古田武彦一覧

第2334話 2020/12/30

『多元』No.161の紹介

 先日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.161が届きました。拙稿「アマビエ伝承と九州王朝」を掲載していただきました。コロナ禍の中、注目されたアマビエ伝承と九州王朝との関係について論じたものです。
 肥後の海に現れたとする「アマビエ」の元々の名前は「アマビコ」であり、「コ」が「ユ」と誤記誤伝され「アマビユ」になり、更に「ユ」が「エ」と誤記誤伝され「アマビエ」になったと考え、本来は肥後の古代伝承にある「蜑(アマ)の長者」のことではないかとしました。もちろん、この「蜑の長者」とは九州王朝の王族のことです(注)。
 当号には、大墨伸明さん(鎌倉市)による「古田武彦記念古代史セミナー2020の開催報告」が掲載されていました。本年11月に開催された同セミナーの報告が要領良くなされています。わたしは古代戸籍に遺る二倍年暦(二倍年齢)の痕跡について報告しましたが、発表時間が30分と短かったので、A4で20頁に及んだ予稿集の内容全てを説明することができませんでした。新年になりましたら、「洛中洛外日記」で拙論の論理構造と学問の方法に焦点を当てて、わかりやすく解説したいと思います。

(注)「洛中洛外日記」2212~2215話(2020/08/24~27)「アマビエ伝承と九州王朝(1~4)」


第2324話 2020/12/16

新井白石の学問(2)

 古田先生の九州王朝説は、主に『隋書』や『旧唐書』などの歴代中国史書を史料根拠として成立しています。そしてそれは、大和朝廷が自らの利益に基づいて編纂した『日本書紀』よりも、中国正史の夷蛮伝の方がその編纂目的から、可能な限り正確に夷蛮の国々の情報を記載しようとするばず、という論理的考察(論証)に基づいています。他方、従来説は『日本書紀』が描く日本列島の国家像の大枠(近畿天皇家一元史観)を論証抜きで是とすることにより成立しており、それに合わない中国史書の記述は信頼できないとして切り捨ててきました。
 こうした国内史料と海外史料の史料性格の違いなどから、日本古代史研究において海外史書を重視した学者が新井白石でした。白石が生まれた明暦三年(1657)、水戸藩では藩主徳川光圀の命により『大日本史』の編纂が開始されました。『大日本史』三九七巻は明治三九年(1906)に完成するのですが、白石はこの編纂事業に当初期待を寄せていました。しかし、その期待は裏切られ、友人の佐久間洞巌宛書簡の中で次のように厳しく批判しています(注)。

 「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」(『新井白石全集』第五巻、518頁)

 日本古代史の真実を見極めるためには『日本書紀』『続日本紀』などの国内史料だけではなく、中国や朝鮮などの国外史料も参考にしなければならないという姿勢は、古田先生が中国史書の史料批判により九州王朝説を確立されたのと相通じる学問の方法です。江戸時代屈指の学者である白石ならではの慧眼です。比べて、日本古代史学界の現況は、白石がいうところの「おおかた夢のなかで夢を説くようなこと」をしている状態ではないでしょうか。(おわり)

(注)現代語訳は中央公論社刊『日本の名著第十五巻 新井白石』所収桑原武夫訳に拠った。


第2317話 2020/12/11

「村岡典嗣先生の思い出」

 「洛中洛外日記」2315話(2020/12/11)〝波多野精一氏と古田先生の縁(えにし)〟で、「波多野精一氏のお名前を古田先生から直接お聞きした記憶はありません」と書いたのですが、30数年前に行われた梅沢伊勢三さん(注①)との対談で、波多野精一さんについて古田先生が触れられていたことを失念していました。この対談を掲載した雑誌の記事を安田陽介さん(注②)からFacebookのコメントにて教えていただきました。
 『季節』第12号(エスエル出版、1988年)「特集 古田古代史学の諸相」に、古田先生と梅沢さんの対談(「村岡典嗣先生の思い出」)が掲載されており、古田先生が村岡先生の奥様より聞いた次の話を紹介されています。

〝波多野さんが「私は、西洋哲学については日本で最高の学問をやるつもりだ。だから君(村岡氏)は日本の思想を対象にして最高の学問を築きたまえ」と、こう言われた。それで村岡さんが非常に発憤して、よしやろうと決心したという話をお聞きしたんです。それはやっぱり明治の青年の非常に気合いにあふれた雰囲気ですね。波多野さんも講師ですから若い、まだ三十そこらのときだと思うんですが、二十代の村岡さんとね、夜を徹して話し合っている……まざまざとそれが伝わってくる話ですね。〟(74~75頁)

 この他にも、村岡先生について次のように紹介されていますので、抜粋します。古田先生の学問精神に通じるものを感じていただけると思います。

《以下、部分転載》
梅沢 あなたは何年に入学(東北大学)したのだったかね。
古田 昭和二十年の四月です。敗戦の直前ですね。
梅沢 僕が研究室の助手をしていたころだね。
古田 そうです。
梅沢 村岡典嗣先生の最後の弟子になるわけか。
古田 そうです。亡くなられたのが、昭和二十一年の四月でございましたね。だからほんとに最後のギリギリに村岡先生とお会いした感じてしたね。
梅沢 先生が亡くなられたのは六十一歳ですよ。
古田 それじゃいまの私と同年です。ずいぶんとお歳をめした先生だと思っていたんですが。いまの私がそうなんですか。
梅沢 いま、ご健在でいられたら、あなたのやっていることなんか見て、なんといわれるか。
古田 ほんとうに先生にご報告したいところですね。
 〈中略〉
梅沢 (前略)村岡先生ご自身が早稲田出身で、波多野精一さんに非常に目をかけられて、哲学をやられたわけです。早稲田の学内での発表会でもギリシャ哲学の発表をされています。(後略)
古田 その波多野さんに関して、非常に面白い話を、私は村岡先生の奥さんからお聞きした覚えがあるんです。奥さんは、与謝野晶子とか柳原白蓮とかの仲間だった方ですが、非常に素晴らしいムードを持っておられた方でしたね。村岡先生も熱烈な恋愛をして、奪いとった奥さんだったという話を聞くんですけど。波多野さんが早稲田大学の講師をしておられるときに、村岡先生は波多野さんのお家にしょっちゅう行って話をしていた。話をしだすともう話がはずんで、夜が明けてきても話してる。波多野さんのお家が狭いもので、お客さんが帰らないと家の人が寝る場所がない。小さい子供さんが隣の部屋で苛立ってきて「お客さん帰れ帰れ」って叫ぶんだそうです。村岡先生は、それが耳に入っているんだけど、話に熱中して、なお頑張り続けて話していたという話を、波多野さんの奥さんから村岡さんの奥さんがお聞きになったらしいんです。(以下、先に紹介した波多野氏と村岡先生との会話の紹介へと続く)

(注)
①水野雄司著『村岡典嗣』(ミネルヴァ日本評伝選、2018年)には「晩年の村岡が最も信頼した門弟の梅沢伊勢三(一九一〇~八九)」(222頁)と紹介されている。
②安田陽介氏は京都大学学生時代(国史専攻)に、「市民の古代研究会」で「続日本紀を読む会」(京都市)を主宰され、わたしも参加させていただいた。この会からは安田氏編著『「続日本紀を読む会」論集』創刊号(1993年7月)が発行されている。
 九州年号研究においては、「大化五子年土器」の現地調査に基づく優れた研究(「九州年号の原型について」)を、1993年7月31日の「市民の古代研究会」全国研究集会(京都市で開催)で報告された。


第2316話 2020/12/10

『本居宣長』と『秋田孝季』

 この数日は小林秀雄さんの『本居宣長(もとおり・のりなが)』(新潮社、1977年)を読んでいます。大著ですので、最初に〝斜め読み〟してから、面白そうなところを再読しています。『本居宣長』といえば、村岡典嗣先生の『本居宣長』(警醒社書店、1911年。岩波書店、1928年)が学界では有名です。小林秀雄さんも先の書で次のように評価しています。

 「村岡典嗣氏の名著『本居宣長』が書かれたのは、明治四十四年であるが、私は、これから多くの教示を受けたし、今日でも、最も優れた宣長研究だと思ってゐる。村岡氏は、決して傍観的研究ではなく、その研究は、宣長への敬愛の念で貫かれてゐるのだが、それでもやはり、宣長の思想構造といふ抽象的怪物との悪闘の跡は著しいのである。」小林秀雄『本居宣長』19頁

 いつの頃だったか忘れましたが、古田先生との会話のなかで、村岡先生の『本居宣長』が話題に上ったことがありました。そのとき、古田先生は次のように言われました。

 「村岡先生が『本居宣長』を書かれたように、わたしは『秋田孝季(あきた・たかすえ)』を書きたいのです。」

 秋田孝季は江戸時代の学者で、『東日流外三郡誌』を初めとする和田家文書の編著者です。結局、それは果たせないままに先生は物故されました。ミネルヴァ書房の杉田社長が先の八王子セミナーにリモート参加され、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされましたが、恐らくはそれが『秋田孝季』だったのではないかと推定しています。
 古田先生が果たせなかった『秋田孝季』をわたしたち門下の誰かが書かなければなりません。まずは、和田家文書中の「秋田孝季」関連記事の悉皆調査とデータベース化が必要です。どなたかご協力いただければ幸いです。


第2315話 2020/12/09

波多野精一氏と古田先生の縁(えにし)

 『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)の巻頭文〝「短里」と「長里」の史料批判 ――フィロロギー〟によれば、古田先生はお亡くなりになる二ヶ月前に波多野精一氏の『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を読んでおられたようです。
 歴史学の先達のお名前は古田先生からお聞きすることがよくありましたが、哲学者として高名な波多野精一氏のお名前を古田先生から直接お聞きした記憶はありません。ですから、同巻頭文の終わりに突然のように記された波多野精一氏やその著書『時と永遠』を意外に感じました。そのことが気になりましたので、波多野精一氏のことを調べてみたところ、古田先生と不思議な御縁があることを知りました。
 ウィキペディアには、波多野精一氏を次のように紹介しています。
【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)】
波多野 精一(はたの せいいち、1877年7月21日~1950年1月17日)は、日本の哲学史家・宗教哲学者。玉川大学第2代学長。
 西田幾多郎と並ぶ京都学派の立役者。早大での教え子には村岡典嗣、東大での教え子には石原謙、安倍能成、京大での教え子には田中美知太郎、小原国芳らがいる。また指導学生ではないが、波多野の京大での受講者で波多野から強い影響を受けたとされる人物に三木清がいる。〔転載終わり〕

 古田先生の恩師の村岡典嗣先生の早大時代の先生が波多野氏だったのでした。そうすると、古田先生は波多野氏の孫弟子に当たるわけです。また、同略年譜によれば、長野県筑摩郡松本町(現:松本市)生まれとのこと。偶然かもしれませんが、古田先生が松本深志高校で教師をされていたこともあり、不思議な縁を感じました。
 恐らく古田先生は波多野氏が村岡先生の恩師だったことをご存じのはずです。水野雄司著『村岡典嗣』(ミネルヴァ日本評伝選、2018年)には、「村岡は、早稲田大学にて波多野に出会い、そして終生、篤く敬慕した。村岡にとっての波多野は、大学時代の一教員には止まらず、学問に挑む姿勢から方向性の指導、そして実際の生活についての支援まで、生涯にわたって支えられた人物となっていく。」とあり、恩師を慕う気持ちと学問精神が引き継がれていることに感銘を受けました。
 なお、村岡先生は終戦後すぐの昭和21年(1946)4月に61歳で亡くなられ、波多野氏は昭和25年(1950)に亡くなっておられます。波多野氏の晩年の著作『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を古田先生がご逝去の直前に読んでおられたことにも、学問が繋ぐ不思議な縁を感じざるを得ません。


第2314話 2020/12/08

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(5)

 景初元年短里開始説の論証に成功した西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の論文「短里と景初 ―誰がいつ短里制度を布いたのか―」が収録された古田史学の会編『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)は、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による編集の下、わたしたち「古田史学の会」が作り上げた渾身の一冊です。中でも短里の研究は白眉を為すもので、古田武彦先生の遺稿となった同書巻頭文〝「短里」と「長里」の史料批判 ――フィロロギー〟で、次のような過分の評価をいただきました。

〝「古田武彦はなかった」 ―― いわゆる「学会の専門家」がこの四~五年とりつづけた〝姿勢〟である。
 けれども、この一書(『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』)が出現し、潮目が変わった。新しい時代、研究史の新段階が出現したのである。
 「短里」と「長里」という、日本の古代史の、否、中国の古代史の〝不可欠〟のテーマがその姿をキッパリと姿を現した。
 この八月八日(二〇一五)はわたしの誕生日だ。この一書は、永年の「待たれた」一冊である。

 〔中略〕

 やがてわたしはこの世を去る。確実に。しかし人間の命は短く、書物や情報のいのちは永い。著者が死んだ時、書物が、生きはじめるのである。

 今、波多野精一さんの『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を読んでいる。
 この時期から今まで、ようやく「短里」と「長里」問題を、実証的かつ論証的に論ずることができる。具体的にそれを証明するための、画期的な研究史にわたしたちは、今巡り合うたのである。
 平成二十七年八月八日校了〟

 同書収録の拙稿「『三国志』のフィロロギー ―「短里」と「長里」混在理由の考察―」の原稿を読まれた古田先生からお電話があり、お褒めの言葉をいただきました。先生のもとで古代史を学び始めて三十年、叱られることの方が多かった〝不肖の弟子〟でしたが、最後にいただいたこのお電話は忘れがたいものとなりました。
 同書の上梓を前に先生は亡くなられ(二〇一五年十月十四日、八九歳)、この巻頭文は遺稿となりました。同書を企画編集された服部さんとミネルヴァ書房の田引さんに感謝申し上げます。(おわり)


第2309話 2020/12/04

古田武彦著『古代通史』が復刻(ミネルヴァ書房)

 ミネルヴァ書房(京都市)から古田武彦著『古代通史』(注①)が復刻されました。ミネルヴァ書房から贈呈していただいた同書には、『東日流外三郡誌』の編著者秋田孝季と和田長三郎の名前が記された寛政宝剣額(注②)のカラー写真(青山富士夫氏撮影)が掲載されており、和田家文書調査のため古田先生と二人で津軽半島を駆け巡った当時を思い出しました。
 同書には復刻にあたり、新たな二編が加えられています。冒頭の青木洋さんによる「復刊によせて」と古田光河さん(ご子息)による「あとがきにかえて」です。青木さんは自作のヨットで世界一周した著名なヨットマンです。倭人が太平洋を横断したとする説を発表された古田先生と懇意にされていた方です。古田光河さんは親子間の会話や想い出が紹介されており、古田先生の新たな一面をうかがい知ることができました。
 その「あとがきにかえて」にも紹介されていますが、同書冒頭の「投石時代から狩猟時代へ」に「論証」という言葉が繰り返し使われています。次の通りです。

 「なぜ違っているのかということの論証が必要」「新しい論証の連続」「論証をもとにして」「論証の連続」「論証が時代別に分かれている」(同書1頁)

 本編冒頭の一頁にこれだけ「論証」という言葉が見えます。古田先生がいかに論証を重視されていたのかおわかりいただけると思います。わたし自身も古田先生に私淑した30年間、次の言葉を繰り返し聞かされました。「論理の導く所へ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(注③)。「学問は実証よりも論証を重んずる」(注④)。「論証は学問の命」。これらの言葉の意味は古田先生の著書にも記されていますし、復刻された本書もこの精神で貫かれています。

(注)
①古田武彦『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』は原書房から1994年に発刊され、この度、ミネルヴァ書房から「古田武彦古代史コレクション27」として復刻された。
②青森県市浦村の山王日枝神社に奉納された宝剣額。「寛政元年(1789)八月一日」の日付を持ち、秋田孝季と和田長三郎(吉次)が『東日流外三郡誌』完成を祈願したもの。
③古田武彦『真実に悔いなし』(ミネルヴァ書房、2013年)によれば、旧制広島高校時代の恩師岡田甫氏から学んだソクラテスの言葉とのこと。
④村岡典嗣氏のこの言葉は次の論稿にて紹介されている。
 古田武彦「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」『文芸研究』100~101号。東北大学文学部、1982年。同論文は『多元的古代の成立・上』(駸々堂出版、1983年)に収録された。
 古田武彦『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』「日本の生きた歴史(十八)」ミネルヴァ書房、2013年にも紹介されている。


第2306話 2020/12/01

古田武彦先生の遺訓(15)

周代史料の史料批判(優劣)について〈前篇〉

 『論語』が成立した周代における二倍年暦(二倍年齢)研究のために、周代史料について調査勉強を続けてきました。そのなかで各種史料の優劣を見極める作業、史料批判について認識を改めることが多々ありました。そのことについて説明します。
 古田先生の下で研究や現地調査を行う中で、史料批判について具体例をあげて学んだことがありました。その代表的なものは次のようなことでした(順不同)。

①木簡などの同時代史料を優先する。
②より古い史料を優先する。ただし、『三国志』写本のような例外もある(書写年代がより古い紹興本よりも、新しい紹熙本が原文の姿「対海国」「一大国」を遺している)。
③同時代金石文を優先する。ただし、金石文成立時の作成者の意思(作成目的)や認識(当時の常識)の影響を受けており、史実と異なる可能性があることに留意が必要。
④史料性格を分析し、史料作成目的を把握する。
⑤史料内容が関連諸学や安定して成立している先行説と整合しているか。
⑥現代の認識では理解できない、あるいは矛盾し、誤りと思われる内容にこそ、当時の古い姿が遺されているケースもあり、注意が必要。安易に原文改訂してはならない。

 このようなことを折に触れて教えていただきました。文献史学では、まずこの史料に対する目利き(史料批判)が重要です。ところが、周代史料の場合、史料状況がもっと複雑であり、より論理的な深い考察が史料批判に求められていることに気づきました。(つづく)


第2304話 2020/11/29

『古代に真実を求めて』24集の巻頭言

 本日、ようやく『古代に真実を求めて』24集の巻頭言を書き終えました。これまでになく、今回は巻頭言に苦しみました。というのも、谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)からいただいた「巻頭論文」があまりにも立派で、それに見合う巻頭言となると、今までとは全く異なるものにしなければならないと、この半月ほど悩みに悩んできたのです。そして、苦しみながらも昨日から二日間ほど自室にこもり、ようやく書き上げました。
 その結果、巻頭言らしくない巻頭言となり、次のような項目に仕立てあがりました。読者や冥界の古田先生からの評価はいかに。

【『古代に真実を求めて』24集巻頭言】
『「邪馬台国」はなかった』の論理と系
          古田史学の会 代表 古賀達也

○はじめに
○『「邪馬台国」はなかった』を初めて読まれる方へ
○『「邪馬台国」はなかった』を既に読まれた方へ
○「陳寿を信じとおす」という学問の方法
○論理の導く所へ行こうではないか

 以上の小見出しを立て、次の一文で巻頭言を締めくくりました。

〝この「ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証(あかし)である」という言葉に、「論証は学問の命」と通底する著者の気迫と学問精神がうかがえるのではあるまいか。であれば、「陳寿を信じとおす」という学問の方法の行く着く先がどこであっても、著者が怯(ひる)むことはありえない。著者を師と仰ぎ、本書を上梓したわたしたちもまた、同様である。〟


第2298話 2020/11/18

新・法隆寺論争(7)

法隆寺金堂の「薬師如来像」白鳳仏説

 法隆寺は古田史学・多元史観と通説・近畿天皇家一元史観が直接的にぶつかり合う重要寺院です。その代表例が九州王朝の天子(阿毎多利思北孤)のために造られた釈迦三尊像と近畿天皇家の「天皇」のために造られた薬師如来像の存在です。
 釈迦三尊像が七世紀前半の仏像であることに異論はほとんど見られないのですが、薬師如来像は七世紀前半の「推古仏」とする説の他に、七世紀後半の白鳳仏とする説があります。当初、古田先生は前者の立場に立たれ、光背銘に見える「天皇」号を根拠に、近畿天皇家は七世紀初頭頃からナンバー2としての「天皇」号を称していたとされました(注①、古田旧説)。もちろん、ナンバー1は九州王朝(倭国)の天子です。なお、古田先生は晩年に、近畿天皇家が「天皇」号を称したのは王朝交替後の701年から(古田新説)と自説を変更されています(注②。わたしは古田旧説を支持してきました)。
 この薬師如来像を白鳳仏とする見解を二つ紹介します。一つは小川光暘・笠井昌昭『古代の造形 奈良美術史入門』(注③)で、次のように述べられています。

 「銘文については、推古三十一年の釈迦三尊像の造像銘が完全な漢文で書かれているのにたいして、それより十五年あまりもさきの、この銘文が日本化した漢文体で書かれていること、はっきり薬師像をつくると記しているが、病気の平癒を祈願して薬師像をつくることは白鳳以前には例がなく、また天皇と書かれているのも推古十五年(六〇七)当時のものとしてはおかしいということなどから、推古十五年に書かれたものとは次第に考えにくくなったのである。
 つぎに様式上はどうかというと、写真を比較してもわかるように、飛鳥時代の仏像に釈迦三尊におけるように顔の面長であるのが特徴だが、この像では頬にはりがでてきて、丸顔に近くなってきていること、杏仁形を特徴とする目も、下瞼の線のカーブがゆるく直線的になってきていること、また衣文の線条もやわらかみを加えており、釈迦三尊像では強く末広がりに張っていた裳掛が、この像では比較的垂直にたれ下がってきていること、などがあげられる。これらの要素は視覚的には平面的から深奥的への深まりを示し、次期白鳳期の仏像様式につながるものをもってきているのである。
 これらの点から、この像は、推古十五年につくられた最初の法隆寺とその本尊が天智天皇のころに焼失したのち、法隆寺の再建に当って、飛鳥時代の様式をできるだけ忠実に追いつつ、つくられたものではないかと想像される。」同書45~46頁

 次に、上原和『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』(注④)の記事を紹介します。

 「しかし、ここで、この薬師像の銘文をよく読んでみると、いろいろ疑問が生じてくる。(中略)それに、用明が亡くなって二十年以上もすぎてからの追善供養に、薬師像が造られるということも、常識的に考えてみて、いかにもおかしいし、だいいち薬師像の造像自体が、中国の造像例で見るかぎり、この時点では、すこし早すぎるように思われる。それというのも、中国で薬師像がかなり盛んに造られるようになるのは、唐代に入ってからのことで、七世紀の後半になってのことであるからである。もっとも、いちばん早い遺作例としては、竜門石窟の古陽洞に、北魏の孝昌元年(五二五)銘のある薬師像が見られるが、これは、きわめて希有の遺例であって、竜門石窟の場合、その後、唐の儀鳳三年(六七八)に至るまで、一世紀半あまりの間、まったくその例を見ることはない。
 それに、なによりも決定的なことは、この法隆寺金堂の薬師像は、一見、止利仏師の作風に似通うものを思わせるのであるが、仔細に見るとそのかたちの性質は、すなわち、その表現様式は、まぎれもない、七世紀後半の白鳳時代のものであり、明らかに、法隆寺の再建された時点で止利様式に倣った擬古作であることを示している点である。試みに、現在、法隆寺の大宝蔵にある橘夫人厨子内の阿弥陀三尊像と比較するがいい。かたちの性質が、まったく同じであることに、読者は一驚するはずである。」同書142~143頁

 このように、薬師如来像を白鳳仏とする見解が以前からありました。ところが、昨日、京都市で開催された講演会(注⑤)で服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、同薬師如来像を釈迦像とする驚くべき仮説が発表されました。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房から復刻)
②古田武彦『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」(ミネルヴァ書房、2014年)
③小川光暘・笠井昌昭『古代の造形 奈良美術史入門』(芸艸堂、1976年)
④上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(朝日選書、1978年。)
⑤服部静尚「金石文よりみる天皇号・継体天皇と女系天皇」、「市民古代史の会・京都」主催講演会(2020年11月17日、キャンパスプラザ京都)での講演。


第2297話 2020/11/17

継体天皇「二倍年齢」の論理

 先日、開催された八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)はリモート参加と現地参加というハイブリッド方式での初めての試みでしたが、主催者や関係者のご尽力により成功裏に終わることができました。関西からリモート参加された方のご意見として、リモートでもよく聞き取れ、臨場感もあり、来年もリモート参加したいとのことでした。ちなみに、わたしと日野智貴さん(古田史学の会・会員、奈良大学生)の休憩時間中の会話をマイクが拾っており、楽しく聞いていたとのことでした(変なことをしゃべっていなければよいのですが)。天候にも恵まれ、大学セミナーハウスから遠くに見える富士山がきれいでした。

 わたしが発表した「二倍年暦」というテーマでは意見が対立する場面もあり、学問的にも論点や問題点が浮かび上がり、有意義でした。その中で鮮明となったのが次の点でした。

①二倍年暦という暦法と、二倍年齢という年齢計算方法について、分けて考えた方がよいケースがある。一倍年暦の時代でも、二倍年齢で計算する風習が遺存することがある。(古賀の主張)

②二倍年齢においては、春分点と秋分点で年齢を加算するという方法があり、この方法は暦法とは関係なく成立する。(荻上先生からのサジェスチョン)

③二倍年暦・二倍年齢の当否について、実証的な方法では決着が付かないケースがあるため、論理的な説明方法(論証)を重視する必要性がある。(今回、改めて考えさせられたこと)

 セミナーの司会・進行役の大墨伸明さん(多元的古代研究会)も述べられたのですが、「今回のセミナーで最も意見対立が鮮明なテーマ」として、倭国の二倍年暦説の是非についてどのような証明方法が説得力を持つのかについて考えてみました。この場合、説明責任・論証責任は「倭国では二倍年暦が採用されていた」とする側(通説と異なる新説発表側)にあります。
 たとえば、古代人に百歳を超えるケースが諸史料中に散見されるのですが、「古代でも百歳の人はいた」と主張する人に対しては、「古代において百歳もの長寿は無理。この百歳は二倍年齢表記である」という説明では〝水掛け論〟となり、説得できないのです。このような経験がわたしには幾度かあります。そこで、百歳のような長寿記事を史料根拠とする実証的な説明ではなく、論理的な説明、すなわち論証(根拠に基づく合理的な理屈による説明)によらなければならないと、わたしは考えました。一例として古田先生が『失われた九州王朝』(注)で展開された継体天皇の没年齢問題について説明したいと思います。
 第26代継体天皇は越前三国出身の豪族で、皇位継承でもめていた大和に〝介入〟して大和の統治者に即位した異色の人物です。その没年齢が『古事記』には43歳、『日本書紀』には82歳とあり、この約二倍の違いを持つ伝承の存在は二倍年暦によるものと考えざるを得ないという理屈をもって古田先生は論証とされました。
 この説明方法は、継体天皇が43歳で崩じたのか、82歳で崩じたのかという、寿命が論点ではありません。そうではなく、継体天皇の寿命について、どのような理由で約二倍も異なる伝承が発生したのかという説明の仕方の優劣が論点なのです。ですから、六世紀の古代人が82歳まで長生きできるか、できないかという〝水掛け論〟は不要です。「二倍年暦という仮説でうまく説明できる」という見解と、「どこかの誰かがたまたま二倍ほど間違えたのだろう」というような見解とでは、どちらが他者をより説得できるのかという、論理性(理屈)の優劣の問題です。このような論理性を競う論点の提示が、二倍年暦論争には必要と思われます。

(注)古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、1973年。ミネルヴァ書房から復刻。


第2285話 2020/11/07

上方落語勉強会特別公演を拝見

 本日、ご近所の京都府立文化芸術会館ホールでの上方落語勉強会特別公演を見に行きました。同会館落成50周年の記念落語会です。もちろん一番のお目当ては桂米團治師匠。コロナ禍で客席も半数に減らされての公演でしたが、久しぶりに大笑いさせていただきました。
 米團治師匠には「古田史学の会」を何かと応援していただいていることもあり、京都市での落語会には都合がつく限り寄せていただいています。古田先生のファンでもある米團治師匠とは、忘れがたい出会いや想い出があるのですが、中でも古田先生最後の公の場となったKBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」(注①)に古田先生とご一緒に出演させていただいたことは、今でも鮮明に記憶しています。その収録内容は『古代に真実を求めて』19集(古田史学の会編、明石書店。2016年)に掲載していますので、ご覧下さい(注②)。
ご高齢の古田先生の体調を気遣って、30分だけという約束での収録でしたが、先生はなんと2時間も米團治師匠との会話を続けられました。このときの様子が米團治師匠のオフィシャルブログに、次のように記されています。
 なお、公演での米團治師匠の落語は、素人目にもますます磨きがかかったもので、お顔もお父上の米朝師匠(人間国宝)に似てきたように思われました。

(注)
①2015年8月27日にKBS京都放送局で収録し、9月に三回に分けて放送された。その翌月の10月14日に古田先生はご逝去された。
②「古代史対談 桂米團治・古田武彦・古賀達也」(茂山憲史氏〔『古代に真実を求めて』編集部〕による抄録)

【桂米團治オフィシャルブログより転載】
2015.09.09《古田武彦さん登場 @KBS京都ラジオ》

 古田武彦さん──。知る人ぞ知る古代史学界の大家です。
 「いわゆる“魏志倭人伝”には邪馬台国(邪馬臺国)とは書かれておらず、邪馬壱国(邪馬壹国)と記されているのです。原文を自分の都合で改竄してはいけません。そして、狗耶韓国から邪馬壱国までの道程を算数の考え方で足して行くと、邪馬壱国は必然的に現在の福岡県福岡市の博多あたりに比定されることになります」という独自の説を打ち立て、1971(昭和46)年に朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』という本を出版(のちに角川文庫、朝日文庫に収録)。たちまちミリオンセラーとなりました。
 その後、1973(昭和48)年には、「大宝律令が発布される701年になって初めて大和朝廷が日本列島を支配することができたのであり、それまでは九州王朝が列島の代表であった」とする『失われた九州王朝』を発表(朝日新聞社刊。のちに角川文庫、朝日文庫に収録)。
 1975(昭和50)年には、「『古事記』『日本書紀』『万葉集』の記述には、九州王朝の歴史が大和朝廷の栄華として盗用されている部分が少なくない」とする『盗まれた神話』を発表(朝日新聞社刊、のちに角川文庫、朝日文庫に収録)。
 いずれも記録的な売り上げとなりました☆☆☆
 実は、芸能界を引退された上岡龍太郎さんも、以前から古田学説を応援して来られた方のお一人。
 「古田史学の会」という組織も生まれ、全国各地に支持者が広がっています。
 が──、日本の歴史学会は古田武彦説を黙殺。この45年間、「どこの国の話なの?」といった素振りで、無視し続けて来たのです。
 しかし、例えば、隋の煬帝に「日出づる処の天子より、日没する処の天子に書を致す。恙無きや」という親書を送った人物は、「天子」と記されていることから、厩戸王子(ウマヤドノオウジ)ではなく、ときの九州王朝の大王であった多利思比孤(タリシヒコ…古田説では多利思北孤=タリシホコ)であったと認めざるを得なくなり、歴史の教科書から「聖徳太子」という名前が消えつつある今日、ようやく古田学説に一条の光が射し込む時代がやってきたと言えるのかもしれません^^;
 とは言え、古田武彦さんは大正15年生まれで、現在89歳。かなりのご高齢となられ、最近は外出の回数も減って来られたとのこと。なんとか私の番組にお越し頂けないものかなと思っていたところ──。
 ひょんなことから、「古田史学の会」代表の古賀達也さんにお会いすることができたのです(^^)/
 古賀達也さんのお口添えにより、先月、私がホストを勤めるKBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」への古田武彦さんの出演が実現したという次第!
 狭いスタジオで、二時間以上にわたり、古代史に纏わるさまざまな話を披露していただきました(^◇^;)
 縄文時代…或いはそれ以前の巨石信仰の話、海流を見事に利用していた古代人の知恵、出雲王朝と九州王朝の関係、平安時代初期に編纂された勅撰史書「続日本紀」が今日まで残されたことの有難さ、歴史の真実を見極める時の心構えなどなど、話題は多岐に及び、私は感動の連続でした☆☆☆
 老いてなお、純粋な心で隠された歴史の真実を探求し続けておられる古田先生の姿に、ただただ脱帽──。
 古田武彦さんと古賀達也さんと私の熱き古代史談義は9日、16日、23日と、三週にわたってお届けします。
 水曜日の午後5時半は、古代史好きはKBSから耳が離せません(((*゜▽゜*)))
2015年9月9日 米團治


第2278話 2020/10/30

『神皇正統記』の国号「日本」説

 今日、古書店で安価(注①)に『神皇正統記 増鏡』(日本古典文学大系、岩波書店)を入手し、読んでいます。『神皇正統記』は、後醍醐天皇に仕えた北畠親房が神代から後村上天皇までの歴史概略などを著したもので、中世の知識人における古代認識を調べるため、再読することにしました。
 同書には国号「日本」について次の解説があり、特に興味深く拝読しました。

 〝大倭ト云コトハ異朝ニモ領納シテ書傳ニノセタレバ此國ニノミホメテ偁スルニアラズ(大漢・大唐ナド云ハ大ナリト偁スルコヽロナリ)。唐書「高宗咸亨年中ニ倭國ノ使始テアラタメテ日本ト號ス。其國東ニアリ。日ノ出所ニ近ヲ云。」ト載タリ。此事我國ノ古記ニハタシカナラズ。推古天皇ノ御時、モロコシノ隋朝ヨリ使アリテ書ヲオクレリシニ、倭皇トカク。聖徳太子ミヅカラ筆ヲ取リテ、返牒ヲ書給シニハ、「東天皇敬(つつしみて)自(もうす)西皇帝。」トアリキ。カノ國ヨリハ倭ト書タレド、返牒ニハ日本トモ倭トモノセラレズ。是ヨリ上代ニハ牒アリトモミエザル也。唐ノ咸亨ノ比ハ天智ノ御代ニアタリタレバ、實(まこと)ニハ件ノ比ヨリ日本ト書テ送ラレケルニヤ。〟『神皇正統記 増鏡』43~44頁

 北畠親房は『新唐書』の記事を根拠に、天智天皇の頃から外交文書に「日本」という国号が使用され始めたと認識しています。もちろん一元史観に立った認識ですが、『日本書紀』などの国内史料だけではなく、中国史書をも根拠に仮説を提起しているわけで、この姿勢は学問的なものです。
 しかも、天智から「日本国」という国号使用を始めたという見解は、古田先生の「天智朝による日本国の創建」説(注③)に通じるものがあり、興味を持った次第です。(つづく)

(注)
①ご近所の枡形商店街の古書店では、お客が持参した本三冊を書店の本一冊と交換できるというサービスがあり、それを利用した。良い「買い物」をしたと笑顔で帰宅したら、同書が既に書棚にならんでいた。大昔に買った本の存在を忘れてしまい、最近、よく同じ本の二度買いをしている。二度買いした本三冊を、また別の本に交換するつもりである(嗚呼、情けなや)。
②古賀達也「洛中洛外日記」1664話(2018/05/04)〝もうひとつのONライン「日本国の創建」〟
古賀達也「洛中洛外日記」2184話(2020/07/13)〝九州王朝の国号(10)〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2228話(2020/09/08)〝文武天皇「即位の宣命」の考察(10)〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2229話(2020/09/09)〝文武天皇「即位の宣命」の考察(11)〟
③古田武彦「日本国の創建」『よみがえる卑弥呼』(駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻)に次の記述がある。
 〝新羅本紀の「倭国更号、日本」記事の“発信地”は、当然ながら、日本国それ自身しかありえない。すなわち、天智朝である。その天智九年十二月のことであるから、その翌月たる天智十年正月に、“外国の使臣”を集めて「倭国の終結、日本国・開始」を宣言した、そのための連絡の情報、それがこの記事である。〟ミネルヴァ書房版273頁
 〝「倭国」が白村江で大敗を喫した「六六三」より七年目にして、天智天皇は、その「倭国」の滅亡と、「日本国」の“遺産相続”を宣告したのである。〟同275頁
 〝その二年後、それが今問題の「文武王十年」である。その十二月、他方の「残暴国」たる「倭国」の滅亡が、天智朝側からの宣言として通知され、新たに「日本国」の成立が告げられることになったのである。〟同278~279頁
 ここで古田先生が主張されている、天智十年(六七一)における倭国の滅亡と日本国の成立という仮説は、従来の古田説「七〇一年における倭国(九州王朝)の滅亡と日本国(大和朝廷)の成立」説とは相容れないものであったが、近年、正木裕氏が発表された「九州王朝系近江朝」説により、その先見性が明らかとなった。このことは、わたしが「洛中洛外日記」で示唆してきたところである。


第2265話 2020/10/18

新・法隆寺論争 (1)

古田先生と家永先生の

   『聖徳太子論争』『法隆寺論争』

 「市民の古代研究会」時代に、わたしたちは『市民の古代・別冊』として、古田先生と家永三郎さんによる論争本を二冊刊行しました。『聖徳太子論争』(1989年、新泉社)と『法隆寺論争』(1993年、新泉社)で、法隆寺の釈迦三尊像を通説通り「聖徳太子」の為のものか、九州王朝の多利思北孤の為のものかを争点とした両氏の論争が収録されています。今でも学問的価値は高く、研究者には是非読んでいただきたい基本文献です。
 法隆寺と同寺の釈迦三尊像は、古田史学・多元史観と通説・近畿天皇家一元史観が直接的にぶつかり合う重要テーマの一つです。古田学派からも多くの研究論文・著作が出されており、古田先生の研究業績(注①)を筆頭に、学界に先駆けて法隆寺移築説を発表された米田良三さんの『法隆寺は移築された』(新泉社、1991年)など優れた研究がありました。わたしも若干の研究(注②)を近年発表してきましたが、定年退職したこの機会に、これまでの法隆寺研究を復習し、問題点の指摘や可能であれば新仮説の提起などを試みたいと考えています。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973年。ミネルヴァ書房から復刻)
 古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房から復刻)
 古田武彦『古代は沈黙せず』(駸々堂出版、1988年。ミネルヴァ書房から復刻)
②古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」(『古代に真実を求めて』第十五集、明石書店、2012年)
 古賀達也〝『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(1)~(7)〟(「洛中洛外日記」1864~1875話(2019/03/28~04/14)


第2256話 2020/10/09

古田武彦先生の遺訓(2)

『史記』「三代世表」と「十二諸侯年表」の

              歴代周王調査

 古代中国における「二倍年暦」の研究を深めるために、過日、京都府立図書館で司馬遷の『史記』を読んできました。膨大な史書ですので、今回は「表」(三代世表、十二諸侯年表)に記されている歴代周王や「周本紀」の紀年記事を精査しました。
 「三代世表」には二代周王の成王から共和まで、「十二諸侯年表」には共和から敬王までが表中(最上段)に列記されており、周代を概観するのに便利な「表」です。しかし『史記』本文の周王在位年数と各「紀」や「表」に掲載された歴代周王の在位年数に微妙な違いもありますので、留意が必要です。
 それとは別に、WEB上で『竹書紀年』(古文、今文)を閲覧し、その周王部分をエクセルにコピペし、『史記』『竹書紀年』『東方年表』(注①)を並べて、年代を比較しています。
 また、昨日からは『春秋左氏伝』明治書院版全四巻(鎌田正編著、1971年)を書架から引っ張り出して、約10年ぶりに読み直しています。これらの史書は基本的に一倍年暦で著述されており、その成立時点、あるいは後代での再編集時点は一倍年暦の時代になっていたことがうかがわれます(注②)。それらを二倍年暦(二倍年齢)の視点から史料批判を試みることが今回の調査目的です。(つづく)

(注)
①藤島達朗・野上俊静編『東方年表』(平楽寺書店、1988年版)
②一例を挙げれば、『春秋左氏伝』に見える次の記事は「一倍年齢」表記と考えざるを得ない。
 「晋の公子重耳、(中略)将に齊に適(ゆ)かんとし、季隗(きかい)に謂ひて曰く、我を待つこと廿五年なれ。来たらずして而(しか)る後に嫁(か)せよ、と。對(こた)へて曰く、我は廿五年なり。又是(か)くの如くにして嫁せば、則ち木〔棺〕に就かん。請ふ子(し)を待たん、と。狄(てき)に處(お)ること十二年にして行(さ)る。(後略)」一巻362頁
 これは、晋の公子重耳が妻の季隗に、「25年待ってわたしが迎えに来なかったら他に嫁げ」と言ったが、季隗は「わたしは25歳なので、それだけ待っていたら棺桶にはいることでしょう。あなたの帰りを待たせてほしい」と言い、重耳は12年留まってから齊に去ったという説話である。
 このとき季隗は既に子供を二人産んでおり、この年齢(25歳)からは一倍年暦と考えざるを得ないが、「25年待て」という中途半端な数字であることから、本来の記事は二倍年暦による「50年待て」というものではなかったか。すなわち、『春秋左氏伝』編纂当時の一倍年暦に換算して、二分の一の「25年」に改訂表記されたのではあるまいか。とすれば、その編纂時点では二倍年暦(二倍年齢)の存在がまだ記憶されていた、ということになろう。