「 古田武彦 」一覧

第2038話 2019/11/12

「新・八王子セミナー2019」の情景(1)

 先日、八王子市の大学セミナーハウスで開催された「古田武彦記念 古代史セミナー2019」(新・八王子セミナー2019)に参加しました。各研究者の発表は同セミナーハウスのホームページで紹介されることと思いますので、わたしの感想を中心にその情景について報告します。
 今回の発表の中で、もっとも感慨深かったのが古田先生のご子息、古田光河さんによる「父の想い出」という報告でした。先生の懐かしい写真や光河さんが赤ちゃんだった頃の親子のツーショットなどが次々と大スクリーンに映し出され、わたしは涙目で拝見しました。また、古田先生作詞作曲の歌を古田先生が歌われている録音なども流され、なかなかの名曲と聴講者からも好評でした。
 また、古田先生と女性との〝ロマンス〟として、古田先生がお好きだった女性が6名おられたとのことで、「誰でしょう」と光河さんは参加者に聞かれました。どなたからも回答がなかったため、「古賀さんは誰だと思われますか」とご指名いただきましたので、「中島みゆきさんでは」と述べたところ、「正解です」とのこと。先生は著書中で、中島みゆきさんの「海鳴り」という曲に触れられていましたので、たぶん6名の内の一人に入っているとは思っていましたが、もし間違っていたらどうしようと、内心どきどきでした。光河さんの説明では、先生は中島みゆきさんの名曲「この空を飛べたら」が好きだったそうです。中島みゆきさん以外には、キュリー夫人や石川さゆりさんらのお名前が上がっていました。
 とても懐かしく印象深い発表でしたので、ぜひ、関西でも発表していただきたいと、光河さんにお願いしました。(つづく)


第2035話 2019/11/04

評督の上位職は各「道」都督か(1)

 那須国造碑の碑文についての古田説の論証を再確認するために、古田先生の『古代は輝いていたⅢ』を読み直したところ、三十数年前の同書発刊時(1985年)に読んだとき、かすかな違和感を抱いたことを思い出しました。それは次の箇所でした。

〝この金石文(那須国造碑)の最大の問題点、それは、「評督」という旧称の授与時点と授与者を隠していることにあることが判明しよう。
 では、授与者は誰か。わたしには、それは「上毛野の君」が最有力候補ではないか、と思われる。なぜなら、関東にあって「武蔵国造」などの任命権を近畿天皇家と争った者、それが「上毛野の君」だったからである。〟(『古代は輝いていたⅢ』ミネルヴァ書房版。305〜306頁)

 那須直葦提に評督を授与したのは「上毛野の君」とする古田先生の見解に、わたしは違和感を覚えたのです。評制は九州王朝が全国に施行した制度と古田先生はされているのに、関東の豪族である「上毛野の君」が評督を授与するということに、わたしは納得できなかったのです。しかし、古田史学に入門したばかりの若造だったわたしには、畏れ多くて古田先生に意見などできませんでした。
 今回、この懐かしい著作の一文中の「上毛野の君」に再会し、わたしには思い当たることがありました。藤井政昭さんの優れた論稿「関東の日本武命」(『倭国古伝』古田史学の会編・明石書店、2019年)によれば、『日本書紀』景行天皇55年条に見える「東山道十五國」の「都督」に任命された「彦狭嶋王」は上毛野国の王者で、『先代旧事本紀』「国造本紀」には「上毛野国造」とされているとのこと。
 先の古田説を敷衍すれば、「東山道十五國」の「都督」であり、「上毛野国造」でもある彦狭嶋王が「東山道」各地の評督を任命したということになり、このケースにおいては、「評督」の上位職掌(任命権者)は各「道」の「都督」ということになります。(つづく)


第2024話 2019/10/28

『日本思想史学』第51号のご紹介
 〝冥界からの贈り物〟

 「日本思想史学会」から機関誌『日本思想史学』第51号が届きました。わたしは「古田史学の会」の他にも各地の古代史研究会や、仕事関係では「繊維学会」「繊維応用技術研究会」などにも参加しています。また、学会として高名な「日本思想史学会」の会員でもあります。これは古田先生からのご指示で入会したもので、先生に促されて筑波大学での総会で「古代の二倍年歴」、京都大学では「九州年号」についての研究発表を行ったことがあります。化学系学会で講演することには慣れているのですが、人文系の伝統ある「日本思想史学会」で、その大勢の専門家を前にしての発表にはちょっと足が震えました。
 古田ファンにはご存じの方も多いと思いますが、日本思想史学は東北大学の村岡典嗣先生が提唱された学問領域であり、それが引き継がれて「日本思想史学会」が発足しました。ですから、村岡先生の「最後の弟子」である古田先生は同学会の重鎮でした。そうしたご縁もあり、大阪府立大学なんばキャンパスで執り行った古田先生の追悼式典には、「日本思想史学会」の会長だった佐藤弘夫さん(東北大学教授、中世思想史研究者)から御弔文をいただけました(『古田武彦は死なず』明石書店刊に収録)。
 今回の『日本思想史学』第51号の論文で特に興味深く拝読したのが尾留川方孝さんの「神漏伎・神漏弥および天神の性質と役割」です。尾留川さんは『日本書紀』などに見える「天神」とは誰のことなのかというテーマを論じ、「天神は命じるのみで、自ら行動せず客体にもならない」とされ、「天孫降臨にいたる一連の出来事のなかで、天神は天下の統治を天孫に命じている」という例をあげられ、神武東征も同様に天神の命令を受けて開始されていることを指摘されました。
 わたしは『記紀』の神武東征説話中の「天神子」「天神御子」説話部分は天孫降臨説話からの転用とする仮説を発表(注)していますが、尾留川さんの視点(仮説)を採用すれば、その転用は神武東征説話の冒頭部分にもなされていたと考えなければならないかもしれません。そうした意味から、『日本思想史学』第51号は古代史研究にも関わる貴重な一冊であり、冥界におられる古田先生からの贈り物のような気がしました。

(注)
 古賀達也「盗まれた降臨神話 ー『古事記』神武東征説話の新・史料批判ー」、『古田史学会報』48号、2002年2月。
 古賀達也「続・盗まれた降臨神話 ー『日本書紀』神武東征説話の新・史料批判ー」、『古代に真実を求めて』第六集、2003年4月。古田史学の会編、明石書店。


第2021話 2019/10/24

「評制」時期に関する古田先生の認識(3)

 「評制」の開始時期を七世紀中頃と古田先生は考えておられましたが、それ以前は「県(あがた)」の時代とされていました。このことを示すエビデンス(古田先生の著書)を紹介します。
 『古代は輝いていた3』(一九八五年、朝日新聞社刊)の「第五章 二つの『風土記』」には次のように記されています。

 「九州王朝の行政単位 (中略)
 その上、重大なこと、それは五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が「県」であったこと、この一事だ。
 この点、先の『筑後国風土記』で、「上妻県」とある。これは、筑紫の王者(倭王)であった、筑紫の君磐井の治世下の行政単位が「県」であったこと、それを明確に示していたのである。」(七〇頁、ミネルヴァ書房版)

 ここでのテーマは、行政区画名が「県」と「郡」の二種類の風土記について述べたもので、九州王朝による『風土記』が「県」風土記であり、その成立時期について考察されたものです。その中で、「五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が『県』であった」「筑紫の君磐井の治世下の行政単位が『県』であった」とされています。すなわち、七世紀中頃の評制開始の前の行政区画を「県制」とされているのです。なお、「県」は「あがた」と訓まれていますが、古田先生はなんと訓むかは不明と、用心深く述べられています。
 また、『古代史の十字路 万葉批判』(東洋書林、二〇〇一年)では次のように記されています。

 「しかも、万葉集の場合、明白な、その証拠を内蔵している。巻一の「五」歌だ。
 『讃岐国安益郡に幸(いでま)しし時、軍王の山を見て作る歌』
 この歌は、『舒明天皇の時代』の歌として配置されている。
 『高市岡本宮に天の下知らしめし天皇の代、息長足日広額天皇』
の項の四番目に位置している。
 舒明天皇は『六二九〜六四一』の治世である。とすれば、明白に『郡制以前』の時代である。七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって、まかりまちがっても『郡』ではありえない時間帯だ。」(二一九頁。ミネルヴァ書房版)

 ここに「七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって」と記されているように、評制開始は七世紀中頃という認識が前提にあって、七世紀前半の行政区画名として「評」かそれ以前の「県」などであるとされているのです。もし評制開始が六世紀にまで遡ると古田先生が考えておられたのであれば、「『評』に非ずんば『県』など」とは書かず、「評の時代」と書かれたはずです。このように、古田先生が評制開始時期を七世紀中頃とされ、それ以前が「県」とされてきたのは明白です。
 最後にお願いがあります。「評制開始を六世紀以前」とする仮説を発表されるのも「学問の自由」であり、それがたとえ古田説と異なっていたとしても「師の説にな、なづみそ」(本居宣長)ですから、全くかまいません。しかし、古田先生ご自身がどのように認識されていたのかを論じられる場合は、せめて事前調査の一つとして、古くから古田先生の下で古代史学を学んできた〝長老〟格の方々に直接確認していただけないでしょうか。たとえば、学生時代(京都大学)から古田先生の謦咳に接してこられた谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)もおられます。
どのような自説の発表も「学問の自由」ですが、「○○の認識はこうだ」とされる場合は、その方に直接確認するか、お亡くなりになっておられるのであれば、その方を最も知る方々に直接確認するというのが、古田先生が示されてきた学問の方法です。たとえば、好太王碑研究において、古田先生は酒匂大尉のご遺族を探しだし、そのご遺族から直接聞き取り調査をされ、最終的には好太王碑の現地調査もされ、碑文改ざんがなかったことを明らかにされました(『失われた九州王朝』)。このことは、古田ファンや古田学派の研究者には周知のことでしょう。
 もし、「古田史学を継承する」といわれる方があれば、口先だけではなく、実践されることを望みます。古田先生は、あの和田家文書偽作キャンペーンと古田バッシングが酸鼻を極め、「市民の古代研究会」が分裂したとき、津軽の地を訪れ、現地での聞き取り調査を実施されました。私も何度も現地に行かせていただきましたが、そうした実践が古田史学を継承し、発展させていくうえで重要だと考えます。


第2019話 2019/10/23

「評制」時期に関する古田先生の認識(2)

 古田先生が「評制」開始を七世紀中頃とされていたことは、30年にわたるお付き合いから、わたしにとっては自明のことだったのですが、わたしの説明が不十分だったようで、納得していただけない方がおられるようです。そこで、新たなエビデンス(先生の著作)を紹介することにします。
 2015年にミネルヴァ書房から発行された『古田武彦の古代史百問百答』(古田武彦著、古田武彦と古代史を研究する会編)に〝「庚午年籍の保存」について〟という一節があり、その中に大和朝廷により「評」史料が隠されたり廃棄された実例として次の三例が示されていますので、その部分を引用します。

(イ)正倉院文書では「評」の文書がない。
(ロ)『万葉集』にも「評」は出現しない。(「郡」ばかり、九十例)。
(ハ)『日本書紀』でも、六四五〜七〇一の間すべて「郡」とされている。
 (『古田武彦の古代史百問百答』218頁)

 ここに〝(ハ)『日本書紀』でも、六四五〜七〇一の間すべて「郡」とされている。〟と古田先生が記されているように、「評制」の期間が「六四五〜七〇一の間」との認識に立たれていることがわかります。なんとなれば、『日本書紀』には「六四五」より前も「郡」表記がなされており、もし古田先生が「評制開始を六世紀以前」と認識されていたのなら、それこそ「五〇一〜七〇一の間すべて」などと書かれたはずです。しかし、古田先生は「評制」開始を七世紀中頃と考えられていたので、『日本書紀』の中の「評」が「郡」に書き換えられた範囲として「六四五〜七〇一の間」と表現されたのです。そうでなければ、「六四五」という年次を記す理由は全くありません。
 同時に、「六四五」よりも前は「評」ではなく、「県」であると古田先生は考えられていました。このことについてもエビデンス(古田先生の著書)を示します。(つづく)

〔補注〕正確に言えば、「評制」は「七〇〇年」までで、「七〇一年」には「郡制」に変わったことが、出土木簡から判明しています。また、『日本書紀』の記述対象範囲は持統十一年(六九七年)までです。もちろん、本稿の論旨には影響しません。


第2017話 2019/10/21

「評制」時期に関する古田先生の認識(1)

 9月16日に開催した『倭国古伝』出版記念東京講演会(文京区民センター、古田史学の会・主催)で、会場の参加者から「評制の開始時期はいつ頃か」という質問をいただき、当日に答えきれなかったことなどについて、「洛中洛外日記」1996〜2005話(2019/09/21〜10/04)〝九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(1)〜(8)〟として連載しました。
 そのときは質問に答えることに集中していたため思い至らなかったのですが、日本古代史研究では「評制」開始時期は七世紀中頃とすることが定説となっており、ほとんど異論を聞きません。それなのになぜこのような質問が出されたのでしょうか。恐らく、古田学派の論者の中には「評制開始は六世紀以前に遡るというのが古田先生の見解」とされる方がおられ、そうした見解が古田ファンの中にも伝わっていたことが背景にあるのではないでしょうか。
 古田先生も「評制」開始を七世紀中頃とされていたことは、30年にわたるお付き合いから、わたしにとっては自明のことだったので、そのことを「洛中洛外日記」や各会の会紙でも発表してきました。それで十分にご理解いただけたはずとわたしは思っていましたが、今回のような質問が出されたこともあり、まだまだ説明が足りなかったのではないかと反省しました。そこで、新たなエビデンス(先生の著作)を紹介して、古田先生が「評制」開始時期を七世紀中頃と考えられていたことを改めて説明したいと思います。(つづく)


第2004話 2019/10/03

『東京古田会ニュース』188号の紹介

『東京古田会ニュース』188号が届きました。今号も力作揃いでした。拙稿「山城(京都市)の古代寺院と九州王朝」も掲載していただきました。今まで古田史学・多元史観の研究者からはほとんど取り上げられることがなかった京都市域の七世紀の寺院遺跡を紹介し、それらと九州王朝との関係性についての可能性を論じたものです。京都市は近畿天皇家の千年の都・平安京の地ですから、そこが九州王朝と関係があったとは思いもしませんでした。本格的な調査研究はこれからですが、新たな多元的「山城国」研究の展開が期待されます。
 今号で最も注目した論稿は安彦克己さんの「『ダークミステリー』は放送法四条に違反する」でした。今年6月13日、NHKより放送された『ダークミステリー 隠された謎』において、『東日流外三郡誌』などの「和田家文書」を偽作として解説し、それを古田先生が真作として支持したことを揶揄するという、悪質な番組編成を安彦さんは批判されました。そしてそれは放送の中立性と公平性を定めた放送法四条に違反していると指弾されました。まことにもっともなご意見です。
 近年のテレビ報道番組などの中立性・公平性について問題が少なくないことは各方面から指摘されているところで、今回の安彦さんの論稿はこうした現代メディア批判でもあり、貴重な意見表明です。なお、同番組のことは、9月16日に開催した『倭国古伝』出版記念東京講演会の懇親会で安彦さんから教えていただいたもので、それまでわたしは知りませんでした。なぜ古田武彦攻撃のような番組がこの時期に放送されたのか、気になるところです。「和田家文書」の史料価値をどのようにして社会に訴えていくべきか、よく考える必要があるように思いました。


第1994話 2019/09/19

福島原発事故による古田先生の変化(3)

 古田先生が、ミネルヴァ書房版『ここに古代王朝ありき』巻末の「日本の生きた歴史(五)」(2010年8月6日)を執筆された翌年の3月11日に東北大震災が発生し、数日後には福島第一原発が爆発しました。この災難に「古田史学の会」も翻弄されました。とりわけ、「古田史学の会・仙台」の会員の方々と連絡がとれず、何ヶ月も憂慮する日々が続きました。東北大学ご出身の古田先生には尚更のことと思われました。たとえば、阪神淡路大震災のときも古田先生は被災者に心を痛められ、当時出版されたご著書の印税などを神戸市に寄贈されたこともあったほどですから。
 特に原発の爆発事故には深く関心を示されたようで、翌2012年11月20日には東京大学教授の安冨歩さんの著書『原発危機と東大話法』(2012年1月、明石書店)が古田先生から贈られてきました。今までも歴史関係の本や論文を頂いたことは少なくなかったのですが、この種の本を先生から頂いたのは初めてのことでした。
 そうしたこともあって、古田先生と原発問題などについて話す機会が増えました。そのことを記した「洛中洛外日記」を紹介します。

【以下、転載】
「洛中洛外日記」514話(2013/01/15)
「古田武彦研究自伝」

 12日に大阪で古田先生をお迎えし、新年賀詞交換会を開催しました。四国の合田洋一さんや東海の竹内強さんをはじめ、遠くは関東や山口県からも多数お集まりいただきました。ありがとうございます。
 今年で87歳になられる古田先生ですが、お元気に二時間半の講演をされました。その中で、ミネルヴァ書房より「古田武彦研究自伝」を出されることが報告されました。これも古田史学誕生の歴史や学問の方法を知る上で、貴重な一冊となることでしょう。発刊がとても楽しみです。
 当日の朝、古田先生をご自宅までお迎えにうかがい、会場までご一緒しました。途中の阪急電車の車中で、古代史や原発問題・環境問題についていろいろと話しました。わたしは、原発推進の問題を科学的な面からだけではなく、思想史の問題として捉える必要があることを述べました。
 原発推進の論理とは、「電気」は「今」欲しいが、その結果排出される核廃棄物質は数十万年後までの子孫たちに押しつけるという、「化け物の論理」であり、この「論理」は日本人の倫理観や精神を堕落させます。日本人は永い歴史の中で、美しい国土や故郷・自然を子孫のために守り伝えることを美徳としてきた民族でした。ところが現代日本は、「化け物の論理」が国家の基本政策となっています。このような「現世利益」のために末代にまで犠牲を強いる「化け物の論理」が日本思想史上、かつてこれほど横行した時代はなかったのではないか。これは極めて思想史学上の課題であると先生に申し上げました。
 すると先生は深く同意され、ぜひその意見を発表するようにと勧められました。賀詞交換会で古田先生が少し触れられた、わたしとの会話はこのような内容だったのです。古代史のテーマではないこともあり、こうした見解を「洛中洛外日記」で述べることをこれまでためらってきましたが、古田先生のお勧めもあり、今回書いてみました。
【転載おわり】

 おそらく、福島第一原発の爆発事故により、古田先生は核兵器や原発についての考察をより深め、考えを変えられたのではないかとわたしは推測しています。(つづく)


第1993話 2019/09/18

ミネルヴァ書房「日本評伝選」200巻

 「古田史学の会」では会員論集『古代に真実を求めて』を明石書店(東京)から発行していますが、ミネルヴァ書房(京都市)からも『「九州年号」の研究』『邪馬壹国の歴史学』を発行していただいています。ミネルヴァ書房は古田先生の著書復刻を手がけておられ、現在では手に入りにくくなっていた古田先生の著書が書店や図書館に並ぶこととなりました。古田史学を再び広く世に知らせる事ができ、ミネルヴァ書房には感謝しています。
 そのミネルヴァ書房・杉田啓三社長への取材記事が「読売新聞」2019年9月16日の文化欄に掲載されていることを服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長)から教えていただきました。その記事は「日本評伝選」200巻発行の記念特集のようで、「半永久的に続ける覚悟」との見出しと共に杉田社長の写真が掲載され、比較的大きな扱いでした。
 同社が刊行を続けている「日本評伝選」は日本の歴史的人物を一人ずつ紹介するという人気企画です。ちなみにその最古の人物として邪馬壹国の俾弥呼が選ばれており、もちろん著者は古田先生です。記事には杉田社長のお話として、古田先生の名前が次のように出されています。

 「政治家、学者から芸術家、外国人まで幅広いラインアップにこだわりを詰め込んだ。卑弥呼の正式な名前に焦点を当てた『俾弥呼(ひみか)』(古田武彦著)や、伝説のプロレスラーの生涯を追った『力道山』(岡村正史著)など硬軟取り混ぜ、近年は『田中角栄』(新川敏光著)が話題を呼んだ。」

 わたしは、てっきり『親鸞』も古田先生が書かれるものと思っていましたが、残念ながら別の方が書かれています。この企画は「半永久的に続ける覚悟」とのことですから、いつの日かには『古田武彦』も出版されることでしょう。ちなみに古田先生の恩師『村岡典嗣』(水野雄司著、2018年)は既に出版されています。そういえば、古田先生は「わたしは『秋田孝季(あきたたかすえ)』を書きたい」とおっしゃっていました。村岡先生が書かれた名著『本居宣長』を意識してとのことと思います。


第1991話 2019/09/15

福島原発事故による古田先生の変化(2)

 今から10年ほど前のことです。「古田史学の会」役員の間に〝激震〟が走りました。「古田史学の会」全国世話人のAさんから、「古田先生は日本の自衛隊は核武装すべきと言っておられる」と驚きと共に心配のお電話がありました。Aさんは古田先生のご自宅の比較的近くに住んでおられたこともあり、古田先生と連絡を取り合う機会も多く、おそらくそうした個人的会話の中での先生の発言と思われます。そのとき、わたしがどのような返事をしたのかははっきりと記憶していませんが、否定はしなかったはずです。わたしは直接的な表現では聞いたことはありませんでしたが、古田先生がそうしたご意見を持っておられることに気づいていたからです。
 このようなことは、ほとんどの古田ファンや読者の方には信じてもらえないかもしれませんが、古田先生は常々、「世界最強の在日米軍が駐留している日本は真の意味での独立国家ではなく、そのため自衛隊には二流の兵器しか与えられていない」と語っておられました。そして自国の防衛は自国(一流の兵器を持った自衛隊)によってなされるべきと考えておられました。ですから、先生がいう「一流の兵器」とは、恐らく核兵器のことであろうとわたしは受け止めていました。しかし、先生から直接的な表現で自衛隊の「核武装」についてお聞きしたことはありませんでした。
 そのようなときに、次の一文を古田先生が発表され、わたしは驚愕したのでした。ミネルヴァ書房から復刊された『ここに古代王朝ありき』(2010年)巻末に付された「日本の生きた歴史(五)」の「第五 若者の頭脳」です。そこには放射能を発見したキュリー夫人の評価に触れ、次のように書かれています。

【以下、転載】
 (前略)
 事実、彼女(キュリー夫人)の娘イレーヌやその夫ジョリオが「発見」した人工放射能の秘密、またマイトナーやフェルミなど、ヨーロッパ・アメリカ文明の中から生まれた俊秀たちが「アッ!」というまに、「広島・長崎への原爆投下」の道を、その技術を切り開いたではありませんか。わたしの両親は広島(西観音町)でその洗礼を受けました。投下後、一週間して仙台から広島に帰り、傷死体の累積した市街をうろつきまわっていたわたしも、「第二次放射能の被爆者」です。いわば「広がる犠牲者」の末端に位置している人間の一人です。

       四

 わたしの言いたいこと、それは次の一点に尽きます。
 「わたしたちは未だに、キュリー夫人の願いに答えていない」
と。
 このような「巨大な爆発力」が実在する以上、それに〝打ち克つ力〟もまた、必ず実在するはずだ。
ーーわたしはハッキリとそう思っています。たとえば、
 第一、この「巨大爆発力」の研究がさらに進展して、「一発」で宇宙全体を〝吹き飛ばす〟能力を持ったとき、すなわちどの国もこれを「使用」することができなくなります。
 第二に、かりに「宇宙全体」ではなく、「地球全体」であったとしても、同じく「使用」できないのは、自明のことです。
 マイトナーやフェルミ段階では、その爆発力があまりにも「リトル」であり、「マイナー」だったから「使用可能」だったのです。

      五

 問題は、自然科学の分野にとどまりません。
 この「使用」は、人間の「個人」の手によるものではなく、同じく人間の「組織」によらなければならないこと、当然です。
 とすれば、そのような「人間の組織」に対してその組織の「生みの親」である人間の頭脳によって、徹底的な「再点検の手」が加えられなければなりません。「国連」も、「国家」も、「教会」も、「学校」も、「学会」も、そのすべてに対する徹底的な再批判です。
 それが最初にのべた「日本実証主義」の辿り、そして突き進むべき道です。わたしにはそう見えています。
 (後略)
【転載おわり】

 どう控えめに読んでも、この前半部分は相互確証破壊という核抑止理論と同様の考え方に基づいていることは明白でした。古田先生の持論を突き詰めれば、核兵器の使用(核戦争)をとどめるために一流の兵器による自国防衛という理論にたどり着くことも理解できないわけではありません。しかし、ここまであからさまな表現(「一発」で宇宙全体を〝吹き飛ばす〟)で発表されるとは思ってもいませんでした。
 この文が書かれた2010年8月6日は広島に原爆が投下された日です。当然、原爆の悲惨さを体験されている古田先生は、3度目の原爆投下をどうすればとどめることができるのか、考えに考え抜いて執筆されたことをわたしは疑えません。
しかしこの半年後、古田先生のこの考えを180度変えさせた大事件が発生します。2011年3月11日、東北大震災と福島第一原発の爆発事故です。(つづく)