古田武彦一覧

第1661話 2018/04/30

『論語』二倍年暦説の史料根拠(5)

 今回は「周代」史料の「百歳」記事が、わが国ではどのようにとらえられていたのかについてご紹介します。
 わたしが、九州年号研究において江戸時代の学者たちが九州年号をどのようにとらえていたのかの調査で、筑前黒田藩の儒者、貝原益軒の著作を調べていたときに次の記事に注目しました(貝原益軒は九州年号偽作説)。

 「人の身は百年を以て期(ご)となす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり。六十以上は長生なり。世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり、といへるは、虚語にあらず。長命なる人すくなし。五十なれば不夭と云て、わか死にあらず。人の命なんぞ如此(かくのごとく)みじかきや。是(これ)、皆、養生の術なければなり。」(『養生訓』巻第一)

 この「人の身は百年を以て期(ご)となす」という益軒の認識は「周代」史料に基づいています。たとえば『礼記』に次の記事が見えます。

 「百年を期(ご)といい、やしなわる。」(『礼記』曲礼上篇)

 また「上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり」も「周代」史料の『荘子』の次の記事によると思われます。

 「人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。」(盗跖(とうせき)篇第二十九)

 筑前黒田藩の儒者である貝原益軒が、これら儒教の古典を知らなかったとは万に一つも考えられません。『養生訓』の記事から判断すると、益軒は「周代」史料に見える「百歳」などの超長寿記事が二倍年暦とは考えもつかなかったようで、そのため「世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し」と記したのでしょう。
 先に紹介した『黄帝内経素問』の「年半百(五十歳)」という表現と同様に、ここでも「周代」史料の「百歳」記事に対してちょうど半分の「五十以下短命なる人多し」としており、江戸時代の日本人の一般的な寿命が50歳以下と認識されていたことがわかります。これら『黄帝内経素問』『養生訓』の記事によれば、中国の周代から日本の江戸時代に至るまで、人間の一般的な寿命が50歳と認識されており、現代日本という人類史上初の長寿社会に生きているわたしたちは、この寿命の推移に留意する必要があります。現代の寿命認識で古典の年齢記事を理解することは危険です。(つづく)


第1650話 2018/04/13

古代日本銘文鏡のフィロロギー

 「洛中洛外日記」1646話(2018/04/10)「縄文神話と縄文土器のフィロロギー」で、『古田史学会報』145号に掲載された大原重雄さんの「縄文にいたイザナギ・イザナミ」の画期性について述べました。古代人の思想性や精神文化をフィロロギーにより復元する方法として、縄文土器の文様を史料として採用するという着眼点が素晴らしい論文でした。
 このように従来は思想史の史料として省みられなかった物について、古田先生から託されたテーマがあります。30年ほど前のことだったと思いますが、三角縁神獣鏡に記された銘文について、学界は単なる中国伝来の「吉祥句」として受け止めているが、これら国産鏡に記された銘文は当時の日本人の思想や価値観を著した第一級の同時代史料であり、フィロロギーの研究対象であると古田先生からうかがいました。そして誰かこの研究をやってもらいたいとも言われました。
 このときの先生の言葉が今でもときおり脳裏に浮かぶのですが、わたしの研究対象から外れていたこともあり、全く手をつけてきませんでした。ところが今回の大原論文に触発され、少しずつでも始めなければ冥界の先生に叱られるのではと思うようになりました。
 三角縁神獣鏡の紋様や銘文についての古田先生の見解については「三角縁神獣鏡の盲点」(古田史学の会HPに収録)が参考になります。どなたか一緒に研究しませんか。


第1646話 2018/04/10

縄文神話と縄文土器のフィロロギー

 『古田史学会報』145号で発表された大原重雄さんの「縄文にいたイザナギ・イザナミ」は「古田史学の会」関西例会での発表を論文化したものです。大原さんの発表を聞いたとき、わたしはその学問の方法と縄文神話という未知の領域に挑んだ画期的な研究に驚きました。そして同時に脳裏に浮かんだもう一つの論文がありました。
 古田武彦「村岡典嗣論 時代に抗する学問」(『古田史学会報』38号、2000年6月)です。『古田武彦は死なず』(古田史学の会編、明石書店、2016年)にも収録した、古田先生にとっての記念碑的論文です(自筆原稿を古田先生から記念にいただきました。古賀家の家宝としています。自筆原稿の写真も『古田武彦は死なず』に掲載)。
 その中で村岡典嗣先生の論文「日本思想史の研究方法について」を紹介された部分があります。村岡先生がドイツのアウグスト・ベエクのフィロロギーを日本思想史として取り入れられたのですが、その思想史という学問について古田先生は次のように紹介されました。

「第一に、思想史は、『ある意味において文化史に属する』こと。
 第二に、外来の思想を摂取し、その構成要素としつゝも、その間に、何等かの『日本的なもの』を発展して来たところ、そこに思想史の目標をおかねばならぬこと。
 第三に、外国における日本思想史学の先蹤として、第十八世紀の末から第十九世紀へかけて、ドイツの学界において学問的に成立した学問として『フィロロギイ』が存在すること。
 第四に、その代表者たるアウグスト・ベエクがのべている『人間の精神から産出されたもの、則ち認識されたものの認識』という定義がこの学問の本質をしめしている。
 第五に、ただし『思想史の主な研究対象といへば、いふまでもなく文献である。』
 第六、宣長が上古、中古の古典、即ち古事記や源氏物語などの研究によつて実行したところは、十分な意味で、『フィロロギイと一致』する。」

 そして、古田先生はこの村岡先生が取り扱われた学問領域について、次のように「批判」されています。

 「以上の論述の中には、今日の問題意識から見れば、矛盾とは言えないけれど、若干の問題点を含んでいると思われる。
 その一は、縄文時代における『人間の認識』だ。右の論文の記せられた昭和初期(発表は九年)に比すれば、近年における縄文遺跡の発掘には刮目させられる。三内丸山遺跡はもとより、わたしが調査報告した足摺岬(高知県)の巨石遺構に至るまで、当時の『認識範囲』をはるかに超えている。おびただしい土器群と共に、これらが『人間の認識』に入ること疑いがない。先述のベエクの定義によれば、これらも当然『フィロロギイ』の対象である。彼が古代ギリシヤの建築・体育・音楽等をもその研究対象としている点からも、この点はうかがえよう。
 確かに、縄文世界の真相は、ただ個々の遺物や遺跡に対する考古学的研究だけではなく、同時に『思想史学的研究』にとってもまた、不可欠の対象領域ではなかろうか。けれども、その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文・著述を見ること、世に必ずしも多しとしないのではあるまいか。」

 この最後の部分にある「縄文世界の真相は、ただ個々の遺物や遺跡に対する考古学的研究だけではなく、同時に『思想史学的研究』にとってもまた、不可欠の対象領域ではなかろうか。けれども、その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文・著述を見ること、世に必ずしも多しとしないのではあるまいか。」という指摘を思い出したのです。
 古田先生が待望されていた縄文世界の真相に肉薄する「その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文」が大原論文であり、わたしたち古田学派の中から生まれた研究と言っても過言ではないと思います。古田先生が生きておられたら、大原さんの研究を高く評価されたことでしょう。


第1633話 2018/03/28

『発見された倭京 太宰府都城と官道』

  書評(1)

 発刊されたばかりの「古田史学の会」の会誌『古代に真実を求めて』21集『発見された倭京 太宰府都城と官道』を読んでいます。収録論稿の採用や編集に関わったわたしが言うのもなんですが、かなりの学問水準に達した一冊となっています。「古田史学の会」も古田先生亡き後、「弟子」らによってようやくこのレベルの論集を出せるようになったのかと思うと、感無量です。そこで、同書の収録論文について、わたしの感想や評価点を「書評」として連載したいと思います。
 本書には太宰府条坊や水城の編年等に関する拙稿も何編か収録されたのですが、直近のものでも執筆後一年近くを経ており、その後に増えた知見や深まった認識により、現時点では不十分で「腰が引けた」表現もあります。これは日々進化発展するという学問が有する性格上仕方がないことであり、ある意味では当然発生することでもあります。そうした一例を紹介します。
 拙稿「太宰府条坊と水城の造営時期」の最末尾に次の一文を記しました。

 「サンプルの資料性格から考えると、年輪数が少ない敷粗朶の測定値が木樋より適切であり、しかも発掘条件の良さから、最上層の敷粗朶の年代中央値六六〇年を最も重視すべきと思います。そうすると水城の造営年代は七世紀後半頃となり、『日本書紀』の天智三年(六六四)造営記事も荒唐無稽とはできず、九州王朝説の立場から再検討する必要があります。」(72頁)

 古田説では水城の築造を白村江敗戦(663年)よりも前とするのが常でした。わたしもそうした見解に立っていたのですが、同論稿執筆のために水城関連の発掘調査報告書を精査した結果、白村江戦後の水城完成もありうるのではないかと考えるようになりました。そうしたときに記したのがこの一文でした。しかし、その時点ではそれ以上の考察には至っていませんでした。そして、最近発表した「洛中洛外日記」1627・1629・1630話(2018/03/13〜03/18)「水城築造は白村江戦の前か後か(1)〜(3)」に至り、ようやく水城完成を『日本書紀』に記された白村江戦後の天智三年(六六四)の完成の方がより適切とする認識に到達できました。もちろん、その当否は古田学派内での論争や検討を経て確認されることになりますが、現時点ではわたしはそのように考えています。
 こうした見解の変更や認識の進展は、仮に誤っていたとしても学問研究に貢献することができますので、わたし自身は良いことと思っています。(つづく)


第1608話 2018/02/19

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(1)

 今朝は仕事で岐阜に向かっています。好天に恵まれ、JRの車窓から金華山城(岐阜城)が美しく映えています。

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 肥後から「兄弟」年号史料を発見された犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から、福岡市博多区の比恵遺跡群で「邪馬台国」時代のすずりが出土していたことを報じる地元紙(西日本新聞、朝日新聞。2月17日)の切り抜きがメールにて送られて来ました。
 報道によると、この遺跡は3世紀後半と編年されており、「古墳時代」のすずりとしては初めての出土とのこと。記事では「邪馬台国」時代のすずりなどと紹介されていますが、その「3世紀後半」を「古墳時代」と記されています。もともと「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)は弥生時代とされてきたのですが、近年の傾向として「古墳時代」と表記される例が見られるようになりました。新聞社もその学界の状況(空気)を「忖度」したものと思われます。この点、後述します。
 弥生時代のすずりは既に糸島市や筑前町など4遺跡から出土しており、この糸島博多湾岸が弥生時代の倭国の中心領域であり、女王俾弥呼(ひみか。『三国志』帝紀には「俾弥呼」。倭人伝には「卑弥呼」と表記)が統治した邪馬壹国の所在地であったことは古田武彦先生が指摘されてきた通りです。その地からすずりが出土したのですから、文字文化の先進地域であった直接証拠と言えます。この一点から見ても、「邪馬台国」論争は学問的には決着しています。このことをわたしは『古代史再検証 邪馬台国とは何か』(別冊宝島誌のインタビュー)で次のように指摘しました。当該部分を引用します。(つづく)

 文字文化が発展した「女王国」の中心部

 『魏志倭人伝』には、女王国の場所がある程度推定できる記述がいくつもあります。(中略)
 また『魏志倭人伝』には、朝鮮半島から対馬・壱岐・松浦半島・糸島平野・博多湾岸を経由して「邪馬壹国(女王国)」に至ったことが記されていますが、その最後に「南、至る邪馬壹国。女王の都する所」という記述があります。しかし、畿内説を唱える人たちは、「ここで出てくる『南』は誤りで、本当は東だった」と『倭人伝』の記述に誤りがあったと主張しています。南だと都合が悪いから東に変えたわけですが、これも元々のデータを改ざんしたルール違反「研究不正」です。(中略)
 他にも、古田氏は北部九州で痕跡が見られる倭国の「文字文化」にも注目していました。『魏志倭人伝』には、「文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ」「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す」など、「女王国」が文字を使って外交や政治を展開したことをうかがわせる記述があります。そのため、弥生時代の遺跡や遺物からもっとも「文字」の痕跡が出土する地域が、「女王国(邪馬壹国)」の候補地だったと考えるのが妥当であると、古田氏は主張しました。
 そうした文字文化が出現する地域がどこかというと、北部九州や糸島博多湾岸(筑前中域)です。この地域からは志賀島の金印や室見川の銘板、最近では弥生時代の硯なども出土しており、『魏志倭人伝』の記述の裏付けにもなっています。(以下、略)


第1582話 2018/01/22

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝庭か(1)

 昨日の新春古代史講演会(古田史学の会主催)では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が最新の研究成果を発表されました。どちらも刺激的な仮説が発表されましたが、正木さんの「九州王朝の近江朝」という新仮説は様々な問題の解明に役立つ反面、新たな疑問も生まれるものでした。
 正木説によれば、白村江戦など唐や新羅との決戦に備え、九州王朝(倭国)は難波宮より安全な近江大津宮へ「遷都」したとされ、唐に捕らえられ、その配下の筑紫都督として帰国した薩夜麻に対して、近江朝廷の九州王朝の家臣たちは留守役の天智を天皇に擁立し、九州王朝の皇女だった「倭姫王」を天智は皇后に迎え、九州王朝の権威を継承したとされました。
 この正木説によれば、庚午年籍の造籍を全国に命じたのは近江朝廷(天智)となります。他方、従来の古田旧説によれば庚午年籍は筑紫の九州王朝による造籍とされてきました。ところが晩年の古田新説では、筑紫太宰府は唐の軍隊に制圧され、宮殿や陵墓は破壊され、九州王朝(倭王・斉明)は伊予の「紫宸殿」に逃れたとされました。この古田新説では筑紫での庚午年籍造籍は不可能となりますし、正木説でも唐と対立した近江朝は、少なくとも唐軍が進駐している九州地方の造籍はできないことになります。しかし、庚午年籍が筑紫や全国で造籍されたことは明らかです。このことは古田先生も正木さんも認めておられます。
 庚午年籍を全国的に造籍させた権力主体について、正木説でも古田新説でもうまく説明できないと思われるのです。(つづく)


第1579話 2018/01/18

「都督歴」と評制開始時期

 3月発行予定の『古代に真実を求めて』21集のゲラ校正を行っています。掲載される拙稿「都督府の多元的考察」を読み直していて、『二中歴』の「都督歴」が評制開始時期を示唆していることに改めて気づきました。というのも、「洛中洛外日記」655話“『二中歴』の「都督」”において、わたしは次のように述べていたからです。

 “鎌倉時代初期に成立した『二中歴』の「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されており、その冒頭には「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)とあり、この文によれば、「都督歴」に列挙されている64人よりも前に、蘇我臣日向を最初に藤原元名まで104人の「都督」が歴任していたことになります(藤原元名の次の「都督」が藤原国風のようです)。もちろんそれらのうち、701年以降は近畿天皇家により任命された「都督」と考えられますが、『養老律令』には「都督」という官職名は見えませんので、なぜ「都督歴」として編集されたのか不思議です。
 しかし、大宰帥である蘇我臣日向を「都督」の最初としていることと、それ以降の「都督」の「名簿」104人分が「都督歴」編纂時には存在し、知られていたことは重要です。すなわち、「孝徳天皇大化五年(649年、九州王朝の時代)」に九州王朝で「都督」の任命が開始されたことと、それ以後の九州王朝「都督」たちの名前もわかっていたことになります。しかし「都督歴」には、なぜか「具(つぶさ)には之を記さず」とされており、蘇我臣日向以外の九州王朝「都督」の人物名が伏せられています。
 こうした九州王朝「都督」の人物名が記された史料ですから、それは九州王朝系史料ということになります。その九州王朝系史料に7世紀中頃の蘇我臣日向を「都督」の最初として記していたわけですから、「評制」の施行時期の7世紀中頃と一致していることは注目されます。すなわち、九州王朝の「評制」の官職である「評督」の任命と平行して、「評督」の上位職掌としての「都督」が任命されたと考えられます。”

 更に、777話“大宰帥蘇我臣日向”でも、次のように述べました。

 “九州王朝が評制を施行した7世紀中頃、筑紫本宮で大宰帥に任(つ)いていたのが蘇我臣日向ということですから、蘇我氏は九州王朝の臣下ナンバーワンであったことになります。
 蘇我臣日向は『日本書紀』にも登場しますが、『二中歴』の「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記ですから、その「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかと考えています。”

 「藤原元名以前は総じて百四人なり」と記された藤原元名は平安時代の官人で、天暦8年(954)に大宰大弐に任じられています。従って蘇我日向が都督に任じられたとされる「孝徳天皇大化5年(649)」から「天暦8年(954)」まで305年間に103人の都督がいたと「都督暦」では記されていることから、単純計算すると九州王朝の時代(700年以前)には約17名の都督がいたことになります。もちろんこれは計算上の数値ですから、約17名という数字に大きな意味があるわけではありません。「都督暦」の記事で注視すべきは次の点です。

①『二中歴』編者が藤原元名より前の「都督」103名の存在を知っていた。
②その103名中、九州王朝時代の「都督」(計算上では約17名)の存在も知っていた。すなわち、九州王朝系「都督名簿」(九州王朝系史料)が存在していた。
③九州王朝系「都督名簿」を参考にして「都督暦」は記されており、そのうえで「都督」の最初を蘇我日向とした。
④従って、九州王朝系「都督名簿」にも最初の都督を「蘇我日向」と記されていたと考えるべきである。
⑤従って、九州王朝(倭国)が都督を任命したのは7世紀中頃(孝徳天皇大化五年)となり、「都督」の下位職(地方職)の「評督」も同時期に任命されたと理解するのが穏当である。
⑥古代諸史料では評制開始が7世紀中頃とされていることは、「都督」「評督」任命時期と対応しており、史料性格や成立時代の異なる『二中歴』(鎌倉初頭成立)や評制開始時期を記した古代諸史料の主張が一致することは、評制開始時期を7世紀中頃とする論証力を強めている。

 『古代に真実を求めて』21集のゲラ校正により、以上のように評制開始時期に関する論理性を更に深めることができました。


第1578話 2018/01/17

任那の国県制

 「洛中洛外日記」1572話「評制施行時期、古田先生の認識(8)」で、不用意にもわたしは「残念ながら当時の任那の『行政区画』が『国・県』制だったのか『国・郡』制だったのか、あるいは七世紀中頃に倭国内で施行された『国・評・里(五十戸)』制(評制)だったのかは不明です。」としましたが、古田先生が任那が「国県制」であったことを論証されていたこと思い出しましたので紹介します。
 『古代は輝いていた3』(1985年、朝日新聞社刊)の「第五章 二つの『風土記』」に次のように記されています。

 「(三)『日本旧記』の記事は、『任那』に関連する史実を語っている。ところが、この『任那』とは、第二巻でのべたように、朝鮮半島における倭地だ。その倭国とは、筑紫の王者を倭王とする、その領域内をしめしていた。
 ところが、その倭地では、
 任那国の下多呼利県。(※)
とあるように、『県』という行政単位が用いられていた。そのことをしめしているのである。これが倭国の行政単位だったのだ。」(69〜70頁、ミネルヴァ書房復刻版)
 ※「多」は口偏に「多」。「利」は口偏に「利」。

 このように九州王朝(倭国)が支配していた朝鮮半島の任那国(倭地)でも、九州王朝本国と同様に「国県制」であったとされています(ここでも古田先生は行政区画名の「県」を「行政単位」と表記されています)。従って、古田先生は九州王朝(倭国)では、5〜6世紀と7世紀前半頃が「国県制」、7世紀中頃から末までが「評制」であったと理解されていたことがわかります。5世紀よりも前の倭国の行政区画については別途詳述する予定です。


第1577話 2018/01/16

九州王朝の国県制

 古田先生の評制開始時期に関する認識について説明してきましたが、その中で7世紀前半の九州王朝の行政区画について、「評」あるいは「県」とする古田先生の見解を紹介しました。そこで、古田先生が評制以前の「国県制」についてどのように考えておられたのかも紹介したいと思います。
 『古代は輝いていた3』(1985年、朝日新聞社刊)の「第五章 二つの『風土記』」に次のように記されています。

 「九州王朝の行政単位 (中略)
 その上、重大なこと、それは五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が「県」であったこと、この一事だ。
 この点、先の『筑後国風土記』で、「上妻県」とある。これは、筑紫の王者(倭王)であった、筑紫の君磐井の治世下の行政単位が「県」であったこと、それを明確に示していたのである。」(70頁、ミネルヴァ書房復刻版)

 ここでのテーマは、行政区画名が「県」と「郡」の二種類の風土記について述べたもので、九州王朝による『風土記』が「県」風土記であり、その成立時期について考察されたものです。その中で、「五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が「県」であった」とされています。すなわち、7世紀中頃の評制開始の前の行政区画が「国県制」であったとされているのです。
 なお、ここでは古田先生は行政区画名の「県」を「行政単位」とされています。また、「県」は普通は「あがた」と訓まれていますが、古田先生はなんと訓むかは不明と、用心深く述べられています。(つづく)


第1576話 2018/01/15

前田博さんの思い出

 博多から京都に帰る新幹線車中で書いています。
 昨晩、福岡市天神の平和楼(中華料理店)での「九州古代史の会」新年会に参加し、木村会長や事務局の前田和子さん、編集部の工藤常泰さん沖村由香さん、そして古くからの友人の松中祐二さん(古田史学の会・会員でもある)らと夜遅くまで親睦を深めてきました。
 同会の正月例会で講演された岡部裕俊先生(糸島市教育委員会・伊都国歴史博物館館長)の隣席に座らせていただけましたので、当地の考古学的出土状況などたくさんのことをご教示いただきました。岡部さんは古田先生とお会いになられたこともあるとのことで、「古田先生から叱られました」と懐かしそうにお話しされていました。聞けば、岡部さんは森浩一先生のお弟子さんとのことで、古田先生と森浩一先生のご縁を思うと、それぞれの「弟子」が博多で歓談するというのも、不思議な巡り合わせと思いました。
 その新年会で下関市から来られた中村さんという方がご挨拶され、「市民の古代研究会」時代からの会員で「古田史学の会」にも入会されているとのこと。そのご挨拶の中で、下関市在住の古参の古田支持者だった前田博さんのお名前が出されました。前田さんは「古田史学の会」創立時に全国世話人に就任していただいたこともあり、懐かしいお名前を久しぶりに聞くことができました。前田さんも物故されたとのことで、古田ファン第一世代の多くの先輩が鬼籍に入られたことを深く感じました。
 三十年ほど昔のことと記憶していますが、古田先生と二人で長門の鋳銭司跡訪問のおり、前田さんのおクルマで案内していただきました。そのとき、松下村塾も案内していただいたような記憶があるのですが、当時のわたしは吉田松陰にはあまり関心がなかったようで、どのような話を古田先生としたのか思い出せません。先生との記憶が薄れないうちに、「洛中洛外日記」などに書き留めておかなければと、改めて思いました。


第1574話 2018/01/14

評制施行時期、古田先生の認識(10)

 本連載において、九州王朝(倭国)における行政区画「評制」(「国・評・里(五十戸)」制)の施行時期について、古田先生が7世紀中頃と認識しておられたことが先生の著書や講演録に記されていることを紹介してきました。
 こうした古田先生の認識については、わたしにとってあまりにも当たり前のことで、これを疑う方が古田学派内におられることに驚いています。もちろん、学問研究の問題ですから、この古田先生の見解やそれを支持するわたしに反対することも学問の自由です。「師の説にななづみそ」。本居宣長のこの言葉を「学問の金言」と古田先生は仰っていましたから、師の説といえども批判し、異なる説を発表することは学問の自由ですし、学問は真摯な批判や論争により発展してきました。
 しかし、古田先生がどのように認識されていたかを正確に理解した上で批判はなされるべきです。本テーマではありませんが、わたしが書いても言ってもいないことを誤引用・誤要約され、それを古賀の意見として批判されるという経験をわたしは度々しています。学問論争は批判する相手の意見を正確に理解することが基本であり常識です。
 古田先生は亡くなられましたが、わたし以外にも古参の「弟子」はご健在です(谷本茂さんら)。そうした方々への聞き取り調査も可能ですから、古田先生の見解を正確に理解した上で、学問的批判・討議の対象とされることを訴えて、本連載の結びとします。(了)


第1573話 2018/01/13

評制施行時期、古田先生の認識(9)

 わたしは「文字史料による『評』論 『評制』の施行時期について」(『古田史学会報』119号、2013年12月)で、史料を明示して評制施行時期について説明しました。もちろん古田先生にも『古田史学会報』を送り、拙稿を読んでいただいていました。同論稿では、孝徳期(七世紀中頃)での「評制」開始を記した、あるいは示唆した次の史料を紹介しました。

①『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・八〇四年成立)「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、七世紀中頃に難波朝廷が天下に評制を施行したことが記されています。
②『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき。和銅元年・七〇八年成立)
 「難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世。天下郡領并国造県領定賜。」という記事があり、この記事を含む系譜部分の成立は和銅元年(七〇八)とされており、『古事記』『日本書紀』よりも古い。「天下郡領」とありますが、7世紀のことですから実体は“孝徳天皇の御世に天下の評督を定め賜う”です。
③『類聚国史』(巻十九国造、延暦十七年三月丙申条)
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
 ここでは「諸郡」と表記されていますが、「難波朝廷」の時期ですから、その実体は“昔、難波朝廷がはじめて諸評を置く”です。
④『日本後紀』(弘仁二年二月己卯条)
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
 ここでも「郡領」とありますが、「難波朝廷」がその職を初めて置いたとありますから、やはりその実体は「評領」あるいは「評督」となります。
⑤『続日本紀』(天平七年五月丙子条)
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)ひて副(そ)ふべし。」
 これは難波朝廷以来の代々続いている「譜第重大(良い家柄)」の「郡の役人」(評督など)の選考について述べたものです。この記事から「譜第重大」の「郡司」(評督)などの任命が「難波朝廷」から始まったことがわかります。すなわち、「評制」開始時期を「難波朝廷」の頃であることを示唆する記事です。

 以上のように、『日本書紀』(七二〇年成立)の影響を受けて「評」を「郡」と書き換えて表記されているケースもありますが、その言うところは例外無く、「難波朝廷」(七世紀中頃)の時に「評制」が開始されたということを主張しています。それ以外の時期に「行政区画」としての「評制」が開始されたとする史料はないのですから、多元史観であろうと一元史観であろうと、史料事実や史料根拠に基づくかぎり、「評制」開始は七世紀中頃とせざるを得ないのです。もちろん、古田先生もこうした史料事実をご存じでしたから、評制施行時期を7世紀中頃と考えられていたのです。(つづく)