古田武彦一覧

第3195話 2024/01/06

中小路俊逸先生からの提言(遺告)

 ―「一元通念」は学理上「非」なり―

 この五十年間、日本古代史学界で古田先生の多元史観・九州王朝説を公然と支持したプロの学者は一人として現れませんでした。他方、理系ではそうそうたる学者が古田説を支持してきました。わたしが知るところ、人文系では日本古典文学の学者、中小路俊逸先生(追手門学院大学教授。故人)が公然と古田説を支持し、ご自身も多元史観による研究論文を発表されてきました(注①)。

 中小路先生は、より本質的な視点で一元史観(氏は「一元通念」と呼ぶ)に対して古田説の決定的に勝(まさ)った点をとらえ、そのことを次のように指摘しています。

〝古田氏の言説が「近畿大和なる天皇家の王権は、七世紀よりも前から日本列島内で唯一の卓越して尊貴な中心的権力であった」という「一元通念」を学理上「非」なりとしている一点で古田説は通念に対して決定的に勝(まさ)ったのである。〟
〝何よりも、肝心カナメのカンどころ、「一元通念」を「論証を経ざるもの」とした古田氏の指摘こそ、日本古代史の研究史のなかで古田氏の学の位置を決定した理論上の「定礎」である。〟(注②)

 そして、「古田史学の会」を立ち上げた当時のわたしに、次のように忠告されました。

〝一元通念のプロの学者との対話や論争において、各論(例えば九州年号や評制問題など)だけを論じても徒労に終わるであろう。彼らは文献史学のプロであり、素人を相手にして、多くの史料(エビデンス)や様々な解釈(ロジック)を持ち出し、いくらでも古田説に「反論」することができる。その結果、九州王朝説は邪馬台国論争と同様に、百年経っても決着がつかない〝永遠の水掛け論〟に持ち込まれる。そうしているうちに、古田説は隠され、無視され、忘れられてしまい、結果は「学理上無効な一元通念が無期限に安泰」となることは明白である。〟

 残念ながら、中小路先生の指摘通りに、学界の状況は今日まで進んで来ました。
ここに、中小路先生が遺された提言(遺告)を紹介します。わたしが聞いたのは三十年前のことであり、表現は少し異なるかもしれませんが、それは次のようなことでした。

〝一元通念の学者との対話や論争での要点は、「一元通念は論証を経ていない」ので「学理上無効」ということであり、これを曖昧にしたり、伏せてはならない。このことを最初から最後まで問わねばなりません。〟

 ちなみに、「古田史学の会」会則には〝本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い〟と銘記しています。これは中小路先生の提言に従ったものです。

(注)
①中小路駿逸「旧・新唐書の倭国・日本国像」『市民の古代』9集、新泉社、1987年。
同(遺稿集)『九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。
②中小路駿逸「古田史学の会のために」(『古田史学会報』8号、1995年)で同様の主張がなされている。そこでは一元通念を次のように説明している。
〝この「名分に関する、信仰を含む宣言」を「史実宣言」へと横滑りさせ、この「名分」に合うように歴史のワク組みを構想した「錯乱」の所産が「一元通念」なのだった。――私は今、そう考えているのである。古田氏の指摘はこの「錯乱」を非なりとし、その裏づけを提示した私も、同様これを非とし、歴史像を通念型から古代の文献の示しているものに返せ、と要求している。たとえこの通念が数百年、あるいは千年余、日本人の心を規制し、文化の深部に根付いているように思われていようとも、より深い基層にあるものが真実ならば、そこに復帰して当然ではないか。「一元通念を非とする。」――この一句に私が固執する意味がおわかり願えようか。日本の文化が、精神が、ほんとに確かな基礎に立ったものになれるかなれないか、その分かれ目がこの一句にある。私はそう思っているのである。〟


第3194話 2024/01/05

和田昌美さんから

「結集(けつじゅう)」の呼びかけ

 本日、開催された新年最初のリモートによる古代史研究会(多元的古代研究会主催)で、和田昌美さん(同会事務局長)から、〝釈迦の弟子等が釈迦入滅後に行った「結集(けつじゅう)」を私達も行おう〟という提案がなされました。釈迦の直弟子等が集まり、釈迦から聞いたことを皆で出し合い、その記憶を確認し、合意形成して、阿含経を編纂したことを「第一回結集」とされています。それと同様に、古田先生没後の現在、その教えを受けた者、学んだ者が一堂に会して「結集」しようという提案で、時宜に適ったものです。

 実は、わたしも「結集」を呼びかけたことがありました。2001年10月8日、東京の朝日新聞社ホールで開催された『「邪馬台国」はなかった』発刊三十周年紀年講演会で祝賀講演を谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)とわたし(当時、古田史学の会・事務局長)が行うことになり、わたしは「古田史学の誕生と未来」というテーマで講演しました(注①)。その冒頭と締めくくりに次のように述べました。

 〝(前略)
従いまして今日、私がお話しするのは「私は、このように聞いた」ということで、有名な釈迦の「結集(けつじゅう)」というのがございますね、釈迦の没後に弟子等五百人が集まって結集し、「私は、このように聞いた」と、要するに「如是我聞」と仏教の経典では最初にそれが入って、聞いた内容を口伝で伝える、という有名な「結集」というのがございます。
この「第一回結集」は王舎城(ラージャグリハ)郊外に五百人の比丘が集まってやったと、で、長老格の迦葉(かしょう)が座長を務めて、弟子の阿難陀(アーナンダ)とか優波離(ウパーリ)というのが、それぞれ先導を切って「そのように聞いた」と。それからずっと第二回結集、第三回結集と何百年と続いて釈迦の教えが伝えられ、世界に広まったという有名な話がございます。

 そういう意味から考えますと、本日のこの場所というのは、ある意味では、「古田史学の第一回結集」であると、そのようにも思うわけでございます。

 ただ違うのは、古田先生がお元気で三十年前と変わらず、今も多元史観の先頭を切って新しい学説を次から次へと発表されておられること、これが釈迦の結集とは一番違う、そういうところではないかと思っておるわけでございます。〟

 このように、わたしは講演を始め、最後を次のように締めくくりました。

 〝私たちが今、生きている時代というのは、日本の歴史学、古代史が天皇家一元史観というイデオロギーから、古田武彦という人物により、初めて学問として成立しつつある、ある意味では、成立した同時代に生きていると言って良いかと思います。おそらく百年後、二百年後、この国の若者、新しい探求者は、「あの時代が日本の古代史、歴史学が、イデオロギーから本当の学問へ変わろうとしている、日本の歴史学の『ルネッサンス』であったんだ」と、そう言われる時代が来ることを私は、確信しております。

 西洋のフィレンツェを中心とするレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロを輩出したあの「ルネッサンス」も、あの時代は「ルネッサンス」だとは分からなかった。分かったのは、百年後、二百年後の後だ。そして、「あの時代が、ああ、ルネッサンスだったんだ」と後で分かったという風に聞いております。おそらく、今のこの時代が「日本の古代史のルネッサンスである」と百年後、二百年後の青年、若き探求者から、そう呼ばれることを私は、疑いません。

 そして、私たちの学問は、そのためにあるべきであると、当然、体制に認められようとか、私利私欲、出世のためにやる学問ではございません。真実と人間の理性にのみに依拠し、百年後、二百年後の青年のために真実を追求する。この学問をやって参りたいという風に思うわけでございます。
今回は「第一回結集」と申しましたが、是非、十年後もまた、古田先生をお招きして「第二回結集」をやりたいと思っております。それまで、また、皆さんとお会い出来ることを楽しみにいたしまして、私からのご報告といたします。ご静聴ありがとうございました。〟(注②)

 和田さんの呼びかけに応えて、古田史学の「結集」を、新時代に相応しくリモートで行うのも良いでしょう。偶然ですが、わたしも三十年前の和田家文書偽作キャンペーンに対して、古田先生と一緒に闘った日々のことを、記憶が鮮明なうちに書籍として残し伝えるべく、青森や関東の皆さんと共に、『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)の発刊に向けて「結集」を行っています。

 また、この年末年始には、「喜田貞吉と古田武彦の学問と批判精神」という、研究史に関する論文を書き上げました。これも、古田先生の業績を後世に伝えるための、わたし一人だけのささやかな「結集」かもしれません。

(注)
①谷本茂氏の演題は「史料読解法の画期」。
②『東方の史料批判 ―「正直な歴史」からの挑戦―』(『「邪馬台国」はなかった』発刊三十周年紀年講演会講演録) 新・東方史学会編、2001年11月27日。


第3188話 2023/12/27

古田史学の万葉論 (4)

   ―豊後の天香具山―

 古田万葉論では、万葉集の「歌」そのものは第一史料であり、その作者が作った直接史料、すなわち同時代史料です。他方、歌の「題詞」つまり前書きや歌のあとに付せられた解説は、万葉集が編集された時点、つまり「歌」そのものから見れば「後代」の認識をしめす「後代史料」ないし「第二史料」です。この基本認識に基づいて、古田先生は従来の万葉学の常識を次から次へとくつがえす新説を発表されました。その中でも際だった新説が天香具山=豊後の鶴見岳説でした。
従来の万葉学では、天香具山とあれば大和飛鳥の香具山のこととして、誰もが疑わなかったと言ってもよいでしょう。ところが次の万葉歌(巻一、二番歌)に見える天の香具山は、とても大和飛鳥の風景とは思えず、かなり無理無茶な解釈が横行していました。

 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗(かまめ)立ち立つ うまし国そ 蜻蛉(あきづ)島 大和の国は 《『万葉集』巻一、二番歌》

 歌の前文にある「題詞」には、「高市岡本宮に天の下知らしめしし天皇の代 息長足日廣額天皇(舒明天皇)」「天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌」とあるため、この歌は舒明天皇の御製とされ、従って大和明日香の歌とされてきました。しかし、大和明日香に「海原」はありませんし、「鷗」も飛んでいません。すなわち、第一史料たる「歌」と後代の第二史料たる「題詞」の内容が矛盾しているのです。そこで、古田先生は先の万葉歌理解の基本的認識に基づいて、「歌」と「題詞」を切り離し、「歌」そのものの内容から、この歌の舞台を豊後の別府湾近辺(旧名は『和名抄』に「海部郡 安萬」とある)とされ、天の香具山を鶴見岳(標高1375m)とする新説に至りました。

 その論証の詳細は『古代史の十字路』(注)の第三章「豊後なる『天の香具山』の歌」に記されていますので、是非、お読みください。(つづく)

(注)古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3187話 2023/12/24

古田史学の万葉論 (3)

  元暦校本と学問の方法

 古田万葉論には際だった特徴があります。『万葉集』を歴史研究の史料として扱うため、同書写本間の異同を調べ、最も原形を保っている写本を採用するという史料批判を最初に行っていることです。これは文献史学では当然の手続きですが、この学問の方法を『万葉集』にも採用されました。そして、元暦校本が最も優れた写本として、研究に使用されたのです。このことが『古代史の十字路』(注①)で次のように記されています。

 〝ところが幸いにも、万葉集には「元暦(げんりゃく)校本、万葉集」と呼ばれる、すぐれた古写本が残されている。元暦とは、「一一八四~一一八五」〟平安時代の末だ。万葉のすべてではないけれど、かなりの大部を占める。この元暦校本を中心とする万葉集古写本の原姿、それを徹底して重んずる、これがわたしの基本の立場である。〟同書7頁。

 古田先生の古代史の第一著『「邪馬台国」はなかった』(注②)で、『三国志』写本の中で最も原本の姿を留めている紹熙本を採用したことを説明されました。これと同一の学問の方法を『万葉集』でも採用されたのです。そして、『三国志』と『万葉集』の史料性格の違いについて次のように説明しています。

 〝三国志の場合、その全体が同一の著者の筆にによって書かれていた。わたしの尊敬する歴史家陳寿がその人である。それ故、その全体を「三世紀の同時代史料」として取り扱うことができた。彼は、三世紀、西晋朝の史官である。魏志倭人伝も、もちろんその中の一篇だった。倭人伝は文字通り、三世紀における同時代史料、いいかえれば「第一史料」の性格をもっていたのである。(中略)

 この点、万葉集の場合は、ちがっている。なぜなら、「歌」そのものは、第一史料だ。その作者が作ったもの、“作者の息吹の結晶”とも言うべき直接史料だ。すなわち、同時代史料なのである。歴史学の研究者としてのわたしの目から見れば、それはすぐれた「史料」なのだ。

 ところが、歌の「題詞」つまり前書きや歌のあとに伏せられた解説、つまり後書きといったもの、これらはちがう。万葉集が編集された時点、つまり「歌」そのものから見れば「後代」の認識をしめす。つまり、直接史料、ないし第一史料ではなく、「後代史料」ないし「第二史料」なのである。この区別こそが肝心だ。
もちろん、歌の作者自身が「題詞つき」で歌を作ったケースも存在しよう。たとえば、万葉集の後半に多い、大伴家持の歌などはそう感ぜさせられるものが少なくない。

 しかし、そのような「見地」が、先立つ多くの万葉集の歌々にもまた“適用”されうる、という保証は全くない。従って、「史料」としての歌を取り扱うための基本条件、それは右にのべたように
(A)歌そのものは、第一史料(直接史料、同時代史料)
(B)前書きや後書きは、第二史料(間接史料、後代史料)
と見なさなければならぬ。〟前掲書8~9頁。

 ここに示された学問の方法こそ、古田万葉論の基本をなすものです。残念ながら、古田学派の論者の中には、〝「歌」は史料として採用できるが、「題詞」は信用できない〟と、古田先生の学問の方法を単純化した、不正確な理解も散見されます。第一史料である「歌」が第二史料の「題詞」などより優先しますが、両者間に矛盾がなければ、第二史料もエビデンスとして採用することができますので、留意が必要です。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(一九七一)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3185話 2023/12/21

古田史学の万葉論 (2)

    古田武彦の万葉三部作

 古田先生には古田史学「初期三部作」と呼ばれている有名な著作があります(注①)。また、晩年に著された「万葉三部作」(注②)もあります。その概要について説明した拙稿「古田武彦氏の著作と学説」(注③)より、当該部分を転載します。

【『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)より転載】

五.古田史学万葉三部作の画期

○『人麿の運命』原書房 平成六年(一九九四)
○『古代史の十字路』東洋書林 平成十三年(二〇〇一)
○『壬申大乱』東洋書林 平成十三年(二〇〇一)

 日本古代史研究において『万葉集』を史料根拠とすることは難しく、他方、古代文学作品として国語学や音韻学の分野からのアプローチが「万葉学」として盛んに研究されてきました。古田先生も史料根拠として限定的に『万葉集』を取り扱われたことはありましたが、この万葉三部作により、本格的な『万葉集』研究と史料批判の方法を確立されました。

 『人麿の運命』では柿本人麿が九州王朝の歌人であったとされ、九州王朝『万葉集』の復元に挑戦されました。『古代史の十字路』では本格的な万葉批判を行われ、まず『万葉集』元暦校本が最も優れた写本であり、それに基づいての史料批判を進められました。そして、題詞や左注は『万葉集』編纂時点に付された後代史料であり、歌本文は作者が詠んだ一次史料(同時代史料)であり、題詞と歌本文に齟齬や矛盾がある場合は、歌本文を優先させなければならないとされました。その方法論により、天の香具山は大分県の鶴見岳であり、雷山は糸島半島の雷山であったことなどを発見されました。

 『壬申大乱』では、佐賀県「吉野」説や筑紫の「飛鳥」説など従来説を覆す新説を発表されました。その結果、『日本書紀』の「壬申の乱」が造作であり、史実は九州から東海までの西日本全体を舞台とする「壬申大乱」であったとされたのです。「壬申の乱」は研究者や作家が多くの論稿や作品を発表してきましたが、古田先生は一貫して慎重な姿勢を崩されませんでした。なぜなら、『日本書紀』の「壬申の乱」の記事は詳しすぎて、逆に史実かどうか信用できず、そのまま史実として取り扱うのは学問的に危ないとされました。真の歴史家の史料を見る目の凄さを感じさせる慎重さでしたが、『万葉集』の史料批判の方法を確立され、ようやく「壬申の乱」を研究テーマとして取り上げられ、『壬申大乱』を発表されたのです。こうした古田先生の学問的慎重さも、わたしたちは学ばなければなりません。
【転載終わり】
(つづく)

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(一九七一)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(一九七五)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(一九九四)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『壬申大乱』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古賀達也「古田武彦氏の著作と学説」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。


第3184話 2023/12/20

古田史学の万葉論 (1) 序

 先日の「古田史学の会」関西例会で発表された、大原重雄さんによる万葉28番歌の新解釈(注①)を発端として、「洛中洛外日記」で同28番歌の拙論(注②)などを紹介しました。良い機会でもあり、古田先生の万葉論の再勉強を兼ねて、古田史学における『万葉集』批判や学問の方法などについて紹介することにします。

 わたしの見るところ、古田学派における『万葉集』研究には優れた論稿もありますが、他方、「ああも言えれば、こうも言える」(注③)ような論者の主観に基づく解釈に終始し、学問的論証の成立が不十分不適切な論稿も少なくないように思われます。わたし自身も、古田万葉論は難解で、若い頃は十分に理解できませんでした。今でも、歌の主観的解釈と、学問としての客観的解釈の区別を曖昧に理解しているケースがあり、『万葉集』を文献史学のエビデンスとして使用することの難しさを感じています。

 そこで、古田万葉三部作(注④)を紐解きながら、古田万葉論について一つずつ勉強しなおします。長い連載となりそうですが、しばらくお付き合いください。(つづく)

(注)
①大原重雄〝持統の「白妙の衣」は対馬の鰐浦の白い花のこと〟「古田史学の会」関西例会、12月16日。久冨直子さんとの共同研究。
古賀達也「洛中洛外日記」3181話(2023/12/17)〝万葉28番歌の新解釈〟
②同「洛中洛外日記」3183話(2023/12/19)〝「春過ぎて夏来たるらし」の“季語(風物詩)”〟
③中小路俊逸氏(追手門学院大学教授・国文学。故人)の言葉「ああも言えれば、こうも言えるというようなものは論証ではありません」がある。
古賀達也「洛中洛外日記」1427話(2017/06/20)〝中小路駿逸先生の遺稿集が発刊〟
④古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(一九九四)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『壬申大乱』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3171話 2023/12/04

空理空論から古代リアリズムへ (2)

 前期難波宮「九州王朝複都」説を論文発表したのは2008年ですが、口頭では古田先生への問題提起を皮切りに関西例会などでそれ以前から発表してきました。ところが古田先生から批判されたこともあってか、古田学派内から様々な批判がなされました。そのおかげで、再反論のために土器編年や関連遺構の調査、前期難波宮や難波京を発掘した考古学者たちへのヒアリングなどを実施し、わたし自身も大変勉強になりました。まさに〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟を実体験できました。

 他方、これはいかがなものかと思うような〝批判〟もありました。たとえば、前期難波宮のような大規模な遺構は出土しておらず、大阪市や大阪府の〝地域おこし〟のために造作されたもので、古賀はそれを自説の根拠にしているというものです。こうした批判は、難波宮(難波京)を数十年にわたり発掘調査してきた大阪の考古学者に対して甚だ失礼なものでした。

 また、次のような批判も最近まで繰り返されています。云わく、〝文献的裏付けは何もなく、考古学的裏付けもなく、根拠となるのは「七世紀半ば、近畿天皇家が巨大王宮を建設するのを九州王朝が許すはずがない」という古賀達也氏の思考だけ〟というものです。

 この批判を受けて、わたしがこれまで発表してきた関連論文のリストを作成し、こうした批判が事実に基づかない「空理空論」であることを明らかにし、わたしの論文を正確に引用したうえで、事実に基づいた具体的な批判をいただけるよう努力しなければならないと、反省するに至りました。そこでこれまで発表した関連論文のリストを公表することにしました(多元的古代研究会の会誌『多元』に投稿させていただきました)。

2008年に発表した同テーマ最初の論文「前期難波宮は九州王朝の副都」を筆頭に、現在まで約50編の論文をわたしは発表してきました。論文の他に「洛中洛外日記」にも、関連する小文が多数あります(論文と内容が重複するものも含め、200編以上)。抜け落ちがあるかもしれませんが、各会誌・書籍で発表したそれらの論文・発表年を以下に列挙します。

《難波宮に関する論文・講演録》
【古田史学会報】古田史学の会編
① 前期難波宮は九州王朝の副都 (八五号、二〇〇八年)
② 「白鳳以来、朱雀以前」の新理解 (八六号、二〇〇八年)
③ 「白雉改元儀式」盗用の理由 (九〇号、二〇〇九年)
④ 前期難波宮の考古学(1) ―ここに九州王朝の副都ありき― (一〇二号、二〇一一年)
⑤ 前期難波宮の考古学(2) ―ここに九州王朝の副都ありき― (一〇三号、二〇一一年)
⑥ 前期難波宮の考古学(3) ―ここに九州王朝の副都ありき― (一〇八号、二〇一二年)
⑦ 前期難波宮の学習 (一一三号、二〇一二年)
⑧ 続・前期難波宮の学習 (一一四号、二〇一三年)
⑨ 七世紀の須恵器編年 ―前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁― (一一五号、二〇一三年)
⑩ 白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判― (一一六号、二〇一三年)
⑪ 難波と近江の出土土器の考察 (一一八号、二〇一三年)
⑫ 前期難波宮の論理 (一二二号、二〇一四年)
⑬ 条坊都市「難波京」の論理 (一二三号、二〇一四年)
⑭ 「要衝の都」前期難波宮 (一三三号、二〇一六年)
⑮ 九州王朝説に刺さった三本の矢(前編) (一三五号、二〇一六年)
⑯ 九州王朝説に刺さった三本の矢(中編) (一三六号、二〇一六年)
⑰ 九州王朝説に刺さった三本の矢(後編) (一三七号、二〇一六年)
⑱ 「倭京」の多元的考察 (一三八号、二〇一七年)
⑲ 律令制の都「前期難波宮」 (一四五号、二〇一八年)
⑳ 九州王朝の都市計画 ―前期難波宮と難波大道― (一四六号、二〇一八年)
㉑ 古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造― (一四七号、二〇一八年)
㉒ 九州王朝の高安城 (一四八号、二〇一八年)
㉓ 前期難波宮「天武朝造営」説の虚構 ―整地層出土「坏B」の真相― (一五一号、二〇一九年)
㉔『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》 (一五三号、二〇一九年)
㉕ 難波の都市化と九州王朝 (一五五号、二〇一九年)
㉖ 都城造営尺の論理と編年 ―二つの難波京造営尺― (一五八号、二〇二〇年)

【古代に真実を求めて】古田史学の会編、明石書店
㉗ 「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」 (十七集、二〇一四年)
㉘ 九州王朝の難波天王寺建立 (十八集、二〇一五年)
㉙ 柿本人麿が謡った両京制 ―大王の遠の朝庭と難波京― (二六集、二〇二三年)

【「九州年号」の研究】古田史学の会編、ミネルヴァ書房、二〇一二年
㉚ 白雉改元の史料批判
㉛ 前期難波宮は九州王朝の副都

【多元】多元的古代研究会編
㉜ 古賀達也氏講演会報告(宮崎宇史)「太宰府と前期難波宮 ―九州年号と考古学による九州王朝史復元の研究―」 (九七号、二〇一〇年)
㉝ 古賀達也氏講演録(宮崎宇史)「王朝交替の古代史 ―七世紀の九州王朝―」 (一一五号、二〇一三年)
㉞ 白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判― (一一七号、二〇一三年)
㉟ 感想二題 ―『多元』一四二号を拝読して― (一四四号、二〇一八年)
㊱ 「評」を論ず ―評制施行時期について― (一四五号、二〇一八年)
㊲ 九州王朝の黄金時代 ―律令と評制による全国支配― (一四八号、二〇一八年)
㊳ 難波から出土した筑紫の土器 ―文献史学と考古学の整合― (一五三号、二〇一九年)
㊴ 前期難波宮出土「干支木簡」の考察 (一五七号、二〇二〇年)
㊵ 天武紀「複都詔」の考古学的批判 (一六〇号、二〇二〇年)
㊶ 七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動― (一七六号、二〇二三年)

【東京古田会ニュース】古田武彦と古代史を研究する会編
㊷ 前期難波宮九州王朝副都説の新展開 (一七一号、二〇一六年)
㊸ 前期難波宮の考古学 飛鳥編年と難波編年の比較検証 (一七五号、二〇一七年)
㊹ 前期難波宮「天武朝」造営説への問い (一七六号、二〇一七年)
㊺ 一元史観から見た前期難波宮 (一七七号、二〇一七年)
㊻ 難波の須恵器編年と前期難波宮 ―異見の歓迎は学問の原点― (一八五号、二〇一九年)
㊼ 古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺― (二〇二号、二〇二二年)

 以上のタイトルだけでも、その内容が多岐多面にわたることを理解していただけるのではないでしょうか。考古学関連論文も少なくありません(④⑤⑥⑨⑪⑫⑬⑳㉓㉔㉕㉖㊳㊴㊵㊷㊸㊼が該当)。筑紫(糸島博多湾岸等、九州王朝中枢領域)の須恵器が難波から出土していることも論文㊳で紹介しました。
このように、わたしが書いた研究テーマとしては、九州年号研究に次ぐ論文数なのです。〝「七世紀半ば、近畿天皇家が巨大王宮を建設するのを九州王朝が許すはずがない」という古賀の思考だけ〟では、これだけの論文は書けないことをご理解いただけるものと思います。

 なお、これらの論文の多くは、古田先生に読んで頂くことを念頭に書き続けたものです。その結果、2014年(平成26年)の八王子セミナーでは、参加者からの「前期難波宮九州王朝副都説に対してどのように考えておられるのか」という質問に対して、「検討しなければならない」との返答がなされました。このときが最後の八王子セミナーとのことでしたので、わたしは初めて参加し、会場の片隅で聞いていました。先生からはいつものように批判されるものと思っていたのですが、「検討しなければならない」との言葉を聞き、その夜はうれしくてなかなか眠れませんでした。もちろん前期難波宮九州王朝副都説にただちに賛成されたわけではありませんが、はじめて古田先生から検討すべき仮説として認めていただいた瞬間でした。しかしながら、検討結果をお聞きすることはついに叶いませんでした。その翌年に先生は亡くなられたからです(2015年10月14日没、89歳)。(つづく)


第3164話 2023/11/24

深津栄美さんの思い出と遺品

 多元的古代研究会の会誌『多元』178号に深津栄美さんの訃報が掲載されていました。古田先生のご紹介で深津さんとは昭和薬科大学で一度だけお会いしたことがあります。また、『古田史学会報』に小説「彩神(カリスマ)」を十年にわたり連載していただきました(3~62号)。同連載は古田先生のお薦めによるものでした。論文だけではなく、九州王朝説をテーマにした読み物も掲載するようにとのことで、執筆者として深津さんを推薦されました。そうした御縁により、度々、お手紙や、春にはご近所の桜の写真を送っていただきました。
昨年十月には、古田先生との初めての出会いなどが記された日記二冊(「1989~91」、「平成3年~5年」)と「古田先生聴講記① 平成3年4月~5年12月」一冊が送られてきて、それらは深津さんの遺品となりました。おそらく、自らの死期を悟り、わたしに託したのではないかと思っています。

 訃報に接し、遺品の整理をしていましたら、平成3年(1991)8月に開催された〝「邪馬台国」徹底論争 ―邪馬壹国問題を起点として― 古代史討論シンポジウム〟の案内ポスター(B4版)と同「趣意書」がありました。同シンポジウムは古田先生(東方史学会)が主催したもので、資金集めから企画立案、関係者との交渉など、先生が押し進められたものです。「趣意書」はわたしが持っていなかったもので、今では貴重な資料です。古田先生や深津さんのご遺志に応えることにもなると思いますので、ここに同文の一部を抜粋し、その要旨を紹介します。

 「邪馬台国」徹底論争 古代史討論シンポジウム 趣意書(抜粋)

 わが国の先祖の歴史は晦冥の中にある。――研究の途次、そのように感ずること、稀ではありません。
その原因の一焦点が、いわゆる「邪馬台国」問題にあること、周知の通りです。近畿説・九州説その他各説競いながら、なお、日本国民の歴史教養の一致点を見出せずにいること、後代に対して、わたしたちの時代の責務を果たしていると、敢然として言いうるでしょうか。
〔中略〕

 けれども、遺憾なことに、歴史学界の名において、純学術的に当問題を一定期間、討議する、そういう機会を見なくなって、すでに久しいのです。
かつて故長沼賢海氏(九州大学名誉教授)は、次のように指摘されました。
「昔、志賀島出土の金印について、偽作説がでた。そこで真偽対立をめぐって大学内外の学者、一般の書家、金工細工師の方々をお招きして、朝から晩まで連日にわたって討論した。そして真作への帰趨を得たのである。今、なぜ、「邪馬台国」についても、それをやらぬか」

 九十歳の明治人の気迫あふれる叱咤とお聞きしました。〔中略〕立論の正面きっての対立を尊び、在官・在野を一切問わず、その身分(職業・性、等)を片鱗も区別せず、連日徹底した討論を行い、記録して永遠の後世に残す。この切実な企画を、ささやかな一隅の力にすぎませんが、敢えて今回も行うことを決意致しました。〔後略〕

 平成三年二月十五日
昭和薬科大学文化史研究室(東方史学会)
教授 古田武彦
助手 原田 実


第3142話 2023/10/24

唐から帰国した「日本国王夫妻」記事

 今月の関西例会で谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)から発表された〝百済禰軍(でいぐん)墓誌銘の「日本」誤読説〟(注①)によれば、従来説は「百済禰軍墓誌」(678年)銘文中の「于時日本余噍据扶桑以逋誅」の区切り方を誤り、次のように「日本」と続けて読んでしまったと批判しました。

 「于時、日本余噍、据扶桑、以逋誅」 〔時に日本の余噍(日本の残党)、扶桑によりて、以て誅を逋(のが)れ~〕

 そして前後の文脈から判断して、次の読解が正しいとしました。

 「于時日、本余噍、据扶桑以逋誅」 〔この日に、本余噍(百済の残党)、扶桑によりて、以て誅を逋れ~〕

 銘文の「于時日本余噍」の「日本」を続けて読み、国名の「日本」と理解したのが従来説ですが、同様の読解が『旧唐書』(中華書局本)でもなされていました。「洛中洛外日記」(注②)で紹介しましたが、それは中華書局本『旧唐書』貞元二十一年(805)条に見える、「日本国王ならびに妻蕃に還る」という記事です。日本国王夫妻(天皇・皇后か)が805年に唐から帰国したという不思議な記事です。原文(中華書局本)の表記は次の通りです。

 「至是方釋之。日本國王幷妻還蕃、賜物遣之。」

 貞元二十一年(805)条の記事ですから、平安時代の桓武天皇延暦二四年に相当し、桓武天皇と皇后が唐から帰国したことになり、このような記録は日本側史書には見えません。もしかするとこの〝日本国王夫妻〟とは王朝交代後の九州王朝の後裔(注③)かも知れないとも考えましたが、史料根拠がなく、論証が成立しませんでした。

 そこで、この記事のことを古田先生に相談したところ、先生はこの難問を見事に解決されました。すなわち、これは中華書局本の誤読、句読点のミス(文章の区切り方の誤り)であり、正しくは「方(まさ)に釋(ゆる)すの日、本国王(吐蕃国王)ならびに妻(め)とり蕃(吐蕃)に還る。」であるとされました。古田先生はこの新読解を「歴史ビッグバン」という小論にされ、『学士会会報』(第816号、1997年所収)で発表しました。

 もちろん、古田先生の新読解も検証の対象です。今回の谷本さんによる「百済禰軍墓誌」の新読解に接し、30年前の古田先生との検討会を思い出しました。共に、一見すると国名の「日本」と思われる記事を、「日」と「本」を分けて理解するというものですので、興味深い現象です。古田史学による学問研究は本当に楽しいものです。

(注)
①谷本 茂「『百済禰軍(でいぐん)墓誌銘』に“日本”国号はなかった!」古田史学の会・関西例会、2023年10月21日。
②古賀達也「洛中洛外日記」864話(2015/02/06)〝中華書局本『旧唐書』の原文改訂〟
③八世紀、九州王朝の後裔が、『三国史記』に「日本国」として記されているとする仮説を、次の拙稿で発表した。
古賀達也「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』古田武彦編著、駸々堂、1993年。
同「洛中洛外日記」3055話(2023/06/28)〝30年ぶりに拙論「二つの日本国」を読む〟も参照されたい。


第3128話 2023/10/01

「そこまで言って委員会NP」(読売テレビ)

      で古田説を紹介

 本日の午後、散歩から帰ってテレビをつけると、「そこまで言って委員会NP」(読売テレビ、注①)の特集「古代史スペシャル」が放送されていました。「邪馬台国」の所在地をテーマに、八名のバネリストが討論するのですが、明治天皇の玄孫の竹田恆泰さん(注②)が、古田説を古田武彦という名前も出して紹介され、テロップにも「古田武彦 (日本の思想史学者・古代史家)」と記されており驚きました。幸い、妻が気を利かして同番組を録画していましたので、再確認もできました。

 それは、古田先生が『「邪馬台国」はなかった』で発表した〝倭人伝の部分里程の合計が総里程の「一万二千余里」になる〟ことを計算式を出して説明し、「邪馬台国」は九州で決まりとするものでした。更に、井沢元彦さんのトンチンカンな「邪馬台国」東遷説や「邪馬台」を当時の発音で「やまど」とする主張を厳しく批判し、『三国志』倭人伝の原文は「邪馬台国」ではなく邪馬壹国(やまいちこく)であり、ヤマドとは読めないと指摘しました。限られた発言時間枠での、わかりやすい古田説の説明でした。以前、竹田さんは倭人伝など中国史書は信用できないとされていたはずですが、倭人伝の原文(邪馬壹国)や里程記事を前提として成立した古田説を支持していることを自らテレビで公言されたのです。わたしのなかで、竹田さんの〝好感度〟は一気に上がりました。

 映画「Fukushima 50」の原作者、門田隆勝さん(注③)も『隋書』俀国伝の「阿蘇山噴火」記事を紹介され、九州説を支持されました。恐らくは古田先生の九州王朝説もご存じのことと思われ、古田説が世に広がっていることに感動しました。先生がご健在であれば、どれほど喜ばれたことでしょう。

 なお、竹田さんも門田さんも保守系言論人として有名ですが、40~50年前はどちらかというと、左派系・リベラル系のメディア(朝日新聞)や言論人(筑紫哲也さん・他)に古田説支持者が多かったことを考えると、時代が大きく変化しつつあるようで興味深く思われます。「市民の古代研究会」時代は、共産党の国会議員が古田先生の講演会に参加されていたほどです。わたしが知る限りでは、この二十年は産経新聞(古田先生による書評を連載。先生も同紙を講読)をはじめ保守系言論人(百田尚樹さん、注④)、保守系国会議員に古田説支持が見られるようになりました(古田説すべての支持ではないが)。この変化は現代日本思想史のテーマでもあり、今後、どのようなメディアや人々が、どのような理由で古田説を支持・紹介するのか注目したいと思います。

(注)
①『そこまで言って委員会NP』(そこまでいっていいんかい エヌピー)は読売テレビのバラエティ番組。放送開始時は『たかじんのそこまで言って委員会』で司会を務めていたやしきたかじんの冠番組。没後の2015年に改題。
②竹田恒泰(たけだ・つねやす)氏は政治評論家・作家・実業家。旧皇族(竹田宮家)出身で、男系では北朝第三代崇光天皇の十九世、女系では明治天皇の玄孫。今上天皇の三従兄弟にあたる。
③門田隆将(かどた・りゅうしょう)氏はノンフィクション作家・ジャーナリスト。福島原発事故後の状況を現地で取材し、『死の淵を見た男 ―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日―』(2012年)、『記者たちは海に向かった ―津波と放射能と福島民友新聞―』(2014年)を刊行。前書は2020年に映画化(Fukushima50)された。
④古賀達也「洛中洛外日記」1784話(2018/11/13)〝百田尚樹著『日本国紀』に「古田武彦・九州王朝」


第3124話 2023/09/27

TV番組「パリピ孔明」に想う

 今日から始まったフジテレビの番組「パリピ孔明」(注①)を見ました。五丈原の戦いで没した諸葛亮孔明(向井理さん)が現代日本に現れ、上白石萌歌さん演じる無名の歌手・月見映子を権謀術策でスターにしていくというドラマのようです。その中で三国志の名場面や名言が効果的に用いられ、ついつい最後まで見てしまいました。

 わたしが注目したのは、「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」で有名な馬謖の話が主人公らの会話に登場したことでした。これは三国志の中でも印象的なシーンの一つで、軍事行動(街亭の戦)のさい、孔明の作戦に従わず、自軍を敗戦に導いた罪により、孔明が愛する部下、馬謖を処刑したという話です。この経緯を古田先生が『邪馬一国の道標』(注②)で解説し、馬謖が死に臨んで、孔明に送ったと伝えられている手紙を紹介されました。

「あなたは、わたしを自分の子供のように可愛がってくれ、わたしもあなたを父のように慕ってきた。だから、わたしは、今回処刑されてあの世へ行っても恨むところはない」(襄陽記)

 ちなみに、『三国志』の著者陳寿の父は、馬謖の参謀(参軍)だったとのことです。陳寿にとって、孔明は郷土・蜀の英雄であり、『三国志』に「諸葛亮伝」を設けています。しかし、孔明への評価は、「諸葛亮の相国たるや…(略)…識治の良才と謂う可し。管・蕭(注③)の亞匹(あひつ)なり。然るに連年衆を動かして未だ成功する能わず。蓋(けだ)し応変の将略、其の長とするに非ざるか。」とあり、その人柄や見識を絶賛すると同時に、〝長年にわたって出兵し、魏軍と戦いながら勝てなかったのは、臨機応変の才能に長けていないからだ〟と手厳しい言葉で締めくくっています。

 古田先生によれば、諸葛孔明は馬謖亡き後、人材が乏しい蜀にあって、自らが元気なうちに魏と雌雄を決するのか、それとも和平に向かうのかを決断できなかったとのことです。そうであれば、一度の失敗で有能な馬謖を断罪したことこそ、孔明の大きな判断ミスだったのではないでしょうか。それに比べて、魏の曹操は、戦いに負けた将軍を〝勝敗は時の運〟と許しています。このリーダーシップの差が、魏と蜀の命運を分けたようにも思います。

 「パリピ孔明」を見ながら、このときの古田先生との会話を思い出しました。ちなみに、『邪馬一国の道標』はわたしが最も好きな先生の著作の一つです。

(注)
①原作は四葉タト。小川亮により漫画化され、『コミックDAYS』に連載後、現在は『週刊ヤングマガジン』(講談社)で連載中。
②古田武彦『邪馬一国の道標』講談社、1978年。ミネルヴァ書房から復刊。
③中国史上名宰相と言われた管仲と蕭何のこと。


第3107話 2023/09/08

地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (1)

 今回は古代史から離れて、地震学者の羽鳥徳太郎さんについて紹介します。羽鳥徳太郎さん(1922~2015年)は東京大学地震研究所で活躍された歴史地震学者で、古田先生と同世代の方です(注①)。専門は歴史津波・津波工学とのこと。和田家文書の研究をしていて、偶然、羽鳥さんのことを知りました。
なお、東大の地震研究所とは、少々御縁があります。古田先生が立ち上げた国際人間観察学会(注②)の会報「Phoenix」No.1(2007)を、同研究所に所属する津波歴史地震研究室で発行していただいたことがあります。同誌には拙論「A study on the long lives described in the classics」を掲載していただきました。同稿は世界の古典に見える二倍年暦(二倍年齢)に関する研究で、「古田史学の会」ホームページに採録されていますので、ご覧下さい。

 羽鳥徳太郎さんは、フィールドワークや地方の津波伝承などを重視するという学風で、それは古田先生の研究スタイルと同じです。その羽鳥さんの格言がWEB上の「思則有備」(同①)で紹介されていましたので、転載します。

 羽鳥徳太郎(1922~2015 / 歴史地震学者・元東京大学地震研究所)の「歴史津波に学ぶ」記事の名言 [今週の防災格言554]
「いつ起こるかわからない自然災害の備えには、まず、先人の尊い犠牲が刻まれた郷土の歴史を知り、教訓を引き出し、これを伝承することだ」(注③)

 この格言を羽鳥さんは自ら実行し、「先人の尊い犠牲が刻まれた郷土の歴史」の一つとして『東日流外三郡誌』を論文に紹介されました。(つづく)

(注)
①羽鳥徳太郎氏の研究業績と略歴(「思則有備」より。https://shisokuyubi.com/bousai-kakugen/index-715)。

 津波規模階級mを提案するなど、生涯にわたり一貫して歴史津波と津波被害の調査・研究を行った人物。特に、北海道の奥尻島に20mの大津波が襲い、対岸の渡島半島の町村にも津波が襲来し、230人が亡くなった北海道南西沖地震(1993年)の発生前となる1984(昭和59)年に、過去に日本海側で起きた津波の発生年や地理的分布や規模を元にその危険性を指摘。また、東北の太平洋沿岸を襲った歴史津波である貞観地震(869年)や慶長三陸地震(1611年)が、東日本大震災(2011年)に匹敵するほどの「最大級の大津波だった」ことを1975(昭和50)年に初めて論文で報告したことでも知られる。

 1922(大正11)年東京生まれ。

 1941(昭和16)年、東京大学地震研究所に入り、高橋竜太郎研究室で津波研究に従事。

 1944(昭和19)年、旧制東京高等工業学校機械科(夜間)を卒業。戦時召集され近衛歩兵第三連隊で終戦を迎え、戦後は地震研究所に戻り研究を続けた。昭和南海地震(1946年)、チリ地震津波(1960年)、新潟地震(1964年)、十勝沖地震(1968年)など各地をまわって津波の現地調査を行い、日本各地の津波の到達時間や波源域図をまとめた。

 1954(昭和29)年技官、1964(昭和39)年助手、1974(昭和49)年講師となり

 1983(昭和58)年東京大学地震研究所を停年退官。退官後も歴史地震の津波調査を続け、亡くなるまで研究を続けた。

 2015(平成27)年12月6日、埼玉県川口市で逝去。93歳。

②国際人間観察学会は古田先生による命名で、会長は百瀬伸夫氏、副会長は荻上紘一氏、特別顧問が都司嘉宣氏。

③「思則有備」に〝格言は読売新聞(1993(平成5)年8月7日夕刊)の記事「高角鏡:『歴史津波』に学ぶ」より〟と紹介されている。