「 多利思北孤 」一覧

第2142話 2020/04/25

古代の感染症と九州年号「金光」

 「洛中洛外日記」2136話〝厄除けで多利思北孤を祀った大和朝廷〟において、天平年間の感染症(天然痘)の流行により大和朝廷が厄除けのために、九州王朝の天子・多利思北孤を法隆寺で祀ったとする拙論を紹介しました。九州王朝でも感染症の流行に対して厄除けのために九州年号を改元したことがわかってきました。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も『古田史学会報』No.157(2020.04.13)掲載の〝「壹」から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3〟で、金光元年(570)に熱病が蔓延するという国難にあたり、邪気を祓うことを願って九州王朝が「四寅剣」(福岡市元岡古墳出土)を作刀したことが述べられています。
 わたしも「洛中洛外日記」848話(2015/01/03)〝金光元年(570)の「天下熱病」〟で『王代記』金光元年条の次の記事を紹介しました。

 「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」『王代記』(大永四年(1524)写本、『甲斐戦国史料叢書 第二冊』収録)

 『善光寺縁起』に同様の記事があり、『王代記』の記事はその「要約」であることがわかりました。概要は、天下に熱病が流行ったのは百済から送られてきた仏像(如来像)が原因とする仏教反対派の物部遠許志(もののべのおこし)が、鋳物師に命じてその仏像を七日七晩にわたり鋳潰そうとしたが全く損なわれることはなかった、というものです。その後、仏像は難波の堀江に捨てられるという話が『善光寺縁起』では続きます。なお、金光元年(570)に相当する『日本書紀』欽明紀にはこの事件は記されていません。
 正木説によれば福岡市元岡遺跡から出土した「大歳庚寅」銘鉄剣は国家的危機に際して作られた「四寅剣」とされ、この「庚寅」の年こそ金光元年(570)に相当するとされました。詳しくは正木裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」、古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(『古田史学会報』107号、2011年12月)をご参照下さい。
 百済からの如来像もたまたま金光元年に近畿にもたらされたのではなく、「天下熱病」の平癒祈願のため九州王朝を介して送られたものではないでしょうか。にもかかわらず、それを鋳潰そうとしたり、難波の堀江に捨てたものですから、九州王朝と河内の物部は対立し、後に「蘇我・物部戦争」等により、物部は九州王朝に攻め滅ぼされたのではないでしょうか。その後、河内や難波を直轄支配領域とした九州王朝は、上町台地に天王寺や前期難波宮・難波京を造営したとわたしは考えています。


第2136話 2020/04/17

厄除けで多利思北孤を祀った大和朝廷

 勤務先の玄関ホール受付に厄除けの神札が貼ってあることに気づきました。京都市南区にある吉祥院天満宮の神札で、「三密除 新型コロナウィルス 禍退散守護」「吉祥院天満宮」「朱雀天皇承平四年菅神勧請…」などと書かれています。企業としては社員の生命・健康が心配ですし、社内で感染者を出したら操業停止の社会的圧力も受けますから、〝神札にもすがる〟気持ちはよくわかります。
 わたしは厄除けの神札が吉祥院天満宮のものであることに興味を持ちました。もちろん御祭神は菅原道真公ですが、九州王朝説の視点ではそれに先立つ「天神」信仰があり、その「天神」とは九州王朝の祖先神である天照大神(アマテラス)たちのことです。ですから「天神」様に病疫退散を願うのは、おそらく古代からの風習だったように思います。
 古代日本にも度々伝染病が流行したことが諸史料に見えます。著名なものでは聖武天皇の時代、天平年間に王朝中枢が九州方面から流行した天然痘の脅威に曝されたことが『続日本紀』に見えます。天平七年(735)八月、大宰府管内で疫病が発生し、九月に新田部親王が、十一月には舎人親王が相次いで薨去します。「この年、天下に豌痘瘡(天然痘)流行」と『続日本紀』に記されています。しかし感染は止まらず、天平九年(737)には、藤原房前(四月)、藤原麻呂・藤原武麻呂(七月)、藤原宇合(八月)と政権中枢の藤原氏一族が次々と病没しています。
 この最中、天平八年(736)二月二二日に天皇家(光明皇后ら)は法隆寺で大規模な法会を開催し、釈迦三尊像に多くの奉納品を施入しています(『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』による)。この法会・施入が「二月二二日」であることにわたしは注目し、「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」(『古代に真実を求めて』15集、2012年)を発表しました。この「二月二二日」は釈迦三尊像の光背銘に記された九州王朝の天子、上宮法皇(阿毎多利思北孤)の命日であり、いわゆる近畿天皇家の「聖徳太子」の命日(二月五日、『日本書紀』推古紀)ではありません。
 『日本書紀』が成立した養老四年(720)からわずか十六年後に行われた法会の時に、大和朝廷の皇后や官僚たちが、自らが編纂した『日本書紀』に記された「聖徳太子」の命日を知らなかったとは考えられませんし、何よりも大宝元年(701)に「王朝交替」した近畿天皇家にとって前王朝(倭国・九州王朝)の天子(多利思北孤)を象(かたど)った釈迦三尊像や和銅年間に移築した法隆寺が九州王朝の寺院であったことを忘れ去っていたはずはありません。こうした理由から、近畿天皇家は九州地方から発生した天然痘の流行を前王朝の祟(たた)りと考え、その前王朝の寺院(法隆寺)で大規模な法会を多利思北孤の命日「二月二二日」に開催したものであり、従って法隆寺は「九州王朝鎮魂の寺」であったとする仮説を拙論で発表しました。
 同論文は小論ではありますが、わたしとしては自信作の一つです。吉祥院天満宮の「神札」を見て、この論文のことを思い出しました。一日も早く新型コロナウィルスの流行が終わり、「関西例会」などの活動が再開できることを祈っています。


第2115話 2020/03/20

湯岡碑文の「我」と「聊」の論理

 「洛中洛外日記」2112話(2020/03/16)〝蘇我氏研究の予察(2)〟において、「伊予温湯碑文」(「伊予湯岡碑文」)の次の冒頭記事にある三名の称号・名前(法王大王、恵忩法師、葛城臣)の他に、「我法王大王」(わが法王大王)の「我」(わが)という、本碑文の作成人物の存在が記されていると説明しました。

 「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」(『釈日本紀』所引『伊予国風土記』逸文)。

 読者の方から、「我法王大王」の「我」は、「わが君」のような慣習的な呼称(用法)であり、「我」を4人目の特定の人物と考えなくてもよいのではないかというご意見が届きました。この見解には根拠があり、もっともな疑問で、わたしも理解できます。しかしながら、この「我」を碑文の作成人物とする中小路駿逸先生(故人、追手門学院大学教授)の説をわたしは支持しています。良い機会ですので、その中小路説について説明します。
 中小路先生は論文「湯岡碑文と赤人の歌について」(『愛文』第二七号、1992年)で、次の理由により同碑文の「我」を碑文作成者とされました。

①碑文は序文と本文からなっている。
②序文は「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」であり、この碑文作成に至る事情が述べられている。
③「惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。(中略)後之君子、幸無蚩咲也。」が本文に当たる。
④この二つの部分の関係を示すのが「聊作碑文一首」の「聊」(いささか)の一字である。
⑤当碑文以前の先行例(『詩経』『楚辞』『文選』)によれば、「聊」なる語が、常に、その文における「われ」、すなわち第一人称の人物の、動作・状態を修飾するのに用いられており、第二人称・第三人称の人物の動作・状態について用いられた例を見いだしえない。
⑥当碑文の作者も先行例の用法に従ったものと考えるのが妥当である。

 こうした論理展開により、次のように結論づけられています。

⑦ゆえに、「聊作碑文一首」は「われは、いささか(しばらく、ひとまず)以下の(あるいは、この)碑文を作る」の意ととるほかなく、この場合「碑文」とは少なくとも「惟夫」から「蚩咲」までを含むがゆえに、その部分は「われ」が作ったのであり、また「その部分を『われ』が作る(作った)」という文辞を含む「序」を書いたのは、その「われ」以外ではありえないがゆえに、当碑はその「序」も「本文」も、同一の一人物の作である。

 このように中小路先生は指摘され、碑文に見える「法王大王」は「聖徳太子]ではなく、古田先生と同じく九州王朝の「大王」とされました。この中小路先生の、碑文中の「我」は碑文の作成者とする説をわたしは支持しています。


第2113話 2020/03/17

蘇我氏研究の予察(3)

 蘇我氏と「葛城」に深い関係があるように『日本書紀』が編纂されたのは、九州王朝の天子、多利思北孤の事績を「聖徳太子」記事として転用し、同時に多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も「蘇我氏」記事に転用するためではなかったかと、わたしは予察しているのですが、その根拠として次の論理性と史料状況があげられます。

①『日本書紀』編者は、九州王朝の天子、阿毎多利思北孤やその太子、利歌彌多弗利の事績を『日本書紀』に転用する際、同時代の近畿天皇家内の人物「聖徳太子」(厩戸皇子)に〝横滑り〟させている。
②従って、多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も、同事態の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」に〝横滑り〟させていると考えられる。
③そのことを支持するように、蘇我氏と「葛城」とを関連付ける記事(蘇我馬子が葛城県を祖先の地として永久所有権を推古天皇に要請し、拒否される)が「聖徳太子」の時代、推古紀(32年条、624年)に現れている。
④この理解が正しければ、推古紀32年条の「葛城県、永久所有権申請」記事も、本来は九州王朝の天子、多利思北孤にその重臣「葛城臣」が北部九州の「葛城県」の「永久所有権」を「申請」した記事の転用と考えることができる。
⑤この考えを支持するかのように、「聖徳太子」の伝記『聖徳太子伝暦』推古天皇二十九年条の「葛城寺」注文に「蘇我葛木臣」と、近畿天皇家の「蘇我氏」と「葛木臣」を習合させた表記が見える。

 以上の予察(論証)によるならば、『日本書紀』の七世紀前半頃の「蘇我氏」関連記事には九州王朝・多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績転用部分と本来の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」の事績部分が混在していることになるので、それらを分別する学問的方法論の確立が必要となります。(つづく)


第1910話 2019/05/30

「日出ずる国」の天子と大統領(2)

 トランプ大統領が言われた「日出ずる国」の出典は『隋書』イ妥国伝に記された九州王朝の天子、多利思北孤の国書の次の記事です。

 「其國書曰、日出處天子、致書日沒處天子、無恙、云云。」
【読み下し文】その国書に曰く、「日出ずる處の天子、日沒する處の天子に書を致す。恙(つつが)無きや。云云。」。

 多利思北孤自らの国書の文面ですから、当時の倭国は「日出ずる處」にあると倭国側が認識していたことを示しているのですが、実はそれほど簡単な問題ではないと古田先生は考えておられました。というのも、倭国(九州島や日本列島)から太陽は昇らず、はるか東の太平洋の向こう側から昇ることは倭人であれば周知の事実ですから、ここでいう「日出ずる處」は九州島や日本列島のことではないのではないかと古田先生は考えておられました。
 『三国志』倭人伝によれば、倭人は東南へ「船行一年」(一倍年歴の半年に相当)で中南米にあった「裸国」「黒歯国」に行っていたことが記されており、太陽は「裸国」「黒歯国」の東から昇ることを倭人は知っていたはずです。従って、多利思北孤が自らの国を「日出ずる處」と言うとき、その領域は太平洋の東にある〝太陽が昇る処の「裸国」「黒歯国」〟をも含む広大なものと認識していたはずと古田先生はされました。
 そのように考えると、『隋書』に見えるイ妥国の領域を表した次の記事の意味が変わるかもしれません。

 「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。」
【読み下し文】其の國境は東西五月行、南北三月行で各海に至る。

 この「東西五月行」が日本列島から中南米の「裸国」「黒歯国」へ向かう際の所用月数かもしれません。
 今回、紹介した古田先生の考えが正しければ、トランプ大統領のアメリカ合衆国を含む北米・中南米こそが九州王朝・多利思北孤にとっての「日出ずる国」ということになりそうですが、いかがでしょうか。


第1909話 2019/05/29

「日出ずる国」の天子と大統領(1)

 アメリカ合衆国のトランプ大統領が来日され、そのスピーチで万葉集や万葉歌人、そして「日出ずる国」などの日本古代史ではお馴染みの言葉を使われました。外交交渉においても、それぞれの国のトップが互いの国の歴史や文化を尊重することは大切と改めて思いました(仮にリップサービスであったとしても)。
 この「日出ずる国」の出典は『隋書』イ妥国(たいこく)伝の次の文章です。※この「イ妥」は「大委」(たいゐ)の一字表記。

 「其國書曰、日出處天子、致書日沒處天子、無恙、云云。」
【読み下し文】その国書に曰く、「日出ずる處の天子、日沒する處の天子に書を致す。恙(つつが)無きや。云云。」。

 大和朝廷一元史観による通説や歴史教科書では、聖徳太子による倭国(日本)と隋国(中国)との対等外交を著した国書とされています。現在、中国との「貿易戦争」を戦っているトランプ大統領が、古代日本の中国への対等外交の際に用いられた国書の意味や背景を理解した上で、「日出ずる国」という言葉を用いたとすれば、かなり意味深長です。
この国書をもらった隋の皇帝(煬帝)は気分を害したらしく、次のような文が続きます。

 「帝覽之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
【読み下し文】帝、これを覧(み)て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く「蠻夷の書に無禮あり。復(ま)た以て聞くなかれ。」と。

 中華思想により世界に天子は自分一人でなければならないと煬帝は思っていますから、「日出ずる處の天子」などと名乗る国書に激怒するのはよくわかります。
 古田説(九州王朝説)では、この「日出ずる處の天子」は聖徳太子ではなく九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤のことで、その国には阿蘇山が噴火していると『隋書』には記されています。この『隋書』の記述はどう控えめに読んでも大和の聖徳太子や推古天皇のことではありません。何よりも「阿毎の多利思北孤」という名前の天皇は近畿天皇家にはいません。ちなみに、多利思北孤の奥さんの名前は「キミ」、太子は「利歌彌多弗利」と記されています。もちろんこのような名前の妻や子供を持つ天皇は近畿天皇家にはいません。
 阿蘇山の噴火を隋使は見ており、その情景が次のように記されています。

 「有阿蘇山、其石無故火起接天者」
【読み下し文】阿蘇山あり。その石、故無くして火を起こし、天に接す。

 この表現は実際に阿蘇山の噴火を見ていなければ書けないリアルなものです。そしてこのイ妥国には昔「卑彌呼」が女王として君臨したことも記されています。

 「有女子、名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立爲王。」
【読み下し文】女子あり、名は卑彌呼。鬼道を以て能(よ)く衆を惑わす。ここに於いて國の人、共立して王と爲す。

 このように『隋書』の一連の記事は、イ妥国を女王卑彌呼(『三国志』倭人伝の邪馬壹国。博多湾岸にあった倭国の中心国)の時代から続いた、阿蘇山がある九州の国であると述べているのです。普通に文章読解力や土地勘のある日本人なら、そのようにしか読めないでしょう。ところが日本の古代史学界ではこの記事が「大和朝廷(奈良県)」の記事に見えてしまうというのですから、一元史観の宿痾は深刻です。(つづく)


第1895話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(4)

 日野さんへの返答の2回目を転載します。

2019.05.10【日野さんへの返答②】
 九州王朝(倭国)が摂津難波の支配権を有していた時期について、7世紀初頭とする史料があることから、それ以前に九州王朝は難波に進出していたと、わたしは考えていました。その史料とは「九州年号群」史料として最も成立が早く、信頼性が高いとされている『二中歴』所収「年代歴」の次の記事でした。

 「倭京二年 難波天王寺聖徳造」 ※倭京二年は619年。

 「倭京」は7世紀前半(618〜622年)の九州年号です。ちょうど多利思北孤の晩年に相当する期間です。『隋書』に見える九州王朝の天子、多利思北孤(上宮法皇)は倭京五年(622年、「法興32年」法隆寺釈迦三尊像光背銘による)に没し、翌623年に九州年号は「仁王元年」と改元されています。
 この「難波天王寺」とは現「四天王寺」のことで、創建当時は「天王寺」と呼ばれていたようです。四天王寺のことを「天王寺」と記す中近世史料は少なからず存在しますし、当地から「天王寺」銘を持つ軒瓦も出土しています。
 また、『日本書紀』には四天王寺の創建を六世紀末(推古元年、593年)と記されていますが、大阪歴博の考古学者による同笵瓦の編年研究から、四天王寺の創建を620〜630年頃とされており、『日本書紀』の記述よりも『二中歴』の「倭京二年」(619年)が正しかったことも判明しています。こうしたことから、『二中歴』のこの記事の信頼性は高まりました。
 以上の考察から、九州王朝(倭国)は7世紀初頭には摂津難波に巨大寺院を建立することができるほどの勢力であったことがわかります。しかし、その難波支配がいつ頃から始まったのかは不明でした。(つづく)


第1892話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(1)

 FaceBookと「洛中洛外日記」で連載した「京都市域(北山背)の古代寺院」を読んだ日野智貴さん(古田史学の会・会員、奈良市)からFaceBookにコメントが寄せられ、問答が続きました。
 日野さんは奈良大学の学生さんで国史を専攻する古田学派内でも気鋭の若手研究者です。今回、寄せられた質問やわたしの見解への鋭い疑問の提起など、学問としてもハイレベルで深い洞察力に裏付けられたものでした。その二人のやりとりを「河内戦争」問答と銘打って「洛中洛外日記」でご披露することにしました。もちろん日野さんの了承もいただいています。
 まずは発端となった日野さんからの質問とわたしの返答の序盤戦を転載します。

2019.05.09【日野さんからの質問】
 一応、「この時代は九州王朝(倭国)の時代で、この地に近畿天皇家の支配が及んでいたとは考えられません。」という部分については、古田学派でも統一見解とは言えないと思います。近畿天皇家の勢力範囲については、初期からずっと議論があり今でも決着を見ていないと思います。
 大和と山城の境界が確定したのは恐らく多利思北孤の時代である(それ以前には山背の一部が大和に編入されていた可能性も否定できない)わけですし。

2019.05.10【古賀の返答】
 日野さん、コメントありがとうございます。
 冨川ケイ子さんの論文「河内戦争」において、タリシホコの九州王朝が摂津・河内を制圧する前の当地の権力者は関西八国の支配者であり、それは近畿天皇家の勢力でもないとされています。わたしは冨川説は有力と考えており、それであれば山城国が近畿天皇家の影響下となるのは七世紀第四四半頃と考えています。壬申の乱以降ではないでしょうか。
 河内戦争の勝利後に九州王朝は全国を66国に分国したものと思いますが、いかがでしょうか。
(つづく)


第1875話 2019/04/14

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(7)

 『法隆寺縁起』に記された献納品に付記された「丈六分」や「佛分」について、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)から貴重なご意見をいただきました。それは次のような内容でした。

① 「丈六分」とあるからには、高さが丈六の佛像と考えるべきで、釈迦三尊像では寸法があわない。丈六佛が当時は存在していたのではないか。
② 経典に釈迦のことを「佛」と記す例は多く、「佛分」とあるのが釈迦三尊像を指すのではないか。
③ 光明皇后による「二月廿二日」の施入の目的や法隆寺の性格は古賀説(多利思北孤鎮魂の寺)でよい。

 この加藤さんのご意見は有力で、わたしも同様の可能性について考えました。しかし『法隆寺縁起』の他、当時の史料から法隆寺に丈六佛があったとする痕跡が見つからないことと、伝染病(天然痘)の猛威という国家的災難に対して、「二月廿二日」に施入していることから、法興32年(622)「二月廿二日」に崩御した上宮法皇をモデルとした「等身佛(尺寸の王身)」との銘文を持つ釈迦三尊像こそ施入対象の冒頭に記された「丈六分」と解さざるを得ないと考えたからです。
 そこで問題となるのが、加藤さんも指摘されたように「丈六」という仏像の高さを示す表記をどのように考えるのかということでした。当初、わたしは「丈六」というのは釈迦の身長を意味し、「丈六」という言葉そのものに「釈迦像」という意味を有していたと考えました。ところが、正木さんから釈迦三尊像は「丈六佛」ではなく「等身佛」であるとのご指摘を受けて深く考え、改めて調査したところ、同釈迦像は「周半丈六佛」であることに気づきました。
 佛像の大きさの基準として、仏典に見える釈迦の身長「丈六」(1丈6尺:約4.8m、座像の場合は約2.4m)と同じ佛像は丈六佛と呼ばれ、その半分の高さの佛像は「半丈六」とされます。更にその4分の3の尺度である「周尺」に基づいた佛像を「周丈六」(1丈6尺:約3.6m、座像の場合は約1.8m)と呼ばれ、その半分の「周半丈六」の座像は約0.9mとなります。法隆寺釈迦三尊像の釈迦像の身長(座像高)は0.875mですから、ほぼ一致します。ですから、この「周半丈六」を「丈六」と当時の法隆寺では呼ばれていたのではないでしょうか。
 以上のようにわたしは考えていますが、この場合、「周半丈六」という言葉や概念が7世紀前半頃に存在していたことを証明しなければなりませんが、今のところ史料根拠を発見できていません。ですから、このわたしの仮説は不安定なものです。先の加藤さんのご意見とどちらが良いのか、あるいはもっと優れた仮説があるのかを考えたいと思います。なお、同釈迦像を「周丈六像」とする見解を山田春廣さん(古田史学の会・会員)が同氏のホームページ「sanmaoの暦歴徒然草」(2019.04.12)で詳しく発表しておられましたので、意を強くしました。(つづく)


第1870話 2019/04/06

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(6)

 釈迦三尊像は上宮法皇をモデルとした「等身仏」ではないかとの正木さんからの指摘に答える前に、なぜわたしは『法隆寺縁起』に記された「丈六」を釈迦三尊像のことと理解したのかについて説明します。
 『法隆寺縁起』に記されたほとんどの献納品は、たとえば「丈六分」の他には「佛分」「薬師佛分」「弥勒佛分」「観世音菩薩分」「法分」「聖僧分」「塔分」「通分」などのように何に対しての施入かが記されています。そしてその順番を見ると、「丈六分」は先頭に記されています。たとえば次のようです(「丈六分」そのものが含まれていない施入例もあります)。

 「(前略)
  合香鑪壹拾具
   丈六分白銅単鑪壹口
  佛分参具
  彌勒佛分白銅壹具
 法分白銅弐具
   塔分赤銅壹具
   通分白銅弐具
 (中略)
 右天平八年歳次丙子二月廿二日納賜平城
 宮皇后宮者」

このように天平八年二月二十二日に光明皇后らから施入された献納品の筆頭の多くは「丈六分」とされており、この「丈六」を「二月廿二日」に没したことが記された唯一の仏像である釈迦三尊像と理解する他ないのです。『法隆寺縁起』には「薬師佛分」「彌勒佛分」「観世音菩薩分」とかの仏像は見えるのですが、釈迦三尊像を示す「釈迦分」という表記がないことも、「丈六」を釈迦三尊像のこととするわたしの理解を支持しています。
 『法隆寺縁起』の最初の方には当時の法隆寺にあった仏像について「合佛像弐拾壹具」とあり、その二十一体の仏像について記されています。最初の一体は「金埿銅薬師像壹具」でこれは光背銘を持つ有名な薬師如来像です。二番目に釈迦三造像が「金埿洞(ママ)釈迦像壹具」とあり、それ以外に光明皇后が「丈六分」として「二月廿二日」に大量の施入をするような発願者名などが特筆された仏像は見当たりません。こうした理由から、わたしは「丈六」を釈迦三尊像と理解しました。この二十一体の他にも献納された諸仏像が記されていますが、やはり「丈六」に相応しい仏像の記録はありません。
 他方、これは正木さんから教えていただいたのですが、法隆寺の西円堂には文字通りの丈六(座像で像高246.3cm)の薬師如来像が安置されています。寺伝では養老二年(718)に光明皇后の母、橘夫人の発願により行基が建立したとされていますが、仏像史研究によればこの薬師如来像は八世紀後半頃のものとされていますから、光明皇后らが施入した天平八年(736)の頃には西円堂の薬師如来像はまだ存在していなかったと思われます。
 更に『法隆寺縁起』には、養老六年(722)にも「平城宮御宇天皇(元正天皇)」による「丈六分」とする施入記事があることから、やはりこの「丈六」を八世紀後半頃と編年されている西円堂の薬師如来像とすることは困難と思われます。もし養老二年頃に西円堂が建立され、本尊の薬師如来像が安置されたのであれば、そのこと自体が『法隆寺縁起』に記されるはずですが、そのような記事は見えません。
 なお付言すれば、同薬師如来像の編年が八世紀初頭頃まで遡るとなれば、「丈六」の有力候補となります。この点、仏像史研究を調べてみたいと思います。(つづく)