古田武彦一覧

第2473話 2021/05/28

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(3)

 ―「坂田測定」水城堤防出土サンプルの由来

 坂田武彦さんによる太宰府遺構出土物の放射性炭素年代測定値について、最も説明が困難なものがKURI 0102の「大宰府町水城堤防の中の杭」でした。水城本体からの出土ですから、造営年代を示すはずですが、「坂田測定」では「1950年より2250年前±80年」とありますから、その杭にはBC300年頃の年輪が含まれていることになり、従来の編年(七世紀後半頃)や他の科学的年代測定値(注①)と大きくかけ離れているからです。発掘者は福岡県教委とされていますから、その出土を記した調査報告書を探索しました。
 九州歴史資料館から出された『水城跡 上巻・下巻』(注②)には、福岡県教育委員会による昭和44年度立会調査に始まって、1次調査(昭和46年)から45次調査(平成20年)までの概要が示されており、「坂田測定」のKURI 0102「大宰府町水城堤防の中の杭」の出土がどのときのものかを調べました。「坂田測定」が記された坂田さんの手紙には昭和52年の「2月17日」と思われる日付がありますので、それ以前の調査で杭が出土した事例を探したところ、次の三例が見つかりました。

 3次調査 昭和47年(1972) 東土塁西端部・東外濠部
 4次調査 昭和48年(1973) 御笠川欠堤部
 6次調査 昭和50年(1975) 東内濠推定部

 概要などが次のように記されています。

〔3次調査〕
《概要》九州縦貫自動車道を建設するに先だって行われた調査で、東土塁西端部及びその北側の外濠推定部分の調査である。土塁上からは掘立柱建物2棟、溝2条が検出され、下成土塁からは積土と杭列が確認された。また外濠部分からは、外濠と目される砂層堆積を確認した。(上巻27頁)
《杭列》
 SX025(3次)(Fig.17)
 東土塁西端の下成土塁積土内で検出した。積土中位には、黒灰色粘質土下位で淡青灰色粗砂に包含される敷粗朶があり、さらにその下位の積土内で木杭列とシガラミを確認した。ちょうど砂層の地山面上に積んだ、黒灰色や青灰色粘質土の間に木杭とシガラミを埋設している。木杭の大きさは27~63cm程度で、30cm間隔に4本打っている。また、それに絡むシガラミは土塁軸線に並行している。杭先は最下層の暗青灰色粘質土で止まり、上層も粘質土に覆われていることから、積土中の土砂の流出を防ぐためと考えられる。(上巻36頁、38頁)
《東外濠部》
 SX030(3次)(Fig.75)
 3次調査では、下成土塁から外濠部にかけて2箇所のトレンチを設定した。(中略)Aトレンチでは、基底部裾から約60m付近で砂層が急に立ち上がり、シガラミ状の遺構を検出した。木杭と横に打たれた板状の木材を確認したが、周囲に粘度が充填されていた。このシガラミを古代水城の外濠遺構と即断することはできないが、60mの距離については、5次調査と一致する。(上巻92頁、94頁)

〔4次調査〕
《概要》九州自動車道の橋脚建設中に、石敷遺構が発見されたために急遽行われた調査である。旧御笠川の河床にあたる部分に人頭大の石敷遺構が見られ、奈良時代を中心とした中世まで含む遺物が見つかった。この石敷遺構は、洗堰等の古代水城に関連するものと考えられる。(上巻27頁)
《杭》
 SX013(4次) (Fig.105)
 SX014の石敷の間に打ち込まれた杭である。40~50cm間隔で打たれており、礫が置かれた砂層下の粘質土まで達している。杭には、角杭と丸杭の2つがある。礫同士の押さえのために打ち込まれたと考えられる。(上巻177頁)

〔6次調査〕
《概要》東土塁西側の下成土塁の南側の調査で、下成土塁積土層を検出したほか、土塁の南側において、幅10mの溝状の砂層堆積を確認した。この溝状遺構は古代~近世までの遺物を含んでいるが、木樋取水部との関連が想定された。また、シガラミ遺構や杭列なども検出された。(上巻28頁)
《東内濠部》
 SD055(6次)(Fig.90・91、PL.57)
 6次調査東土塁の西端基底部下で検出した。土塁にほぼ並行して、東西に走る溝状の遺構である。(中略)この他、基底部SA001とSD055の間に自然流路があるが、この流路内では、南北方向に走る杭列SA056とシガラミSX057を検出している。(上巻105頁)
《杭列》
 SX056(6次)(Fig.90、PL.8)
 6次調査SX056内で検出した。杭列は2条認められ、流路に対してやや南へ傾いている。砂層に打ち込まれているが、時期比定は困難である。(上巻114頁)

 以上のように、3、4、6次の調査で杭の出土が報告されています。「坂田測定」の説明では、「水城堤防の中の杭」と表現されていますから、土塁端部の溝や地山付近に打ち込まれた杭よりも、水城堤体中から出土したものの方がより妥当と思われます。そのように考えると、「東土塁西端の下成土塁積土内で検出した」とされる、3次調査出土杭列SX025から採取されたサンプル(杭)の可能性が最も高いのではないでしょうか。3次調査は昭和47年(1972)に実施されていますから、時期的にも矛盾はありません。(つづく)

(注)
①『水城跡 下巻』(九州歴史資料館、平成二一年〔2009〕)に記載された「水城跡出土木片・炭化材の放射性炭素年代測定」(327~332頁)によれば、その殆どが七世紀以後であり、最も古い値のもの(35次調査、敷粗朶層坪堀2第2層から検出されたヒサカキ)でも中央値240年である。このサンプルについては「洛中洛外日記」1355話(2017/03/17)〝敷粗朶のサンプリング条件と信頼性〟で紹介した。
②『水城跡 上巻・下巻』九州歴史資料館、平成二一年(2009)。


第2472話 2021/05/27

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(2)

 ―「坂田測定」サンプルの試料性格―

 古田先生が大宰府政庁「倭の五王」王都説の根拠とされたであろう坂田武彦さんによる太宰府遺構出土物の放射性炭素年代測定値について、同じサンプルによる再測定などは、わたしにはできませんので、基本的に同測定値が正しく測定されたとする前提で考察することにします。また、坂田さんの時代と比べて、現在では測定精度や補正精度が格段に向上しており、その結果、一般的傾向として当時(昭和五十年代)の測定値よりも新しい年代を示すことが知られています。しかし、今回の考察ではそのことも一端保留して、坂田測定値のままで考察を進めます。
 最初に、「坂田測定」サンプル(注①)の試料性格を確認しておきます。それは次のようなものです。

(1)太宰府関連施設、あるいは近隣遺構から出土したものですが、大宰府政庁遺構の創建年代をそのまま表すものではない。

(2)KURI 0112の「大宰府町水城堤防の中の杭」以外の試料は「炭」「木炭」であり、政庁など建築物の出土木材ではない。

(3)KURI 0005、KURI 0102に至っては製鉄関連遺跡であり、大宰府政庁の創建年代とは関係づけられない。

 以上のように、大宰府政庁創建年代判定のエビデンスとして採用できないものが大半です。しかし、KURI 0030については、「都府楼の基礎石下」から出土した「炭」であり、この試料と測定値は注目する必要があります。「都府楼の基礎石下」とありますから、おそらく大宰府政庁の礎石の下から出土したものと思われます。なお、なぜかこれだけは発掘者が記されていませんから、学問的にはやや問題(由来不明)がありそうです。
 また、礎石の下からと言っても、大宰府政庁はⅡ期とⅢ期が礎石を持った建物ですから、どちらの時期の礎石かが示されていないので、やはり試料性格が明瞭ではありません。おそらく、地表に露出しているⅢ期の礎石の下からの可能性が高いと考えられます。というのも、Ⅱ期の礎石はⅢ期に転用されるケースが多いようで、Ⅲ期の整地層中に埋まっていたⅡ期の礎石はそれほど多くはないからです。更に、天慶の乱(注②)で焼失したⅡ期の焼土層の上にⅢ期が造営されたため、礎石の下の「炭」ということであれば、Ⅲ期の礎石下からの出土の可能性をうかがわせます。そうであれば、十世紀の天慶の乱の焼土層の「炭」ということになるので、大宰府政庁Ⅰ期やⅡ期の年代判定には適さない試料と言えます。
 しかも、「坂田測定」によれば、「1950年より2840年前±60年」という測定値ですから、それは紀元前900年頃の年輪を持つ木材ということになります。これは天慶の乱とは約1,800年も離れた年代であり、政庁遺構の年代判定の参考にはとてもなりそうもありません。「坂田測定」を信用するのであれば、天慶の乱のときに焼失した木材に樹齢二千年ほどのものがあり、その中心部分の「炭」を偶然にもサンプリングして測定したという他ないように思います。(つづく)

(注)
①次の「坂田測定値」が紹介されている。
〔KURI 0005〕筑紫郡大宰府町池田鬼面 古代製鉄登釜の木炭
 1950年より1570年前±30年
 発掘者 福岡県教育委員会
〔KURI 0030〕大宰府町都府楼 基礎石下の炭
 1950年より2840年前±60年
〔KURI 0102〕大宰府町都府楼 ちいさこべ製鉄製銅所跡
 出土物、銅滓、鉄滓、土器、木炭。
 1950年より2140年前±50年
 発掘者 福岡県教委
〔KURI 0112〕大宰府町水城堤防の中の杭
 1950年より2250年前±80年
 発掘者 福岡県教委
②天慶二~四年(939~941)に勃発した藤原純友による乱。このとき大宰府政庁Ⅱ期が焼失した。発掘調査により、現在、地表に現れている礎石が焼失後に再建されたⅢ期の政庁のものであることが判明した。


第2471話 2021/05/26

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(1)

 古田先生が、なぜ考古学的エビデンス(五世紀の王宮遺構の出土)がない、「倭の五王」王都を大宰府政庁とする仮説に至ったのかについて気になっていましたので、著作を精査したところ、『古田武彦の古代史百問百答』(注①)の次の記事が目にとまりました。

〝もう一つ紫宸殿というのでなくて、権力者の建物ということになると、内倉さんが書かれたように弥生時代から、建物の跡が連綿と続いています。わたしは『邪馬壹国の論理』の最後に書きましたが、九州大学が古いと言って出しているものを、今の考古学会は知らない振りをしているわけです。そういう問題をクリアしなければならない。〟『古田武彦の古代史百問百答』「32 九州の紫宸殿について」ミネルヴァ書房版、212頁

 これは、「紫宸殿の問題で、太宰府の政庁跡の考古学年代にわたしは疑問を持っているのですが、果たして一期工事が白村江の後なのでしょうか。それだったら多利思北孤の宮殿は一体どこにあったのですか。後宮に数百人の女性もいる大変な宮殿だったと思うのですが、実際に考古学年代はどうなのでしょうか。」という質問に対する回答ですから、大宰府政庁Ⅰ期遺構の年代について通説への疑義を示され、その根拠として『邪馬壹国の論理』(注②)の最後に書かれたとされる「九州大学が古いと言って出しているもの」を根拠とされています。
 そこで、「九州大学が古いと言って出しているもの」を探したのですが、『邪馬壹国の論理』朝日新聞社版にそのような記事は見当たりません。しかし、わたしには九州大学での太宰府遺構の放射性炭素年代測定値を古田先生が『ここに古代王朝ありき』(注③)で紹介されていた記憶がありましたので、同書を調査したところ、同大学工学部冶金学科の坂田武彦さん(故人)からの手紙に書かれていた太宰府出土物の放射性炭素年代測定値(4件)が紹介されていました。それは昭和52年2月17日の手紙のようです。
 坂田さんの手紙に記されていた測定値は次のような内容です。

 KURI(九州大学ラジオアイソトープの略号)

 KURI 0005 筑紫郡大(ママ)宰府町池田鬼面 古代製鉄登釜(ママ)の木炭
 1950年より1570年前 ±30年
 発掘者 福岡県教育委員会

 KURI 0030 大宰府町都府楼 基礎石下の炭
 1950年より2840年前 ±60年

 KURI 0102 大宰府町都府楼 ちいさこべ製鉄製銅所跡
 出土物、銅滓、鉄滓、土器、木炭。
 1950年より2140年前 ±50年
 発掘者 福岡県教委

 KURI 0102 大宰府町水城堤防の中の杭
 1950年より2250年前 ±80年
 発掘者 福岡県教委

 この坂田さんの測定値に対して、古田先生は次のように記されています。

〝これは驚くべき内容だ。現代の考古学者たちが扱いかねているのも、無理はない。もちろん、わたしにも、この測定自体が真か否か、それを判定する力はない。この点、一般の考古学者にとっても、同様であろう。
 (中略)太宰府の遺構及び近辺の(木炭の)測定値は、いずれもそれが「倭の五王」、さらに「邪馬一国」とそれ以前の時代に遡ることを証言していたのである。(中略)
 それゆえわたしは、将来の若い自然科学者が、この坂田測定を再検証されることを期待し、敢えてここに引用させていただいたのである。〟『ここに古代王朝ありき』「第三章 九州王朝の都城」朝日新聞社版、233~234頁

 わたしも、同書を読んで、この測定値に驚愕したことを憶えています。古田先生は驚きを示しながらも、「将来の若い自然科学者が、この坂田測定を再検証されることを期待し、敢えてここに引用させていただいた」とあるように、初期の著作に特に多く見られる、慎重な学問的配慮の姿勢がここでも発揮されていました。
 わたしが同書を読んだのは三十代初めの頃でした。もう若くはありませんが、恩師の期待に応えるべく、「坂田測定」について考察・検証することにします。(つづく)

(注)
①古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(2015)。東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊された。
②古田武彦『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2470話 2021/05/24

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(11)

 ―古田説の変遷とその論理構造―

 「倭の五王」時代の倭国王都や領域についての古田説は研究の進展に伴って変化してきたことを説明してきました。そこで、本シリーズのまとめとして、古田説成立の論理構造と変遷した理由について解説します。これは学問の方法論を知る上でも重要な検証でもあります。まずは、「倭の五王」時代の倭国王都についての古田説の変遷を著書でたどります。

(1)『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。
〝五世紀末には、太宰府南方の基肄城あたりを中心としていた時期があったように思われる。なぜなら、このころ成立したと思われる『百済記』(三六七~四七六年の間、直接引用)が「貴国」(「貴倭女王」も、『百済記』の中に引用されていたと思われる晋の起居注に出現する)という表現を用いているからである。(中略)
 以上が文献上の微証から知りえたところであるけれども、「博多湾岸――基肄城――筑後」(ただし、「博多湾岸」は基肄城をもふくむ)という単線的な移行を想定すべきではない。なぜなら、のちの近畿天皇家の場合をモデルとして見ればわかるように、奈良県内の各地に都を転々とし、時には滋賀県(大津)、大阪府(難波)と、広域に都を遷しているからである。
 その点、九州王朝も、筑紫(筑前・筑後)を中心として、時には九州全域が遷都の対象として可能性をもっていた、といわねばならぬ。
 今、文献外の徴証を見よう。
 筑後の石人山古墳、人形原の古墳群、さらには筑後を中心としておびただしい壁画古墳(いわゆる「装飾古墳」)も、当然、この九州王朝との関連から、再び注目されねばならない。(中略)
 しかし、それらについては、わたしがこの本で採用した、外国史書による「文献の史料批判」という方法ではなく、他の方法による追跡の領域に属するであろう。〟同書「第五章 九州王朝の領域と消滅」「遷都論」、557~558頁

(2)『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店、昭和六十年(1985)。
〝以上の分析によってみれば、この倭国の都、倭王の居するところ、それは九州北岸、すなわち博多湾岸以外にありえないのではあるまいか。
 ここで問題を整理してみよう。
 『宋書』夷蛮伝の「倭国」と「倭の五王」、それは五世紀の時間帯(四二一~四七八)だ。これに対する、この朴堤上説話の「倭国」と「倭王」、これも四世紀から五世紀にかけての存在だ。(中略)
 すなわち、讃―珍―済―興―武という、倭の五王、それは「筑紫の王者」、「博多湾岸の王者」であった。――これが帰結だ。〟同書「第五章 最新の諸問題について」、308頁

(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、平成元年(1989)。
〝これに対し、もし、遠く時間帯を「五世紀後半~七世紀」の間にとってみれば、いわゆる装飾古墳が、まさに、「筑後川以南」に密集し、集中している姿を見出すであろう。弥生と逆の分布だ。これはなぜか。この時期、倭国は北方の高句麗・新羅と対抗し、緊迫のさ中にあった。直ちに北方より「侵入」されやすい北岸部を避け、「筑後川という、大天濠の南側」に“神聖なる墳墓の地”を「集中」させることになったのではあるまいか、吉野ヶ里にしめされた「墳墓を『濠』で守る」という、同一の思想だ。弥生と古墳と、両時代とも、同じき「筑後川の一線」を、天然の境界線として厚く利用していたのである。南と北、変わったのは「主敵方向」のみだ。
 この点、弥生の筑紫の権力(邪馬壱国)の後継者を、同じき筑紫の権力(倭の五王・多利思北弧)と見なす、わたしの立場(九州王朝説)と、奇しくも、まさに相対応しているようである。」〟同書115~116頁

(4)『古田武彦の古代史百問百答』東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、ミネルヴァ書房、平成二六年(2014)。
〝「博多湾岸が中心であったのは弥生時代。高句麗からの圧力を感じるようになってからは後退していきます。久留米中心に後退します。玉垂命がおいでになったのが三一六年とか。高良山で伝えているわけです。筑後川流域に中心が移るわけです。移ったからと言って、太宰府を廃止して移ったのではなく、表は太宰府、実際は久留米付近となるわけです。二重構造になっているわけです。」〟同書「Ⅶ 白村江の戦いと九州王朝の滅亡」「32 九州の紫宸殿について」、212頁

 古田先生の著作を精査したところ、上記の著書で「倭の五王」の王都について論じられていました。見落としがあるかもしれませんが、古田先生の王都論・遷都論の変遷やそれを支えている論理構造が読み取れます。
 中でも最も論理的にその大枠を押さえながら、用心深く詳述されているのが初期三部作の一つ、(1)『失われた九州王朝』です。ある意味では、終生を貫く基本的な学問の方法が示されたものであり、感慨深いものがあります。特に、「筑紫(筑前・筑後)を中心として、時には九州全域が遷都の対象」という指摘は今日でも有効であり、示唆に富んでいます。この視点から、宮崎県の西都原古墳群も検証すべきでしょう。
 そして、学問の方法として、「文献史学の徴証」から「文献外の徴証」へ、すなわち「わたしがこの本で採用した、外国史書による『文献の史料批判』という方法ではなく、他の方法による追跡の領域に属する」という教導こそ、本シリーズでわたしが目指したものに他なりません。
 次いで(2)『古代の霧の中から』昭和六十年(1985)では、文献史学に基づき、「倭の五王」の王都を博多湾岸とされました。もっとも、同書の主要論点は「倭の五王」を大和朝廷とする通説への批判ですから、こうした結論を強調されたものと思われます。
 その点、「文献外の徴証」「他の方法による追跡の領域」に踏み込まれたのが、(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」平成元年(1989)です。考古学という学問分野の結論として、「直ちに北方より『侵入』されやすい北岸部を避け、『筑後川という、大天濠の南側』に“神聖なる墳墓の地”を『集中』させることになったのではあるまいか」として、筑後遷都を示唆されたものです。
 この後、古田先生は「倭の五王」王都を大宰府政庁(Ⅰ期)とする見解に傾かれ、わたしとの〝論争的対話〟に至ります。そして最晩年での認識を示されたのが(4)『古田武彦の古代史百問百答』平成二六年(2014)でした。それは従来の「文献史学の徴証」と「文献外の徴証」(考古学)とを折衷されたとも思われる表現「表は太宰府、実際は久留米付近」で「倭の五王」王都を示されました。
 この結論は、本シリーズでわたしが推定した〝筑後川の両岸付近〟(注)と重なるものです。本年11月に開催予定の八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー、大学セミナーハウス)では「倭の五王」王都の所在がテーマの一つとされるようですので、今回、紹介した古田先生の著書・所論の成果や到達点を見据えた論議が望まれるところです。(おわり)

(注)筑後川北岸の夜須郡・朝倉郡と南岸の浮羽郡・三井郡・三潴郡。


第2469話 2021/05/22

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(10)

 ―「毛人五十五国」と仙台市の前方後円墳―

 神武東征やその後の銅鐸圏への侵攻により、近畿は「衆夷六十六国」に含まれたとわたしは捉えていますが、東方への侵攻は弥生時代に限らず古墳時代でも断続的に続いたのではないでしょうか。たとえば『日本書紀』景行天皇55年条に見える「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」の記事もその一端のように思われます。ただ、この記事からは時代を特定しにくいため、「倭の五王」以前の事件なのかどうか慎重な検討が求められます(注①)。
 なお、彦狭嶋王は関東の大王であり、その伝承が『日本書紀』に転用されたとする仮説(注②)もあり、まだ研究途上のテーマです。従って、文献史学の分野からは、「衆夷六十六国」の領域(東限)がどの程度の範囲なのかは現時点では判断できません。その結果、「衆夷六十六国」の東にある「毛人五十五国」の領域もまた推定できていません。他方、考古学の分野では前方後円墳の分布がヒントになるかもしれません。
 「毛人五十五国」の領域を検討するうえで、わたしが注目してきたのが仙台市にある遠見塚古墳(墳丘長110m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)と隣接する名取市にある東北地方最大の雷神山古墳(墳丘長168m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)です。両古墳の存在から、仙台平野や名取平野が古墳時代の東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえます。ちなみに、雷神山古墳は九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半の前方後円墳)よりも墳丘長が大きいのです。
 また、仙台市には東北地方最古の須恵器窯跡とされる大蓮寺窯跡(5世紀中頃)もあり、当地は「蝦夷国」の中心領域だったのではないかと考えています(注③)。この理解が正しければ、「毛人五十五国」とは東北地方の「蝦夷国」を含む領域だった可能性があります。倭王武の「上表文」には「東征毛人五十五国」とありますから、倭国の軍事勢力が「毛人」領域に進駐(東征)しているはずですから、その痕跡としての前方後円墳や須恵器窯跡の証言力は小さくありません。また、「蝦夷国」の領域であれば「毛人」と称するにふさわしいと思います。しかしながら、「毛人五十五国」の正確な領域(全体像)は未だ不詳とせざるを得ません。(つづく)

(注)
①次の拙論で検討を続けたが、未だ結論は出ていない。
 古賀達也「洛中洛外日記」1709話(2018/07/19)〝「東山道十五国」の成立時期〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2002話(2019/09/28)〝九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(6)〟
②藤井政昭「関東の日本武命」『倭国古伝』古田史学の会編、明石書店、2019年。
③古賀達也「洛中洛外日記」1494話(2017/09/03)〝須恵器窯跡群の多元史観(5)〟
 古賀達也「須恵器窯跡群の多元史観 ―大和朝廷一元史観への挑戦―」『古田史学会報』144号、2018年2月。


第2468話 2021/05/21

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(9)

 ―倭王武「上表文」と大阪上町台地倉庫群―

 倭王武「上表文」の「東征毛人五十五国」の範囲について、古田先生は『古代通史』(注①)で「近畿の銅鐸圏中心の部分」と修正されました。その理由として、神武東征により倭国の支配地域が拡大したことをあげられました。『宋書』倭国伝の「上表文」にあるように、先祖代々から支配地を拡大したと倭王武は主張しています(注②)。「倭の五王」時代の旧銅鐸圏は既に倭国の支配領域になっていますから、「毛人五十五国」を銅鐸圏の中心領域としたことは、『失われた九州王朝』(注③)での「中国地方・四国地方(各、西半部)」とする理解よりも妥当と思います。こうした古田先生の修正方針には賛成なのですが、今のわたしには不十分な修正のように見えます。
 たとえば『日本書紀』の神武東征説話によれば神武兄弟は安芸や吉備勢力の支援を受けた後、大阪湾に突入していますから、その当時(弥生時代)の安芸・吉備は倭国の勢力圏内と見られます。そうであれば、その地域は古墳時代には「毛人五十五国」ではなく、「衆夷六十六国」に含まれていたと考えられます。更に神武東征後、銅鐸圏中枢の近畿が倭国の勢力範囲に入ったわけですから、「倭の五王」時代の五世紀(古墳時代)には近畿も含めて「衆夷六十六国」と理解した方がよいと思います。
 その考古学的根拠の一つとして、古墳時代における列島内最大規模の大阪上町台地の都市遺構の存在があります。この都市遺構について次のように報告されています。

 「難波宮下層遺跡は難波宮造営以前の遺跡の総称であり、5世紀と6世紀から7世紀前葉に分かれる。大阪歴史博物館の南に位置する法円坂倉庫群は5世紀、古墳時代中期の大型倉庫群である。ここでは床面積が約90平米の当時最大規模の総柱の倉庫が、16棟(総床面積1,450㎡)見つかっている。」杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」(注④)
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。」
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(注⑤)

 古墳時代における最大規模の都市遺構である大阪上町台地倉庫群は「当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関」とする考察は重要です。おそらく同遺跡は古墳時代における九州王朝の「最重要の出先機関」ではないでしょうか。この理解が正しければ、「倭の五王」時代の近畿は「衆夷六十六国」に含まれていたとする、先の仮説を支持する考古学的出土事実になります。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』原書房、平成六年(一九九四)。ミネルヴァ書房より復刻。
②倭王武「上表文」には、「自昔祖禰、躬擐甲冑、跋涉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國。」とあり、歴代の倭王たちが軍事侵攻により支配領域を拡大させたと主張している。
③古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四十八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
④杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』
⑤南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年3月。


第2467話 2021/05/20

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(8)

 倭王武「上表文」に見える倭国の領域「毛人」

 『宋書』の倭王武「上表文」に記された「東征毛人五十五国」の範囲について、古田先生は『失われた九州王朝』(注①)では「中国地方・四国地方(各、西半部)」とされていましたが、『古代通史』(注②)では次のように修正されました。

〝倭王武がいっている「東のかた毛人」というのは、近畿銅鐸圏の支配のことだ、「毛人」というのは銅鐸圏の人々のことだ、というふうに私は理解すべきだったんです。(中略)
 要するに、「神武東行」にもとづく銅鐸圏の支配を「毛人、五十五国」といっている。この場合なお一言申しますと、たとえば吉備であるとか伊予であるとか、そういう所は入らなくていいわけです。そこは占領支配したわけじゃないですから。近畿の銅鐸圏中心の部分を「毛人」と呼び「五十五国」と呼んでいる。これも九州を「六十六国」というバランスでみれば、近畿でどれくらいの範囲を呼んでいるのかのだいたいの見当はつく、という話でございます。〟『古代通史』原書房版、234~235頁

 『失われた九州王朝』では、衆夷(九州島)の「六十六国」と比較して毛人の「五十五国」の範囲を「中国地方・四国地方(各、西半部)」とされたのですが、『古代通史』では神武東征により支配した銅鐸圏を「毛人五十五国」の範囲と修正されたものです。わたしはこの修正の視点(神武等による勢力拡大を重視)には賛成ですが、その領域を国数によって比較判断(注③)することと、衆夷(九州島)と毛人(銅鐸圏)の間に位置する吉備や伊予がどちらに属するのかについてが不鮮明であることには疑問を持っています。なお、『古代通史』において古田説が修正されていたことを日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)よりご教示いただきました。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四十八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』原書房、平成六年(一九九四)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『古田武彦が語る多元史観』(ミネルヴァ書房、東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、2014年)によれば、国数比較による領域推定はできないと次のように回答されている。
〝そうすると倭の五王のところに書いてある国名も九州、筑紫を中心とした数です。しかしそれが、どこどこであるかということは、あの数からして割り振ることはできません。割り振ってもそれは小説のようなもので、歴史学とは関係ないわけです。「割り振ることができない」というのが歴史学です。ただ原点が筑紫であることは動かない、という立場です。〟345頁、第八回八王子セミナー(2011年)での回答。


第2466話 2021/05/19

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(7)

 倭王武「上表文」に見える倭国の領域「衆夷」

 今回は、『宋書』の倭王武「上表文」に記された倭国の支配領域と5世紀の考古学的事実(古墳)との対応について論じます。同「上表文」には次のように倭国の支配領域が記されています。

 「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国。」
〔釈文〕東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。

 古田先生の『失われた九州王朝』(注①)によれば、この領域(毛人・衆夷)について次のように説明されています。

 〝日本列島の西なる「衆夷」とは、みずからの都を中心として、それをとりまく九州の地の民それ自身をさすこととなる。すなわち、中国の天子を基点として、「東夷」なる、みずからを指していることとなろう。そして東夷の地たる九州のさらに東の辺遠(中国から見て)に当たる中国地方・四国地方(各、西半部)の民を「毛人」と呼んだこととなろう。〟『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版173頁

 このように古田説では「上表文」にある「衆夷六十六国」を九州島に、「毛人五十五国」を中国地方・四国地方(各、西半部)とされました。もちろん「海北九十五国」とは百済・新羅を含む朝鮮半島の国々です。この古田説は有力と思いますが、その上で他の可能性も考えられます。この点は後述します。
 「上表文」には東西と北の支配領域の国数は記されていますが、南の記事はありません。このことから、九州島より海を渡った南方の島国へは倭国は侵攻していないと考えられます。より精確に言えば、九州島の南端領域(薩摩地方)まで支配していたのかは、「上表文」からは判断できません。他方、考古学的出土事実から判断すれば、薩摩川内市の端陵(はしのりょう)古墳(四世紀中頃か、墳丘長54mの前方後円墳)や日本最南端の古墳として薩摩半島最南端に位置する指宿市の弥次ヶ湯古墳(5世紀末前後の円墳、径18m)があることから、九州島全域が「衆夷六十六国」に含まれているとする古田説は妥当と思われます。
 なお、宮崎県南部や鹿児島県東部には南九州独自の地下式横穴墓が分布しており、九州王朝に併合された在地勢力・文明の存在がうかがわれます(注②)。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四十八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
②宮崎県えびの市の島内地下式横穴墓群114号墓(六世紀前半)から、龍の銀象嵌がある長さ98cmの大刀が出土している。倭国に併合された南九州在地勢力の王墓ではあるまいか。古賀達也「洛中洛外日記」1502話(2017/09/17)〝「龍」「馬」銀象眼鉄刀の論理〟を参照されたい。


第2465話 2021/05/18

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(6)

   ―西都原古墳群の事実と解釈―

 九州王朝説にとって、「倭の五王」時代(5世紀)における〝不都合な事実〟の中でも、わたしが最も深刻に感じたのは、全国屈指の規模とされる西都原古墳群の存在でした。河内や大和の巨大古墳群の存在に対しては、これまで古田学派の解釈は次のようなものでした。

(1)中国史書に見える倭国とは北部九州の九州王朝のことである。
(2)従って、高句麗や新羅と戦っていた倭国とは九州王朝である。
(3)長期にわたり戦争を続けていた九州王朝に巨大古墳を造り続けることはできない。
(4)九州王朝があった北部九州に巨大古墳群がないのは当然であり、むしろ倭国が九州王朝であったことを証明している。
(5)この点、巨大古墳群がある河内や近畿の勢力(後の大和朝廷)は高句麗や新羅とは戦っていなかったことの反映であり、倭国を大和朝廷のこととする通説が間違っていることを示している。

 この理解は妥当と思いますが、通説論者への説得力としては十分ではありません。というのも、〝国内最大規模の古墳群を造営できるのは国内最大の権力者であり、それを大和朝廷(倭国)とすることは最も有力な理解である〟という主張を否定しにくいからです。また、〝北部九州の権力者が高句麗や新羅と戦ったのは、大和朝廷の命令によりなされたもの〟という通説も簡単には揺らぎません。
 西都原古墳群にも同様の解釈により、日向地方の勢力は参戦していなかったので巨大古墳群造営が可能だったという説明ができないこともないのですが、次のような問題があります。

(ⅰ)倭王武の上表文によれば、倭国の領域は九州全域が含まれていると考えられ、その中で西都原だけが巨大古墳造営が許された理由が不明である。
(ⅱ)日向の勢力が参戦しなかった理由を説明できない。
(ⅲ)西都原古墳群に次いで隣国の大隅にも唐仁古墳群が登場するが、南九州での巨大古墳造営の背景について説明できていない。

 このような〝なぜ西都原の巨大古墳が「倭の五王」の時代(五世紀)に登場したのか〟という疑問に、わたしたち古田学派は説得力ある説明に成功していません。(つづく)


第2459話 2021/05/12

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(1)

 ―最重要エビデンスは「筑後川の一線」―

 「洛中洛外日記」2458話(2021/05/11)〝九州王朝と大和朝廷の「都督」(2)〟において、「倭の五王」の王都の場所を論じるとき、見解が異なる論者に対しても説得力のあるエビデンス(考古学的出土事実)の明示が不可欠であると、次のようにわたしは述べました。

 「太宰府遺構を5世紀の『倭の五王』の王都とする見解についても、〝考古学的根拠(5世紀の王宮の出土)がない〟と一蹴されて終わりでしょう。日本古代史学が人文科学である以上、こうした批判(エビデンスの明示要請)は避けられないのです。」(「洛中洛外日記」2458話)

 そこで、「倭の五王」時代(5世紀)の考古学的出土状況を概観し、「倭の五王」の王都を推定するためにはどのようなエビデンスが存在するのかについて解説し、王都の位置について論究します。
 その場合、古田学派として参考とすべき指針は古田先生の論文「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」(注①)です。その論旨は次の通りです。
 〝弥生時代の倭国の墳墓中心領域は筑後川以北であり、古墳時代になると筑後川以南に移動する。それぞれの時代の主要遺跡(弥生墳墓と装飾古墳)分布が、天然の濠「筑後川の一線」をまたいで変遷している。その理由は、主敵が弥生時代は南九州の勢力(隼人)で、古墳時代になると朝鮮半島の高句麗などとなり、神聖なる墳墓を博多湾岸から筑後川以南の筑後地方に移動させたと考えられる。〟
 この論文は古田学派内からもほとんど注目されてきませんでしたが、「倭の五王」の王都が博多湾岸から筑後方面へ移動したことを示唆しており、貴重です。
 次いで、近年の研究で明らかになった比恵・那珂遺跡群(福岡市)の時代的変遷も重要な考古学的事実として注目されています。博多湾岸に位置する比恵・那珂遺跡群は弥生時代最大規模の都市遺構です。ところが5世紀以降になると衰退し、再び都市化するのは6世紀後半以降です。2018年12月、大阪歴史博物館で開催されたシンポジウム(注②)の資料集には次のように説明されています。

 「弥生時代中期~古墳時代前期にかけて都市的な様相を示していた比恵・那珂遺跡群は5世紀以降衰退期を迎える。それが再び、都市化していくのは6世紀後半以降で、官家の設置が大きな契機と考えられる。」『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、76頁。(注③)

 ここで指摘されているように、弥生時代最大の都市、比恵・那珂遺跡群は5世紀から6世紀後半頃まで衰退していたとあり、この衰退期間に〝「倭の五王」の時代〟がスッポリと入るのです。この考古学的事実は、古田先生の「筑後川の一線」説と見事に対応しており、「倭の五王」の王都を探る上で貴重なエビデンスとなります。更に、〝弥生時代最大規模の都市〟というからには、その地は俾弥呼が都とした邪馬壹国内にあったことを指示し、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説を証明する遺構でもあります(注④)。従って、この比恵・那珂遺跡群の盛衰は、「三世紀から五世紀、『倭国』の都城・首都は移動していない」とする見解(注⑤)とは相容れない考古学的事実のようです。(つづく)

(注)
①古田武彦「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、1989年。
②総括シンポジウム『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』2018年12月22日~23日、大阪歴史博物館講堂、大阪市博物館協会大阪文化財研究所主催。
③菅波正人「那津官家から筑紫館―都市化の第二波―」『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』
④邪馬壹国と比恵・那珂遺跡については、次の論稿を参照されたい。
 正木 裕「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集、明石書店、2021年)
⑤草野善彦「倭国の都城・太宰府について」『多元』159号、2020年9月。


第2445話 2021/04/30

「倭王(松野連)系図」の史料批判(10)

 ―天孫降臨の矛盾と古田先生の慧眼―

 『記・紀』に見える天孫降臨神話は弥生時代(前期末~中期初頭)での史実の反映であり、その天孫族が居した高天原(天国)を日本海に実在した島嶼領域(壱岐・対馬・隠岐・五島列島・他)と古田先生はされました(注①)。すなわち、邪馬壹国や後の九州王朝(倭国)の始原の地を天国領域とされたわけです。他方、「倭王(松野連)系図」には、始祖とする「呉王夫差」以降の子孫が天国領域に居したとする記述はありません。こうしたこともあり、古田学派の実証的な研究者は同系図を後代造作ではないかと疑い、九州王朝(倭国)系図と見ることを躊躇してきました。わたしもその一人でした。
 天孫降臨神話を歴史事実の反映とする古田説に対して、わたしはそのことを支持する反面、矛盾をかかえた仮説ではないかとも考えてきました。というのも、日本列島西北部・他にあった大八洲国(出雲・筑紫・新羅、注②)への〝侵略〟という実質を持つ〝天孫降臨〟ですが、天国(島嶼領域)よりも巨大な耕地面積=生産力(弥生水田)と人口(労働力)を有す筑紫や出雲が天国よりも軍事的に劣っていた理由が不明だったからです。
 もっとも、朝鮮半島から伝わった鉄器(武器)による軍事力がその背景にあったとする見解もあるのですが、それでは日本列島の国々は鉄器に興味がなかったのでしょうか。島嶼の天国は鉄器を入手できたが、お隣の筑紫や出雲の国々は鉄器を入手できなかったとするのでしょうか。わたしはこのような〝解説〟では納得できないのです。
 このような疑問を抱いてきたのですが、その解決の糸口に気づくことができました。それは祖先神信仰に基づく宗教的権威です。たとえば、古代ギリシアにおいてオリンポスの神々の命令(デルフォイの神託)にアテネやスパルタなどの諸国が従ったようにです。同様に天国には筑紫や出雲の諸国が従うだけの宗教的権威があったことは、『記紀』神話を見ても明らかと思われます。そして、この権威の淵源が周王朝へと繋がる始祖伝承(呉の太伯、呉王夫差)だったのではないでしようか。
 本テーマの考察を続けることにより、わたしはこのことにようやく気づくことができました。ところが、天国や倭人の始原について既に指摘されていた人がいました。恩師、古田武彦先生です。『盗まれた神話』で次のように示唆されています。

 〝天つ神たちは、どこから「天国」へ来たか?〟そのような発想は、『記・紀』には存在しないのである。
 この「天国」が実は「海人国」であること、それはこれが一定の海上領域である点からも、容易に想像できるところであろう。さすれば、「天つ神」はすなわち「海人(あま)つ神」となろう。記・紀神話の母なる領域は、「天国」を中心とする対馬海流文明圏だ。では、この海上領域に割拠していた海人族は、はじめからそこにいたのか、それともどこかからやってきたのだろうか?
 このような問いに対する回答、それは思うに本書の用いた方法とは異なる、別の方法にまたねばならぬであろう。たとえば考古学的方法、たとえば人類学的方法、たとえば比較神話学的方法等々だ。また、中国の史書、『魏略』の文面とされる「其の旧語を聞くに、自ら太伯の後と謂う」なども、その見地からかえりみられるべきであろう。(注③)

 「洛中洛外日記」2443話〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(9) ―倭人伝に周王朝の痕跡―〟で、「倭人と周王朝に深い繋がりがあることを疑えず、『太伯』始祖伝承や『呉王夫差』始祖伝承は、何らかの歴史的背景に基づくのではないかと考えるに至ったのです。」とわたしは述べたのですが、古田先生は45年も前にこのことを示唆されていたのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。朝日新聞社版189頁。
②同①、412頁。
③同①、438頁。


第2443話 2021/04/28

「倭王(松野連)系図」の史料批判(9)

 ―倭人伝に周王朝の痕跡―

 古代中国の諸史料(注①)に記された倭国の始祖「太伯」伝承は、歴史事実を反映しているのではないかと、わたしは推定しています。その理由について説明します。なお、太伯とは、中国の春秋時代に存在した呉国を起こした、周王朝建国期の人物です。
 この周王朝の官職名「大夫」が、『三国志』倭人伝に散見されることを古田先生が早くから指摘されてきました。『「邪馬台国」はなかった』(注②)で次のように述べています。

 「『大夫』については、倭人伝中に
  古より以来、其の使中国に詣るに、皆自ら大夫と称す。
 とある。魏晋ではすでに『大夫』は県邑の長や土豪の俗称と化していた。(中略)
 ところが、倭国の奉献使は自ら『大夫』を名のった。これは下落俗化した魏晋の用法でなく、『卿・大夫・士』という、夏・殷・周の正しい古制のままの用法であった。」『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社版)376頁

 この指摘は、倭国が古くから周の影響を受けていたことを意味します。その史料根拠の一つとして、『論衡』(注③)に次の有名な記事があります。

 「周の時、天下太平にして、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。(中略)成王の時、越常、雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。」『論衡』巻八、巻十九

 成王は周王朝を建国した武王の子供で、二倍年暦を考慮しない通説では紀元前11世紀頃の人物です。その頃から、倭人は中国(周)と交流(鬯草の献上)があったとれさており、周王朝の官職名「大夫」が倭人伝の時代、3世紀でも使用されているのです。
 更に、倭人伝と周王朝との関係を明らかにした、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の一連の優れた研究があります。『俾弥呼と邪馬壹国』(注④)に収録された「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」です。同稿では、倭国の官職名などに用いられた漢字に、周代の青銅器に関係するものがあることを明らかにされました。
 こうした研究により、倭人と周王朝に深い繋がりがあることを疑えず、「太伯」始祖伝承や「呉王夫差」始祖伝承は、何らかの歴史的背景に基づくのではないかと考えるに至ったのです。(つづく)

(注)
①『翰苑』『魏略』『晋書』『梁書』。
 「聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』
 「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」
 「男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。」『晋書』倭人伝
 「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身がある。」『梁書』倭伝
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③『論衡』の著者は王充で、後漢代の成立。
④古田史学の会編『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年3月。