古田武彦一覧

第1994話 2019/09/19

福島原発事故による古田先生の変化(3)

 古田先生が、ミネルヴァ書房版『ここに古代王朝ありき』巻末の「日本の生きた歴史(五)」(2010年8月6日)を執筆された翌年の3月11日に東北大震災が発生し、数日後には福島第一原発が爆発しました。この災難に「古田史学の会」も翻弄されました。とりわけ、「古田史学の会・仙台」の会員の方々と連絡がとれず、何ヶ月も憂慮する日々が続きました。東北大学ご出身の古田先生には尚更のことと思われました。たとえば、阪神淡路大震災のときも古田先生は被災者に心を痛められ、当時出版されたご著書の印税などを神戸市に寄贈されたこともあったほどですから。
 特に原発の爆発事故には深く関心を示されたようで、翌2012年11月20日には東京大学教授の安冨歩さんの著書『原発危機と東大話法』(2012年1月、明石書店)が古田先生から贈られてきました。今までも歴史関係の本や論文を頂いたことは少なくなかったのですが、この種の本を先生から頂いたのは初めてのことでした。
 そうしたこともあって、古田先生と原発問題などについて話す機会が増えました。そのことを記した「洛中洛外日記」を紹介します。

【以下、転載】
「洛中洛外日記」514話(2013/01/15)
「古田武彦研究自伝」

 12日に大阪で古田先生をお迎えし、新年賀詞交換会を開催しました。四国の合田洋一さんや東海の竹内強さんをはじめ、遠くは関東や山口県からも多数お集まりいただきました。ありがとうございます。
 今年で87歳になられる古田先生ですが、お元気に二時間半の講演をされました。その中で、ミネルヴァ書房より「古田武彦研究自伝」を出されることが報告されました。これも古田史学誕生の歴史や学問の方法を知る上で、貴重な一冊となることでしょう。発刊がとても楽しみです。
 当日の朝、古田先生をご自宅までお迎えにうかがい、会場までご一緒しました。途中の阪急電車の車中で、古代史や原発問題・環境問題についていろいろと話しました。わたしは、原発推進の問題を科学的な面からだけではなく、思想史の問題として捉える必要があることを述べました。
 原発推進の論理とは、「電気」は「今」欲しいが、その結果排出される核廃棄物質は数十万年後までの子孫たちに押しつけるという、「化け物の論理」であり、この「論理」は日本人の倫理観や精神を堕落させます。日本人は永い歴史の中で、美しい国土や故郷・自然を子孫のために守り伝えることを美徳としてきた民族でした。ところが現代日本は、「化け物の論理」が国家の基本政策となっています。このような「現世利益」のために末代にまで犠牲を強いる「化け物の論理」が日本思想史上、かつてこれほど横行した時代はなかったのではないか。これは極めて思想史学上の課題であると先生に申し上げました。
 すると先生は深く同意され、ぜひその意見を発表するようにと勧められました。賀詞交換会で古田先生が少し触れられた、わたしとの会話はこのような内容だったのです。古代史のテーマではないこともあり、こうした見解を「洛中洛外日記」で述べることをこれまでためらってきましたが、古田先生のお勧めもあり、今回書いてみました。
【転載おわり】

 おそらく、福島第一原発の爆発事故により、古田先生は核兵器や原発についての考察をより深め、考えを変えられたのではないかとわたしは推測しています。(つづく)


第1993話 2019/09/18

ミネルヴァ書房「日本評伝選」200巻

 「古田史学の会」では会員論集『古代に真実を求めて』を明石書店(東京)から発行していますが、ミネルヴァ書房(京都市)からも『「九州年号」の研究』『邪馬壹国の歴史学』を発行していただいています。ミネルヴァ書房は古田先生の著書復刻を手がけておられ、現在では手に入りにくくなっていた古田先生の著書が書店や図書館に並ぶこととなりました。古田史学を再び広く世に知らせる事ができ、ミネルヴァ書房には感謝しています。
 そのミネルヴァ書房・杉田啓三社長への取材記事が「読売新聞」2019年9月16日の文化欄に掲載されていることを服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長)から教えていただきました。その記事は「日本評伝選」200巻発行の記念特集のようで、「半永久的に続ける覚悟」との見出しと共に杉田社長の写真が掲載され、比較的大きな扱いでした。
 同社が刊行を続けている「日本評伝選」は日本の歴史的人物を一人ずつ紹介するという人気企画です。ちなみにその最古の人物として邪馬壹国の俾弥呼が選ばれており、もちろん著者は古田先生です。記事には杉田社長のお話として、古田先生の名前が次のように出されています。

 「政治家、学者から芸術家、外国人まで幅広いラインアップにこだわりを詰め込んだ。卑弥呼の正式な名前に焦点を当てた『俾弥呼(ひみか)』(古田武彦著)や、伝説のプロレスラーの生涯を追った『力道山』(岡村正史著)など硬軟取り混ぜ、近年は『田中角栄』(新川敏光著)が話題を呼んだ。」

 わたしは、てっきり『親鸞』も古田先生が書かれるものと思っていましたが、残念ながら別の方が書かれています。この企画は「半永久的に続ける覚悟」とのことですから、いつの日かには『古田武彦』も出版されることでしょう。ちなみに古田先生の恩師『村岡典嗣』(水野雄司著、2018年)は既に出版されています。そういえば、古田先生は「わたしは『秋田孝季(あきたたかすえ)』を書きたい」とおっしゃっていました。村岡先生が書かれた名著『本居宣長』を意識してとのことと思います。


第1991話 2019/09/15

福島原発事故による古田先生の変化(2)

 今から10年ほど前のことです。「古田史学の会」役員の間に〝激震〟が走りました。「古田史学の会」全国世話人のAさんから、「古田先生は日本の自衛隊は核武装すべきと言っておられる」と驚きと共に心配のお電話がありました。Aさんは古田先生のご自宅の比較的近くに住んでおられたこともあり、古田先生と連絡を取り合う機会も多く、おそらくそうした個人的会話の中での先生の発言と思われます。そのとき、わたしがどのような返事をしたのかははっきりと記憶していませんが、否定はしなかったはずです。わたしは直接的な表現では聞いたことはありませんでしたが、古田先生がそうしたご意見を持っておられることに気づいていたからです。
 このようなことは、ほとんどの古田ファンや読者の方には信じてもらえないかもしれませんが、古田先生は常々、「世界最強の在日米軍が駐留している日本は真の意味での独立国家ではなく、そのため自衛隊には二流の兵器しか与えられていない」と語っておられました。そして自国の防衛は自国(一流の兵器を持った自衛隊)によってなされるべきと考えておられました。ですから、先生がいう「一流の兵器」とは、恐らく核兵器のことであろうとわたしは受け止めていました。しかし、先生から直接的な表現で自衛隊の「核武装」についてお聞きしたことはありませんでした。
 そのようなときに、次の一文を古田先生が発表され、わたしは驚愕したのでした。ミネルヴァ書房から復刊された『ここに古代王朝ありき』(2010年)巻末に付された「日本の生きた歴史(五)」の「第五 若者の頭脳」です。そこには放射能を発見したキュリー夫人の評価に触れ、次のように書かれています。

【以下、転載】
 (前略)
 事実、彼女(キュリー夫人)の娘イレーヌやその夫ジョリオが「発見」した人工放射能の秘密、またマイトナーやフェルミなど、ヨーロッパ・アメリカ文明の中から生まれた俊秀たちが「アッ!」というまに、「広島・長崎への原爆投下」の道を、その技術を切り開いたではありませんか。わたしの両親は広島(西観音町)でその洗礼を受けました。投下後、一週間して仙台から広島に帰り、傷死体の累積した市街をうろつきまわっていたわたしも、「第二次放射能の被爆者」です。いわば「広がる犠牲者」の末端に位置している人間の一人です。

       四

 わたしの言いたいこと、それは次の一点に尽きます。
 「わたしたちは未だに、キュリー夫人の願いに答えていない」
と。
 このような「巨大な爆発力」が実在する以上、それに〝打ち克つ力〟もまた、必ず実在するはずだ。
ーーわたしはハッキリとそう思っています。たとえば、
 第一、この「巨大爆発力」の研究がさらに進展して、「一発」で宇宙全体を〝吹き飛ばす〟能力を持ったとき、すなわちどの国もこれを「使用」することができなくなります。
 第二に、かりに「宇宙全体」ではなく、「地球全体」であったとしても、同じく「使用」できないのは、自明のことです。
 マイトナーやフェルミ段階では、その爆発力があまりにも「リトル」であり、「マイナー」だったから「使用可能」だったのです。

      五

 問題は、自然科学の分野にとどまりません。
 この「使用」は、人間の「個人」の手によるものではなく、同じく人間の「組織」によらなければならないこと、当然です。
 とすれば、そのような「人間の組織」に対してその組織の「生みの親」である人間の頭脳によって、徹底的な「再点検の手」が加えられなければなりません。「国連」も、「国家」も、「教会」も、「学校」も、「学会」も、そのすべてに対する徹底的な再批判です。
 それが最初にのべた「日本実証主義」の辿り、そして突き進むべき道です。わたしにはそう見えています。
 (後略)
【転載おわり】

 どう控えめに読んでも、この前半部分は相互確証破壊という核抑止理論と同様の考え方に基づいていることは明白でした。古田先生の持論を突き詰めれば、核兵器の使用(核戦争)をとどめるために一流の兵器による自国防衛という理論にたどり着くことも理解できないわけではありません。しかし、ここまであからさまな表現(「一発」で宇宙全体を〝吹き飛ばす〟)で発表されるとは思ってもいませんでした。
 この文が書かれた2010年8月6日は広島に原爆が投下された日です。当然、原爆の悲惨さを体験されている古田先生は、3度目の原爆投下をどうすればとどめることができるのか、考えに考え抜いて執筆されたことをわたしは疑えません。
しかしこの半年後、古田先生のこの考えを180度変えさせた大事件が発生します。2011年3月11日、東北大震災と福島第一原発の爆発事故です。(つづく)


第1990話 2019/09/14

福島原発事故による古田先生の変化(1)

 9月16日、東京の文京区民センターで『倭国古伝』出版記念講演会(古田史学の会・主催)を開催するのですが、お世話になった「東京古田会」「多元的古代研究会」の役員の方へのお土産を何にしようかと考えていました。そんなとき、明石書店からいただいた古田先生の『わたしひとりの親鸞』(明石選書。2012年12月発行)の「明石選書版 あとがき」の抜き刷り数冊が目に入り、それを明後日に持参することにしました。
 同「あとがき」前半には、和田家文書に記された親鸞が佐渡に流罪されたとする伝承が新潟県高田にも残っていたことなどが紹介されています。後半は、晩年の先生の持論であった「原水爆」「原発」を「人類の未来に対する敵」として、それを否定する宗教家・思想家、新宗教・新思想の誕生を訴えられています。この「あとがき」の末尾には「二〇一二年十月二十六日 古田武彦記了」とあります。同様の主張は各講演会や著書でも述べられており、古田ファンの方ならよくご存じのことと思います。
 しかし、30年という永い間、古田先生の謦咳に接してきたわたしは、この先生の崇高な思想や主張が困難に満ちた思想的格闘と変転の末に発せられたものであることを知っています。そうした先生の内奥で発展した仮説や思想について、その経緯をわたしが書き残しておかなければならないのではないかと思い、「洛中洛外日記」で取り上げることを決意しました。
 というのも、わたしが「先生からこのように聞いた」というようなことを書いたり発言したりすると、著書や論文を全て読んでもいない人から「古田先生はそんなことは言われていないし、著書にも書かれていない」とか「古賀が嘘をついている」などと批難されたこともあり、こうした〝小さな真実〟を記すことに躊躇することが多々ありました。しかし、わたしも還暦を過ぎ、来年65歳になります。記憶が鮮明なうちに、そして資料調査(ウラ取り)する体力があるうちに書き残しておかないと、後世、古田先生への誤解が生じたりするかもしれないと思い、少しずつでも用心深く、資料根拠を明示して書き残すことにしました。もし、わたしの記憶違いなどがあれば、是非、ご指摘下さい。(つづく)


第1977話 2019/08/31

古田先生からの宿題「ポアンカレの二著」

 今朝、FACEBOOKを開いて見ると、3年前に投稿した写真、ポアンカレの二著『科学と仮説』『科学と方法』(岩波文庫)が掲載されていました。いずれも古田先生から「勉強するように」といただいたものですが、わたしの理解力では難しくて、未だほとんど読んでいません。このままでは、冥界で先生に再会したとき、また叱られるのは必定です。怖いような嬉しいような、複雑な気持ちです。
 この二著のことをちょうど3年前の「洛中洛外日記【号外】」で配信していましたので、転載します。

古賀達也の洛中洛外日記【号外】
2016/08/30
古田先生からの宿題 ポアンカレの二著

 わたしが古田先生に入門して以来、多くの本や論文をいただきました。5年ほど前だったと記憶していますが、科学や物理学に関する「モデル」という概念と九州年号研究における原型論に使用する「モデル」という表現について、わたしの使用方法が誤っていると、先生から厳しく叱責されたことがありました。それでも、わたしが納得できないでいると、先生から二冊の岩波文庫が送られてきて、読んで勉強するようにとのことでした。その二冊とは高名な数学者ポアンカレの『科学と仮説』『科学と方法』でした。
 わたしには難しくて、結局、読破できずに放置していましたが、8月の「古田史学の会」関西例会で、茂山憲史さん(古田史学の会・編集委員)から、学問における実証と論証について論理学からの解説がなされたこともあり、もう一度挑戦してみようと、書棚から取り出したのですが、やはり難しくて理解できませんでした。
 この二冊は昭和36年版なのですが、初版は昭和13年と28年ですから、わたしが生まれる前のことです。古典的名著とされるだけあって、素晴らしい本だとは思うのですが、残念ながらわたしの理解力では歯が立ちません。
 この二冊の勉強は、古田先生からの宿題なのですから、せめて生きているうちには読んでおきたいと思います。それにしても、古田先生の勉強や学問の幅の広さに、今更ながら驚かされる二冊ではありました。


第1969話 2019/08/20

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(3)

 古田先生が筑紫の「飛鳥」と考えられた小郡市井上地区の小字「飛島(とびしま)」ですが、その小字「飛島」の形が元々は沼か水路のようで、『日本書紀』や『万葉集』に記された「あすか」のような比較的大きな領域とは考えにくく、わたしは古田先生の小郡「飛鳥」説に納得できないでいました。
 たとえば『万葉集』196番歌には「わが大君(吾王)」の名前「明日香」は「明日香川」に由来すると歌われています。従って、「明日香川」はそれなりの規模を持つ有名な川と考えざるを得ません。しかし、小郡市の小字「飛島(とびしま)」が元々は川であったとしても小規模であり、とても九州王朝の天子の名前の由来となるような川とは考えられません。
 そこで、わたしはこの「明日香川」にふさわしい川として、筑前と筑後の間を流れる九州随一の大河筑後川ではないかと考えました。筑後川という名称は筑紫国が前後に分国された後に付けられたものであり、分国以前(六世紀末以前)には別の名前があったはずですから、筑後川の古名が「明日香川」だったのではないかとする作業仮説(思いつき)に至ったのです。しかし史料調査の結果、筑後川には「一夜川」の別名や地元の通称である「大川」という名称しかみつかりませんでした。また、その上流や源流域の地に「アスカ」という地名や山名も見つかりませんでしたので、筑後川を「明日香川」とすることにはエビデンスがなく、仮説成立は困難とせざるを得ませんでした。
 次に検討したのが筑後川の支流で小郡市を流れる宝満川の古名が「明日香川」とする作業仮説(思いつき)を検討しました。通常、宝満川の名前の由来は宝満山(御笠山)を源流域とすることによるとされています。他方、同地域から博多湾へ流れる川として御笠川が存在しています。宝満山の古名が御笠山であることから、御笠川の名称はその山名に基づいています。同じように御笠山を源流域に持つ宝満川は、御笠山が宝満山と名前が変わって以降に成立した名称となりますから、筑後川と同様に別の名前(古名)を持っていたはずです。それが「明日香川」ではないかと考えたのですが、やはりそれを証明するためのエビデンスは見つかりませんでした。
 このように筑紫「飛鳥」説を証明するため、史料調査や検討を続けたのですが、成果は得られませんでした。(つづく)


第1968話 2019/08/19

健軍神社(熊本市)の兄弟(キョウテイ)年号

 五月に届いた「古田史学の会」会員の前田嘉彦さん(兵庫県福崎町)からの郵便物を再度読んでいると、熊本市最古の神社として有名な健軍神社を訪問されたときのお話が綴られていることに気づきました。うっかり、読み飛ばしていたようです。
 前田さんは「古田史学の会」関西例会やわたしの久留米大学講演会にもよくご参加いただいている熱心な会員さんです。業界紙などにもしばしば寄稿され、熱心に古田史学を紹介されています。今回もそのコピーを多数送付していただきました。
 お便りには次のような近況報告がありました。

 〝4月8日、熊本市で最も古い健軍神社にお参りしました。健軍神社は兄弟年間(558年の1年だけの年号、九州年号)に創建されたと言われています。
 そこの巫女さんから「私どもは、『きょうだい』と言うのではなく、『きょうてい』と言っています。」と言われてびっくり。最初は『けいたい』と聞き間違いました。そして、いつもこの本を参考にしていますと、差し出されたのが、古田武彦氏の『失われた九州王朝』(2010年 ミネルヴァ書房)でした。〟

 健軍神社でも「兄弟」年号が正しく認識されており、しかも古田先生の書籍が参考にされていると知り、うれしくなりました。同神社が「兄弟元年(558)」に創建されたことをわたしが知った経緯などについては次の「洛中洛外日記」で紹介しています。改めて読み直し、感慨を新たにしました。前田さんに感謝いたします。

第965話 2015/06/01
九州王朝の兄弟統治と「兄弟」年号

第978話 2015/06/12
「兄弟」年号と筑紫君兄弟

第979話 2015/06/13
健軍神社「兄弟元年創建」史料

第1215話 2016/06/21
健軍社縁起の九州年号「兄弟」

第1607話 2018/02/18
九州年号「兄弟」2例めを発見


第1966話 2019/08/16

桂米團治さんからお礼状届く

 本日、桂米團治さんから「古田史学の会 代表 古賀達也」宛で、お礼状とパンフレット「還暦&噺家生活40周年記念 桂米團治独演会」が届きました。米團治師匠には、古田先生とご一緒にKBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」に出演させていただいて以来、ご厚情を賜っています(「古田史学の会」へは毎年のようにご寄付をいただいています)。
 同番組は2015年8月27日に収録され、翌月三回にわたって放送されました。同年10月14日に古田先生は急逝されましたので、同番組が最後の公の場となりました。わたしにとっても、古田先生との最後の想い出となりました。番組の抄録(茂山憲史氏による)は『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集、明石書店)に収録しました。
 米團治師匠からいただいたお礼状をご披露させていただきます。

残暑お見舞い申し上げます。
 昨年暮れの還暦パーティーに際しましては、多大なるご厚情を賜り、まことにありがとうございました。
 今年の正月より始まりました全国巡業の独演会も七月七日の南座公演をもちまして無事終了することができました。行く先々で「待ってました!」のお声掛けを頂戴し、感無量…。 こんなに楽しい興業は初めてでした。すべてこれ、お客様のお蔭と、心より感謝申し上げます。パンフレットを同封いたしますのでどうぞご笑納下さい。
 今後は私、株式会社米朝事務所の代表としての業務を続けながら、ひたすら高座にも精進いたします。とは申せ、決して気負うことなく、皆様に喜んでいただける落語を披露する所存でございます。お気づきの点がありましたら、是非ともご助言下さいませ。
 まことに、略儀ながら、書面にて御礼申し上げます。
 時節柄、お身体ご自愛下さい。

   令和元年 立秋
             桂 米團治
古賀達也様


第1907話 2019/05/25

七世紀における「天皇」号と「天子」号

 「古田史学の会」関西例会では、七世紀の金石文に見える「天皇」を九州王朝の〝旧・天子〟のこととする晩年の古田説に対して賛否両論が出され活発な論争が続いています。このように関西例会では、古田先生が〝わたしの学問の原点〟とされた「師の説にななづみそ」(本居宣長)、「自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風」を体現した学問研究が続けられています。
 わたしは、倭国ナンバーワンの九州王朝の「天子」に対して、ナンバーツーとしての近畿天皇家の「天皇」とする古田旧説を支持しています。従って、七世紀の金石文に見える「天皇」はナンバーツーとしての近畿天皇家の天皇と考えています。そのことを論じた拙稿「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」を『古田史学会報』(152号、2019年6月)に投稿しました。同稿では船王後墓誌に見える「天皇」を近畿天皇家の天皇としましたが、さらに「天皇」号の位置づけについて、別の視点から説明することにします。それは九州王朝の「天子」号との関係についてです。
 九州王朝の多利思北孤が「天子」を名乗っていたことは『隋書』の記事「日出る処の天子」から明らかです。他方、近畿天皇家では七世紀初頭の推古から後半の天武が「天皇」を名乗っていたことは、法隆寺の薬師如来像光背銘の「大王天皇」や飛鳥池出土の「天皇」木簡から明らかです。こうした史料事実が古田旧説の根拠となっています。
 もし古田新説のように船王後墓誌などの七世紀の金石文に見える「天皇」を九州王朝の〝旧・天子〟とすると、ナンバーワンの九州王朝もナンバーツーの近畿天皇家も同じ「天皇」を称していたこととなります。しかし、ナンバーツーがナンバーワンと同じ称号を名乗ることをナンバーワンが許すとは到底考えられません。こうした、称号の序列という論理から考えても、古田新説は成立困難と思われるのです。


第1891話 2019/05/12

古田武彦『邪馬一国の証明』が復刻

 ミネルヴァ書房から古田先生の『邪馬一国の証明』が復刻され、送られてきました。ご遺族の古田光河さん(ご子息)からの贈呈によるものです。
 同書は角川文庫として1980年に発行されたものの復刻です。名著『「邪馬台国」はなかった』以降の論争に関わるテーマとその学問の方法に焦点を当てた一冊です。文庫本として発行されたこともあり、現在では入手困難となっていましたので、この度の復刻は古田ファンや研究者にとっても待たれていたものでした。
 復刻本冒頭には古田光河さんによる「復刻のご挨拶」、次いで荻上紘一さん(大学セミナーハウス理事長)の「復刊に寄せて」が掲載されています。そこには理系の研究者らしい学問の方法についての解説がなされています。たとえば次のような文章で、理系論文のような表現に荻上先生らしいなと思いました。

 「人物Aと人物Bが同一であることを証明することは簡単ではないが、別人であることの証明は簡単である。人物Aと人物Bの属性を比較して、一致しないものが一つでもあれば両者は同一人物ではないと断定できる。」

 また、松本深志高校ご出身の荻上さんが聞かれた岡田甫校長の言葉を紹介されながら、次のように特筆されています。

 「『論理の赴くところに行こうではないか。たとえそれがいずこに到ろうとも。』と並んで古田先生が大切にした言葉が『師の説にななづみそ』である。したがって、我々は古田先生の本や論文を批判の目を持って読まなければならない。『古田先生の本に書いてあるから正しい』という判断をすれば、学問ではなく宗教になってしまう。」

 この荻上さんの主張は全くその通りです。この「復刊に寄せて」は末尾に「二〇一八年十二月五日」と執筆年月日があり、この一節にはある重要なメッセージが込められているのではないかと推測しています。
 この文が書かれた日の一ヶ月前の11月10〜11日、荻上さんが理事長をされている大学セミナーハウスで「古田武彦記念 古代史セミナー2018」が開催されました。そこである発表者が予定されていたテーマとは無関係に突然わたしに対して「古田説と異なる説(前期難波宮九州王朝複都説)を発表している」と声高に非難されるという一幕がありました。わたしは黙って聞いていましたが、恐らくは呼びかけ人であり主催者としての荻上先生がこうした言動に困惑されたことは想像に難くありません。ですから、それに対する荻上先生のメッセージが、一月後に書かれたこの「復刊に寄せて」に込められていることをわたしは疑えません。
 同書末尾には谷本茂さん(古田史学の会・会員)による「『邪馬一国の証明』復刻版解説」が収録されています。谷本さんは京都大学の学生時代からの古田先生のファンであり、古田学派の重鎮のお一人です。同書にはその論文「魏志倭人伝の短里ーー『周髀算経』の里単位ーー」が掲載されており、古代中国の天文算術書『周髀算経』に短里が使用されていることを『数理科学』(1978年3月号)に発表された経緯やその後の論争などについて解説されています。これも理系の研究者である谷本さんらしい文章です。
 このように同復刻版は学問の方法に関する古田先生の考えが詳述されており、復刻にあたって添えられた古田光河さん、荻上紘一さん、谷本茂さんの文章も古田史学をより深く理解する上で貴重なものです。ご一読をお勧めします。


第1874話 2019/04/13

「令和」と「ラフランス」と「利歌彌多弗利」

 新元号「令和」は国民の評判も良いようですし、わたしもラ行で始まる新元号が気に入っています。マーケティングの視点でも、新商品や新店舗のネーミングを柔らかい響きを持つラ行で始まる言葉にするのは、特に女性に好意的に受けとめられることが知られています。
 たとえば、人気のフルーツ「ラフランス」も本来の名前は「みだぐなす」でしたが、これは「見た目よくなし」という意味の産地の山形弁で、ネガティブな名前でした。明治時代にフランスからもたらされた洋なしの一種でしたが、全く売れませんでした。こんなに美味しいのになぜ売れないのだろうと、地元の農家が悩んだ末に相談した専門のマーケターの助言により名称を「ラフランス」に変えたとたん爆発的にヒットし、〝フルーツの王様〟の地位を占めた話は、わたしたちプロのマーケターの間では有名です。
 ところで、古代日本語(倭語)にはラ行で始まる言葉は無かったことが知られています。倭人にはラ行で始まる言葉は言いにくかったことがその理由かも知れません。中国から入った漢語には、たとえば「蘭(らん)」や「猟師(りょうし)」などのラ行で始まる言葉はあるのですが、本来の倭語には見当たりません。この事実に基づいて古田先生がある仮説を発表されたことをご存じでしょうか。
 『隋書』国伝には国王・多利思北孤の太子の名前が「利歌彌多弗利」と記されており、これはどう考えても「リカミタフツリ」あるいは「リカミタフリ」のようにラ行で始まる名前です。従って、通説では最初の「利」は「和」の誤りとして、「ワカンタフリ」と訓むとされてきました。しかし『隋書』の原文は「利」であり、「和」ではありません。そこで古田先生は「利歌彌多弗利」を「利、上塔(カミトウ)の利」とする訓みを提起されました。すなわち、「利」を倭語ではなく、中国風一字名称と理解されたのです。中国風一字名称であればラ行で始まっても不思議ではないからです。
 この古田説が正しいという証明は簡単ではありませんが、古代の倭語にラ行で始まる言葉がない以上、このような古田先生の理解しか成立できません。通説のように「和」の間違いとするのは原文改訂であり、安易に用いるべきではありませんから、相対的に古田説が有力となるわけです。
 以上のようなことを、新元号「令和」の発表で思い出しましたので、ご紹介します。


第1868話 2019/04/01

新元号「令和」を言祝ぐ

 本日、菅官房長官が新しい元号「令和(れいわ)」を発表されました。『万葉集』から「令」と「和」をとったとのこと。出典は下記の『万葉集』巻五、天平二年正月十三日に大宰府での梅花の宴で詠まれた「梅花三十二首」の序に見える「初春令月」で、漢籍ではなく日本の古典から採られたことに感慨深いものがありました。更に九州王朝の都であった太宰府で詠まれた歌ということにも因縁めいたものを感じました。

 初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。
〈読み下し〉初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮(はい)後の香を薫(かお)らす。

 というのも、古田先生は生前に日本の年号も漢籍からではなく、文化的にも独立して日本独自のものが望ましいということを語っておられたからです。そしてその一例として「富士(ふじ)」や「桜(さくら)」を挙げておられました。先生も冥界で「令和」選定を喜ばれていると思います。
 また「令和」改元により、年号に国民の関心が寄せられることもよいことと思います。近畿天皇家以前の年号「九州年号(倭国年号)」にまで関心の輪が拡がるように、「古田史学の会」で発行した『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)と『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(明石書店)の二冊を歴史ファンに紹介していきたいと考えています。
 最後にお詫びを一つ。両書を各地の講演会で紹介したとき、「平成」の次の年号について、わたしの予想を紹介したのですが、残念ながらかすりもしませんでした。「令」の字は全くの想定外でしたし、「和」は「昭和」とかぶるので採用されないと説明してきました。「平成」改元のときは「平」の字が採用されることを、わたしは的中させたのですが、今回は見事に外れました。皆様、申し訳ありませんでした。