「 古田武彦 」一覧

第1966話 2019/08/16

桂米團治さんからお礼状届く

 本日、桂米團治さんから「古田史学の会 代表 古賀達也」宛で、お礼状とパンフレット「還暦&噺家生活40周年記念 桂米團治独演会」が届きました。米團治師匠には、古田先生とご一緒にKBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」に出演させていただいて以来、ご厚情を賜っています(「古田史学の会」へは毎年のようにご寄付をいただいています)。
 同番組は2015年8月27日に収録され、翌月三回にわたって放送されました。同年10月14日に古田先生は急逝されましたので、同番組が最後の公の場となりました。わたしにとっても、古田先生との最後の想い出となりました。番組の抄録(茂山憲史氏による)は『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集、明石書店)に収録しました。
 米團治師匠からいただいたお礼状をご披露させていただきます。

残暑お見舞い申し上げます。
 昨年暮れの還暦パーティーに際しましては、多大なるご厚情を賜り、まことにありがとうございました。
 今年の正月より始まりました全国巡業の独演会も七月七日の南座公演をもちまして無事終了することができました。行く先々で「待ってました!」のお声掛けを頂戴し、感無量…。 こんなに楽しい興業は初めてでした。すべてこれ、お客様のお蔭と、心より感謝申し上げます。パンフレットを同封いたしますのでどうぞご笑納下さい。
 今後は私、株式会社米朝事務所の代表としての業務を続けながら、ひたすら高座にも精進いたします。とは申せ、決して気負うことなく、皆様に喜んでいただける落語を披露する所存でございます。お気づきの点がありましたら、是非ともご助言下さいませ。
 まことに、略儀ながら、書面にて御礼申し上げます。
 時節柄、お身体ご自愛下さい。

   令和元年 立秋
             桂 米團治
古賀達也様


第1907話 2019/05/25

七世紀における「天皇」号と「天子」号

 「古田史学の会」関西例会では、七世紀の金石文に見える「天皇」を九州王朝の〝旧・天子〟のこととする晩年の古田説に対して賛否両論が出され活発な論争が続いています。このように関西例会では、古田先生が〝わたしの学問の原点〟とされた「師の説にななづみそ」(本居宣長)、「自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風」を体現した学問研究が続けられています。
 わたしは、倭国ナンバーワンの九州王朝の「天子」に対して、ナンバーツーとしての近畿天皇家の「天皇」とする古田旧説を支持しています。従って、七世紀の金石文に見える「天皇」はナンバーツーとしての近畿天皇家の天皇と考えています。そのことを論じた拙稿「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」を『古田史学会報』(152号、2019年6月)に投稿しました。同稿では船王後墓誌に見える「天皇」を近畿天皇家の天皇としましたが、さらに「天皇」号の位置づけについて、別の視点から説明することにします。それは九州王朝の「天子」号との関係についてです。
 九州王朝の多利思北孤が「天子」を名乗っていたことは『隋書』の記事「日出る処の天子」から明らかです。他方、近畿天皇家では七世紀初頭の推古から後半の天武が「天皇」を名乗っていたことは、法隆寺の薬師如来像光背銘の「大王天皇」や飛鳥池出土の「天皇」木簡から明らかです。こうした史料事実が古田旧説の根拠となっています。
 もし古田新説のように船王後墓誌などの七世紀の金石文に見える「天皇」を九州王朝の〝旧・天子〟とすると、ナンバーワンの九州王朝もナンバーツーの近畿天皇家も同じ「天皇」を称していたこととなります。しかし、ナンバーツーがナンバーワンと同じ称号を名乗ることをナンバーワンが許すとは到底考えられません。こうした、称号の序列という論理から考えても、古田新説は成立困難と思われるのです。


第1891話 2019/05/12

古田武彦『邪馬一国の証明』が復刻

 ミネルヴァ書房から古田先生の『邪馬一国の証明』が復刻され、送られてきました。ご遺族の古田光河さん(ご子息)からの贈呈によるものです。
 同書は角川文庫として1980年に発行されたものの復刻です。名著『「邪馬台国」はなかった』以降の論争に関わるテーマとその学問の方法に焦点を当てた一冊です。文庫本として発行されたこともあり、現在では入手困難となっていましたので、この度の復刻は古田ファンや研究者にとっても待たれていたものでした。
 復刻本冒頭には古田光河さんによる「復刻のご挨拶」、次いで荻上紘一さん(大学セミナーハウス理事長)の「復刊に寄せて」が掲載されています。そこには理系の研究者らしい学問の方法についての解説がなされています。たとえば次のような文章で、理系論文のような表現に荻上先生らしいなと思いました。

 「人物Aと人物Bが同一であることを証明することは簡単ではないが、別人であることの証明は簡単である。人物Aと人物Bの属性を比較して、一致しないものが一つでもあれば両者は同一人物ではないと断定できる。」

 また、松本深志高校ご出身の荻上さんが聞かれた岡田甫校長の言葉を紹介されながら、次のように特筆されています。

 「『論理の赴くところに行こうではないか。たとえそれがいずこに到ろうとも。』と並んで古田先生が大切にした言葉が『師の説にななづみそ』である。したがって、我々は古田先生の本や論文を批判の目を持って読まなければならない。『古田先生の本に書いてあるから正しい』という判断をすれば、学問ではなく宗教になってしまう。」

 この荻上さんの主張は全くその通りです。この「復刊に寄せて」は末尾に「二〇一八年十二月五日」と執筆年月日があり、この一節にはある重要なメッセージが込められているのではないかと推測しています。
 この文が書かれた日の一ヶ月前の11月10〜11日、荻上さんが理事長をされている大学セミナーハウスで「古田武彦記念 古代史セミナー2018」が開催されました。そこである発表者が予定されていたテーマとは無関係に突然わたしに対して「古田説と異なる説(前期難波宮九州王朝複都説)を発表している」と声高に非難されるという一幕がありました。わたしは黙って聞いていましたが、恐らくは呼びかけ人であり主催者としての荻上先生がこうした言動に困惑されたことは想像に難くありません。ですから、それに対する荻上先生のメッセージが、一月後に書かれたこの「復刊に寄せて」に込められていることをわたしは疑えません。
 同書末尾には谷本茂さん(古田史学の会・会員)による「『邪馬一国の証明』復刻版解説」が収録されています。谷本さんは京都大学の学生時代からの古田先生のファンであり、古田学派の重鎮のお一人です。同書にはその論文「魏志倭人伝の短里ーー『周髀算経』の里単位ーー」が掲載されており、古代中国の天文算術書『周髀算経』に短里が使用されていることを『数理科学』(1978年3月号)に発表された経緯やその後の論争などについて解説されています。これも理系の研究者である谷本さんらしい文章です。
 このように同復刻版は学問の方法に関する古田先生の考えが詳述されており、復刻にあたって添えられた古田光河さん、荻上紘一さん、谷本茂さんの文章も古田史学をより深く理解する上で貴重なものです。ご一読をお勧めします。


第1874話 2019/04/13

「令和」と「ラフランス」と「利歌彌多弗利」

 新元号「令和」は国民の評判も良いようですし、わたしもラ行で始まる新元号が気に入っています。マーケティングの視点でも、新商品や新店舗のネーミングを柔らかい響きを持つラ行で始まる言葉にするのは、特に女性に好意的に受けとめられることが知られています。
 たとえば、人気のフルーツ「ラフランス」も本来の名前は「みだぐなす」でしたが、これは「見た目よくなし」という意味の産地の山形弁で、ネガティブな名前でした。明治時代にフランスからもたらされた洋なしの一種でしたが、全く売れませんでした。こんなに美味しいのになぜ売れないのだろうと、地元の農家が悩んだ末に相談した専門のマーケターの助言により名称を「ラフランス」に変えたとたん爆発的にヒットし、〝フルーツの王様〟の地位を占めた話は、わたしたちプロのマーケターの間では有名です。
 ところで、古代日本語(倭語)にはラ行で始まる言葉は無かったことが知られています。倭人にはラ行で始まる言葉は言いにくかったことがその理由かも知れません。中国から入った漢語には、たとえば「蘭(らん)」や「猟師(りょうし)」などのラ行で始まる言葉はあるのですが、本来の倭語には見当たりません。この事実に基づいて古田先生がある仮説を発表されたことをご存じでしょうか。
 『隋書』イ妥国伝にはイ妥国王・多利思北孤の太子の名前が「利歌彌多弗利」と記されており、これはどう考えても「リカミタフツリ」あるいは「リカミタフリ」のようにラ行で始まる名前です。従って、通説では最初の「利」は「和」の誤りとして、「ワカンタフリ」と訓むとされてきました。しかし『隋書』の原文は「利」であり、「和」ではありません。そこで古田先生は「利歌彌多弗利」を「利、上塔(カミトウ)の利」とする訓みを提起されました。すなわち、「利」を倭語ではなく、中国風一字名称と理解されたのです。中国風一字名称であればラ行で始まっても不思議ではないからです。
 この古田説が正しいという証明は簡単ではありませんが、古代の倭語にラ行で始まる言葉がない以上、このような古田先生の理解しか成立できません。通説のように「和」の間違いとするのは原文改訂であり、安易に用いるべきではありませんから、相対的に古田説が有力となるわけです。
 以上のようなことを、新元号「令和」の発表で思い出しましたので、ご紹介します。


第1868話 2019/04/01

新元号「令和」を言祝ぐ

 本日、菅官房長官が新しい元号「令和(れいわ)」を発表されました。『万葉集』から「令」と「和」をとったとのこと。出典は下記の『万葉集』巻五、天平二年正月十三日に大宰府での梅花の宴で詠まれた「梅花三十二首」の序に見える「初春令月」で、漢籍ではなく日本の古典から採られたことに感慨深いものがありました。更に九州王朝の都であった太宰府で詠まれた歌ということにも因縁めいたものを感じました。

 初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。
〈読み下し〉初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮(はい)後の香を薫(かお)らす。

 というのも、古田先生は生前に日本の年号も漢籍からではなく、文化的にも独立して日本独自のものが望ましいということを語っておられたからです。そしてその一例として「富士(ふじ)」や「桜(さくら)」を挙げておられました。先生も冥界で「令和」選定を喜ばれていると思います。
 また「令和」改元により、年号に国民の関心が寄せられることもよいことと思います。近畿天皇家以前の年号「九州年号(倭国年号)」にまで関心の輪が拡がるように、「古田史学の会」で発行した『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)と『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(明石書店)の二冊を歴史ファンに紹介していきたいと考えています。
 最後にお詫びを一つ。両書を各地の講演会で紹介したとき、「平成」の次の年号について、わたしの予想を紹介したのですが、残念ながらかすりもしませんでした。「令」の字は全くの想定外でしたし、「和」は「昭和」とかぶるので採用されないと説明してきました。「平成」改元のときは「平」の字が採用されることを、わたしは的中させたのですが、今回は見事に外れました。皆様、申し訳ありませんでした。


第1862話 2019/03/19

「複都制」から「両京制」へ

 本日は「市民古代史の会・京都」の講演会で正木裕さんが「聖武天皇も知っていた 失われた九州年号」というテーマで講演されました。初めて九州年号というものを知った参加者も少なくなく、好評でした。
 講演前に、前期難波宮を九州王朝の「複都」とするアイデアについて、正木さんの意見を求めたところ、「両京制(dual capital system)」と呼んでもよいのではないかと言われました。これは虚を突かれたような提案であり、なるほどと思いました。正木さんの見解はわたしの複都制よりも更に一歩進んで、太宰府や前期難波宮(難波京)の実態(条坊を持つ「京」)を明確に表した呼称であり、「複都(multi-capital city)」よりも「両京(dual capital city)」のほうがより正確な表現のように思いました。
 実は「複都制」も「両京制」も、古田先生が既にその存在を指摘されています。はやくは『失われた九州王朝』(第5章の「遷都論」)に九州王朝の遷都を示唆する記述があり、講演会でも「天武紀」に見える「信濃遷都計画」について言及されていました。たとえば『古田史学会報』No.32(1999年6月3日)掲載の「古田武彦氏講演会(四月十七日)」の次の記事です。

【以下、転載】
 二つの確証について
  --九州王朝の貨幣と正倉院文書--
(前略)この銭(冨本銭のこと:古賀)が天武紀十二年に現われる銅錢にあたるという。そうすると厭勝銭とは思えない。まじない銭に詔勅を出すだろうか?。このときの詔勅では「今後、銅銭を使え、銀銭は使うな」とある。銀銭には反感を持っていて、使用禁止。『日本書紀』は信用できないか?。いや、この点は信用できる。「法隆寺再建論争」で喜田貞吉は『書紀』の記述のみを根拠に再建説をとり、結局正しかった。「焼けもせぬものを焼けたと書くか?」という論理しか根拠はなかった。『書紀』が信用できない点は、年代や人物のあてはめなどイデオロギーに関するものであって、事物や事件は基本的に「あった」のだ。(中略)
天武紀十三年に「三野王らを信濃に遣わす」の記事あり、このとき携行したのかとの説がある。都を移す候補地を探したというが、近畿天皇家の天武がなぜ長野に都を移そうとするのか?ウソっぽい。白村江戦後、唐の占領軍は九州へ来た。なぜ近畿へ来なかったのか?納得できる説明はない。九州王朝が都を移そうとし、『書紀』はこれを二十四年移して盗用したのではないか?。
 朝鮮半島の情勢に恐怖を感じて遷都を考えたことはありうる。なぜ長野か?。海岸から遠いから。太平洋戦争のとき松代に大本営を移すことを考えたのに似ている。(後略)
【転載終わり】

 「両京制」についても、『古田史学会報』36号(2000年2月)で「『両京制』の成立 --九州王朝の都域と年号論--」を発表され、七世紀前半における九州王朝の太宰府と筑後の「両京制」について論じられています。
 このように古田先生は早くから九州王朝の複都制を前提とした「両京制」の存在を指摘されておられますから、同様に七世紀後半における「太宰府」と前期難波宮(難波京)を「両京制」と見なす正木さんのご意見は妥当なものと思われるのです。


第1858話 2019/03/14

『「邪馬台国」はなかった』の「論証」と「実証」(3)

 「学問は実証よりも論証を重んずる(村岡典嗣)」という言葉は、「実証を軽視してもよい」という意味ではないと、わたしは繰り返し注意を促してきました。また古田先生が使用する「実証的」という言葉はポジティブな意味で使用されていることも指摘してきました。西洋哲学では「実証主義」は否定されており、それを乗り越えるものとして「論理実証主義(論理経験主義)」、更には「反証主義」が提唱されたことも「洛中洛外日記」で連載しています。そこで『「邪馬台国」はなかった』では「実証」がどのような意味やケースで使用されているかを、それこそ実証的に見てみることにします。
 『「邪馬台国」はなかった』に見える「実証」という言葉の、現時点での検索結果は下記の8例です。この中で、「実証的」という言葉で使用されたのは①③④⑥⑦の5例で、最もよく使用されています。いずれも「実証的」という言葉はポジティブな意味で使用されていることがわかります。この場合の「実証的」の反対語は「恣意的」「主観的」という言葉であり、学問的にはネガティブなものです。
 他方、②のケースは〝実証の刃のもろさ〟とあるように、「実証」という方法論の持つ弱点を指摘されたケースです。この例からもわかるように、古田先生は「実証」のもつ危うさを踏まえておられ、これも村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という方法論に通ずる姿勢と言えるでしょう。「実証」を用いる場合に「論証」の支えが必要とされた加藤さんや茂山さんと同じ理解なのです。
 最後に注目されるのが⑧の「叙述上、一種の実証主義(実地接触したものだけを書く)」という表現です。ここでの「実証主義」は西洋哲学における広義の「実証主義」ではなく、「叙述上、一種の」「(実地接触したものだけを書く)」という読者への説明を付記され、限定的な意味として、用心深く「実証主義」という言葉を使用されていることがわかります。
 このように『「邪馬台国」はなかった』において、「論証」が「実証」よりも遙かに頻繁に使用されているという〝多数決〟の問題に留まらず、その使用内容を見ても、古田先生が「実証」よりも「論証」を重んじておられることは明白です。その上で付け加えておきますが、そのことは「実証を軽視してもよい」という意味では全くないということです。更に言うならば、古田先生や村岡先生の「論証を重視する」という学問姿勢を支持し、受け継ぎたいと願っているわたしを批判されるのも「学問の自由」ですし、「師の説にななづみそ」ですから、全くかまいません。ただし、その場合は「古賀が支持する古田や村岡の学問の方法に反対である」と自らの立場を明確にしてからにしていただきたいと思います。

『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版・昭和52年)の中の「実証」の全調査一覧 ※〈〉内は古賀による注。

【実証】
①〈ヴルネル・イェガーによるアリストテレスの著述年代研究〉こういった実証的な手法を徹底的につきすすめた結果、従来の定説体系はもろくも崩壊し去った。(序章 わたしの方法 p.28)
②〈服部之総『親鸞ノート』の評価〉しかしながら、新鮮な服部の批判は、裏面に意外な〝実証の刃のもろさ〟をもっていた。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.173)
③この「一万二千余里」が、「実定里」か「誇大里」かという問題を実証的に解くために、わたしたちのなさねばならない作業は、明白にして単純である。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.183)
④なぜなら、そのような立言(陳寿の数値記述上の偏向性の指摘)を学問的にするためには、『三国志』全体の数値記述を実証的に検討しなければならないからである。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.204)
⑤だから、文献研究にとっては、〝その文献解読自体の実証性を、あくまで徹底する〟ーーそれが根本であり、考古学との対照は、次の次元に属するのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.283)
⑥この信念〈天皇家中心主義〉は、彼〈本居宣長〉の生涯の著述『古事記伝』の実証的成果を生んだ生ける原動力だった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
⑦しかし、ここではその同じ理念が先入観となり、九州に行路記事の帰結を見たはずの、かれ〈本居宣長〉の「実証的な目」を永くおおい去ることとなった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
⑧こうしてみると、ここはやはり、叙述上、一種の実証主義(実地接触したものだけを書く)と禁欲主義(実地接触しなかったものは書かない)が原則として厳守されていると見るほかないのである。(第六章 新しい課題 p.379)


第1857話 2019/03/13

『「邪馬台国」はなかった』の「論証」と「実証」(2)

 古田先生から教えていただいた「学問は実証よりも論証を重んずる(村岡典嗣)」という学問に対する姿勢や方法に対して、「『学問』は『実証』を積み重ねて『論証』に至るものだと、古田先生は各著書で示されている」という批判が寄せられたことがありました。論理学や哲学用語としての「実証」や「論証」の定義からみても意味不明の主張でしたが、わたしが驚いたのは、古田先生の著作のどこをどう読めば、このような理解が可能となるのだろうかという点でした。こうした疑念を抱いていましたので、安藤哲朗さんの『「邪馬台国」はなかった』の全文中から「論証」と「実証」を検索するという試みに、強い関心を抱き、わたし自身も検索を行ったわけです。
 今回の検索結果を一瞥しただけでもわかるように、同書は「論証」で埋め尽くされた一書で、古田先生がそれら論証に込められた強い思いは、最末尾の「あとがき」にも記された、「論証」という言葉を使った次の一文からも理解できるでしょう。

 「ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証(あかし)である。」(あとがき p.400)

 こうした「論証」の〝洪水〟ともいえる『「邪馬台国」はなかった』のどこをどう読めば、「『学問』は『実証』を積み重ねて『論証』に至るものだと、古田先生は各著書で示されている」などという理解が可能になるのでしょうか。
 同書に示された古田先生の学問の方法は、代表的一例をあげれば、まず従来説を紹介し、史料根拠を明示され、それに基づく従来説への反証と自説成立の論理性を繰り返し説明され、それら各論証の連鎖により古田史学(邪馬壹国説、博多湾岸説、短里説など)の全体像を提起する、というものです。「論証は学問の命」とわたしたちに語っておられた古田先生の学問の方法と姿勢は、処女作から晩年に至るまで変わることなく貫き通されているのです。(つづく)


第1856話 2019/03/12

『「邪馬台国」はなかった』の「論証」と「実証」(1)

 「洛中洛外日記」1848話の〝「実証主義」から「論理実証主義」へ(3)〟で、『多元』No.150の安藤哲朗さん(多元的古代研究会々長)の論稿「怠惰な読書日記」を紹介しました。同稿で安藤さんは、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』から「論証」と「実証」という二つの言葉の使用例の検索結果を示され、「論証」が21例、「実証」が1例であったとされました。古田先生が古代史の処女作において、「実証」と「論証」をどのように、どのくらい使用されたのかを、それこそ実証的に検証されたものです。
 わたしも強い関心を抱き、『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版・昭和52年)を用いて同じ調査を行ったところ、現時点での検索結果として、「論証」が32個(+2個、文庫版のあとがき)、「実証」は8個を数えました。おそらくまだ見落としがあると思いますが、その大勢は変わらないと思います。なお、安藤さんの調査結果とは異なっていますが、それは検索基準の違いや、見落としなどによるものと思います。しかし、両者の調査結果の傾向(「論証」と「実証」の使用頻度)は一致しています。
 検索結果には、古田先生の学問の方法や姿勢が明確に現れており、この検索事実に基づいて、次回ではそのことについて論じます。(つづく)

『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版・昭和52年)の中の「実証」と「論証」の全調査一覧 ※〈〉内は古賀による注。

【論証】
○なぜなら、「二つの論証」を無視しているからである。(序章 わたしの方法 p.17)
○わたしは、学問の論証はその基本において単純であると思う。(序章 わたしの方法 p.27)
○論証はあくまで地についた基礎からはじめねばならない。(序章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.27)
○しかし、わたしはこの一件の論証を終えてのち、つくづくと思わないわけにはいかなかった。(第一章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.58)
○以上の論証で明らかになった点をまとめてみよう。(第一章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.85)
○その一点を徹底的に論証しよう。(第一章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.97)
○もう論証は終わった。(第二章 いわゆる「共同改定」批判 p.145)
○それが明確に論証される前に、(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.149)
○その〝未論証の、推定された地点〟をもとにして、原文面を改定するのは、非学問的な「恣意的改定」にすぎぬ。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.149)
○しかし、今までの論証によってわかるように、このような考えは、〝陳寿は倭国を「会稽東冶」の東と考えていた〟という、あやまった認識を基礎としている。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.156)
○これで「論証」になると思う人はいないであろう。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.158)
○このような論証のあやまりなきことを追証するのは、先の(二)の例である。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.187)
○ながながと論証をつづけてきた、その結論は意外にも簡単だった。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.200)
○しかるに、これらの論者は、〝陳寿の虚妄〟を説くのに急であって、この論証をみずからに怠ったのではあるまいか。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.207)
○この点、非常に重大な問題であるから、「韓国内、陸行」という事実をさらに論証し、確定しておこうと思う。(第四章 邪馬壹国の探求 p.220)
○最後に、「韓国内、陸行」を証明する、もっとも簡明な論証をのべよう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.221)
○以上の論証に対して、ある読者は直ちにつぎのように反問するだろう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.244)
○以上の論証をさらに堅固にするために、陳寿が、数値とその計算結果をどのように書き記しているか、その特徴を示そう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.252)
○以上の論証を通って、わたしたちはいよいよ「邪馬壹国」の所在地を実地に測定できる地点に達した。(第四章 邪馬壹国の探求 p.256)
○それゆえ、わたしのこれまでの論証は、一切の「考古学の成果」に対する顧慮を無視して、行われたのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.281)
○しかし、つぎに、論証の到達点に立った今、考古学上の成果との交渉を考えることは、許されるであろう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.284)
○なぜなら、三世紀の近畿の人口・戸数そのものが別史料により明らかにかにしえぬ以上、内藤の推論は「論証力」をもたないのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.305)
○さて、このように「実地踏破ーー実地記録」の上に立つ叙述という陳寿の主張がけっして架空のものではなかったことは、今までの論証において、すでに十分にのべた。(第六章 新しい課題 p.376)
○わたしは、この本において、あらかじめ女王国を博多湾岸へもってゆこうと、いわば〝目検討〟をつけておいてから、論証をはじめたのでは、けっしてなかった。(第六章 新しい課題 p.387)
○しかし、わたしとしては、わたしの論証の立場をつらぬくほかない。(第六章 新しい課題 p.383)
○逆に、「論証が、いやおうなく、わたしを博多湾岸に導いた」それだけなのである。(第六章 新しい課題 p.387)
○だから、この十八字〈又有裸国・黒歯国、復在其東南。船行一年可至。〉について、わたしが今までの論証方法に従い、(第六章 新しい課題 p.387)
○今までの論証経験を生かし切ったとき、そのとき、どんな予想外の地点にわたしが至ろうとも、それはわたしの関知するところではない。(第六章 新しい課題 p.387)
○なぜなら、それはわたし自身さえどうしようもないこと、いわば論証力の支配に属することだからである。(第六章 新しい課題 p.387)
○だから、今は論証のむかうところを簡明に箇条書きしてみよう。(第六章 新しい課題 p.388)
○日本古代史の「先像」に対して、この本の論証でとった方法論と同一の目で、見つめ直してみる、ーーこの道しかない。(第六章 新しい課題 p.398)
○もはや鳥瞰図は完成し、論証はふたたび自動的に展開している。(第六章 新しい課題 p.399)
○ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証である。(あとがき p.400)

◎この簡単な「津軽海峡の論証」によって、近畿を倭国の都とする一切の理論は一気に崩れ去るほかない。(文庫版あとがき p.408)
◎わたしはこのような単純な論証、子供のような目に、今はじめて到達できたようである。(文庫版あとがき p.408)

【実証】
○〈ヴルネル・イェガーによるアリストテレスの著述年代研究〉こういった実証的な手法を徹底的につきすすめた結果、従来の定説体系はもろくも崩壊し去った。(序章 わたしの方法 p.28)
○〈服部之総『親鸞ノート』の評価〉しかしながら、新鮮な服部の批判は、裏面に意外な〝実証の刃のもろさ〟をもっていた。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.173)
○この「一万二千余里」が、「実定里」か「誇大里」かという問題を実証的に解くために、わたしたちのなさねばならない作業は、明白にして単純である。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.183)
○なぜなら、そのような立言(陳寿の数値記述上の偏向性の指摘)を学問的にするためには、『三国志』全体の数値記述を実証的に検討しなければならないからである。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.204)
○だから、文献研究にとっては、〝その文献解読自体の実証性を、あくまで徹底する〟ーーそれが根本であり、考古学との対照は、次の次元に属するのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.283)
○この信念〈天皇家中心主義〉は、彼〈本居宣長〉の生涯の著述『古事記伝』の実証的成果を生んだ生ける原動力だった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
○しかし、ここではその同じ理念が先入観となり、九州に行路記事の帰結を見たはずの、かれ〈本居宣長〉の「実証的な目」を永くおおい去ることとなった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
○こうしてみると、ここはやはり、叙述上、一種の実証主義(実地接触したものだけを書く)と禁欲主義(実地接触しなかったものは書かない)が原則として厳守されていると見るほかないのである。(第六章 新しい課題 p.379)


第1855話 2019/03/10

「実証主義」から「論理実証主義」へ(5)

 加藤健さんの〝実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠〟という感想や、茂山憲史さんの〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が保証される〟という学問の方法について、古田先生が扱われた具体的事例で説明します。
 名著『失われた九州王朝』において、古田先生は『旧唐書』倭国伝・日本国伝について一節(第四章Ⅱ 二つの王朝)を設けられ、倭国が九州王朝、日本国が大和朝廷であることを論証されています。古田学派の論者の中には、この倭国伝と日本国伝併記を史料根拠として、多元史観・九州王朝が実証されたとする理解があります。この理解は必ずしも誤りではありませんが、同書を読んでわかるように、古田先生は両伝の史料批判と論証を繰り返されています。特に倭国伝に記された倭国が大和朝廷ではないことを、『日本書紀』との対比により徹底して行われています。それが〝倭国伝・日本国伝併記を史料根拠として多元史観・九州王朝説を実証できた〟とするような単純な学問の方法ではないことは明らかです。
 それではなぜ古田先生はこれほど論証を重ねられたのでしょうか。それは一元史観による通説への反証のためです。通説では『旧唐書』の倭国伝・日本国伝併記を『旧唐書』編者の誤りとし、倭国も日本国も大和朝廷のことであり、同一王朝による倭国から日本国への国名変更が、別国のことと間違って併記されたと見なしています。もちろん、通説も史料根拠と論証により学問的仮説として成立しています。およそ次のようなものです。箇条書きにします。

①国内史料(記紀、風土記、他)によれば、倭国も日本国も大和朝廷であり、史料根拠が確かである。別国とする国内史料はない。
②7世紀末頃の藤原宮出土木簡に「倭国添布評」とあり、当地が倭国と称されていたことが実証されている。
③『大宝律令』などにより大和朝廷は遅くとも8世紀初頭には日本国を名乗っており、大和朝廷が倭国から日本国へと国名変更していたことは明確である。
④中国史書(正史)の夷蛮伝には地名や人名などの間違いが散見されており、『旧唐書』も同様に倭国と日本国を別国と誤ったと考えても問題ない。
⑤『新唐書』では日本国伝のみに訂正されており、中国でも『旧唐書』の二国併記が誤りであったと認識されていた。

 一元史観論者との論争(他流試合)の経験がない古田学派の方は、こうした通説成立の根拠や論理構造をご存じないことが多いようです。他方、古田先生は通説とその根拠や論理を明確に認識されていたからこそ、『旧唐書』の倭国が大和朝廷ではないことを徹底的に論証されたのです。こうした古田先生の学問の方法こそ、加藤さんや茂山さんが指摘された方法、すなわち〝実証を実証たらしめるための精緻な論証〟であり、〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度を保証〟したものなのです。この古田先生の学問の方法と、それを表した村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」の持つ意味を古田学派の皆さんには正しく理解していただきたいのです。(つづく)