古田武彦一覧

第2247話 2020/10/02

古田武彦先生の遺訓「二倍年暦の研究」

 今日は秋晴れのなか、岡崎公園にある京都府立図書館を訪れ、二冊の本を閲覧しました。岳南著『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(柏書房、2005年)と佐藤信弥著『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)です。
 前者は中国の国家プロジェクトとして実施された中国古代王朝の絶対年代決定プロジェクト(夏商周断代工程)の概要と結果をまとめたもので、その結論が正しければ古田先生やわたしが提唱してきた『論語』など周代史料の二倍年暦説が否定されます。後者はタイトルにある通り、中国古代史研究の最新状況を紹介したもので、主に「夏商周断代工程」以後の研究について解説されたものです。
 二倍年暦研究において、わたしは古田先生から『論語』の語彙悉皆調査を委託されましたが、その当時は仕事が多忙で果たせませんでした(注)。本年八月、わたしは四五年間勤務した化学会社を定年退職し、ようやく古田先生の遺訓を実現できる研究環境を得ました。
 『論語』はもとより、『春秋』『竹書紀年』の本格的な史料批判をこれから試みます。その手始めとして、この二冊を読みました。そこからは、わたしが想像していた通り、二倍年暦や「二倍年齢」という概念を持たない現代中国の研究者たちの限界と混乱の様子が見えてきました。(つづく)

(注)
 平成二二年(二〇一〇)「八王子セミナー」で古田先生は次のように発言されています。
 「二倍年暦の問題は残されたテーマです。古賀達也さんに依頼しているのですが、(中略)それで『論語』について解釈すれば、三十でよいか、他のものはどうか、それを一語一語、確認を取っていく。その本を一冊作ってくださいと、五、六年前から古賀さんに会えば言っているのですが、彼も会社の方が忙しくて、あれだけの能力があると使い勝手がよいのでしょう、組合の委員長をしたり、忙しくてしようがないわけです。」『古田武彦が語る多元史観』六六~六七頁(ミネルヴァ書房、二〇一四年)


第2230話 2020/09/10

南極越冬隊員、北村泰一先生のこと

 昨日、関西テレビで放送された「世界の何だコレ!?ミステリーSP」(19:00~20:54)を視て感動した妻が「南極のタローとジローの他にリキというリーダー犬が生存していたらしい」と番組の内容を事細かに報告するので、「そのときの越冬隊の方に知り合いがいるよ」と言うと、「北村泰一さんというカラフト犬担当のご老人がその番組に出ていた」とのこと。「僕はその北村先生と知り合いで、お会いしたこともある」と自慢げに説明すると、妻は驚いていました。わたしは、北村先生がご健在であることを知り、嬉しくなり、昔のことを思い出しました。
 北村泰一先生(九州大学名誉教授)は古田先生の大ファンで古田史学の熱心な支持者です。福岡市で開催した古田先生の講演会にもよくお見えになっておられました。そうした御縁もあって、『新・古代学』第二集(新泉社、1996年)の特集「地球物理学と古代史と」「タクラマカン砂漠の幻の海 ―変わるシルクロード」をご寄稿いただきました。同書には古田先生との対談「地球物理学と古代史」も掲載されています。また、「古田史学の会」にご寄付をいただいたこともありました。
 北村先生は京都市のご出身で、鴨沂高校から京都大学へ進まれました。京大山岳部に所属されていたこともあり、同大学院生時代に第一~三次南極越冬隊にオーロラ観測と犬ぞりのカラフト犬担当係として参加されました。最年少隊員(25歳)だったそうです。第三次越冬隊のとき、昭和基地でタロー・ジローと奇跡の再会をされたことは有名です。
 なお、今回の番組は『その犬の名を誰も知らない』という本を基に企画されたものです。著者の嘉悦洋さんは、西日本新聞の記者を務められた方で、2018年、まったくの偶然から南極観測隊第一次越冬隊の犬係だった北村先生が福岡市でご健在であることを知り、インタビューに訪れ、同書を上梓されたとのことです。

書名 その犬の名を誰も知らない
監修・編集・著者 嘉悦洋著、北村泰一監修
出版社 小学館集英社プロダクション
出版年月日 2020年2月20日
定価 本体1500円+税


第2229話 2020/09/09

文武天皇「即位の宣命」の考察(11)

 文武天皇と元明天皇の「即位の宣命」の考察結果が、古田先生による天智天皇(近江朝)による671年(天智十年)の「日本国」創建という〝奇説〟と正木裕さんの「九州王朝系近江朝」説とに結びつき、671年の「王朝統合」(禅譲に近い)と701年の「王朝交替」という九州王朝末期の歴史復元が可能となりました。
 しかしながら、671年の「王朝統合」は、九州年号「白鳳」(661~683年)が改元されず継続していることから、天武と大友皇子との「壬申の大乱」により「九州王朝系近江朝」は滅び、元々の九州王朝が継続することになったことがわかります。
 この「王朝統合」(禅譲に近い)と「壬申の大乱」(九州王朝系近江朝の滅亡)のことが、元明天皇から元正天皇への「譲位の詔」に記されていることを本シリーズの最後に紹介します。それは霊亀元年(715年)「譲位の詔勅」冒頭の次の記事です。

〝(元明)天皇、位を氷高内親王(元正天皇)に禅(ゆず)りたまふ。詔して曰はく、
 「乾道は天を統べ、文明是(ここ)に暦を馭す。大なる宝を位と曰ひ、震極、所以に尊に居り。
 昔者(むかし)、揖譲(いうじょう)の君、旁(ひろ)く求めて歴(あまね)く試み、干戈(かんか)の主、体を継ぎて基(もとい)を承(う)け、厥(そ)の後昆(こうこん)に貽(のこ)して、克(よ)く鼎祚(ていそ)を隆(さか)りにしき。朕、天下に君として臨み、黎元(おほみたから)を撫育するに、上天の保休を蒙り、祖宗の遺慶に頼(よ)りて、海内晏静にして、区夏安寧なり。(後略)」〟
 『続日本紀』巻第六、元明天皇霊亀元年九月二日条

 この詔の「昔者(むかし)、揖譲(いうじょう)の君、旁(ひろ)く求めて歴(あまね)く試み、干戈(かんか)の主、体を継ぎて基(もとい)を承(う)け、厥(そ)の後昆(こうこん)に貽(のこ)して、克(よ)く鼎祚(ていそ)を隆(さか)りにしき。」という部分にわたしは着目しました。その大意は次のようです。

①「昔者、揖譲の君、旁く求めて歴く試み」
 昔、天子の位を禅譲(揖譲)する者は優れた人材を各地から集め、その才能を試み、
②「干戈の主、体を継ぎて基を承け」
 武力(干戈)により位についた者は、天子の位を継承し、
③「厥の後昆に貽して、克く鼎祚を隆りにしき。」
 それを子孫(後昆)に継承し、天子の地位(鼎祚)を確かなものにした。

 通説では、この文を古代中国における禅譲や放伐による王朝の興亡を故事として述べたものと理解されてきたと思われますが、九州王朝説に立てば、極めて具体的な歴史事実を示したものととらえることができます。
 この詔を聞いた官僚や諸豪族は、九州王朝から大和朝廷への王朝交替というわずか十数年前の歴史事実に照らしてこの文を受け止めるのではないでしょうか。少なくとも、『古事記』や『日本書紀』に記された近畿天皇家の歴史に禅譲など存在しませんから、元明天皇の「譲位の詔」に自らと無関係な古代中国の禅譲の故事など不要ですし、むしろ禅譲などする気もない近畿天皇家にとって無用の故事です。
 しかし、「王朝統合」(禅譲に近い)と「壬申の大乱」(九州王朝系近江朝の滅亡)という新たな仮説に照らして考えると、「揖譲の君」は「九州王朝系近江朝」の天皇位を天智に禅譲した九州王朝の天子のことであり、その「九州王朝系近江朝」を武力討伐した天武は「干戈の主」に対応しています。そしてその子孫である大和朝廷の天皇は「厥の後昆・鼎祚」というにぴったりです。
 この元明の「譲位の詔」ではこうした歴史認識が示された後に、元正への譲位が宣言されます。そして、元正天皇の時代(720年)に編纂された『日本書紀』には、天智に禅譲した九州王朝の天子はもとより、九州王朝の存在そのものが隠されていますし、天智が定めた「不改常典」さえも登場しません。すなわち、自らの権威の淵源を天孫降臨以来の神々と初代神武天皇とすることにより、文武天皇や元明天皇の「即位の宣命」とは似て非なる大義名分を造作し、それを国内に流布するという政略を大和朝廷は採用しました。その結果、『日本書紀』の一元的歴史観は千三百年にわたりわが国の基本歴史認識となりました。しかし、九州王朝の存在や王朝交替を認めないその基本認識(一元史観)では、禅譲による近江朝の樹立と天皇即位の根拠になった「不改常典」について正しく理解することが困難なため、諸説入り乱れるという古代史学界の今日の状況を生み出すこととなったようです。(おわり)


第2228話 2020/09/08

文武天皇「即位の宣命」の考察(10)

 元明天皇の「即位の宣命」にあるように、近畿天皇家の天皇即位の根拠や王朝交替の正統性が、天智天皇が定めた「不改常典」法にあるとすれば、そのことと深く関わる論文二編があります。
 一つは古田先生の著書『よみがえる卑弥呼』(駸々堂、1987年)に収録されている「日本国の創建」という論文で、671年(天智十年)、近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を名乗ったとされています。これは古田史学の中でも〝孤立〟した説で、古田学派内でもほとんど注目されてこなかった論文です。言わば古田説(九州王朝説)の中に居場所がない〝奇説〟でした。
 もう一つの論文は、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の「『近江朝年号』の実在について」(『古田史学会報』133号、2016年4月)です。これは、近畿天皇家出身の天智が九州王朝を受け継いで近江大津宮で即位し、九州王朝(倭国)の姫と思われる「倭姫王」を皇后に迎えたというものです。すなわち、「九州王朝系近江朝」という概念を提起されたのです(注①)。
 この正木さんの「九州王朝系近江朝」説により、古田先生の671年(天智十年)に近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を名乗ったという〝奇説〟が、従来の九州王朝説の中で、671年の「王朝統合」(禅譲に近い)と701年の「王朝交替」という結節点と臨界点としての位置づけが可能となり、九州王朝末期における新たな歴史像の提起が可能となったように思われます。ただし、671年の「王朝統合」は天武と大友皇子との「壬申の大乱」により水泡に帰します。近世史でいえば、幕末の「公武合体」が失敗したようにです。しかし、このとき天智により定められた「不改常典」法が701年の王朝交替とその後の天皇即位の正統性の根拠とされました。その痕跡が本シリーズで紹介してきたように、文武天皇と元明天皇の「即位の宣命」に遺されたのです(注②)。(つづく)

(注)
①次の関連論文がある。
 正木 裕「『近江朝年号』の研究」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』明石書店、2017年)に収録。
 古賀達也「九州王朝を継承した近江朝庭 正木新説の展開と考察」(『古田史学会報』134号、2016年6月)。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集。明石書店、2017年)に転載。
②王朝交替期における大和朝廷による九州王朝の権威の継承や、それを現す「倭根子天皇」という表記について、次の拙稿で論じているので、参照されたい。
 古賀達也「九州王朝系近江朝廷の『血統』 ―『男系継承』と『不改常典』『倭根子』―」(『古田史学会報』157号、2020年4月)


第2110話 2020/08/22

旧石器捏造事件の想い出

 本日、「古田史学の会」関西例会が開催されました。司会の西村秀己さん(全国世話人、高松市)が所用で参加されなかったので、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)に司会進行を担当していただきました。わたしはご町内(上京区梶井町)の地蔵盆のため、1時間ほど遅刻しましたので、服部さんの発表を聞けませんでした。そこで、お昼の休憩時間に概要を教えていただきました。
 今回の発表では、大原さん(『古代に真実を求めて』編集部)による、旧石器捏造事件の解説は特に印象的でした。当時、特定人物による旧石器の発見が続出したことを疑問視する考古学者は少なくなかったのですが、学界の「権威」に対して沈黙したこと、事件には「共犯者」がいたとする見解などが紹介されました。そして、「事件を風化させない継続的な働きかけや考古学への外部チェックのような存在として古田史学はその役割を発揮しなければならないのではないか」と締めくくられました。
 旧石器捏造事件が発覚する前に、古田先生はその捏造の当事者に会われたことがあるとお聞きしました。その後、「古田史学の会・仙台」がその人物に講演をお願いしたところ、急に態度がよそよそしくなり、交流が途絶えたとのことです。そしてその直後に捏造事件が明るみになったことなど、わたしは大原さんの発表を聞いていて思い出しました。
 正木さんからは『隋書』や『日本書紀』に見える、中国(隋・唐)と日本(九州王朝・近畿天皇家)との国書や交流記事についての古田先生の説が初期の頃と晩年とでどのように変化したのかについて解説され、それぞれの問題点とその解決案についての発表がありました。かなり重要で複雑な論証を含む内容ですので、別の機会に改めて論じたいと思います。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔8月度関西例会の内容〕
①秦韓慕韓問題(八尾市・服部静尚)
②倭地周旋と邪馬台国論(姫路市・野田利郎)
③風化させてはならない旧石器捏造事件(大山崎町・大原重雄)
④欽明天皇の存在にまつわる不可思議(茨木市・満田正賢)
⑤「驛」記事の検証(東大阪市・萩野秀公)
⑥『書紀』の「小野妹子の遣唐使」記事とは何か(川西市・正木 裕)

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」の回避に大部屋使用のため)
 09/19(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
 10/17(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
 11/21(土) 10:00~17:00 会場:福島区民センター(※参加費500円)

《各講演会・研究会のご案内》
◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都
 09/15(火) 18:30~20:00 「万葉の色と染」 講師:古賀達也
 10/20(火) 18:30~20:00 「能楽の中の古代史」 講師:正木 裕さん

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 09/29(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館
    「多利思北孤の時代② 仏教を梃とした全国統治」 講師:正木 裕さん
 10/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良新聞社西館3階
    「多利思北孤の時代③ 「聖徳太子」の「遣隋使」はなかった」 講師:正木 裕さん

◆「古代史講演会in八尾」 会場:八尾市文化会館プリズムホール
 09/12(土) 14:00~16:00 ①「九州王朝」と「倭国年号」の世界 ②「盗まれた天皇陵」 講師:服部静尚さん
 10/03(土) 14:00~16:00 ①「古代瓦と飛鳥寺院」 ②「法隆寺の釈迦三尊像と薬師像」 講師:服部静尚さん
 11/03(火・祝) 14:00~16:00 ①「大化の改新」と難波京 ②「条坊都市はなぜ造られたのか」 講師:服部静尚さん

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター

全て順延したので削除

 

《古田武彦記念古代史セミナー2020》(八王子セミナー)
 11/14~15 大学セミナーハウス(東京都八王子市)
 新型コロナ対策として、Zoomを使ったオンライン+現地参加の「ハイブリッド方式」での開催となりました。オンライン参加6,000円、現地参加15,000円。


第2200話 2020/08/09

『隋書』「俀国」表記の古田先生の理解

 『隋書』夷蛮伝の「俀国」の「俀」の由来について、古田先生が『失われた九州王朝』(第三章 四、『隋書』俀国伝の示すもの)で次のように説明されていることを「洛中洛外日記」2182話(2020/07/11)〝九州王朝の国号(8)〟で紹介し、同2183話(2020/07/12)〝九州王朝の国号(9)〟では、「古田先生は、五世紀以来、『タイ国』という名称を用いた九州王朝が『倭』に似た文字の『俀』と一字で表記した」と説明しました。

【以下、引用】
〈三国志〉
 邪馬壹国=山(やま)・倭(ゐ)国(倭国の中心たる「山」の都)
〈後漢書〉
 邪馬臺国=山(やま)・臺(たい)国(臺国〔大倭(たいゐ)国〕の中心たる「山」の都)
〈隋書〉
邪靡堆=山(やま)・堆(たい)(堆〔大倭〕の中心たる「山」の都)
 〈中略〉
 右のように、五世紀以来、「タイ国」という名称が用いられていたのが知られる。おそらく「大倭(タ・ヰ)国」の意味であろう。これを『後漢書』では「臺国」と表記し、今、『隋書』では「倭」に似た文字を用いて、「俀国」と表記したのである。このように一字で表記したのは、中国の一字国号にならったものであろう。なお、「倭」の字に中国側で「ゐ→わ」という音韻変化がおこり、「倭」を従来通り「ゐ」と読みにくくなった。このような、漢字自体の字音変化も、「俀」字使用の背景に存しよう。
【引用、終わり】

 この引用文の直前の「俀国の由来」冒頭には、次のようにも述べられています。

〝ここで「俀」という、わたしたちにとって〝目馴れぬ〟文字を国名とした由来について考えてみよう。
 『隋書』俀国伝の記述は、先にのべたように、多利思北孤の国書に直接もとづいている。だから、この国書の中に自国の国名を「俀(タイ)国」と名乗っていた。そのように考えるほかない。〟

 この文章は『失われた九州王朝』「第三章 高句麗王碑と倭国の展開」(朝日新聞社、1973年)に記されたもので、その時点での古田先生の見解を示しています。ところが、東京古田会の機関紙『東京古田会ニュース』バックナンバーを精査したところ、次の古田先生の寄稿文がありました。要点部分を転載します。

〝第一に「俀」の訓み。わたしは「タイ」と訓んできたが、田口さんは「ツイ」と訓んでおられる。お聞きすると、「漢音では『タイ』だが、呉音系列では『ツイ』。九州王朝は南朝系だから『ツイ』と訓んだ。」とのこと。なるほど、一つの筋道だ。
 だが、わたしはお答えした。
 「問題は、この『俀』という文字を“使った”のが、九州王朝側か、それとも隋書を作った『唐』側か、という点です。
 この『俀』という字には『よわい』という意味しかありません(諸橋、大漢和辞典)。そんな字を、九州王朝自身が“使って”外国(隋か唐)への国書を送るものか。有名な『日出ずる処の天子』を自称するほど、誇りに満ちた王朝ですからね。」
 わたしは言葉を次いだ。
 「ですから、わたしの考えでは、九州王朝側は『大倭』(タイヰ)と国書に書いたのではないか。と思うのです。
 『倭』は、魏や西晋など、洛陽・西安滅亡の『四一六』、南北朝成立以前には『wi』です。右の北朝、つまり北魏(鮮卑)の黄河流域制圧以後、『wa』の音が成立してきた、と思います。
 (中略)
 それで、『大倭』は『タイヰ』と発音していたはずです。ところが、隋や唐側は、これを“面白く”思わなかった。『大隋』というのは、隋自身の“誇称”ですからね。『天子』を自称する倭国側には当然でも、隋には『不愉快』。いわんや唐にとっては、“許しうる国号”ではありません。ですからこれを『弱い』という意味の『俀』に“取り変え”て表記したのではないでしょうか。
 ちょうど、三国志に出てくるように、新の王莽が高句麗を敵視して『下句麗』と書き改めたという、あれと同じです。文字の国独自の“やり口”ですね。」
 わたしはそのように語った。
 「まかりまちがっても、倭国側が自分でわざわざ『弱い』という意味の文字を使うはずはありませんからね。」
と、わたしにとっても、永年の模索の結論だったのである。〟『東京古田会ニュース』108号(2006年5月)「閑中月記 第四十一回 創刊『なかった』」

 このように2006年段階では、「俀国」という文字使用は、隋書を作った『唐』側によるものとされています。そして末尾にあるように、このことを「永年の模索の結論だった」と述べておられますから、自説変更のため、三十年以上、模索されていたわけです。ですから、本件についての「古田説」を紹介する場合は、2006年段階の〝「俀国」表記は隋書を作った唐側による〟とするのが適切ではないでしょうか。


第2184話 2020/07/13

九州王朝の国号(10)

 六世紀末から七世紀初頭の九州王朝が「倭国」から「大委国」へと国号を変更したとする拙論は、同時代の史料(『法華義疏』)に見える「大委国」と『隋書』夷蛮伝に見える「俀」の字を根拠に成立しています。そこで次の検討課題は七世紀後半の国号です。白村江戦敗北による唐軍の筑紫進駐や「壬申の大乱」、そして大和朝廷との王朝交替へと続く激動の時代であり、国号についても難しい問題があります。
 古田説では、「倭国」を名乗った九州王朝から701年の王朝交替により「日本国」を名乗った大和朝廷の創立という大きな歴史認識があります。ところがそれよりも30年前の671年(天智十年)に、天智天皇の近江朝が「日本国」を名乗ったとする古田先生の論文があります。「日本国の創建」(『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年)という論文で、古田学派内でもあまり注目されてきませんでしたし、古田先生ご自身もその論文について触れることは、わたしの知る限りではありませんでした。
 他方、『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973年)では、『旧唐書』日本国伝の記事を根拠に大和朝廷が「日本」を名乗る以前に九州王朝が「日本」を名乗ったとされており、「日本国の創建」で発表された天智天皇による671年の日本国創建説とは相容れません。『失われた九州王朝』「第四章 隣国史料にみえる九州王朝」には次のように記されています。

【以下、引用】
(一)「委奴国」や「卑弥呼」より、「多利思北孤」にいたる連綿たる九州王朝が「倭国」の中心王朝である(一時「俀国」とも名乗った)『隋書』。
(二)その倭国が「日本」と自ら国号を改称した。
(三)近畿大和の一小国だった天皇家がこれを征服し、併合した。
(四)そのとき、天皇家は、国号を九州王朝から「継承」し、やはり「日本国」と称した。
 つまり、「日本」と名乗った最初は、天皇家ではなく、九州王朝だ、というのである。
【引用終わり】

 以上のように、「日本」の国号を最初に名乗ったのが九州王朝とする説と近畿天皇家の天智天皇(近江朝)とする相容れない二説が古田説として併存しているのです。ところが、近年、この矛盾を解決できる仮説が発表されました。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の「九州王朝系近江朝」という新説です。(つづく)


第2183話 2020/07/12

九州王朝の国号(9)

 『隋書』夷蛮伝に見える「俀国」の「俀」の字の由来について、古田先生は、五世紀以来、「タイ国」という名称を用いた九州王朝が「倭」に似た文字の「俀」と一字で表記したとされました。その背景として「倭」の字の音韻変化(ゐ→わ)があると示唆されました。
 この中国での音韻変化を九州王朝の国号表記変更の背景とすることは拙論と同じですが、「俀」への変更を九州王朝側が行ったとすることと、元々の国号表記を「大倭」とする点が異なります。拙論では多利思北孤時代の九州王朝の国号は「大委」で、隋の天子への国書にも「大委国」と表記したと考えています。もちろん、その史料根拠は『法華義疏』冒頭に見える「大委国」です。
 それではなぜ『隋書』では「倭」(帝紀)や「俀」(夷蛮伝)とされたのでしょうか。古田先生は両者を別国(倭=近畿天皇家、俀=九州王朝)とされましたが、古田学派の論者からは両者ともに九州王朝のこととする見解が近年発表されています。しかし「俀」表記の理由については見解の一致を見ていません。他者を納得させ得るほどの有力説がまだ出ていないのかもしれません。
 わたしの判断では、夷蛮伝に「俀」の字が採用された理由は、「大委」の尊称「大」を夷蛮の国号表記として不適切と『隋書』編纂者が判断し、「大委」の中国語音「た・ゐ」表記に、「倭」に似た字の「俀」が選ばれたのではないかと考えています。
 他方、帝紀では、同じく「大委国」という国号では、尊称「大」の使用と、唐代北方音で彼らが「倭」(wa)と読んでいた九州王朝の呼称が「委」(wi)となり、それらを不適切と判断し、『三国志』以来の表記「倭」が採用されたものと思います。すなわち、九州王朝が音韻変化した「倭」(wa)を忌避して、「委」(wi)の字を採用(再使用)したのとは真逆の動機が『隋書』編纂者側に発生したこととなります。
 しかしながら、夷蛮伝と帝紀で表記が異なった理由はまだわかりません。今後の研究や論争推移を見守りたいと思います。(つづく)


第2182話 2020/07/11

九州王朝の国号(8)

 『隋書』には九州王朝の国号が「委」ではなく、帝紀には「倭」、夷蛮伝には「俀国」とあります。この「俀」の由来について、古田先生は『失われた九州王朝』(第三章 四、『隋書』俀国伝の示すもの)で次のように説明されています。

【以下、引用】
〈三国志〉
 邪馬壹国=山(やま)・倭(ゐ)国(倭国の中心たる「山」の都)
〈後漢書〉
 邪馬臺国=山(やま)・臺(たい)国(臺国〔大倭(たいゐ)国〕の中心たる「山」の都)
〈隋書〉
邪靡堆=山(やま)・堆(たい)(堆〔大倭〕の中心たる「山」の都)
 〈中略〉
 右のように、五世紀以来、「タイ国」という名称が用いられていたのが知られる。おそらく「大倭(タ・ヰ)国」の意味であろう。これを『後漢書』では「臺国」と表記し、今、『隋書』では「倭」に似た文字を用いて、「俀国」と表記したのである。このように一字で表記したのは、中国の一字国号にならったものであろう。なお、「倭」の字に中国側で「ゐ→わ」という音韻変化がおこり、「倭」を従来通り「ゐ」と読みにくくなった。このような、漢字自体の字音変化も、「俀」字使用の背景に存しよう。
【引用、終わり】

 このように古田先生は九州王朝の国号変化の背景に「倭」の音韻変化(ゐ→わ)を示唆されています。このことを紹介しておきたいと思います。(つづく)


第2154話 2020/05/16

八王子セミナー2020 発表タイトルと要旨

 本年11月に開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)の発表タイトルと要旨を提出するようにと、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)から荻上実行委員長名による要請書が届きました。冨川さんには「古田史学の会」を代表して同セミナーの実行委員会に参加していただいています。
 本年のセミナーは、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念として開催されるので、同書で提唱された「二倍年暦」についての発表要請をいただきました。そこで、「洛中洛外日記」で連載中の最新テーマである古代戸籍への「二倍年暦」の影響と痕跡について発表することにしました。そのタイトルと要旨を紹介します。多くの皆様のご参加をお願いします。

【演題】
古代戸籍に見える二倍年暦の影響
―「大宝二年籍」「延喜二年籍」の史料批判―
【要旨】
 古田武彦氏は、倭人伝に見える倭人の長寿記事(八十~百歳)等を根拠に、二倍年暦の存在を提唱された。二倍年暦による年齢計算の影響が古代戸籍に及んでおり、それが庚午年籍(670年)に遡る可能性を論じる。


第2150話 2020/05/11

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(1)

 わたしのFACEBOOKの〝ともだち〟のSさんから、『三国志』倭人伝の訓みについてコメントが寄せられました。それは邪馬壹国という国名が記された次の記事についてです。

 「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」

 古田説では「南、邪馬壹国に至る。女王の都(みやこ)するところ。水行十日陸行一月。」と訓み、通説でも「南、邪馬臺(台)国に至る。女王の都(みやこ)するところ。水行十日陸行一月。」と、国名を原文改定(邪馬壹国→邪馬臺国)するものの、共に「女王の都(みやこ)するところ」と訓まれてきました。この訓みに対して、「都(みやこ)する」と訓むのは異様ではないかとSさんは指摘され、「都(す)べるところ」と訓む仮説を提起されたのです。
 「都」という字には、「合計する」や「統率する・統括する」という意味もあり、その場合は「都(す)べる」と訓むケースがあります(通常、「統べる」の字が使われます)。しかし、「女王の都(す)べる所」と訓んでも、「女王の都(みやこ)する所」と訓んでも意味的に大差は無いようにも思います。いずれの訓み(理解)でも、女王が邪馬壹国に君臨し、そこで「統率・統括する」とするのですから、そこを「都(みやこ)とする」と実態は同じです。
 実はこの記事の「都」をどのように理解すべきかについて、昔、古田先生に私見を述べたことがあります。それは「南至邪馬壹国。女王之所。都水行十日陸行一月」と区切り、「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓み、「都」を〝合計して〟の意味に理解するというものです。
 この訓み(理解)に対して、古田先生も一定の理解を示され、通説の「都(みやこ)する」とわたしの仮説「都(す)べて水行十日陸行一月」がよいのか、二人で検討しました。しかし、結論は出ませんでした。そのため、とりあえず通説の訓み「都(みやこ)する」でよいと判断し、今日に至っています。すなわち、「都(す)べて水行十日陸行一月」が通説よりも妥当と他者を納得させられるだけの根拠(『三国志』中での同様の用例)や証明(自説に賛成しない他者を納得させることができる、根拠を明示した明解な説明)が提示できないため、通説に従うことにしたのでした。(つづく)


第2143話 2020/04/28

『多元』No.157のご紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.157が本日届きました。同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「『国県制』を考える」と拙稿「前期難波宮出土『干支木簡』の考察」が掲載されていました。
拙稿では、前期難波宮出土の現存最古の干支木簡「戊申年」(648)木簡と二番目に古い芦屋市出土「元壬子年」(652)木簡の上部に空白部分があることを指摘し、本来は九州年号「常色」「白雉」が記されるべき空白部分であり、何らかの理由で木簡に九州年号を記すことが憚られたのではないかとしました。また、「戊」や「年」の字体が九州王朝系金石文などの古い字体と共通していることも指摘しました。
また、『多元』No.156に掲載された拙稿「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」を批判した、Nさんの論稿「読後感〝七世紀の「天皇」号 新・旧古田説の比較検証」〟について」が掲載されていました。その中で、わたしが紹介した古田旧説、近畿天皇家は七世紀前半頃から〝ナンバーツー〟としての「天皇」号を名乗っていた、という説明に対して、次のようなご批判をいただきました。

 〝古賀氏は、古田旧説では、例えば「天武はナンバーツーとして天皇の称号を使っていた」と述べるが、古田武彦はそのように果たして主張していたのだろうか、という疑問が生じる。〟
〝小生には古賀氏の誤認識による「古田旧説」に基づいた論難となっているのではないか、という疑念が浮かぶ。この「不正確性」については、以下の古賀氏の論述にも通じるものを感じる〟
〝今回同様の手前勝手に論点の整理をして、「古田旧説」「古田新説」などときめつけ、的外れの論述とならないように、と願うのみである。〟

 このように、わたしの古田旧説の説明に対して、「誤認識」「不正確」「手前勝手」と手厳しく論難されています。
「洛中洛外日記」読者の皆さんに古田旧説を知っていただくよい機会でもありますので、改めて七世紀における近畿天皇家の「天皇」号について、古田先生がどのように認識し、述べておられたのかを具体的にわかりやすく説明します。
「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」でも紹介したのですが、古田先生が七世紀前半において近畿天皇家が「天皇」号を称していたとされた初期の著作が『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏の光背銘」(朝日新聞社刊、一九八五年)です。同著で古田先生は、法隆寺薬師仏の光背銘に見える「天皇」を近畿天皇家のこととされ、同仏像を「天平仏」とした福山俊男説を批判され、次のように結論づけられました。

 「西なる九州王朝産の釈迦三尊と東なる近畿分王朝産の薬師仏と、両々相対する金石文の存在する七世紀前半。これほど一元史観の非、多元史観の必然をあかあかと証しする世紀はない。」(278頁)

 このように、七世紀前半の金石文である法隆寺薬師仏に記された「天皇」とは近畿天皇家のことであると明確に主張されています。すなわち、古田先生が「旧説」時点では、近畿天皇家は七世紀前半から「天皇」を名乗っていた、と認識されていたのは明白です。
さらに具体的な古田先生の文章を紹介しましょう。『失われた九州王朝』(朝日文庫版、1993年)に収録されている「補章 九州王朝の検証」に、次のように古田旧説を説明されています。

 〝このことは逆に、従来「後代の追作」視されてきた、薬師如来座像こそ、本来の「推古仏」だったことを示す。その「推古仏」の中に、「天皇」の称号がくりかえし現れるのである。七世紀前半、近畿天皇家みずから、「天皇」を称したこと、明らかである。(中略)
もちろん、本書(第四章一)の「天皇の称号」でも挙列したように、中国における「天皇」称号使用のあり方は、決して単純ではない。「天子」と同意義の使用法も存在する。しかし、近畿天皇家の場合、決してそのような意義で使用したのではない、むしろ、先の「北涼」の事例のように、「ナンバー2」の座にあること、「天子ではない」ことを示す用法に立つものであった(それはかつて九州王朝がえらんだ「方法」であった)。
この点、あの「白村江の戦」は、いわば「天子(中国)と天子(筑紫)」の決戦であった。そして一方の天子が決定的な敗北を喫した結果、消滅へと向かい、代って「ナンバー2」であった、近畿の「天皇」が「国内ナンバー1」の位置へと昇格するに至った。『旧唐書』で分流(日本国)が本流(倭国)を併呑した、というのがそれである。〟(601-602頁)

 以上の通りです。わたしの古田旧説(七世紀でのナンバー2としての天皇)の説明が、「誤認識」でも「不正確」でも「手前勝手」でもないことを、読者の皆さんにもご理解いただけるものと思います。
わたしは、〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と考えています。ですから拙論への批判を歓迎します。