古田武彦一覧

第2492話 2021/06/15

「倭の五王」以前(4世紀)の畿内大和

―大和の銅鐸の終焉を示す纒向遺跡―

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)において、4世紀に大和で政権が成立し、その政権が5世紀には河内・大和の巨大前方後円墳群を造営した「倭の五王」へ続くとされ、最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳の造営時期について4世紀後半頃とされています。

〝最古の大型前方後円墳である箸墓古墳の年代というものは、実際の所、前期後半とされる4世紀後半頃より大きく遡ることは考えられないということになる。〟131頁

〝箸墓古墳と纒向遺跡の発展は4世紀
 このようにみると、箸墓古墳の造営が始まり、纒向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国の同時代の箸墓古墳や纒向遺跡が存在するなどということは、ありえることではないからである。〟158頁

 そして箸墓古墳がある纒向遺跡について、示唆に富む数々の考古学的事実を紹介されています。その一つが、大和における〝銅鐸圏勢力の滅亡〟についてです。

〝大和の銅鐸と銅鏡
 (前略)大和地域は、「銅鐸文化圏」とされる近畿地方の中で、銅鐸の出土数や生産においても、その中心地といえることはない。
 また大福・脇本遺跡では、鋳造関連遺物と出土した銅鐸片により、青銅製品の原料としての再利用が考えられているが、その時期はほぼ弥生時代の終末であり、庄内期には銅鐸の使用は終わっているとみられる。
 銅鐸は大和の弥生社会では重要な役割を果たしたと思うが、その出土地は、西方地域から導入されながらも次第に東方地域を志向しており、後半期には近江・東海系の銅鐸も出土しているのである。(中略)
 そして、大和の銅鐸使用の終焉を示すところが纒向遺跡であるということは、最も象徴的なことといえよう。銅鐸自体も、本来、銅鏡のように大陸と共通する遺物ではなく、その発達も九州以東の地域の中でのことであり、古墳につながるような遺物ではないことは明らかである。〟69~70頁

 〝纒向遺跡が最も拡大するのは、箸墓古墳の造営時期という、かなり新しい時期のことであることも、古墳群との関係性をよく示している。
 また、出土遺物についても、これまでの大和の弥生遺跡の傾向と、ほぼ同様であることが知られる。それは、金属器や大陸系遺物の少なさ、それに対する東方地域の土器の多さなど、いくつもの共通性に現れているのである。(中略)
 このように、弥生時代から続く大和の遺跡のもつ特質というものが、箸墓古墳の造営の直前までそのまま受け継がれていることは、大型前方後円墳出現の基盤ともなる遺跡の内容としては、やや意外ともいえる。〟74頁

 ここで関川さんが述べられていることは重要です。要約すれば次のことを意味しています。

(1)弥生時代の大和の遺跡は北部九州や大陸の影響がほとんど見られず、むしろ東海地方などの東方地域との交流の強さを示している。
(2)弥生時代の近畿は銅鐸圏に属しているが、大和はその中心地ではない。
(3)纒向遺跡は、箸墓古墳の造営が始まる直前(4世紀前半頃か)までは銅鐸圏としての様相を見せている。
(4)箸墓古墳が造営されるときには銅鐸勢力は大和から駆逐され、纒向遺跡は銅矛圏の領域として最も拡大した。

 以上の事実は、弥生時代終末期には大和から銅鐸勢力が駆逐され、箸墓古墳などの巨大前方後円墳を造営する勢力が侵攻・台頭したことを示しています。
 古田先生は『盗まれた神話』『ここに古代王朝ありき』(注②)において、神武東征説話は銅矛圏(天国勢力。後の九州王朝)から銅鐸圏への軍事侵攻であるとされました。そしてその数百年後、神武の子孫達は奈良盆地を制圧し、更に銅鐸圏の中枢領域である大阪方面(大阪湾岸・淀川流域)へと支配領域を拡張したことが『古事記』(神武記・崇神記・他)に記されていることを論証されました。この文献史学による古田説と、関川さんが紹介された考古学的出土事実は対応しているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』「第十章 神武東征は果たして架空か」朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
 古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第二章 銅鐸圏の滅亡」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2491話 2021/06/14

「倭の五王」大和説と南・北九州説

 『宋書』に記された「倭の五王」を九州王朝(倭国)の王とする古田説は文献史学に基づく最も妥当な説ですが、他方、通説では大和の王達(後の大和朝廷)のこととされ、それは考古学に基づいた説とされています。たとえば、「邪馬台国」北部九州説を支持されている関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)において、4世紀に大和で政権が成立し、その政権が5世紀には「倭の五王」へ続くと述べられています。その根拠は他地域を凌駕する河内・大和の巨大古墳群の存在です。この論理(解釈)が、大和朝廷一元史観成立のための重要な根拠となっています。
 古田説と通説の他に、「倭の五王」南九州説というものもあります。江戸時代の学者、鶴峯戊申は『襲国偽僣考』(文政三年、1820年の序文を持つ。注②)において次のように主張しています。

 「允恭天皇十年。襲の王。讃。使を宋につかわす。」

 鶴峯は襲国を南九州の薩摩・大隅地方に比定していますから、「倭の五王」南九州説に立っています。
 このように、管見では「倭の五王」について、古田先生の北部九州説(九州王朝説)と通説の大和説、そして鶴峯の南九州説があります。これら三説にはそれぞれに根拠があり、それは次のようなことです。

〔古田説:王都は北部九州〕
 『宋書』の史料批判により、北部九州にあった邪馬壹国の後継王朝であることは明らか。→文献史学の成果に基づく。

〔通説:王都は大和〕
 5世紀における河内・大和の巨大古墳群の存在や、列島最大規模の都市遺構も難波から出土しており、それらは倭国・倭王の墳墓・都市にふさわしい。→考古学的事実に基づく。

〔鶴峯説:王都は南九州〕
 『宋書』など中国正史に見える倭国は大和朝廷ではない。南九州には九州島内最大規模の西都原古墳群がある。→文献史学と考古学的事実に基づく。

 ちょっと大雑把な説明ですが、おおよそ以上のようになります。三説の中で、文献史学と考古学の双方に根拠を持つのが、江戸時代の鶴峯説であることは意外な感じがします。わたしたち古田学派にとっても、この三説の優劣を検証することが、一元史観の論者を説得するためにも学問的に必要な作業です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②鶴峯戊申『襲国偽僣考』「やまと叢誌 第壹号」(養徳會、明治二一年、1888年)所収。


第2487話 2021/06/11

「邪馬台国」大和説と畿内説の落差

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 「邪馬台国」大和説が成立しないとする根拠として、関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)か指摘された〝鉄器の証言〟〝伊都国の証言〟の他にも、いかにも実証的な考古学者らしい指摘が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)にはあります。たとえば同書のタイトルにも用いられている「大和説」という表現です。学界では、ほぼ同じ意味で「畿内説」とも呼ばれていますが、関川さんは両者をあえて区別されています。次のとおりです。

〝畿内説と大和説
 邪馬台国の位置問題においては、九州説に対して近畿地方にその所在地を求める説を、畿内説と呼ぶことが多い。これは、主に近畿圏外からの呼び方という印象がある。
 しかし、近畿中部にあたる畿内と一言でいっても、その範囲は大和・河内・山城など、広域にわたっている。しかも、これら古代近畿の域内においても、かなりの地域差がみられるので、それらの遺跡や古墳を一律に扱うことはできない。畿内という名称自体も、以後の時代の用語である。
 また、近畿の中でも大和周辺地域では、ここ以外に邪馬台国の有力な候補地は挙げられてはいない。小林行雄も、邪馬台国の所在地を明確に大和としているので、ここでは大和説としておきたい。〟17~18頁

 このように述べ、具体的な地域差として、次の例をあげられています。

〝金属製品の少なさ
 大和地域の弥生遺跡から出土した鉄製品は、今のところ唐古・鍵遺跡では4点、そのほか六条山や三井岡原遺跡のような丘陵性遺跡出土の鉄鏃等、大型集落の平等坊・岩室遺跡の鉄斧をはじめ、総数10点余りにすぎない。隣接する大阪府下では、総数はすでに120点を超えており、それと比較しても格段に少ないというのが実態である。
 さらに、鉄器の製作にかかわる遺構や遺物は、まだ知られていない。大和では、弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示すものとなる。
 また、青銅製品については、調査例の多い唐古・鍵遺跡で32点が報告されている。(中略)この中で最も多いのは、24点の銅鏃であり、また銅鏡がほとんどみられないことも大和の弥生遺跡総体にみる傾向である。(中略)近畿の中で、その遺跡数をみると、河内を中心とする大阪府が10カ所を越えて最多となる。
 大和地域は、近畿圏の中で金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い。〟35~36頁

 このような関川さんの、いわば「内部告発」のような指摘を読んで、わたしは驚愕しました。〝弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示〟し(注②)、〝金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い〟大和地域に、倭国女王(俾弥呼)の都、「邪馬台国」(原文は邪馬壹国)が存在したとする「邪馬台国」大和説なるものが、なぜ学問的仮説といえるのか、なぜ考古学界では多数意見となるのか、わたしには到底理解しがたいのです。
 「王様は裸だ」。これが、関川さんの著書を読み終えての、わたしの第一の感想です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田先生も『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社、昭和五四年〔1979〕)で、このことを指摘されている。


第2486話 2021/06/11

「邪馬台国」〝非〟大和説、伊都国の証言

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)を読んで、改めて気づかされた重要な論点がありました。その中でも、なるほど面白い視点と思ったのが「邪馬台国」と伊都国との位置関係についての次の指摘でした。

〝邪馬台国と伊都国
 『魏志』によれば、邪馬台国の外交は伊都国を窓口としている。ここには「一大率」が置かれ、また帯方郡使が留まり、さらに魏王朝からの重要な文書・賜物の点検が行われ、その後に邪馬台国への伝送を行うところであったという。この北部九州の伊都国から近畿大和までは、帯方郡から伊都国までの距離に及ぶほどの遠距離である。
 魏王朝との通交において直接かかわるような、きわめて重要な港津がある伊都国は、地理的に邪馬台国とは、かなり遠隔の地にあるとは考え難い。伊都国で厳重な点検を受けた魏の皇帝からの重要文書や多種多量の下賜品を、さらにまた近畿大和のような遠方にまで運ぶようなことは想定できないからである。
 これら国の外交にかかわる重要な品々の移動を考えれば、伊都国は邪馬台国と絶えず往還できるような、比較的遠くない位置にあったとみるべきであろう。〟177頁

〝仮に邪馬台国が大和であるならば、後の事例からみてその外港の位置は、おそらく河内潟や大阪湾岸地域であろうから、伊都国が外港である邪馬台国は大和ではありえない、ということにもなる。〟178頁

 倭国と魏王朝との外交の窓口(外港)とされる伊都国は、倭国の都である邪馬台国(原文は邪馬壹国)と遠くない位置になければならず、したがって、「邪馬台国」大和説は成立しないという論理は単純明快で、反論が困難です。このテーマは、『三国志』倭人伝に関する文献史学の論理的問題ですので、考古学者の関川さんからこうした指摘がなされていることに驚きました。このことが、同書を「わたしがこれまで読んだ考古学者による一般読者向けの本としては最も論理的で実証的な一冊」(注②)と評した理由の一つでした。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2480話(2021/06/06)〝邪馬台国畿内説の終焉を告げる〟


第2485話 2021/06/10

「邪馬台国」〝非〟大和説、鉄器の証言

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 古田先生は『ここに古代王朝ありき』(注①)において、考古学の視点から、邪馬壹国博多湾岸説の根拠として、漢式鏡・鉄器・絹などの出土量が大和に比べて北部九州が圧倒的に多いことを指摘されました。「邪馬台国」〝非〟大和説に立つ関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)も『考古学から見た邪馬台国大和説』(注②)で同様の見解を述べられています。

〝邪馬台国大和自生説の困難さ
 さらに、邪馬台国が大和において自生的に出現したというのであれば、すでに弥生時代の早い段階から近畿大和が北部九州より、対外交流や文化内容においても卓越性を持っていなければならないことになる。
 しかし、3世紀以前、時期を遡るほど北部九州の弥生文化は、中国王朝との交流実態を示す有力首長墓の副葬遺物を始めとして、近畿大和と比較にならないほどの内容をもっていることは明らかである。首長墓の地域比較においても、大和地域の墳墓が、北部九州に次ぐ瀬戸内・山陰・北陸地方の大型墳丘墓にも達していないという、その事実を認識する必要がある。古墳の出現年代を遡らせ、それを邪馬台国と結びつけるということは、むしろ近畿大和における邪馬台国の自生的な成立を、さらに困難にさせることになるのである。
 このことから、有力首長墓の存在が確認できず、さらに対外関係と無縁ともいえるこの時期の大和地域において、北部九州の諸国を統属し、積極的に中国王朝と外交を行った邪馬台国のような国が自生するということは、考え難いことといえよう〟147~148頁

 鉄器の出土について、次のように述べられています。

〝纒向遺跡の鉄器生産が示すもの
 先にふれたように、庄内式の終わり頃、纒向遺跡で出土した鉄器製作にかかわる鞴(ふいご)の羽口には、福岡県・博多遺跡群と同じ形のものがある。そして、ここでは半島南部の陶質土器も伴っている。これをみても、この時期の鉄器生産技術というものが、半島南部より北部九州を経て及んだものであることは疑いない。
 (中略)この博多遺跡群について重要なことは、遺跡の所在するところが、『魏志』にいう「奴国」の領域にあたることである。(中略)博多遺跡群における鉄器生産の規模は、この時期では列島内最大級という圧倒的なものである。北部九州から発する鉄器生産技術の広がりは、纒向遺跡のみならず、関東地方の遺跡まで及ぶという、はるかに広域な地域にわたっている。〟148~149頁)

 そして次のように結論されています。

〝纒向遺跡の鉄器生産が、箸墓古墳の造営が始まるような時期に、ようやく北部九州からの技術導入で始まっているという事実は、やはり鉄の問題においても、邪馬台国大和説とは相いれるものではないことを示しているといえよう。〟150頁

 長く大和の遺跡を調査されてきた著者の発言だけに、誰も無視することはできないでしょう。北部九州における鉄器生産規模が圧倒的であることは、考古学者であれば誰もが知っている事実です。以前、大阪の考古学者と意見交換したときも、その方は「邪馬台国」畿内説を支持されていましたが、鉄器に関しては北部九州説が有利であることを正直に認めておられました。(つづく)

(注)
①古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。
②関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。


第2473話 2021/05/28

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(3)

 ―「坂田測定」水城堤防出土サンプルの由来

 坂田武彦さんによる太宰府遺構出土物の放射性炭素年代測定値について、最も説明が困難なものがKURI 0102の「大宰府町水城堤防の中の杭」でした。水城本体からの出土ですから、造営年代を示すはずですが、「坂田測定」では「1950年より2250年前±80年」とありますから、その杭にはBC300年頃の年輪が含まれていることになり、従来の編年(七世紀後半頃)や他の科学的年代測定値(注①)と大きくかけ離れているからです。発掘者は福岡県教委とされていますから、その出土を記した調査報告書を探索しました。
 九州歴史資料館から出された『水城跡 上巻・下巻』(注②)には、福岡県教育委員会による昭和44年度立会調査に始まって、1次調査(昭和46年)から45次調査(平成20年)までの概要が示されており、「坂田測定」のKURI 0102「大宰府町水城堤防の中の杭」の出土がどのときのものかを調べました。「坂田測定」が記された坂田さんの手紙には昭和52年の「2月17日」と思われる日付がありますので、それ以前の調査で杭が出土した事例を探したところ、次の三例が見つかりました。

 3次調査 昭和47年(1972) 東土塁西端部・東外濠部
 4次調査 昭和48年(1973) 御笠川欠堤部
 6次調査 昭和50年(1975) 東内濠推定部

 概要などが次のように記されています。

〔3次調査〕
《概要》九州縦貫自動車道を建設するに先だって行われた調査で、東土塁西端部及びその北側の外濠推定部分の調査である。土塁上からは掘立柱建物2棟、溝2条が検出され、下成土塁からは積土と杭列が確認された。また外濠部分からは、外濠と目される砂層堆積を確認した。(上巻27頁)
《杭列》
 SX025(3次)(Fig.17)
 東土塁西端の下成土塁積土内で検出した。積土中位には、黒灰色粘質土下位で淡青灰色粗砂に包含される敷粗朶があり、さらにその下位の積土内で木杭列とシガラミを確認した。ちょうど砂層の地山面上に積んだ、黒灰色や青灰色粘質土の間に木杭とシガラミを埋設している。木杭の大きさは27~63cm程度で、30cm間隔に4本打っている。また、それに絡むシガラミは土塁軸線に並行している。杭先は最下層の暗青灰色粘質土で止まり、上層も粘質土に覆われていることから、積土中の土砂の流出を防ぐためと考えられる。(上巻36頁、38頁)
《東外濠部》
 SX030(3次)(Fig.75)
 3次調査では、下成土塁から外濠部にかけて2箇所のトレンチを設定した。(中略)Aトレンチでは、基底部裾から約60m付近で砂層が急に立ち上がり、シガラミ状の遺構を検出した。木杭と横に打たれた板状の木材を確認したが、周囲に粘度が充填されていた。このシガラミを古代水城の外濠遺構と即断することはできないが、60mの距離については、5次調査と一致する。(上巻92頁、94頁)

〔4次調査〕
《概要》九州自動車道の橋脚建設中に、石敷遺構が発見されたために急遽行われた調査である。旧御笠川の河床にあたる部分に人頭大の石敷遺構が見られ、奈良時代を中心とした中世まで含む遺物が見つかった。この石敷遺構は、洗堰等の古代水城に関連するものと考えられる。(上巻27頁)
《杭》
 SX013(4次) (Fig.105)
 SX014の石敷の間に打ち込まれた杭である。40~50cm間隔で打たれており、礫が置かれた砂層下の粘質土まで達している。杭には、角杭と丸杭の2つがある。礫同士の押さえのために打ち込まれたと考えられる。(上巻177頁)

〔6次調査〕
《概要》東土塁西側の下成土塁の南側の調査で、下成土塁積土層を検出したほか、土塁の南側において、幅10mの溝状の砂層堆積を確認した。この溝状遺構は古代~近世までの遺物を含んでいるが、木樋取水部との関連が想定された。また、シガラミ遺構や杭列なども検出された。(上巻28頁)
《東内濠部》
 SD055(6次)(Fig.90・91、PL.57)
 6次調査東土塁の西端基底部下で検出した。土塁にほぼ並行して、東西に走る溝状の遺構である。(中略)この他、基底部SA001とSD055の間に自然流路があるが、この流路内では、南北方向に走る杭列SA056とシガラミSX057を検出している。(上巻105頁)
《杭列》
 SX056(6次)(Fig.90、PL.8)
 6次調査SX056内で検出した。杭列は2条認められ、流路に対してやや南へ傾いている。砂層に打ち込まれているが、時期比定は困難である。(上巻114頁)

 以上のように、3、4、6次の調査で杭の出土が報告されています。「坂田測定」の説明では、「水城堤防の中の杭」と表現されていますから、土塁端部の溝や地山付近に打ち込まれた杭よりも、水城堤体中から出土したものの方がより妥当と思われます。そのように考えると、「東土塁西端の下成土塁積土内で検出した」とされる、3次調査出土杭列SX025から採取されたサンプル(杭)の可能性が最も高いのではないでしょうか。3次調査は昭和47年(1972)に実施されていますから、時期的にも矛盾はありません。(つづく)

(注)
①『水城跡 下巻』(九州歴史資料館、平成二一年〔2009〕)に記載された「水城跡出土木片・炭化材の放射性炭素年代測定」(327~332頁)によれば、その殆どが七世紀以後であり、最も古い値のもの(35次調査、敷粗朶層坪堀2第2層から検出されたヒサカキ)でも中央値240年である。このサンプルについては「洛中洛外日記」1355話(2017/03/17)〝敷粗朶のサンプリング条件と信頼性〟で紹介した。
②『水城跡 上巻・下巻』九州歴史資料館、平成二一年(2009)。


第2472話 2021/05/27

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(2)

 ―「坂田測定」サンプルの試料性格―

 古田先生が大宰府政庁「倭の五王」王都説の根拠とされたであろう坂田武彦さんによる太宰府遺構出土物の放射性炭素年代測定値について、同じサンプルによる再測定などは、わたしにはできませんので、基本的に同測定値が正しく測定されたとする前提で考察することにします。また、坂田さんの時代と比べて、現在では測定精度や補正精度が格段に向上しており、その結果、一般的傾向として当時(昭和五十年代)の測定値よりも新しい年代を示すことが知られています。しかし、今回の考察ではそのことも一端保留して、坂田測定値のままで考察を進めます。
 最初に、「坂田測定」サンプル(注①)の試料性格を確認しておきます。それは次のようなものです。

(1)太宰府関連施設、あるいは近隣遺構から出土したものですが、大宰府政庁遺構の創建年代をそのまま表すものではない。

(2)KURI 0112の「大宰府町水城堤防の中の杭」以外の試料は「炭」「木炭」であり、政庁など建築物の出土木材ではない。

(3)KURI 0005、KURI 0102に至っては製鉄関連遺跡であり、大宰府政庁の創建年代とは関係づけられない。

 以上のように、大宰府政庁創建年代判定のエビデンスとして採用できないものが大半です。しかし、KURI 0030については、「都府楼の基礎石下」から出土した「炭」であり、この試料と測定値は注目する必要があります。「都府楼の基礎石下」とありますから、おそらく大宰府政庁の礎石の下から出土したものと思われます。なお、なぜかこれだけは発掘者が記されていませんから、学問的にはやや問題(由来不明)がありそうです。
 また、礎石の下からと言っても、大宰府政庁はⅡ期とⅢ期が礎石を持った建物ですから、どちらの時期の礎石かが示されていないので、やはり試料性格が明瞭ではありません。おそらく、地表に露出しているⅢ期の礎石の下からの可能性が高いと考えられます。というのも、Ⅱ期の礎石はⅢ期に転用されるケースが多いようで、Ⅲ期の整地層中に埋まっていたⅡ期の礎石はそれほど多くはないからです。更に、天慶の乱(注②)で焼失したⅡ期の焼土層の上にⅢ期が造営されたため、礎石の下の「炭」ということであれば、Ⅲ期の礎石下からの出土の可能性をうかがわせます。そうであれば、十世紀の天慶の乱の焼土層の「炭」ということになるので、大宰府政庁Ⅰ期やⅡ期の年代判定には適さない試料と言えます。
 しかも、「坂田測定」によれば、「1950年より2840年前±60年」という測定値ですから、それは紀元前900年頃の年輪を持つ木材ということになります。これは天慶の乱とは約1,800年も離れた年代であり、政庁遺構の年代判定の参考にはとてもなりそうもありません。「坂田測定」を信用するのであれば、天慶の乱のときに焼失した木材に樹齢二千年ほどのものがあり、その中心部分の「炭」を偶然にもサンプリングして測定したという他ないように思います。(つづく)

(注)
①次の「坂田測定値」が紹介されている。
〔KURI 0005〕筑紫郡大宰府町池田鬼面 古代製鉄登釜の木炭
 1950年より1570年前±30年
 発掘者 福岡県教育委員会
〔KURI 0030〕大宰府町都府楼 基礎石下の炭
 1950年より2840年前±60年
〔KURI 0102〕大宰府町都府楼 ちいさこべ製鉄製銅所跡
 出土物、銅滓、鉄滓、土器、木炭。
 1950年より2140年前±50年
 発掘者 福岡県教委
〔KURI 0112〕大宰府町水城堤防の中の杭
 1950年より2250年前±80年
 発掘者 福岡県教委
②天慶二~四年(939~941)に勃発した藤原純友による乱。このとき大宰府政庁Ⅱ期が焼失した。発掘調査により、現在、地表に現れている礎石が焼失後に再建されたⅢ期の政庁のものであることが判明した。


第2471話 2021/05/26

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(1)

 古田先生が、なぜ考古学的エビデンス(五世紀の王宮遺構の出土)がない、「倭の五王」王都を大宰府政庁とする仮説に至ったのかについて気になっていましたので、著作を精査したところ、『古田武彦の古代史百問百答』(注①)の次の記事が目にとまりました。

〝もう一つ紫宸殿というのでなくて、権力者の建物ということになると、内倉さんが書かれたように弥生時代から、建物の跡が連綿と続いています。わたしは『邪馬壹国の論理』の最後に書きましたが、九州大学が古いと言って出しているものを、今の考古学会は知らない振りをしているわけです。そういう問題をクリアしなければならない。〟『古田武彦の古代史百問百答』「32 九州の紫宸殿について」ミネルヴァ書房版、212頁

 これは、「紫宸殿の問題で、太宰府の政庁跡の考古学年代にわたしは疑問を持っているのですが、果たして一期工事が白村江の後なのでしょうか。それだったら多利思北孤の宮殿は一体どこにあったのですか。後宮に数百人の女性もいる大変な宮殿だったと思うのですが、実際に考古学年代はどうなのでしょうか。」という質問に対する回答ですから、大宰府政庁Ⅰ期遺構の年代について通説への疑義を示され、その根拠として『邪馬壹国の論理』(注②)の最後に書かれたとされる「九州大学が古いと言って出しているもの」を根拠とされています。
 そこで、「九州大学が古いと言って出しているもの」を探したのですが、『邪馬壹国の論理』朝日新聞社版にそのような記事は見当たりません。しかし、わたしには九州大学での太宰府遺構の放射性炭素年代測定値を古田先生が『ここに古代王朝ありき』(注③)で紹介されていた記憶がありましたので、同書を調査したところ、同大学工学部冶金学科の坂田武彦さん(故人)からの手紙に書かれていた太宰府出土物の放射性炭素年代測定値(4件)が紹介されていました。それは昭和52年2月17日の手紙のようです。
 坂田さんの手紙に記されていた測定値は次のような内容です。

 KURI(九州大学ラジオアイソトープの略号)

 KURI 0005 筑紫郡大(ママ)宰府町池田鬼面 古代製鉄登釜(ママ)の木炭
 1950年より1570年前 ±30年
 発掘者 福岡県教育委員会

 KURI 0030 大宰府町都府楼 基礎石下の炭
 1950年より2840年前 ±60年

 KURI 0102 大宰府町都府楼 ちいさこべ製鉄製銅所跡
 出土物、銅滓、鉄滓、土器、木炭。
 1950年より2140年前 ±50年
 発掘者 福岡県教委

 KURI 0102 大宰府町水城堤防の中の杭
 1950年より2250年前 ±80年
 発掘者 福岡県教委

 この坂田さんの測定値に対して、古田先生は次のように記されています。

〝これは驚くべき内容だ。現代の考古学者たちが扱いかねているのも、無理はない。もちろん、わたしにも、この測定自体が真か否か、それを判定する力はない。この点、一般の考古学者にとっても、同様であろう。
 (中略)太宰府の遺構及び近辺の(木炭の)測定値は、いずれもそれが「倭の五王」、さらに「邪馬一国」とそれ以前の時代に遡ることを証言していたのである。(中略)
 それゆえわたしは、将来の若い自然科学者が、この坂田測定を再検証されることを期待し、敢えてここに引用させていただいたのである。〟『ここに古代王朝ありき』「第三章 九州王朝の都城」朝日新聞社版、233~234頁

 わたしも、同書を読んで、この測定値に驚愕したことを憶えています。古田先生は驚きを示しながらも、「将来の若い自然科学者が、この坂田測定を再検証されることを期待し、敢えてここに引用させていただいた」とあるように、初期の著作に特に多く見られる、慎重な学問的配慮の姿勢がここでも発揮されていました。
 わたしが同書を読んだのは三十代初めの頃でした。もう若くはありませんが、恩師の期待に応えるべく、「坂田測定」について考察・検証することにします。(つづく)

(注)
①古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(2015)。東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊された。
②古田武彦『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2470話 2021/05/24

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(11)

 ―古田説の変遷とその論理構造―

 「倭の五王」時代の倭国王都や領域についての古田説は研究の進展に伴って変化してきたことを説明してきました。そこで、本シリーズのまとめとして、古田説成立の論理構造と変遷した理由について解説します。これは学問の方法論を知る上でも重要な検証でもあります。まずは、「倭の五王」時代の倭国王都についての古田説の変遷を著書でたどります。

(1)『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。
〝五世紀末には、太宰府南方の基肄城あたりを中心としていた時期があったように思われる。なぜなら、このころ成立したと思われる『百済記』(三六七~四七六年の間、直接引用)が「貴国」(「貴倭女王」も、『百済記』の中に引用されていたと思われる晋の起居注に出現する)という表現を用いているからである。(中略)
 以上が文献上の微証から知りえたところであるけれども、「博多湾岸――基肄城――筑後」(ただし、「博多湾岸」は基肄城をもふくむ)という単線的な移行を想定すべきではない。なぜなら、のちの近畿天皇家の場合をモデルとして見ればわかるように、奈良県内の各地に都を転々とし、時には滋賀県(大津)、大阪府(難波)と、広域に都を遷しているからである。
 その点、九州王朝も、筑紫(筑前・筑後)を中心として、時には九州全域が遷都の対象として可能性をもっていた、といわねばならぬ。
 今、文献外の徴証を見よう。
 筑後の石人山古墳、人形原の古墳群、さらには筑後を中心としておびただしい壁画古墳(いわゆる「装飾古墳」)も、当然、この九州王朝との関連から、再び注目されねばならない。(中略)
 しかし、それらについては、わたしがこの本で採用した、外国史書による「文献の史料批判」という方法ではなく、他の方法による追跡の領域に属するであろう。〟同書「第五章 九州王朝の領域と消滅」「遷都論」、557~558頁

(2)『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店、昭和六十年(1985)。
〝以上の分析によってみれば、この倭国の都、倭王の居するところ、それは九州北岸、すなわち博多湾岸以外にありえないのではあるまいか。
 ここで問題を整理してみよう。
 『宋書』夷蛮伝の「倭国」と「倭の五王」、それは五世紀の時間帯(四二一~四七八)だ。これに対する、この朴堤上説話の「倭国」と「倭王」、これも四世紀から五世紀にかけての存在だ。(中略)
 すなわち、讃―珍―済―興―武という、倭の五王、それは「筑紫の王者」、「博多湾岸の王者」であった。――これが帰結だ。〟同書「第五章 最新の諸問題について」、308頁

(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、平成元年(1989)。
〝これに対し、もし、遠く時間帯を「五世紀後半~七世紀」の間にとってみれば、いわゆる装飾古墳が、まさに、「筑後川以南」に密集し、集中している姿を見出すであろう。弥生と逆の分布だ。これはなぜか。この時期、倭国は北方の高句麗・新羅と対抗し、緊迫のさ中にあった。直ちに北方より「侵入」されやすい北岸部を避け、「筑後川という、大天濠の南側」に“神聖なる墳墓の地”を「集中」させることになったのではあるまいか、吉野ヶ里にしめされた「墳墓を『濠』で守る」という、同一の思想だ。弥生と古墳と、両時代とも、同じき「筑後川の一線」を、天然の境界線として厚く利用していたのである。南と北、変わったのは「主敵方向」のみだ。
 この点、弥生の筑紫の権力(邪馬壱国)の後継者を、同じき筑紫の権力(倭の五王・多利思北弧)と見なす、わたしの立場(九州王朝説)と、奇しくも、まさに相対応しているようである。」〟同書115~116頁

(4)『古田武彦の古代史百問百答』東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、ミネルヴァ書房、平成二六年(2014)。
〝「博多湾岸が中心であったのは弥生時代。高句麗からの圧力を感じるようになってからは後退していきます。久留米中心に後退します。玉垂命がおいでになったのが三一六年とか。高良山で伝えているわけです。筑後川流域に中心が移るわけです。移ったからと言って、太宰府を廃止して移ったのではなく、表は太宰府、実際は久留米付近となるわけです。二重構造になっているわけです。」〟同書「Ⅶ 白村江の戦いと九州王朝の滅亡」「32 九州の紫宸殿について」、212頁

 古田先生の著作を精査したところ、上記の著書で「倭の五王」の王都について論じられていました。見落としがあるかもしれませんが、古田先生の王都論・遷都論の変遷やそれを支えている論理構造が読み取れます。
 中でも最も論理的にその大枠を押さえながら、用心深く詳述されているのが初期三部作の一つ、(1)『失われた九州王朝』です。ある意味では、終生を貫く基本的な学問の方法が示されたものであり、感慨深いものがあります。特に、「筑紫(筑前・筑後)を中心として、時には九州全域が遷都の対象」という指摘は今日でも有効であり、示唆に富んでいます。この視点から、宮崎県の西都原古墳群も検証すべきでしょう。
 そして、学問の方法として、「文献史学の徴証」から「文献外の徴証」へ、すなわち「わたしがこの本で採用した、外国史書による『文献の史料批判』という方法ではなく、他の方法による追跡の領域に属する」という教導こそ、本シリーズでわたしが目指したものに他なりません。
 次いで(2)『古代の霧の中から』昭和六十年(1985)では、文献史学に基づき、「倭の五王」の王都を博多湾岸とされました。もっとも、同書の主要論点は「倭の五王」を大和朝廷とする通説への批判ですから、こうした結論を強調されたものと思われます。
 その点、「文献外の徴証」「他の方法による追跡の領域」に踏み込まれたのが、(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」平成元年(1989)です。考古学という学問分野の結論として、「直ちに北方より『侵入』されやすい北岸部を避け、『筑後川という、大天濠の南側』に“神聖なる墳墓の地”を『集中』させることになったのではあるまいか」として、筑後遷都を示唆されたものです。
 この後、古田先生は「倭の五王」王都を大宰府政庁(Ⅰ期)とする見解に傾かれ、わたしとの〝論争的対話〟に至ります。そして最晩年での認識を示されたのが(4)『古田武彦の古代史百問百答』平成二六年(2014)でした。それは従来の「文献史学の徴証」と「文献外の徴証」(考古学)とを折衷されたとも思われる表現「表は太宰府、実際は久留米付近」で「倭の五王」王都を示されました。
 この結論は、本シリーズでわたしが推定した〝筑後川の両岸付近〟(注)と重なるものです。本年11月に開催予定の八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー、大学セミナーハウス)では「倭の五王」王都の所在がテーマの一つとされるようですので、今回、紹介した古田先生の著書・所論の成果や到達点を見据えた論議が望まれるところです。(おわり)

(注)筑後川北岸の夜須郡・朝倉郡と南岸の浮羽郡・三井郡・三潴郡。


第2469話 2021/05/22

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(10)

 ―「毛人五十五国」と仙台市の前方後円墳―

 神武東征やその後の銅鐸圏への侵攻により、近畿は「衆夷六十六国」に含まれたとわたしは捉えていますが、東方への侵攻は弥生時代に限らず古墳時代でも断続的に続いたのではないでしょうか。たとえば『日本書紀』景行天皇55年条に見える「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」の記事もその一端のように思われます。ただ、この記事からは時代を特定しにくいため、「倭の五王」以前の事件なのかどうか慎重な検討が求められます(注①)。
 なお、彦狭嶋王は関東の大王であり、その伝承が『日本書紀』に転用されたとする仮説(注②)もあり、まだ研究途上のテーマです。従って、文献史学の分野からは、「衆夷六十六国」の領域(東限)がどの程度の範囲なのかは現時点では判断できません。その結果、「衆夷六十六国」の東にある「毛人五十五国」の領域もまた推定できていません。他方、考古学の分野では前方後円墳の分布がヒントになるかもしれません。
 「毛人五十五国」の領域を検討するうえで、わたしが注目してきたのが仙台市にある遠見塚古墳(墳丘長110m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)と隣接する名取市にある東北地方最大の雷神山古墳(墳丘長168m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)です。両古墳の存在から、仙台平野や名取平野が古墳時代の東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえます。ちなみに、雷神山古墳は九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半の前方後円墳)よりも墳丘長が大きいのです。
 また、仙台市には東北地方最古の須恵器窯跡とされる大蓮寺窯跡(5世紀中頃)もあり、当地は「蝦夷国」の中心領域だったのではないかと考えています(注③)。この理解が正しければ、「毛人五十五国」とは東北地方の「蝦夷国」を含む領域だった可能性があります。倭王武の「上表文」には「東征毛人五十五国」とありますから、倭国の軍事勢力が「毛人」領域に進駐(東征)しているはずですから、その痕跡としての前方後円墳や須恵器窯跡の証言力は小さくありません。また、「蝦夷国」の領域であれば「毛人」と称するにふさわしいと思います。しかしながら、「毛人五十五国」の正確な領域(全体像)は未だ不詳とせざるを得ません。(つづく)

(注)
①次の拙論で検討を続けたが、未だ結論は出ていない。
 古賀達也「洛中洛外日記」1709話(2018/07/19)〝「東山道十五国」の成立時期〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2002話(2019/09/28)〝九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(6)〟
②藤井政昭「関東の日本武命」『倭国古伝』古田史学の会編、明石書店、2019年。
③古賀達也「洛中洛外日記」1494話(2017/09/03)〝須恵器窯跡群の多元史観(5)〟
 古賀達也「須恵器窯跡群の多元史観 ―大和朝廷一元史観への挑戦―」『古田史学会報』144号、2018年2月。


第2468話 2021/05/21

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(9)

 ―倭王武「上表文」と大阪上町台地倉庫群―

 倭王武「上表文」の「東征毛人五十五国」の範囲について、古田先生は『古代通史』(注①)で「近畿の銅鐸圏中心の部分」と修正されました。その理由として、神武東征により倭国の支配地域が拡大したことをあげられました。『宋書』倭国伝の「上表文」にあるように、先祖代々から支配地を拡大したと倭王武は主張しています(注②)。「倭の五王」時代の旧銅鐸圏は既に倭国の支配領域になっていますから、「毛人五十五国」を銅鐸圏の中心領域としたことは、『失われた九州王朝』(注③)での「中国地方・四国地方(各、西半部)」とする理解よりも妥当と思います。こうした古田先生の修正方針には賛成なのですが、今のわたしには不十分な修正のように見えます。
 たとえば『日本書紀』の神武東征説話によれば神武兄弟は安芸や吉備勢力の支援を受けた後、大阪湾に突入していますから、その当時(弥生時代)の安芸・吉備は倭国の勢力圏内と見られます。そうであれば、その地域は古墳時代には「毛人五十五国」ではなく、「衆夷六十六国」に含まれていたと考えられます。更に神武東征後、銅鐸圏中枢の近畿が倭国の勢力範囲に入ったわけですから、「倭の五王」時代の五世紀(古墳時代)には近畿も含めて「衆夷六十六国」と理解した方がよいと思います。
 その考古学的根拠の一つとして、古墳時代における列島内最大規模の大阪上町台地の都市遺構の存在があります。この都市遺構について次のように報告されています。

 「難波宮下層遺跡は難波宮造営以前の遺跡の総称であり、5世紀と6世紀から7世紀前葉に分かれる。大阪歴史博物館の南に位置する法円坂倉庫群は5世紀、古墳時代中期の大型倉庫群である。ここでは床面積が約90平米の当時最大規模の総柱の倉庫が、16棟(総床面積1,450㎡)見つかっている。」杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」(注④)
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。」
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(注⑤)

 古墳時代における最大規模の都市遺構である大阪上町台地倉庫群は「当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関」とする考察は重要です。おそらく同遺跡は古墳時代における九州王朝の「最重要の出先機関」ではないでしょうか。この理解が正しければ、「倭の五王」時代の近畿は「衆夷六十六国」に含まれていたとする、先の仮説を支持する考古学的出土事実になります。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』原書房、平成六年(一九九四)。ミネルヴァ書房より復刻。
②倭王武「上表文」には、「自昔祖禰、躬擐甲冑、跋涉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國。」とあり、歴代の倭王たちが軍事侵攻により支配領域を拡大させたと主張している。
③古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四十八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
④杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』
⑤南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年3月。


第2467話 2021/05/20

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(8)

 倭王武「上表文」に見える倭国の領域「毛人」

 『宋書』の倭王武「上表文」に記された「東征毛人五十五国」の範囲について、古田先生は『失われた九州王朝』(注①)では「中国地方・四国地方(各、西半部)」とされていましたが、『古代通史』(注②)では次のように修正されました。

〝倭王武がいっている「東のかた毛人」というのは、近畿銅鐸圏の支配のことだ、「毛人」というのは銅鐸圏の人々のことだ、というふうに私は理解すべきだったんです。(中略)
 要するに、「神武東行」にもとづく銅鐸圏の支配を「毛人、五十五国」といっている。この場合なお一言申しますと、たとえば吉備であるとか伊予であるとか、そういう所は入らなくていいわけです。そこは占領支配したわけじゃないですから。近畿の銅鐸圏中心の部分を「毛人」と呼び「五十五国」と呼んでいる。これも九州を「六十六国」というバランスでみれば、近畿でどれくらいの範囲を呼んでいるのかのだいたいの見当はつく、という話でございます。〟『古代通史』原書房版、234~235頁

 『失われた九州王朝』では、衆夷(九州島)の「六十六国」と比較して毛人の「五十五国」の範囲を「中国地方・四国地方(各、西半部)」とされたのですが、『古代通史』では神武東征により支配した銅鐸圏を「毛人五十五国」の範囲と修正されたものです。わたしはこの修正の視点(神武等による勢力拡大を重視)には賛成ですが、その領域を国数によって比較判断(注③)することと、衆夷(九州島)と毛人(銅鐸圏)の間に位置する吉備や伊予がどちらに属するのかについてが不鮮明であることには疑問を持っています。なお、『古代通史』において古田説が修正されていたことを日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)よりご教示いただきました。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四十八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』原書房、平成六年(一九九四)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『古田武彦が語る多元史観』(ミネルヴァ書房、東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、2014年)によれば、国数比較による領域推定はできないと次のように回答されている。
〝そうすると倭の五王のところに書いてある国名も九州、筑紫を中心とした数です。しかしそれが、どこどこであるかということは、あの数からして割り振ることはできません。割り振ってもそれは小説のようなもので、歴史学とは関係ないわけです。「割り振ることができない」というのが歴史学です。ただ原点が筑紫であることは動かない、という立場です。〟345頁、第八回八王子セミナー(2011年)での回答。