古田武彦一覧

第3249話 2024/03/14

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (4)

「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)の「末」について、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」とする古田先生の解釈では、銘文に全く不要な「末」の一字を入れた理由の説明ができません。それでは、「阿須迦天皇」を舒明天皇とする通説ではどのような説明ができるでしょうか。「洛中洛外日記」(注①)などで述べてきましたが、改めて紹介します。わたしの理解は次の通りです。

(Ⅰ)舒明天皇は辛丑年(六四一)十月九日に崩じているが、次の皇極天皇が即位したのはその翌年(六四二年一月)であり、辛丑年(六四一)の十月九日より後は舒明の在位期間中ではないが、皇極天皇の在位期間中でもない。従って辛丑年(六四一)を「阿須迦天皇(舒明)の末」年(最後の一年)とする表記は適切である。

(Ⅱ)同墓誌が造られたのは「故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬」とあるように、戊辰年(六六八年)であり、その時点から二七年前の辛丑年(六四一)のことを「阿須迦天皇(舒明)の末」の年で、年干支は「歳次辛丑」とするのは正確な表記であり、墓誌の内容として適切である。

(Ⅲ)同墓誌中にある各天皇の在位期間中の出来事を記す場合は、「乎娑陀宮治天下 天皇之世」「等由羅宮 治天下 天皇之朝」「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」と、全て「○○宮治天下 天皇之世(朝)」という表記であり、その天皇が「世」や「朝」を「治天下」している在位期間中であることを示す表現となっている。他方、天皇が崩じて次の天皇が即位していないときに没した船王後の没年月日を記した今回のケースだけは在位中ではないので、治世中を意味する「世」や「朝」を使用せず、「末」という〝非政治的〟で、ある時間帯を示す字を用いて「阿須迦天皇之末」という表記にしており、正確に使い分けていることがわかる。

(Ⅳ)このように、同墓誌の内容(「阿須迦天皇之末」)は『日本書紀』の舒明天皇崩御から次の皇極天皇即位までの「空白期間」を「末」の一字を用いて正しく表現しており、「末」の一字の存在理由を説明できない古田新説(九州王朝の天皇)よりも通説(舒明天皇)の方がはるかに妥当である。

以上のわたしの指摘に対して、既に亡くなられていた古田先生はともかく(注②)、古田新説支持者からの反論は聞こえてきません。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1737~1746話(2018/08/31~09/05)〝「船王後墓誌」の宮殿名(1)~(6)〟
「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」『古田史学会報』152号、2019年。
②古田武彦氏は2015年10月にご逝去。古賀の最初の発表は2018年8月。古田氏の没後三年を経て発表したのは、〝古田先生の喪(三回忌)が明けるまでは、批判論文の発表は控える〟という自らの思いに従ったことによる。「洛中洛外日記」1531話(2017/11/02)〝古田先生との論争的対話「都城論」(1)〟で、そのこと(三回忌)について触れている。


第3248話 2024/03/13

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (3)

 「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)の「末」について、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」とする古田先生の解釈を、かなりの無理筋としたのには理由があります。その主なものを以下に列挙します。

(a)古田先生の主張であれば、銘文に「末」の字は全く不要であり、「阿須迦天皇之歳次辛丑」(641年)だけでよい。治世の末年と理解される「末」の字をわざわざ入れる必要は全くない。それにもかかわらず「末」の一字を入れた理由の説明がなされていない。

(b)仮に、阿須迦天皇の治世を永く見積った場合、当時の九州年号は「仁王(12年)」「僧要(5年)」「命長(7年)」の三年号であり、合計しても24年(623~646)にしかならず、次の「常色」改元(647年)は6年も先のことだ。19年目の「歳次辛丑」(641年)を治世の「末」と表記するのは明らかに不自然である。これは、例えば「2024年10月」を「2024年末」というようなものである。普通に「2024年末」とあれば、年末の12月下旬頃と思うであろう。すなわち、10月を年末というくらい不自然な解釈なのである。
※「仁王元年(623)」の前年に九州王朝の天子、多利思北孤(上宮法皇)が崩御しており、仮に古田新説に従えば、「阿須迦天皇」の治世初年をこれ以前にはできない。

(c)そのような「末」表記に前例があったとしても、それは「末」の本義とは異なる少数例と思われ、その少数の可能性の存在を示すに過ぎない。少数例の方が、多数例よりも優れた有力な読解とできる史料根拠の明示と合理的な説明ができて、初めて〝論証した〟と言えるのだが、古田新説ではそれがなされていない。なぜなら、単なる可能性存在(しかも少数例)の「主張」を、学理上、「論証」とは言わないからである。これでは〝可能性だけなら何でもあり〟との批判を避けられないであろう。

(d)更に言えば、『日本書紀』の舒明天皇の没年と「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)は一致するが、古田新説では、これを〝偶然の一致〟と見なさざるを得ない。自説に不利な史料事実を〝偶然の一致〟として無視・軽視するのであれば、あまりに恣意的と言う批判を避けられないであろう。

 以上のように、船王後墓誌銘文に対する古田先生の読解は、「天皇は九州王朝の天子の別称」とする古田新説に不都合な金石文による批判を回避するための〝論証抜きの解釈〟と言わざるを得ません。とりわけ(c)の指摘は、〝論証とは何か〟という「学問の方法」に関する学理上の基本テーマです。従って、尊敬する古田先生には申し訳ないのですが、わたしは古田新説には従えないのです。(つづく)


第3247話 2024/03/12

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (2)

 近畿天皇家が天皇を称するのは王朝交代後の文武(701年)からとする古田新説にとって、最も不都合な金石文の一つに船王後墓誌がありました。その銘文は次の通りです。

惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮 治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也

《訓よみくだし》
惟(おもふ)に舩氏、故王後首は是れ舩氏中祖王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀の宮に天の下を治らし天皇の世に生れ、等由羅の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦天皇の末、歳次辛丑(641年)十二月三日庚寅に殯亡す。故戊辰年(668年)十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故の刀自と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古の首の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固せんがためなり。

 銘文に見える三人の天皇を通説では次のように比定しています。

乎娑陀宮治天下天皇 → 敏達天皇 (572~585)
等由羅宮治天下天皇 → 推古天皇 (592~628)
阿須迦宮治天下天皇 → 舒明天皇 (629~641年10月)

 この最後の阿須迦天皇の名前が墓誌には二度見えます。「阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三」と「殯亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」です。後者は「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)に船王後が亡くなったという記事ですが、この年が「阿須迦天皇之末」であり、その年干支は「歳次辛丑」(641年)とあることから、「阿須迦天皇」をこの年(舒明13年)の10月に崩御した舒明天皇とする通説が成立したわけです。

 この通説は古田新説にとって決定的に不都合なものでした。もし、「阿須迦天皇」が九州王朝の天子の別称であれば、治世の「末」年の「歳次辛丑」(641年)かその翌年に九州年号が改元されていなければならないからです。しかし、その時点の九州年号「命長二年」(641年)が改元されるのは、六年後の常色元年(647年)です(注)。これでは、「阿須迦天皇」を九州王朝の天子の別称とする古田新説は成立しません。天子が崩御したのに、改元されないことなど有り得ないからです。

 そこで古田先生が考え出されたのが、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」という解釈でした。しかし、これはかなり無理筋の解釈で、古田旧説を支持するわたしと新説を唱えた先生との間で論争が勃発しました。(つづく)

(注)「歳次辛丑」(641年)に九州年号が改元されていないことを、最初に指摘したのは正木裕氏(古田史学の会・事務局長)である。


第3237話 2024/02/25

「紀尺」による開聞岳噴火年代の検討

 紫コラの発生源となった貞観十六年(874)の開聞岳噴火記事は『日本三代実録』に記載されていることから、史実と見なされていますが、次の二つの噴火記事は信用できないとして、学問研究の対象とはされてきませんでした。

(A)「神代皇帝紀曰、第十二代懿徳天皇御宇(前510~前477年)、薩摩國開聞山涌出」『三國名勝圖會』巻之二十三 薩摩國 頴娃郡 開聞嶽

(B)「開聞神社縁起曰、第十二代景行天皇二十年(90年)、庚寅十月三日、一夜涌出、此等涌出の説あれども、皆日本書紀に載せざれば、確説に取りがたし、盖此嶽は、荒古より天然存在せしならん」『三國名勝圖會』巻之二十三 薩摩國 頴娃郡 開聞嶽
「景行天皇廿年(90年)庚寅冬十月三日之夜、國土震動風雷皷波而彼龍崛怱湧出于此界、屼成難思嵩山。卽其跡成池。今池田之池此也。」『開聞古事縁起』

 (A)は今から約2500年前、(B)は約2000年前の噴火記事であることから、荒唐無稽と考えられてきたものと思われます。しかし、この考えでは、なぜ2500年前や2000年前を示す具体的な年次(皇暦による)の伝承が成立し、後世の人々もその伝承を〝是〟として伝え続けてきた理由の説明が困難です。

 わたしは、史実に基づく噴火伝承の年次を、当時の何らかの暦法で伝えたもので、『日本書紀』成立後はその皇暦に換算したのではないかと考えています。古田先生は皇暦による年代特定方法を「紀尺」と名付け、従来、荒唐無稽とされてきた皇暦による年次が記されている古代伝承を、史実の反映としての再検証の必要性を提唱しました(注①)。

 古田先生が提唱した「紀尺」で、(A)2500年前、(B)2000年前という年次と気象庁ホームページの開聞岳の説明との整合が注目されます。

【気象庁ホームページ 「開聞岳」】(注②)
〝開聞岳は、約4,400年前に噴火を始めた。初期の活動は、浅海域での水蒸気マグマ噴火であった。溶岩を流出する噴火を繰り返し、約2,500年前には現在とほぼ同じ規模の山体が完成していたものと推定されている。約2,000年前と1,500年前の活動では噴出量が多く、成層火山体の形成に大きく寄与した。その後、歴史時代の874年及び885年の噴火で山頂付近の地形が大きく変化し、噴火末期に火口内に溶岩ドームが形成された。〟

「約2,500年前には現在とほぼ同じ規模の山体が完成」が(A)に相当し、「約2,000年前と1,500年前の活動では噴出量が多く、成層火山体の形成に大きく寄与」の「約2,000年前」が(B)に相当します。「1,500年前の活動」に対応する史料は今のところ見当たりません。こうした火山噴火の痕跡と、文献に遺された噴火記事との二つの一致を偶然と見るよりも、史実を反映した「紀尺」を用いた伝承と考えたほうがよいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「『日本書紀』は時のモノサシ ―古田史学の「紀尺」論―」『多元』170号、2022年。
同「洛中洛外日記」26832687話(2022/02/15~20)〝古田先生の「紀尺」論の想い出 (1)~(4)〟
②気象庁ホームページ「開聞岳」のアドレス。
https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/fukuoka/507_Kaimondake/507_index.html


第3199話 2024/01/12

古田史学の万葉論 (5)

  ―天香具山豊後説の論証―

 古田万葉論の中でも、際だった新説が天香具山=豊後国の鶴見岳説でした。従来の万葉学では、天香具山とあれば大和飛鳥の香具山のこととして歌を解釈してきました。その結果、万葉歌(巻一、二番歌)に見える天の香具山はかなり無理無茶な解釈が横行していました。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗(かまめ)立ち立つ うまし国そ 蜻蛉(あきづ)島 大和の国は 《『万葉集』巻一、二番歌》

 古田先生は万葉歌理解の基本的認識に基づいて、「歌」と「題詞」を切り離し、「歌」そのものの内容から、この歌の舞台を豊後の別府湾近辺(旧名は『和名抄』に「海部郡 安萬」とある)とされ、天の香具山を鶴見岳(標高1375m)とする新説に至りました。詳細は『古代史の十字路』(注①)の第三章「豊後なる『天の香具山』の歌」に記されていますので、興味のある方は同書をご覧下さい。古田先生の疑問点は次のようでした。

〈1〉「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山」とあるが、大和の他の諸山と比べて、飛鳥の香具山は特段に「群山あれど とりよろふ」(意味不詳)と歌うほどの特徴ある山ではない。むしろ周囲との比高約50メートルに過ぎない低山(標高152メートル)である。従って、同歌の「天の香具山」を奈良県飛鳥の香具山とするのは無理だ。
〈2〉しかも、飛鳥の香具山は、「天の香具山 登り立ち 国見をすれば」とあるような、国見をするに相応しい山とは言い難い。
〈3〉「海原は 鷗(かまめ)立ち立つ」とあるのも、不審。香具山に登っても海は見えないし、鷗が飛んでいるとも思えない。奈良盆地に海はなく、当地で詠めるような内容ではないのだ。従来の解釈では、「鷗」をユリカモメのこととするが、様々な池で「鷗」の存在を歌う例は『万葉集』にはない。
〈4〉従来説では、「海原」を香具山の近くの埴安池(1200㎡)と解釈するが、そのような〝ため池〟を「海原」と歌う例も『万葉集』にない。

以上のことから、この歌の「天の香具山」は奈良県飛鳥の香具山ではないとされ、この歌の情景に相応しい地を探されました。そして、次の論証と傍証により、豊後の鶴見岳が最も相応しいとする仮説に至ります。

〈5〉「天の香具山」とあることから、そこは「アマ」と呼ばれた領域である。
〈6〉「蜻蛉(あきづ)島 大和の国は」とあり、これは『古事記』の国生み神話に出現する「大倭豊秋津島」ではないか。「豊」は豊国であり、大分県。秋津は「安岐」の津であり、別府湾に相当する。豊後国の古名が「安萬(あま)」である。こうしたことを『盗まれた神話』(注②)で論証した。別府市内には「天間(あまま)区」(旧、天間村)という地名もある。
〈7〉「海原は 鷗(かまめ)立ち立つ」という表現も別府湾岸であれば、問題ない。
〈8〉この地であれば、別府温泉の湯が「煙」となって立ち上っており、「国原は 煙立ち立つ」という表現がピッタリである。
〈9〉当地には国見をするに相応しい山がある。鶴見岳だ(標高1375メートル)。「天の香具山 登り立ち 国見をすれば」と歌われているように、「国見」が可能な名山である。更に、別府市天間区には「登り立(のぼりたて)」という小字地名も遺存しており、鶴見岳を「天の香具山」とする理解の傍証となっている。
〈10〉鶴見岳には「火男火女(ほのおほのめ)神社」があり、ご祭神は主に「火(ほ)の迦具土(かぐつち)命」である。「火(ほ)」は鶴見岳が火山であることに由来し、「土(つち)」は「津」(港)の「ち」(神の古名)を意味する。語幹は「迦具(かぐ)」であり、この神を祭る鶴見岳は「天(安萬)の香具(かぐ)山」と呼ばれるに相応しい。

 古田先生の論証は更に詳細を究めるのですが、これほどの論証を尽くして、 「天の香具山」豊後国鶴見岳説を提唱されたのです。従来の万葉学では、「天の香具山」とあれば条件反射の如く、奈良県飛鳥の香具山と理解し、それにあわせるためには無理無茶な解釈もいとわなかったことと比べれば、古田万葉論がいかに学問的に優れた、ある意味で極めて常識的・合理的な文献理解に立ったものであるかがわかります。

 この「天の香具山」多元説が一旦成立すると、『万葉集』などに見える「天の香具山」が、どの山を指しているのかという基本作業(史料批判)が全ての研究者に要求され、新たな万葉学(文献史学としての万葉歌の新解釈)がここから成立します。まさに〝新時代の万葉学〟誕生です。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代史の十字路 ―万葉批判―』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(一九七五)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3198話 2024/01/09

新年の読書、松本清張「古代史疑」 (3)

 卑弥呼=ヒミカ説の濫觴(らんしょう)

 『古代史疑・古代探求 松本清張全集33』は、当時(昭和四十年頃)の邪馬台国論争の状況・諸説を要領よく紹介されており、勉強になりました。同時に著者による自説の紹介もあるのですが、その中で邪馬壹国の女王、卑弥呼の訓みを「ヒミカ」としており、驚きました。卑弥呼=ヒミカ説は古田先生も発表されていますが、その濫觴(らんしょう)が松本清張氏だったことを知りました。松本氏の論旨は次のようです。

 〝そこで、私は「卑弥呼」も「台与」も、「卑弥弓呼素」(そう読むとして)も、やはり地名からきている名ではないかと思うのである。
そう考えるなら、卑弥呼は「ヒミカ」と訓んでもよさそうである。
「呼」の正確な訓みようはない。大森説では前記のように「ヲ」をあげているが、八世紀の読み方を私はあまり信用しない。通説では「コ」と訓んでいるが、あるいは「カ」という音を写した文字かも分からないのである。「ヒミカ」と訓んでも「ヒミコ」と訓んでも同じような気がする。
もし「ヒミカ」なら、すなわち「ヒムカ」(日向)になる。つまり卑弥呼は日向にいた巫女かもしれないのである。「ヒムカ」といっても八世紀に区分された日向国ではない。当時の九州のどこかにヒミカといわれる土地があったのではあるまいか。〟83頁

 このように、松本説は「ヒミカ」地名淵源説とでもいうべきものです。一つの解釈(作業仮説・思いつき)としては成立していますが、そう考えざるを得ない(他の仮説は成立しない)、あるいは他の仮説よりも有力とする〝論証の末に成立した仮説〟とまでは言い難いものです。

 この点、古田先生のヒミカ説は次のような論証と傍証により、他の説よりも優れた仮説として成立しています。松本説との違いは、学問の方法(論証の優越性とエビデンスの確かさ)に関することであり、この点重要です。

 〝俾弥呼(注①)の訓み

 では、この「俾弥呼」の“訓み”は何か。これは、通説のような「ヒミコ」では「否(ノウ)」だ。「ヒミカ」なのである。このテーマについて子細に検証してみよう。

 第一に、「コ」は“男子の敬称”である。倭人伝の中にも「ヒコ(卑狗)」という用語が現れている。「対海国」と「一大国」の長官名である。この「コ」は男子を示す用語なのである。明治以後、女性に「~子」という名前が流行したけれど、それとこれを“ゴッチャ”にしてはならない。古代においては女性を「~コ」とは呼ばないのである。

 第二に、倭人伝では、右にあげたように「コ」の音は「狗」という文字で現している。だから、もし「ヒミコ」なら「卑弥狗」となるはずである。しかし、そのような“文字使い”にはなっていないのである。

 「ヒミカ」とよむ

 では、「俾弥呼」は何と“訓む”か。――「ヒミカ」である。

 「呼」には「コ」と「カ」の両者の読み方がある。先にのべたように、「コ」の“適用漢字”が「狗」であるとすれば、こちらの「呼」はもう一方の「カ」音として使われている。その可能性が高いのである。
「呼(カ)」とは、何物か。“傷(きず)”である。「犠牲」の上に“きずつけられた”切り口の呼び名なのである。中国では、神への供え物として“生身の動物”を奉納する場合、これに多くの「切り口」をつける。鹿や熊など、“生き物”を神に捧げる場合、“神様が食べやすい”ようにするためである。それが「呼(カ)」である。古い用語である。そして古代的信仰の上に立つ、宗教的な用語なのである。「鬼道に事(つか)えた」という、俾弥呼にはピッタリの用語ではあるまいか。

 「ヒミカ」の意味

 「ヒミカ」とはどういう意味か。
「ヒ」は当然「日」、太陽である。次の「ミカ」は「甕」。“神に捧げる酒や水を入れる器”である。通例の「カメ」は、人間が煮炊きする水の入れ物である。日用品なのである。これに対して「ミカ」の場合、“神に捧げるための用途”に対して使われる。こちらの方が「ヒミカ」の「ミカ」である。

 すなわち、「太陽の神に捧げる、酒や水の器」、それが「ヒミカ」なのである。彼女の「鬼道に事(つか)える」仕事に、ピッタリだ。「鬼道」とは、あとで詳しくのべるように「祖先の霊を祭る方法」であり、それに“長じている”女性が俾弥呼だったのである。〟(注②)

 松本氏のヒミカ地名起源説よりも、古田先生のヒミカ論が際立っている。このことがご理解いただけるのではなないでしょうか。(おわり)

(注)
①『三国志』倭人伝では「卑弥呼」の字が使われ、本紀では「俾弥呼」が使われている。古田説では「俾弥呼」が本来の用字、すなわち自署名とする。
②古田武彦『俾弥呼』ミネルヴァ書房、平成二三年(二〇一一)。


第3197話 2024/01/08

新年の読書、松本清張「古代史疑」 (2)

   ―「邪馬台国」の原文改定―

 年始に古書店で購入した『古代史疑・古代探求 松本清張全集33』(注①)には、倭人伝の原文改定について次の三例が紹介されていました。

Ⅰ.「南、邪馬壱(台の誤り)国に至る。」13頁
Ⅱ.「景初三年(二三九。原文、二年)」14頁
Ⅲ.「台与(原文、壹與。『梁書』と『北史』を参照して臺與の誤りとされている)」15頁

 Ⅲについては、一応、原文改定の根拠らしきことが示されていますが、なぜか邪馬壱国についてはそれがありません。古田先生は、この「古代史疑」で紹介された邪馬壱国から邪馬台国への原文改定の事実を、松本清張氏が最後まで説明されなかったことを不審として、自らが『三国志』の「壹」と「臺」の悉皆調査を行われ、原文改定が否であることを証明されました。そのことを東京大学の『史学雑誌』(注②)に発表され、古田武彦の名前と邪馬壹国説は古代史学界で、一躍注目されるに至ったことは有名です。

 それではなぜ松本氏は邪馬台国への原文改定を、何の説明も論証も無いまま採用したのでしょうか。というのも、氏自身が同書で次のように、原文改定を誡められているだけに、不審と言うほかありません。

 「要するに、距離(里数、日数)の点では大和説が有利である。ただし、『魏志』の原文にある南を東としたのは、「自説に都合のいい、勝手な解釈」といわれても仕方がなく、大和説の欠陥である。」24頁
「私はやはり『魏志』の通りに帯方郡から邪馬台国までの方向をすべて「南」としたい。原典はなるべくその通りに読むべきだと思う。」37頁

 このように、松本氏は原文尊重を主張していながら、邪馬壹国については、何の疑いもなく原文改定された「邪馬台国」を採用しています。何とも不思議なことです。その後、1969年に古田先生の論文「邪馬壹国」が発表されると、次のように述べています。

 「この問題を、これほど科学的態度で追跡した研究は、他に例がないだろう。十分に説得力もあり、何もあやしまずにきた学会は、大きな盲点をつかれたわけで、虚心に反省すべきだと思う。ヤマタイではなくヤマイだとしたら、それはどこに、どんな形で存在したのか、非常に興味深い問題提起で、私自身、根本的に再検討を加えたい」(注③)

 残念ながら、古代史学界では今も原文改定した「邪馬台国」が、なに憚ることなく使われ続けています。そして、教科書もまた。(つづく)

(注)
①「古代史疑」の初出は『中央公論』の連載(昭和41年6月~42年3月〔1966年〕)。
②古田武彦「邪馬壹国」『史学雑誌』78-9、1969年。
③「読売新聞」昭和44年11月12日〔1969年〕。
古賀達也「洛中洛外日記」1084話(2015/10/29)〝「邪馬壹国」説、昭和44年「読売新聞」が紹介〟


第3196話 2024/01/07

新年の読書、松本清張「古代史疑」 (1)

 ―古田古代史誕生の契機―

 毎年、年始には新たに数冊の本を読むことを「新年の読書」と称して、年頭の行事としてきましたが、今年は書籍の編集・執筆のため1冊しか読めませんでした。それも年明けの三が日が済んでからになりました。ご近所の枡形商店街の古書店が五日に開きましたので、のぞいたところ、松本清張全集(注①)が売りに出ており、ばら売りで1冊百円のお買い得価格。その中に『古代史疑・古代探求』があり、迷わず購入しました。

 コアな古田ファンであればご存じのはずですが、親鸞研究を専門としていた古田先生が古代史に参入されるきっかけとなったのが、松本清張氏の「古代史疑」という『中央公論』の連載(昭和41年6月~42年3月)でした。同連載は主に邪馬台国をテーマとしており、その最初の方に、「邪馬台国」という国名が倭人伝の原文には「邪馬壱国」であることが記されており、古田先生はそのことを松本清張氏が連載の中でどのように説明されるのかを楽しみにしていたとのこと。ところが、最後まで説明はなかったので、自ら調べてみたことが、名著『「邪馬台国」はなかった』(注②)の発刊に至ったと先生は語っていました。
そうした経緯を聞いていたので、五十年前に同連載が全集に収録され、その全集を古書店で偶然に発見し、新年に入手できたのは幸いでした。同書の外見や紙はやや変色していますが、書き込みなど全くなく、読まれた痕跡もない新品同様の良本でした。恐らく、清張ファンの方が全集を購入したものの、全ては読めずに書棚に飾ったままのものが、所蔵者の没後に古書店に流れたのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①松本清張『古代史疑・古代探求 松本清張全集33』文藝春秋、1974年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3195話 2024/01/06

中小路俊逸先生からの提言(遺告)

 ―「一元通念」は学理上「非」なり―

 この五十年間、日本古代史学界で古田先生の多元史観・九州王朝説を公然と支持したプロの学者は一人として現れませんでした。他方、理系ではそうそうたる学者が古田説を支持してきました。わたしが知るところ、人文系では日本古典文学の学者、中小路俊逸先生(追手門学院大学教授。故人)が公然と古田説を支持し、ご自身も多元史観による研究論文を発表されてきました(注①)。

 中小路先生は、より本質的な視点で一元史観(氏は「一元通念」と呼ぶ)に対して古田説の決定的に勝(まさ)った点をとらえ、そのことを次のように指摘しています。

〝古田氏の言説が「近畿大和なる天皇家の王権は、七世紀よりも前から日本列島内で唯一の卓越して尊貴な中心的権力であった」という「一元通念」を学理上「非」なりとしている一点で古田説は通念に対して決定的に勝(まさ)ったのである。〟
〝何よりも、肝心カナメのカンどころ、「一元通念」を「論証を経ざるもの」とした古田氏の指摘こそ、日本古代史の研究史のなかで古田氏の学の位置を決定した理論上の「定礎」である。〟(注②)

 そして、「古田史学の会」を立ち上げた当時のわたしに、次のように忠告されました。

〝一元通念のプロの学者との対話や論争において、各論(例えば九州年号や評制問題など)だけを論じても徒労に終わるであろう。彼らは文献史学のプロであり、素人を相手にして、多くの史料(エビデンス)や様々な解釈(ロジック)を持ち出し、いくらでも古田説に「反論」することができる。その結果、九州王朝説は邪馬台国論争と同様に、百年経っても決着がつかない〝永遠の水掛け論〟に持ち込まれる。そうしているうちに、古田説は隠され、無視され、忘れられてしまい、結果は「学理上無効な一元通念が無期限に安泰」となることは明白である。〟

 残念ながら、中小路先生の指摘通りに、学界の状況は今日まで進んで来ました。
ここに、中小路先生が遺された提言(遺告)を紹介します。わたしが聞いたのは三十年前のことであり、表現は少し異なるかもしれませんが、それは次のようなことでした。

〝一元通念の学者との対話や論争での要点は、「一元通念は論証を経ていない」ので「学理上無効」ということであり、これを曖昧にしたり、伏せてはならない。このことを最初から最後まで問わねばなりません。〟

 ちなみに、「古田史学の会」会則には〝本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い〟と銘記しています。これは中小路先生の提言に従ったものです。

(注)
①中小路駿逸「旧・新唐書の倭国・日本国像」『市民の古代』9集、新泉社、1987年。
同(遺稿集)『九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。
②中小路駿逸「古田史学の会のために」(『古田史学会報』8号、1995年)で同様の主張がなされている。そこでは一元通念を次のように説明している。
〝この「名分に関する、信仰を含む宣言」を「史実宣言」へと横滑りさせ、この「名分」に合うように歴史のワク組みを構想した「錯乱」の所産が「一元通念」なのだった。――私は今、そう考えているのである。古田氏の指摘はこの「錯乱」を非なりとし、その裏づけを提示した私も、同様これを非とし、歴史像を通念型から古代の文献の示しているものに返せ、と要求している。たとえこの通念が数百年、あるいは千年余、日本人の心を規制し、文化の深部に根付いているように思われていようとも、より深い基層にあるものが真実ならば、そこに復帰して当然ではないか。「一元通念を非とする。」――この一句に私が固執する意味がおわかり願えようか。日本の文化が、精神が、ほんとに確かな基礎に立ったものになれるかなれないか、その分かれ目がこの一句にある。私はそう思っているのである。〟


第3194話 2024/01/05

和田昌美さんから

「結集(けつじゅう)」の呼びかけ

 本日、開催された新年最初のリモートによる古代史研究会(多元的古代研究会主催)で、和田昌美さん(同会事務局長)から、〝釈迦の弟子等が釈迦入滅後に行った「結集(けつじゅう)」を私達も行おう〟という提案がなされました。釈迦の直弟子等が集まり、釈迦から聞いたことを皆で出し合い、その記憶を確認し、合意形成して、阿含経を編纂したことを「第一回結集」とされています。それと同様に、古田先生没後の現在、その教えを受けた者、学んだ者が一堂に会して「結集」しようという提案で、時宜に適ったものです。

 実は、わたしも「結集」を呼びかけたことがありました。2001年10月8日、東京の朝日新聞社ホールで開催された『「邪馬台国」はなかった』発刊三十周年紀年講演会で祝賀講演を谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)とわたし(当時、古田史学の会・事務局長)が行うことになり、わたしは「古田史学の誕生と未来」というテーマで講演しました(注①)。その冒頭と締めくくりに次のように述べました。

 〝(前略)
従いまして今日、私がお話しするのは「私は、このように聞いた」ということで、有名な釈迦の「結集(けつじゅう)」というのがございますね、釈迦の没後に弟子等五百人が集まって結集し、「私は、このように聞いた」と、要するに「如是我聞」と仏教の経典では最初にそれが入って、聞いた内容を口伝で伝える、という有名な「結集」というのがございます。
この「第一回結集」は王舎城(ラージャグリハ)郊外に五百人の比丘が集まってやったと、で、長老格の迦葉(かしょう)が座長を務めて、弟子の阿難陀(アーナンダ)とか優波離(ウパーリ)というのが、それぞれ先導を切って「そのように聞いた」と。それからずっと第二回結集、第三回結集と何百年と続いて釈迦の教えが伝えられ、世界に広まったという有名な話がございます。

 そういう意味から考えますと、本日のこの場所というのは、ある意味では、「古田史学の第一回結集」であると、そのようにも思うわけでございます。

 ただ違うのは、古田先生がお元気で三十年前と変わらず、今も多元史観の先頭を切って新しい学説を次から次へと発表されておられること、これが釈迦の結集とは一番違う、そういうところではないかと思っておるわけでございます。〟

 このように、わたしは講演を始め、最後を次のように締めくくりました。

 〝私たちが今、生きている時代というのは、日本の歴史学、古代史が天皇家一元史観というイデオロギーから、古田武彦という人物により、初めて学問として成立しつつある、ある意味では、成立した同時代に生きていると言って良いかと思います。おそらく百年後、二百年後、この国の若者、新しい探求者は、「あの時代が日本の古代史、歴史学が、イデオロギーから本当の学問へ変わろうとしている、日本の歴史学の『ルネッサンス』であったんだ」と、そう言われる時代が来ることを私は、確信しております。

 西洋のフィレンツェを中心とするレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロを輩出したあの「ルネッサンス」も、あの時代は「ルネッサンス」だとは分からなかった。分かったのは、百年後、二百年後の後だ。そして、「あの時代が、ああ、ルネッサンスだったんだ」と後で分かったという風に聞いております。おそらく、今のこの時代が「日本の古代史のルネッサンスである」と百年後、二百年後の青年、若き探求者から、そう呼ばれることを私は、疑いません。

 そして、私たちの学問は、そのためにあるべきであると、当然、体制に認められようとか、私利私欲、出世のためにやる学問ではございません。真実と人間の理性にのみに依拠し、百年後、二百年後の青年のために真実を追求する。この学問をやって参りたいという風に思うわけでございます。
今回は「第一回結集」と申しましたが、是非、十年後もまた、古田先生をお招きして「第二回結集」をやりたいと思っております。それまで、また、皆さんとお会い出来ることを楽しみにいたしまして、私からのご報告といたします。ご静聴ありがとうございました。〟(注②)

 和田さんの呼びかけに応えて、古田史学の「結集」を、新時代に相応しくリモートで行うのも良いでしょう。偶然ですが、わたしも三十年前の和田家文書偽作キャンペーンに対して、古田先生と一緒に闘った日々のことを、記憶が鮮明なうちに書籍として残し伝えるべく、青森や関東の皆さんと共に、『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)の発刊に向けて「結集」を行っています。

 また、この年末年始には、「喜田貞吉と古田武彦の学問と批判精神」という、研究史に関する論文を書き上げました。これも、古田先生の業績を後世に伝えるための、わたし一人だけのささやかな「結集」かもしれません。

(注)
①谷本茂氏の演題は「史料読解法の画期」。
②『東方の史料批判 ―「正直な歴史」からの挑戦―』(『「邪馬台国」はなかった』発刊三十周年紀年講演会講演録) 新・東方史学会編、2001年11月27日。


第3188話 2023/12/27

古田史学の万葉論 (4)

   ―豊後の天香具山―

 古田万葉論では、万葉集の「歌」そのものは第一史料であり、その作者が作った直接史料、すなわち同時代史料です。他方、歌の「題詞」つまり前書きや歌のあとに付せられた解説は、万葉集が編集された時点、つまり「歌」そのものから見れば「後代」の認識をしめす「後代史料」ないし「第二史料」です。この基本認識に基づいて、古田先生は従来の万葉学の常識を次から次へとくつがえす新説を発表されました。その中でも際だった新説が天香具山=豊後の鶴見岳説でした。
従来の万葉学では、天香具山とあれば大和飛鳥の香具山のこととして、誰もが疑わなかったと言ってもよいでしょう。ところが次の万葉歌(巻一、二番歌)に見える天の香具山は、とても大和飛鳥の風景とは思えず、かなり無理無茶な解釈が横行していました。

 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗(かまめ)立ち立つ うまし国そ 蜻蛉(あきづ)島 大和の国は 《『万葉集』巻一、二番歌》

 歌の前文にある「題詞」には、「高市岡本宮に天の下知らしめしし天皇の代 息長足日廣額天皇(舒明天皇)」「天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌」とあるため、この歌は舒明天皇の御製とされ、従って大和明日香の歌とされてきました。しかし、大和明日香に「海原」はありませんし、「鷗」も飛んでいません。すなわち、第一史料たる「歌」と後代の第二史料たる「題詞」の内容が矛盾しているのです。そこで、古田先生は先の万葉歌理解の基本的認識に基づいて、「歌」と「題詞」を切り離し、「歌」そのものの内容から、この歌の舞台を豊後の別府湾近辺(旧名は『和名抄』に「海部郡 安萬」とある)とされ、天の香具山を鶴見岳(標高1375m)とする新説に至りました。

 その論証の詳細は『古代史の十字路』(注)の第三章「豊後なる『天の香具山』の歌」に記されていますので、是非、お読みください。(つづく)

(注)古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3187話 2023/12/24

古田史学の万葉論 (3)

  元暦校本と学問の方法

 古田万葉論には際だった特徴があります。『万葉集』を歴史研究の史料として扱うため、同書写本間の異同を調べ、最も原形を保っている写本を採用するという史料批判を最初に行っていることです。これは文献史学では当然の手続きですが、この学問の方法を『万葉集』にも採用されました。そして、元暦校本が最も優れた写本として、研究に使用されたのです。このことが『古代史の十字路』(注①)で次のように記されています。

 〝ところが幸いにも、万葉集には「元暦(げんりゃく)校本、万葉集」と呼ばれる、すぐれた古写本が残されている。元暦とは、「一一八四~一一八五」〟平安時代の末だ。万葉のすべてではないけれど、かなりの大部を占める。この元暦校本を中心とする万葉集古写本の原姿、それを徹底して重んずる、これがわたしの基本の立場である。〟同書7頁。

 古田先生の古代史の第一著『「邪馬台国」はなかった』(注②)で、『三国志』写本の中で最も原本の姿を留めている紹熙本を採用したことを説明されました。これと同一の学問の方法を『万葉集』でも採用されたのです。そして、『三国志』と『万葉集』の史料性格の違いについて次のように説明しています。

 〝三国志の場合、その全体が同一の著者の筆にによって書かれていた。わたしの尊敬する歴史家陳寿がその人である。それ故、その全体を「三世紀の同時代史料」として取り扱うことができた。彼は、三世紀、西晋朝の史官である。魏志倭人伝も、もちろんその中の一篇だった。倭人伝は文字通り、三世紀における同時代史料、いいかえれば「第一史料」の性格をもっていたのである。(中略)

 この点、万葉集の場合は、ちがっている。なぜなら、「歌」そのものは、第一史料だ。その作者が作ったもの、“作者の息吹の結晶”とも言うべき直接史料だ。すなわち、同時代史料なのである。歴史学の研究者としてのわたしの目から見れば、それはすぐれた「史料」なのだ。

 ところが、歌の「題詞」つまり前書きや歌のあとに伏せられた解説、つまり後書きといったもの、これらはちがう。万葉集が編集された時点、つまり「歌」そのものから見れば「後代」の認識をしめす。つまり、直接史料、ないし第一史料ではなく、「後代史料」ないし「第二史料」なのである。この区別こそが肝心だ。
もちろん、歌の作者自身が「題詞つき」で歌を作ったケースも存在しよう。たとえば、万葉集の後半に多い、大伴家持の歌などはそう感ぜさせられるものが少なくない。

 しかし、そのような「見地」が、先立つ多くの万葉集の歌々にもまた“適用”されうる、という保証は全くない。従って、「史料」としての歌を取り扱うための基本条件、それは右にのべたように
(A)歌そのものは、第一史料(直接史料、同時代史料)
(B)前書きや後書きは、第二史料(間接史料、後代史料)
と見なさなければならぬ。〟前掲書8~9頁。

 ここに示された学問の方法こそ、古田万葉論の基本をなすものです。残念ながら、古田学派の論者の中には、〝「歌」は史料として採用できるが、「題詞」は信用できない〟と、古田先生の学問の方法を単純化した、不正確な理解も散見されます。第一史料である「歌」が第二史料の「題詞」などより優先しますが、両者間に矛盾がなければ、第二史料もエビデンスとして採用することができますので、留意が必要です。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(一九七一)。ミネルヴァ書房より復刻。