第2610話 2021/11/06

古田先生と安徳大塚古墳の想い出

 最近、安徳大塚古墳(注①)を邪馬壹国の女王俾弥呼(ひみか)の墓ではないかとする見解があることを知りました。20年ほど前の話しですが、わたしも同じことを古田先生に述べ、叱られたことがありましたので、当時のことを懐かしく想い出しました。
 それは2003年5月26日のことでした。福岡市で開催された古田先生の講演会の翌日、小林嘉朗さん(古田史学の会・現副代表)や当地の会員さんら(クルマ2台を出していただきました)と共に古田先生と那珂川町の安徳台遺跡調査を行いました(注②)。小雨が降る中、ぬかるみに足をとられ泥だらけになりながらの調査でしたので今でもよく憶えています(クルマの中も泥だらけにしてしまいました)。
 当日は、春日市の「奴国の丘歴史資料館」・熊野神社(須玖岡本山に鎮座)を初め、那珂川町の安徳台(あんとくだい)遺跡・裂田溝(さくたのうなで)・現人(あらひと)神社・安徳大塚古墳等を訪れたのですが、主たる目的は「奴国の丘歴史資料館」に展示されている須玖岡本出土の虁鳳鏡見学と、古田先生が俾弥呼の墓の候補とされた春日市須玖岡本山にある熊野神社社殿下の墳丘墓調査でした。
 笹などに覆われた安徳大塚古墳(墳丘全長約64m)に登りましたが、樹木に遮られて視界があまり良くなく、墳丘の全体像は確認できませんでした。那珂川町のパンフレットには福岡平野最古の前方後円墳とあり、後円部の規模が倭人伝の表記「径百余歩」(約25m)に近いので、わたしは不用意にも「卑弥呼の墓ではないでしょうか」などと口走ってしまい、先生から叱られました。
 その理由は、倭人伝には「径百余歩」とあることから、円墳と解さざるを得ないという点にあり、〝『三国志』の著者陳寿を信じとおす〟という学問の方法を貫かれた古田先生らしいものでした。今思えば、文献史学(倭人伝の史料批判)や考古学(古墳の編年)の研究成果や学問の方法を軽視した思いつきでした。
 わたしは、先生からは褒められるよりも叱られることの方が多かった〝不肖の弟子〟でしたが、どのようなことに対して古田先生が叱るのかについては、お陰さまでわかるようになりました。それは学問研究に関する〝不公正〟と古田学派内への〝非学問的対立〟の持ち込みでした。このことについてのわたしの体験も、おいおい紹介したいと思います。

(注)
①福岡県那珂川町安徳にある前方後円墳(方部が細長い手鏡型)。墳丘の全長約64m(前方部幅約20m、同長さ30m、後円部径約35m)。4世紀後半の福岡平野最古の前方後円墳とされる。
②古賀達也「五月二六日、卑弥呼(ひみか)の墓調査報告 安徳台遺跡は倭王の居城か」『古田史学会報』57号、2003年8月。

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