古田武彦一覧

第2375話 2021/02/10

多賀城碑「東海東山節度使」考(2)

―「常陸國界」「下野國界」記載の理由―

 多賀城碑の「東海東山節度使」を〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる〟とする茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)のご指摘により、同碑文に対する理解が深まりました。その一つが、碑文前半にある多賀城からの各里程距離として、「常陸國界四百十二里」「下野國界二百七十四里」が記載された理由です。碑文には次の里程記事があります。

西
 多賀城
  去京一千五百里
  去蝦夷國界一百廿里
  去常陸國界四百十二里
  去下野國界二百七十四里
  去靺鞨國界三千里

 この内、「常陸國界」は東海道の終着点、「下野國界」は東山道の終着点です。わたしの理解では両官道は蝦夷国へ至る九州王朝官道の終着点であり、二つの軍事行政管轄地域の総称です。それが八世紀の大和朝廷にも引き継がれ、その二つの官道の〝総司令官〟として藤原惠美朝臣朝獦(以下、「藤原朝獦」とする)が「東海東山節度使」として多賀城に軍事侵攻したことを誇ったのが同碑建碑の真の目的だったのではないでしょうか。
 すなわち、陸軍を主体とする東山道軍と水陸両軍を主体とする東海道軍を指揮した藤原朝獦は、両終着点からそれぞれ「四百十二里」「二百七十四里」の地点(多賀城)まで侵攻し、神龜元年(724年)に大野朝臣東人が建造した多賀城を修築したと誇り、その地は「蝦夷國界」から「一百廿里」〝東〟へ入った所でもあると記したわけです(注①)。おそらく、「常陸國界」と「下野國界」にあった蝦夷国との「國界」(国境線)を多賀城の西「一百廿里」のラインまで北上させたことを誇ったのがこの里程記事だったと思われるのです。
 そうすると、「常陸國界」「下野國界」とは古田説(注②)の〝西の国界〟ではなく、蝦夷国との旧国境線である〝東の国界〟ということになります。実はこのことを実証的に証明した優れた研究があります。田中巌さん(東京古田会・会長)の「多賀城碑の里程等について」(注③)です。(つづく)

(注)
①多賀城を蝦夷国内にあると論証したのは古田武彦氏である。
 古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②同①。
③田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。


第2361話 2021/01/28

『九州倭国通信』No.201の紹介

 「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.201が届きましたので紹介します。同号には拙稿「縄文海進と幻の糸島水道 ―九州大学・物理学者との邂逅―」を掲載していただきました。九州大学の三人の物理学者との思い出を紹介させていただいたものです。その三人とは、上村正康先生と長谷川宗武先生、そして北村泰一先生(現九州大学名誉教授)です。
 上村先生は、一九九一年十一月に福岡市で開催された物理学の国際学会の晩餐会で古田説(邪馬壹国博多湾岸説、九州王朝説)を英語で紹介(GOLD SEAL AND KYUSHU DYNASTY:金印と九州王朝)され、世界の物理学者から注目を浴びられたことで、古くからの古田ファンには有名な方です。その講演録は「古田史学の会」のホームページ「新古代学の扉」に掲載されています。
 長谷川先生は上村先生と同じ研究室におられた方で、ご著書『倭国はここにあった 人文地理学的な論証』(ペンネーム谷川修。白江庵書房、二〇一八年十二月)を贈っていただき、お付き合いが始まりました。同書の主テーマは、飯盛山と宝満山々頂が同一緯度にあり、その東西線上に須久岡本遺跡・吉武高木遺跡・三雲南小路遺跡・細石神社が並んでいるというものです。この遺跡の位置関係は、太陽信仰を持つ九州王朝が弥生時代から太陽の動きに関心を持ち、測量技術を有していたことを示しています。
 北村先生も古くからの古田ファンです。若い頃、京大山岳部に所属され、同大学院生時代に第一~三次南極越冬隊にオーロラ観測と犬ぞりのカラフト犬担当係として最年少隊員(二五歳)で参加され、第三次越冬隊のとき、昭和基地でタロー・ジローと奇跡の再会をされたことは有名です。この先生方との出会いや想い出を書かせていただきました。
 同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「九州王朝天子よりの禅譲で文武天皇は即位した」も掲載されていました。九州王朝から大和朝廷への禅譲説を新たな視点で論述されたものです。このテーマについては古田学派の研究者から諸説が発表されており、研究の深化が進んでいます。


第2334話 2020/12/30

『多元』No.161の紹介

 先日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.161が届きました。拙稿「アマビエ伝承と九州王朝」を掲載していただきました。コロナ禍の中、注目されたアマビエ伝承と九州王朝との関係について論じたものです。
 肥後の海に現れたとする「アマビエ」の元々の名前は「アマビコ」であり、「コ」が「ユ」と誤記誤伝され「アマビユ」になり、更に「ユ」が「エ」と誤記誤伝され「アマビエ」になったと考え、本来は肥後の古代伝承にある「蜑(アマ)の長者」のことではないかとしました。もちろん、この「蜑の長者」とは九州王朝の王族のことです(注)。
 当号には、大墨伸明さん(鎌倉市)による「古田武彦記念古代史セミナー2020の開催報告」が掲載されていました。本年11月に開催された同セミナーの報告が要領良くなされています。わたしは古代戸籍に遺る二倍年暦(二倍年齢)の痕跡について報告しましたが、発表時間が30分と短かったので、A4で20頁に及んだ予稿集の内容全てを説明することができませんでした。新年になりましたら、「洛中洛外日記」で拙論の論理構造と学問の方法に焦点を当てて、わかりやすく解説したいと思います。

(注)「洛中洛外日記」2212~2215話(2020/08/24~27)「アマビエ伝承と九州王朝(1~4)」


第2324話 2020/12/16

新井白石の学問(2)

 古田先生の九州王朝説は、主に『隋書』や『旧唐書』などの歴代中国史書を史料根拠として成立しています。そしてそれは、大和朝廷が自らの利益に基づいて編纂した『日本書紀』よりも、中国正史の夷蛮伝の方がその編纂目的から、可能な限り正確に夷蛮の国々の情報を記載しようとするばず、という論理的考察(論証)に基づいています。他方、従来説は『日本書紀』が描く日本列島の国家像の大枠(近畿天皇家一元史観)を論証抜きで是とすることにより成立しており、それに合わない中国史書の記述は信頼できないとして切り捨ててきました。
 こうした国内史料と海外史料の史料性格の違いなどから、日本古代史研究において海外史書を重視した学者が新井白石でした。白石が生まれた明暦三年(1657)、水戸藩では藩主徳川光圀の命により『大日本史』の編纂が開始されました。『大日本史』三九七巻は明治三九年(1906)に完成するのですが、白石はこの編纂事業に当初期待を寄せていました。しかし、その期待は裏切られ、友人の佐久間洞巌宛書簡の中で次のように厳しく批判しています(注)。

 「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」(『新井白石全集』第五巻、518頁)

 日本古代史の真実を見極めるためには『日本書紀』『続日本紀』などの国内史料だけではなく、中国や朝鮮などの国外史料も参考にしなければならないという姿勢は、古田先生が中国史書の史料批判により九州王朝説を確立されたのと相通じる学問の方法です。江戸時代屈指の学者である白石ならではの慧眼です。比べて、日本古代史学界の現況は、白石がいうところの「おおかた夢のなかで夢を説くようなこと」をしている状態ではないでしょうか。(おわり)

(注)現代語訳は中央公論社刊『日本の名著第十五巻 新井白石』所収桑原武夫訳に拠った。


第2317話 2020/12/11

「村岡典嗣先生の思い出」

 「洛中洛外日記」2315話(2020/12/11)〝波多野精一氏と古田先生の縁(えにし)〟で、「波多野精一氏のお名前を古田先生から直接お聞きした記憶はありません」と書いたのですが、30数年前に行われた梅沢伊勢三さん(注①)との対談で、波多野精一さんについて古田先生が触れられていたことを失念していました。この対談を掲載した雑誌の記事を安田陽介さん(注②)からFacebookのコメントにて教えていただきました。
 『季節』第12号(エスエル出版、1988年)「特集 古田古代史学の諸相」に、古田先生と梅沢さんの対談(「村岡典嗣先生の思い出」)が掲載されており、古田先生が村岡先生の奥様より聞いた次の話を紹介されています。

〝波多野さんが「私は、西洋哲学については日本で最高の学問をやるつもりだ。だから君(村岡氏)は日本の思想を対象にして最高の学問を築きたまえ」と、こう言われた。それで村岡さんが非常に発憤して、よしやろうと決心したという話をお聞きしたんです。それはやっぱり明治の青年の非常に気合いにあふれた雰囲気ですね。波多野さんも講師ですから若い、まだ三十そこらのときだと思うんですが、二十代の村岡さんとね、夜を徹して話し合っている……まざまざとそれが伝わってくる話ですね。〟(74~75頁)

 この他にも、村岡先生について次のように紹介されていますので、抜粋します。古田先生の学問精神に通じるものを感じていただけると思います。

《以下、部分転載》
梅沢 あなたは何年に入学(東北大学)したのだったかね。
古田 昭和二十年の四月です。敗戦の直前ですね。
梅沢 僕が研究室の助手をしていたころだね。
古田 そうです。
梅沢 村岡典嗣先生の最後の弟子になるわけか。
古田 そうです。亡くなられたのが、昭和二十一年の四月でございましたね。だからほんとに最後のギリギリに村岡先生とお会いした感じてしたね。
梅沢 先生が亡くなられたのは六十一歳ですよ。
古田 それじゃいまの私と同年です。ずいぶんとお歳をめした先生だと思っていたんですが。いまの私がそうなんですか。
梅沢 いま、ご健在でいられたら、あなたのやっていることなんか見て、なんといわれるか。
古田 ほんとうに先生にご報告したいところですね。
 〈中略〉
梅沢 (前略)村岡先生ご自身が早稲田出身で、波多野精一さんに非常に目をかけられて、哲学をやられたわけです。早稲田の学内での発表会でもギリシャ哲学の発表をされています。(後略)
古田 その波多野さんに関して、非常に面白い話を、私は村岡先生の奥さんからお聞きした覚えがあるんです。奥さんは、与謝野晶子とか柳原白蓮とかの仲間だった方ですが、非常に素晴らしいムードを持っておられた方でしたね。村岡先生も熱烈な恋愛をして、奪いとった奥さんだったという話を聞くんですけど。波多野さんが早稲田大学の講師をしておられるときに、村岡先生は波多野さんのお家にしょっちゅう行って話をしていた。話をしだすともう話がはずんで、夜が明けてきても話してる。波多野さんのお家が狭いもので、お客さんが帰らないと家の人が寝る場所がない。小さい子供さんが隣の部屋で苛立ってきて「お客さん帰れ帰れ」って叫ぶんだそうです。村岡先生は、それが耳に入っているんだけど、話に熱中して、なお頑張り続けて話していたという話を、波多野さんの奥さんから村岡さんの奥さんがお聞きになったらしいんです。(以下、先に紹介した波多野氏と村岡先生との会話の紹介へと続く)

(注)
①水野雄司著『村岡典嗣』(ミネルヴァ日本評伝選、2018年)には「晩年の村岡が最も信頼した門弟の梅沢伊勢三(一九一〇~八九)」(222頁)と紹介されている。
②安田陽介氏は京都大学学生時代(国史専攻)に、「市民の古代研究会」で「続日本紀を読む会」(京都市)を主宰され、わたしも参加させていただいた。この会からは安田氏編著『「続日本紀を読む会」論集』創刊号(1993年7月)が発行されている。
 九州年号研究においては、「大化五子年土器」の現地調査に基づく優れた研究(「九州年号の原型について」)を、1993年7月31日の「市民の古代研究会」全国研究集会(京都市で開催)で報告された。


第2316話 2020/12/10

『本居宣長』と『秋田孝季』

 この数日は小林秀雄さんの『本居宣長(もとおり・のりなが)』(新潮社、1977年)を読んでいます。大著ですので、最初に〝斜め読み〟してから、面白そうなところを再読しています。『本居宣長』といえば、村岡典嗣先生の『本居宣長』(警醒社書店、1911年。岩波書店、1928年)が学界では有名です。小林秀雄さんも先の書で次のように評価しています。

 「村岡典嗣氏の名著『本居宣長』が書かれたのは、明治四十四年であるが、私は、これから多くの教示を受けたし、今日でも、最も優れた宣長研究だと思ってゐる。村岡氏は、決して傍観的研究ではなく、その研究は、宣長への敬愛の念で貫かれてゐるのだが、それでもやはり、宣長の思想構造といふ抽象的怪物との悪闘の跡は著しいのである。」小林秀雄『本居宣長』19頁

 いつの頃だったか忘れましたが、古田先生との会話のなかで、村岡先生の『本居宣長』が話題に上ったことがありました。そのとき、古田先生は次のように言われました。

 「村岡先生が『本居宣長』を書かれたように、わたしは『秋田孝季(あきた・たかすえ)』を書きたいのです。」

 秋田孝季は江戸時代の学者で、『東日流外三郡誌』を初めとする和田家文書の編著者です。結局、それは果たせないままに先生は物故されました。ミネルヴァ書房の杉田社長が先の八王子セミナーにリモート参加され、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされましたが、恐らくはそれが『秋田孝季』だったのではないかと推定しています。
 古田先生が果たせなかった『秋田孝季』をわたしたち門下の誰かが書かなければなりません。まずは、和田家文書中の「秋田孝季」関連記事の悉皆調査とデータベース化が必要です。どなたかご協力いただければ幸いです。


第2315話 2020/12/09

波多野精一氏と古田先生の縁(えにし)

 『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)の巻頭文〝「短里」と「長里」の史料批判 ――フィロロギー〟によれば、古田先生はお亡くなりになる二ヶ月前に波多野精一氏の『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を読んでおられたようです。
 歴史学の先達のお名前は古田先生からお聞きすることがよくありましたが、哲学者として高名な波多野精一氏のお名前を古田先生から直接お聞きした記憶はありません。ですから、同巻頭文の終わりに突然のように記された波多野精一氏やその著書『時と永遠』を意外に感じました。そのことが気になりましたので、波多野精一氏のことを調べてみたところ、古田先生と不思議な御縁があることを知りました。
 ウィキペディアには、波多野精一氏を次のように紹介しています。
【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)】
波多野 精一(はたの せいいち、1877年7月21日~1950年1月17日)は、日本の哲学史家・宗教哲学者。玉川大学第2代学長。
 西田幾多郎と並ぶ京都学派の立役者。早大での教え子には村岡典嗣、東大での教え子には石原謙、安倍能成、京大での教え子には田中美知太郎、小原国芳らがいる。また指導学生ではないが、波多野の京大での受講者で波多野から強い影響を受けたとされる人物に三木清がいる。〔転載終わり〕

 古田先生の恩師の村岡典嗣先生の早大時代の先生が波多野氏だったのでした。そうすると、古田先生は波多野氏の孫弟子に当たるわけです。また、同略年譜によれば、長野県筑摩郡松本町(現:松本市)生まれとのこと。偶然かもしれませんが、古田先生が松本深志高校で教師をされていたこともあり、不思議な縁を感じました。
 恐らく古田先生は波多野氏が村岡先生の恩師だったことをご存じのはずです。水野雄司著『村岡典嗣』(ミネルヴァ日本評伝選、2018年)には、「村岡は、早稲田大学にて波多野に出会い、そして終生、篤く敬慕した。村岡にとっての波多野は、大学時代の一教員には止まらず、学問に挑む姿勢から方向性の指導、そして実際の生活についての支援まで、生涯にわたって支えられた人物となっていく。」とあり、恩師を慕う気持ちと学問精神が引き継がれていることに感銘を受けました。
 なお、村岡先生は終戦後すぐの昭和21年(1946)4月に61歳で亡くなられ、波多野氏は昭和25年(1950)に亡くなっておられます。波多野氏の晩年の著作『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を古田先生がご逝去の直前に読んでおられたことにも、学問が繋ぐ不思議な縁を感じざるを得ません。


第2314話 2020/12/08

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(5)

 景初元年短里開始説の論証に成功した西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の論文「短里と景初 ―誰がいつ短里制度を布いたのか―」が収録された古田史学の会編『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)は、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による編集の下、わたしたち「古田史学の会」が作り上げた渾身の一冊です。中でも短里の研究は白眉を為すもので、古田武彦先生の遺稿となった同書巻頭文〝「短里」と「長里」の史料批判 ――フィロロギー〟で、次のような過分の評価をいただきました。

〝「古田武彦はなかった」 ―― いわゆる「学会の専門家」がこの四~五年とりつづけた〝姿勢〟である。
 けれども、この一書(『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』)が出現し、潮目が変わった。新しい時代、研究史の新段階が出現したのである。
 「短里」と「長里」という、日本の古代史の、否、中国の古代史の〝不可欠〟のテーマがその姿をキッパリと姿を現した。
 この八月八日(二〇一五)はわたしの誕生日だ。この一書は、永年の「待たれた」一冊である。

 〔中略〕

 やがてわたしはこの世を去る。確実に。しかし人間の命は短く、書物や情報のいのちは永い。著者が死んだ時、書物が、生きはじめるのである。

 今、波多野精一さんの『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を読んでいる。
 この時期から今まで、ようやく「短里」と「長里」問題を、実証的かつ論証的に論ずることができる。具体的にそれを証明するための、画期的な研究史にわたしたちは、今巡り合うたのである。
 平成二十七年八月八日校了〟

 同書収録の拙稿「『三国志』のフィロロギー ―「短里」と「長里」混在理由の考察―」の原稿を読まれた古田先生からお電話があり、お褒めの言葉をいただきました。先生のもとで古代史を学び始めて三十年、叱られることの方が多かった〝不肖の弟子〟でしたが、最後にいただいたこのお電話は忘れがたいものとなりました。
 同書の上梓を前に先生は亡くなられ(二〇一五年十月十四日、八九歳)、この巻頭文は遺稿となりました。同書を企画編集された服部さんとミネルヴァ書房の田引さんに感謝申し上げます。(おわり)


第2309話 2020/12/04

古田武彦著『古代通史』が復刻(ミネルヴァ書房)

 ミネルヴァ書房(京都市)から古田武彦著『古代通史』(注①)が復刻されました。ミネルヴァ書房から贈呈していただいた同書には、『東日流外三郡誌』の編著者秋田孝季と和田長三郎の名前が記された寛政宝剣額(注②)のカラー写真(青山富士夫氏撮影)が掲載されており、和田家文書調査のため古田先生と二人で津軽半島を駆け巡った当時を思い出しました。
 同書には復刻にあたり、新たな二編が加えられています。冒頭の青木洋さんによる「復刊によせて」と古田光河さん(ご子息)による「あとがきにかえて」です。青木さんは自作のヨットで世界一周した著名なヨットマンです。倭人が太平洋を横断したとする説を発表された古田先生と懇意にされていた方です。古田光河さんは親子間の会話や想い出が紹介されており、古田先生の新たな一面をうかがい知ることができました。
 その「あとがきにかえて」にも紹介されていますが、同書冒頭の「投石時代から狩猟時代へ」に「論証」という言葉が繰り返し使われています。次の通りです。

 「なぜ違っているのかということの論証が必要」「新しい論証の連続」「論証をもとにして」「論証の連続」「論証が時代別に分かれている」(同書1頁)

 本編冒頭の一頁にこれだけ「論証」という言葉が見えます。古田先生がいかに論証を重視されていたのかおわかりいただけると思います。わたし自身も古田先生に私淑した30年間、次の言葉を繰り返し聞かされました。「論理の導く所へ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(注③)。「学問は実証よりも論証を重んずる」(注④)。「論証は学問の命」。これらの言葉の意味は古田先生の著書にも記されていますし、復刻された本書もこの精神で貫かれています。

(注)
①古田武彦『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』は原書房から1994年に発刊され、この度、ミネルヴァ書房から「古田武彦古代史コレクション27」として復刻された。
②青森県市浦村の山王日枝神社に奉納された宝剣額。「寛政元年(1789)八月一日」の日付を持ち、秋田孝季と和田長三郎(吉次)が『東日流外三郡誌』完成を祈願したもの。
③古田武彦『真実に悔いなし』(ミネルヴァ書房、2013年)によれば、旧制広島高校時代の恩師岡田甫氏から学んだソクラテスの言葉とのこと。
④村岡典嗣氏のこの言葉は次の論稿にて紹介されている。
 古田武彦「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」『文芸研究』100~101号。東北大学文学部、1982年。同論文は『多元的古代の成立・上』(駸々堂出版、1983年)に収録された。
 古田武彦『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』「日本の生きた歴史(十八)」ミネルヴァ書房、2013年にも紹介されている。


第2306話 2020/12/01

古田武彦先生の遺訓(15)

周代史料の史料批判(優劣)について〈前篇〉

 『論語』が成立した周代における二倍年暦(二倍年齢)研究のために、周代史料について調査勉強を続けてきました。そのなかで各種史料の優劣を見極める作業、史料批判について認識を改めることが多々ありました。そのことについて説明します。
 古田先生の下で研究や現地調査を行う中で、史料批判について具体例をあげて学んだことがありました。その代表的なものは次のようなことでした(順不同)。

①木簡などの同時代史料を優先する。
②より古い史料を優先する。ただし、『三国志』写本のような例外もある(書写年代がより古い紹興本よりも、新しい紹熙本が原文の姿「対海国」「一大国」を遺している)。
③同時代金石文を優先する。ただし、金石文成立時の作成者の意思(作成目的)や認識(当時の常識)の影響を受けており、史実と異なる可能性があることに留意が必要。
④史料性格を分析し、史料作成目的を把握する。
⑤史料内容が関連諸学や安定して成立している先行説と整合しているか。
⑥現代の認識では理解できない、あるいは矛盾し、誤りと思われる内容にこそ、当時の古い姿が遺されているケースもあり、注意が必要。安易に原文改訂してはならない。

 このようなことを折に触れて教えていただきました。文献史学では、まずこの史料に対する目利き(史料批判)が重要です。ところが、周代史料の場合、史料状況がもっと複雑であり、より論理的な深い考察が史料批判に求められていることに気づきました。(つづく)


第2304話 2020/11/29

『古代に真実を求めて』24集の巻頭言

 本日、ようやく『古代に真実を求めて』24集の巻頭言を書き終えました。これまでになく、今回は巻頭言に苦しみました。というのも、谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)からいただいた「巻頭論文」があまりにも立派で、それに見合う巻頭言となると、今までとは全く異なるものにしなければならないと、この半月ほど悩みに悩んできたのです。そして、苦しみながらも昨日から二日間ほど自室にこもり、ようやく書き上げました。
 その結果、巻頭言らしくない巻頭言となり、次のような項目に仕立てあがりました。読者や冥界の古田先生からの評価はいかに。

【『古代に真実を求めて』24集巻頭言】
『「邪馬台国」はなかった』の論理と系
          古田史学の会 代表 古賀達也

○はじめに
○『「邪馬台国」はなかった』を初めて読まれる方へ
○『「邪馬台国」はなかった』を既に読まれた方へ
○「陳寿を信じとおす」という学問の方法
○論理の導く所へ行こうではないか

 以上の小見出しを立て、次の一文で巻頭言を締めくくりました。

〝この「ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証(あかし)である」という言葉に、「論証は学問の命」と通底する著者の気迫と学問精神がうかがえるのではあるまいか。であれば、「陳寿を信じとおす」という学問の方法の行く着く先がどこであっても、著者が怯(ひる)むことはありえない。著者を師と仰ぎ、本書を上梓したわたしたちもまた、同様である。〟


第2298話 2020/11/18

新・法隆寺論争(7)

法隆寺金堂の「薬師如来像」白鳳仏説

 法隆寺は古田史学・多元史観と通説・近畿天皇家一元史観が直接的にぶつかり合う重要寺院です。その代表例が九州王朝の天子(阿毎多利思北孤)のために造られた釈迦三尊像と近畿天皇家の「天皇」のために造られた薬師如来像の存在です。
 釈迦三尊像が七世紀前半の仏像であることに異論はほとんど見られないのですが、薬師如来像は七世紀前半の「推古仏」とする説の他に、七世紀後半の白鳳仏とする説があります。当初、古田先生は前者の立場に立たれ、光背銘に見える「天皇」号を根拠に、近畿天皇家は七世紀初頭頃からナンバー2としての「天皇」号を称していたとされました(注①、古田旧説)。もちろん、ナンバー1は九州王朝(倭国)の天子です。なお、古田先生は晩年に、近畿天皇家が「天皇」号を称したのは王朝交替後の701年から(古田新説)と自説を変更されています(注②。わたしは古田旧説を支持してきました)。
 この薬師如来像を白鳳仏とする見解を二つ紹介します。一つは小川光暘・笠井昌昭『古代の造形 奈良美術史入門』(注③)で、次のように述べられています。

 「銘文については、推古三十一年の釈迦三尊像の造像銘が完全な漢文で書かれているのにたいして、それより十五年あまりもさきの、この銘文が日本化した漢文体で書かれていること、はっきり薬師像をつくると記しているが、病気の平癒を祈願して薬師像をつくることは白鳳以前には例がなく、また天皇と書かれているのも推古十五年(六〇七)当時のものとしてはおかしいということなどから、推古十五年に書かれたものとは次第に考えにくくなったのである。
 つぎに様式上はどうかというと、写真を比較してもわかるように、飛鳥時代の仏像に釈迦三尊におけるように顔の面長であるのが特徴だが、この像では頬にはりがでてきて、丸顔に近くなってきていること、杏仁形を特徴とする目も、下瞼の線のカーブがゆるく直線的になってきていること、また衣文の線条もやわらかみを加えており、釈迦三尊像では強く末広がりに張っていた裳掛が、この像では比較的垂直にたれ下がってきていること、などがあげられる。これらの要素は視覚的には平面的から深奥的への深まりを示し、次期白鳳期の仏像様式につながるものをもってきているのである。
 これらの点から、この像は、推古十五年につくられた最初の法隆寺とその本尊が天智天皇のころに焼失したのち、法隆寺の再建に当って、飛鳥時代の様式をできるだけ忠実に追いつつ、つくられたものではないかと想像される。」同書45~46頁

 次に、上原和『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』(注④)の記事を紹介します。

 「しかし、ここで、この薬師像の銘文をよく読んでみると、いろいろ疑問が生じてくる。(中略)それに、用明が亡くなって二十年以上もすぎてからの追善供養に、薬師像が造られるということも、常識的に考えてみて、いかにもおかしいし、だいいち薬師像の造像自体が、中国の造像例で見るかぎり、この時点では、すこし早すぎるように思われる。それというのも、中国で薬師像がかなり盛んに造られるようになるのは、唐代に入ってからのことで、七世紀の後半になってのことであるからである。もっとも、いちばん早い遺作例としては、竜門石窟の古陽洞に、北魏の孝昌元年(五二五)銘のある薬師像が見られるが、これは、きわめて希有の遺例であって、竜門石窟の場合、その後、唐の儀鳳三年(六七八)に至るまで、一世紀半あまりの間、まったくその例を見ることはない。
 それに、なによりも決定的なことは、この法隆寺金堂の薬師像は、一見、止利仏師の作風に似通うものを思わせるのであるが、仔細に見るとそのかたちの性質は、すなわち、その表現様式は、まぎれもない、七世紀後半の白鳳時代のものであり、明らかに、法隆寺の再建された時点で止利様式に倣った擬古作であることを示している点である。試みに、現在、法隆寺の大宝蔵にある橘夫人厨子内の阿弥陀三尊像と比較するがいい。かたちの性質が、まったく同じであることに、読者は一驚するはずである。」同書142~143頁

 このように、薬師如来像を白鳳仏とする見解が以前からありました。ところが、昨日、京都市で開催された講演会(注⑤)で服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、同薬師如来像を釈迦像とする驚くべき仮説が発表されました。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房から復刻)
②古田武彦『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」(ミネルヴァ書房、2014年)
③小川光暘・笠井昌昭『古代の造形 奈良美術史入門』(芸艸堂、1976年)
④上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(朝日選書、1978年。)
⑤服部静尚「金石文よりみる天皇号・継体天皇と女系天皇」、「市民古代史の会・京都」主催講演会(2020年11月17日、キャンパスプラザ京都)での講演。