古田武彦一覧

第3029話 2023/06/02

上岡龍太郎さんの思い出

 本日、上岡龍太郎さんの訃報に接しました。心より哀悼の意を捧げます。上岡さんは京都市ご出身のタレントで、トーク番組やバラエティーでのお笑いの芸は天才と評されていました。人気も実力も絶頂期の58歳で突然のように芸能界を引退され、以来、テレビやラジオ番組に出られることはなかったと聞いています。また、読書家でその博覧強記ぶりはよく知られていました。
そんな上岡さんに初めてお会いしたのは、信州諏訪湖畔にある昭和薬科大学諏訪校舎で、平成三年(1991)八月五日のことでした。古田先生の提唱により開催された「古代史討論シンポジウム 『邪馬台国』徹底論争 ―邪馬壹国問題を起点として―」(8月1日~6日、東方史学会主催)の実行委員会にわたしは「市民の古代研究会」事務局長として参画し、講演者として来場された上岡さんらと打ち合わせする任務についていました。上岡さんの印象はテレビで見るよりもスマートで端正なお顔立ちでした。また、言葉も態度も丁寧で、芸能人としての〝上岡龍太郎〟の印象とは全く異なっていました。
予定では上岡さんの持ち時間は1時間で、その後が皇學館大学の田中卓先生(1923~2018年)でした。確認のため、そのスケジュールを説明すると、上岡さんは「わたしは30分で結構です。その分、専門家の皆さんの発表時間に使って下さい。」とのこと。そして、その言葉通り、軽妙なトークで会場を盛り上げると、ぴったり30分で話を終えられたのです。しかも、時計も見ずにです。さすがはプロフェッショナル、見事な話芸を見せて頂き、感激したことを今でもはっきりと覚えています。その内容は『「邪馬台国」徹底論争』第3巻(新泉社、1993年)に収録されています。
その後も、上岡さんとは古田先生の講演会々場でときおりお会いしました。わたしが受付をやっていると、突然ふらっと現れて「カミオカです」と小声で挨拶されるのですが、どちらのカミオカさんだろうかと見るとあの上岡龍太郎さんでした。いつも物静かな感じで〝芸能人オーラ〟は全く見せない方でした。電話での会話は別にして、最後にお会いしたのは、平成十四年(2002)二月二一日、嵐山の料亭だったと記憶しています。そのときの写真を見てみますと、机を挟んで古田先生と熱心に対話されており、本に掲載するための対談風景のようですが、残念ながらその内容を思い出せません。なお、このときとは別に、『新・古代学』第1集(新泉社、1995年)に両者の対談録「上岡龍太郎が見た古代史」が掲載されています。
上岡さんは道義に篤い方でしたし、古田先生のことを敬愛しておられ、「古田先生には学恩ではなく芸恩を感じている」と仰っていました。きっと今頃は冥界で先生と対話を楽しまれていることでしょう。心よりご冥福をお祈りします。


第3017話 2023/05/16

桐原・古田対談テープなどを

  CD、DVDにダビング

 東日流外三郡誌をはじめとする和田家文書への偽作キャンペーンが猖獗を極めていたとき、こともあろうに古田先生が200万円を支払って、ある人物に偽書作成を依頼した疑惑があるとする悪意に満ちた記事が週刊誌(アサヒ芸能)や『季刊邪馬台国』(注①)などに掲載されたことがありました。その人物は桐原さんという広島市の方で、古田先生と親交がありました。

 そこで、平成9年4月9日、古田先生と水野さん(当時、古田史学の会・代表)、古賀の三人で、京都タワーホテルの会議室にて桐原氏と対談し、そうした報道が事実無根であるとの証言をしていただきました。この度、その録音テープを専門業者に依頼してCDにダビングしました。ことの真相(注②)や詳細な経緯が桐原さんより語られています。今は亡き古田先生の名誉を守るためにも、「古田史学の会」ではその内容の公開も含めて、今後の取り扱いについて検討したいと考えています。

 また、三十年前に古田先生と実施した津軽での聞き取り調査など、東日流外三郡誌に関わる当時の重要証言ビデオも専門業者に依頼してDVDにダビングしました。当時の証言者(注③)がほとんど物故されていますので、いずれも貴重な証言録画です。これらの編集を行い、関係団体にも提供できればと思います。ネットでの動画配信も有効かもしれません。このことも「古田史学の会」で検討を進めたいと考えています。編集作業や配信など、皆さんのご協力をお願いいたします。

(注)
①『季刊邪馬台国』56号、1994年。同誌冒頭に「古田武彦昭和薬科大学教授に衝撃の疑惑!! 二百万円支払って、古文書作成偽造を依頼」の見出しとともに、『アサヒ芸能』記事を転載している。
②古田先生から江戸期の紙の調査とサンプル収集依頼を受けたこと、桐原氏の娘さんの学費支援が古田先生からあったことなどが証言されている。別の日に、京都駅前の新阪急ホテルラウンジで古田先生、桐原さんと娘さん、古賀の四人でお会いしたこともある。終始なごやかな歓談が続いた。
③永田富智氏(北海道史、松前町史編纂委員)、松橋徳夫氏(市浦村、山王日吉神社宮司)、佐藤堅瑞氏(柏村、浄円寺住職。青森県仏教会々長)。地名・肩書きは当時のもの。


第2998話 2023/04/27

「九州王朝律令」復元研究の予察 (6)

古田先生は七世紀の九州王朝律令について、次のように考察しています(注)。本テーマの締めくくりとして紹介します。

〝その半世紀余りあとの多利思北孤の時代、中国の天子のみならず、新羅王も律令制のもとにあった。そのような東アジアの世界の中で、「天子」を自称した多利思北孤が、律令をもたぬはずはない。「天子―年号」と同じく、「天子―律令」もまた、いわば必然のセットだったのである。(中略)
『隋書』俀国伝によると、次のようにのべられている。
其の俗、人を殺し、強盗及び姦するは皆死し、盗む者は贓(ぞう)を計りて物を酬(むく)いしめ、財無き者は、身を没して奴と為す。自余は軽重もて或は流し或は杖す。……争訴罕(まれ)に、盗賊少なし。
(中略)
また右の文中には「死」「贓」「没」「流」「杖」といった用語が点綴されている。これらはいずれも律令用語だ。すなわち俀国の律令なのである。〟(ミネルヴァ書房版 153~154頁)

史料に見える九州王朝律令の断片を紹介されたものですが、もっとも重要な指摘は、中国南朝律令の影響下に九州王朝律令が成立したとする次の指摘です。

〝以上と対照すれば、中国側の法概念と同類の法概念が倭国側にもまた存在したこと、それを疑うことはできにくい。(俀国側は、磐井系列であるから、南朝系の法概念であろう)。
すなわち北朝系の「日没する処の律令」と同じく、南朝系の「日出づる処の律令」もまた、筑紫の地に存在していたのである。〟(ミネルヴァ書房版 154~155頁)

〝このような新視点に立つとき、唐制に依拠したはずの「大宝律令」に南朝系の条句が見られるという、法制史上著名の難問も、何の苦もなく解決しうるであろう。なぜなら、九州王朝系の律令は、当然ながら南朝系の律令を核心としていたからである。先にあげたように、「浄御原朝廷」(持統朝)は、九州王朝系の「令」に依存しており、大宝律令も、これを准正とした旨、『続日本紀』大宝元年項に明記されているからである。〟(ミネルヴァ書房版 317頁)

以上の古田先生の指摘によれば、九州王朝律令復元研究には中国南朝律令の研究も重要であることがわかります。(おわり)

(注)古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(一九八五)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2914話 2023/01/12

「司馬史観」批判の論文を紹介

 「洛中洛外日記」2912話(2023/01/10)〝司馬遼太郎さんと古田先生の思い出〟で紹介した、古田先生の「司馬史観」批判ですが、先生から聞いたのは20年以上も昔のことです。記憶は鮮明に残っているのですが、このことを活字化した論稿を探しました。というのも、先生は真剣な表情で語っておられましたので、これは重要テーマであり、文章として遺されているのではないかと考えたからです。ちなみに、わたしの記憶では次のような内容(大意)でした。

 〝明治の新政府を作り、日清・日露の両戦争を戦ったのは江戸時代に教育を受けた人々で、昭和の戦争を指揮した政治家・軍人達は明治時代に生まれ、その教育を受けた人々である。従って、「江戸時代(の文化・教育)は良かったが、明治時代(の文化・教育)はダメ」と言うべきである。
たとえば、明治政府は幕末を戦い抜いた貧しい下級藩士らが中心となったが、昭和の政府は明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達による政府であり、この差が明治と昭和の為政者の質の差となった。〟

 20年以上も昔の会誌や講演録から探しだすのは大変な作業で、通常ですと数日かかるのですが、幸いにも今回はすぐに見つけることができました。『現代を読み解く歴史観』に収録された「教育立国論 ――全ての政治家に告ぐ」という論文中にあったのです(注①)。関係個所を転載します。

 〝ここで、一言すべきテーマがある。「昭和の戦争」を「無謀の戦争」として非難し、逆に、明治を理想の時代のようにたたえる。司馬遼太郎などの強調する立場だ。後述するように、それも「一面の真理」だ。だが、反面、いわゆる「昭和の愚戦」否、「昭和の暴戦」をリードしていたのは、まぎれもなく、「明治生れの、愚かしきリーダー」だったのである。この点もふくめて、後に明らかにしてゆく。〟『現代を読み解く歴史観』98頁

 〝では、わたしたちが今なすべきところ、それは何か。「教育立国」この四文字、以外にないのである。
明治に存在した、負(マイナス)の面、それは「足軽たちのおぼっちゃん」が、諸大名の「江戸屋敷」を“相続”し、数多くの「下男・下女」に囲まれて育った。当然、「見識」も「我慢」も知らぬ“おぼっちゃん”たちが、「昭和の愚劣にして悪逆」な戦争をリードした。少なくとも、「命を張って」食いとめる勇気をもたなかった。「昭和の愚劣と悪逆」は、「明治生まれの世代」の責任だ。この一点を、司馬遼太郎は「見なかった」あるいは「軽視」したのである。〟同上、101頁

 ほぼ、わたしの記憶と同趣旨です。また、〝「江戸屋敷」を“相続”し、数多くの「下男・下女」に囲まれて育った〟という表現(語り口)も、はっきりと記憶しています。これをわたしは〝明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達〟という表現に代えて記しました。

 これからも、古田先生から聞いた貴重な話題については、わたしの記憶が鮮明なうちに書きとどめ、先生の思想や業績を後世に伝えたいと願っています(注②)。幸い、「市民の古代研究会」時代からの同志がご健在で、その方々への確認もできますので、この作業を急ぎたいと思います。最後に、古田先生の「司馬史観」批判を『現代を読み解く歴史観』に収録し刊行された、東京古田会と平松健さん(同書編集担当)に感謝いたします。

(注)
①古田武彦『現代を読み解く歴史観』ミネルヴァ書房、2013年。
②なかでも30年前に行った和田家文書調査(津軽行脚)は、古田先生をはじめ当地の関係者がほとんど物故されており、当時の情況の記録化が急がれる。


第2912話 2023/01/10

司馬遼太郎さんと古田先生の思い出

今年は司馬遼太郎さん(注①)の生誕百年とのこと。恐らく様々な記念番組が企画されるのではないでしょうか。古田先生は生前に司馬さんとお付き合いがあり、何度か司馬さんのことについて話されたことがありました。司馬さんも『週間朝日』に連載された「司馬遼太郎からの手紙・四七回」で古田先生との出会いの様子を記しており、そのことを『古田史学会報』で紹介したことがあります(注②)。
先生が文京区本郷にお住まいのとき(注③)、何度か訪問したことがあり、そのおりに司馬さんのことを聞いた記憶があります。司馬さんのご自宅の本棚には古田先生の著書が並んでいることや、「司馬史観」に対する見解などをお聞きしました。
「司馬史観」を単純化して言えば〝明治の政治家は良かったが、昭和の政治家はダメ〟というものですが、古田先生の視点は少々異なっていました。日本の近現代史について、先生とお話ししたことはあまり多くないのですが、「司馬史観」を批判して、次のように語られました。

〝明治の新政府を作り、日清・日露の両戦争を戦ったのは江戸時代に教育を受けた人々で、昭和の戦争を指揮した政治家・軍人達は明治時代に生まれ、その教育を受けた人々である。従って、「江戸時代(の文化・教育)は良かったが、明治時代(の文化・教育)はダメ」と言うべきである。
たとえば、明治政府は幕末を戦い抜いた貧しい下級藩士らが中心となったが、昭和の政府は明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達による政府であり、この差が明治と昭和の為政者の質の差となった。〟(大意。古賀の記憶による)

古田先生らしい骨太の歴史観であり、「司馬史観」を超えるものではないでしょうか。司馬さんの生誕百年にあたり、この話を先生からお聞きしたことを思い出しました。

(注)
①司馬遼太郎(しば りょうたろう、大正12年(1923年)8月7日~平成8年(1996年)2月12日は、日本の小説家、フィクション作家、評論家。位階は従三位。本名は福田定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。
司馬の作り上げた歴史観は、「司馬史観」と評される。その特徴としては日清・日露戦争期の日本を理想視し、(自身が参戦した)太平洋戦争期の日本を暗黒視する点である。人物においては、高評価が「庶民的合理主義」者の織田信長、西郷隆盛、坂本龍馬、大久保利通であり、低評価が徳川家康、山県有朋、伊藤博文、乃木希典、三島由紀夫である。この史観は、高度経済成長期にかけて広く支持を集めた。(ウィキペディアより抜粋)
②古賀達也「事務局だより」『古田史学会報』37号(2000年4月4日)。
③昭和薬科大学(東京都町田市)の教授に就任した時代。学問研究のため、東京大学図書館・史料室などに近い本郷に居したと聞いている。


第2908話 2023/01/05

古田先生が生涯貫いた在野精神 (3)

『古田武彦とともに』創刊第1集(古田武彦を囲む会編、1979年)に寄稿者として名を連ねている高田かつ子さん(多元的古代研究会・前会長)から教えていただいた次の逸話があります。それは古田先生が昭和薬科大学に教授として招聘されるときの話だそうです。

〝今から十二年前の昭和五十九年三月、上京していらっしゃった古田先生と池袋の喫茶店でお目にかかった。昭和薬科大学に教授として招かれたので、東京での拠点を探しに上京されたとのことであった。
「まだ迷っているのですよ。」
なぜ、と問いかける私に、大学教授という社会的に地位のある職に就くことは堕落に通じることではないかと心配しているのだとおっしゃる。それをお聞きして私はストンと胸に落ちるものがあった。それは、こういう話をお聞きしていたからであった。
昭和二十三年、先生は東北大学を卒業してすぐ、信州松本の深志高校に奉職された。深志での四年間は、教師として人間として、生徒と共に遊んで学んで育っていった原点でもあったとおっしゃる。そして昭和二十七年、あとどうなるか全く分からずに「やめます」と言って去る日、松本駅に見送りに来ていた人達の中から一人の青年が、動きだした列車と共に走りながら「堕落するなよ!」と叫んだというのである。
「堕落するなよ」、それは都会へ行って落ちぶれるなという意味ではもちろんない。エリート面してしまうなよ、雲の上のようなインテリになってしまうなよ、というのが彼の言う「堕落するなよ」という意味であることは先生にはすぐ分かったそうである。先生が最初に教えた三つ年下の生徒で、付き合いが深かったせいでもあるとおっしゃる。
(中略)
大学教授になってからの先生の行動は堕落とはおよそ対局にあるものであった。和田家文書にしてもしかり。大学教授としての地位に甘んじることなく研究に打ちこんでいらしたことは周知の事実である。〟「志の人・古田武彦に乾杯」(注)

古田先生が昭和薬科大学に奉職されるにあたってのエピソードで、生涯、在野精神を貫かれた先生らしい話です。この話を伝えた高田かつ子さんは、その後病に倒れられました(2005年5月7日没)。亡くなる二日前の言葉が遺されていますので、最後に紹介します。

「古田先生より先には死ねない。まだ死んでいる場合ではないんだ。きっと先生が亡くなった後はみんなが我が物顔に先生の説を横取りしてとなえ始める人が出できて大変だろうから、その時には私が証人にならなければ。(村本寿子さん談)」

(注)『古代に真実を求めて 古田武彦古稀記念特集』第二集、明石書店、1998年。


第2907話 2023/01/04

古田先生が生涯貫いた在野精神 (2)

『古田武彦とともに』創刊第1集(古田武彦を囲む会編、1979年)の末尾の資料紹介(古田先生の略歴・著作・論文・他)に、先生を紹介した新聞記事(発行日不明。朝日新聞か)「野に学者あり」のコピーが収録されています。「燃えたぎらす論争の炎」「批判できねば学問終わり」という見出しとともに次の記事が見えます。

〝古田氏の業績は古代の分野だけではない。親鸞研究では、早くからその名が知られていた。にもかかわらず、終始「素人」を名のる。大学からのさそいも、一貫してことわり続けている。
「現代の日本では、研究機関に所属すること、それはどこかの学閥の中に組み込まれることになる。となると、師や仲間うちの批判はきわめてむつかしい。非学問的理由で、先学を批判できないとしたら、学問の進歩もなければ面白味もない」
在野の弁を明快にこう語る。
(中略)
古田氏は、過去に一度だって、研究機関に職を得たことはなかった。それゆえ、学問のためとあらば、どんな大家であろうと、教えをこうた人であろうと、遠慮会釈なく俎上(そじょう)に乗せる。学問の本筋とは元来そうしたものであるべきだと固く信じている。しかし、あまりの批判の厳しさに、それとなく忠告してくれる人もいるが、彼はいつもそれに笑って答える。
「遠慮して批判を避けるようなときが来れば、在野にいる意味もない。私の学問も終わるときです」。〟(つづく)


第2906話 2023/01/03

古田先生が生涯貫いた在野精神 (1)

来週の14日(土)に東京古田会主催の和田家文書研究会で、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」を発表させていただくことになり、準備のために30年以上昔の資料を読み直しています。その手始めに読んだのが『古田武彦とともに』創刊第1集(古田武彦を囲む会編、1979年。B5版68頁)です。同誌には「会員頒布」とあり、今でも入手困難な一冊です。同誌には古田説に出会った感動と悦びに満ちた会員の論稿で溢れており、当時の熱気が伝わってきます。
中谷義夫会長による「会報発行の所感」に続いて、古田先生の「母なる探求者 ―孤独の周円―」が掲載されています。その冒頭には次のように記されています。

「わたしには不思議である。
これはたった一人で歩みはじめた、孤独な探求の道であった。現代の学界はこれをうけ入れず、今までいかなる博学の人々も、このように語ったことはなかった。そういう断崖に切り立った小道を、わたしはひとり歩みつづけてきたのだ。
それが今、ふと見まわすと、わたしのまわりには、数多くのなつかしい人々が見える。そしてうしろからもヒタヒタと足音がする。いや、前にも、もう、一歩、二歩歩きはじめている若者たちの姿が見えているようにさえ思えるのである。荒野の中に多くの道を切り開きつつすすむ人々の群れのように。――これはどうしたことであろうか。
思うに、わたし個人は、とるに足らぬ一介の探求者である。長い時間の中で、うたかたのように浮んでは消えてゆくひとつのいのちだ。そのわたしをささえ、とりまいているこれらの人々こそ、真の探求者、真の母体なのではあるまいか。わたしは母なる探求者をこの世で代理し、いわばその〝手先〟をつとめる者にすぎぬ。わたしにはそのように思われるのである。」

この『古田武彦とともに』は『市民の古代 古田武彦とともに』から『市民の古代』へと変わり、「古田武彦を囲む会」は後に「市民の古代研究会」へと改名します。ちなみに、『古田武彦とともに』第1集には、「古田史学の会」という会名のもとになった「古田史学」という呼称が散見します。たとえば朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』を出版した米田保さんの「『「邪馬台国」はなかった』誕生まで」には次のようにあります。

「こうして図書は結局第十五刷を突破し、つづけて油ののった同氏(古田先生のこと)による第二作『失われた九州王朝』(四十八年)第三作『盗まれた神話』(五十年二月)第四作(同年十月)と巨弾が続々と打ち出され、ここに名実ともに古田史学の巨峰群の実現をみたのである。」

「市民の古代研究会」で九州年号研究を牽引した丸山晋司さんの「ある中学校の職員室から」には次のように「古田学派」という言葉が使用されています。

 「自分がもし社会科の教師になっていたら、受験前の生徒達に古田説をどう教えられるのか考えただけでもゾッとする。故鈴木武樹氏の提唱した「古代史を入試に出させない運動」は、我々古田学派にこそ必要なのではないかと思ったりもする。それでないと、社会科の教師の自由な研究はよほどの読書家・探求者にしか望めない。教師はそうであってはならない。けれど頭の中までかなり束縛されているのも教師だと思う。」

「古田史学」や「古田学派」の語は、この『古田武彦とともに』第1集が初出あるいは早期の使用例ではないかと思います。(つづく)


第2864話 2022/10/27

没年干支が改刻された百済武寧王墓誌

 九州年号史料以外にも、干支が一年ずれた痕跡を持つ著名な同時代金石文があります。百済武寧王墓誌に見える武寧王の没年干支です。

 寧東大将軍百済斯
 麻王年六十二歳癸
 卯年五月丙戌朔七
 日壬辰崩到乙巳年八月
 癸酉朔十二日甲申安暦
 登冠大墓立志如左

 1998年9月、古田先生は韓国の武寧王陵碑を見学され(注①)、その碑面の字を調査しました。そして、武寧王没年干支「癸卯」(523年)の部分が改刻されており、原刻はその翌年に当たる「甲辰」であったことが確認できたのです(注②)。
 武寧王の没年は『日本書紀』や『三国史記』(1145年成立)には「癸卯」とされていますが、墓誌にはその翌年にあたる「甲辰」とあったのです。国王の墓誌という史料性格から、誤刻を訂正した痕跡とは考えにくいため、古田先生は、干支が一年引き上がった暦が当時の百済では採用されており、後に現行暦の干支に改刻された痕跡であるとされました。そして、その改刻時期は同陵に合葬された王妃の埋葬時(529年己酉。王妃没年は526年丙午)の可能性が高いと指摘しました。すなわち武寧王没後数年の間に、百済では暦が現行干支暦に変更されたと考えられるのです。
 このように、六世紀の九州年号の時代、百済の王権内で干支が一年ずれた暦(ずれの方向も『万葉集』左注の朱鳥と同じ)を採用していたことは興味深いことです。

 「武寧王」新旧暦対応表
西暦 干支  記事・出典
501  辛巳 武寧王即位・『三国史記』
502  壬午 武寧王即位・『日本書紀』
521  辛丑 武寧王朝貢・『三国史記』武寧王二十一年条
522  壬寅 武寧王朝貢・『冊府元亀』普通三年条
523  癸卯 武寧王没・墓誌改刻、『日本書紀』『三国史記』
524  甲辰 武寧王没・墓誌原刻、『梁書』普通五年条
525  乙巳 武寧王埋葬・墓誌

(注)
①古田武彦「虹の光輪」『多元』28号、1998年。
②古賀達也「一年ずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑『改刻説』補論」『古田史学会報』31号、1999年。
 同「洛中洛外日記」845話(2015/01/01)〝百済武寧王陵墓碑が出展〟


第2858話 2022/10/14

俀国伝の行程〝古田理解と論理の根幹〟(2)

 『隋書』俀国伝に記された、百済から俀国の都へ向かう裴世清の行程記事について、古田先生は主線行路「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と、傍線行路「又十余国を経て海岸に達す」に分けられたのですが、その理解を支えた根幹の論証がありました。それは、「又東して秦王国に至る」の直後にある「その人、華夏と同じ。以て夷洲と爲すも、疑ひて明らかにする能(あた)はざるなり」の記事に関するものです。この記事を古田先生は次のように理解されました(注①)。

〝この俀国の人々は、中国の人々とそっくりだ(よく似ている)。だから、〝ここは東夷の洲(しま)だ〟といわれても、中国人とはっきり区別できないほど、よく似ている。〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、259~260頁

 古田先生は「その人」の「その」が、直前の「秦王国」ではなく、「俀国」を指すことを『隋書』夷蛮伝の用例を根拠として論証され、主線行路は「秦王国」で終了し、その後の記事は俀国の風俗(その人、華夏と同じ)や地勢(十余国を経て海岸に達す)に関する情報であるとされました。この「その人」の「その」が俀国を指すという論証が、行路を主線と傍線に分けて理解するという古田説成立の根幹となっているのです。
 なお、主線行路について、古田先生は次のように推定されています。

〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向〈四分法〉指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)。
 では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。(中略)首都圏「竹斯国」に一番近く、その東燐に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
 博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟同、275~276頁

 この裴世清が向かった行路については、古田学派内でも諸説が発表され、古田先生亡き後も活発な議論が続いています。これこそ、〝師の説にな、なづみそ〟の精神ではないでしょうか。ちなみに、古田説と同じく筑後川流域(筑後)から阿蘇山へと進む説は、わたしや谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)が発表しています(注②)。いずれ、真摯な論争の末に最有力説へと収斂するものと信じています。学問研究とはそのようなものですから。

(注)
①古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
「『肥後の翁』と多利思北孤 ―筑紫舞「翁」と『隋書』の新理解―」『古田史学会報』136号、2016年。
 谷本茂「『隋書』俀国伝の「俀の都(邪靡堆)」の位置について」『古田史学会報』158号、2020年。
 俀国の都を「肥」(肥前・肥後・筑後を含む広域)とする説が阿部周一氏(古田史学の会・会員、札幌市)から出されている。
 阿部周一「『隋書俀国伝』の「本国」と「附庸国」 ―行程記事から見える事―」『古田史学会報』148号、2018年。


第2857話 2022/10/13

『古田史学会報』172号の紹介

 『古田史学会報』172号が発行されました。一面に掲載された「『漢書』地理志・「倭人」項の臣瓚注について」は中国古典に博識な谷本さんならではの論稿です。『漢書』に付された三種類の注記(如淳・臣瓚・顔師古)について論じた西嶋定生氏の説を紹介し、そこでの古田説批判が的を射て居らず、「古田氏の見解を無視し、その内容に言及しないのは不可解」としたものです。『後漢書』の臣瓚注について、わたしは勉強したことがなく、西嶋氏の古田説批判も知りませんでした。古田先生とのお付き合いが永い谷本さんの論稿に、冥界の先生も目を細めておられることでしょう。

 拙稿〝官僚たちの王朝交代 ―律令制官人登用の母体―〟と〝「二倍年歴」研究の思い出 ―古田先生の遺訓と遺命―〟を掲載していただきました。前者は、七世紀末の藤原宮で執務した大勢の律令制官僚は前期難波宮の官僚が登用されたとする佐藤隆さん(大阪市教育委員会)の説を紹介し、その前期難波宮官僚群の母体となったのは七世紀前半の九州王朝の太宰府官僚群とするものです。
後者は、二十年ほど前に『論語』は二倍年暦で書かれているとする説を発表したとき、わたしに託された古田先生の遺訓(悉皆調査)と遺命(書籍発行)の経緯を紹介したものです。古田史学を生み出した古田先生の人となりを、わたしや関係者の記憶が確かな内に書きとどめていく必要を感じており、機会があればこれからも紹介したいと思います。

 172号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』172号の内容】
○『漢書』地理志・「倭人」項の臣瓚注について 神戸市 谷本 茂
○室見川銘板はやはり清朝の文鎮 京都府大山崎町 大原重雄
○官僚たちの王朝交代 ―律令制官人登用の母体― 京都市 古賀達也
○倭国の女帝は如何にして仏教を受け入れたか 八尾市 服部静尚
○乙巳の変は九州王朝による蘇我本宗家からの権力奪還の戦いだった 茨木市 満田正賢
○「二倍年歴」研究の思い出 ―古田先生の遺訓と遺命― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・三十八
九州万葉歌巡り 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○古田史学の会・関西例会のご案内


第2856話 2022/10/08

俀国伝の行程〝古田理解と論理の根幹〟(1)

 『三国志』倭人伝に見える邪馬壹国への行程記事について、古田先生は名著『「邪馬台国」はなかった』(注①)で、倭人伝原文の一字一句も改訂することなく見事に博多湾岸へと至る解読を明示されました。たとえば短里説(1里約76m)、韓国内陸行説、対海国(対馬)・一大国(壱岐)半周読法、部分里程の和は総里程(万二千余里)説などです。
 倭人伝の里程記事ほどではありませんが、『隋書』俀国伝にも百済から都への行程記事(注②)があり、古田学派内でも諸説が発表されています。古田先生は俀国の都をヤマトとする通説を次のように批判しています(注③)。

〝「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と進んできた行路記事を、まだここにとどめず、先(軽率なルート比定)の(B)の「又十余国を経て海岸に達す」につづけ、この一文に“瀬戸内海行路と大阪湾到着”を“読みこもう”としていたのである。
 しかし、本質的にこれは無理だ。なぜなら、
 ①今まで地名(固有名詞)を書いてきたのに、ここには「難波」等の地名(固有名詞)が全くない。
 ②九州北岸・瀬戸内海岸と、いずれも、海岸沿いだ。それなのに、その終着点のことを「海岸に達す」と表現するだけでは、およそナンセンスとしか言いようがない。
 ことに①の点は決定的だ。裴世清の「主線行路」は、先の「対馬――秦王国」という地名(固有名詞)表記部分で、まさに終了しているのだ。これに対して、(B)(「十余国」表記)は、地形上の補足説明(傍線行路)にすぎないのだ。だから地名(固有名詞)が書かれていないのである。後代人の主観的な“読みこみ”を斥け、文面自体を客観的に処理する限り、このように解読する以外、道はない。〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、265頁。

 この古田先生の批判は強烈です。隋使が向かった相手国(俀国)の都への途中地名(固有名詞)が記されていないことになる、「又十余国を経て海岸に達す」を主線行路と見なす理解はあまりに恣意的です。国使であれば、何をおいても相手国の首都への行路地名(固有名詞)を一つ一つ確認し、本国に報告しなければならないはずです。従って、「十余国」もの個別国名やそれらを経て達した海岸名が全く記されていないのですから、この記事を地形上の補足説明(傍線行路)と見なす古田先生の理解は妥当です。そして、この理解を確証づけた根幹の論証があります。(つづく)

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(一九七一)。ミネルヴァ書房より復刻。
②次の行程記事が見える。
 「度百濟行至竹島南望*タン羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。」 ※「*タン」は偏が「身」、旁が「冉」の字。
③古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。