古田武彦一覧

第2932話 2023/01/31

松本郁子さんの思い出と業績 (5)

若くして太田覚眠研究の先駆者となった松本郁子さんは、古田先生にとっても特別の存在でした。周囲からも古田先生の〝愛弟子〟と見られていましたし、そのように紹介する人も少なくなかったと思います。たとえば鈴岡潤一さん(邪馬壹国研究会・松本の代表、古田史学の会・全国世話人)もそのお一人です。松本さんの紀行文「松本深志の志に触れる旅 輝くすべを求めて」に、鈴岡さんとの出会いの様子が記されています(注①)。

〝その深志に私は憧れた。私自身はもちろん、深志の卒業生ではないけれど、第二の母校のように感じ、憧憬の念を憶えずにはいられないのである。その松本深志の志に触れるべく、私は旅に出た。二〇〇七年(平成一九)の秋の日のことである。(中略)
いよいよ憧れの深志高校を訪れた。深志には現在、鈴岡潤一先生といって、希望者に対して行われる「尚学塾」という課外授業(土曜日)で古田説による古代史の授業をされている社会科の先生がおられる。(中略)私は鈴岡先生に後ろの空いている席に座るよう指示され、おずおずと席についた。いち早く「突然の来訪者」の存在に気付いた生徒は、「誰、この人?」という好奇の眼を私に向けている。
授業開始前、鈴岡先生が「後ろに座っているあの美人は誰だろう、とみんな気になっていると思う。あの方は、松本郁子さんといって、私が尊敬している古田武彦先生のお弟子さんで、京都大学で博士号をとられた方です。それでは松本さん、簡単に自己紹介をお願いします」と、冗談交じりに紹介して下さると、生徒たちが一斉に後ろを振り返った。クラス中の瞳がこちらを見つめている。緊張した。〟

先生ご自身も松本さんを「無二の後継者」と公言されました(注②)。

〝今回の日露極東シンポジウムの第二日目(九月四日)、若い日本の研究者によって注目すべき研究発表が行われた。
「太田覚眠と日露の人間交流」と題する、松本郁子さんの研究(論旨配布。日本語・ロシア語)である。(中略)
太田覚眠は、このウラジオストクで三十年近く、浦潮本願寺(西本願寺系)の代表を勤めた傑僧であるが、この研究によってわたしははじめてこの人物の“忘るべからざる思想と行動”を知った。
松本さんの研究はさらに進展した。「覚眠思想」のもつ独自の意義を明らかにすると共に、瞠目すべき学問上の方法論を切り開かれた。「コンプレックス・ラグの理論」である。この松本原則は今後の歴史・思想等の研究において、忘るべからざる道標となるであろう。松本さんは今問題のロシア語に強い。無二の後継者が現れたことを喜びたい。〟

このとき(2003年)の古田先生のロシア(ウラジオストク)訪問に、通訳として同行されたのが松本さん(当時23歳)でした。日本思想史学、なかでも親鸞研究は古田先生にとって〝母なる領域〟です。その分野に彗星の如く現れた「無二の後継者」が松本郁子さんだったのです。(おわり)

(注)
①松本郁子「松本深志の志に触れる旅 輝くすべを求めて」(『古田史学会報』84号、2008年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou84/kai08405.html
②古田武彦「言素論(Ⅱ)」『多元』59号、2004年。


第2931話 2023/01/30

松本郁子さんの思い出と業績 (4)

同志社大学でロシア語を学んだ松本郁子さんは、京都大学院に進み、苦学しながらも太田覚眠研究に没頭しました。学費や生活費を稼ぐため工場などでアルバイトしながらの勉学でした。ですから、拙宅に来るときは自転車で、冬はいつも同じボルドーカラーのブーツにコートという出で立ちでした。服飾費も切り詰めるという、若い女性にとってはつらいことだったと思います。それでも〝新潟美人〟という表現がぴったりの素敵なお嬢さんでした(新潟県村上市出身)。
他方、大学院では学問の方向性などを巡って何かと苦しんでいたように聞いています。そうした、必ずしも恵まれた学問環境とは言えないなかで、太田覚眠研究の集大成として『太田覚眠と日露交流 ロシアに道を求めた仏教者』(注①)を上梓しました。同書を一読して、その文体や学問の方法が、古田先生の学問と著書の影響を色濃く受けていることを知り、日本思想史の分野でも、古田先生の確かな後継者が出現したことを喜びました。
同書をはじめとする松本さんの太田覚眠研究は高く評価され、日本学術振興会特別会員に選ばれ、その成果により、国際日本文化研究センター(日文研。京都市左京区)に特別研究員として入りました(注②)。松本さんが日文研に入ったことに、わたしは驚喜しました。恐らく、古田先生にとっても感慨深いことだったはずです(先生と日文研の縁について、別述できればと思います)。
管見では、松本さんが『古田史学会報』などに発表した研究は次の通りです。(つづく)

○「太田覚眠における『時間軸のずれ』(タイムラグ)の問題 ―『乃木将軍の一逸詩』をめぐって―」『多元』59号、2004年
「日露の人間交流と学問研究の方法 大田覚眠をめぐって」『古田史学会報』61号、2004年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou61/kai06103.html
「太田覚眠と信州の偉人たち」『市民タイムス』2004年2月29日、『古田史学会報』62号、2004年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou62/kai06207.html
○「太田覚眠と信州の偉人たち」『多元』61号、2004年。
「太田覚眠における時代批判の方法 昭和十年代を中心として」『古田史学会報』65号、2004年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou65/kai06503.html
「太田覚眠と“からゆきさん”『覚眠思想』の原点」『古田史学会報』66号、2005年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou66/kai06605.html
○「日露戦争と仏教思想――乃木将軍と太田覚眠の邂逅をめぐって」軍事史学会編『日露戦争(二)――戦いの諸相と遺産』錦正社、2005年。
「太田覚眠と『カ女史』の足跡を訪ねて」『古田史学会報』74号、2006年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou74/kai07404.html
○『太田覚眠と日露交流 ロシアに道を求めた仏教者』ミネルヴァ書房、2006年。
「太田覚眠研究の現在と未来 さらなる探求の門出に際して」『古田史学会報』80号、2007年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou80/kai08003.html
「松本深志の志に触れる旅 輝くすべを求めて」『古田史学会報』84号、2008年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou84/kai08405.html
「祭りの後 『古田史学』長野講座」『古田史学会報』87号、2008年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou87/kai08702.html

(注)
①松本郁子『太田覚眠と日露交流 ロシアに道を求めた仏教者』ミネルヴァ書房、2006年。
②国際日本文化研究センター、2009年度研究部特別研究員(PD)。


2930話 2023/01/29

松本郁子さんの思い出と業績 (3)

松本郁子さんの太田覚眠研究(注①)は進展を続け、なかでも覚眠が1931年(昭和六年)レニングラードで会ったロシア人仏教者「カ女史」の話は感動的でした。帝政ロシアの貴族だった「カ女史」は、ロシア革命後に没落。乞食に身を落とし、宗教弾圧の中で托鉢をしながら、「巡査は仏様の使い、牢獄は念仏の道場」と言って布教を続けます。その姿に感動した覚眠は「モー命は惜しくない」と語ったとのこと(注②)。
松本さんは、思想の深化や変遷の解析手法として、タイム・ラグ(時間軸のずれ)とプレース・ラグ(立場のずれ)、それらが重なったコンプレックス・ラグという概念を提示するなど、優れた研究を発表し続けました(注③)。そこで、松本さんの発表の場を確保するために、日本思想史学会に入会することになりました。同学会は古田先生の恩師、村岡典嗣先生が東北大学で設立した研究会を母体とする権威ある学会です。入会には会員二名の推薦が必要なため、古田先生とわたしが推薦人となりました。ちなみに、わたしの入会時に推薦していただいたのは、古田先生と岩手大学教授の岡崎正道先生(近代史・近代思想史)でした。
同学会に入会された松本さんは、太田覚眠研究の処女作『太田覚眠と日露交流 ロシアに道を求めた仏教者』(注④)を2006年に上梓します。そして、同書を日本思想史学会奨励賞にノミネートするため、推薦状を書くようにと古田先生から要請され、松本さんから同書の進呈を受けました。同書執筆時、松本郁子さんはまだ二十代半ばであり、その若き才能と同著の素晴らしさに驚きました。わたしも気合いを入れて推薦状を執筆しました。(つづく)

(注)
①浄土真宗の僧侶、太田覚眠(1866~1944年)。
②太田覚眠『レニングラード念仏日記』1935年。松本郁子編『太田覚眠全集』第三巻(オンブック、2009年)に収録。
③松本郁子「日露の人間交流と学問研究の方法 大田覚眠をめぐって」『古田史学会報』61号、2004年。
④松本郁子『太田覚眠と日露交流 ロシアに道を求めた仏教者』ミネルヴァ書房、2006年。


第2929話 2023/01/28

松本郁子さんの思い出と業績 (2)

古田先生から松本郁子さんを紹介していただき、松本さんの研究に触れ、浄土真宗の僧侶、太田覚眠(1866~1944年、注①)の存在を知りました。なかでも、日露戦争勃発により、国家から見捨てられ沿海州に取り残された多くの女たち(多くは「売笑婦」)とその子供らを含む八百人を太田覚眠が救出したことなど、松本さんの研究内容には驚くことばかりでした。
あるとき、松本さんと古田先生との出会いについて、心打つエピソードを先生からお聞きしました。親鸞や浄土真宗、日本思想史について教えを請いたいと訪れた松本郁子さんに、古田先生が熱心に説明していたときのことです。突然、松本さんが黙り込んでしまい、その失礼な態度を古田先生はとがめられました。その叱責の声に、はっと気づいた松本さんは謝罪し、そそくさと帰られたとのこと。
ところが、松本さんが古田先生の言葉を深く考え込んだため、黙り込んだことに先生は後になって気づき、叱責したことを松本さんに詫びられました。そのときが、二人の魂と魂が深く結びあい、真に理解しあえた瞬間だったと、先生はうれしそうに話されました。
このエピソードについて、松本さんの著書(注②)にも〝「フリーズ」の深層〟として、次のように紹介しています。

〝「フリーズ」の深層
人間は絶えずより深い交流を求める存在である。
ある時、仏教思想を専門のひとつとする古田武彦先生に太田覚眠の「乃木将軍の一逸詩」を見せ教えを請うていた。覚眠と乃木将軍の対話の中に現れる「一殺多生」という言葉の意味を教えてもらっていたのである。その時に「フリーズ」してしまった。その言葉に対して何か深いものを感じ、思わず考え込んでしまったのだった。
しかし私が急に黙り込んだので、先生は私に対して注意された。私はすぐに謝った。けれども後になって、先生の方から私に謝って下さった。「あなたがあの場で黙り込んだのは、この問題について深く考えていた証拠であった。それに気付かず頭ごなしに注意して悪かった」と言われた。私はこの言葉を聞いて、この人は私のことを理解してくれたと感じた。
相手を前にして黙り込むことは、表面ではその人との交流を絶っているように見える。しかしその実、内面世界ではより深い対話を求めていたのである。真の交流とは、目に見える形で行われるものだけではない。より深い内面における交流の問題が存在することを、その時知った。〟

このときの「フリーズ」事件をきっかけに、古田先生と松本郁子さんとの、人と人との魂の〝師弟関係〟が成立したのだと思います。(つづく)

(注)
①松本郁子編『太田覚眠全集』オンブック、2009年。
②松本郁子『太田覚眠と日露交流 ロシアに道を求めた仏教者』ミネルヴァ書房、2006年。


第2928話 2023/01/27

松本郁子さんの思い出と業績 (1)

先週末、京都で開催された新春古代史講演会「よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院」に、ご近所や出町商店街組合・自治会・老人会の方々が参加されることになり、ご挨拶をしたいとのことで、妻が初めてわたしの講演会に来ました。なお、妻は古代史にほとんど興味はなく、会場の外の受付にいることにしたようです。当日、「古田史学の会」会員の大下隆司さん(豊中市)が来ておられることを知ると、ご挨拶したいとのことで紹介しました。
実は、大下さんのご子息のお嫁さん、松本郁子さん(旧姓)とは、郁子さんが学生時代(京都大学院)から家族ぐるみのお付き合いがあり、妻が自宅に招いたり、食事をご一緒したりしていました。わたしの娘が同志社中学演劇部の部長をしていたこともあり、演劇発表会にも出席していただいたとのことです(郁子さんは同志社大学卒)。ですから、わが家では「郁子ちゃん」と呼んで親しくさせていただきました。
大下さんによれば、郁子さんは鹿児島で今も研究を続け、講演もされているとのことでした。お元気なようで何よりです。
松本郁子さんが古田先生と初めて会われたのは2001年のことで(注①)、その年か翌年に、わたしも先生のご自宅付近の喫茶店で紹介されたように記憶しています。とても聡明なお嬢さんで、その研究(太田覚眠研究、注②)の秀逸さには舌を巻いたものです。あるとき、古田先生に、「松本さんの論文は、23歳の学生のものとは思えません。わたしが23歳のとき、とてもこのような論文は書けませんでした」と申し上げたところ、「わたしにも書けませんでした」と先生は返答されました。(つづく)

(注)
①松本郁子「日露の人間交流と学問研究の方法 大田覚眠をめぐって」(『古田史学会報』61号、2004年)に次の記事が見える。
〝古田先生との出会いは二年前、二〇〇一年六月十六日のことだ。この日、関西日露交流史研究会で古田先生が講師として招かれたのだが、その講演を聞きに行ったのがきっかけだった。演題は「古代におけるウラジオストックと出雲の交流」。実を言うと、私はこの講演自体に興味があったわけではない。“古田先生”その人に関心があったのである。というのは、私はすでにその時には研究の対象を浦潮本願寺(浄土真宗本派本願寺派)布教監督の太田覚眠に決めていた。しかし私は浄土真宗についても親鸞についても全く何の知識もなかった。古田先生が親鸞について何冊も本を出しておられることを知り、何か一つでも手がかりがつかめれば、と思ったからである。
ところが講演を聞いてみるとその話の面白いこと。夢中になってノートをとったことを覚えている。話の論理構造がしっかりしているので、極めてノートがとりやすい。大学の先生の中には、何のためにその話をしているのか分からないような話をだらだらとし、結局最後まで何だったのか分からない、という人も多い。ところが古田先生の場合は全く違っていた。全ての“部分”が、“全体”へとつながっていく、ある意味で理系的な発想や論理展開にただただ驚きの連続であった。〟
②松本郁子『太田覚眠と日露交流 ロシアに道を求めた仏教者』ミネルヴァ書房、2006年。


第2914話 2023/01/12

「司馬史観」批判の論文を紹介

「洛中洛外日記」2912話(2023/01/10)〝司馬遼太郎さんと古田先生の思い出〟で紹介した、古田先生の「司馬史観」批判ですが、先生から聞いたのは20年以上も昔のことです。記憶は鮮明に残っているのですが、このことを活字化した論稿を探しました。というのも、先生は真剣な表情で語っておられましたので、これは重要テーマであり、文章として遺されているのではないかと考えたからです。ちなみに、わたしの記憶では次のような内容(大意)でした。

〝明治の新政府を作り、日清・日露の両戦争を戦ったのは江戸時代に教育を受けた人々で、昭和の戦争を指揮した政治家・軍人達は明治時代に生まれ、その教育を受けた人々である。従って、「江戸時代(の文化・教育)は良かったが、明治時代(の文化・教育)はダメ」と言うべきである。
たとえば、明治政府は幕末を戦い抜いた貧しい下級藩士らが中心となったが、昭和の政府は明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達による政府であり、この差が明治と昭和の為政者の質の差となった。〟

20年以上も昔の会誌や講演録から探しだすのは大変な作業で、通常ですと数日かかるのですが、幸いにも今回はすぐに見つけることができました。『現代を読み解く歴史観』に収録された「教育立国論 ――全ての政治家に告ぐ」という論文中にあったのです(注①)。関係個所を転載します。

〝ここで、一言すべきテーマがある。「昭和の戦争」を「無謀の戦争」として非難し、逆に、明治を理想の時代のようにたたえる。司馬遼太郎などの強調する立場だ。後述するように、それも「一面の真理」だ。だが、反面、いわゆる「昭和の愚戦」否、「昭和の暴戦」をリードしていたのは、まぎれもなく、「明治生れの、愚かしきリーダー」だったのである。この点もふくめて、後に明らかにしてゆく。〟『現代を読み解く歴史観』98頁
〝では、わたしたちが今なすべきところ、それは何か。「教育立国」この四文字、以外にないのである。
明治に存在した、負(マイナス)の面、それは「足軽たちのおぼっちゃん」が、諸大名の「江戸屋敷」を“相続”し、数多くの「下男・下女」に囲まれて育った。当然、「見識」も「我慢」も知らぬ“おぼっちゃん”たちが、「昭和の愚劣にして悪逆」な戦争をリードした。少なくとも、「命を張って」食いとめる勇気をもたなかった。「昭和の愚劣と悪逆」は、「明治生まれの世代」の責任だ。この一点を、司馬遼太郎は「見なかった」あるいは「軽視」したのである。〟同上、101頁

ほぼ、わたしの記憶と同趣旨です。また、〝「江戸屋敷」を“相続”し、数多くの「下男・下女」に囲まれて育った〟という表現(語り口)も、はっきりと記憶しています。これをわたしは〝明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達〟という表現に代えて記しました。
これからも、古田先生から聞いた貴重な話題については、わたしの記憶が鮮明なうちに書きとどめ、先生の思想や業績を後世に伝えたいと願っています(注②)。幸い、「市民の古代研究会」時代からの同志がご健在で、その方々への確認もできますので、この作業を急ぎたいと思います。最後に、古田先生の「司馬史観」批判を『現代を読み解く歴史観』に収録し刊行された、東京古田会と平松健さん(同書編集担当)に感謝いたします。

(注)
①古田武彦『現代を読み解く歴史観』ミネルヴァ書房、2013年。
②なかでも30年前に行った和田家文書調査(津軽行脚)は、古田先生をはじめ当地の関係者がほとんど物故されており、当時の情況の記録化が急がれる。


第2912話 2023/01/10

司馬遼太郎さんと古田先生の思い出

今年は司馬遼太郎さん(注①)の生誕百年とのこと。恐らく様々な記念番組が企画されるのではないでしょうか。古田先生は生前に司馬さんとお付き合いがあり、何度か司馬さんのことについて話されたことがありました。司馬さんも『週間朝日』に連載された「司馬遼太郎からの手紙・四七回」で古田先生との出会いの様子を記しており、そのことを『古田史学会報』で紹介したことがあります(注②)。
先生が文京区本郷にお住まいのとき(注③)、何度か訪問したことがあり、そのおりに司馬さんのことを聞いた記憶があります。司馬さんのご自宅の本棚には古田先生の著書が並んでいることや、「司馬史観」に対する見解などをお聞きしました。
「司馬史観」を単純化して言えば〝明治の政治家は良かったが、昭和の政治家はダメ〟というものですが、古田先生の視点は少々異なっていました。日本の近現代史について、先生とお話ししたことはあまり多くないのですが、「司馬史観」を批判して、次のように語られました。

〝明治の新政府を作り、日清・日露の両戦争を戦ったのは江戸時代に教育を受けた人々で、昭和の戦争を指揮した政治家・軍人達は明治時代に生まれ、その教育を受けた人々である。従って、「江戸時代(の文化・教育)は良かったが、明治時代(の文化・教育)はダメ」と言うべきである。
たとえば、明治政府は幕末を戦い抜いた貧しい下級藩士らが中心となったが、昭和の政府は明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達による政府であり、この差が明治と昭和の為政者の質の差となった。〟(大意。古賀の記憶による)

古田先生らしい骨太の歴史観であり、「司馬史観」を超えるものではないでしょうか。司馬さんの生誕百年にあたり、この話を先生からお聞きしたことを思い出しました。

(注)
①司馬遼太郎(しば りょうたろう、大正12年(1923年)8月7日~平成8年(1996年)2月12日は、日本の小説家、フィクション作家、評論家。位階は従三位。本名は福田定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。
司馬の作り上げた歴史観は、「司馬史観」と評される。その特徴としては日清・日露戦争期の日本を理想視し、(自身が参戦した)太平洋戦争期の日本を暗黒視する点である。人物においては、高評価が「庶民的合理主義」者の織田信長、西郷隆盛、坂本龍馬、大久保利通であり、低評価が徳川家康、山県有朋、伊藤博文、乃木希典、三島由紀夫である。この史観は、高度経済成長期にかけて広く支持を集めた。(ウィキペディアより抜粋)
②古賀達也「事務局だより」『古田史学会報』37号(2000年4月4日)。
③昭和薬科大学(東京都町田市)の教授に就任した時代。学問研究のため、東京大学図書館・史料室などに近い本郷に居したと聞いている。


第2908話 2023/01/05

古田先生が生涯貫いた在野精神 (3)

『古田武彦とともに』創刊第1集(古田武彦を囲む会編、1979年)に寄稿者として名を連ねている高田かつ子さん(多元的古代研究会・前会長)から教えていただいた次の逸話があります。それは古田先生が昭和薬科大学に教授として招聘されるときの話だそうです。

〝今から十二年前の昭和五十九年三月、上京していらっしゃった古田先生と池袋の喫茶店でお目にかかった。昭和薬科大学に教授として招かれたので、東京での拠点を探しに上京されたとのことであった。
「まだ迷っているのですよ。」
なぜ、と問いかける私に、大学教授という社会的に地位のある職に就くことは堕落に通じることではないかと心配しているのだとおっしゃる。それをお聞きして私はストンと胸に落ちるものがあった。それは、こういう話をお聞きしていたからであった。
昭和二十三年、先生は東北大学を卒業してすぐ、信州松本の深志高校に奉職された。深志での四年間は、教師として人間として、生徒と共に遊んで学んで育っていった原点でもあったとおっしゃる。そして昭和二十七年、あとどうなるか全く分からずに「やめます」と言って去る日、松本駅に見送りに来ていた人達の中から一人の青年が、動きだした列車と共に走りながら「堕落するなよ!」と叫んだというのである。
「堕落するなよ」、それは都会へ行って落ちぶれるなという意味ではもちろんない。エリート面してしまうなよ、雲の上のようなインテリになってしまうなよ、というのが彼の言う「堕落するなよ」という意味であることは先生にはすぐ分かったそうである。先生が最初に教えた三つ年下の生徒で、付き合いが深かったせいでもあるとおっしゃる。
(中略)
大学教授になってからの先生の行動は堕落とはおよそ対局にあるものであった。和田家文書にしてもしかり。大学教授としての地位に甘んじることなく研究に打ちこんでいらしたことは周知の事実である。〟「志の人・古田武彦に乾杯」(注)

古田先生が昭和薬科大学に奉職されるにあたってのエピソードで、生涯、在野精神を貫かれた先生らしい話です。この話を伝えた高田かつ子さんは、その後病に倒れられました(2005年5月7日没)。亡くなる二日前の言葉が遺されていますので、最後に紹介します。

「古田先生より先には死ねない。まだ死んでいる場合ではないんだ。きっと先生が亡くなった後はみんなが我が物顔に先生の説を横取りしてとなえ始める人が出できて大変だろうから、その時には私が証人にならなければ。(村本寿子さん談)」

(注)『古代に真実を求めて 古田武彦古稀記念特集』第二集、明石書店、1998年。


第2907話 2023/01/04

古田先生が生涯貫いた在野精神 (2)

『古田武彦とともに』創刊第1集(古田武彦を囲む会編、1979年)の末尾の資料紹介(古田先生の略歴・著作・論文・他)に、先生を紹介した新聞記事(発行日不明。朝日新聞か)「野に学者あり」のコピーが収録されています。「燃えたぎらす論争の炎」「批判できねば学問終わり」という見出しとともに次の記事が見えます。

〝古田氏の業績は古代の分野だけではない。親鸞研究では、早くからその名が知られていた。にもかかわらず、終始「素人」を名のる。大学からのさそいも、一貫してことわり続けている。
「現代の日本では、研究機関に所属すること、それはどこかの学閥の中に組み込まれることになる。となると、師や仲間うちの批判はきわめてむつかしい。非学問的理由で、先学を批判できないとしたら、学問の進歩もなければ面白味もない」
在野の弁を明快にこう語る。
(中略)
古田氏は、過去に一度だって、研究機関に職を得たことはなかった。それゆえ、学問のためとあらば、どんな大家であろうと、教えをこうた人であろうと、遠慮会釈なく俎上(そじょう)に乗せる。学問の本筋とは元来そうしたものであるべきだと固く信じている。しかし、あまりの批判の厳しさに、それとなく忠告してくれる人もいるが、彼はいつもそれに笑って答える。
「遠慮して批判を避けるようなときが来れば、在野にいる意味もない。私の学問も終わるときです」。〟(つづく)


第2906話 2023/01/03

古田先生が生涯貫いた在野精神 (1)

来週の14日(土)に東京古田会主催の和田家文書研究会で、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」を発表させていただくことになり、準備のために30年以上昔の資料を読み直しています。その手始めに読んだのが『古田武彦とともに』創刊第1集(古田武彦を囲む会編、1979年。B5版68頁)です。同誌には「会員頒布」とあり、今でも入手困難な一冊です。同誌には古田説に出会った感動と悦びに満ちた会員の論稿で溢れており、当時の熱気が伝わってきます。
中谷義夫会長による「会報発行の所感」に続いて、古田先生の「母なる探求者 ―孤独の周円―」が掲載されています。その冒頭には次のように記されています。

「わたしには不思議である。
これはたった一人で歩みはじめた、孤独な探求の道であった。現代の学界はこれをうけ入れず、今までいかなる博学の人々も、このように語ったことはなかった。そういう断崖に切り立った小道を、わたしはひとり歩みつづけてきたのだ。
それが今、ふと見まわすと、わたしのまわりには、数多くのなつかしい人々が見える。そしてうしろからもヒタヒタと足音がする。いや、前にも、もう、一歩、二歩歩きはじめている若者たちの姿が見えているようにさえ思えるのである。荒野の中に多くの道を切り開きつつすすむ人々の群れのように。――これはどうしたことであろうか。
思うに、わたし個人は、とるに足らぬ一介の探求者である。長い時間の中で、うたかたのように浮んでは消えてゆくひとつのいのちだ。そのわたしをささえ、とりまいているこれらの人々こそ、真の探求者、真の母体なのではあるまいか。わたしは母なる探求者をこの世で代理し、いわばその〝手先〟をつとめる者にすぎぬ。わたしにはそのように思われるのである。」

この『古田武彦とともに』は『市民の古代 古田武彦とともに』から『市民の古代』へと変わり、「古田武彦を囲む会」は後に「市民の古代研究会」へと改名します。ちなみに、『古田武彦とともに』第1集には、「古田史学の会」という会名のもとになった「古田史学」という呼称が散見します。たとえば朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』を出版した米田保さんの「『「邪馬台国」はなかった』誕生まで」には次のようにあります。

「こうして図書は結局第十五刷を突破し、つづけて油ののった同氏(古田先生のこと)による第二作『失われた九州王朝』(四十八年)第三作『盗まれた神話』(五十年二月)第四作(同年十月)と巨弾が続々と打ち出され、ここに名実ともに古田史学の巨峰群の実現をみたのである。」

「市民の古代研究会」で九州年号研究を牽引した丸山晋司さんの「ある中学校の職員室から」には次のように「古田学派」という言葉が使用されています。

 「自分がもし社会科の教師になっていたら、受験前の生徒達に古田説をどう教えられるのか考えただけでもゾッとする。故鈴木武樹氏の提唱した「古代史を入試に出させない運動」は、我々古田学派にこそ必要なのではないかと思ったりもする。それでないと、社会科の教師の自由な研究はよほどの読書家・探求者にしか望めない。教師はそうであってはならない。けれど頭の中までかなり束縛されているのも教師だと思う。」

「古田史学」や「古田学派」の語は、この『古田武彦とともに』第1集が初出あるいは早期の使用例ではないかと思います。(つづく)


第2864話 2022/10/27

没年干支が改刻された百済武寧王墓誌

 九州年号史料以外にも、干支が一年ずれた痕跡を持つ著名な同時代金石文があります。百済武寧王墓誌に見える武寧王の没年干支です。

 寧東大将軍百済斯
 麻王年六十二歳癸
 卯年五月丙戌朔七
 日壬辰崩到乙巳年八月
 癸酉朔十二日甲申安暦
 登冠大墓立志如左

 1998年9月、古田先生は韓国の武寧王陵碑を見学され(注①)、その碑面の字を調査しました。そして、武寧王没年干支「癸卯」(523年)の部分が改刻されており、原刻はその翌年に当たる「甲辰」であったことが確認できたのです(注②)。
 武寧王の没年は『日本書紀』や『三国史記』(1145年成立)には「癸卯」とされていますが、墓誌にはその翌年にあたる「甲辰」とあったのです。国王の墓誌という史料性格から、誤刻を訂正した痕跡とは考えにくいため、古田先生は、干支が一年引き上がった暦が当時の百済では採用されており、後に現行暦の干支に改刻された痕跡であるとされました。そして、その改刻時期は同陵に合葬された王妃の埋葬時(529年己酉。王妃没年は526年丙午)の可能性が高いと指摘しました。すなわち武寧王没後数年の間に、百済では暦が現行干支暦に変更されたと考えられるのです。
 このように、六世紀の九州年号の時代、百済の王権内で干支が一年ずれた暦(ずれの方向も『万葉集』左注の朱鳥と同じ)を採用していたことは興味深いことです。

 「武寧王」新旧暦対応表
西暦 干支  記事・出典
501  辛巳 武寧王即位・『三国史記』
502  壬午 武寧王即位・『日本書紀』
521  辛丑 武寧王朝貢・『三国史記』武寧王二十一年条
522  壬寅 武寧王朝貢・『冊府元亀』普通三年条
523  癸卯 武寧王没・墓誌改刻、『日本書紀』『三国史記』
524  甲辰 武寧王没・墓誌原刻、『梁書』普通五年条
525  乙巳 武寧王埋葬・墓誌

(注)
①古田武彦「虹の光輪」『多元』28号、1998年。
②古賀達也「一年ずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑『改刻説』補論」『古田史学会報』31号、1999年。
 同「洛中洛外日記」845話(2015/01/01)〝百済武寧王陵墓碑が出展〟


第2858話 2022/10/14

俀国伝の行程〝古田理解と論理の根幹〟(2)

 『隋書』俀国伝に記された、百済から俀国の都へ向かう裴世清の行程記事について、古田先生は主線行路「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と、傍線行路「又十余国を経て海岸に達す」に分けられたのですが、その理解を支えた根幹の論証がありました。それは、「又東して秦王国に至る」の直後にある「その人、華夏と同じ。以て夷洲と爲すも、疑ひて明らかにする能(あた)はざるなり」の記事に関するものです。この記事を古田先生は次のように理解されました(注①)。

〝この俀国の人々は、中国の人々とそっくりだ(よく似ている)。だから、〝ここは東夷の洲(しま)だ〟といわれても、中国人とはっきり区別できないほど、よく似ている。〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、259~260頁

 古田先生は「その人」の「その」が、直前の「秦王国」ではなく、「俀国」を指すことを『隋書』夷蛮伝の用例を根拠として論証され、主線行路は「秦王国」で終了し、その後の記事は俀国の風俗(その人、華夏と同じ)や地勢(十余国を経て海岸に達す)に関する情報であるとされました。この「その人」の「その」が俀国を指すという論証が、行路を主線と傍線に分けて理解するという古田説成立の根幹となっているのです。
 なお、主線行路について、古田先生は次のように推定されています。

〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向〈四分法〉指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)。
 では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。(中略)首都圏「竹斯国」に一番近く、その東燐に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
 博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟同、275~276頁

 この裴世清が向かった行路については、古田学派内でも諸説が発表され、古田先生亡き後も活発な議論が続いています。これこそ、〝師の説にな、なづみそ〟の精神ではないでしょうか。ちなみに、古田説と同じく筑後川流域(筑後)から阿蘇山へと進む説は、わたしや谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)が発表しています(注②)。いずれ、真摯な論争の末に最有力説へと収斂するものと信じています。学問研究とはそのようなものですから。

(注)
①古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
「『肥後の翁』と多利思北孤 ―筑紫舞「翁」と『隋書』の新理解―」『古田史学会報』136号、2016年。
 谷本茂「『隋書』俀国伝の「俀の都(邪靡堆)」の位置について」『古田史学会報』158号、2020年。
 俀国の都を「肥」(肥前・肥後・筑後を含む広域)とする説が阿部周一氏(古田史学の会・会員、札幌市)から出されている。
 阿部周一「『隋書俀国伝』の「本国」と「附庸国」 ―行程記事から見える事―」『古田史学会報』148号、2018年。