の古代史百問百答』「32 九州の紫宸殿について」ミネルヴァ書房版、212頁

 これは、「紫宸殿の問題で、太宰府の政庁跡の考古学年代にわたしは疑問を持っているのですが、果たして一期工事が白村江の後なのでしょうか。それだったら多利思北孤の宮殿は一体どこにあったのですか。後宮に数百人の女性もいる大変な宮殿だったと思うのですが、実際に考古学年代はどうなのでしょうか。」という質問に対する回答ですから、大宰府政庁Ⅰ期遺構の年代について通説への疑義を示され、その根拠として『邪馬壹国の論理』(注②)の最後に書かれたとされる「九州大学が古いと言って出しているもの」を根拠とされています。
 そこで、「九州大学が古いと言って出しているもの」を探したのですが、『邪馬壹国の論理』朝日新聞社版にそのような記事は見当たりません。しかし、わたしには九州大学での太宰府遺構の放射性炭素年代測定値を古田先生が『ここに古代王朝ありき』(注③)で紹介されていた記憶がありましたので、同書を調査したところ、同大学工学部冶金学科の坂田武彦さん(故人)からの手紙に書かれていた太宰府出土物の放射性炭素年代測定値(4件)が紹介されていました。それは昭和52年2月17日の手紙のようです。
 坂田さんの手紙に記されていた測定値は次のような内容です。

 KURI(九州大学ラジオアイソトープの略号)

 KURI 0005 筑紫郡大(ママ)宰府町池田鬼面 古代製鉄登釜(ママ)の木炭
 1950年より1570年前 ±30年
 発掘者 福岡県教育委員会

 KURI 0030 大宰府町都府楼 基礎石下の炭
 1950年より2840年前 ±60年

 KURI 0102 大宰府町都府楼 ちいさこべ製鉄製銅所跡
 出土物、銅滓、鉄滓、土器、木炭。
 1950年より2140年前 ±50年
 発掘者 福岡県教委

 KURI 0102 大宰府町水城堤防の中の杭
 1950年より2250年前 ±80年
 発掘者 福岡県教委

 この坂田さんの測定値に対して、古田先生は次のように記されています。

〝これは驚くべき内容だ。現代の考古学者たちが扱いかねているのも、無理はない。もちろん、わたしにも、この測定自体が真か否か、それを判定する力はない。この点、一般の考古学者にとっても、同様であろう。
 (中略)太宰府の遺構及び近辺の(木炭の)測定値は、いずれもそれが「倭の五王」、さらに「邪馬一国」とそれ以前の時代に遡ることを証言していたのである。(中略)
 それゆえわたしは、将来の若い自然科学者が、この坂田測定を再検証されることを期待し、敢えてここに引用させていただいたのである。〟『ここに古代王朝ありき』「第三章 九州王朝の都城」朝日新聞社版、233~234頁

 わたしも、同書を読んで、この測定値に驚愕したことを憶えています。古田先生は驚きを示しながらも、「将来の若い自然科学者が、この坂田測定を再検証されることを期待し、敢えてここに引用させていただいた」とあるように、初期の著作に特に多く見られる、慎重な学問的配慮の姿勢がここでも発揮されていました。
 わたしが同書を読んだのは三十代初めの頃でした。もう若くはありませんが、恩師の期待に応えるべく、「坂田測定」について考察・検証することにします。(つづく)

(注)
①古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(2015)。東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊された。
②古田武彦『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2470話 2021/05/24

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(11)

 ―古田説の変遷とその論理構造―

 「倭の五王」時代の倭国王都や領域についての古田説は研究の進展に伴って変化してきたことを説明してきました。そこで、本シリーズのまとめとして、古田説成立の論理構造と変遷した理由について解説します。これは学問の方法論を知る上でも重要な検証でもあります。まずは、「倭の五王」時代の倭国王都についての古田説の変遷を著書でたどります。

(1)『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。
〝五世紀末には、太宰府南方の基肄城あたりを中心としていた時期があったように思われる。なぜなら、このころ成立したと思われる『百済記』(三六七~四七六年の間、直接引用)が「貴国」(「貴倭女王」も、『百済記』の中に引用されていたと思われる晋の起居注に出現する)という表現を用いているからである。(中略)
 以上が文献上の微証から知りえたところであるけれども、「博多湾岸――基肄城――筑後」(ただし、「博多湾岸」は基肄城をもふくむ)という単線的な移行を想定すべきではない。なぜなら、のちの近畿天皇家の場合をモデルとして見ればわかるように、奈良県内の各地に都を転々とし、時には滋賀県(大津)、大阪府(難波)と、広域に都を遷しているからである。
 その点、九州王朝も、筑紫(筑前・筑後)を中心として、時には九州全域が遷都の対象として可能性をもっていた、といわねばならぬ。
 今、文献外の徴証を見よう。
 筑後の石人山古墳、人形原の古墳群、さらには筑後を中心としておびただしい壁画古墳(いわゆる「装飾古墳」)も、当然、この九州王朝との関連から、再び注目されねばならない。(中略)
 しかし、それらについては、わたしがこの本で採用した、外国史書による「文献の史料批判」という方法ではなく、他の方法による追跡の領域に属するであろう。〟同書「第五章 九州王朝の領域と消滅」「遷都論」、557~558頁

(2)『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店、昭和六十年(1985)。
〝以上の分析によってみれば、この倭国の都、倭王の居するところ、それは九州北岸、すなわち博多湾岸以外にありえないのではあるまいか。
 ここで問題を整理してみよう。
 『宋書』夷蛮伝の「倭国」と「倭の五王」、それは五世紀の時間帯(四二一~四七八)だ。これに対する、この朴堤上説話の「倭国」と「倭王」、これも四世紀から五世紀にかけての存在だ。(中略)
 すなわち、讃―珍―済―興―武という、倭の五王、それは「筑紫の王者」、「博多湾岸の王者」であった。――これが帰結だ。〟同書「第五章 最新の諸問題について」、308頁

(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、平成元年(1989)。
〝これに対し、もし、遠く時間帯を「五世紀後半~七世紀」の間にとってみれば、いわゆる装飾古墳が、まさに、「筑後川以南」に密集し、集中している姿を見出すであろう。弥生と逆の分布だ。これはなぜか。この時期、倭国は北方の高句麗・新羅と対抗し、緊迫のさ中にあった。直ちに北方より「侵入」されやすい北岸部を避け、「筑後川という、大天濠の南側」に“神聖なる墳墓の地”を「集中」させることになったのではあるまいか、吉野ヶ里にしめされた「墳墓を『濠』で守る」という、同一の思想だ。弥生と古墳と、両時代とも、同じき「筑後川の一線」を、天然の境界線として厚く利用していたのである。南と北、変わったのは「主敵方向」のみだ。
 この点、弥生の筑紫の権力(邪馬壱国)の後継者を、同じき筑紫の権力(倭の五王・多利思北弧)と見なす、わたしの立場(九州王朝説)と、奇しくも、まさに相対応しているようである。」〟同書115~116頁

(4)『古田武彦の古代史百問百答』東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、ミネルヴァ書房、平成二六年(2014)。
〝「博多湾岸が中心であったのは弥生時代。高句麗からの圧力を感じるようになってからは後退していきます。久留米中心に後退します。玉垂命がおいでになったのが三一六年とか。高良山で伝えているわけです。筑後川流域に中心が移るわけです。移ったからと言って、太宰府を廃止して移ったのではなく、表は太宰府、実際は久留米付近となるわけです。二重構造になっているわけです。」〟同書「Ⅶ 白村江の戦いと九州王朝の滅亡」「32 九州の紫宸殿について」、212頁

 古田先生の著作を精査したところ、上記の著書で「倭の五王」の王都について論じられていました。見落としがあるかもしれませんが、古田先生の王都論・遷都論の変遷やそれを支えている論理構造が読み取れます。
 中でも最も論理的にその大枠を押さえながら、用心深く詳述されているのが初期三部作の一つ、(1)『失われた九州王朝』です。ある意味では、終生を貫く基本的な学問の方法が示されたものであり、感慨深いものがあります。特に、「筑紫(筑前・筑後)を中心として、時には九州全域が遷都の対象」という指摘は今日でも有効であり、示唆に富んでいます。この視点から、宮崎県の西都原古墳群も検証すべきでしょう。
 そして、学問の方法として、「文献史学の徴証」から「文献外の徴証」へ、すなわち「わたしがこの本で採用した、外国史書による『文献の史料批判』という方法ではなく、他の方法による追跡の領域に属する」という教導こそ、本シリーズでわたしが目指したものに他なりません。
 次いで(2)『古代の霧の中から』昭和六十年(1985)では、文献史学に基づき、「倭の五王」の王都を博多湾岸とされました。もっとも、同書の主要論点は「倭の五王」を大和朝廷とする通説への批判ですから、こうした結論を強調されたものと思われます。
 その点、「文献外の徴証」「他の方法による追跡の領域」に踏み込まれたのが、(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」平成元年(1989)です。考古学という学問分野の結論として、「直ちに北方より『侵入』されやすい北岸部を避け、『筑後川という、大天濠の南側』に“神聖なる墳墓の地”を『集中』させることになったのではあるまいか」として、筑後遷都を示唆されたものです。
 この後、古田先生は「倭の五王」王都を大宰府政庁(Ⅰ期)とする見解に傾かれ、わたしとの〝論争的対話〟に至ります。そして最晩年での認識を示されたのが(4)『古田武彦の古代史百問百答』平成二六年(2014)でした。それは従来の「文献史学の徴証」と「文献外の徴証」(考古学)とを折衷されたとも思われる表現「表は太宰府、実際は久留米付近」で「倭の五王」王都を示されました。
 この結論は、本シリーズでわたしが推定した〝筑後川の両岸付近〟(注)と重なるものです。本年11月に開催予定の八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー、大学セミナーハウス)では「倭の五王」王都の所在がテーマの一つとされるようですので、今回、紹介した古田先生の著書・所論の成果や到達点を見据えた論議が望まれるところです。(おわり)

(注)筑後川北岸の夜須郡・朝倉郡と南岸の浮羽郡・三井郡・三潴郡。


第2469話 2021/05/22

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(10)

 ―「毛人五十五国」と仙台市の前方後円墳―

 神武東征やその後の銅鐸圏への侵攻により、近畿は「衆夷六十六国」に含まれたとわたしは捉えていますが、東方への侵攻は弥生時代に限らず古墳時代でも断続的に続いたのではないでしょうか。たとえば『日本書紀』景行天皇55年条に見える「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」の記事もその一端のように思われます。ただ、この記事からは時代を特定しにくいため、「倭の五王」以前の事件なのかどうか慎重な検討が求められます(注①)。
 なお、彦狭嶋王は関東の大王であり、その伝承が『日本書紀』に転用されたとする仮説(注②)もあり、まだ研究途上のテーマです。従って、文献史学の分野からは、「衆夷六十六国」の領域(東限)がどの程度の範囲なのかは現時点では判断できません。その結果、「衆夷六十六国」の東にある「毛人五十五国」の領域もまた推定できていません。他方、考古学の分野では前方後円墳の分布がヒントになるかもしれません。
 「毛人五十五国」の領域を検討するうえで、わたしが注目してきたのが仙台市にある遠見塚古墳(墳丘長110m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)と隣接する名取市にある東北地方最大の雷神山古墳(墳丘長168m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)です。両古墳の存在から、仙台平野や名取平野が古墳時代の東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえます。ちなみに、雷神山古墳は九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半の前方後円墳)よりも墳丘長が大きいのです。
 また、仙台市には東北地方最古の須恵器窯跡とされる大蓮寺窯跡(5世紀中頃)もあり、当地は「蝦夷国」の中心領域だったのではないかと考えています(注③)。この理解が正しければ、「毛人五十五国」とは東北地方の「蝦夷国」を含む領域だった可能性があります。倭王武の「上表文」には「東征毛人五十五国」とありますから、倭国の軍事勢力が「毛人」領域に進駐(東征)しているはずですから、その痕跡としての前方後円墳や須恵器窯跡の証言力は小さくありません。また、「蝦夷国」の領域であれば「毛人」と称するにふさわしいと思います。しかしながら、「毛人五十五国」の正確な領域(全体像)は未だ不詳とせざるを得ません。(つづく)

(注)
①次の拙論で検討を続けたが、未だ結論は出ていない。
 古賀達也「洛中洛外日記」1709話(2018/07/19)〝「東山道十五国」の成立時期〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2002話(2019/09/28)〝九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(6)〟
②藤井政昭「関東の日本武命」『倭国古伝』古田史学の会編、明石書店、2019年。
③古賀達也「洛中洛外日記」1494話(2017/09/03)〝須恵器窯跡群の多元史観(5)〟
 古賀達也「須恵器窯跡群の多元史観 ―大和朝廷一元史観への挑戦―」『古田史学会報』144号、2018年2月。


第2468話 2021/05/21

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(9)

 ―倭王武「上表文」と大阪上町台地倉庫群―

 倭王武「上表文」の「東征毛人五十五国」の範囲について、古田先生は『古代通史』(注①)で「近畿の銅鐸圏中心の部分」と修正されました。その理由として、神武東征により倭国の支配地域が拡大したことをあげられました。『宋書』倭国伝の「上表文」にあるように、先祖代々から支配地を拡大したと倭王武は主張しています(注②)。「倭の五王」時代の旧銅鐸圏は既に倭国の支配領域になっていますから、「毛人五十五国」を銅鐸圏の中心領域としたことは、『失われた九州王朝』(注③)での「中国地方・四国地方(各、西半部)」とする理解よりも妥当と思います。こうした古田先生の修正方針には賛成なのですが、今のわたしには不十分な修正のように見えます。
 たとえば『日本書紀』の神武東征説話によれば神武兄弟は安芸や吉備勢力の支援を受けた後、大阪湾に突入していますから、その当時(弥生時代)の安芸・吉備は倭国の勢力圏内と見られます。そうであれば、その地域は古墳時代には「毛人五十五国」ではなく、「衆夷六十六国」に含まれていたと考えられます。更に神武東征後、銅鐸圏中枢の近畿が倭国の勢力範囲に入ったわけですから、「倭の五王」時代の五世紀(古墳時代)には近畿も含めて「衆夷六十六国」と理解した方がよいと思います。
 その考古学的根拠の一つとして、古墳時代における列島内最大規模の大阪上町台地の都市遺構の存在があります。この都市遺構について次のように報告されています。

 「難波宮下層遺跡は難波宮造営以前の遺跡の総称であり、5世紀と6世紀から7世紀前葉に分かれる。大阪歴史博物館の南に位置する法円坂倉庫群は5世紀、古墳時代中期の大型倉庫群である。ここでは床面積が約90平米の当時最大規模の総柱の倉庫が、16棟(総床面積1,450㎡)見つかっている。」杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」(注④)
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。」
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(注⑤)

 古墳時代における最大規模の都市遺構である大阪上町台地倉庫群は「当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関」とする考察は重要です。おそらく同遺跡は古墳時代における九州王朝の「最重要の出先機関」ではないでしょうか。この理解が正しければ、「倭の五王」時代の近畿は「衆夷六十六国」に含まれていたとする、先の仮説を支持する考古学的出土事実になります。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』原書房、平成六年(一九九四)。ミネルヴァ書房より復刻。
②倭王武「上表文」には、「自昔祖禰、躬擐甲冑、跋涉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國。」とあり、歴代の倭王たちが軍事侵攻により支配領域を拡大させたと主張している。
③古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四十八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
④杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』
⑤南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年3月。


第2467話 2021/05/20

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(8)

 倭王武「上表文」に見える倭国の領域「毛人」

 『宋書』の倭王武「上表文」に記された「東征毛人五十五国」の範囲について、古田先生は『失われた九州王朝』(注①)では「中国地方・四国地方(各、西半部)」とされていましたが、『古代通史』(注②)では次のように修正されました。

〝倭王武がいっている「東のかた毛人」というのは、近畿銅鐸圏の支配のことだ、「毛人」というのは銅鐸圏の人々のことだ、というふうに私は理解すべきだったんです。(中略)
 要するに、「神武東行」にもとづく銅鐸圏の支配を「毛人、五十五国」といっている。この場合なお一言申しますと、たとえば吉備であるとか伊予であるとか、そういう所は入らなくていいわけです。そこは占領支配したわけじゃないですから。近畿の銅鐸圏中心の部分を「毛人」と呼び「五十五国」と呼んでいる。これも九州を「六十六国」というバランスでみれば、近畿でどれくらいの範囲を呼んでいるのかのだいたいの見当はつく、という話でございます。〟『古代通史』原書房版、234~235頁

 『失われた九州王朝』では、衆夷(九州島)の「六十六国」と比較して毛人の「五十五国」の範囲を「中国地方・四国地方(各、西半部)」とされたのですが、『古代通史』では神武東征により支配した銅鐸圏を「毛人五十五国」の範囲と修正されたものです。わたしはこの修正の視点(神武等による勢力拡大を重視)には賛成ですが、その領域を国数によって比較判断(注③)することと、衆夷(九州島)と毛人(銅鐸圏)の間に位置する吉備や伊予がどちらに属するのかについてが不鮮明であることには疑問を持っています。なお、『古代通史』において古田説が修正されていたことを日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)よりご教示いただきました。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四十八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』原書房、平成六年(一九九四)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『古田武彦が語る多元史観』(ミネルヴァ書房、東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、2014年)によれば、国数比較による領域推定はできないと次のように回答されている。
〝そうすると倭の五王のところに書いてある国名も九州、筑紫を中心とした数です。しかしそれが、どこどこであるかということは、あの数からして割り振ることはできません。割り振ってもそれは小説のようなもので、歴史学とは関係ないわけです。「割り振ることができない」というのが歴史学です。ただ原点が筑紫であることは動かない、という立場です。〟345頁、第八回八王子セミナー(2011年)での回答。


第2466話 2021/05/19

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(7)

 倭王武「上表文」に見える倭国の領域「衆夷」

 今回は、『宋書』の倭王武「上表文」に記された倭国の支配領域と5世紀の考古学的事実(古墳)との対応について論じます。同「上表文」には次のように倭国の支配領域が記されています。

 「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国。」
〔釈文〕東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。

 古田先生の『失われた九州王朝』(注①)によれば、この領域(毛人・衆夷)について次のように説明されています。

 〝日本列島の西なる「衆夷」とは、みずからの都を中心として、それをとりまく九州の地の民それ自身をさすこととなる。すなわち、中国の天子を基点として、「東夷」なる、みずからを指していることとなろう。そして東夷の地たる九州のさらに東の辺遠(中国から見て)に当たる中国地方・四国地方(各、西半部)の民を「毛人」と呼んだこととなろう。〟『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版173頁

 このように古田説では「上表文」にある「衆夷六十六国」を九州島に、「毛人五十五国」を中国地方・四国地方(各、西半部)とされました。もちろん「海北九十五国」とは百済・新羅を含む朝鮮半島の国々です。この古田説は有力と思いますが、その上で他の可能性も考えられます。この点は後述します。
 「上表文」には東西と北の支配領域の国数は記されていますが、南の記事はありません。このことから、九州島より海を渡った南方の島国へは倭国は侵攻していないと考えられます。より精確に言えば、九州島の南端領域(薩摩地方)まで支配していたのかは、「上表文」からは判断できません。他方、考古学的出土事実から判断すれば、薩摩川内市の端陵(はしのりょう)古墳(四世紀中頃か、墳丘長54mの前方後円墳)や日本最南端の古墳として薩摩半島最南端に位置する指宿市の弥次ヶ湯古墳(5世紀末前後の円墳、径18m)があることから、九州島全域が「衆夷六十六国」に含まれているとする古田説は妥当と思われます。
 なお、宮崎県南部や鹿児島県東部には南九州独自の地下式横穴墓が分布しており、九州王朝に併合された在地勢力・文明の存在がうかがわれます(注②)。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四十八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
②宮崎県えびの市の島内地下式横穴墓群114号墓(六世紀前半)から、龍の銀象嵌がある長さ98cmの大刀が出土している。倭国に併合された南九州在地勢力の王墓ではあるまいか。古賀達也「洛中洛外日記」1502話(2017/09/17)〝「龍」「馬」銀象眼鉄刀の論理〟を参照されたい。


第2465話 2021/05/18

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(6)

   ―西都原古墳群の事実と解釈―

 九州王朝説にとって、「倭の五王」時代(5世紀)における〝不都合な事実〟の中でも、わたしが最も深刻に感じたのは、全国屈指の規模とされる西都原古墳群の存在でした。河内や大和の巨大古墳群の存在に対しては、これまで古田学派の解釈は次のようなものでした。

(1)中国史書に見える倭国とは北部九州の九州王朝のことである。
(2)従って、高句麗や新羅と戦っていた倭国とは九州王朝である。
(3)長期にわたり戦争を続けていた九州王朝に巨大古墳を造り続けることはできない。
(4)九州王朝があった北部九州に巨大古墳群がないのは当然であり、むしろ倭国が九州王朝であったことを証明している。
(5)この点、巨大古墳群がある河内や近畿の勢力(後の大和朝廷)は高句麗や新羅とは戦っていなかったことの反映であり、倭国を大和朝廷のこととする通説が間違っていることを示している。

 この理解は妥当と思いますが、通説論者への説得力としては十分ではありません。というのも、〝国内最大規模の古墳群を造営できるのは国内最大の権力者であり、それを大和朝廷(倭国)とすることは最も有力な理解である〟という主張を否定しにくいからです。また、〝北部九州の権力者が高句麗や新羅と戦ったのは、大和朝廷の命令によりなされたもの〟という通説も簡単には揺らぎません。
 西都原古墳群にも同様の解釈により、日向地方の勢力は参戦していなかったので巨大古墳群造営が可能だったという説明ができないこともないのですが、次のような問題があります。

(ⅰ)倭王武の上表文によれば、倭国の領域は九州全域が含まれていると考えられ、その中で西都原だけが巨大古墳造営が許された理由が不明である。
(ⅱ)日向の勢力が参戦しなかった理由を説明できない。
(ⅲ)西都原古墳群に次いで隣国の大隅にも唐仁古墳群が登場するが、南九州での巨大古墳造営の背景について説明できていない。

 このような〝なぜ西都原の巨大古墳が「倭の五王」の時代(五世紀)に登場したのか〟という疑問に、わたしたち古田学派は説得力ある説明に成功していません。(つづく)