「 風土記 」一覧

九州王朝の風土記記事の一覧です。

第1715話 2018/07/29

「佐用」は「さよ」か「さよう」か

 先週、仕事で鳥取を訪問したのですが、そのとき乗った特急電車の停車駅名の訓みについての小文を「洛中洛外日記【号外】」にて配信したところ、二名の方からメールが届きました。まず配信した「洛中洛外日記【号外】」を下記に部分転載します。

古賀達也の洛中洛外日記【号外】
2018/07/27
「郡家」「智頭」の訓み
 鳥取から京都に向かう特急スーパーはくと12号の車中で書いています。(中略)途中の駅名の訓みが珍しく、車内アナウンスがなければわからない駅名がいくつもありました。たとえば「郡家」。当然、「ぐんけ」と訓むものと思っていたのですが、車内アナウンスは「こうげ」でした。何故、「こうげ」という地名に「郡家」という漢字を当てたのか気になりました。
 「智頭」も「ちとう」だろうか「ちがしら」だろうかと勘ぐっていたら、これは単純に「ちず(づ)」でした(駅のローマ字表記は“chizu”)。「ちず(づ)」とは何を意味するのでしょうか。おそらく「ち」は古い時代の神様の名前のことと思われますが、「ず(づ)」は文字通り「あたま」のことか、港を意味する「つ(津)」なのか、よくわかりません。
 「大原」駅はそのものずばり「おおはら」駅なのですが、その大原駅から見える風景は山中の狭い盆地であり、とても「大草原」のようなイメージの「大原」ではないことに疑問を抱きました。しかし、三千院で有名な京都の大原も山間の集落であり、「大草原」ではありません。従って、本来「はら(原)」という日本語は狭い領域を示す用語ではないでしょうか。その狭い「原」にしては広い所なので「大原」と呼ばれたのではないかと考えています。もしこの理解が当たっていたら、「高天原(たかまがはら)」という地名も本来は比較的小領域に対するものであったのかもしれません。
 水害被害で有名になった「佐用」駅もありました。訓みは「さよ」であって、「さよう」ではないことも今回知りました。
 佐用駅の次は「上郡」駅です。こちらは普通に「かみごおり」駅で、ちょっと安心しました。(後略。転載終わり)

 この記事を読まれた茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)より、次のメールをいただきました。貴重な情報と思われ、茂山さんのご了解を得て、転載します。

【以下。メールを転載】
古賀様
 JR命名の佐用駅は「さよ」ですが行政区分は佐用(さよう)郡佐用(さよう)町です。僕は駅名の読みが古称ではないかと思っています。播磨国風土記に遡る地名で、風土記では「讃容」です。しかし、僕はさらに古く出雲王朝時代に淵源をもつ地名ではないかと考えます。九州王朝の途中までは「吉備国」だったようです。「讃」の用字は讃岐とも関係があったのでしょうか?
 風土記では、伊和大神と競った玉津日女命が勝利ののち「賛容都比売命」と名を改めたことになっていますが、地元では「佐用姫さん」と親しまれる「佐用都姫」で、佐用都姫神社があります。創建年不詳なのは、それほど古いのだ(九州年号以前)と想像します。ですから、「佐用都姫」の方が地名のもとではないかとも考えます。
 玉津日女命が賛容都比売命に改名する説話は稲作開始の伝承のような話しです。同じモチーフの伝承が製鉄の開始にもつながるようで、佐用都姫神社の近くは精錬の遺跡が広範囲に広がっており、今でも鉄滓(のろ)が地表に転がっています。こちらは、風土記ではずっと時代が下って孝徳期の製鉄開始とされていますが・・・。 茂山
【メール転載終わり】

 「洛中洛外日記」の校正チェックしていただいている加藤健先生(古田史学の会・会員、交野市。元高校教諭)からは、「郡」を「こう」と訓む地名が交野市にもあることをお知らせいただきました。「郡津」と書いて「こうづ」と訓むそうです。こうした情報が即座にいただけることは、有り難いことと感謝しています。


第1709話 2018/07/19

「東山道十五国」の成立時期

 9月1日(土)の『発見された倭京』出版記念東京講演会(東京家政学院大学・千代田三番町キャンパス)に向けて、講演者の準備も着々と進められています。中でも、「九州王朝の古代官道」について講演される肥沼孝治さんと山田春廣さんの講演内容の目次や当日使用されるパワーポイントの画像作成状況が、両氏のブログにリアルタイムで紹介されており、その内容が面白く、ますます講演会が待ち遠しくなってきました。
 特に山田さんが講演される「東山道十五国」(『日本書紀』景行紀55年条)を九州王朝の「東山道」とするテーマは画期的な発見であり、多くの皆さんにお聴きいただきたい研究です。もちろん、まだまだ研究・検証が必要な仮説で、その「東山道十五国」記事がなぜ『日本書紀』景行紀55年条に記されているのかなど重要な課題も残されています。この点については、山田さんご自身も「『東山道十五國』の比定」(『発見された倭京』所収)の末尾で次のように述べられています。

 「また、『古事記』にはない“以彦狭嶋王、拝『東山道十五國』都督”記事がなぜ『日本書紀』景行紀にあるのかも未解明です。これらは今後の研究に委ねたいと思います。」(145頁)

 『日本書紀』景行55年の実年代をいつ頃とするかという問題もありますが、この時代に九州王朝が「東山道十五国」を制定したとするには早いような気がします。しかし、『日本書紀』編者は何らかの根拠に基づいてこの記事を景行紀に記したわけですから、頭から否定することもできません。
 他方、『常陸国風土記』冒頭には次のような記事があり、この記事を「是」とするのであれば、九州王朝「東山道十五国」の成立は7世紀中頃の評制施行時期の頃となります。

 「國郡の舊事を問ふに、古老答へていへらく、古は、相模の國足柄の岳坂より東の諸縣は、惣べて我姫(あづま)の國と称(い)ひき。(中略)其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、高向臣・中臣幡織田連等を遣はして、坂より東の國を惣領(すべをさ)めしめき。時に、我姫の道、分かれて八つ國と爲(な)り、常陸の國、其の一に居れり。」(日本古典文学大系『風土記』35頁)

 岩波の頭注によれば、「分かれて八つ國」とは、相模・武蔵・上総・下総・上野・下野・常陸・陸奥とされています。山田説によれば「東山道十五国」とは九州王朝の都、太宰府を起点として次の国々とされています。

 「豊前・長門・周防・安芸・吉備・播磨・摂津・山城・近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野」

 ですから、『常陸國風土記』の記事を信用すれば、「上野・武蔵・下野」」の成立は「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世」の7世紀中頃ですから、「東山道十五国」の成立もそれ以後となってしまいます。
 九州王朝の「東山道十五国」の成立が7世紀中頃では逆にちょっと遅いような気もしますが、景行天皇の時代とするのか孝徳天皇の時代とするのか、引き続き検討したいと思います。


第1701話 2018/06/29

『風土記』の中の利歌彌多弗利(聖徳王)

 九州年号研究の進展により、『二中歴』には見えない「聖徳(629〜634年)」という九州年号は利歌彌多弗利の「法号」とする説が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より発表されました。今のところ、この正木説が最有力とわたしは考えていますが、この正木説に立つと新たな展開が見えてきます。今回、ご紹介する『播磨風土記』に見える「聖徳王」を九州王朝の利歌彌多弗利(多利思北孤の太子)とする理解です。
 『風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)所収「播磨風土記」には次のような「聖徳王」という表記が見えます。

(印南郡)
 「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。」(265頁)
 『風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)

 有名な「石の宝殿」のことを記した記事ですが、ここに見える「聖徳王」や「弓削大連」について、岩波の頭注では次のように解説されています。

 頭注二五「推古天皇の皇太子で摂政であったから、天皇に準じていう。太子の摂政は物部守屋滅亡後で時代が前後する。伝承の年代錯誤。」(265頁)
 頭注二六「物部守屋。排仏を主張して聖徳太子に攻め滅ぼされた(五八七没)。」(265頁)

 ここでは「聖徳の王の御世」の説明として「推古天皇の皇太子で摂政であったから、天皇に準じていう」とされていますが、本当でしょうか。『播磨風土記』では時代を特定する記述方法としては次のように近畿天皇家の「○○天皇の御世」という表記が採用されています。同じ「印南郡」に見える三例を紹介します。

 「難波の高津の御宮の天皇の御世(仁徳天皇)」
 「大帯日子の天皇の御世(景行天皇)」
 「志我の高穴穂の宮に御宇しめし天皇の御世(成務天皇)」
 ※( )内は古賀による付記。

 これらと比較しても「聖徳の王の御世」という表記は異質です。いわゆる聖徳太子の摂政時代であれば推古天皇が存在するのですから、例えば「飛鳥の治田宮の天皇の御世」という表記が可能であるにもかかわらず「聖徳の王の御世」とあるのは不審です。しかも、頭注で指摘されているように、「太子の摂政は物部守屋滅亡後で時代が前後する。伝承の年代錯誤。」であり、『日本書紀』の内容と一致しません。
 ところがこの記事を多元史観・九州王朝説で解釈すれば、先の正木説に基づき「聖徳王の御世」とは九州王朝の利歌彌多弗利の時代となり、それは前代の多利思北孤崩御後の九州年号「仁王元年(623)」から恐らく「命長七年(646)」の頃を意味します。
 さらに、同記事に見える「弓削の大連」も、物部守屋とは別人となります。ですから、時代もいわゆる聖徳太子よりも後となり、「弓削の大連の造れる石」とされた「石の宝殿」も当地の有力者と思われる「弓削の大連」が造らせたものと理解すべきでしょう。
 わたしはこの「石の宝殿」がある生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問したことがあり、そのときに九州年号「白雉」が案内板の御由緒に使用されていることを知りました。そのことを「洛中洛外日記」1348話(2017/03/07)で次のように記しました。

【以下転載】
石の宝殿(生石神社)の九州年号「白雉五年」

 今日は仕事で兵庫県加古川市に行ってきました。お昼休みに時間が空きましたので、出張先近くにある石の宝殿で有名な生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問しました。どうしても行っておきたい所でしたので、短時間でしたが石の宝殿を見学しました。
 有名な史跡ですので説明の必要もないかと思いますが、同神社の案内板に書かれた御由緒によれば、御祭神は大穴牟遅と少毘古那の二神で、創建は崇神天皇の御代(97年)とのことです。
 特に興味が引かれたのが、孝徳天皇より白雉五年に社領地千石が与えられたという伝承です。この白雉五年が九州年号による伝承であれば656年のこととなります。この「白雉五年」伝承を記した出典があるはずですので、これから調査することにします。
【転載終わり】

 九州王朝が難波副都(前期難波宮)を造営した時代の白雉五年の伝承ということですから、利歌彌多弗利の次の時代です(正木説では「伊勢王」の時代)。従って『播磨国風土記』に記された「弓削の大連」も社領地千石が与えらるほどの九州王朝系の有力氏族であったと考えるべきでしょう。
 以上のように、『播磨国風土記』に見える「聖徳王」を利歌彌多弗利のこととする仮説(やや思いつき)を提起しましたが、いかがでしょうか。


第1700話 2018/06/28

『風土記』の中の九州王朝「国分(府)寺」

 九州王朝の「国府寺」建立の史料的痕跡として『聖徳太子伝記』や『日本書紀』推古2年条などを紹介してきましたが、『風土記』にもその痕跡を見いだしました。『豊後国風土記』の次の記事です。

 「風土記 豊後の国
郡は八所〔郷は四十、里は一百一十〕、驛は九所〔並に小路〕、烽は五所〔並に下国〕、寺は二所なり〔僧の寺と尼の寺なり。〕」(357頁)
頭注九「大分郡の条に見える二寺」(356頁)
 「大分の郡 郷は九所〔里は廿五〕、驛は一所、烽は一所、寺は二所なり〔一つは僧の寺、一つは尼の寺なり〕。」(367頁)
頭注二一「箋釈は天平十三年の勅命による国分寺及び国分尼寺としているが恐らくは不可。国分寺以前のものであろう。肥前風土記の寺の記載(三九一頁頭注一三)参照。」(367頁)
 『豊後国風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)※〔 〕内は小文字。

 豊後国国府のあった大分郡に僧寺と尼寺の存在が記されています。『風土記』成立時の8世紀前半頃ですから豊後国に寺院が二つしかないということはありえません。ですから、国府にあるこの二つの寺は豊後国を代表する寺院と考えざるをえません。従って、九州王朝による多元的「国分寺」説に立てば、豊後国の「国分寺(国府寺)」と「国分尼寺(国府尼寺)」の可能性が高いと思われます。「頭注二一」でも「(聖武天皇による)国分寺以前のものであろう」としています。
 同様の例が次の『肥前国風土記』にも見えます。

 「肥前の国
 郡は二十一所〔郷は七十、里は一百八十七〕、驛は一十八所〔小路〕、烽は二十所〔下国〕、城は一所、寺は二所〔僧の寺なり〕。」(379頁)
 「神埼の郡 郷は九所〔里は廿六〕、驛は一所、烽は一所、寺は一所〔僧の寺〕なり。」(389頁)
頭注七「背振山霊仙寺に擬している。」(388頁)
 「佐嘉の郡 郷は六所〔里は一十九〕、驛は一所、寺は一所なり。」(391頁)
頭注一三「佐嘉駅(延喜式・和名抄)。佐賀市の北方、大和村尼寺の東方の国分附近が肥前国府の遺蹟地で、駅も同地にあったのであろう。」(391頁)
頭注一四「巻首の注によれば、これも僧寺であり、『僧寺』と注書のあるべきところである。大和村尼寺真島の国分寺趾にあった寺であろう。国分寺と称せられる以前の寺である。」(391頁)
 『肥前国風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)

 肥前国府があった佐嘉郡に「僧寺」があったと記されており、地名には「大和村尼寺」と「尼寺」があった痕跡も見え、豊後国府と同様に肥前国府にも「国分寺(国府寺)」と「国分尼寺(国府尼寺)」があったと思われます。ここでも「頭注一四」では「国分寺と称せられる以前の寺である」と解説されており、7世紀以前に遡る九州王朝時代の寺院と考えざるを得ません。
 これら九州島内の二つの現存『風土記』に見える「国分寺(国府寺)」「国分尼寺(国府尼寺)」と思われる記事は、九州王朝による多元的「国分寺」建立の史料根拠としてもよいのではないでしょうか。


第1639話 2018/04/03

百済伝来阿弥陀如来像の流転(2)

 観世音寺創建時の本尊は百済から伝来した金銅阿弥陀如来像であったことが次の史料から明らかになっています。

 「其の状(太宰府解文)云わく、去る(康治二年、一一四三)六月二一日の夜、観世音寺の堂塔・回廊焼亡す。(略)但し、塔に於いては康平七年(一〇六四)五月十一日に焼亡す。中尊の丈六金銅阿弥陀如来像、猛火の中に在りても尊容に変わり無し。昔、百済國より之は渡り奉られり。云々。」(古賀訳)
 『国史大系』所収、「本朝世紀」
 康治二年(一一四三)七月十九日条

 これは康治二年(一一四三)の火災の記事ですが、このときは金堂は被災しておらず、阿弥陀如来像は無事でした。このように観世音寺は創建以来度々火災に遭っていることが、各史料に記されています。例えば次の通りです。

○筑前國観世音寺三綱等解案
 「當伽藍は是天智天皇の草創なり。(略)而るに去る康平七年(一〇六四)五月十一日、不慮の天火出来し、五間講堂・五重塔婆・佛地が焼亡す。」(古賀訳)
 元永二年(一一一九)三月二七日
 『平安遺文』〔一八九八〕所収。
 ※内閣文庫所蔵観世音寺文書

 康平七年(一〇六四)の火災により観世音寺は五重塔や講堂等が全焼し、金堂は火災を免れました。「不慮の天火出来」とありますから、落雷による火災と思われます。その後、観世音寺の復興が進められますが、五重塔だけは再建されていないようです。
 観世音寺の本尊金銅阿弥陀如来像は百済渡来で「丈六」とされていることから、身長一丈六尺(四・八五m)の仏像のようです(座像の場合は半分の二・四二m)。この丈六の阿弥陀如来像が百済から献上されたのであれば、それは百済滅亡(六六〇)以前の出来事となり、阿弥陀如来像の九州王朝への「搬入」は、当然、観世音寺創建(六七〇)よりも以前のこととなります。
 ちなみに、この阿弥陀如来像は天正十四年の兵乱により失われたようで、『筑前国続風土記拾遺』に次のように記されています。

 「此阿弥陀佛は金銅なりしか百済より船に積て志摩郡岐志浦につく。其所を今も佛崎とよぶ。此佛の座床なりし鐵今も残れり。依て其村を御床と云。彼寺の佛像ハ天正十四年兵乱に掠られてなくなりしといふ。」
 『筑前国続風土記拾遺』御笠郡三、観世音寺

 倭国と百済の盟友の証であった阿弥陀如来像も天正十四年(一五八六)岩屋城攻防戦のおり、島津軍兵によって鋳潰され刀の鍔にされたと伝わっています。こうして白鳳十年の創建以来残っていた佛像も失われました。
 なお、『筑前国続風土記拾遺』によれば、「講堂佛前の紫石の獅子は百済國より献すると云」(御笠郡観世音寺)とあり、本尊以外にも百済からの奉納品があったことがうかがえます。(つづく)


第1520話 2017/10/22

秩父神社棟札の九州年号「明要」

 先の東京講演会の前日、東京古田会の勉強会に参加させていただきました。テーマは記紀歌謡と和田家文書研究で、「古田史学の会」関西例会ではほとんど扱われないジャンルでもあり、よい勉強になりました。中でも安彦克己さん(港区)による和田家文書の記載内容を現地調査で確認するという研究報告はとても素晴らしいものでした。いつか、和田家文書をテーマとした書籍を安彦さんと共同で発行したいと強く思いました。
 その安彦さんから回覧された史料に『新編武蔵風土記稿』の「秩父神社」の棟札が記された部分があり、興味深く拝見しました。同史料に九州年号「明要」が見えることは知っていましたが、見るのは初めてでした。棟札の九州年号部分は次のような内容です。

(表)合奉造武州秩父郡武光名大宮妙見大菩薩御社檀一宇檜皮葺成就畢[中略]

(裏)右当社開基者仁王三十代 欽明天皇御宇、明要六年丙寅奉祝、 以而来至今天正廿年壬辰一千四十六年也[中略]當初明要六年開基以来天正弐拾年壬辰迄一千四十六年也[後略]

 この棟札は天正二十年(一五九二)に社殿を造立したときに作成されたもので、同社開基を明要六年(五四六)と記した貴重な史料です。秩父神社の創建年代については諸説ありますが、九州年号「明要」による記録は貴重です(「天武天皇白鳳四年の鎮座」とする記事も見えます)。秩父神社についての研究も機会があれば挑戦したいものです。

《参考資料》
 新編武蔵風土記稿 巻之二百五十五 秩父郡之十
大宮郷
妙見社
下町続にあり、 当社は【延喜式】神名帳に載たる、本郡二座の一秩父神社なり、 人皇四十代天武天皇白鳳四年の鎮座にして、 祭神は当国国造の祖知々夫彦命とも、大己貴尊とも云、 又当社天正二十年の棟札の裏書に、欽明天皇御宇、明要六年丙寅鎮座とあり、明要は逸号なれば、丙寅は即位より七年に当れり、 当今の縁起には、大和国三輪大明神を写など記して、其説定かならず、按に【国造本紀】瑞籬朝御世八意思兼命十世孫知々夫彦命、定賜国造拝詞大神と據れば、崇神の朝国造を置玉ひし時より、国神の祀らしめられしなれば、祭神大己貴命なること疑ひなかるべし、 然に後年知々夫彦命の霊をも配せ祀りしかば、両説となりしにあらずや、 三輪を写せしと云は、いかなる據にや詳ならず、又当今妙見社と号するものは、後年社内に北辰妙見社を勧請して、霊験著しかりければ、終に妙見の名盛に行はれて、本社の旧号は失ひしなるべし、
[中略]
神体白幣を置、社伝云、中古までは末社も七十五宇建てたりしに、兵乱の為に焼亡せられ、神田も掠め奪はれ、神殿瑞籬のみ纔に存せしを、五十七石の神領を御寄附ありしより、神事祭礼旧に復すと云、毎年二月三日祈年の祀り、八月二十三日年穀の祭、十一月三日麦穀の祀りにて、近郷つどひてことに賑はへり、
按に当所へ妙見を勧請せしことは、千葉系譜に據に、天慶年中平高望の五男、村岡五郎良文常陸の国香、下野国染谷川の辺にて、平将門と合戦の時、国香が加勢としてはせ向ひ、難なく将門を追退けし頃奇瑞有し故、良文里老を招て此辺に霊験の神社ありやと問ひければ、里老答て上野国群馬郡花園村に、妙見菩薩の霊場ありと云、夫より良文同国緑野郡平井へ赴き、秩父へ居を移しせし時、彼花園の妙見を当地へ勧請し、其後又良文下総国千葉へ転ぜし時、当所の妙見を彼国へ勧請すといへり、
[中略]
本社 南向一丈七尺余に一丈九尺余、高二丈七尺八寸、前に幣殿り、一丈二尺に一丈八尺、高一丈八尺五寸、拝殿三丈六尺に一丈八尺余、高二丈三尺余唐破風作なり、
鳥居 木にて造る、南向柱間二丈、拝殿距ること四十三間程、此間切石を敷けり、社地には檜・杉生茂り、又大樫など若干株あり、此鳥居内にある末社下に記す、当社棟札左の如し、

合奉造武州秩父郡武光名大宮妙見大菩薩御社檀一宇檜皮葺成就畢
[中略]
右当社開基者仁王三十代 欽明天皇御宇、明要六年丙寅奉祝、 以而来至今天正廿年壬辰一千四十六年也
[中略]
御本事 薬師如来 脇持多門天座像一尊者、甚秘故不顕之、

東照宮御社 本社東南隅にあり
知々夫彦社 天照太神社 日御崎社 豊受太神社
七十五末社 本社の後ろより、少し左右へ折廻し、一棟にて七十五座区別す、片倉明神社 由留伎明神社 伊雑波明神社 羽野明神社 阿野権現社 多戸明神社 中原明神社 多賀明神社 枚岡明神社 大鳥明神社 住吉明神社 敢国明神社 都波岐明神社 伊射波明神社 熱田明神社 事麻知明神社 浅間明神社 三島明神社 寒川明神社 洲崎明神社 玉前明神社 香取大神宮 鹿島大神宮 南宮明神社 水無明神社 諏訪明神社 抜鉾明神社 二荒山明神社 都々古和気明神社 大物忌明神社 遠敷明神社 気比明神社 白山明神社 気多明神社 伊夜彦明神社 渡津明神社 天神地祇社 出雲明神社 籠守明神社 宇倍明神社 倭文明神社 物部明神社 由良姫明神社 仲山明神社 吉備明神社 厳島明神社 玉裡明神社 日前明神社 大麻彦明神社 田村明神社  都佐明神社 筥崎明神社 高良玉垂明神社 西寒田明神社 淀姫明神社  阿蘇明神社 和多積明神社 松尾明神社 吉田明神社 戸隠明神社 丹生明神社 貴布禰明神社 広瀬明神社 龍田明神社 正八幡宮  粟島明神社 恩智明神社 斯香明神社 熊野権現社 水尾明神社 白鬚明神社 御崎明神社 石出明神社 賀茂明神社 許波明神社


第1466話 2017/07/29

「[身冉]牟羅国=済州島」説を撤回

 「古田史学の会」内外の研究者による、『隋書』の[身冉]牟羅国についてのメール論争を拝見していて、これはえらいことになったとわたしは驚愕しました。
 今から22年も前のことなのですが、『古田史学会報』11号(1995年12月)でわたしは「『隋書』[身冉]牟羅国記事についての試論」という論稿で、[身冉]牟羅国を済州島とする仮説を発表しました。今から読み直すと、明らかに論証は成立しておらず、どうやら結論も間違っていることに気づいたからです。
 そこで、7月の「古田史学の会」関西例会にて22年前に発表した自説を撤回しますと宣言しました。そうしたら野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)から「えぇーっ。古賀さん撤回するの?」と声があがり、「すみません。撤回します」と謝りました。学問研究ですから、間違っていると気づいたら早く撤回するに限る、意地をはってもろくなことにはならないと思い撤回したのですが、恥を忍んで撤回の事情と理由を説明します。
 これは言い訳にすぎませんが、当時は会員も少なく今ほど『古田史学会報』に原稿が集まらず、編集を担当していたわたしは不足分の原稿を自分で書くことがありました。その際、余った余白分の字数にあわせて原稿を書く必要がありました。11号の拙稿もそうした穴埋め原稿として仕方なく急遽執筆したことを憶えています。従って、論証も説明も不十分な論稿と言わざるを得ません。こうした事情が当時はあったのです。しかし、それでも掲載に問題ないと判断したわけで、40歳のときのわたしの学問レベルを恥じるほかありません。
 次に研究論文としての論証上の問題点を説明します。対象となった『隋書』の当該部分は次の通りです。

「其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗」「其南海行三月,有[身冉]牟羅國,南北千餘里,東西數百里」(『隋書』百済伝)

 この記事によれば、[身冉]牟羅國を済州島とするためには少なくとも次の論証が必要です。

①国の大きさが「南北千餘里,東西數百里」とあり、短里(1里76m)表記であることの説明。
②同じく国の形の表記が縦横逆であることの説明。
③その位置が百済の南「海行三月」の所と表記されていることの説明。
④『隋書』イ妥国伝には済州島のことを「[身冉]羅国」とされ、「[身冉]牟羅國」とは異なることの説明。

 この中で、拙稿でとりあえず説明したのは①と②だけで、③と④は検討課題として先送りにして論証していませんでした。しかも、今から見ると②の論証も不適切でした。すなわち、「筑後国風土記逸文」の磐井の墓(岩戸山古墳)の縦横の距離の表記が実際の古墳とは一見逆になっている例を[身冉]牟羅國にも援用したのですが、「筑後国風土記逸文」には「南北各六十丈、東西各四十丈」とあり、『隋書』百済伝の表記にはない「各」という文字があり、南北間が六十丈ではなく南辺と北辺が各六十丈という意味です。「東西各四十丈」も東辺と西辺が各四十丈となり、岩戸山古墳の現状に対応しています。他方、『隋書』の記事には「各」の字が無く、表記通り縦長の地形を意味していると理解せざるを得ず、従って横長の済州島では一致しません。
 『隋書』イ妥国伝の済州島の表記「[身冉]羅国」との不一致についても次のように曖昧に処理して、論証していません。
 「イ妥国伝には済州島が[身冉]羅国と記されている。はたしてこの[身冉]羅国と百済伝末尾の[身冉]牟羅国が同一か別国かという問題(通説ではどらも済州島とする)も残っているが、この表記の差異についても別に論じることとする。」
 このように問題を先送りにして、しかも別に論じることなく22年も放置していました。更に論稿末尾を次のような「逃げ」の一文で締めくくっています。
 「本稿では問題提起にとどめ、いずれ論文として詳細を展開するつもりである。」
 以上のように、22年前の拙稿は論証が果たされておらず、その後も論じることなく今日に至っています。そのため、わたしは自説を撤回しました。拙稿の誤りに気づかせていただいた「メール論争」参加者の皆さんに感謝します。それにしても、「若気の至り」とはいえ、インターネット上に後々まで残るみっともない論稿で、恥ずかしい限りです。


第1437話 2017/06/30

続・朝代神社(舞鶴市)の白鳳元年創建

 今朝は名古屋に向かう新幹線車中で書いています。仕事で岐阜県養老町へ行きます。

 昨晩、帰宅してから朝代神社について調査しました。ネット検索で「朝代神社(あさしろじんじゃ)舞鶴市朝代」(http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/asasirojj.html)というサイトを見つけました。そこには朝代神社に関する史料紹介があり、参考になりました。
 先に紹介した『加佐郡誌』には創建年が「天武天皇白鳳元年」と、近畿天皇家の天皇名と九州年号が併記された史料状況を示していましたが、「白鳳元年」とのみ記された二つの史料の存在が示されていました。次の史料です。全文は本稿末尾に転載しましたので、ご参照ください。
 一つは『丹哥府志』で、「田辺府志」からの引用として次のように創建年次が記されています。
 「田辺府志曰。朝代大明神は日之若宮なり、白鳳元年九月三日淡路の国より移し祭る」
 もう一つは『京都府地誌』で、同様に「田辺府志」からの引用として「田辺府志曰朝代大明神ハ日ノ若宮ナリ白鳳元年九月三日淡路国ヨリ移?祭ル」と『丹哥府志』とほぼ同文です。
 そこで「田辺府志」をネット検索したところ、国会図書館デジタルコレクションに同名の書籍があるので、閲覧しました。国会図書館デジタルコレクション『丹後田邉府志』巻之三([5]コマ番号3)に「朝代大明神御事」の項がありましたが、そこには創建年次記事が見あたらないのです。朝代神社の創建年次に関すると思われる次の記事が見えるだけです。
 「垂迹の時代古記にあれども神道も秘伝の大事あれば今つぶさに爰にしるさず」
 「古記」に見えるがあえて記さずということのようです。九州年号「白鳳」の記載を避けたのでしょうか。同書の著者は華梁霊重[他]。宝永六年の「序」と「跋」が見えることから、江戸時代の1709年頃の出版と思われます。どうやら「白鳳元年」創建記事を持つ「田辺府志」と国会図書館本とは別物のようです。引き続き調査したいと思います。
 しかしながら、「白鳳元年」と九州年号だけで記された伝承があることから、こちらが原型ではないでしょうか。九州年号の「白鳳」の実体(実年代)が不明となった後世において、その時代を特定するために「天武天皇」が付記されたものと推定しています。この傾向は多くの寺社縁起に見られるものです。
 わたしの推論が正しければ朝代神社の創建年は白鳳元年(661年)となります。『海東諸国紀』を史料根拠とするわたしの仮説によれば「九州王朝の近江遷都」と同年になるのですが、なぜ淡路の日之少宮がこの時この地に勧請されたのかが、次のテーマとなりそうです。朝代神社の境内に「工匠神社」という摂社があることも気にかかります。時間が許せば現地調査を行いたいものです。

【ネットからの転載史料】
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/asasirojj.html
朝代神社(あさしろじんじゃ)舞鶴市朝代

《田辺府志》
朝代大明神之事
 朝代大明神は日之少宮(わかみや)なり、日本紀に伊奘諾尊と称し奉る、地神の第五代なり、日本紀曰伊奘諾尊神功既畢霊運当遷是以構幽宮於淡路之洲寂然長隠者矣と是なり、其後また一度天に登り報命給て日之少宮に留宅とあり、往古此田辺の境に垂迹し給ふ、朝代とは日之少宮の別称なり、此社南に向へり、是を陰を背にし陽を前にし給ふ也、伊勢国にも伊奘諾宮あり、是も南に向へり。立る所の流義唯一神道といふなり、其こゝろは伊奘諾冊天より降り給ふたゞ天の一源水にして餘神の分迹化神と同じからず、なほたふとみあがむべきなり、垂迹の時代古記にあれども神道も秘伝の大事あれば今つぶさに爰にしるさず。神道伝受は吉田にあり、天神第一代国常立尊其弟天御中主尊五世の孫、天児屋根尊天照皇太神の勅をうけられ神籬正印を授り給ふを神道の組といふなり、天児屋尊十二世雷大臣命仲哀天皇の時卜部姓を給ひ、十八世にして常盤の大連中臣とあらたむ、二十一世孫大織冠中臣をあらため藤原とせり、従弟右大臣清丸に博へり、是を大中臣といふ、…

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
朝代大明神
田辺武家町屋の産宮なり
   神主 久津見日向
   神子 坂根宮内卿
天武天皇御宇(672-686壬申の乱起る)淡路国日若宮を勧請し奉る 本社二間四方小宮八社拝殿三間四方長床五間二間 華表の額(鳥居の額)は時明院御筆なり 宮地三百拾五坪 領主代々寄附し給う 九月九日祭りなり

《丹後国加佐郡旧語集》
夫当社ハ人王十四代天武天皇御宇(御在位十四年)白鳳元年九月三日御鎮座本社淡路国日ノ若宮(伊奘諾尊ヲ祭奉ルナリ御譲位之後日之若宮ト称奉也江州多賀大明神ト同社ナリ)御祭礼九月九日(初メハ三日の由)神事之日大内町二橋西之橋詰ニ御輿ヲ鎮メ神楽祝ヲ奏シ諸芸ヲ勤仮ノ行宮トス 享保八癸卯年神職玖津見駿河守直高依願橋詰ノ家ヲ調御旅所ヲ設ケ九月朔日ヨリ燈明ヲ立ル 京極家ハ外曲輪ヲ渡リシ御家御在城以後二ノ丸ヲ渡リ於大番所祭礼御見物御輿暫輝桟鋪前ニ鎮居神職祭式ノ事有御祭礼年々賑々敷相成
小宮八社(享和元年辛酉年二月竜蛇社勧請以来九社)
松尾大明神(大酒解ノ命 子酒解ノ命 二座合テ一社)
大国天社(大己貴尊ヲ祭奉ル)
祇園牛頭天王社(素盞尊ヲ祭奉ル)
粟嶋大明神(少彦名命ヲ祭奉ル)
稲荷大明神(保食神ヲ祭奉ル)
多賀大明神(伊奘諾尊ヲ祭奉ル・朝代大明神御一体  二座相殿)
恵比須神社(事代主命命ヲ祭奉ル)
職人祖神(手置帆負ノ命彦狭知命ヲ祭奉ル二神一座に祭ル)
竜蛇社(享和元年辛酉年二月従雲州大社勧請本社之左西北之隅山ヲ平均南向之社是ナリ。

《丹哥府志》
【朝代大明神】
田辺府志曰。朝代大明神は日之若宮なり、白鳳元年九月三日淡路の国より移し祭る、祭九月三日仝九月九日を用ゆ、祭日神輿を舁き出す、神輿の前後宮津祭と略相似たり、大橋の橋詰に御旅處といふ處あり、神輿を鎮座する處なり、元禄十丑年命をうけて初て城内に入る、蓋田辺の産砂なり。

(京都府地誌)
朝代神社 郷社々地東西十八間南北二十七間面積四百九十九坪半町ノ南方朝代町ニアリ伊奘諾尊ヲ祭ル祭日四月三日十一月三日田辺府志曰朝代大明神ハ日ノ若宮ナリ白鳳元年九月三日淡路国ヨリ移?祭ル祭日九月三日今九月九日ヲ用リ祭日神輿ヲ?出ス神輿ノ前後宮津祭ノト略ホ似タリ大橋ノ橋?と御旅所ト五処アリ神輿ノ鎮座スル処ナリ元禄十丁丑年命ヲ受ケテ初テ城内ニ入ル蓋田辺ノ産沙ナリ

《社前の案内》
社記
 御鎮座 舞鶴市朝代十三
 神社名 朝代神社
御祭神 朝代大神(伊奘諾尊)
御神徳 御祭神は日本民族の祖先神であり初めての夫婦神として結婚の道を開かれて人間生活に不可欠なあらゆる物をお産みになりました。また禊ぎ祓えにより罪穢を祓い清新と発展の方向を示された貴い神様であります。
御由緒 当神社の御創建は約千三百年前の天武天皇白鳳元年九月、淡路国日ノ少宮をお遷したのに始まります。近世に入り、城下町田辺(舞鶴)の氏神様として歴代藩主の崇敬篤く、神輿・鳥居などの奉納が続き、士民を挙げての秋の祭礼は大いに賑わいました。また、昭和三年には府社に昇格、「朝の参りは朝代さんよ」や「日毎夜毎の朝代参り」などと民謡にも唄われ、広く崇敬されております。
江戸期の大火に類焼し、元文四年に再建の御本殿(付・再建文書)が平成五年に舞鶴市の文化財に指定されております。
境内社 塩釜神社  祇園神社
    稲荷神社  工匠神社
    天満宮   恵比須神社 など
例祭日 お日待祭  二月二十二日
    春期例大祭 五月三日
    水無月大祓 六月三十日
    秋季例大祭 十一月三日 也


第1337話 2017/02/14

金印と志賀海神社の占い

 志賀島の金印「漢委奴国王」が本来は糸島の細石神社にあったものだったとする伝承の存在を古田先生が紹介されています。そのこととは直接関係はありませんが、志賀島の志賀海神社が金印を神寳にしようとしていたという記録の存在を知りました。
 本年1月、「九州古代史の会」主催の井上信正さんの講演を聴きに福岡市に行ったとき、早く会場についたので会場近くの図書館で時間待ちをしました。そのおり、福岡地方史研究会の『会報』第24号(昭和60年4月)に掲載されていた塩屋勝利さんの「『漢委奴国王』金印をめぐる諸問題(上)」が眼に留まりました。天明4年(1784)2月に志賀島村叶の崎から発見された金印の発見当時の史料紹介と考察ですが、今まで知らなかったことが記されており、興味深く拝読しました。
 中でも、志賀島の志賀海神社が、発見された金印を同社の神寳にしようと占ったが、良い結果が出なかったので断念し、黒田藩に提出したことが記されていました。志賀海神社宮司阿曇家本『筑前国続風土記附録』にみえる次の記事です。

「明神の境地より得たる故、神寳とせん事を占ひしに神鬮下らざる事再三也といふ。故に府呈に呈けしとなり」 *古賀注 「府呈」の「呈」は衍字か。

 わたしの持っている『筑前国続風土記附録』活字本にはこの記事が見つかりませんので、志賀海神社宮司阿曇家本にのみ付記された記事で、志賀海神社内の記録に基づいているのかもしれません。いずれにしても志賀海神社は金印が志賀島から出土したと認識していることがわかります。
 金印を発見したとされる志賀島村の百姓甚兵衛については記録がなく不審とされてきましたが、寛政二年(1790)の『那珂郡志賀嶋村田畠名寄帳』中冊に同名の「甚兵衛」が見えるとのこと。さらに『粕屋郡志』(粕屋郡役所編、1923年刊)には、「村の農坂本甚兵衛」と姓名が記されていることが紹介されています。
 そして、甚兵衛のその後の消息が不明になった理由として、地元の「甚兵衛火事」伝承と関係があるのではないかとされています。伝承では「甚兵衛火事」は1811年(文化8年)とされているが、藩の記録では見あたらず、1809年(文化6)の火災のことで、甚兵衛は火元の責任を取って志賀島を去ったと思われるとされています。少なくとも地元に「甚兵衛」と呼ばれる人物がいた証拠にはなりそうで、興味深い伝承です。
 金印は志賀島で発見されたのではないとする意見の根拠の一つとして、志賀島村叶の崎付近には弥生時代の遺跡が見つからないということが指摘されています。しかし、金印が弥生時代に埋納されたという根拠もなく、歴代の倭王に相続された可能性も考えられ、そうであれば弥生時代の遺跡の存在の有無は関係ありません。中国からもらった金印が倭王一代のみで埋納されるとするのも、やや違和感があります。金印について、引き続き調査検討したいと思います。

(追記)本稿執筆の夜、古田先生に本稿の内容を報告する夢を見ました。先生がうれしそうにメモを取られているところで眼が覚めました。


第1176話 2016/04/30

白鳳大地震と朱雀改元

 このたびの九州の大地震のこともあって、古代における大地震として有名な筑紫大地震(678年)と白鳳大地震(684年)について調べてみました。筑紫大地震は『日本書紀』天武7年12月条や『豊後国風土記』に記されており、この地震により九州王朝の中枢は壊滅状態になったと思われます。

 「筑紫国、大きに地動る。地裂くること広さ二丈、長さ三千余条。百姓の舎屋、村毎に多くたおれやぶれたり。」『日本書紀』天武7年12月条
 「大きに地震有りて、山崗裂け崩れり。此の山の一つの峡、崩れ落ちて、慍(いか)れる湯の泉、處々より出でき。」『豊後国風土記』日田郡五馬山条

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の説によれば、この地震により九州王朝は前期難波宮(副都)に遷都しました。ところがそれに追い打ちをかけたのが白鳳大地震でした。この四国や近畿・東海を直撃した地震は東南海トラフによるものと考えられています。この年、天武13年(684)10月は九州年号の白鳳24年ですが、この地震により九州年号は朱雀に改元されたと正木裕さんは指摘されています(「隠された改元」『「九州年号」の研究』所収)。
 7世紀後半に発生した二つの巨大地震により九州王朝は大きく疲弊し、滅亡に向かったとわたしは論じたことがあります(「朱鳥改元の史料批判」『「九州年号」の研究』所収)。筑紫大地震から6年後に白鳳大地震が発生したことから、もしかするとこの熊本・大分大地震の6年後に東南海大地震が発生するのではないかと思うと、ぞっとしました。テレビなどで地震学者は九州から更に東の中央構造線への地震には繋がらないと発言していましたが、学者の地震予知がこの38年間当たったことがないという事実を思い知らされていますから、御用地震学者の言うことは信用できません。
 わたしたちは歴史に学ぶために古代史を研究していますから、日本列島はどこでも大地震が発生するという覚悟で防災に取り組まなければと改めて考えさせられました。