2022年08月05日一覧

第2801話 2022/08/05

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (11)

 表記テーマは、「洛中洛外日記」2660話(2022/01/13)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (10)〟以来です。当研究をサボっていたわけではなく、『旧唐書』地理志に見える里程記事の理解が難しく、筆が進まなかったことによります。たとえば、実測距離計算が比較的可能なケースでも、下記のように一里の長さがバラバラで、この基本問題の解決が難しかったのです。

○京師⇒河南府(洛陽) 「在西京(長安)東八百五十里」 327km〔1里385m〕
○京師⇒卞州 「在京師東一千三百五十里」 497km〔1里368m〕
○東都⇒卞州 「東都四百一里」 170km〔1里424m〕
○京師⇒徐州 「在京師東二千六百里」 757km〔1里291m〕
○東都⇒徐州 「至東都一千二百五十七里」 435km〔1里346m〕

 このなかで、より安定した実測値が出せるのが京師・河南府(洛陽)間でした。唐が京師(長安)と東都(洛陽)の東西二京制を採用していたこともあり、両都間の距離を記した「在西京(長安)東八百五十里」の記事は信頼性が高いことと、その陸路が黄河南岸にほぼ沿ったルートであり、地図上の実測値と実際の道行き距離が大きくは異ならないと判断できるからです。この理解を補強する地理志の次の里程記事もあります。

○京師⇒華州 「在京師東一百八十里、去東都六百七十里」

 華州は京師(長安)と東都(洛陽)の間にあり、京師までの180里と東都までの670里の合計がちょうど850里です。
 そして、長安・洛陽間は水路として黄河も使用できますので、その南岸を通る陸路が大きく迂回したり、両京間が不必要なじくざぐ行程になっていたとは考えにくいのです。それこそ、東西の都を最短距離の軍用道路で繋いだとしても不思議ではありません。こうした理解から、地理志の里程記事が一里530mや560mで書かれているとは、わたしには考えられないのです。両京間は地図上では約327kmですが、もし一里を530mや560mとすれば、その距離は450.5kmと476kmになり、実測値と大きくかけ離れてしまいます。
 しかしながら、唐代の一里についての先行研究においては、約320m(注①)から約560m(注②)までの諸説があり、当問題がそれほど簡単には解決できないこともわかってきました。このように悩み抜いた末、ようやく問題の所在と解決の糸口が見えてきましたので、本テーマを再開することにしました。まだ研究途上ですが、わたしの理解したところを紹介することにします。(つづく)

(注)
①『中国古典文学大系 22 大唐西域記』(平凡社 1971)補注の〝『西域記』の「一里」の長さ〟(416頁)に、「里数を計る基礎となる唐尺の現存するものは多数あるが、その長さには小差があり、従って一定の公認された数値としては今日なさそうである。その大略について言えば、唐代には大小二種の尺度がある(日本の曲尺と鯨尺のもと)。」として、唐代の一里を320m、441m、453m、454mとする説があることを紹介している。
②『中国古典文学大系 57 明末清初政治評論集』(平凡社 1982)巻末の「中国歴代度量衡基準単位表」には、「唐・五代」での一里は559.80mとある。