古田武彦一覧

第2670話 2022/01/30

格助詞に着目した言素論の新展開

 本日、正木裕さんのご紹介で京都地名研究会主催の講演会(注①)を聴講しました。古田先生が提唱された「言素論」に関係が深そうな研究発表があるとのことで参加することにしたものです。それは大阪市立自然史博物館の職員で昆虫学者の初宿成彦(しやけ しげひこ)さんによる「格助詞に着目した地名の要素分解」という研究発表です。
 「言素論」とは、古代日本語の単語や文字表記において、「一字・一音節・一義」がより古い形態と考え、一音節ごとに言葉を分解し、その言葉の本来の意味を明らかにするという方法論です。たとえば、「魚」という字で表記される意味はfishですが、音は「ぎょ」(音読み)と「な」「うお」「さかな」(訓読み)などがあります。このfishを意味する日本語のうち、「な」を最も古いとする、これが「言素論」の基本前提です。すなわち、「魚」という表記の訓みの「一字・一音節・一義」が「な」と考えるわけです。詳細については拙稿「『言素論』研究のすすめ」(注②)をご参照下さい。
 初宿さんは地名や苗字を語頭+格助詞+語尾に分解し、語頭の意味を推定し、その多くは神の名前ではないかとされました。そして、次のような例を多数紹介されました。

地名 =語頭+格助詞+語尾⇒格助詞がない同義地名
穴生  あ   の   お  粟生・阿尾
稲田  い   な   だ  井田
稲本  い   な  もと  井本
勝田  か   つ   た  加太・嘉田
神奈川 か   な  がわ  香川
真田  さ   な   だ  佐田
砂田  す   な   だ  須田
角田  つ   の   だ  津田
箕面  み   の   お  三尾
湊   み   な   と  水戸
水上  み   な  かみ  三上
箕輪  み   の   わ  三輪・三和
渡辺  わた  な   べ  渡部(わたべ)

 上記の分解や理解がすべて正しいのかどうかはわかりませんが、言素を格助詞で繋ぎ、新たな名詞が構成されるという視点は重視すべきと思いました。今までの言素論研究に格助詞の視点を導入する必要を感じました。(つづく)

(注)
①京都地名研究会(会長:小寺慶昭氏)第57回地名フォーラム。於:キャンパスプラザ京都。

各助詞に着目した地名の要素分解 初宿成彦

研究発表「各助詞に着目した地名の要素分解」
初宿成彦(しやけしげひこ)

②古賀達也「『言素論』研究のすすめ」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。

 


第2611話 2021/11/10

『多元』No.166掲載

「『古事記』序文の『皇帝陛下』」の紹介

 先日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.166が届きました。同号の一面に拙稿「『古事記』序文の『皇帝陛下』」を掲載していただきました。ご評価頂き有り難いことです。
 同稿は、15年ほど前に古田先生との意見交換(内実は論争)で何度も対立したテーマを紹介しました。それは、『古事記』序文に見える「皇帝陛下」を唐の天子とするのか、通説通り元明天皇とするのかという問題で、ついには古田先生のご自宅まで呼び出され、長時間の論争となった、いわく付きのテーマでした。今となっては懐かしい限りですが、当時は先生から散々叱られて、泣きそうになりました。しかし、自らが正しいと思うことについては頑張ってみるもので、最終的には通説でよいとする論文を先生は『多元』(注)で発表されました。
 ご自宅での論争の数日後、先生は書き上げたばかりの二百字詰め原稿用紙30枚に及ぶ「お便り」を拙宅まで持参され、その最後には「わたしは古賀さんを信じます」の一言が付されており、激しい〝師弟論争〟も「破門」されることなく終わりました。31歳のあの日、古田先生の門をたたいてから35年が過ぎました。先生からはよく叱られ、何歳になっても震え上がったものです。

(注)古田武彦「古事記命題」『多元』80号、2007年7月。


第2610話 2021/11/06

古田先生と安徳大塚古墳の想い出

 最近、安徳大塚古墳(注①)を邪馬壹国の女王俾弥呼(ひみか)の墓ではないかとする見解があることを知りました。20年ほど前の話しですが、わたしも同じことを古田先生に述べ、叱られたことがありましたので、当時のことを懐かしく想い出しました。
 それは2003年5月26日のことでした。福岡市で開催された古田先生の講演会の翌日、小林嘉朗さん(古田史学の会・現副代表)や当地の会員さんら(クルマ2台を出していただきました)と共に古田先生と那珂川町の安徳台遺跡調査を行いました(注②)。小雨が降る中、ぬかるみに足をとられ泥だらけになりながらの調査でしたので今でもよく憶えています(クルマの中も泥だらけにしてしまいました)。
 当日は、春日市の「奴国の丘歴史資料館」・熊野神社(須玖岡本山に鎮座)を初め、那珂川町の安徳台(あんとくだい)遺跡・裂田溝(さくたのうなで)・現人(あらひと)神社・安徳大塚古墳等を訪れたのですが、主たる目的は「奴国の丘歴史資料館」に展示されている須玖岡本出土の虁鳳鏡見学と、古田先生が俾弥呼の墓の候補とされた春日市須玖岡本山にある熊野神社社殿下の墳丘墓調査でした。
 笹などに覆われた安徳大塚古墳(墳丘全長約64m)に登りましたが、樹木に遮られて視界があまり良くなく、墳丘の全体像は確認できませんでした。那珂川町のパンフレットには福岡平野最古の前方後円墳とあり、後円部の規模が倭人伝の表記「径百余歩」(約25m)に近いので、わたしは不用意にも「卑弥呼の墓ではないでしょうか」などと口走ってしまい、先生から叱られました。
 その理由は、倭人伝には「径百余歩」とあることから、円墳と解さざるを得ないという点にあり、〝『三国志』の著者陳寿を信じとおす〟という学問の方法を貫かれた古田先生らしいものでした。今思えば、文献史学(倭人伝の史料批判)や考古学(古墳の編年)の研究成果や学問の方法を軽視した思いつきでした。
 わたしは、先生からは褒められるよりも叱られることの方が多かった〝不肖の弟子〟でしたが、どのようなことに対して古田先生が叱るのかについては、お陰さまでわかるようになりました。それは学問研究に関する〝不公正〟と古田学派内への〝非学問的対立〟の持ち込みでした。このことについてのわたしの体験も、おいおい紹介したいと思います。

(注)
①福岡県那珂川町安徳にある前方後円墳(方部が細長い手鏡型)。墳丘の全長約64m(前方部幅約20m、同長さ30m、後円部径約35m)。4世紀後半の福岡平野最古の前方後円墳とされる。
②古賀達也「五月二六日、卑弥呼(ひみか)の墓調査報告 安徳台遺跡は倭王の居城か」『古田史学会報』57号、2003年8月。


第2595話 2021/10/16

万葉歌〝大和三山〟「高山」調査の思い出

 本日はドーンセンターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。11月はi-siteなんばで開催します(参加費1,000円)。
 今回の例会でわたしは来月14日に迫った〝八王子セミナー2021〟の予行練習を兼ねて、〝「倭の五王」時代(5世紀)の考古学 ―古田武彦「筑後川の一線」説の再評価―〟をパワポを使用して発表しました。関西例会参加者からの厳しい批判や指摘を事前にいただいておけば、当日の発表に役立つと考えたからです。おかげさまで、想定される批判や反論、不十分な点などが参加者から次々と指摘され、発表内容の修正に活かせそうです。ご指摘いただいた皆さんにお礼申し上げます。
 不二井さんが紹介された、万葉歌に見える〝大和三山〟の「高山」(原文)を通説の香具山ではなく、交野山(このさん、交野市)とする説は、古田先生との現地調査で発見されたものです。先生とドライブ中に偶然に発見した「高山町」(生駒市)という道路標識が新説誕生の端緒となったのですが、交野山々頂の巨岩に古田先生と登った思い出が、不二井さんの発表を聞きながら蘇ってきました。この〝大和三山〟「高山」説は古田武彦著『古代史の十字路 万葉批判』「第五章 あやまれる『高山』の歌」(東洋書林、2001年。後にミネルヴァ書房から復刻)に収録されています。

 なお、発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①大和三山 (明石市・不二井伸平)
②俀国と兄弟統治 (姫路市・野田利郎)
③服部論文「磐井の乱は南征だった」の根拠が失われる可能性について (茨木市・満田正賢)
④「倭の五王」時代(5世紀)の考古学 ―古田武彦「筑後川の一線」説の再評価―(京都市・古賀達也)
⑤会誌第二十二集『倭国古伝』(荒覇吐神社~)の絵図に関して (大山崎町・大原重雄)
⑥名字と本姓の扱い方 ―秋田次郎橘孝季の例― (たつの市・日野智貴)
⑦景初鏡・正始鏡 (京都市・岡下英男)
⑧藤原宮造営中断の実相 (川西市・正木 裕)
⑨斉明紀の征西記事と朝倉宮 (東大阪市・荻野秀公)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(「三密」回避に大部屋使用の場合は1,000円)
11/20(土) 10:00~17:00 会場:i-siteなんば
 ※コロナによる会場使用規制のため、緊急変更もあります。最新情報をホームページでご確認下さい。

《関西各講演会・研究会のご案内》
 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新情報をご確認下さい。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 資料代500円 〔お問い合わせ〕℡080-2526-2584
○10/27(水) 13:30~16:30 会場:奈良県立図書情報館
 「伊勢王の時代⑤ 大化の改新と二つの大化年号」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
 「王朝交代の真実 天武は筑紫都督だった」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)
○11/24(水) 13:30~16:30 会場:奈良県立図書情報館
 「白村江の戦い① 白村江前史~専守防衛に徹した伊勢王」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
 「飛鳥寺は飛鳥にあったのか」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)


第2593話 2021/10/15

パリからの国際電話(古田先生の命日)

 昨晩、パリ市在住の奥中清三さん(古田史学の会・会員)から国際電話をいただきました。奥中さんはパリ市公認の画家で、年に一ヶ月ほどはモンマルトルのアトリエで観光客の似顔絵などを描き、それ以外のときは自らが好きな絵を描いておられるとのこと。今年はパリに渡って50年になるそうです。コロナでフランスも大変で、政府に対してワクチン接種反対デモなども頻繁に行われていると仰っていました。日本とは大違いです。
 コロナ禍のために帰国もままならいようで、前回は2016年11月に大阪市でお会いし、大阪城や難波宮跡などをご案内しました。昨日(10月14日)は、古田先生の命日ということで、お電話をいただきました。先生の命日を忘れずにいていただき、有り難いことと感謝しています。


第2585話 2021/10/01

『親鸞と被差別民衆』の人間模様

 河田光夫氏と古田先生、藤田友治さん

 四半世紀ぶりに、河田光夫氏の『親鸞と被差別民衆』(明石書店、1994年)を書架より探し出して読みました。同書冒頭には古田先生による序文が記されています。

〝(前略)
 わたしは馬齢を重ね、古希の坂へと登ろうとしている。しかし、振り返っても、君は亡い。
 河田氏の新著を祝うための一文が、一片の弔辞としてはじまったこと、それを読者におゆるしいただきたいと思う。わたしにとって氏は、親鸞研究の未知の沃野を開くべき刮目の人、そういう研究者だったのである。
 氏は、わたしの親鸞に関する論文を深く熟読して下さった。わたしの親鸞学の学問としての方法を理解し、その成果を深く摂取しつつ、新たな研究分野を切り開いてゆかれたのである。
 中でも、被差別民衆の立場から親鸞言説を検証する、その方法論は、出色だった。幾多の親鸞研究の中でも燦然たる光を放っている。今後も、失われることはないであろう。
 (中略)
 それゆえに、弔いの言葉としてではなく、お祝いの言葉をもって、本書の序文を結ばせていただきたいと思う。
  一九九四年十月十五日
  ――住井すゑさんの牛久の会の講演に赴く前夜――
                     古田武彦〟

 著者は親鸞研究を通して古田先生と懇意にされていたようです(注①)。河田氏はガンの闘病生活のなかで同書の校正を続け、その途中で亡くなられました(1993年12月18日没)。その校正作業を引き受け、出版にまでこぎ着けたのが藤田友治さん(注②)でした。同著末尾にある藤田さんの「河田光夫氏への追悼と本書の解題」にその経緯が記されています。また、藤田さんは河田氏を介して古田先生の著作を知り、先生との交流が始まったとのこと。当時の様子を次のように記されています。

〝河田氏の引越しの手伝いで河田氏宅にいった際、河田夫人から古田武彦『「邪馬台国」はなかった』や『親鸞 人と思想』の贈呈を受け、古田氏は河田氏の友人であることが解った。
 「偶然は人を思いがけないところへ導くものである」という言葉通り、河田氏から紹介された古田氏を中心にして、その後“囲む会”、さらに発展改称し、“市民の古代研究会”とし、全国組織となったのである(当初、事務局長、前会長)。そして最近は「古田史学の会」へその精神は引き継がれた。〟『親鸞と被差別民衆』146頁

 こうした学問研究を縁(えにし)とした人間模様は、これからも誰かに繋がっていくものと思います。河田氏、藤田さん、古田先生は既に鬼籍に入られました。残された者の一人として、記憶を書き留め、これからの新たな学縁を繫いでいきたいと願っています。

(注)
①古田武彦『親鸞 人と思想』(清水書院、1970年)に河田氏の研究が次のように紹介されている。
 「この問題について、河田光夫に『念仏弾圧事件と親鸞』〈『日本文学』一九六八・七・十月号〉という、みごとな研究がある。言語文法の側面から、この問題を分析したものだ。」170頁
②藤田友治氏(1947~2005年)。「市民の古代研究会 ―古田武彦と共に―」の創立者で、事務局長、会長を歴任された。1994年の「古田史学の会」創立に参加。


第2583話 2021/09/29

『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書(3)

 「金光上人」史料を開米智鎧氏が紹介

 昭和24年に編纂された『飯詰村史』(注①)にて、和田家史料「役小角」関連遺物(銅銘板、舎利壺等)の調査報告「藩政前史梗概」を発表した開米智鎧氏(注②)は、次に和田家文書中の「金光上人」関連史料の研究を昭和39年(1964)に出版されます。『金光上人』(全288頁。注③)です。同書「序説」には、刊行までの経緯を次のように記されています。

 「野僧昔日芝中在学中、故平沢謙純先生の指示を体し、日夜に係念すること五十年、一も得る所ありませんでしたが昭和二十四年「役行者と其宗教」のテーマで、新発見の古文書整理中、偶然曙光を仰ぎ得ました。
 行者の宗教、即修験宗の一分派なる、修験念仏宗と、浄土念仏宗との交渉中、描き出された金光の二字、初めは半信半疑で蒐集中、首尾一貫するものがありますので、遂に真剣に没頭するに到りました。
 此の資料は、末徒が見聞に任せて、記録しましたもので、筆舌ともに縁のない野僧が、十年の歳月を閲して、拾ひ集めました断片を「金光上人」と題し、二三の先賢に諮りましたが、何れも黙殺の二字に終わりました。
 (中略)
 特に其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部教の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見があります。加之宗史未見の項目も見えます。
 文体不整、唯鋏と糊で、綴り合わせた襤褸一片、訳文もあれば原文もあります。原文には、幾分難解と思はれる点も往々ありますが、原意を失害せんを恐れて、其の儘を掲載しました。要は新資料の提供にあります。
 且つまた、上人の大遠忌を眼前に迎へ、篇者老衰甚しく、余命亦望むべからず。幸にして、資料提供者和田喜八郎氏と、摂取院檀頭の篤信者藤本幸一氏との懇志に依って、茲に出版の栄に浴しました事は、大慶の至りであります。
 起筆以来十五年、粒々辛苦の悲願は、偏に上人高德の、一片をも伝ふるを得ば僥倖之に過ぐるものありません。
 是非は諸彦の高批を仰ぎ、完成は後賢の力を俟つものであります。
     上人七百四十七年の忌辰の日
         於 大泉精舎
               七十七老 忍 阿 謹識」

 ここに記されている昭和24年当時、資料提供者の和田喜八郎氏はまだ22歳の若者です。開米氏が述べるように「其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部教の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見」のような難解高度な宗教書を22歳の喜八郎氏に書けるはずがありません。同書に掲載された和田家史料を読めば、そのことは質量共に一目瞭然です。ちなみに、同書巻末に収録されている、金光上人関連の和田家史料一覧には、231編の「金光上人編纂資料」名が列挙されています。その内の数十編はわたしも実見しています。(つづく)

(注)
①『飯詰村史』昭和26年(1951)、福士貞蔵編。
②五所川原市飯詰、大泉寺(浄土真宗)の住職。
③開米智鎧『金光上人』昭和39年(1964)。

開米智鎧氏

開米智鎧氏

金光上人 開米智鎧編

金光上人 開米智鎧編

金光上人由来一部 開米智鎧編

 

 

 


第2581話 2021/09/26

『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書(2)

  「役小角」史料を開米智鎧氏が紹介

 『飯詰村史』(昭和24年編集。注①)で和田家文書『飯詰町諸翁聞取帳』を福士貞蔵氏が紹介されたのですが、同時に和田家の「役小角」史料を同村史で紹介されたのが開米智鎧氏でした。同氏は和田家近隣の浄土真宗寺院・大泉寺のご住職で、洛中洛外日記(注②)で紹介した佐藤堅瑞氏(柏村・淨円寺住職)のご親戚です。
 開米氏は和田家が山中から発見した仏像・仏具・銅銘板や和田家収蔵文書を『飯詰村史』で紹介されました。それは村史巻末に収録された「藩政前史梗概」という論稿で、その冒頭に和田家が発見した「舎利壺」3個、「摩訶如来塑像」1体、「護摩器」多数の写真が掲載されています。本文1頁には次のように記され、それらが和田家発見のものであることが示されています。

 「今、和田氏父子が發見した諸資料を檢討綜合して、其の全貌をお傳へし度いと思ふ。」
 「今回發見の銅板に依って其の全貌が明らかにされた。」

 このように紹介し、銅板銘「北落役小角一代」の全文(漢字約1,200字)や樹皮に書かれた文書なども転載されています。この銅銘板は、昭和20年頃という終戦直後に、炭焼きを生業とする和田家に偽造できるようなものではありません。このことも和田家文書真作説を支持する事実です。なお、銅板は紛失したようで(盗難か)、写真でしか残されていないようです。
 開米智鎧氏の論稿「藩政前史梗概」について紹介した『古田史学会報』3号(注③)の拙稿を一部転載します。

【以下転載】
『和田家文書』現地調査報告 和田家史料の「戦後史」

開米智鎧氏の「証言」
 和田喜八郎氏宅近隣に大泉寺というお寺がある。そこの前住職、故開米智鎧氏は金光上人の研究者として和田家文書を紹介した人物であるが、氏もまた『飯詰村史』に研究論文「藩政前史梗概」を掲載している。グラビア写真と三三頁からなる力作である。内容は和田元市・喜八郎父子が山中の洞窟から発見した「役小角関連」の金石文や木皮文書などに基づいた役小角伝説の研究である。
 この論文中注目すべき点は、開米智鎧氏はこれら金石文(舎利壷や仏像・銘版など)が秘蔵されていた洞窟に自らも入っている事実である。同論文中にその時の様子を次のように詳しく記している。

 「古墳下の洞窟入口は徑約三尺、ゆるい傾斜をなして、一二間進めば高サ六七尺、奥行は未確めてない。入口に石壁を利用した仏像様のものがあり、其の胎内塑像の摩訶如来を安置して居る。總丈二尺二寸、後光は徑五寸、一見大摩訶如来像と異らぬ 。(中略)此の外洞窟内には十数個の仏像を安置してあるが、今は之が解説は省略する。」
 このように洞窟内外の遺物の紹介がえんえんと続くのである。偽作論者の中にはこれらの洞窟の存在を認めず、和田家が収蔵している文物を喜八郎氏が偽造したか、古美術商からでも買ってきたかのごとく述べる者もいるが、開米氏の証言はそうした憶測を否定し、和田家文書に記されているという洞窟地図の存在とその内容がリアルであることを裏付けていると言えよう。
ちなみに和田氏による洞窟の調査については、『東日流六郡誌絵巻 全』山上笙介編の二六三頁に写真入りで紹介されている。
 このように、和田家文書に記された記事がリアルであることが、故開米氏の「証言」からも明らかであり、それはとりもなおさず和田家文書が偽作では有り得ないという結論へと導くのである。
【転載おわり】

 更に、開米氏は地元紙「青森民友新聞」にも和田家発見の遺物についての紹介記事を長期連載されています。『古田史学会報』16号(注④)で紹介しましたので、これも一部転載します。

【以下転載】
「平成・諸翁聞取帳」東北・北海道巡脚編
出土していた縄文の石神(森田村石神遺跡)

 旅は五所川原市立図書館での調査から始まった。和田家文書を最も早くから調査研究されていた大泉寺の開米智鎧氏が、昭和三一年から翌年にかけて青森民友新聞に連載した記事の閲覧とコピーが目的だ。
 昭和三一年十一月一日から始まったその連載は「中山修験宗の開祖役行者伝」で、翌年の二月十三日まで六八回を数えている。さらにその翌日からは「中山修験宗の開祖文化物語」とタイトルを変えて、これも六月三日まで八十回の連載だ。
 合計百四十八回という大連載の主内容は、和田家文書に基づく役の行者や金光上人、荒吐神などの伝承の紹介、そして和田父子が山中から発見した遺物の調査報告などだ。その連載量からも想像できるように、開米氏は昭和三一年までに実に多くの和田家文書と和田家集蔵物を見ておられることが、紙面に記されている。これら開米氏の証言の質と量の前には、偽作説など一瞬たりとも存在不可能。
 これが同連載を閲覧しての率直な感想だ。まことに開米氏は貴重な証拠を私たちに残されたものである。
【転載おわり】

 開米氏は「役小角」史料調査のおり、和田家文書のなかに「金光上人」史料が存在することに気づかれ、後に『金光上人』(注⑤)を著されています。(つづく)

(注)
①『飯詰村史』昭和26年(1951)、福士貞蔵編。
②古賀達也「洛中洛外日記」2577話(2021/09/22)〝『東日流外三郡誌』真実の語り部(3) ―「金光上人史料」発見のいきさつ(佐藤堅瑞さん)―〟
「『和田家文書』現地調査報告 和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年11月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga03.html
④古賀達也「平成・諸翁聞取帳 東北・北海道巡脚編 出土していた縄文の石神(森田村石神遺跡)」『古田史学会報』16号、1996年10月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou16/koga16.html
⑤開米智鎧『金光上人』昭和39年(1964)。

開米智鎧氏

開米智鎧氏

「藩政前史梗概」に掲載された舎利壺

「藩政前史梗概」に掲載された舎利壺

「藩政前史梗概」に掲載された仏像

「藩政前史梗概」に掲載された仏像


第2580話 2021/09/25

『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書

『飯詰町諸翁聞取帳』

  昭和24年、福士貞蔵氏が紹介

昭和50年頃から『市浦村史』資料編として世に出た『東日流外三郡誌』よりも先に公開された和田家文書があります。それは『飯詰町諸翁聞取帳』(注①)というもので、『飯詰村史』に多数引用されています。『飯詰村史』は昭和26年に刊行されていますが、編者の福士貞蔵氏による「自序」には昭和24年の年次が次のように記されており、終戦後間もなく編集されたことがわかります。

「昭和廿四巳(ママ)丑年霜月繁榮を極めたる昔の飯詰町を偲びつゝ
七十二翁 福士貞蔵識之」

福士氏は『飯詰町諸翁聞取帳』を学会誌(注②)にも紹介されています。「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」という論文です。

〝(前略)然るに今回端なくも飯詰本村に於て意外の史料を発見した。
記録は『諸翁聞取帳』といって、飯詰を中心に隣村の史實を或る文献より寫したり、又は口碑傳説など聞取った事柄を書留めた物で、筆者と同じく餘り學力のある方ではないらしく、文体は成って居らんし、それに用語も無頓着で意味の判らぬ個所もあるが、全く耳新しい史料であるから、同好の士に紹介することにした。〟『陸奥史談』第拾八輯、昭和26年(1951)、20頁

このような前文に続いて、「高舘城系譜」という史料を転載されています。『飯詰村史』にも同文の「高舘城系譜」が転載されていますから、『陸奥史談』で紹介された『諸翁聞取帳』は『飯詰村史』に多数引用された『飯詰町諸翁聞取帳』のことであることがわかります。おそらく『飯詰町諸翁聞取帳』表紙には「飯詰町」と「諸翁聞取帳」を二行わたって表題が識されていたと推定されますから、『飯詰町諸翁聞取帳』と『諸翁聞取帳』という二つの書名が現れたと思われます。『飯詰村史』123頁には「諸翁聞取帳」という表記も見え、このことを裏付けています。なお、和田家文書には『東日流 津軽諸翁聞取帳』(注③)という史料があり、これも表紙には「東日流」と「津軽諸翁聞取帳」の二行表記になっています。
ちなみに『飯詰村史』の「編輯を終へて」には福士氏により次の謝辞があり、『飯詰町諸翁聞取帳』は和田家文書であることがうかがえます。

「本史編纂に當り、資料提供せられたる青弘両圖書館長、岩見常三郎、種市有隣、大久保勇作翁の方々に感謝し、併せて資料蒐集に協力せられし開米智鎧、濱館徹、和田喜八郎等の有志者に對し、茲に敬意を表する。」326頁

昭和24年といえば、和田喜八郎さんが22歳のときであり、専門の歴史研究家である福士氏により『飯詰村史』に引用されるような古文書を偽作できるはずはありません。これは、和田家文書真作説を支持する事実であり、わたしがこのことを指摘(注④)しても偽作論者からの応答反論はありません。この後も、和田家からは多くの古文書が研究者に開示されています。(つづく)

(注)
①五所川原市図書館の福士文庫には福士貞蔵氏の蔵書や研究記録が収蔵されている。その中の「郷土史料蒐集録 第拾壱號」に『飯詰町諸翁聞取帳』が書き写されている。その書名の下に「文政五年 今長太」とあり、同書の成立が文政五年(1822)であり、今長太は編者名と思われる。『飯詰村史』収録の同村絵地図には「今長太」と記された人家が見える。これは『飯詰町諸翁聞取帳』編者と同一人物ではあるまいか。
②福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」『陸奥史談』第拾八輯、陸奥史談會、昭和26年(1951)4月。
③和田喜八郎編『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』八幡書店、1989年。④古賀達也「『和田家文書』現地調査報告和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年11月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga03.html

一冊残った『東日流(六郡語部録) 諸翁聞取帳』原本

一冊残った『東日流(六郡語部録) 諸翁聞取帳』原本

『飯詰村史』編者の福士貞蔵氏

『飯詰村史』編者の福士貞蔵氏

古田先生からいただいた『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』。

古田先生からいただいた『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』。


第2579話 2021/09/24

 『東日流外三郡誌』偽作説の根拠の一つに〝『東日流外三郡誌』の編著者である秋田孝季(あきた・たかすえ)が実在した証拠がない〟というものがありました。この偽作説に反論するため、わたしは秋田孝季の名前を求めて、和田家文書以外の史料調査を続けてきました。ところが、視点を変えた素晴らしい研究が発表されました。「洛中洛外日記」392話(注①)で紹介した、太田齊二郎さん(古田史学の会・会員、元副代表)による秋田市土崎地区の「橘」姓調査です。「寛政宝剣額」や『東日流外三郡誌』に記されているように、秋田孝季の居住地として「秋田土崎」が知られていました。更に孝季の元の姓は「橘」とされており、太田さんはこの二つに着目されました。
 和田家文書によれば秋田孝季のもとの名前は橘次郎孝季とされています。孝季の母親が秋田家三春藩主に「後妻」として入ったことにより、橘次郎孝季から秋田孝季と名乗るようになったようです。ですから、秋田土崎は孝季の「実家」の橘家があった可能性が高いのです。全国的に見れば、秋田県や秋田市に橘姓はそれほど多く分布していません。ところが、秋田市内の橘姓の七割が土崎に集中していることを太田さんが発見されました(太田さんは秋田県出身)。

〝孝季の兄「橘太郎守季」の確認がはかどらず、「橘」さん達への電話作戦を思い付き、図書館の資料室で電話帳を開いた時に気づいたのですが、秋田市の人口三十万のうち八万人の旧土崎湊地区に、市内全体で約四十の「橘」のうち七割が集中していたのです。〟(注②)

 この発見により、孝季が『東日流外三郡誌』をなぜ土崎で執筆したのかがわかりました。同書に記されたとおり、実家の橘家が土崎にあったのです。太田さんにより発見された秋田市内に於ける「橘」姓の分布状況は秋田孝季実在の根拠とでき、『東日流外三郡誌』真作説を支持するものです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」392話(2012/03/05)〝秋田土崎の橘氏〟
http://furutasigaku.jp/jfuruta/nikki8/nikki392.html
太田齊二郎「孝季眩映〈古代橘氏の巻〉」『古田史学会報』24号、1998年2月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/tugaru24.html

【写真】「寛政宝剣額」と『東日流内三郡誌』。共に「土崎之住人 秋田孝季」とある。

寛政宝剣額 土崎之住人 秋田孝季

寛政宝剣額 土崎之住人 秋田孝季

東日流内三郡誌 土崎之住人秋田孝季

東日流内三郡誌 土崎之住人 秋田孝季

 


第2578話 2021/09/23

『東日流外三郡誌』真実の語り部(4)

「門外不出、他見無用」文書の公開(和田章子さん)

 1995年5月4日、石塔山荒覇吐神社を訪れたわたしは、和田喜八郎さんのご長女、和田章子(わだ・ふみこ)さんに聞き取り調査を行いました。偽作論者達が偽作の証拠とした、喜八郎さんが書いたとする手紙・原稿類の筆跡確認が目的でした。そのおり、昭和五十年頃に『東日流外三郡誌』を『市浦村史』資料編として世に出されるに至った和田家内の状況について、章子さんの証言が得られましたので紹介します。経緯の詳細は、古田史学の会HP「新・古代学の扉」に収録された『古田史学会報』8号をご覧下さい(注①)。

【以下、『古田史学会報』8号から部分転載】
 本年(1995年)の五月四日、石塔山荒覇吐神社で和田喜八郎氏の娘さんにお話をうかがうことができた。偽作論者たちが入手した喜八郎氏の自筆原稿とされているもの(『季刊邪馬台国』五一号グラビア「和田喜八郎氏の自筆原稿」)が、娘さんの字であると、古田先生から聞いていたので、別原稿についても同様の確認をとることが目的であった。
 それは藤本光幸氏から借りた、『東日流内三郡誌』を原稿用紙に書き写したものだ。それを見せて、娘さんの筆跡であるかどうかを問うた。

 「たぶん私の字だと思いますが、昔のことなのではっきりとは断言できません」
 「こうした原稿用紙への書写や清書をよくされるのですか」
 「はい。父は字がへたなので、私がよく清書します」
 「文章そのものを書き直されることはありますか」
 「はい。文章がおかしいところは私が直すこともあります。でも、そのことがどうかしたのでしょうか」

 娘さんは筆跡が問題となっていることをご存じ無いようであった。私が、偽作論者は筆跡鑑定の基礎を取り違えていること、従って「喜八郎氏の自筆原稿」とされるものが娘さんの字であるという事実は、偽作論を根底から崩すものであることを説明すると、

 「“父の字”とされた私の字と文書の字は、そんなに似ているのでしょうか。」

 と、筆跡に関して率直な疑問を呈され、

 「助けて下さい。子供は学校でいじめられて泣いて帰って来ます。働きに出ても、父の名前は出せなくなりました。どうか助けて下さい。」

 と、深々と床に頭を下げられるのであった。そして、私からの質問に答えて、ぽつりぽつりと話しだされた。

 「家の文書のことをはっきりと知ったのは高校生の時でした。『東日流外三郡誌』を出すかどうかで、家族が話し合っているのを聞いて、文書のことを知りました。家族の者はみんな反対でした。しかし、父が出すことを決断しました。」
【転載、おわり】

 『東日流外三郡誌』が世に出たのは、和田家内での深刻な討議と決断の結果だったのでした。「門外不出、他見無用」と記された文書を出すのですから、和田家でのこうしたいきさつは痛いほどわかります。現に偽作キャンペーン(注②)により、その心配は現実のものとなったのですから。(つづく)

(注)
①古賀達也「『新・古代学』のすすめ ―「平成・諸翁聞取帳」―」『古田史学会報』8号、1995年8月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga08.html
②当時、古田先生やわたしたちへのバッシング・偽作キャンペーンは、NHKや週刊誌(『朝日芸能』他)、雑誌(『季刊邪馬台国』他)、地方紙をも巻き込んだもので、猖獗を極めた。和田喜八郎氏への誹謗中傷・人格攻撃に至っては、文章にするのも憚られるほどの悪質なものがあった。

【写真】『東日流外三郡誌』明治写本。冊子本がほとんどだが「大福帳」タイプのものも少数ある。

『東日流外三郡誌』明治写本冊子本

『東日流外三郡誌』明治写本冊子本

『東日流外三郡誌』明治写本。冊子本

『東日流外三郡誌』明治写本。冊子本

『東日流外三郡誌』明治写本「大福帳」タイプ

『東日流外三郡誌』明治写本「大福帳」タイプ


第2577話 2021/09/22

『東日流外三郡誌』真実の語り部(3)

 「金光上人史料」発見のいきさつ
(佐藤堅瑞さん)

『東日流外三郡誌』が『市浦村史』資料編で紹介されるよりも早く、昭和二四年頃には当地の歴史研究者には和田家文書の存在が知られていました。そこで、当時のことを知っている人の証言を得るために、わたしたちは津軽半島各地を行脚しました。そしてようやく証言を得ることができました。1995年5月5日、青森県仏教会々長の佐藤堅瑞さん(柏村淨円寺住職。インタビュー当時、80歳)から次の証言をいただきました。その一部を抜粋して紹介します。全文は古田史学の会・HP「新・古代学の扉」に収録しています(注①)。

【以下、抜粋して転載】
インタビュー 和田家「金光上人史料」発見のいきさつ
佐藤堅瑞氏(西津軽郡柏村・淨円寺住職)に聞く

昭和二十年代、和田家文書が公開された当時のことを詳しく知る人は少なくなったが、故開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)とともに和田家の金光上人史料を調査発表された青森県柏村淨円寺住職、佐藤堅瑞氏(八十才)に当時のことを語っていただいた。(中略)「正しいことの為には命を賭けてもかまわないのですよ。金光上人もそうされたのだから。」と、ご多忙にもかかわらず快くインタビューに応じていただいた。その概要を掲載する。(編集部)

――和田家文書との出会いや当時のことをお聞かせ下さい。

昭和二四年に洞窟から竹筒(経管)とか仏像が出て、すぐに五所川原で公開したのですが、借りて行ってそのまま返さない人もいましたし、行方不明になった遺物もありました。それから和田さんは貴重な資料が散逸するのを恐れて、ただ、いたずらに見せることを止められました。それ以来、来た人に「はい、どうぞ」と言って見せたり、洞窟に案内したりすることはしないようになりました。それは仕方がないことです。当時のことを知っている人は和田さんの気持ちはよく判ります。
金光上人の文書も後から作った偽作だと言う人がいますが、とんでもないことです。和田さんに作れるようなものではないですよ。どこから根拠があって、そういうことをおっしゃるのか、(中略)安本美典さんでしょうか、「需要と供給」だなんて言って、開米さんや藤本さんの要求にあわせて和田さんが書いたなどと、よくこんなことが言えますね。

――和田家文書にある『末法念仏独明抄』には法華経方便品などが巧みに引用されており、これなんか法華経の意味が理解できていないと、素人ではできない引用方法ですものね。

そうそう。だいたい、和田さんがいくら頭がいいか知らないが、金光上人が書いた『末法念仏独明抄』なんか名前は判っていたが、内容や巻数は誰も判らなかった。私は金光上人の研究を昭和十二年からやっていました。
それこそ五十年以上になりますが、日本全国探し回ったけど判らなかった。『末法念仏独明抄』一つとってみても、和田さんに書けるものではないですよ。

――内容も素晴らしいですからね。

素晴らしいですよ。私が一番最初に和田さんの金光上人関係資料を見たのは昭和三一年のことでしたが、だいたい和田さんそのものが、当時、金光上人のことを知らなかったですよ。

――御著書の『金光上人の研究』(注②)で和田家史料を紹介されたのもその頃ですね(脱稿は昭和三二年頃、発行は昭和三五年一月)。

そうそう。初めは和田さんは何も判らなかった。飯詰の大泉寺さん(開米智鎧氏)が和田家史料の役小角の調査中に「金光」を見て、はっと驚いたんですよ。それまでは和田さんも知らなかった。普通の浄土宗の僧侶も知らなかった時代ですから。私らも随分調べましたよ。お墓はあるのに事績が全く判らなかった。そんな時代でしたから、和田さんは金光上人が法然上人の直弟子だったなんて知らなかったし、ましてや『末法念仏独明抄』のことなんか知っているはずがない。学者でも書けるものではない。そういうものが七巻出てきたんです。

――和田さんの話しでは、昭和二二年夏に天井裏から文書が落ちてきて、その翌日に福士貞蔵さんらに見せたら、貴重な文書なので大事にしておくようにと言われたとのことです。その後、和田さんの近くの開米智鎧さんにも見せたということでした。開米さんは最初は役小角の史料を調査して、『飯詰村史』(昭和二四年編集完了、二六年発行)に掲載されていますね。

そうそう。それをやっていた時に偶然に史料中に金光上人のことが記されているのが見つかったんです。「六尺三寸四十貫、人の三倍力持ち、人の三倍賢くて、阿呆じゃなかろうかものもらい、朝から夜まで阿弥陀仏」という「阿呆歌」までがあったんです。日本中探しても誰も知らなかったことです。それで昭和十二年から金光上人のことを研究していた私が呼ばれたのです。開米さんとは親戚で仏教大学では先輩後輩の仲でしたから。「佐藤来い。こういうのが出て来たぞ」ということで行ったら、とにかくびっくりしましたね。洞窟が発見されたのが、昭和二四年七月でしたから、その後のことですね。

――佐藤さんも洞窟を見られたのですか。

そばまでは行きましたが、見ていません。

――開米さんは洞窟に入られたようですね。

そうかも知れない。洞窟の扉に書いてあった文字のことは教えてもらいました。とにかく、和田家は禅宗でしたが、亡くなった開米さんと和田さんは師弟の間柄でしたから。

――和田さんは忍海という法名をもらって、権律師の位だったと聞いています。偽作論者はこれもありそうもないことだと中傷していますが。

正式な師弟の関係を結んだかどうかは知りませんが、権律師は師弟の関係を結べばすぐに取れますからね。それでね、和田さんは飯詰の駅の通りに小さなお堂を建てましてね、浄土宗の衣着て、一番最下位(権律師)の衣着て、拝んでおったんです。衣は宗規で決っておりますから、「あれ、権律師の位を取ったんかな」と私はそばから見ておったんです。直接は聞いておりませんが、師弟の関係を結んで権律師の位を取ったと皆さんおっしゃっていました。

――それはいつ頃の話しでしょうか。

お寺建てたのは、洞窟から経管や仏像が出て、二~三年後のことですから昭和二十年代の後半だと思います。

――佐藤さんが見られた和田家文書はどのようなものでしょうか。

淨円寺関係のものや金光上人関係のものです。

――量はどのくらいあったのでしょうか。

あのね、長持ちというのでしょうかタンスのようなものに、この位の(両手を広げながら)ものに、束になったものや巻いたものが入っておりました。和田さんの話では、紙がくっついてしまっているので、一枚一枚離してからでないと見せられないということで、金光上人のものを探してくれと言っても、「これもそうだべ、これもそうだべ」とちょいちょい持って来てくれました。大泉寺さんは私よりもっと見ているはずです。

――和田さんの話しでは、当時、文書を写させてくれということで多くの人が来て、写していったそうです。(中略)それらがあちこちに出回っているようです。

そういうことはあるかも知れません。金光上人史料も同じ様なものがたくさんありましたから。

――和田さんと古文書の筆跡が似ていると偽作論者は言っていますが。

私の孫じいさん(曾祖父)が書いたものと私の筆跡はそっくりです。昔は親の字を子供がお手本にしてそのまま書くんですよ。似ててあたりまえなんです。

――親鸞と弟子の筆跡が似ているということもありますからね。

そうなんです。心魂込めて師が書いたものは、そのまま弟子が受け継ぐというのが、何よりも師弟の関係の結び付きだったんですから、昔は。似るのが当り前なんです。偽物だと言う人はもう少し内容をきちんと調べてほしいですね。文書に出て来る熟語やなんか和田さんに書けるものではありません。仮に誰かの模写であったとしても模写と偽作は違いますから。
和田さんが偽作したとか、総本山知恩院の大僧正まで騙されているとか、普通言うべきことではないですよ。常識が疑われます。

――当時の関係者、福士貞蔵氏、奥田順蔵氏や開米智鎧さんなどがお亡くなりになっておられますので、佐藤さんの御証言は大変貴重なものです。本日はどうもありがとうございました。〔質問者は古賀〕
【転載、おわり】

このインタビューは、1995年5月の連休に「古田史学の会・北海道」会員の皆さんと西津軽郡柏村淨円寺を訪問したときに行ったものです。一週間にわたる調査旅行でしたので多くの収穫に恵まれました。インタビューの前日には、昭和五十年頃に和田家文書のなかでも代表的な文書である『東日流外三郡誌』を『市浦村史』資料編として世に出されるに至った和田家内の状況について、和田喜八郎さんのご長女、和田章子(わだ・ふみこ)さんの証言が得られました。(つづく)

(注)
「インタビュー 和田家「金光上人史料」発見のいきさつ 佐藤堅瑞氏(西津軽郡柏村・淨円寺住職)に聞く」『古田史学会報』7号、1995年6月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou07.html
②佐藤堅瑞『金光上人の研究』昭和三五年(1960年)。

【写真】飯詰村史(昭和24年編集)と同誌に掲載されている和田家が山中から発見した仏像・仏具・舎利壺。

和田家が山中から発見した仏像・仏具・舎利壺

和田家が山中から発見した仏像・仏具・舎利壺

和田家が山中から発見した仏像

和田家が山中から発見した仏像

飯詰村史(昭和24年編集)

飯詰村史(昭和24年編集)