古田武彦一覧

第1862話 2019/03/19

「複都制」から「両京制」へ

 本日は「市民古代史の会・京都」の講演会で正木裕さんが「聖武天皇も知っていた 失われた九州年号」というテーマで講演されました。初めて九州年号というものを知った参加者も少なくなく、好評でした。
 講演前に、前期難波宮を九州王朝の「複都」とするアイデアについて、正木さんの意見を求めたところ、「両京制(dual capital system)」と呼んでもよいのではないかと言われました。これは虚を突かれたような提案であり、なるほどと思いました。正木さんの見解はわたしの複都制よりも更に一歩進んで、太宰府や前期難波宮(難波京)の実態(条坊を持つ「京」)を明確に表した呼称であり、「複都(multi-capital city)」よりも「両京(dual capital city)」のほうがより正確な表現のように思いました。
 実は「複都制」も「両京制」も、古田先生が既にその存在を指摘されています。はやくは『失われた九州王朝』(第5章の「遷都論」)に九州王朝の遷都を示唆する記述があり、講演会でも「天武紀」に見える「信濃遷都計画」について言及されていました。たとえば『古田史学会報』No.32(1999年6月3日)掲載の「古田武彦氏講演会(四月十七日)」の次の記事です。

【以下、転載】
 二つの確証について
  --九州王朝の貨幣と正倉院文書--
(前略)この銭(冨本銭のこと:古賀)が天武紀十二年に現われる銅錢にあたるという。そうすると厭勝銭とは思えない。まじない銭に詔勅を出すだろうか?。このときの詔勅では「今後、銅銭を使え、銀銭は使うな」とある。銀銭には反感を持っていて、使用禁止。『日本書紀』は信用できないか?。いや、この点は信用できる。「法隆寺再建論争」で喜田貞吉は『書紀』の記述のみを根拠に再建説をとり、結局正しかった。「焼けもせぬものを焼けたと書くか?」という論理しか根拠はなかった。『書紀』が信用できない点は、年代や人物のあてはめなどイデオロギーに関するものであって、事物や事件は基本的に「あった」のだ。(中略)
天武紀十三年に「三野王らを信濃に遣わす」の記事あり、このとき携行したのかとの説がある。都を移す候補地を探したというが、近畿天皇家の天武がなぜ長野に都を移そうとするのか?ウソっぽい。白村江戦後、唐の占領軍は九州へ来た。なぜ近畿へ来なかったのか?納得できる説明はない。九州王朝が都を移そうとし、『書紀』はこれを二十四年移して盗用したのではないか?。
 朝鮮半島の情勢に恐怖を感じて遷都を考えたことはありうる。なぜ長野か?。海岸から遠いから。太平洋戦争のとき松代に大本営を移すことを考えたのに似ている。(後略)
【転載終わり】

 「両京制」についても、『古田史学会報』36号(2000年2月)で「『両京制』の成立 --九州王朝の都域と年号論--」を発表され、七世紀前半における九州王朝の太宰府と筑後の「両京制」について論じられています。
 このように古田先生は早くから九州王朝の複都制を前提とした「両京制」の存在を指摘されておられますから、同様に七世紀後半における「太宰府」と前期難波宮(難波京)を「両京制」と見なす正木さんのご意見は妥当なものと思われるのです。


第1858話 2019/03/14

『「邪馬台国」はなかった』の「論証」と「実証」(3)

 「学問は実証よりも論証を重んずる(村岡典嗣)」という言葉は、「実証を軽視してもよい」という意味ではないと、わたしは繰り返し注意を促してきました。また古田先生が使用する「実証的」という言葉はポジティブな意味で使用されていることも指摘してきました。西洋哲学では「実証主義」は否定されており、それを乗り越えるものとして「論理実証主義(論理経験主義)」、更には「反証主義」が提唱されたことも「洛中洛外日記」で連載しています。そこで『「邪馬台国」はなかった』では「実証」がどのような意味やケースで使用されているかを、それこそ実証的に見てみることにします。
 『「邪馬台国」はなかった』に見える「実証」という言葉の、現時点での検索結果は下記の8例です。この中で、「実証的」という言葉で使用されたのは①③④⑥⑦の5例で、最もよく使用されています。いずれも「実証的」という言葉はポジティブな意味で使用されていることがわかります。この場合の「実証的」の反対語は「恣意的」「主観的」という言葉であり、学問的にはネガティブなものです。
 他方、②のケースは〝実証の刃のもろさ〟とあるように、「実証」という方法論の持つ弱点を指摘されたケースです。この例からもわかるように、古田先生は「実証」のもつ危うさを踏まえておられ、これも村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という方法論に通ずる姿勢と言えるでしょう。「実証」を用いる場合に「論証」の支えが必要とされた加藤さんや茂山さんと同じ理解なのです。
 最後に注目されるのが⑧の「叙述上、一種の実証主義(実地接触したものだけを書く)」という表現です。ここでの「実証主義」は西洋哲学における広義の「実証主義」ではなく、「叙述上、一種の」「(実地接触したものだけを書く)」という読者への説明を付記され、限定的な意味として、用心深く「実証主義」という言葉を使用されていることがわかります。
 このように『「邪馬台国」はなかった』において、「論証」が「実証」よりも遙かに頻繁に使用されているという〝多数決〟の問題に留まらず、その使用内容を見ても、古田先生が「実証」よりも「論証」を重んじておられることは明白です。その上で付け加えておきますが、そのことは「実証を軽視してもよい」という意味では全くないということです。更に言うならば、古田先生や村岡先生の「論証を重視する」という学問姿勢を支持し、受け継ぎたいと願っているわたしを批判されるのも「学問の自由」ですし、「師の説にななづみそ」ですから、全くかまいません。ただし、その場合は「古賀が支持する古田や村岡の学問の方法に反対である」と自らの立場を明確にしてからにしていただきたいと思います。

『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版・昭和52年)の中の「実証」の全調査一覧 ※〈〉内は古賀による注。

【実証】
①〈ヴルネル・イェガーによるアリストテレスの著述年代研究〉こういった実証的な手法を徹底的につきすすめた結果、従来の定説体系はもろくも崩壊し去った。(序章 わたしの方法 p.28)
②〈服部之総『親鸞ノート』の評価〉しかしながら、新鮮な服部の批判は、裏面に意外な〝実証の刃のもろさ〟をもっていた。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.173)
③この「一万二千余里」が、「実定里」か「誇大里」かという問題を実証的に解くために、わたしたちのなさねばならない作業は、明白にして単純である。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.183)
④なぜなら、そのような立言(陳寿の数値記述上の偏向性の指摘)を学問的にするためには、『三国志』全体の数値記述を実証的に検討しなければならないからである。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.204)
⑤だから、文献研究にとっては、〝その文献解読自体の実証性を、あくまで徹底する〟ーーそれが根本であり、考古学との対照は、次の次元に属するのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.283)
⑥この信念〈天皇家中心主義〉は、彼〈本居宣長〉の生涯の著述『古事記伝』の実証的成果を生んだ生ける原動力だった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
⑦しかし、ここではその同じ理念が先入観となり、九州に行路記事の帰結を見たはずの、かれ〈本居宣長〉の「実証的な目」を永くおおい去ることとなった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
⑧こうしてみると、ここはやはり、叙述上、一種の実証主義(実地接触したものだけを書く)と禁欲主義(実地接触しなかったものは書かない)が原則として厳守されていると見るほかないのである。(第六章 新しい課題 p.379)


第1857話 2019/03/13

『「邪馬台国」はなかった』の「論証」と「実証」(2)

 古田先生から教えていただいた「学問は実証よりも論証を重んずる(村岡典嗣)」という学問に対する姿勢や方法に対して、「『学問』は『実証』を積み重ねて『論証』に至るものだと、古田先生は各著書で示されている」という批判が寄せられたことがありました。論理学や哲学用語としての「実証」や「論証」の定義からみても意味不明の主張でしたが、わたしが驚いたのは、古田先生の著作のどこをどう読めば、このような理解が可能となるのだろうかという点でした。こうした疑念を抱いていましたので、安藤哲朗さんの『「邪馬台国」はなかった』の全文中から「論証」と「実証」を検索するという試みに、強い関心を抱き、わたし自身も検索を行ったわけです。
 今回の検索結果を一瞥しただけでもわかるように、同書は「論証」で埋め尽くされた一書で、古田先生がそれら論証に込められた強い思いは、最末尾の「あとがき」にも記された、「論証」という言葉を使った次の一文からも理解できるでしょう。

 「ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証(あかし)である。」(あとがき p.400)

 こうした「論証」の〝洪水〟ともいえる『「邪馬台国」はなかった』のどこをどう読めば、「『学問』は『実証』を積み重ねて『論証』に至るものだと、古田先生は各著書で示されている」などという理解が可能になるのでしょうか。
 同書に示された古田先生の学問の方法は、代表的一例をあげれば、まず従来説を紹介し、史料根拠を明示され、それに基づく従来説への反証と自説成立の論理性を繰り返し説明され、それら各論証の連鎖により古田史学(邪馬壹国説、博多湾岸説、短里説など)の全体像を提起する、というものです。「論証は学問の命」とわたしたちに語っておられた古田先生の学問の方法と姿勢は、処女作から晩年に至るまで変わることなく貫き通されているのです。(つづく)


第1856話 2019/03/12

『「邪馬台国」はなかった』の「論証」と「実証」(1)

 「洛中洛外日記」1848話の〝「実証主義」から「論理実証主義」へ(3)〟で、『多元』No.150の安藤哲朗さん(多元的古代研究会々長)の論稿「怠惰な読書日記」を紹介しました。同稿で安藤さんは、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』から「論証」と「実証」という二つの言葉の使用例の検索結果を示され、「論証」が21例、「実証」が1例であったとされました。古田先生が古代史の処女作において、「実証」と「論証」をどのように、どのくらい使用されたのかを、それこそ実証的に検証されたものです。
 わたしも強い関心を抱き、『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版・昭和52年)を用いて同じ調査を行ったところ、現時点での検索結果として、「論証」が32個(+2個、文庫版のあとがき)、「実証」は8個を数えました。おそらくまだ見落としがあると思いますが、その大勢は変わらないと思います。なお、安藤さんの調査結果とは異なっていますが、それは検索基準の違いや、見落としなどによるものと思います。しかし、両者の調査結果の傾向(「論証」と「実証」の使用頻度)は一致しています。
 検索結果には、古田先生の学問の方法や姿勢が明確に現れており、この検索事実に基づいて、次回ではそのことについて論じます。(つづく)

『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版・昭和52年)の中の「実証」と「論証」の全調査一覧 ※〈〉内は古賀による注。

【論証】
○なぜなら、「二つの論証」を無視しているからである。(序章 わたしの方法 p.17)
○わたしは、学問の論証はその基本において単純であると思う。(序章 わたしの方法 p.27)
○論証はあくまで地についた基礎からはじめねばならない。(序章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.27)
○しかし、わたしはこの一件の論証を終えてのち、つくづくと思わないわけにはいかなかった。(第一章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.58)
○以上の論証で明らかになった点をまとめてみよう。(第一章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.85)
○その一点を徹底的に論証しよう。(第一章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.97)
○もう論証は終わった。(第二章 いわゆる「共同改定」批判 p.145)
○それが明確に論証される前に、(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.149)
○その〝未論証の、推定された地点〟をもとにして、原文面を改定するのは、非学問的な「恣意的改定」にすぎぬ。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.149)
○しかし、今までの論証によってわかるように、このような考えは、〝陳寿は倭国を「会稽東冶」の東と考えていた〟という、あやまった認識を基礎としている。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.156)
○これで「論証」になると思う人はいないであろう。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.158)
○このような論証のあやまりなきことを追証するのは、先の(二)の例である。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.187)
○ながながと論証をつづけてきた、その結論は意外にも簡単だった。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.200)
○しかるに、これらの論者は、〝陳寿の虚妄〟を説くのに急であって、この論証をみずからに怠ったのではあるまいか。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.207)
○この点、非常に重大な問題であるから、「韓国内、陸行」という事実をさらに論証し、確定しておこうと思う。(第四章 邪馬壹国の探求 p.220)
○最後に、「韓国内、陸行」を証明する、もっとも簡明な論証をのべよう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.221)
○以上の論証に対して、ある読者は直ちにつぎのように反問するだろう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.244)
○以上の論証をさらに堅固にするために、陳寿が、数値とその計算結果をどのように書き記しているか、その特徴を示そう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.252)
○以上の論証を通って、わたしたちはいよいよ「邪馬壹国」の所在地を実地に測定できる地点に達した。(第四章 邪馬壹国の探求 p.256)
○それゆえ、わたしのこれまでの論証は、一切の「考古学の成果」に対する顧慮を無視して、行われたのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.281)
○しかし、つぎに、論証の到達点に立った今、考古学上の成果との交渉を考えることは、許されるであろう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.284)
○なぜなら、三世紀の近畿の人口・戸数そのものが別史料により明らかにかにしえぬ以上、内藤の推論は「論証力」をもたないのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.305)
○さて、このように「実地踏破ーー実地記録」の上に立つ叙述という陳寿の主張がけっして架空のものではなかったことは、今までの論証において、すでに十分にのべた。(第六章 新しい課題 p.376)
○わたしは、この本において、あらかじめ女王国を博多湾岸へもってゆこうと、いわば〝目検討〟をつけておいてから、論証をはじめたのでは、けっしてなかった。(第六章 新しい課題 p.387)
○しかし、わたしとしては、わたしの論証の立場をつらぬくほかない。(第六章 新しい課題 p.383)
○逆に、「論証が、いやおうなく、わたしを博多湾岸に導いた」それだけなのである。(第六章 新しい課題 p.387)
○だから、この十八字〈又有裸国・黒歯国、復在其東南。船行一年可至。〉について、わたしが今までの論証方法に従い、(第六章 新しい課題 p.387)
○今までの論証経験を生かし切ったとき、そのとき、どんな予想外の地点にわたしが至ろうとも、それはわたしの関知するところではない。(第六章 新しい課題 p.387)
○なぜなら、それはわたし自身さえどうしようもないこと、いわば論証力の支配に属することだからである。(第六章 新しい課題 p.387)
○だから、今は論証のむかうところを簡明に箇条書きしてみよう。(第六章 新しい課題 p.388)
○日本古代史の「先像」に対して、この本の論証でとった方法論と同一の目で、見つめ直してみる、ーーこの道しかない。(第六章 新しい課題 p.398)
○もはや鳥瞰図は完成し、論証はふたたび自動的に展開している。(第六章 新しい課題 p.399)
○ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証である。(あとがき p.400)

◎この簡単な「津軽海峡の論証」によって、近畿を倭国の都とする一切の理論は一気に崩れ去るほかない。(文庫版あとがき p.408)
◎わたしはこのような単純な論証、子供のような目に、今はじめて到達できたようである。(文庫版あとがき p.408)

【実証】
○〈ヴルネル・イェガーによるアリストテレスの著述年代研究〉こういった実証的な手法を徹底的につきすすめた結果、従来の定説体系はもろくも崩壊し去った。(序章 わたしの方法 p.28)
○〈服部之総『親鸞ノート』の評価〉しかしながら、新鮮な服部の批判は、裏面に意外な〝実証の刃のもろさ〟をもっていた。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.173)
○この「一万二千余里」が、「実定里」か「誇大里」かという問題を実証的に解くために、わたしたちのなさねばならない作業は、明白にして単純である。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.183)
○なぜなら、そのような立言(陳寿の数値記述上の偏向性の指摘)を学問的にするためには、『三国志』全体の数値記述を実証的に検討しなければならないからである。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.204)
○だから、文献研究にとっては、〝その文献解読自体の実証性を、あくまで徹底する〟ーーそれが根本であり、考古学との対照は、次の次元に属するのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.283)
○この信念〈天皇家中心主義〉は、彼〈本居宣長〉の生涯の著述『古事記伝』の実証的成果を生んだ生ける原動力だった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
○しかし、ここではその同じ理念が先入観となり、九州に行路記事の帰結を見たはずの、かれ〈本居宣長〉の「実証的な目」を永くおおい去ることとなった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
○こうしてみると、ここはやはり、叙述上、一種の実証主義(実地接触したものだけを書く)と禁欲主義(実地接触しなかったものは書かない)が原則として厳守されていると見るほかないのである。(第六章 新しい課題 p.379)


第1855話 2019/03/10

「実証主義」から「論理実証主義」へ(5)

 加藤健さんの〝実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠〟という感想や、茂山憲史さんの〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が保証される〟という学問の方法について、古田先生が扱われた具体的事例で説明します。
 名著『失われた九州王朝』において、古田先生は『旧唐書』倭国伝・日本国伝について一節(第四章Ⅱ 二つの王朝)を設けられ、倭国が九州王朝、日本国が大和朝廷であることを論証されています。古田学派の論者の中には、この倭国伝と日本国伝併記を史料根拠として、多元史観・九州王朝が実証されたとする理解があります。この理解は必ずしも誤りではありませんが、同書を読んでわかるように、古田先生は両伝の史料批判と論証を繰り返されています。特に倭国伝に記された倭国が大和朝廷ではないことを、『日本書紀』との対比により徹底して行われています。それが〝倭国伝・日本国伝併記を史料根拠として多元史観・九州王朝説を実証できた〟とするような単純な学問の方法ではないことは明らかです。
 それではなぜ古田先生はこれほど論証を重ねられたのでしょうか。それは一元史観による通説への反証のためです。通説では『旧唐書』の倭国伝・日本国伝併記を『旧唐書』編者の誤りとし、倭国も日本国も大和朝廷のことであり、同一王朝による倭国から日本国への国名変更が、別国のことと間違って併記されたと見なしています。もちろん、通説も史料根拠と論証により学問的仮説として成立しています。およそ次のようなものです。箇条書きにします。

①国内史料(記紀、風土記、他)によれば、倭国も日本国も大和朝廷であり、史料根拠が確かである。別国とする国内史料はない。
②7世紀末頃の藤原宮出土木簡に「倭国添布評」とあり、当地が倭国と称されていたことが実証されている。
③『大宝律令』などにより大和朝廷は遅くとも8世紀初頭には日本国を名乗っており、大和朝廷が倭国から日本国へと国名変更していたことは明確である。
④中国史書(正史)の夷蛮伝には地名や人名などの間違いが散見されており、『旧唐書』も同様に倭国と日本国を別国と誤ったと考えても問題ない。
⑤『新唐書』では日本国伝のみに訂正されており、中国でも『旧唐書』の二国併記が誤りであったと認識されていた。

 一元史観論者との論争(他流試合)の経験がない古田学派の方は、こうした通説成立の根拠や論理構造をご存じないことが多いようです。他方、古田先生は通説とその根拠や論理を明確に認識されていたからこそ、『旧唐書』の倭国が大和朝廷ではないことを徹底的に論証されたのです。こうした古田先生の学問の方法こそ、加藤さんや茂山さんが指摘された方法、すなわち〝実証を実証たらしめるための精緻な論証〟であり、〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度を保証〟したものなのです。この古田先生の学問の方法と、それを表した村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」の持つ意味を古田学派の皆さんには正しく理解していただきたいのです。(つづく)


第1854話 2019/03/09

「実証主義」から「論理実証主義」へ(4)

 「洛中洛外日記」1843話の〝「実証主義」から「論理実証主義」へ(3)〟を読まれた読者の加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)から次のような感想をいただきました。とても貴重なご指摘でもあり、紹介させていただきます。

【加藤さんの感想】
①西洋哲学における実証主義の定義を明確に知っておきたいと思いました。
②実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠ですから、村岡先生の言葉は当たり前のことを言っているようにしか思えず、そんなに問題にされること自体不思議な気がします。
 例えば、日本書紀の記事を実証として使えるようにするために,古田先生を始め学派の人達(貴殿も)がどれ程の論証を尽くしたか、を考えればすぐ分かることのように思えるのですが?

 以上の二つの「感想」をいただきました。特に②のご意見は1843話の下記の部分についてのものと思われ、わたしも全く同感です。

 〝他方、古田学派の論者の中には、「史料事実に基づく実証」こそが証明方法の基本であり、従って「論証よりも実証が重要」として、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」を否定しようとされる方もあります。学問研究には「史料事実に基づく実証」もあれば、「史料事実に基づく論証」もあります。その上で、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉(立場)が成立しています。〟

 また、哲学を専攻され、「古田史学の会」関西例会でアウグスト・ベークのフィロロギーについて連続講義された茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)の論稿「『実証』と『論証』について」(『古田史学会報』147号、2018.8.13)でも、加藤さんの感想と同様の趣旨が述べられています。たとえば論文末尾の次のような結論です。

 〝ベークのフィロロギーでは、「論証」の要素に「実証」の根拠が含まれ、「実証」の構築に「論証」の助けが支えとなっていた、とわたしは理解しています。〟
 〝「事実」というものはただその「事実」を表現しているだけで、それ以上のことは語りません。「事実」についての「論理展開」があってはじめて、仮説的な真実が発見され、それが「実証」として働き、さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が保証されるという構造になっているのです。これこそが、村岡先生や古田先生が目指していたフィロロギーという学問の方法なのです。〟

 加藤さんの〝実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠〟という感想や、茂山さんの〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が保証される〟という指摘はことさら難解な見解ではなく、学問や研究を行う上で当然で普通のことと考えていましたので、わたしが古田先生から教えていただいた、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉を紹介し、その後、古田先生が亡くなられたとたんに、突然のように始まった批判に、「何を言っておられるのだろう」と途惑ったものでした。ところが、いくら説明しても批判される方が現れる状況を見て、古田学派内で古田先生の学問の方法を誤解されている、あるいは不正確に理解されている方が少なくないことに気づき、「洛中洛外日記」でも繰り返し執筆することにしたわけです。そうした中で、茂山さんや加藤さんのような方も現れ、意を強くした次第です。
 次回では、加藤さんや茂山さんが述べられていることを、古田先生が扱われた具体的事例で説明したいと思います。また、加藤さんの感想①にある実証主義の定義の説明は、20世紀初頭にヨーロッパで行われた実証主義から論理実証主義(論理経験主義)、そして反証主義への変遷を解説する際に行いたいと思います。わたし自身ももう少し勉強が必要ですので(特に反証主義における「反証性の有無」についての理解が不十分なため)。(つづく)


第1848話 2019/03/03

「実証主義」から「論理実証主義」へ(3)

昨日届いた「多元的古代研究会」の機関紙『多元』No.150に、安藤哲朗会長による連載記事「怠惰な読書日記」に興味深い調査結果が報告されていました。古田先生の『「邪馬台国」はなかった』から「論証」と「実証」という二つの言葉の使用例を検索され、「論証」が21例、「実証」が1例であったとのこと。「実証」が1例しかないことにはちょっと驚きましたが、「論証は学問の命」と先生は言っておられましたので、「論証」という言葉が多用されていることはよく理解できます。それにしても、大変な検索作業を行われた安藤さんに拍手を贈りたいと思います。そこで、次のようなお礼メールを送りました。

【メールから転載】
多元的古代研究会
安藤様 和田様
 『多元』No.150 届きました。ありがとうございます。
 安藤さんの「論証」と「実証」の調査結果を興味深く拝読しました。わたしも似たような印象は持っていましたが、数えたことはありませんでした。
 哲学では実証主義は否定され、反証主義へと移りつつあるようですが、反証主義も反証可能性の有無の判断が簡単ではないため、未だ論争が続いているようです。
 他方、古田先生は「実証精神」「実証的」という言葉をポジティブな意味で使用されており、哲学での定義とは異なるようです。この点、簡単ではありませんが、勉強を続けたいと思います。
 また、「学問の方法」や「古田史学」の定義はややもすると抽象論となりかねず、用心して行わないと学問的に有意義なものにはならないように思います。この点、古田先生のように具体的に論じていきたいと考えています。(以下、略)
【転載終わり】

 20世紀前半にヨーロッパで行われた哲学における「実証主義」批判と「論理実証主義(論理経験主義)」の登場については本シリーズで紹介してきましたが、その「論理実証主義」も真理探究における限界が指摘され、それを乗り越える試みとしてカール・ポパーにより「反証主義」が提案されました。
 ところが古田先生は必ずしもこうした西洋哲学の定義で「実証主義」を使用されている様にも思われません。わたしの知る限り、古田先生は「実証精神」「実証的」という用語をポジティブな文脈で使用されることが多いのです。
 他方、古田学派の論者の中には、「史料事実に基づく実証」こそが証明方法の基本であり、従って「論証よりも実証が重要」として、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」を否定しようとされる方もあります。学問研究には「史料事実に基づく実証」もあれば、「史料事実に基づく論証」もあります。その上で、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉(立場)が成立しています。また、「学問は実証よりも論証を重んずる」とは「実証を軽視する」という意味ではないと、わたしは繰り返し注意を促しているのですが、なかなか理解していただけないようです。(つづく)

《ウィキペディアでの解説(抜粋)》
○反証主義(英:Falsificationism)とは、知識を選別するための、多数ある手続きのうちのひとつ。知識に対する形而上学的な立場のうちのひとつ。
 具体的には、(1)ある理論・仮説が科学的であるか否かの基準として反証可能性を選択した上で、(2)反証可能性を持つ仮説のみが科学的な仮説であり、かつ、(3)厳しい反証テストを耐え抜いた仮説ほど信頼性(強度)が高い、とみなす考え方。


第1846話 2019/02/28

「わが説にななづみそ」(『玉勝間』本居宣長)

 『玉勝間』の「師の説になづまざる事」の一節は次のような書き出しで始まっています。

 「おのれ古典を説(と)くに、師の説と違(たが)えること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふことも多かるを、いとあるまじきことゝ思ふ人多かめれども、これすなはちわが師の心にて、常に教へられしは、後に良き考への出来たらんには、必ずしも師の説に違ふとて、なはゞかりそとなむ、教へられし。こはいと尊き教へにて、わが師の、世に優れ給へる一つ也。」(『玉勝間』岩波文庫、上巻92頁)
 ※原文の平仮名を一部漢字に改めました。以下、同じ。(古賀)

 宣長は、古典の研究において、師(賀茂真淵・他)と異なる説になることが多いが、これはもっと良い説があれば師の説にこだわることはないという師の教えによるものであり、この教えこそ師が優れていることの一つであると述べています。こうした考えが、「師の説にななづみそ」の根拠となっているわけです。ところが宣長は、この考えを更に一歩押し進めて、次節の「わが教え子に戒(いまし)めおくやう」で次のように記しています。その全文を紹介します。

 「吾に従ひて物学ばむともがらも、わが後に、又良き考へのいで来たらむには、必ずわが説になゝづみそ。わが悪しき故(ゆえ)を言ひて、良き考へを拡めよ。全ておのが人を教ふるは、道を明らかにせむぞ、吾を用ふるには有ける。道を思はで、いたづらにわれを尊まんは、わが心にあらざるぞかし。」(『玉勝間』岩波文庫、上巻93頁)

 学問研究において良い説があるのであれば、宣長は自らが師の説になづまないだけではなく、わたしの説にもなづむなと弟子らに述べているのです。そして、学問(道)のことを思わずに、いたずらに師(宣長)を尊ぶのはわたしの望むところではないとまで言い切っています。実に公明正大であり、自説よりも学問と真実探求の方が大切とする、宣長の偉大さがうかがわれる文章です。この本居宣長の言葉を〝学問の金言〟として伝えてこられた村岡先生と古田先生の真摯な姿勢を、わたしたち古田学派の研究者は正しく受け継ごうではありませんか。
 なお、引用した岩波文庫の『玉勝間』は1934年の発行で、校訂者は村岡典嗣先生です。冒頭の解説文も村岡先生の手になるもので、「昭和九年五月十三日」の日付が記されています。


第1845話 2019/02/27

「そしらむ人はそしりてよ」(『玉勝間』本居宣長)

 古田先生の恩師、村岡典嗣先生が本居宣長研究で名声を博されたことは有名です。名著『本居宣長』を何と二十代のとき(明治44年[1911]、27歳)、しかも仕事(『日独新報』記者)の傍ら困窮生活の中で執筆、上梓されています。そのまっすぐな生き様は古田先生の人生を見ているかのようです。見事な師弟と言わざるを得ません。お二人の先生に学ぶべく、「洛中洛外日記」で本居宣長の『玉勝間』の一節「そしらむ人はそしりてよ」を今回のタイトルに選びました。
 村岡先生が本居宣長の学問の姿勢に深く共感されていた痕跡は、各著作に残されています。また、古田先生が学問の金言としてわたしたちに紹介されていた本居宣長の言葉「師の説にななづみそ」は、本居宣長の『玉勝間』が出典ですが、この言葉は村岡先生も大切にされていたものです。この思想を古田先生は村岡先生から受け継がれたものと思われます。
 『玉勝間』には「師の説になづまざる事」という一節があり、次のような言葉が記されています。

 「そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし」(『玉勝間』岩波文庫、上巻93頁)

 宣長が師の説とは異なる説を述べたことに対して、師の教えに背くものとして他の弟子から非難されていたようです。そのような声に対して「そはせんかたなし」として、他人からの非難を恐れて真実追究の〝道を曲げ、古(いにしえ)の意を曲げる〟ことが師の心に適うものであろうかと宣長は反論しています。
 畏(おそ)れながら、わたしにはこの宣長の言葉(気持ち)は痛いほどよくわかります。昨年11月に開催された「八王子セミナー」の席上で、ある発表者から、古賀は古田説と異なる説(前期難波宮九州王朝副都説)を発表しているとして激しく非難されたことがありました。わたしの説がどのような根拠と理由により間違っているのかという学問的批判であれば大歓迎なのですが、「古田先生の説とは異なる」という理由での非難でした。このときのわたしの心境がまさに「そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし」だったのです。
 他方、そうした非難とは全く異なり、古田先生の〝学問の原点〟の一つとして本居宣長の「師の説にななづみそ」があると発表された方もありました。どちらの姿勢・発言が古田先生の学問を正しく受け継いでいるのかは言うまでもないことでしょう。(つづく)


第1844話 2019/02/26

紀元前2世紀の硯(すずり)出土の論理

 福岡県久留米市の犬塚幹夫さんから吉報が届きました。紀元前2世紀頃の「国産の硯」が糸島市と唐津市から出土していたという新聞記事(2019.02.20付)の切り抜きが送られてきたのです。朝日新聞・毎日新聞・西日本新聞の福岡版です。記事量は毎日新聞が一番多かったのですが、学問的には西日本新聞の解説が最も優れていました。同記事のWEB版を本稿末尾に転載しましたので、ご覧ください。
 今回の出土遺跡は福岡県糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と佐賀県唐津市の中原(なかばる)遺跡で、弥生中期中頃(紀元前100年頃)と編年されています。今回の新聞報道を受けて、〝やはり弥生中期まで遡ったか〟と、わたしは驚きと同時に論理的納得性を感じました。それは「天孫降臨」の時期との関係で、重要な問題を惹起させるものだからです。
 古田説によると天孫降臨は弥生時代の前期末から中期初頭とされています。その理由はこの時期に西日本の遺跡から金属器が出土し始めることから、日本列島に金属器で武装した集団が侵入した痕跡と見なし、それを記紀に見える「天孫降臨」事件のことと理解されたことによります。ただし、弥生時代の編年がより古くなる学界の動向もあり、その実年代は再検討が必要とされました。
 今回の硯の時代が弥生中期中頃と編年されていることから、それは早ければ「天孫降臨」の50年後、遅くても100年後頃と推定できます。そうであれば、金属器で武装した天孫族(倭人)はその頃から文字(漢字)を使用していた可能性が高まったことになります。もちろん彼らは前漢鏡に記された文字の意味も理解していたであろうし、自らも漢字漢文を初歩的ではあれ受容し、自らの名前や歴史を漢字漢文で記そうとしたであろうことも、当然の論理の帰結と思われるのです。
 この漢字を受容していた天孫族が、「天孫降臨神話」に登場する神々の名前を漢字表記していたとなると、記紀に見える神々の漢字表記の中には「天孫降臨」時代に成立していたものがあるのではないでしょうか。少なくとも、そうした可能性をも意識した文献史学の研究方法の確立が必要となりました。すなわち、今回の硯の発見は、記紀研究等において、そうした学問的配慮を要求する時代の幕開けを告げたのです。

【西日本新聞 WEB版】2019年02月20日 06時00分
弥生中期に硯製造か
糸島、唐津の遺跡 国学院大の柳田氏発表「国内最古級」

 弥生時代中期中ごろに国内で板状硯(すずり)を製造した痕跡を福岡県糸島市と佐賀県唐津市の遺跡の遺物から確認した、と国学院大の柳田康雄客員教授が19日発表した。柳田教授によると弥生時代中期中ごろは紀元前100年ごろで、国内最古級。中国で同様の硯が現れる時期と重なり、世界でも「最古級」の国産板状硯の存在は、日本での文字文化の受容がかなり早かったことを示唆し、弥生時代像を大きく変える可能性もある。
 硯は、中国では自然石を利用した石硯が紀元前200年ごろの前漢初期に出現したとされる。長方形の板状硯は石を薄くはいで形を整え、木の板にはめ込んで使用した。近年、北部九州を中心に弥生時代から古墳時代初頭にかけての硯が相次いで確認されている。
 硯の製造が判明したのは、糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と唐津市の中原(なかばる)遺跡。潤地頭給遺跡からは工具とみられる石鋸(いしのこ)2片と、厚さ0.6センチ、長さ4.1センチ以上、幅3.6センチ以上の硯未完成品の一部が出土。中原遺跡では厚さ0.7センチ、長さ19.2センチ、幅7,2センチ以上の大型硯未完成品をはじめ、小型硯の未完成品、石鋸1片、墨をするときに使う研石の未完成品があった。いずれも柳田教授が過去の出土品の中から見つけた。
 従来、前漢が朝鮮半島北部に楽浪郡を設置(紀元前108年)したことが朝鮮半島や日本に文字文化が広がるきっかけとなったと考えられてきた。今回の発表で、硯の出現が楽浪郡設置よりも古くなる可能性もあるが、柳田教授は楽浪郡を経由せずに文化が日本に波及した可能性も想定する。
 九州大の溝口孝司教授(考古学)は、硯の製造時期について「もう少し証拠を固める必要がある」としながらも、硯の確認が相次ぐ状況を踏まえ「柳田氏の調査は尊重すべき情報。今後、竹簡や硯を置いた台など、硯以外の文字関連遺物がないか、慎重に調べる必要がある」と話す。柳田教授は24日に奈良県である研究会で、今回の結果を報告する。
=2019/02/20付 西日本新聞朝刊=


第1842話 2019/02/20

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(6)

 前回までは『大宰府の研究』掲載の考古学論文を中心に紹介してきましたが、同書にはちょっと趣が異なる論文もあります。森弘子さん(福岡県文化財保護審議会会員)の「筑紫万葉の風土 ―宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか―」です。これは古代歌謡学とでもいうべきジャンルの論文ですが、わたしはこのサブタイトル「宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか」に興味を引かれ、読み始めました。

 というのも、わたしは『古今和歌集』に見える阿倍仲麻呂の有名な歌、「天の原 ふりさけみれば 春日なる みかさの山に いでし月かも」の「みかさの山」は奈良の御蓋山(標高約二八三m)ではなく太宰府の東にそびえる三笠山(宝満山、標高八二九m)のこととする古田説を支持する論稿を発表し、その中で万葉集に見える「みかさ山」も、通説のように論証抜きで奈良の御蓋山とするのではなく、筑紫の御笠山(宝満山)の可能性も検討しなければならないとしていたからです。森弘子さんの論文のサブタイトル「宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか」を見て、わたしと同様の問題意識を持っておられると思い、その論証と結論はいかなるものか興味を持って読み進めました。

 論文冒頭に、「秀麗な姿で聳える『宝満山』」「宝満山は古くは『竈門山』とも『御笠山』とも称し」と紹介された後、「筑紫万葉」とされる『万葉集』の歌を分析されています。古代歌謡に対する博識をいかんなく発揮されながら論は進むのですが、論文末尾に結論として次のように記されています。

 「宝満山の歌が一首も万葉集にないのは、たまたまのことかも知れない。しかしやはりこの山が、歌い手である都から赴任した官人たちにとって、任務と関わるような山でもなかったということであろう。」(557頁)万葉集になぜ宝満山が歌われていないのかという鋭い問題意識に始まりながら、論じ尽くした結果が「たまたまのことかもしれない」「官人たちにとって、任務と関わるような山でもなかった」では、何のための論文かと失礼ながら思ってしまいました。宝満山が御笠山という別名を持っていたことまで紹介されていながら、『万葉集』に見える「みかさ山」の中に宝満山があるのではないかという疑問さえ生じない。すなわち、『万葉集』に「みかさ山」とあれば疑うことなく「奈良の御蓋山」のこととしてしまう、この〝凍りついた発想〟こそ典型的な大和朝廷一元史観の「宿痾」と言わざるを得ないのです。(つづく)

※「みかさ山と月」に関しては次の拙稿や「洛中洛外日記」でも論じました。ご参考まで。

平城宮朱雀門で観月会 みかさの山にいでし月かも??(『古田史学会報』28号、1998年10月)
○「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残影(『古田史学会報』43号、2001年4月)
○〔再掲載〕「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残影(『古田史学会報』98号、2010年6月)
○三笠の山をいでし月 -和歌に見える九州王朝の残映-(『九州倭国通信』193号、2019年1月)
○「洛中洛外日記」
第731話 「月」と酒の歌
第1733話 杉本直治郞博士と村岡典嗣先生(1)


第1834話 2019/02/09

『古田史学会報』150号のご案内

 『古田史学会報』150号が発行されました。冒頭の服部論稿を筆頭に谷本稿など注目すべき仮説が掲載されています。

 服部さんは、太宰府条坊都市の規模が平城京などの律令官僚九千人以上とその家族が居住できる首都レベルであることを明らかにされ、太宰府が首都であった証拠とされました。この論理性は骨太でシンプルであり強固なものです。管見では古田学派による太宰府都城研究において五指に入る優れた論稿と思います。

 谷本さんの論稿は、『後漢書』に見える「倭国之極南界也」の古田説に対する疑義を提起されたもので、これからの論議が期待されます。わたしは「『論語』二倍年暦説の史料根拠」と「〈年頭のご挨拶に代えて〉二〇一九年の読書」の二編を発表しました。後者は古田先生の学問の方法にもかかわるソクラテス・プラトンの学問についての考察です。これもご批判をいただければ幸いです。

 今号に掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』150号の内容
○太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する 八尾市 服部静尚
○『後漢書』「倭国之極南界也」の再検討 神戸市 谷本 茂
○『論語』二倍年暦説の史料根拠 京都市 古賀達也
○新・万葉の覚醒(Ⅱ)
-万葉集と現地伝承に見る「猟に斃れた大王」- 川西市 正木 裕
○稲荷山鉄剣象嵌の金純度-蛍光X線分析で二成分発見- 東村山市 肥沼孝治
○〈年頭のご挨拶に代えて〉二〇一九年の読書 古田史学の会・代表 古賀達也
○各種講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己