「 古田武彦 」一覧

第2154話 2020/05/16

八王子セミナー2020 発表タイトルと要旨

 本年11月に開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)の発表タイトルと要旨を提出するようにと、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)から荻上実行委員長名による要請書が届きました。冨川さんには「古田史学の会」を代表して同セミナーの実行委員会に参加していただいています。
 本年のセミナーは、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念として開催されるので、同書で提唱された「二倍年暦」についての発表要請をいただきました。そこで、「洛中洛外日記」で連載中の最新テーマである古代戸籍への「二倍年暦」の影響と痕跡について発表することにしました。そのタイトルと要旨を紹介します。多くの皆様のご参加をお願いします。

【演題】
古代戸籍に見える二倍年暦の影響
―「大宝二年籍」「延喜二年籍」の史料批判―
【要旨】
 古田武彦氏は、倭人伝に見える倭人の長寿記事(八十~百歳)等を根拠に、二倍年暦の存在を提唱された。二倍年暦による年齢計算の影響が古代戸籍に及んでおり、それが庚午年籍(670年)に遡る可能性を論じる。


第2150話 2020/05/11

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(1)

 わたしのFACEBOOKの〝ともだち〟のSさんから、『三国志』倭人伝の訓みについてコメントが寄せられました。それは邪馬壹国という国名が記された次の記事についてです。

 「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」

 古田説では「南、邪馬壹国に至る。女王の都(みやこ)するところ。水行十日陸行一月。」と訓み、通説でも「南、邪馬臺(台)国に至る。女王の都(みやこ)するところ。水行十日陸行一月。」と、国名を原文改定(邪馬壹国→邪馬臺国)するものの、共に「女王の都(みやこ)するところ」と訓まれてきました。この訓みに対して、「都(みやこ)する」と訓むのは異様ではないかとSさんは指摘され、「都(す)べるところ」と訓む仮説を提起されたのです。
 「都」という字には、「合計する」や「統率する・統括する」という意味もあり、その場合は「都(す)べる」と訓むケースがあります(通常、「統べる」の字が使われます)。しかし、「女王の都(す)べる所」と訓んでも、「女王の都(みやこ)する所」と訓んでも意味的に大差は無いようにも思います。いずれの訓み(理解)でも、女王が邪馬壹国に君臨し、そこで「統率・統括する」とするのですから、そこを「都(みやこ)とする」と実態は同じです。
 実はこの記事の「都」をどのように理解すべきかについて、昔、古田先生に私見を述べたことがあります。それは「南至邪馬壹国。女王之所。都水行十日陸行一月」と区切り、「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓み、「都」を〝合計して〟の意味に理解するというものです。
 この訓み(理解)に対して、古田先生も一定の理解を示され、通説の「都(みやこ)する」とわたしの仮説「都(す)べて水行十日陸行一月」がよいのか、二人で検討しました。しかし、結論は出ませんでした。そのため、とりあえず通説の訓み「都(みやこ)する」でよいと判断し、今日に至っています。すなわち、「都(す)べて水行十日陸行一月」が通説よりも妥当と他者を納得させられるだけの根拠(『三国志』中での同様の用例)や証明(自説に賛成しない他者を納得させることができる、根拠を明示した明解な説明)が提示できないため、通説に従うことにしたのでした。(つづく)


第2143話 2020/04/28

『多元』No.157のご紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.157が本日届きました。同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「『国県制』を考える」と拙稿「前期難波宮出土『干支木簡』の考察」が掲載されていました。
 拙稿では、前期難波宮出土の現存最古の干支木簡「戊申年」(648)木簡と二番目に古い芦屋市出土「元壬子年」(652)木簡の上部に空白部分があることを指摘し、本来は九州年号「常色」「白雉」が記されるべき空白部分であり、何らかの理由で木簡に九州年号を記すことが憚られたのではないかとしました。また、「戊」や「年」の字体が九州王朝系金石文などの古い字体と共通していることも指摘しました。
 また、『多元』No.156に掲載された拙稿「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」を批判した、Nさんの論稿「読後感〝七世紀の「天皇」号 新・旧古田説の比較検証」〟について」が掲載されていました。その中で、わたしが紹介した古田旧説、近畿天皇家は七世紀前半頃から〝ナンバーツー〟としての「天皇」号を名乗っていた、という説明に対して、次のようなご批判をいただきました。

 〝古賀氏は、古田旧説では、例えば「天武はナンバーツーとして天皇の称号を使っていた」と述べるが、古田武彦はそのように果たして主張していたのだろうか、という疑問が生じる。〟
 〝小生には古賀氏の誤認識による「古田旧説」に基づいた論難となっているのではないか、という疑念が浮かぶ。この「不正確性」については、以下の古賀氏の論述にも通じるものを感じる〟
 〝今回同様の手前勝手に論点の整理をして、「古田旧説」「古田新説」などときめつけ、的外れの論述とならないように、と願うのみである。〟

 このように、わたしの古田旧説の説明に対して、「誤認識」「不正確」「手前勝手」と手厳しく論難されています。
 「洛中洛外日記」読者の皆さんに古田旧説を知っていただくよい機会でもありますので、改めて七世紀における近畿天皇家の「天皇」号について、古田先生がどのように認識し、述べておられたのかを具体的にわかりやすく説明します。
 「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」でも紹介したのですが、古田先生が七世紀前半において近畿天皇家が「天皇」号を称していたとされた初期の著作が『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏の光背銘」(朝日新聞社刊、一九八五年)です。同著で古田先生は、法隆寺薬師仏の光背銘に見える「天皇」を近畿天皇家のこととされ、同仏像を「天平仏」とした福山俊男説を批判され、次のように結論づけられました。

 「西なる九州王朝産の釈迦三尊と東なる近畿分王朝産の薬師仏と、両々相対する金石文の存在する七世紀前半。これほど一元史観の非、多元史観の必然をあかあかと証しする世紀はない。」(278頁)

 このように、七世紀前半の金石文である法隆寺薬師仏に記された「天皇」とは近畿天皇家のことであると明確に主張されています。すなわち、古田先生が「旧説」時点では、近畿天皇家は七世紀前半から「天皇」を名乗っていた、と認識されていたのは明白です。
 さらに具体的な古田先生の文章を紹介しましょう。『失われた九州王朝』(朝日文庫版、1993年)に収録されている「補章 九州王朝の検証」に、次のように古田旧説を説明されています。

 〝このことは逆に、従来「後代の追作」視されてきた、薬師如来座像こそ、本来の「推古仏」だったことを示す。その「推古仏」の中に、「天皇」の称号がくりかえし現れるのである。七世紀前半、近畿天皇家みずから、「天皇」を称したこと、明らかである。(中略)
 もちろん、本書(第四章一)の「天皇の称号」でも挙列したように、中国における「天皇」称号使用のあり方は、決して単純ではない。「天子」と同意義の使用法も存在する。しかし、近畿天皇家の場合、決してそのような意義で使用したのではない、むしろ、先の「北涼」の事例のように、「ナンバー2」の座にあること、「天子ではない」ことを示す用法に立つものであった(それはかつて九州王朝がえらんだ「方法」であった)。
 この点、あの「白村江の戦」は、いわば「天子(中国)と天子(筑紫)」の決戦であった。そして一方の天子が決定的な敗北を喫した結果、消滅へと向かい、代って「ナンバー2」であった、近畿の「天皇」が「国内ナンバー1」の位置へと昇格するに至った。『旧唐書』で分流(日本国)が本流(倭国)を併呑した、というのがそれである。〟(601-602頁)

 以上の通りです。わたしの古田旧説(七世紀でのナンバー2としての天皇)の説明が、「誤認識」でも「不正確」でも「手前勝手」でもないことを、読者の皆さんにもご理解いただけるものと思います。
 わたしは、〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と考えています。ですから拙論への批判を歓迎します。


第2134話 2020/04/13

「大宝二年籍」断簡の史料批判(10)

 わたしが古代戸籍研究に入った目的は、二倍年暦の痕跡調査のためでした。古田先生が『三国志』倭人伝に見える倭人の長寿記事(その人の寿考、或いは百年、或いは八・九十年)に着目され、弥生時代における倭国の二倍年暦(一年に二歳年をとる)の存在という仮説を提起され、その後、『古事記』『日本書紀』の天皇の長寿年齢も二倍年暦によるものが見られるとされました。その研究を受けて、日本列島でいつ頃まで二倍年暦が採用されていたのかを調査していて、古代戸籍にわたしは注目したのです。
 一応の目安としては、九州年号「継体」が建元(517年)された六世紀初頭には一倍年暦の暦法が採用されていたと考えられますが、他方、人の寿命についてはそれまでの二倍年暦に基づいた謂わば「二倍年齢」による年齢計算がなされていた可能性についても留意が必要でした。その場合、一倍年暦による暦法と「二倍年齢」による年齢表記が史料中に併存するはずと考えていました。その一例として、継体天皇の寿命が『古事記』では43歳、『日本書紀』では82歳と記されており、両書の差が「二倍年齢」によるものと考えられます。このことから、六世紀前半には「二倍年齢」の採用が継続されていたと思われます。
 そこで、次にわたしは六世紀後半から七世紀にかけての「二倍年齢」採用の痕跡を探るために、「大宝二年籍」断簡の年齢表記の精査を行いました。(つづく)


第2125話 2020/04/04

「大宝二年籍」断簡の史料批判(6)

延喜二年(902)『阿波国戸籍』に見える「粟凡直成宗」の戸(家族)の戸主の両親(父98歳、母107歳)の超長寿は、少年期における「二倍年齢」計算による偽籍(年齢操作)を想定すれば説明が一応は可能と考えました。すなわち、両親が幼少期の頃は律令に規定された暦法(一倍年暦)とは別に、古い二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」という年齢計算法が記憶されており、阿波地方の風習として存在していたのかもしれないとしました。この推定と類似した現象が南洋のパラオに遺っていることを古田先生が紹介されています。
 『古代史の未来』(明石書店、1998年)の「24 二倍年暦」において、古田先生は古代日本や中国で採用された二倍年暦の発生地を南太平洋領域(パラオ)とされ、「パラオ→日本列島→黄河領域」という二倍年暦の伝播ルートを提唱されました。そして、「25 南方民族征服説」ではパラオに現存する墓石の写真を掲載し、「パラオの習俗(二倍年暦) ― 墓石に1826生、1977没」と紹介されています。古田先生からお聞きしたのですが、パラオでは近年でも年齢を「二倍年齢」で計算する習俗が遺っており、この墓石のケースでは、1977年に「二倍年齢」の151歳(一倍年暦での75.5歳)で没した人の生年を、一倍年暦での151歳と誤解して逆算し、その結果、「1826生」と墓石に記されたものと考えられます。
 このように、新しい一倍年暦と古い習俗「二倍年齢」が併存している社会(パラオ)ではこのような現象が発生しうるのです。延喜二年『阿波国戸籍』の超長寿表記も、偽籍と共にこの可能性も考慮する必要があるのです。(つづく)


第2107話 2020/03/12

「鬼室集斯の娘」逸話(1)

 わたしが古田先生の著書(※初期三部作)に出会い、いたく感銘し、どうしても著者に会いたいと、「市民の古代研究会 ―古田武彦と共に―」に入会したのは1986年のことでした。当時のわたしの研究テーマは九州年号と古代貨幣で、特に九州年号は多くの会員が研究しておられ、その後を追うように、わたしも先輩に教えを請いながら手探りで研究を進めたものです。
 そのようなとき、一緒に調査研究を行ってくれたのが、当時、京都大学生だった安田陽介さんでした。安田さんは京大で国史(日本古代史)を専攻されており、国史大系本『続日本紀』の漢文をすらすらと読み下せるほどの俊英で、わたしは多くのことを教えていただいたものです。その安田さんと鬼室集斯墓碑研究のため二度ほど現地調査を行いました。初めて鬼室神社を訪問したとき、途中でレンタカーがパンクするというアクシデントが発生したのですが、安田さんはあわてることもなく、備え付け工具を使用して短時間でスペアタイヤと交換してしまいました。安田さんは頭が良いだけではなく、まさに歴史を足で知るアウトドア派でもあり、それは見事な手際だったことを記憶しています。
 そのときの調査目的は鬼室神社にある鬼室集斯墓碑の実見と、鬼室集斯の娘の石碑調査でした。鬼室神社の氏子さんのご協力により、墓碑調査は行えたのですが、娘の石碑については所在も不明で、何の手がかりも得ることができませんでした。それは今も手つかずのままで、三十年近く経ってしまいました。どなたか現地調査を手伝っていただける方はおられないでしょうか。(つづく)

※古田武彦「初期三部作」 『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』朝日新聞社刊。現在はミネルヴァ書房より復刊されています。


第2104話 2020/03/06

三十年ぶりの鬼室神社訪問(9)

 鬼室集斯墓碑研究史において、誰も取り上げなかったテーマについて、本シリーズの最後に紹介します。それは「削られた碑文」というテーマです。
 古田先生と鬼室集斯墓碑の現地調査を行ったときのことです。八角柱の墓碑には一面おきで計三面に次の文字が彫られています。

【鬼室集斯墓碑銘文】
「朱鳥三年戊子十一月八日(殞?)」〈向かって右側面。最後の一字は下部が摩滅しており不鮮明〉
「鬼室集斯墓」〈正面〉
「庶孫美成造」〈向かって左側面〉

 一面おきですから、八面の内の四面に文字があってもよさそうなのですが、正面の裏側の面には文字が見えません。その面には大きな傷跡があり、本来は文字があったのではないかとわたしは考え、古田先生に「これだけ大きく削られていると、元の文字の復元はできませんね」と申し上げました。そうしたら先生から、「将来、復元技術が開発されるかもしれません。まだ諦めないでいましょう」と諭されました。こうした困難な調査研究であっても、簡単には諦めない研究姿勢とタフな学問精神を、わたしは古田先生から実地訓練で学んできたことを、今更ながら思い起こし、感謝の念が湧き上がってきます。(つづく)


第2054話 2019/12/11

三宅利喜男さんと三波春夫さんのこと(3)

 三宅利喜男さんは「市民の古代研究会」時代からの古田先生の支持者で、優れた古代史研究を発表されてきました。「古田史学の会」創立後には、反古田に変質した「市民の古代研究会」に見切りをつけて、「古田史学の会」へ参加されました。また、小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)のお話では、「古田史学の会・関西」の遺跡巡りハイキングの第1回目からの参加者(案内役)だったとのことです。
 三宅さんの研究論文で、最も衝撃を受けたものが「『新撰姓氏録』の証言」(『古田史学会報』29号、1998年12月)でした。『新撰姓氏録』に記された古代氏族の祖先が、特定の天皇に集中していることを指摘された論稿で、古田先生も天孫降臨の時代を推定する上で、優れた研究と評価されていました。
 こうした三宅さんの研究業績を埋もれさせることなく、この機会に顕彰したいと考え、インターネット担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)に相談したところ、下記のように「三宅利喜男論集」をホームページ「新・古代学の扉」内に開設していただきました。是非、皆さんも見てみて下さい。

暫定リンク版【三宅利喜男論集】

1.「新撰姓氏録」の証言
『古代に真実を求めて』第三号(二〇〇〇年十一月)より現在編集中、本人の了解が取れれば発行します。
 要旨は、『古田史学会報』二十九号「『新撰姓氏録』の証言」と、『古田史学会報』四十七号「続『新撰姓氏録』の証言 — 神別より見る王権神話の二元構造」に記載されています。

2.小林よしのり作 漫画『戦争論』について
『古田史学会報』二十九号(一九九九年二月)

3.『播磨国風土記』と大帯考
『市民の古代』第十三集(一九九一年)

4.九州王朝説からみる『日本書紀』成書過程と区分の検証
『市民の古代』第十五集(一九九三年)

5.続『日本書紀』成書過程の検証 — 編年と外交記事の造作
『市民の古代』第十六集(一九九四年)

【書誌目録】

1.続『新撰姓氏録』の証言〔古代史の海(26), 59-61, 2001-12〕

2.音韻と区分論(特集 渡部正理氏の「『日本書紀の謎を解く』への疑問」)〔古代史の海(24), 13-15, 2001-06〕

3.『新撰姓氏録』の証言 三宅利喜男〔古代史の海(22), 31-36, 2000-12〕

4.「日本書紀」書き継ぎ論–『古事記』未完論に寄せて〔古代史の海(12), 60-69, 1998-06〕

5.主神論〔古代史の海(9), 42-47, 1997-09)

6.『日本書紀』に現れる古代朝鮮記事〔古代史の海(4), 55-59, 1996-06〕

7.倭の五王は大阪に眠る(越境としての古代3 , 2005-05)

他の書誌および『市民の古代研究』などは、後日確認いたします。


第2038話 2019/11/12

「新・八王子セミナー2019」の情景(1)

 先日、八王子市の大学セミナーハウスで開催された「古田武彦記念 古代史セミナー2019」(新・八王子セミナー2019)に参加しました。各研究者の発表は同セミナーハウスのホームページで紹介されることと思いますので、わたしの感想を中心にその情景について報告します。
 今回の発表の中で、もっとも感慨深かったのが古田先生のご子息、古田光河さんによる「父の想い出」という報告でした。先生の懐かしい写真や光河さんが赤ちゃんだった頃の親子のツーショットなどが次々と大スクリーンに映し出され、わたしは涙目で拝見しました。また、古田先生作詞作曲の歌を古田先生が歌われている録音なども流され、なかなかの名曲と聴講者からも好評でした。
 また、古田先生と女性との〝ロマンス〟として、古田先生がお好きだった女性が6名おられたとのことで、「誰でしょう」と光河さんは参加者に聞かれました。どなたからも回答がなかったため、「古賀さんは誰だと思われますか」とご指名いただきましたので、「中島みゆきさんでは」と述べたところ、「正解です」とのこと。先生は著書中で、中島みゆきさんの「海鳴り」という曲に触れられていましたので、たぶん6名の内の一人に入っているとは思っていましたが、もし間違っていたらどうしようと、内心どきどきでした。光河さんの説明では、先生は中島みゆきさんの名曲「この空を飛べたら」が好きだったそうです。中島みゆきさん以外には、キュリー夫人や石川さゆりさんらのお名前が上がっていました。
 とても懐かしく印象深い発表でしたので、ぜひ、関西でも発表していただきたいと、光河さんにお願いしました。(つづく)


第2035話 2019/11/04

評督の上位職は各「道」都督か(1)

 那須国造碑の碑文についての古田説の論証を再確認するために、古田先生の『古代は輝いていたⅢ』を読み直したところ、三十数年前の同書発刊時(1985年)に読んだとき、かすかな違和感を抱いたことを思い出しました。それは次の箇所でした。

〝この金石文(那須国造碑)の最大の問題点、それは、「評督」という旧称の授与時点と授与者を隠していることにあることが判明しよう。
 では、授与者は誰か。わたしには、それは「上毛野の君」が最有力候補ではないか、と思われる。なぜなら、関東にあって「武蔵国造」などの任命権を近畿天皇家と争った者、それが「上毛野の君」だったからである。〟(『古代は輝いていたⅢ』ミネルヴァ書房版。305〜306頁)

 那須直葦提に評督を授与したのは「上毛野の君」とする古田先生の見解に、わたしは違和感を覚えたのです。評制は九州王朝が全国に施行した制度と古田先生はされているのに、関東の豪族である「上毛野の君」が評督を授与するということに、わたしは納得できなかったのです。しかし、古田史学に入門したばかりの若造だったわたしには、畏れ多くて古田先生に意見などできませんでした。
 今回、この懐かしい著作の一文中の「上毛野の君」に再会し、わたしには思い当たることがありました。藤井政昭さんの優れた論稿「関東の日本武命」(『倭国古伝』古田史学の会編・明石書店、2019年)によれば、『日本書紀』景行天皇55年条に見える「東山道十五國」の「都督」に任命された「彦狭嶋王」は上毛野国の王者で、『先代旧事本紀』「国造本紀」には「上毛野国造」とされているとのこと。
 先の古田説を敷衍すれば、「東山道十五國」の「都督」であり、「上毛野国造」でもある彦狭嶋王が「東山道」各地の評督を任命したということになり、このケースにおいては、「評督」の上位職掌(任命権者)は各「道」の「都督」ということになります。(つづく)