東北王朝(蝦夷国)一覧

第3548話 2025/11/08

多元史観で見える蝦夷国の真実 (4)

  ―都加留は蝦夷国の拠点か―

 なぜ小領域の都加留(津軽)が、広領域の麁蝦夷(あらえみし)・熟蝦夷(にきえみし)と肩を並べて唐の天子に紹介されたのでしょうか。しかも三種の蝦夷の冒頭に紹介されています。紹介する側(倭国の使者)の立場からすれば、使者に同行し、「毎歳本國の朝に入貢」している熟蝦夷から紹介するのが当然のように思われますが、最も遠方で小領域の都加留を最初にするのは不自然ではないでしょうか。更に言えば、国名(領域名か)表記に使用された漢字にも〝格差〟が見えます。

 都加留の場合、一字一音表記であり、どちらかといえば「都」のように好ましい漢字が使用されています。比べて、麁蝦夷・熟蝦夷の場合は「蝦」や「夷」のように貶めた漢字です。また、蝦夷は三種あると紹介しているのに、都加留には蝦夷という表記が付けられていません。三種が同等であれば、せめて「都加留蝦夷」と表記すべき所でしょう。

 もしかすると、都加留には蝦夷国全体を代表(象徴)するような「都」があったのでしょうか。九州王朝(倭国)や大和朝廷(日本国)からの侵略に備えて、本州で最も遠い都加留に蝦夷国の拠点を置いたとしても不思議ではないように思いますが、これは思いつきに過ぎませんので今後の検討課題です。(つづく)

〖写真説明〗津軽の十三湖。遠くに岩木山が見える。大和朝廷による蝦夷国侵攻図。


第3547話 2025/11/06

多元史観で見える蝦夷国の真実 (3)

   ―三種の蝦夷の不思議―

 七世紀の蝦夷国研究を著しく難しくしている理由の一つに、史料の少なさがあります。古代日本列島に実在していたことは疑うべくもないのですが、そのほとんどが『日本書紀』であるため、大和朝廷にとって都合の良い記述になっていると思われ、その実態を正確に知ることが難しいのです。その点、九州王朝(倭国)の場合は存在そのものが『日本書紀』には記されていませんが(隠されている)、幸いなことに隣国の歴代中国史書に倭人伝や倭国伝として九州王朝のことが記述されており、古田武彦先生の九州王朝説提唱以来、九州王朝研究は大きく進んできました。

 他方、大和朝廷は蝦夷国の存在を隠すことなく自らの史書に記しているのですが、これは701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代後、日本国と蝦夷国は二百年以上も激しく戦ってきたため、隠そうにも隠せなかったからでしょう。ですから、七世紀(九州王朝時代)の蝦夷国研究はどうしても『日本書紀』に頼らざるを得ません。その『日本書紀』には注目すべき蝦夷国記事が見えます。斉明五年(659)七月条の「伊吉連博德書」の次の記事です。

 「天子問いて曰く、蝦夷は幾種ぞ。使人謹しみて答ふ、類(たぐい)三種有り。遠くは都加留(つかる)と名づけ、次は麁蝦夷(あらえみし)、近くは熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今、此(これ)は熟蝦夷。毎歳本國の朝に入貢す。」

 倭国の使者が唐の天子の質問に、蝦夷国には都加留と麁蝦夷と熟蝦夷の三種類があると答えています。遠くの都加留とは今の津軽地方(青森県)のことと思われます。熟蝦夷は太平洋側の陸奥国領域、麁蝦夷は日本海側の出羽国領域ではないでしょうか。いずれも現在の東北地方の数県にまたがる広い領域です。ところが都加留は青森県の西半分であり、三種ある蝦夷の一つにしてはアンバランスではないでしょうか。しかも都加留には「蝦夷」という表記が付いていません。言わば、狭領域でありながら、三種の蝦夷の一つとして、広領域の麁蝦夷・熟蝦夷と並べて、倭国の使者(恐らく九州王朝の使者)が唐の天子に紹介しているわけです。

 前話で紹介したように、筑紫と津軽は弥生時代から交流があったことが知られています。蝦夷国の歴史を探究する上で、〝筑紫と津軽の交流〟というテーマは重要な視点ではないかと考えていますが、その真相にはまだ至っていません。(つづく)

〔余談〕私事ですが、この「洛中洛外日記」を病院のベッドで書いています。一週間ほどで退院できそうですので、HPに掲載されるのはその後になります。病棟の七階にある部屋ですので、比叡山や大文字山(如意ヶ嶽)、左大文字など東山・北山を展望ですます。夜は南の方にライトアップされた京都タワーが見えます。

〖写真説明〗五所川方面から見た岩木山。弘前城から見た岩木山。山頂の形が異なります。


第3546話 2025/11/03

多元史観で見える蝦夷国の真実 (2)

  ―古代の津軽と筑紫の交流―

 10月25日(土)に、『東日流外三郡誌の逆襲』(古賀達也編)の版元、八幡書店が同書出版記念イベントとして、東京麹町でトークショー「壁の外に歴史はあった!」を開催しましたので、わたしも参加しました。トークメンバーはわたしと武田崇元社長・黒川柚月氏の三名。参加者からの質疑応答も活発で、夕食を兼ねた懇親会でも質問が続き、とても楽しい一日となりました。

 イベント冒頭に、わたしから『東日流外三郡誌の逆襲』の概要と30年前の津軽調査の想い出を話させていただきました。トークショーでは古代(弥生時代)に遡る津軽と筑紫の交流の痕跡として、青森県の砂沢水田遺跡を紹介し、同水田遺跡は関東の水田遺跡よりも古く、その工法が福岡県の板付水田と類似していることを紹介しました。

 砂沢遺跡は青森県弘前市にある弥生前期(2400~2300年前)の本州最北端の水田跡遺跡で、北部九州を起源とする遠賀川系土器が出土しており、九州北部の稲作農耕が日本海沿岸を経由して津軽平野へ伝播してきたことが分かりました。
さらに、青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期(2100~2000年前)の垂柳遺跡からも656面の水田跡が検出され、津軽平野には稲作をはじめとする弥生文化が受容されていた可能性が濃くなりました。このように、津軽(蝦夷国)と筑紫(九州王朝)には弥生時代から交流があったことを疑えませんが、その事情や歴史背景は未詳です。(つづく)


第3544話 2025/10/16

多元史観で見える蝦夷国の真実 (1)

 今年の7月6日(日)、久留米大学公開講座で「王朝交代前夜の倭国と日本国 ─温泉の古代史 太宰府遷都の背景─」というテーマで講演しましたが、その後半には「王朝交代前夜(七世紀第4四半期)の日本列島 —倭国・日本国・蝦夷国の三国時代—」という研究分野について解説しました。下記のような内容です。

❶ 列島の代表王朝だった倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代は701年(大宝元年)のことと古田史学では考えられてきた。本研究により、それは七世紀第4四半期の天武天皇・持統天皇により準備されてきたことが明らかになった。

❷ 藤原京時代(694年遷都)には、出土木簡によれば近畿天皇家はヤマトを「倭国」と称していることから、自らの支配領域全体は「日本国」と称していた可能性が高い。

❸ しかし、その時期でも九州年号が各地で使用されていることから、大義名分上は九州王朝が700年まで倭国の代表王朝であり続けた。→大和朝廷(日本国)の年号は大宝(701年)から。

❹ 蝦夷国の存在をクローズアップすれば、七世紀後半の日本列島は倭国・日本国・蝦夷国の三国時代とも言いうる状況にあった。

❺ 蝦夷国は倭国(九州王朝)の冊封下にあったが、701年の王朝交代により独立を目指したようだ。八世紀になると新王朝の日本国と激しく争い、十世紀まで戦闘・抵抗を続け、蝦夷国は滅んだ。

❻ これからの日本古代史研究は、多元史観に基づき、「倭国・日本国・蝦夷国の三国時代」という視点が不可欠。

 古田史学の歴史認識の基本は多元史観であり、そうであれば九州王朝(倭国)や大和朝廷(日本国)だけではなく、古代において東北地方に存在した蝦夷国もひとつの「王朝」あるいは「国家」とする、七世紀頃までの〝倭国・日本国・蝦夷国の三国時代〟という視点での研究や史料理解が必要です。この提言を、わたし自身も含めた古田学派への〝警鐘〟として、久留米大学で発表しました。(つづく)

《写真解説》
青森県東北町から発見された日本中央碑。仙台平野の遠見塚古墳と名取市の雷神山古墳。いずれも蝦夷国領域のもの。

第3539話 2025/10/06

津軽にいた阿倍比羅夫の御子孫

 弘前市立図書館では、キリシタン禁圧文書の他に、津軽藩内の神社や社司の調査記録「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」(写本)を閲覧しました。同書は安政二年(1855)に編纂されたもので、原本は弘前市の最勝院が蔵しています。そのため、弘前市立図書館にある八木橋文庫の同書写本(注①)のコピー版を閲覧しました。

 「神社微細社司由緒調書上帳」はかなり大部の史料のため、精査は無理でしたが、5時間ほどかけて二~三度目を通したところ、面白い記事が目にとまりました。それは『日本書紀』斉明紀に見える大将軍、阿倍比羅夫(あべのひらぶ)の御子孫についての記録です。弘前にある熊野神社の神主、長利(おさり)家の祖を阿倍比羅夫とする記事が「神主由緒書」の冒頭に次のように記されています。

 「神主由緒書
一神代 二津石 又、比羅賀□王より*号す。
右は阿倍比羅夫の子孫。(中略)

二二代 長利麿
(以下略)」
※古賀による訳文。□は一字不明。「*号」は偏が「号」、旁が「逓」の中の字か。

 長利家は津軽の著名な社家ですが、その祖先を阿倍比羅夫とする伝承が津軽藩による公的な調査資料に記されていることから、長利家自身がそのように自家の系譜を認識していたと考えられます。東北の蝦夷討伐で活躍し、更に北方の粛慎とも戦ったと『日本書紀』に記された阿倍比羅夫を祖先とするのですから、それは誇るべき事ではありますが、津軽には滅ぼされた側(蝦夷国)の末裔が多数住んでいるのですから、長利家は古代においては複雑な立場に置かれたのではないでしょうか。

 なお、阿倍比羅夫を祖先とする家系は他にもありますが(注②)、津軽(旧蝦夷国)にその後裔がいたことに、歴史の秘密が隠されているように思います。もしかすると、阿倍比羅夫は津軽に逃れた安日彦(あびひこ)の子孫ではないでしょうか。これからの研究課題です。(つづく)

(注)
①中村良之進(北門)書写『津軽史料』「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」。
②阿倍仲麻呂は阿倍比羅夫の子孫と伝えられている。

《写真解説》クマと戦う阿倍比羅夫。その孫と伝えられている阿倍仲麻呂。


第3525話 2025/09/03

東北地方の「山」地名〝山形〟を考える

 東北地方に濃密分布する「山神社」ですが、なぜか山形県が最も多いようでした。同県には下記の「山神社」がウィキペディアで紹介されています。

【山形県の主な山神社】
山神社 – 山形県新庄市本合海
山神社 – 山形県最上郡金山町有屋
山神社 – 山形県最上郡最上町富沢
山神社 – 山形県最上郡舟形町舟形
山神社 – 山形県最上郡真室川町及位
山神社 – 山形県最上郡鮭川村曲川
山神社 – 山形県最上郡戸沢村松坂
山神社 – 山形県最上郡最上町本城
山神社 – 山形県山形市神尾
山神社 – 山形県寒河江市田代
山神社 – 山形県村山市河島
山神社 – 山形県天童市山口
山神社 – 山形県東根市関山
山神社 – 山形県尾花沢市五十沢
山神社 – 山形県東田川郡三川町押切新田
山神社 – 山形県西村山郡朝日町杉山
山神社 – 山形県西村山郡大江町柳川
山神社 – 山形県西置賜郡白鷹町萩野

 山形県内の「山神社」をプロットした地図を見ていて、山形県・山形市の山も「山神社」と無関係ではないのではないかと考えました。そこで「山形」地名の由来を調べてみました。関係自治体ホームページなどでは、『倭名抄』(注)に見える「山方郷」(山形市の南部とされる)が地名の由来とされています。それはその通りだと思いますが、今、問題にしているのは、「山形・山方(やまかた)」の「山(やま)」の由来ですから、こうした説明だけでは不十分です。平地から見て山の方にある郷だから山方郷とする説明も見えますが、内陸部にある山形市の四方はほぼ山ですから、南側だけ「山方」と名づけられたことになる、このような説明では納得できそうにありません。

 そこで、ここからはわたしの作業仮説(思いつき)ですが、「山方(やまかた)」は「やま」の「県(あがた)」が本来の行政地名であり、その「やまあがた」が「やまがた」と呼ばれ、漢字の「山方」「山形」を当てられたのではないでしょうか。そうであれば、その地名の語幹は「やま」となり、当地はもともと「やま」と呼ばれていた領域と考えることができます。なお、この場合の「やま」は moutain のこととは限りません。

 しかしながら「山県(やまあがた)」由来説には考えなければならない問題があります。それは、「県(あがた)」は七世紀前半以前の倭国(九州王朝)の行政単位であり、古代の蝦夷国であった山形県に倭国の行政単位が採用されていたのかという問題です。引き続き、この作業仮説が成立するのか深く考えてみます。(つづく)

(注)『倭名類聚抄』の略称。『和名類聚抄』『和名抄』ともいう。同書は源順による辞典類で、平安時代中期の承平年間(931~938年)に成立。当時の地名が記されており、地名研究では基本資料として重視されている。


第3522話 2025/08/27

宮城県の日本武尊伝承を持つ神社

 「「洛中洛外日記」」3518話〝狩野英孝さんの実家「櫻田山神社」の祭神「武烈天皇」〟では宮城県北部の栗原市にある櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)のご祭神として祀られている「武烈天皇」、3520話〝大高山神社(宮城県柴田郡)の創建伝承〟では同県南部の柴田郡大河原町にある大高山神社(おおたかやまじんじゃ)のご祭神が日本武尊であることを紹介し、これらのご祭神は『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇や日本武尊に置き換えられて伝わったのかもしれないとしました。

 そうであれば、『宋書』倭国伝に見える〝東征毛人五十五國〟の範囲に宮城県(蝦夷国)が含まれている可能性もあり、宮城県内の日本武尊伝承を持つ神社をWEBで探したところ、県内各地にあることを知り、驚きました。ブログ「宮城県・日本武尊・縁の社寺・温泉」によると大高山神社をはじめとして次の神社がリストアップされています。
https://www.miyatabi.net/sonota/yamatotakeru.html

大高山神社 (宮城県大河原町) 名神大社
多賀神社 (宮城県仙台市) 延喜式内社
多賀神社 (宮城県名取市) 延喜式内社
佐倍乃神社 (宮城県名取市)
熱日高彦神社 (宮城県角田市) 延喜式内社
斗蔵神社 (宮城県角田市)
鹿嶋天足和気神社 (宮城県亘理町)
安福河伯神社 (宮城県亘理町)
鹿島神社 (宮城県丸森町)
刈田嶺神社 (宮城県蔵王町) 名神大社
遠流志別石神社 (宮城県登米市) 延喜式内社
飯野山神社 (宮城県石巻市) 延喜式内社
拝幣志神社 (宮城県石巻市) 名神大社
日高見神社 (宮城県石巻市) 延喜式内社
白鳥神社 (宮城県村田町)
白鳥神社 (宮城県柴田町)
拆石神社 (宮城県柴田町)
駒形根神社 (宮城県栗原市) 延喜式内社
敷玉早御玉神社 (宮城県大崎市) 延喜式内社

 このように宮城県内各地に、日本武尊に置き換えられた倭王武伝承の痕跡があり、九州王朝(倭国)は蝦夷国(陸奧国の太平洋側)の中枢領域と思われる仙台平野とその以北まで侵攻したことがうかがわれます。この伝承分布は前方後円墳分布にも対応しているようなので、宮城県内の日本武尊伝承は史実の反映と見たほうがよいように思われます。(つづく)


第3520話 2025/08/22

大高山神社(宮城県柴田郡)の創建伝承

 「洛中洛外日記」3519話〝東北地方に濃密分布する「山神社」〟で、宮城県栗原市の櫻田山神社のご祭神「武烈天皇」について、〝『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇に置き換えられて伝わったのかもしれませんが、さすがに宮城県北部まで倭王武が来たとは考えにくい〟としました。

 他方、『常陸国風土記』には当地を巡航する「倭武天皇」伝承が記されており、古田説ではこれを倭国(九州王朝)の倭王武の伝承が日本武尊(やまとたけるのみこと)伝承に置き換えられたものとしてきました。したがって、『宋書』倭国伝に見える〝東征毛人五十五國〟の範囲に常陸国が含まれているとわたしは考えています。しかしさすがに宮城県北部の栗原市までは遠征していないだろうと思っていました。ところが櫻田山神社の武烈天皇伝承の調査を進めるなかで、宮城県にもヤマトタケル伝承が遺っていることを知りました。たとえば、宮城県南部の柴田郡大河原町にある大高山神社(おおたかやまじんじゃ)のご祭神が日本武尊で、『ウィキペディア(Wikipedia)』には次の説明があります。

〝社伝によれば、大高山神社は敏達天皇元年(572年)に日本武尊を主祭神として創建されたという。当神社の縁起書や『安永風土記』『奥羽観蹟聞老志』(おううかんせきもんろうし)などによれば、日本武尊が蝦夷征伐のための東征の折に仮宮を立てて住んだと伝わり、その仮宮の跡地に「白鳥大明神」と称する社殿を設け、日本武尊を奉斎したという。

 また伝承によれば、崇峻天皇二年(588年)には主祭神として橘豊日尊(用明天皇)が合祀された。これは、用明天皇が橘豊日尊と呼ばれた皇子の頃、勅命により当地へやってきたことがあり、用明天皇の皇子である聖徳太子がその縁を持って大高山神社へ合祀したと伝わる。〟

同神社ホームページにも次の解説があります。以下転載します。

《大高山神社の由緒》

 人皇30代敏達天皇の元年(571年)日本武尊を祭神として創建されました。 その後、推古天皇のお守り、橘豊日尊(31代用明天皇、聖徳太子の父君)を合祀しております。

 縁起書、安永風土記、観蹟聞老志などを併せて見ることによって日本武尊が蝦夷征伐の時にこの地に仮に宮を建てて住んだので、その跡地に白鳥大明神として日本武尊を奉祭したと言われています。

 場所も新開の台の山までありましたが(ママ、台の山で か?)、元禄初期の火災焼失により、新開126番地に移し、その後大正3年に金ヶ瀬神山に移築遷座されて現在に至っております。

《御祭神について》

 日本武尊が東国ご討征の時、お宮を建ててご住居になったことがあります。そして、尊が都へ帰られた後、白鳥大明神として祀ったということであり、その後、用明天皇が、橘豊日尊と呼ばれた、皇子の頃、この地に来られたことがあったので、その子の聖徳太子がこの地のゆかりをもって大高山神社に祀ったといいます。

 このようなことで、日本武尊と用明天皇を祀る二祭神であります。
日本武尊が東国平定に向かわれたのは、紀元110年の景行天皇40年のこととされているので、その462年後の紀元572年に創建されたことになります。
また、それより30余年後の推古天皇の代において、聖徳太子が父君・用明天皇を大高山神社に合祀したことになっています。

 明治42年(1909)8月8日、従来の『日本武尊』『用明天皇』二祭神のほか、堤に鎮座した愛宕神社の祭神迦具土尊(かぐつちのみこと)と、新寺に鎮座した山神社の祭神大山祇命(おおやまつみのみこと)とを合祀しています。更に、大正3年(1914)に、新開の尾鷹から現在地に遷座する際、祭神倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、火彦霊命(ほむすびのみこと)を合祀しています。
【本祭神】
日本武尊(やまとたけるのみこと)
用明天皇(ようめいてんのう)
【合祀祭神】
迦具土命(かぐつちのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
火産霊命(ほむすびのみこと)
白山菊理媛(しらやまくくりひめ)
https://ohtakayama.org/keidai/index.html
【転載終わり】

 柴田郡大河原町は福島県から宮城県へ向かう国道4号線上にあり(注)、それは倭王武らによる蝦夷国侵攻の経由地とできることから、同社伝承を歴史事実の反映とすることもできそうです。そうであれば、宮城県北部の櫻田山神社の武烈天皇伝承も倭王武のこととする可能性をはじめから排除しない方がよいかもしれません。

 なお、ご祭神として用明天皇も祀られていますが、全国的に著名な聖徳太子ではなく、なぜそのお父さんの用明天皇を祀ったのかという興味深い問題もあります。これも九州王朝(倭国)の伝承が用明天皇や聖徳太子に置き換えられたと考えれば、社伝の「用明天皇」とは、〝日出ずる処の天子〟と自称した国書で有名な、『隋書』俀国伝に見える俀国(倭国)の天子、阿毎多利思北孤(あまのたりしほこ)のことであり、その太子、利歌彌多弗利(りかみたふり)が同社に合祀したと考えることができます。(つづく)

(注)国道4号は、東京都中央区から栃木県宇都宮市、福島県福島市、宮城県仙台市、岩手県盛岡市を経て、青森県青森市に至る一般国道で、実延長が日本一長い国道。江戸時代の五街道のひとつである日光街道や奥州街道を踏襲する道筋で、高速道路では東北自動車道、鉄道では東北新幹線や東北本線とおおむね並行する経路をとる。


第3519話 2025/08/20

東北地方に濃密分布する「山神社」

 狩野英孝(かのえいこう)さんのご実家の櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)が千五百年の歴史を持つ古社であることを知り、驚きました。福岡県出身で京都に五十年住んでいるわたしには、「山神社」という聞き慣れない名称が気になり、ネットで調べてみました。各県神社庁のホームページによれば、山神社は東北地方に濃密分布しており、中でも宮城県と山形県が最濃密地域のようでした(注①)。秋田県や岩手県にも分布が見られますが、なぜか青森県には分布を見いだすことが、今のところできていません。

 「山神社」の訓みは、「さんじんじゃ」「やまじんじゃ」「やまのかみしゃ」「やまがみしゃ」などですが、ご祭神を武烈天皇とするのは少数でした。多いのは木花咲耶姫と大山祇神のようです。現時点で見つけた武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)をご祭神とする山神社は、冒頭紹介した櫻田山神社(宮城県栗原市栗駒桜田山神下)と山神社(宮城県栗原市一迫王沢字北沢十文字)、新山神社(しんざんじんじゃ、宮城県栗原市志波姫堀口御駒堂)で、いずれも宮城県北西部の栗原市内で、限定された祭神伝承のようです。栗原市にはこの他にも多数の山神社があるのですが、それらの祭神は武烈天皇ではありません。ですから、武烈天皇に仮託された人物の伝承が、栗原市の一部の山神社に遺っていると考えることができそうです。

 また、山神社の濃密分布範囲は東海地方を除けば蝦夷国領域ですから、もしかすると山神社とは本来は蝦夷国の神様のことかも知れません。ちなみに武烈天皇伝承は、仙台藩の地史『封内風土記』(注②)には次のように記されています。

 〝伝え云う。人皇第二五代武烈天皇、故ありて本州に配せられ、久我大連・鹿野掃部祐の両人扈従す、天皇崩後の後天平山に葬り社を建てて神霊を祀り山神と称した。久我氏は連綿今(明和九年、1772年頃)に至る。皇居の地を王沢・王沢宅といい、天皇の宸影は別当修験大性院家に蔵す。〟

 ここに見える「久我大連」という人物名が歴史事実であれば、「大連(おおむらじ)」の姓(かばね)を持つことから、蝦夷国ではなく恐らくは九州王朝系の人物であり、武烈天皇の時代(498~506年)、すなわち六世紀初頭頃に九州王朝系の有力者がこの地(蝦夷国)に来たことを示す伝承なのかもしれません。もしかすると、『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇に置き換えられて伝わったのかもしれませんが、さすがに宮城県北部まで倭王武が来たとは考えにくいように思います。

 しかしながら、栗原市の入の沢遺跡の古墳時代前期(4世紀)の集落跡からは、銅鏡4面や勾玉や管玉、ガラス玉、斧などの鉄製品が出土しています。また、仙台市には遠見塚古墳(墳丘長110m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)、隣接する名取市には東北地方最大の雷神山古墳(墳丘長168m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)があります。両古墳の存在から、仙台平野や名取平野が古墳時代の東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえます。ちなみに、雷神山古墳は九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半の前方後円墳)よりも墳丘長が大きいのです。

 更に仙台市には東北地方最古の須恵器窯跡とされる大蓮寺窯跡(5世紀中頃)もあり、古墳時代から九州王朝(倭国)との交流があったことは疑えません。(つづく)

(注)
①Wikipediaには次の山神社が紹介されている。
【主な山神社(さんじんじゃ)】
釜石製鐵所山神社 – 岩手県釜石市桜木町
山神社 – 宮城県栗原市鶯沢
山神社 – 宮城県栗原市若柳川南
山神社 – 宮城県栗原市若柳上畑岡
山神社 – 宮城県栗原市一迫北沢
山神社 – 宮城県栗原市一迫清水目
櫻田山神社 – 宮城県栗原市栗駒:山神社
山神社 – 宮城県石巻市北上町十三浜大室
山神社 – 宮城県石巻市北上町十三浜小滝
山神社 – 宮城県柴田郡柴田町四日市場
山神社 – 山形県新庄市本合海
山神社 – 山形県最上郡金山町有屋
山神社 – 山形県最上郡最上町富沢
山神社 – 山形県最上郡舟形町舟形
山神社 – 山形県最上郡真室川町及位
山神社 – 山形県最上郡鮭川村曲川
山神社 – 山形県最上郡戸沢村松坂
山神社 – 徳島県吉野川市山川町皆瀬:紙漉神社
山神社 – 愛媛県松山市東野
【主な山神社(やまじんじゃ)】
山神社 – 宮城県亘理郡亘理町吉田
山神社 – 秋田県北秋田市阿仁笑内:旧郷社
山神社 – 山形県最上郡最上町本城
山神社 – 山形県山形市神尾
山神社 – 山形県寒河江市田代
山神社 – 山形県村山市河島]
山神社 – 山形県天童市山口
山神社 – 山形県東根市関山
山神社 – 山形県尾花沢市五十沢
山神社 – 山形県東田川郡三川町押切新田
山神社 – 山形県西村山郡朝日町杉山
山神社 – 山形県西村山郡大江町柳川
山神社 – 山形県西置賜郡白鷹町萩野
山神社 – 千葉県君津市笹
山神社 – 千葉県君津市日渡根
山神社 – 栃木県宇都宮市下岡本町
山神社 – 東京都多摩市桜ヶ丘
新屋山神社 – 山梨県富士吉田市新屋:山神社
山神社 – 愛知県名古屋市千種区田代町:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市中区松原:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市北区安井
山神社 – 愛知県刈谷市一里山町
山神社 – 兵庫県豊岡市日高町:式内名神大社
山神社 – 和歌山県西牟婁郡白浜町3035
山神社 – 愛媛県松山市萩原
山神社 – 長崎県南松浦郡新上五島町船崎郷
山神社 – 大分県大分市広内
【主な山神社(やまのかみしゃ)】
山神社 – 宮城県遠田郡美里町牛飼:旧郷社
山神社 – 山梨県中央市大鳥居
山神社 – 愛知県名古屋市港区知多:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市緑区大高町:旧村社
山神社 – 愛知県尾張旭市瀬戸川町
山之神社 – 愛知県半田市山ノ神町
山神社 – 愛知県半田市天王町
山神社 – 愛知県半田市岩滑東町
山ノ神社 – 愛知県知多郡武豊町山ノ神
※東海地区では小規模な神社が多い。ただし、数は多く、境内社も含めると相当数になる。
【主な山神社(やまがみしゃ)】
山神社 – 愛知県碧南市山神町
②『封内風土記』(ほうないふどき)は、日本の江戸時代に仙台藩が編纂した地誌である。1772年に完成した。仙台と領内のすべての村について、地形・人文地理に関わる事項を列挙・解説し、各郡ごとに集計し、さらに郡単位の統計事実や解説を加える。著者は仙台藩の儒学者田辺希文。全22巻で、漢文で書かれた。(Wikipediaによる)


第3518話 2025/08/19

狩野英孝さんの実家

  「櫻田山神社」の祭神「武烈天皇」

 テレビでも人気お笑い芸人として活躍している狩野英孝(かのえいこう、注①)さんのご実家が神社ということは聞いていましたが、たまたまテレビ番組でその神社は千五百年の歴史があると紹介されており、驚きました。そこでネットで調べてみると、それは宮城県栗原市にある櫻田山神社(さくらださんじんじゃ、注②)という神社で、ご祭神は『日本書紀』では非道な天皇とする武烈天皇でした。ちなみに、英孝さんは東日本大震災で被災した実家の神社を継いで神職もされているとのこと。

 ここでわたしが抱いた疑問が、❶何故、祭神が武烈天皇なのか、❷武烈天皇が当地に追放され、同天皇の側近であった鹿野掃部之祐が当地に創建したという社伝は歴史事実なのか、❸大和にいた武烈がなぜ宮城県に逃げたのか、❹そしてなぜ「山神社」と呼ばれているのかということでした。(つづく)

(注)
①Wikipediaでは次のように紹介する。
狩野英孝(かの えいこう、1982年〈昭和57年〉2月22日)は、日本のお笑いタレント、YouTuber、ミュージシャン、俳優、神職。マセキ芸能社所属。芸風はナルシシストキャラによる1人コント、クセの強い歌ネタ、リアクション芸が特徴。ミュージシャンとしては、主に『ロンドンハーツ』のドッキリ企画から誕生した50TA(フィフティーエー)として活動。第39代櫻田山神社神主。
②同上。
櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)は、宮城県栗原市栗駒桜田にある神社。正式名称は山神社(さんじんじゃ)であるが、地区名の桜田を冠した「櫻田山神社」で一般に呼ばれる。約1500年前に創建されたとされ、県内でも有数の歴史を持つ。社格は村社。仙台藩編纂の封内風土記によれば武烈天皇の崩御後の6世紀初頭(古墳時代後期)、同天皇の側近であった鹿野掃部之祐が、当地に創建したとされる。当社は、北上川水系江合川上流の二迫川南岸、栗駒山から南東に延びる舌状台地上にあり、「山神社」と呼ばれた。


第3443話 2025/03/05

唐詩に見える王朝交代の列島 (4)

 「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」

 中小路駿逸先生は、唐詩に表れる「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」に着目し、それは日本列島に複数の領域(王権)が併存していたことを表していると指摘しました(注①)。その根拠となった代表的な唐詩を『全唐詩』より紹介します。

❶《崔載華に同じて日本の聘使に贈る》劉長卿(710?~785?年)
憐君異域朝周遠 積水連天何處通
遙指來從初日外 始知更有扶桑東 →始て知る更に扶桑の東有ることを
(巻一五〇)

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
九州何處遠 萬里若乘空
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹扶桑外 主人孤島中 →郷樹扶桑の外
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

❸《日本の使の還るを送る》徐凝(生没年不詳) 九世紀初頭の詩
絶國將無外 扶桑更有東 →扶桑更に東有り
來朝逢聖日 歸去及秋風
夜泛潮回際 晨征蒼莽中
鯨波騰水府 蜃氣壯仙宮
天眷何期遠 王文久已同
相望杳不見 離恨托飛鴻
(巻四七四)

❹《日本國の僧敬龍の歸るを送る》韋莊(836~910年)
扶桑已在渺茫中 家在扶桑東更東 →家は扶桑の東の更に東に在り
此去與師誰共到 一船明月一帆風
(巻六九五)

 これらは日本国に帰る使者・僧を唐の官人が送る詩ですから、そこに見える「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」という地理情報は、日中両国の知識人の共通認識と考えられます。そして、日本国の使者が帰る領域は「扶桑」の東にあるように記され、❹《日本國の僧敬龍の歸るを送る》の場合は「家は扶桑の東の更に東に在り」とあることから、僧敬龍の家は最も東の領域にあるわけです。

 そして、「扶桑」とは「元来、それは太陽がそこから昇る木、またはその木のある場所であろう」と中小路先生はされ、『隋書』俀国伝に見える「日出づる処の天子」の国、すなわち九州王朝(倭国)のこととしました。そうすると、その東にあるのが大和朝廷(日本国)、更にその東にあるのが毛人の国(蝦夷国か、注②)となります。

 このように、唐詩に見える日本列島の姿は、西から九州王朝(扶桑)、大和朝廷(扶桑の東)、蝦夷国(扶桑の東の更に東)であり、七~九世紀(唐代)の多元的古代像に対応しているのです。(つづく)

(注)
①中小路駿逸「唐詩の日本古代史像 ―「扶桑の東」をめぐって―」『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
②『旧唐書』日本国伝に次の記事がある。
「東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」

【写真】劉長卿、王維、徐凝。


第3442話 2025/03/03

唐詩に見える王朝交代の列島 (3)

 ―扶桑(九州王朝)・扶桑の東(大和朝廷)・扶桑の東の更に東(蝦夷国か)―

古田学派に多大な影響を与えた中小路駿逸先生の唐詩研究の概要は次の通りです。

「七世紀まで、中国歴代の王朝が日本列島の中心的権力と見なし通交相手としてきたのは、九州に都する国であり、その国と、〝より東に都する〟大和朝廷の国との〝交替〟は、唐代にはいってから起こっている。――私の逢着した唐詩の例は、こういう日本古代史像を示している。」『日本文学の構造』(注①)196~197頁

具体的には、唐詩に見える「扶桑」などの詩句の分析を次のようにまとめられました(注②)。

一 「扶桑」、「若木」、「天」、「大荒」、「祖州」、「亶州」、および「蓬莱」と、さまざまなイメージを用いて、日本の地の位置および態様の大体が表現されている。

二 「蓬莱」型以外の五つにおいては、日本の地が東西二つに(唐末期には「扶桑」型において三つに)区分されている。

三 阿倍仲麻呂、空海、橘逸勢、円仁といった、畿内の地に帰ることの明らかな人々の帰着地、すなわち畿内が、日本の地のなかでも西から二つ目の、すなわち「何かの東の更に東」でなく「何かの東」の地域と、明らかに呼ばれている。

四 東海中の既知の地のさらに東に位置するものとして、〝畿内〟の地が知られるという、〝第一の変化〟が起こったのが唐代に入ってのちであること、『旧唐書』の記載に対応するこの変化が日本・唐双方の人間にとって共通の認識であったことは、劉長卿の詩句に最も端的に示されている。

五 「大山」よりもさらに東に日本国の領域がのびているという、〝第二の変化〟は、唐末ごろまでに生じていることが、韋荘の詩句に示されている。この、〝第二の変化〟は『旧唐書』にも見えず『新唐書』にもなお見えぬ事項であり、両『唐書』に用いられた史料よりものちの層に属する、より新しい知識と考えられる。

そして、次の結論に至ります。

「これらが、日本人と中国人の共通の認識として唐詩に示され、かつ中国の史書の記載と対応して矛盾しない日本像なのである。
この日本像が日本国内で八世紀以前に作られた諸書の記載内容と対応して矛盾しないことを、私はすでにいくつもの論考で述べた。」(注③)

この中小路先生が紹介する、唐詩に見える日本列島の姿は、西から九州王朝(扶桑)、大和朝廷(扶桑の東)、蝦夷国か(扶桑の東の更に東)という多元的古代像を示唆しているのです。(つづく)

(注)
①中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
②中小路駿逸「唐詩の日本古代史像・補足 ―阿倍仲麻呂・空海・橘逸勢・円仁・円載らの参与」『追手門学院大学文学部アジア文化学科年俸』一(十三)号、1998年。
③同注②