古田武彦一覧

第2467話 2021/05/20

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(8)

 倭王武「上表文」に見える倭国の領域「毛人」

 『宋書』の倭王武「上表文」に記された「東征毛人五十五国」の範囲について、古田先生は『失われた九州王朝』(注①)では「中国地方・四国地方(各、西半部)」とされていましたが、『古代通史』(注②)では次のように修正されました。

〝倭王武がいっている「東のかた毛人」というのは、近畿銅鐸圏の支配のことだ、「毛人」というのは銅鐸圏の人々のことだ、というふうに私は理解すべきだったんです。(中略)
 要するに、「神武東行」にもとづく銅鐸圏の支配を「毛人、五十五国」といっている。この場合なお一言申しますと、たとえば吉備であるとか伊予であるとか、そういう所は入らなくていいわけです。そこは占領支配したわけじゃないですから。近畿の銅鐸圏中心の部分を「毛人」と呼び「五十五国」と呼んでいる。これも九州を「六十六国」というバランスでみれば、近畿でどれくらいの範囲を呼んでいるのかのだいたいの見当はつく、という話でございます。〟『古代通史』原書房版、234~235頁

 『失われた九州王朝』では、衆夷(九州島)の「六十六国」と比較して毛人の「五十五国」の範囲を「中国地方・四国地方(各、西半部)」とされたのですが、『古代通史』では神武東征により支配した銅鐸圏を「毛人五十五国」の範囲と修正されたものです。わたしはこの修正の視点(神武等による勢力拡大を重視)には賛成ですが、その領域を国数によって比較判断(注③)することと、衆夷(九州島)と毛人(銅鐸圏)の間に位置する吉備や伊予がどちらに属するのかについてが不鮮明であることには疑問を持っています。なお、『古代通史』において古田説が修正されていたことを日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)よりご教示いただきました。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四十八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』原書房、平成六年(一九九四)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『古田武彦が語る多元史観』(ミネルヴァ書房、東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、2014年)によれば、国数比較による領域推定はできないと次のように回答されている。
〝そうすると倭の五王のところに書いてある国名も九州、筑紫を中心とした数です。しかしそれが、どこどこであるかということは、あの数からして割り振ることはできません。割り振ってもそれは小説のようなもので、歴史学とは関係ないわけです。「割り振ることができない」というのが歴史学です。ただ原点が筑紫であることは動かない、という立場です。〟345頁、第八回八王子セミナー(2011年)での回答。


第2466話 2021/05/19

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(7)

 倭王武「上表文」に見える倭国の領域「衆夷」

 今回は、『宋書』の倭王武「上表文」に記された倭国の支配領域と5世紀の考古学的事実(古墳)との対応について論じます。同「上表文」には次のように倭国の支配領域が記されています。

 「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国。」
〔釈文〕東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。

 古田先生の『失われた九州王朝』(注①)によれば、この領域(毛人・衆夷)について次のように説明されています。

 〝日本列島の西なる「衆夷」とは、みずからの都を中心として、それをとりまく九州の地の民それ自身をさすこととなる。すなわち、中国の天子を基点として、「東夷」なる、みずからを指していることとなろう。そして東夷の地たる九州のさらに東の辺遠(中国から見て)に当たる中国地方・四国地方(各、西半部)の民を「毛人」と呼んだこととなろう。〟『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版173頁

 このように古田説では「上表文」にある「衆夷六十六国」を九州島に、「毛人五十五国」を中国地方・四国地方(各、西半部)とされました。もちろん「海北九十五国」とは百済・新羅を含む朝鮮半島の国々です。この古田説は有力と思いますが、その上で他の可能性も考えられます。この点は後述します。
 「上表文」には東西と北の支配領域の国数は記されていますが、南の記事はありません。このことから、九州島より海を渡った南方の島国へは倭国は侵攻していないと考えられます。より精確に言えば、九州島の南端領域(薩摩地方)まで支配していたのかは、「上表文」からは判断できません。他方、考古学的出土事実から判断すれば、薩摩川内市の端陵(はしのりょう)古墳(四世紀中頃か、墳丘長54mの前方後円墳)や日本最南端の古墳として薩摩半島最南端に位置する指宿市の弥次ヶ湯古墳(5世紀末前後の円墳、径18m)があることから、九州島全域が「衆夷六十六国」に含まれているとする古田説は妥当と思われます。
 なお、宮崎県南部や鹿児島県東部には南九州独自の地下式横穴墓が分布しており、九州王朝に併合された在地勢力・文明の存在がうかがわれます(注②)。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四十八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
②宮崎県えびの市の島内地下式横穴墓群114号墓(六世紀前半)から、龍の銀象嵌がある長さ98cmの大刀が出土している。倭国に併合された南九州在地勢力の王墓ではあるまいか。古賀達也「洛中洛外日記」1502話(2017/09/17)〝「龍」「馬」銀象眼鉄刀の論理〟を参照されたい。


第2465話 2021/05/18

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(6)

   ―西都原古墳群の事実と解釈―

 九州王朝説にとって、「倭の五王」時代(5世紀)における〝不都合な事実〟の中でも、わたしが最も深刻に感じたのは、全国屈指の規模とされる西都原古墳群の存在でした。河内や大和の巨大古墳群の存在に対しては、これまで古田学派の解釈は次のようなものでした。

(1)中国史書に見える倭国とは北部九州の九州王朝のことである。
(2)従って、高句麗や新羅と戦っていた倭国とは九州王朝である。
(3)長期にわたり戦争を続けていた九州王朝に巨大古墳を造り続けることはできない。
(4)九州王朝があった北部九州に巨大古墳群がないのは当然であり、むしろ倭国が九州王朝であったことを証明している。
(5)この点、巨大古墳群がある河内や近畿の勢力(後の大和朝廷)は高句麗や新羅とは戦っていなかったことの反映であり、倭国を大和朝廷のこととする通説が間違っていることを示している。

 この理解は妥当と思いますが、通説論者への説得力としては十分ではありません。というのも、〝国内最大規模の古墳群を造営できるのは国内最大の権力者であり、それを大和朝廷(倭国)とすることは最も有力な理解である〟という主張を否定しにくいからです。また、〝北部九州の権力者が高句麗や新羅と戦ったのは、大和朝廷の命令によりなされたもの〟という通説も簡単には揺らぎません。
 西都原古墳群にも同様の解釈により、日向地方の勢力は参戦していなかったので巨大古墳群造営が可能だったという説明ができないこともないのですが、次のような問題があります。

(ⅰ)倭王武の上表文によれば、倭国の領域は九州全域が含まれていると考えられ、その中で西都原だけが巨大古墳造営が許された理由が不明である。
(ⅱ)日向の勢力が参戦しなかった理由を説明できない。
(ⅲ)西都原古墳群に次いで隣国の大隅にも唐仁古墳群が登場するが、南九州での巨大古墳造営の背景について説明できていない。

 このような〝なぜ西都原の巨大古墳が「倭の五王」の時代(五世紀)に登場したのか〟という疑問に、わたしたち古田学派は説得力ある説明に成功していません。(つづく)


第2459話 2021/05/12

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(1)

 ―最重要エビデンスは「筑後川の一線」―

 「洛中洛外日記」2458話(2021/05/11)〝九州王朝と大和朝廷の「都督」(2)〟において、「倭の五王」の王都の場所を論じるとき、見解が異なる論者に対しても説得力のあるエビデンス(考古学的出土事実)の明示が不可欠であると、次のようにわたしは述べました。

 「太宰府遺構を5世紀の『倭の五王』の王都とする見解についても、〝考古学的根拠(5世紀の王宮の出土)がない〟と一蹴されて終わりでしょう。日本古代史学が人文科学である以上、こうした批判(エビデンスの明示要請)は避けられないのです。」(「洛中洛外日記」2458話)

 そこで、「倭の五王」時代(5世紀)の考古学的出土状況を概観し、「倭の五王」の王都を推定するためにはどのようなエビデンスが存在するのかについて解説し、王都の位置について論究します。
 その場合、古田学派として参考とすべき指針は古田先生の論文「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」(注①)です。その論旨は次の通りです。
 〝弥生時代の倭国の墳墓中心領域は筑後川以北であり、古墳時代になると筑後川以南に移動する。それぞれの時代の主要遺跡(弥生墳墓と装飾古墳)分布が、天然の濠「筑後川の一線」をまたいで変遷している。その理由は、主敵が弥生時代は南九州の勢力(隼人)で、古墳時代になると朝鮮半島の高句麗などとなり、神聖なる墳墓を博多湾岸から筑後川以南の筑後地方に移動させたと考えられる。〟
 この論文は古田学派内からもほとんど注目されてきませんでしたが、「倭の五王」の王都が博多湾岸から筑後方面へ移動したことを示唆しており、貴重です。
 次いで、近年の研究で明らかになった比恵・那珂遺跡群(福岡市)の時代的変遷も重要な考古学的事実として注目されています。博多湾岸に位置する比恵・那珂遺跡群は弥生時代最大規模の都市遺構です。ところが5世紀以降になると衰退し、再び都市化するのは6世紀後半以降です。2018年12月、大阪歴史博物館で開催されたシンポジウム(注②)の資料集には次のように説明されています。

 「弥生時代中期~古墳時代前期にかけて都市的な様相を示していた比恵・那珂遺跡群は5世紀以降衰退期を迎える。それが再び、都市化していくのは6世紀後半以降で、官家の設置が大きな契機と考えられる。」『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、76頁。(注③)

 ここで指摘されているように、弥生時代最大の都市、比恵・那珂遺跡群は5世紀から6世紀後半頃まで衰退していたとあり、この衰退期間に〝「倭の五王」の時代〟がスッポリと入るのです。この考古学的事実は、古田先生の「筑後川の一線」説と見事に対応しており、「倭の五王」の王都を探る上で貴重なエビデンスとなります。更に、〝弥生時代最大規模の都市〟というからには、その地は俾弥呼が都とした邪馬壹国内にあったことを指示し、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説を証明する遺構でもあります(注④)。従って、この比恵・那珂遺跡群の盛衰は、「三世紀から五世紀、『倭国』の都城・首都は移動していない」とする見解(注⑤)とは相容れない考古学的事実のようです。(つづく)

(注)
①古田武彦「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、1989年。
②総括シンポジウム『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』2018年12月22日~23日、大阪歴史博物館講堂、大阪市博物館協会大阪文化財研究所主催。
③菅波正人「那津官家から筑紫館―都市化の第二波―」『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』
④邪馬壹国と比恵・那珂遺跡については、次の論稿を参照されたい。
 正木 裕「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集、明石書店、2021年)
⑤草野善彦「倭国の都城・太宰府について」『多元』159号、2020年9月。


第2445話 2021/04/30

「倭王(松野連)系図」の史料批判(10)

 ―天孫降臨の矛盾と古田先生の慧眼―

 『記・紀』に見える天孫降臨神話は弥生時代(前期末~中期初頭)での史実の反映であり、その天孫族が居した高天原(天国)を日本海に実在した島嶼領域(壱岐・対馬・隠岐・五島列島・他)と古田先生はされました(注①)。すなわち、邪馬壹国や後の九州王朝(倭国)の始原の地を天国領域とされたわけです。他方、「倭王(松野連)系図」には、始祖とする「呉王夫差」以降の子孫が天国領域に居したとする記述はありません。こうしたこともあり、古田学派の実証的な研究者は同系図を後代造作ではないかと疑い、九州王朝(倭国)系図と見ることを躊躇してきました。わたしもその一人でした。
 天孫降臨神話を歴史事実の反映とする古田説に対して、わたしはそのことを支持する反面、矛盾をかかえた仮説ではないかとも考えてきました。というのも、日本列島西北部・他にあった大八洲国(出雲・筑紫・新羅、注②)への〝侵略〟という実質を持つ〝天孫降臨〟ですが、天国(島嶼領域)よりも巨大な耕地面積=生産力(弥生水田)と人口(労働力)を有す筑紫や出雲が天国よりも軍事的に劣っていた理由が不明だったからです。
 もっとも、朝鮮半島から伝わった鉄器(武器)による軍事力がその背景にあったとする見解もあるのですが、それでは日本列島の国々は鉄器に興味がなかったのでしょうか。島嶼の天国は鉄器を入手できたが、お隣の筑紫や出雲の国々は鉄器を入手できなかったとするのでしょうか。わたしはこのような〝解説〟では納得できないのです。
 このような疑問を抱いてきたのですが、その解決の糸口に気づくことができました。それは祖先神信仰に基づく宗教的権威です。たとえば、古代ギリシアにおいてオリンポスの神々の命令(デルフォイの神託)にアテネやスパルタなどの諸国が従ったようにです。同様に天国には筑紫や出雲の諸国が従うだけの宗教的権威があったことは、『記紀』神話を見ても明らかと思われます。そして、この権威の淵源が周王朝へと繋がる始祖伝承(呉の太伯、呉王夫差)だったのではないでしようか。
 本テーマの考察を続けることにより、わたしはこのことにようやく気づくことができました。ところが、天国や倭人の始原について既に指摘されていた人がいました。恩師、古田武彦先生です。『盗まれた神話』で次のように示唆されています。

 〝天つ神たちは、どこから「天国」へ来たか?〟そのような発想は、『記・紀』には存在しないのである。
 この「天国」が実は「海人国」であること、それはこれが一定の海上領域である点からも、容易に想像できるところであろう。さすれば、「天つ神」はすなわち「海人(あま)つ神」となろう。記・紀神話の母なる領域は、「天国」を中心とする対馬海流文明圏だ。では、この海上領域に割拠していた海人族は、はじめからそこにいたのか、それともどこかからやってきたのだろうか?
 このような問いに対する回答、それは思うに本書の用いた方法とは異なる、別の方法にまたねばならぬであろう。たとえば考古学的方法、たとえば人類学的方法、たとえば比較神話学的方法等々だ。また、中国の史書、『魏略』の文面とされる「其の旧語を聞くに、自ら太伯の後と謂う」なども、その見地からかえりみられるべきであろう。(注③)

 「洛中洛外日記」2443話〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(9) ―倭人伝に周王朝の痕跡―〟で、「倭人と周王朝に深い繋がりがあることを疑えず、『太伯』始祖伝承や『呉王夫差』始祖伝承は、何らかの歴史的背景に基づくのではないかと考えるに至ったのです。」とわたしは述べたのですが、古田先生は45年も前にこのことを示唆されていたのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。朝日新聞社版189頁。
②同①、412頁。
③同①、438頁。


第2443話 2021/04/28

「倭王(松野連)系図」の史料批判(9)

 ―倭人伝に周王朝の痕跡―

 古代中国の諸史料(注①)に記された倭国の始祖「太伯」伝承は、歴史事実を反映しているのではないかと、わたしは推定しています。その理由について説明します。なお、太伯とは、中国の春秋時代に存在した呉国を起こした、周王朝建国期の人物です。
 この周王朝の官職名「大夫」が、『三国志』倭人伝に散見されることを古田先生が早くから指摘されてきました。『「邪馬台国」はなかった』(注②)で次のように述べています。

 「『大夫』については、倭人伝中に
  古より以来、其の使中国に詣るに、皆自ら大夫と称す。
 とある。魏晋ではすでに『大夫』は県邑の長や土豪の俗称と化していた。(中略)
 ところが、倭国の奉献使は自ら『大夫』を名のった。これは下落俗化した魏晋の用法でなく、『卿・大夫・士』という、夏・殷・周の正しい古制のままの用法であった。」『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社版)376頁

 この指摘は、倭国が古くから周の影響を受けていたことを意味します。その史料根拠の一つとして、『論衡』(注③)に次の有名な記事があります。

 「周の時、天下太平にして、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。(中略)成王の時、越常、雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。」『論衡』巻八、巻十九

 成王は周王朝を建国した武王の子供で、二倍年暦を考慮しない通説では紀元前11世紀頃の人物です。その頃から、倭人は中国(周)と交流(鬯草の献上)があったとれさており、周王朝の官職名「大夫」が倭人伝の時代、3世紀でも使用されているのです。
 更に、倭人伝と周王朝との関係を明らかにした、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の一連の優れた研究があります。『俾弥呼と邪馬壹国』(注④)に収録された「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」です。同稿では、倭国の官職名などに用いられた漢字に、周代の青銅器に関係するものがあることを明らかにされました。
 こうした研究により、倭人と周王朝に深い繋がりがあることを疑えず、「太伯」始祖伝承や「呉王夫差」始祖伝承は、何らかの歴史的背景に基づくのではないかと考えるに至ったのです。(つづく)

(注)
①『翰苑』『魏略』『晋書』『梁書』。
 「聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』
 「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」
 「男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。」『晋書』倭人伝
 「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身がある。」『梁書』倭伝
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③『論衡』の著者は王充で、後漢代の成立。
④古田史学の会編『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年3月。


第2441話 2021/04/23

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その6)

大原重雄「メガーズ説と縄文土器 ―海を渡る人類」

 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』で提起された諸説中、最も読者の評価が分かれたのが、同書最終章の一節「アンデスの岸に至る大潮流」に記された〝倭人の南米渡航説〟でした。倭人伝に見える次の記事を、倭人が太平洋を横断し、南米にあった裸国・黒歯国へ行ったと古田先生は理解されたのです。

 「また裸國・黑齒國有り。また其の東南に在り。船行一年にして至るべし。」『三国志』魏志倭人伝

 「この説は、読者がついてこれない。削除してはどうか」と編集者(注①)からの提案があり、刊行後も古田先生のご友人(最高裁判事)から「再版時に削除すべき」との忠告がありました。それでも古田先生は〝論理の導くところに従った結果〟であるため、そうした要請を謝絶されました。こうした〝いわくつきのテーマ〟を扱った論文を『俾弥呼と邪馬壹国』に収録しました。次の三編です。

○大原重雄「メガーズ説と縄文土器 ―海を渡る人類―」
○茂山憲史「古田武彦氏『海賦』読解の衝撃」
○古賀達也「バルディビア土器はどこから伝播したか ―ベティー・J・メガーズ博士の思い出―」

 なかでも大原論文は、バルディビア遺跡(エクアドル)から出土した南米最古の土器の製造技術を日本列島の縄文人が伝えたとするメガーズ博士(米、スミソニアン博物館)の説には同意できないというもので、南米大陸ではバルディビア土器よりも古い土器が出土しており、日本列島からの伝播とは断定できないとされました。もっとも、倭人が太平洋を渡った可能性までを否定されたわけではなく、考古学的出土事実に基づいて再検証を促されたものです。学問研究にとって貴重な提言ではないでしょうか。
 茂山論文は、『海賦』の記事に倭人が太平洋を横断した痕跡(イースター島のモアイ像やコンドルなどの描写、「裸人の国」「黒歯の邦」の表記がある)を古田先生が発見されたことの意義を改めて強調したものです。『海賦』は『文選』に収録された文章で、作者の木華は西晋の官僚です。すなわち、『三国志』を書いた陳寿と同時代の人物で、両者が南米にあった裸国・黒歯国を記録していたことは重要です。詳細は古田先生の『邪馬壹国の論理』(注②)をご覧下さい。
 わたしは、「縄文ミーティング」(注③)のために来日されたメガーズ博士の思い出と、当時のバルディビア土器についての学問論争を紹介しました。「洛中洛外日記」〝ベティー・J・メガーズ博士の想い出(1)~(4)〟で論じたテーマですので、ご参照下さい(注④)。

(注)
①『「邪馬台国」はなかった』は朝日新聞社から出版されたが、同書編集担当の米田保氏から「倭人の中南米への渡海説」削除の要請があった。古田先生はそれを拒絶され、米田氏も最終的に了解された。
②古田武彦『邪馬壹国の論理 ―古代に真実を求めて―』朝日新聞社、1975年。ミネルヴァ書房から復刊。
③1995年11月3日、東京の全日空ホテルで開催された。その内容は『海の古代史』(原書房、1996年)に載録されている。古田先生のご配慮により、わたしは録音係として傍聴する機会を得た。
④古賀達也「洛中洛外日記」2249~2252話(2020/10/04-6)〝ベティー・J・メガーズ博士の想い出(1)~(4)〟


第2428話 2021/04/10

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (2)

 ―古田先生との冨本銭研究の想い出―

 「古田史学の会・東海」の会報『東海の古代』№248に掲載された石田泉城さん(名古屋市)の「『祢軍墓誌』を読む」の最大の論点と根拠は墓誌に記された「日夲」の文字で、「本」と「夲」は本来別字で、この部分は国名としての「日本(夲)」ではないとするものです。そして、次のように述べられています。

 「文字の精査は、「壹」と「臺」を明確に区別した先師古田武彦の教えの真髄です。」『東海の古代』№248

 わたしもこのことについて、全く同感です。古田ファンや古田学派の研究者であれば御異議はないことと思います。それではなぜ同墓誌の「日夲」を別字の「日本」のことと見なしたのかについて説明します。

 実はこの「本」と「夲」を別字・別義とするのか、別字だが同義として通用したものと見なすのかについて、「古田史学の会」内で検討した経緯がありました。それは飛鳥池遺跡から出土した冨本銭がわが国最古の貨幣とされたときのことです。当時、「古田史学の会」代表だった水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から、「フホン銭と呼ばれているが、銭文は『冨夲』(フトウ)であり、それをフホンと読んでもよいものか」という疑義が呈されました(注①)。

 その問題提起を受け、わたしも検討したのですが、通説通り「フホン」と読んで問題ないとの結論に至りました。古田先生も同見解だったと記憶しています。当時、古田先生とは信州で出土した冨本銭(注②)を一緒に見に行ったこともありましたが、先生も一貫して「フホン銭」と呼ばれていました。その後、わたしからの発議と古田先生のご協力により、「プロジェクト 貨幣研究」が立ち上がりしました。その成果の一端は『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』などに収録されました(注③)。

 古田先生やわたしが「冨夲」を「フホン」と呼んでもよいと判断した理由は、国内の古代史料には「夲」の字を「本」の別字として使用する例が普通にあったからです。たとえば古田先生が京都御所で実物を調査された『法華義疏』(御物、法隆寺旧蔵)の巻頭部分に記された次の文です。

 「此是 大委国上宮王私
集非海彼夲」

 この文は「此れは是れ、大委国上宮王の私集にして、海の彼(かなた)の夲(ほん)に非ず」と訓まれており、「夲」は「本」の同義(異体字)と認識されています。「大委国上宮王」とあることから、多利思北孤の自筆の可能性もあり、いわば九州王朝内での使用例です。

 更にこの十年に及ぶ木簡研究においても、7~8世紀の木簡に「夲」の字は散見されるのですが、むしろ「本」の字を目にした記憶がわたしにはありません。ですから当時の木簡においては、「夲」が「本」の代わりに通用していたと考えてもよいほどでの史料状況なのです。たとえば明確に「本」の異体字として「夲」を用いた8世紀初頭の木簡に次の例があります。

 「本位進第壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部/冠」(藤原宮跡出土)

 これは山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階(本位)「進第壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。この「本位」の「本」の字体が「夲」なのです。

 以上のような史料事実を知っていましたので、冨本銭の「夲」の字も「本」の別字(異体字)と、むしろ見なすべきと考えられるのです。

 『日本書紀』や中国史書における「日本」については、原本も同時代刊本も現存しないため、7~8世紀頃の字体は不明とせざるを得ませんが、後代版本では「日夲」の表記が散見され、その当時には「本」の異体字として「夲」が普通に使用されていたようです。具体的には『通典』(801年成立)の北宋版本(11世紀頃)には「倭一名日夲」とありますし、いつの時代の版本かは未調査ですが、岩波文庫『旧唐書倭国日本伝』に収録されている『新唐書』日本国伝の影印(163頁)にも「日夲国」の使用例が見えます。

 他方、中国の金石文によれば、百済人祢軍墓誌(678年没)よりも60年ほど後れますが、井真成墓誌(734年没)には明確に国号としての日本が見え(注④)、この字体も「日夲」です。

 「贈尚衣奉御井公墓誌文并序
公姓井字眞成國號日本」(後略)

 従って、百済人祢軍墓誌の「日夲」も「日本」のことと理解して問題ありません。むしろ、その当時の国名表記の用字としては、「日夲」が使用されていた可能性の方が高いとするのが、日中両国の史料事実に基づく妥当な理解ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①水野孝夫「『富本銭』の公開展示見学」『古田史学会報』31号、1999年4月。当稿においても、〝「本」字の問題(「本」の字は「木プラス横棒」ではなくて、「大プラス十」と刻字されている。ここにも意味があるかも知れない)。〟と述べている。
②長野県の高森町歴史民俗資料館に展示されている富本銭を見学した。同富本銭は高森町の武陵地1号古墳から明治時代に出土したもの。同資料館を訪問したとき、同館の方のご所望により、来訪者名簿に大きな字で、「富本銭良品 古田武彦」と先生は署名された。
③古田武彦「プロジェクト 貨幣研究 第一回」『古田史学会報』31号、1999年4月。
古田武彦「プロジェクト貨幣研究 第二回(第二信)」『古田史学会報』33号、1999年8月。
古田武彦「プロジェクト貨幣研究 第三回」『古田史学会報』34号、1999年10月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第一報 古代貨幣異聞」(下にあり)
『古田史学会報』31号、1999年4月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第二報 『秘庫器録』の史料批判(1)」
『古田史学会報』33号、1999年8月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第三報 『秘庫器録』の史料批判(2)」
『古田史学会報』34号、1999年10月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第四報 『秘庫器録』の史料批判(3)」
『古田史学会報』36号、2000年2月。
『古代に真実を求めて』第三集(2000年11月、明石書店)に「古代貨幣研究・報告集」として、次の論稿が掲載された。
古賀達也 プロジェクト貨幣研究 規約
古田武彦 プロジェクト貨幣研究 第一回、第二回、第三回
山崎仁礼男 古代貨幣研究方針
木村由紀雄 古代貨幣研究方針
浅野雄二 第一回報告
古賀達也 古代貨幣異聞
古賀達也 続日本紀と和銅開珎の謎
古賀達也 古代貨幣「無文銀銭」の謎
古賀達也 古代貨幣「賈行銀銭」の謎
古賀達也 『秘庫器録』の史料批判(1)(2)(3)
④井真成墓誌には次のように、「國號日夲」と記されている。
「贈尚衣奉御井公墓誌文并序
■公姓井字眞成國號日夲才稱天縱故能
■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六皇上
■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
■卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水
■原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠
■兮頽暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
■乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶
歸于故鄕」
※■は判読できない欠字。

百済人祢軍墓誌


第2408話 2021/03/13

『古事記』序文の「皇帝陛下」(3)

 『古事記』序文に見える「皇帝陛下」論争などについて書かれた、二百字詰め原稿用紙30枚の論文のような「お便り」を古田先生からいただきました。それには、わたしとの論争の末に至った新たな説が記されていました。その結論部分は、序文の「皇帝陛下」は元明天皇のことだが、皇帝を称したことが唐に知れると怒りをかうので、序文だけではなく本文ともども勅撰国史として不適切であるとして、『古事記』は秘されたというものでした。その新説は、「お便り」が届いた翌々月の『多元』No.80(多元的古代研究会編、2007年7月)に「古事記命題」のタイトルで発表されました。同稿には新説に至る経緯が次のように記されています。

〝だからわたしは疑った。
 「この『皇帝陛下』とは、果して”元明天皇”なのか。もしかしたら文字通り”中国(唐)の天子”を指しているのではないか。」
 (中略)
 しかし、問題は残っていた。序文(上表文)全体の構造から見れば、やはりこの『皇帝陛下』は元明天皇だ。八世紀の史料には、日本の天皇を「皇帝陛下」と呼ぶ慣例もある。その実例をしばしば指摘していただいたこともあった。―では、真相は何か。(後略)〟

 この序文の「皇帝陛下」論争では、先生から厳しくお叱りもうけたのですが、「八世紀の史料には、日本の天皇を『皇帝陛下』と呼ぶ慣例もある。その実例をしばしば指摘していただいたこともあった。」とあることから、わたしの〝異見〟も少しはお役にたてたようです。ちなみに、「日本の天皇を『皇帝陛下』と呼ぶ慣例」とは『養老律令』の次の条項です。

 「天子。祭祀に称する所。
  天皇。詔書に称する所。
  皇帝。華夷に称する所。
  陛下。上表に称する所。(後略)」
 (『養老律令』儀制令天子条)

 また、ここに述べられた「序文(上表文)全体の構造」とは、次のようなことと思われます。

(1)序文に見える各天皇には、当時の人にはそれが誰のことかわかるように記されている。たとえば、「神倭天皇」(神武天皇)・「飛鳥清原大宮御大八州天皇」(天武天皇)、「大雀皇帝」(仁徳天皇)などのように。

(2)あるいは、『古事記』選録の詔勅を発した「天皇」についても、詔した日を「和銅四年九月十八日」と記すことにより、その当時の元明天皇であることがわかるようになっている。

(3)ところが「皇帝陛下」には人名を特定できるような呼称や説明がない。

(4)「陛下」という語句は『養老律令』にもあるように、上表文に使用する天皇の尊称であることから、同序文は上表文、あるいはそれに類するものである。

(5)上表文であれば、その当時の天皇に提出するのであるから、末尾の提出年次「和銅五年正月廿八日」(712年)時点の「皇帝陛下」、すなわち元明天皇であることは、読む人(元明天皇や大和朝廷の官僚たち)には一目瞭然である。

 以上のような序文の構造から、「皇帝陛下」を元明天皇とせざるをえないとされたわけです。
 しかし、当初はSさんの仮説(「皇帝陛下」=唐の天子)を支持し、東アジアにおけるナンバーワンの唐の天子と、ナンバーツーとしての日本国(大和朝廷)の天皇とする位取りの枠組みから、この時代の大和朝廷の天皇が「皇帝」を称することはありえないと、古田先生が考えておられたことは間違いないことです。
 古田先生が『多元』に「古事記命題」を発表されたのは2007年ですが、2009年頃からそれまでの七世紀の日本列島におけるナンバーワン・天子(九州王朝)とナンバーツー・天皇(近畿天皇家)という権力者呼称に関する自説(古田旧説)を変更され、七世紀の金石文にみえる「天皇」は全て九州王朝の天子の別称とする新説(古田新説)を発表されるようになりました。もしかすると、この『古事記』序文の「皇帝陛下」問題が自説変更に影響したのかもしれません。


第2405話 2021/03/10

『古事記』序文の「皇帝陛下」(2)

 古田先生との話題に上った『古事記』序文に見える「皇帝陛下」(注①)について、当初はSさんの仮説(唐の天子とする)を先生は支持しておられました。三度に亘り、意見を聞かれたのですが、わたしは三度とも〝『養老律令』儀制令で天皇の別称として「天子」「皇帝」「陛下」も規定(注②)されており、『古事記』序文の「皇帝」を元明天皇とする通説には根拠があります〟と返答しました。更に、序文の最後の方にも「大雀(おほさざき)皇帝」(仁徳天皇)という表記さえもあります。しかし、先生は納得されず、後日、ご自宅に呼ばれ、先生との意見交換(内実は論争)が続きました。二〇〇七年五月のことでした。
 その数日後、二百字詰め原稿用紙30枚に及ぶ論文のような「お便り」を古田先生が拙宅まで持参されました。わたしは仕事で留守でしたので、帰宅後に拝読しました。
 「初夏、お忙しい毎日と存じ上げます。先日は、お出でいただき、御苦労様でした。大変、有益でした。」で始まるその「お便り」には、わたしが先生宅で述べた見解や学問の方法に対するかなり厳しいご批判・叱責の言葉とともに、『古事記』序文の「皇帝」問題に関する新説(前日に発見したばかりとのこと)が綴られていました。そして最後は、「わたしは古賀さんを信じます」との温かい言葉で締めくくられていました。(つづく)

(注)
①『古事記』序文には、「伏して惟(おも)ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。」の一節がある。
②『養老律令』儀制令冒頭に次の「天子条」がある。
 「天子。祭祀に称する所。
  天皇。詔書に称する所。
  皇帝。華夷に称する所。
  陛下。上表に称する所。(後略)」


第2404話 2021/03/09

『古事記』序文の「皇帝陛下」(1)

 近畿天皇家が「天皇」を称したのは文武からとする古田新説は、二〇〇九年頃から各会の会報や講演会・著書で断続的に発表され、その史料根拠や論理構造を体系的に著した論文として発表されることはありませんでした。他方、古田先生とわたしはこの問題について意見交換を続けていました。古田旧説(七世紀には近畿天皇家がナンバーツーとしての「天皇」を名乗っていた)の方が良いとわたしは考えていましたので、その史料根拠として飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡の存在を重視すべきと、「洛中洛外日記」444話(2012/07/20)〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡〟などで指摘してきました。
 そうしたところ、数年ほど前から西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)より、七世紀の中国(唐)において、「天子」は概念であり、称号としての最高位は「天皇」なので、当時の飛鳥木簡や金石文の「天皇」は九州王朝のトップの称号とする古田新説を支持する見解が聞かれるようになりました。そこで、そのことを論文として発表してもらい、それを読んだ上で反論したいと申し入れたところ、『古田史学会報』162号で「『天皇』『皇子』称号について」を発表されました。
 この西村論文の要点は〝近畿天皇家が天皇号を称していたのであれば、九州王朝は何と称していたのか〟という指摘です。このことについては、調査検討の上、『古田史学会報』にてお答えしたいと考えていますが、同類の問題が二〇〇七年頃に古田先生との話題に上ったことがありました。それは『古事記』序文に見える「皇帝」についてでした。
 『古事記』序文には、「伏して惟(おも)ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。」で始まる一節があり、通説ではこの「皇帝陛下」を元明天皇とするのですが、これを唐の天子ではないかとするSさんの仮説について古賀はどう思うかと、短期間に三度にわたりたずねられたことがありました。ですから、古田先生としてはかなり評価されている仮説のようでした。(つづく)


第2390話 2021/02/24

「古田・桐原対談」録音テープを発見

 昨日の正木裕さんの奈良講演会(「古代大和史研究会」主催)の終了後、参加されていた水野孝夫さん(古田史学の会・顧問、前代表)のご自宅を訪問しました。蔵書などを処分されるとのことで、事前に貴重な書籍をいただきました。その際、水野さんが保管されていた古田先生関連の録音テープを調査したところ、平成9年に京都市で行った桐原正司氏との対談録音テープを発見しました。
 このテープは平成9年4月9日、京都駅前の京都タワーホテルの会議室をお借りして行った対談記録で、参加者は桐原正司さん、古田先生、水野孝夫さん(当時、古田史学の会・代表)と古賀(当時、古田史学の会・事務局長)の四名で、会談は二時間以上に及んだと記憶しています。当初はビデオ録画も予定していましたが、桐原さんが拒まれたため取りやめ、音声収録のみとなりました。
 当時、安本美典氏らを中心とする〝和田家文書偽作キャンペーン〟により、古田先生へのいわれなき誹謗中傷が酸鼻を極め、特にひどいものには、古田先生が桐原さんへ偽書作成依頼をしたという、名誉毀損もありました。そこで「古田史学の会」としても、そうした〝濡れ衣〟をはらし、真実を明らかにするため、当事者として名前を出された桐原さんに対談を申し入れ、偽書作成依頼などの事実がないことを証言していただきました。
 この対談を含め、わたしは古田先生と共に二度ほど桐原さんとお会いしたことがあります。二度目は京都駅前の阪急ホテルのラウンジで、桐原さんのお嬢さんもご一緒でした。そのときの様子は和気藹々とした雰囲気で、お嬢さんの勉学の様子などを古田先生は聞かれていました。
 こうした経緯により、この録音テープは貴重な証言記録なのです。テープが経年劣化している恐れもありますので、専門業者による再生テストとCDへのダビングを依頼する予定です。その後の取り扱いについては「古田史学の会」で検討したいと思います。