古田武彦一覧

第2814話 2022/08/23

「二倍年暦」研究の思い出 (2)

―古田先生から託された仕事と遺訓―

 わたしが『論語』が二倍年暦で書かれているとする論稿(注①)を発表したとき、古田先生からも賛成していただいたのですが、『論語』の年齢記事に用いられている用語の悉皆調査を行い、より確実な論証とするようにとのアドバイスをいただきました。そして、そのことを一冊の本にするようにと何度となくいわれました(注②)。たとえば、平成二二年(2010)「八王子セミナー」で古田先生は次のように発言されています。

〝二倍年暦の問題は残されたテーマです。古賀達也さんに依頼しているのですが、(中略)それで『論語』について解釈すれば、三十でよいか、他のものはどうか、それを一語一語、確認を取っていく。その本を一冊作ってくださいと、五、六年前から古賀さんに会えば言っているのですが、彼も会社の方が忙しくて、あれだけの能力があると使い勝手がよいのでしょう、組合の委員長をしたり、忙しくてしようがないわけです。〟(注③)

 わたしに先生の期待に応えられるだけの能力があったとは思っていませんが、最晩年にあたる2014年6月にも次のように著書で述べられています。

〝このテーマは、すでに古賀達也さんが書かれましたが、重大なテーマなので、関連の事例を、論語以外の、他の中国古典の各個所において確認してほしい、と古賀さんにお願いしていたのですが、繁忙のため果せず、今日に至っていたのです。このテーマに改めて取り組まれたのが、今回の大越論文(注④)だったのです。
 この大越論文では、最初には「二倍年暦」の概念を、論語理解にもちこむことに“慎重な姿勢”を採りながら、史記や五経等の「年齢記述」を列挙してゆく中で、やはりこの「二倍年暦」の存在を“認めざるをえない”という帰結を明らかにしています。穏当な到着点です。この立場から見れば、先述の「古賀提言」のテーマがやはり「再浮上」してこざるをえないのではないでしょうか。〟(注⑤)

 古田先生が述べられているように、二倍年暦で『論語』が書かれていることの証明のため、用語の悉皆調査をするようお電話で度々要請を受けました。しかし、当時は円高とリーマンショックによる不況の真っ只中にあり、わたしの勤務先も危機的な状況に置かれていました。わたしは担当事業部門の販売計画・開発・マーケティングを任されていたため、体力的にも精神的にも極限状態が何年も続き、古代史研究に多くの時間を割くことができませんでした。そのため、先生からの要請に対しても明確な返答をできずにいたところ、業を煮やした先生は、ある日、拙宅まで『十三経索引』全巻を持参され、これを貸すから調査するようにと言われました。そこで、わたしは会社の状況と、今はできないことを説明しました。31歳で古田史学に入門して以来、古田先生からのご指示は絶対と思ってきただけに、お断りするのはとても辛いことでした。
 その後、しばらくしてこの悉皆調査を大越邦生さんに依頼されたと古田先生からお聞きしましたが、大越さんが海外赴任(メキシコの在留日本人の小学校校長)となり、この件が宙に浮いてしまいました。そうしたこともあり、心苦しく思っていたのですが、大越さんが赴任中にその調査を進められ、その論文が先生の著書に収録されました。そのことを知り、わたしは少しだけ救われたような気持ちになりました。(つづく)

(注)
①古賀達也「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
 同「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第7集、新泉社、2004年。
②古賀達也「洛中洛外日記」389話(2012/02/26)〝パソコンがクラッシュ〟に次のように記している。
 「ミネルヴァ書房より(中略)発行予定の二倍年暦の本ですが、古田先生と相談の結果、私の論文と大越邦生さんが現在書かれている論文とで構成することになっています。まだ具体的な書名や発刊時期は決まっていませんが、古典に記された古代人の長寿の謎に、二倍年暦という視点で解明したものとなるでしょう。こちらも『「九州年号」の研究』同様に後世に残る一冊になればと願っています。」
③『古田武彦が語る多元史観』66~67頁(ミネルヴァ書房、2014年)
④大越邦生「中国古典・史書にみる長寿年齢」『古代史をひらく 独創の13の扉』古田武彦著、ミネルヴァ書房、2015年。
⑤古田武彦「日本の生きた歴史(二十三)」『古代史をひらく 独創の13の扉』ミネルヴァ書房、2015年。


第2809話 2022/08/16

「ポアンカレとモデル」 茂山さんの見解

 「洛中洛外日記」2807話(2022/08/11)〝ポアンカレ予想と古田先生からの宿題〟で、古田先生から厳しく叱責されたことを紹介しました。九州年号原型論研究に使用した「丸山モデル」(注①)という名称に対して、「モデル」という用語の使い方が間違っているという叱責でした。そのことについて、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)よりメールが届き、古田先生の「モデル」の理解についての見解(推察)が記されていました。
 茂山さんは大学で哲学や論理学を専攻されておられ、その分野に疎いわたしは何かと教えを請うてきました。なかでも「古田史学の会」関西例会で連続講義されたアウグスト・ベークのフィロロギーの解説(注②)は圧巻でした。今もその講義レジュメを大切に持っています。今回は、これもわたしが苦手な数学と論理学の分野のポアンカレについて、メールで古田先生の考え方についての見解を説明していただきました。特に重要な部分を紹介します。

【以下、転載】
仮説とモデルについて(古田武彦先生に代わって)

 ポアンカレのことを書かれていましたが、それを読んで、古田先生のクレームがどういうものだったか、十分説明していなかったかな、と気になりました。(中略)
 モデルの語源は、modus物差し と-ulus小さい を合わせたラテン語「modulus小さい物差し」に由来します。「尺度」「基準」などの意味も持ち、「測定すること」と深く関わった言葉です。分かり易い例でいえば、自動車のミニチュアモデル、絵画や彫刻のモデルなど。本物を作る前に粘土やデッサンなどで成形しますから、「手本」「模型」「鋳型」などの意味に派生して広がります。応用された結果「規範」「模範」「基本」などの抽象言語にまで広がりました。
 これで分かるように、もともと物作りや測定など、自然科学系の言語です。論理学に応用されても、数学的な性格をもちます。その特徴を定義すれば、モデルは仮説ではありません。また究極の解答でもありません。しかし、反復繰り返しに耐える必要があります。自動車のモデルから現実の自動車を何万台も同じように作る必要がある、という意味合いの「反復」です。それがモデルの本質です。つまり、沢山モデルがあっては困る訳で、モデルはひとつの作業にひとつ、です。しかし、ふたつの作業にはふたつのモデルがあっても構いません。
 さて、古田先生のクレームを代弁してみれば、いくつかの言説がありえます。
 まず「仮説に過ぎないものをモデルと言ってくれるな。一体だれが、そんな権威を保証したのか」というクレームでしょう。「何も論証されていない」という評価です。
 もう一つ、実学の物作りではない歴史の学問では、求める答えは(古典的哲学では)ひとつ、真実はひとつと考えられているので、「文献学(フィロロギー)では、「仮説」と「論証が完了した理論」の間には、モデルなどという中間的な存在は許されない」というクレームでしょうか。
 自然科学では、実験や測定が幾らでも(技術が可能な限り)繰り返し出来ますし、反復することに絶対的な安定性があります。「『もの』のふるまい」を研究しているからです。そのため、仮説と理論の間に(中途半端な)モデルの介在が許されています。研究の便宜のためです。しかしこの場合も、モデルと広く認知されるためには、相当の実験、測定、論証が要求され、それこそ「権威」が求められます。
 一方、実験や測定という数学的方法を駆使する社会学や心理学、経済学などを別にすれば、「『ひと』のふるまい」を研究する「古代史学」では、反復も出来ませんし、測定もできません。つまり、反復・測定を本質とする「モデル」という方法論は、馴染まないのです。
 古田先生が、ポアンカレの本を貴方に渡し、九州年号の古代史学的な議論の問題とされなかったのは、「モデル」という思想が自然科学や実学のものだ、と考えられていたからではないでしょうか。「モデル」とは、観測・測定が可能な問題で、どこでもいつでも、繰り返し使える汎用性のある規範、そう考えられていたのなら、九州年号の復元作業に「モデル」という設定はありえません。
【転載、終わり】

 この丁寧な長文の説明を読み、わたしには思い当たる節がありました。末尾に記された〝「モデル」とは、観測・測定が可能な問題で、どこでもいつでも、繰り返し使える汎用性のある規範、そう考えられていたのなら、九州年号の復元作業に「モデル」という設定はありえません。〟という指摘は、古田先生の考えに近いように思います。この件、引き続き勉強します。

(注)
①「市民の古代研究会」時代に丸山晋司氏が提案した九州年号の原型論(朱鳥を九州年号と見なさない説)が「丸山モデル」と呼ばれた。当時、『二中歴』の「年代歴」を原型とする古田先生と丸山氏とで論争が行われていた。その後、研究が進展し、『二中歴』原型説が最有力となり、今日に至っている。
②「古田史学の会」関西例会にて、「フィロロギーと古田史学」というテーマで2017年5月から一年間にわたり行われた。テキストはベークの『エンチクロペディーと文献学的諸学問の方法』(安酸敏眞訳『解釈学と批判』知泉書館)を用いた。


第2807話 2022/08/11

ポアンカレ予想と古田先生からの宿題

 昨晩のNHK番組「笑わない数学」は〝ポアンカレ予想〟がテーマでした。世紀の天才数学者アンリ・ポアンカレ(1854~1912)により提起された「単連結な3次元閉多様体は3次元球面と同相と言えるか?」という問題です。番組では、「宇宙の外に出ずに、宇宙の形がざっくり丸いか丸くないか、確かめる方法はあるか?」とも説明されましたが、わたしの数学力ではチンプンカンプンでした。
 「洛中洛外日記」(注①)で紹介したこともありますが、ポアンカレの名前を聞くたびに古田先生からいただいた二冊の本のことを思い出します。それはポアンカレの『科学と方法』『科学と仮説』(岩波文庫)で、古田先生から「勉強するように」といただいたものですが、わたしの学力では難しくて、少ししか読めていません。
 それは十五年ほど前だったと記憶していますが、九州年号原型論研究に使用した「丸山モデル」(注②)という名称について、科学や物理学での「モデル」という概念と比べて使用方法が間違っていると、先生から厳しく叱責されたことがありました。それでも、わたしが納得できずにいると、先生から二冊の岩波文庫が送られてきて、読んで勉強するようにとのことでした。それがポアンカレの『科学と方法』『科学と仮説』だったのです。
 この二冊は昭和36年版で、紙は黄変していますが、傍線や書き込みが一切なく、わたしは違和感を抱きました。古田先生からは多くの書籍をいただきましたが、新品のものはともかく、古い本には先生による書き込みや傍線が引いてあるのが常でしたので、この二冊だけは異質だったのです。それでも今回よく見ると、『科学と方法』の238~244頁の部分の上部の角が折り曲げられており、これも古田先生の蔵書によく見られたもので、その部分は特に留意されていたと思われます。それは第三篇「新力學」の第二章「力學と光學」に相当する部分です。なぜ古田先生がそこに興味を持たれたのかはわかりませんが、先生の勉強や学問の幅の広さに改めて驚いています。
 この二冊の勉強は、古田先生からの宿題なのですから、理解はできなくても、せめて完読だけはしておきたいと思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1977話(2019/08/31)〝古田先生からの宿題「ポアンカレの二著」〟
②「市民の古代研究会」時代に丸山晋司氏が提案した九州年号の原型論(朱鳥を九州年号と見なさない説)が「丸山モデル」と呼ばれた。当時、『二中歴』の「年代歴」を原型とする古田先生と丸山氏とで論争が行われていた。その後、研究が進展し、『二中歴』原型説が最有力となり、今日に至っている。


第2775話 2022/06/26

久留米大学で「九州王朝の両京制」を講演

 本日は久留米大学御井校舎で講演させていただきました。テーマは〝筑紫なる倭京「太宰府」 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―〟です。講演の後半では、筑後地方に濃密分布する名字、杉さん・物部さん・柿本さんについての最新研究を報告しました。特に佐賀県の柿本氏から入手した「柿本家系図」を紹介し、久留米市に分布する柿本さんも万葉歌人柿本人麿の末裔かもしれず、もし系図をお持ちであれば紹介していただきたいと参加者にお願いしました。
 おかげさまで講演会は盛況で、当地もコロナ禍から脱しつつあることがうかがえました。持ち込んだ書籍『古代史の争点』(明石書店、2022年)も完売し、不足分については次週に講演される正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からご購入いただくようお願いしたほどでした。
 講演会終了後には久留米大学教授の福山先生や参加された中村秀美さん(古田史学の会・会員、長崎市)と柿本家系図調査にご協力いただいた菊地哲子さん(久留米市)と夕食をご一緒させていただき、楽しい団らんが続きました。主催された久留米大学事務局の皆さんやご参加いただいた皆さんに御礼申し上げます。


第2774話 2022/06/25

「トマスによる福音書」と

        仏典の「変成男子」思想 (8)

 701年(九州年号の大化七年=大宝元年)の大和朝廷(日本国)への王朝交替まで日本列島の代表王朝だった九州王朝(倭国)での仏典受容における女人救済思想の研究はようやく始まったばかりです(注①)。遺された九州王朝系史料の少なさから、本格的な研究はこれからですが、『日本書紀』に転用された九州王朝記事を探ることでその一端をうかがうことができます。たとえば聖徳太子によるとされる三経義疏(注②)も、九州王朝の天子・阿毎多利思北孤、あるいは太子・利歌彌多弗利(注③)による事績の転載ではないかと考えています。
 三経義疏に関係するものとして、女性(勝鬘婦人)が中心となって説かれた『勝鬘経』が注目されます。仏教学の権威、中村元氏は同経典の特徴を次のように紹介しています。

〝それ(『勝鬘経』)は、釈尊の面前において国王の妃であった勝鬘婦人が、いろいろの問題について大乗の教えを説く、それにたいして釈尊はしばしば賞賛の言葉をはさみながら、その説法をそうだ、そうだと言って是認するという筋書きになっています。当時の世俗の女人の理想的な姿が『勝鬘経』のなかに示されています。(中略)
 釈尊は彼女が未来に必ず仏となりうるものであることを預言します。〟※()内は古賀注。中村元『大乗仏典Ⅰ 初期の大乗経典』135~138頁(注④)

 このように解説されて、中村氏は次のように結論づけます。

〝ここに注目すべきこととして、勝鬘婦人という女人が未来に仏となるのであって、「男子に生まれ変わって、のちに仏となる」ということは説かれていません。「変成男子」ということは説かれていないのです。「変成男子」ということは、しょせん仏教の一部の思想であったということがわかります。〟同150頁

 この結論の前半部分はその通りですが、後半の〝「変成男子」ということは、しょせん仏教の一部の思想であった〟は頷けません。なぜなら、少なからぬ仏典中に「変成男子」思想は見受けられるからです。更に、釈迦の時代や仏典成立時での女性蔑視社会に抗した女人救済の便法「変成男子」思想を、現代人の人権感覚で忌避・否定するのではなく、古代社会での「跋苦与楽」(注⑤)の救済方法を当時の人々(特に女性たち)がどのように受けとめていたのかを検証すべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①服部静尚「女帝と法華経と無量寿経」『古田史学会報』164号、2021年6月。
 同「聖徳太子と仏教 ―石井公成氏に問う―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)明石書店、2022年。
②『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』のことで、『日本書紀』推古紀には聖徳太子が講じたとある。『法華義疏』(皇室御物)は九州王朝の上宮王が集めたものとする古田先生の次の研究がある。
 古田武彦「『法華義疏』の史料批判」『古代は沈黙せず』1988年。ミネルヴァ書房より復刻。
③『隋書』俀国伝に見える俀国(九州王朝)の天子と太子の名前。
④中村元『大乗仏典Ⅰ 初期の大乗経典』東京書籍、1987年。
⑤「跋苦与楽」(ばっくよらく)とは、衆生の苦を取り除いて楽を与えること。『大智度論』二七(鳩摩羅什訳)に「大慈与一切衆生楽、大悲跋一切衆生成苦」とある。


第2767話 2022/06/18

「トマスによる福音書」と

    仏典の「変成男子」思想 (4)

 『法華経』には、「題婆達多品第十二」に見える「龍女の成仏」説話の他にも女性の救済についての説話があります。「洛中洛外日記」(注①)で紹介したことがありますが、「薬王菩薩本事品第二十三」の次の説話です。

『妙法蓮華経』「薬王菩薩本事品第二十三」

 「宿王華、若し人あって是の薬王菩薩本事品を聞かん者は、亦無量無辺の功徳を得ん。若し女人にあって、是の薬王菩薩本事品を聞いて能く受持せん者は、是の女身を尽くして後に復受けじ。若し如来の滅後後の五百歳の中に、若し女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん。
 復貪欲に悩されじ。亦復瞋恚・愚痴に悩されじ。亦復・慢・嫉妬・諸垢に悩されじ。菩薩の神通・無生法忍を得ん。是の忍を得已って眼根清浄ならん。是の清浄の眼根を以て、七百万二千億那由他恒河沙等の諸仏如来を見たてまつらん。」

 当時、成仏できないとされた女人でも、薬王菩薩本事品を聞き、説の如く修行すれば、死後に「安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」と阿弥陀浄土への往生ができると説いたものです。わたしが着目したのは「若し女人にあって、是の薬王菩薩本事品を聞いて能く受持せん者は、是の女身を尽くして後に復受けじ。」の部分です。三枝充悳氏による現代語訳では次のようです(注②)。

 「もしある女人が、この薬王菩薩本事品を聞いて、よく受持するならば、このひとは、女身を尽くしてから後に再び女身を受けるということはないであろう。」三枝充悳『法華経現代語訳(下)』464頁

 薬王菩薩本事品のこの部分は釈迦が女人の往生を説いた説話で、「女性救済」思想なのですが、ここでも「女身」であることをネガティブに捉え、滅後は再び女身として生まれないという〝方法〟を説いているわけです。現代人の感覚としては、なんともやりきれないのですが、このような便法を用いなければならないほど、当時の女性蔑視社会の圧力は強かったことがうかがえます。
 わたしにはこうした釈迦の便法を、あたまから否定することができません。現代社会にも、「正義」や「平等」「平和」を主張するだけでは一向に解決できない問題が数多くあり、その間も苦しみ続けている人々がいることを知っているからです。まさに釈迦やイエスが生きた時代はそのような精神文明の社会だったのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2505話(2021/06/29)〝九州王朝(倭国)の仏典受容史(2) ―法華経「薬王菩薩本事品」の阿弥陀浄土思想―〟
②三枝充悳『法華経現代語訳(下)』第三文明社レグルス文庫、1974年。


第2764話 2022/06/16

「トマスによる福音書」と

   仏典の「変成男子」思想 (2)

 発見された「トマスの福音書」(ナグ・ハマディ文書)の最終節(114)に次の記事があります。いわゆる「変成男子」思想に相当するものです。

〝シモン・ペトロが彼らに言った。「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。イエスが言った。「見よ、私は彼女を(天の王国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る活ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」。〟『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』(注①)

 ここに見えるマリハムとはマグダラのマリアのことで、イエスの〝妻〟ではないかとする見解や小説(注②)もある女性です。なお、イエスの周囲にはマリハム(マリア)という名前を持つ女性が数名おり、これは偶然のことではないとする西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の論文があります(注③)。わたしは高く評価しているのですが(注④)、古田先生からは厳しいご批判があった思い出深い論文でした。
 対して、仏典中の「変成男子」説話として著名な『法華経』題婆達多品(だいばだった・ぼん)に見える「龍女の成仏」説話は次のようです。主に仏弟子の舎利弗と龍女との対話になります。

〝その時、舎利弗は、竜女に語りて言わく「汝は、久しからずして、無上道を得たりと謂えるも、この事は信じ難し。所以はいかん。女身は垢穢にして、これ法器に非ず。云何(いか)んぞ能く、無上菩提を得ん。仏道は懸曠(はるか)にして、無量劫を経て、勤苦して行を積み、具さに諸度を修して、然して後、乃ち成ずるなり。又、女人の身には、猶、五つの障(さわり)あり。一には梵天王と作ることを得ず、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何ぞ、女身、速かに成仏することを得ん」と。
 その時、竜女に、一つの宝珠あり、価直は三千大千世界なり。持って以って仏に上(たてま)つるに、仏は即ち之を受けたもう。竜女は、智積菩薩と尊者舎利弗に謂いて言わく「われ、宝珠を献(たてま)つるに、世尊は納受したもう。この事、疾(すみやか)なるや、不(いな)や」と。答えて言わく「甚だ疾なり」と。女の言わく「汝の神力をもって、わが成仏を観よ。またこれよりも速(すみやか)ならん」と。当時の衆会は、皆、竜女の、忽然の間に変じて男子と成り、菩薩の行を具して、すなわち南方の無垢世界に往き、宝蓮華に坐して、等正覚を成じ、三十二相・八十種好ありて、普(あまね)く十方の一切衆生のために、妙法を演説するを見たり。その時、娑婆世界の菩薩と声聞と天・竜の八部と人と非人とは、皆、遥かに彼の竜女の、成仏して普く時の会の人・天のために法を説くを見、心、大に歓喜して悉く遥かに敬礼せり。無量の衆生は、法を聞いて解悟(さと)り、不退転を得、無量の衆生は、道の記を受くることを得たり。無垢世界は、六反に震動し、娑婆世界の三千の衆生は、不退の地に住し、三千の衆生は菩提心を発して、記を受くることを得たり。智積菩薩と及び舎利弗と一切の衆会とは、黙然として信受せり。〟『法華経』(注⑤)

 現代人の人権感覚からすると、女性が救済(福音書:天国に入る。仏典:成仏する。)されるためには男性にならなければならないという、なんとも屈折した方法であり、これは女性蔑視が前提となった思想です。キリスト教学では、このことをどのように説明しているのかは、不勉強のため知りませんが、仏教研究においては中村元氏が原始経典を根拠に、釈迦の言動を次のように説明をしています。

〝このように婦人蔑視の観念に、真正面から反対していることもあるが、或る場合には一応それに妥協して実質的に婦人にも男子と同様に救いが授けられるということを明らかにしている。そのために成立したのが「男子に生まれかわる」(変成男子)という思想である。この思想はすでに原始仏教時代からあらわれている。〟『原始仏教 その思想と生活』(注⑥)

 おそらく、キリスト教も仏教も女性蔑視の時代や社会の中で生まれた宗教ですから、このような「変成男子」思想が必然的に発生したのではないでしょうか。そうであれば、その当時の女性たちは「変成男子」思想を現代人の人権感覚のように女性差別思想(宗教)として退けるのではなく、自らを救済する思想(宗教)として、すがるような気持ちで受容したのではないかとする視点での検証も必要です。その時代の人々の認識を再認識するというのが、古田先生が採用したフィロロギーという学問なのですから。(つづく)

(注)
①『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』岩波書店、1998年。
②木村賢司「『ダ・ヴィンチ・コード』を読んで」『古田史学会報』72号、2006年。
③西村秀己「マリアの史料批判」『古田史学会報』62号、2004年。
④古賀達也「洛中洛外日記」361話(2011/12/13)〝「論証」スタイル(1)〟
⑤『法華経(中)』岩波文庫、1988年版。
⑥中村元『原始仏教 その思想と生活』NHKブックス、1970年、177頁。


第2763話 2022/06/15

「トマスによる福音書」と

   仏典の「変成男子」思想 (1)

 『古田史学会報』への投稿原稿査読で、仮説の新規性確認のため、古田先生の著作や「古田史学の会」や友好団体の会報・会誌などを読み直すことがあります。そのたびに、当時は深く理解できなかったテーマや論証方法の重要性に気づくことが少なくありません。今回もそうでした。
 仏典に見える「変成男子(へんじょうなんし)」思想に関する先行研究を調べていたときのことです。古田先生が研究されていたナグ・ハマディ文書(注①)の一つ、「トマスによる福音書」(注②)にこの「変成男子」思想があり、これが『法華経』などの大乗仏典に伝播したとする説を古田先生が発表されました(注③)。それに対して、今井俊圀さん(古田史学の会・全国世話人、千歳市)との応答が『古田史学会報』紙上でありました。次の三編です。タイトルと結論部分を抜粋します。

○今井俊圀「古田史学の会・創立十周年記念講演会に参加して」『古田史学会報』63号 2004年8月。
【結論部分の抜粋】鳩摩羅什(344~409年)が漢訳した旧訳の「法華経」にはこの「提婆達多品」はなく、唐代の玄奘三蔵(602~669年)の訳した新訳にはあるとされています。そうすると、この説話は、五世紀から七世紀の間に成立したと考えられます。
 ところで、トマスは五七年に南インドへ来て、七二年にマドラスで殉教したとされています。そうすると、五世紀の鳩摩羅什の時代にはこの説話は伝わっていたはずで、それが七世紀まで伝わらなかったとするのは少し変だと思います。二~三世紀頃北インドで成立したとされる「大無量寿経」への伝播なら話がわかるのですが。やはり、「法華経」の説話は「トマス福音書」とは無関係だと思います。

○古田武彦「『批判のルール』 飯田・今井氏に答える」『古田史学会報』64号 2004年10月。
【結論部分の抜粋】第一、両者とも「女は男に化身して、そのあと救済(神の国・浄土へ行く)される」という。「救済の論理構造」が同一である。(三段型)
 第二、『トマスによる福音書』の“出生地”のユダヤも、法華経の“出生地”の北インド(ガンダーラ等)も同じくアレキサンダー大王の征服による「同一、一大政治・文化圏」の一端である。従って両者の「救済の論理構造」の一致は、「偶然の一致」とは考えられない。「同一思想の伝播と交流」の結果である。
 第三、『トマスによる福音書』のトマス(ディディモ・ユダ・トマス)はユダヤのイエスのもとに居て、のち北インドへ移り、さらに南インドへ移り、そこで没した(『使徒ユダ・トマスの行伝』)。現在もインドの南端部、西側のケララ州・マルバール地方に「シリアン・クリスチャン」と呼ばれるトマス系のキリスト教会(マル・トマ教会)があり、かなりの信者数の分布をもつという(荒井献氏)。
 第四、法華経の提婆達多品に、八歳の竜女の説話がある。彼女はみずからの「女身」を「男」に変え(「変成男子」)、のちに「南方の浄土」へ行く、と言う。
 「南方の浄土」問題は、法華経研究上では難問(丸山孝雄『法華教学研究序説』平楽寺書店刊、等。丸山君は松本深志高時代の教え子。法華経の専門学者。この第一章第二節は「法華経の漢訳」を扱う。)
 第五、右の両書の比較からは「『トマスによる福音書』→法華経」の“伝播”を考えれば、理解できる(古田)。
 第六、提婆達多品は法華経中、「後代の成立」というのが(学問上)通説。(信仰の立場は、別。)
 第七、この点、旧訳(竺法護〈二八六〉と鳩摩羅什〈四〇六〉)と新訳(闍那崛多共達摩笈多〈六〇一〉と玄奘三蔵による)の時期問題がある。ただしこの問題は「下限」を示すのみ。「上限」は確認できぬ。(この問題、別述)
 第八、同じく仏教においても(女人の変成男子成仏)思想は、原始仏教に見られる。たとえば釈迦の前生譚で「前世は女人」とするもの七例(南伝仏教)。ただし「漢訳」の時期はおそく、果して「釈迦直後」にさかのぼれるか、不明。その上、先述の「変成男子」思想とはニュアンスがちがう。
 第九、その上、例の法華経の「南の浄土へ行く」問題は解決不能。
 第十、現在の法華経(提婆達多品を含む)は、やはり『トマスによる福音書』の“影響”という視点から「理解」するのが妥当(古田)。

○今井俊圀「『トマスによる福音書』と『大乗仏典」古田先生の批判に答えて」『古田史学会報』74号 2006年6月。
【結論部分の抜粋】私は「大乗仏典」からの「ナグ・ハマデイ文書」への影響を考えていましたが、「トマスによる福音書」の「原本」への直接の影響の可能性も出てきました。つまり、インドへ渡ったトマスがその地で既に成立していた「変成男子説」に出会い影響を受けた可能性もあるということです。
 そうすると、「変成男子説」は、「般若経」→「大阿弥陀経」等の他の大乗仏典→「正法華経」→「妙法蓮華経」→「添品法華経」という流れで伝わっていったことになり、「般若経」がBC一世紀に、トマスの来印よりも前に成立していたという前提に立てば、「法華経」の「提婆達多品」に説かれた「八歳の竜女の即身成仏」説話は「トマスによる福音書」とは無関係ということになります。

 以上のような応答がなされ、古田先生は再反論を行うと仰っておられましたが、ご多忙のためか実現されないままとなりました。当時のわたしには、両者の論点について充分な理解ができていませんでした。思想史上の論点の深さや、学問の方法論における実証と論証の絡み合いなど、今読むと学ぶべき重要な論点が両者の論文にあることがわかりました。(つづく)

(注)
①1945年にエジプトのナグ・ハマディ村の近くで見つかった初期キリスト教文書。
②イエスの弟子、ディディモ・ユダ・トマスによる福音書とされ、発見されたナグ・ハマディ文書に含まれていた114の文からなるイエスの語録集。本文中にトマスによって書き記されたとあるので、この名がある。新約聖書中の四福音書よりも原初的とする見解があり、古田先生はこの立場。
③古田武彦「[講演記録]原初的宗教の資料批判 ―トマス福音書と大乗仏教―」(「古田史学の会」創立十周年記念講演会、2004年6月6日 大阪市中央公会堂)『古代に真実を求めて』8集、2005年。


第2743話 2022/05/18

京都地名研究会誌『地名探究』20号の紹介

 本年1月に入会させていただいた京都地名研究会の会誌『地名探究』20号が届きましたので紹介します。同研究会の講演会については「洛中洛外日記」(注①)で紹介しましたが、『地名探究』20号は同会創立20周年記念特別号とのことで、A4版246頁の立派な装丁です。もちろん掲載論文も多種多様で、興味深く拝読しました。
 なかでも糸井通浩さんの論稿「『福知山』地名考 ―『国阿上人絵伝』の『福知山』をどうみる―」と「地名研究と枕詞 ―あるいは、地名『宇治』『木幡』考」は古田先生の言素論と共通するテーマも扱っており、すぐれた研究です。たとえば、糸井さんは「ち」について次のように解説されています。

〝「ちはやぶる(千早振る)」は、「ち」が霊力の意の語で「霊力のある、勢いの強い、勇猛な」を意味して、神や神に関わる言葉に掛かる枕詞としてよく知られているが(後略)〟「地名研究と枕詞 ―あるいは、地名『宇治』『木幡』考」、157頁

 「ち」が神を表す古い言葉であることは古田先生から教えていただいたことですが、それと共通する見解で、わたしも「古層の神名」などで論じたことがあります(注②)。
 言素論研究では文献史料の他に地名も有益な史料となりますので、地名研究は古代史研究とも密接に関わっています。この分野の知見を広めることができ、同研究会に入会してよかったと思います。なお、同会には他府県からも多くの方が入会されており、皆さんにもお勧めの研究会です。年会費は3,000円で、会誌(年刊)の他に会報『都藝泥布』(つぎふね。季刊)が発行されています。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2670話(2022/01/30)〝格助詞に着目した言素論の新展開〟
 同「洛中洛外日記」2673話(2022/02/02)〝言素論による富士山名考〟
②同「洛中洛外日記」40話(2005/10/29)〝古層の神名「ち」〟
 同「古層の神名」『古田史学会報』71号、2005年。
 同「洛中洛外日記」139話(2007/08/19)〝須知・和知・福知山〟
 同「『言素論』研究のすすめ」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。


第2714話 2022/04/08

万葉歌の大王 (3)

 ―中皇命への献歌「やすみしし我が大王」―

 『万葉集』の人麿歌(注①)に見える「大君の遠の朝庭」の「大君」(原文は大王)を近畿天皇家の持統としたため、古田先生の万葉歌の「大王」解釈は、今のわたしから見ると悩み抜かれたもののように思えます。その最たるものが〝中皇命への献歌〟とされた次の歌でした。

 「やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし 夕猟に 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり」『万葉集』巻一 3
[題詞] 天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌
[原文] 八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓 今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之 御執能 梓弓之 奈加弭乃 音為奈里

 万葉歌研究には思い出があります。古田先生が『万葉集』を検討するときは、ご自宅では岩波の日本古典文学大系本、外では岩波文庫本を使用されるのが常でした。二十数年ほど前のことです。先生と二人で万葉歌の原文の訓みについて検討したことがありました。たとえば「大王」「王」「皇」を通説では全て「おおきみ」と訓まれていますが、先生はそのことに疑問を抱いておられ、特に「皇」の訓みについて意見を求められました。わたしは「すめみま」を提案しましたが、先生は思案された結果、「すめろぎ」がよいとされたようでした。
 また、ある日、外出先の喫茶店で、中皇命が間人連老に作らせたと題詞にあるこの歌を岩波文庫本で検討していたとき、次のやりとりがありました。

古賀 「〝朝(あした)には〟と読まれている『朝庭』は、〝遠の朝廷(みかど)〟と同様に〝みかど〟と訓むのはどうでしょうか。ただし、〝みかど〟では5字になりませんが。」
先生 「なるほど、『朝庭』という原文に意味があると考えるべきですね。そうすると〝夕(ゆうべ)には〟とされる『夕庭』も『朝庭(みかど)』の対句と考える必要がありそうです。」

 このときの会話に基づいた、次の現代語訳を古田先生は発表されました(注②)。

 「八方の領土を支配されるわが大王の(お仕えになっている)その天子様は、弓を愛し、とり撫でていらっしゃる。その皇后さまは、天子さまにより添って立っていらっしゃる。
 その御手に執っておられる梓弓の、那珂作りの弓の音がするよ。
 朝の狩りに、今立たれるらしい、夕の狩りに今立たれるらしい、その御手に執っておられる梓弓の、那珂作りの弓の音がするよ。」『古代史の十字路』190頁

 古田先生は「わが大王」を舒明天皇とされ、「朝庭」を「朝(みかど)にわ」、「夕庭」を「夕(きさき)にわ」と訓まれ、中皇命を九州王朝(倭国)の天子とされました。中皇命を九州王朝の天子とすることには賛成ですが、その天子の面前で舒明天皇のことを「やすみしし 我が大君」(八方の領土を支配されるわが大王)と歌で表現することには疑問を覚えざるを得ません。というのも、八方の領土を支配しているのは九州王朝天子の中皇命であり、大和の一豪族である舒明ではないからです。ここでも、「大王」は「天子(朝廷)」ではないとする〝基本ルール〟により、古田先生はこうした解釈に至らざるを得なかったのです。
 わたしには、やはり、歌そのものに見える語句(原文)の読解を優先し、「やすみしし 我が大君(中皇命)の 朝(みかど)には」とする解釈が穏当と思われるのです。すなわち、九州王朝の中皇命(天子)が間人連老(宮廷歌人か)に献上させた歌に、近畿の舒明天皇の存在を読み込む必要はないからです。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻三 304
[原文]大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
[訓読]大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
②古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(2001)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2695話 2022/03/06

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (5)

 須恵器セリエーションの分類作業におけるハードル(d)は考古学者でなければ判断を誤りかねないケースで、文献史学の研究者にはかなり難しいものです。

(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器坏H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 出土土器型式の地域差や定義の違いにより、分類を間違えそうになったという、わたしの体験を紹介します。「洛中洛外日記」〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)〟(注①)で紹介しましたが、牛頸窯跡群の調査報告書『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ』(注②)に掲載された須恵器坏に次のような説明があり、わたしは途方に暮れました。

(1) 26頁第16図73・74の須恵器蓋に「つまみ」はないが、説明ではそれらを「坏G」とする。
(2) 37頁第24図83の須恵器蓋にも「つまみ」はないが、説明ではでは「坏B」とする。

 「つまみ」がない須恵器蓋を坏Gや坏Bとする説明をわたしは理解できませんでした。これでは太宰府土器編年の根幹が揺らぎかねませんので、調査報告書を発行した大野城市に上記の点について質問したところ、次の回答が届きました。その要旨を転記します。

【質問1】26頁第16図73・74の「坏G」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「坏G蓋」は「つまみ」を有しており、大野城市でも「かえり」「つまみ」を有す蓋と身のセットを「坏G」と理解しています。
 ところが、本市の牛頸窯跡群では、「かえり」を有すものの「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「坏G」と表現しています。
【質問2】37頁第24図83の「坏B」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「坏B蓋」には「つまみ」があり、坏身には「足=高台」を有しています。
 「坏G」と同様、牛頸窯跡群では、高台を有する杯身とセットになる蓋で「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「坏B」と表現しています。
 以上のとおり、牛頸窯跡群では、坏G蓋・坏B蓋につまみを欠くものが一定量存在しております。近畿地域では、つまみを有するものが一般的かと思いますが、この点は地域性が発現しているものと理解できるのかもしれません。

 以上の回答とともに、資料として添付されていた『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』(注③)の「例言」には、次の説明がありました。

 「須恵器蓋坏については、奈良文化財研究所が使用している名称坏H(古墳時代通有の合子形蓋坏)、坏G(基本的にはつまみとかえりを持つ蓋と身のセット。ただし牛頸窯跡群産須恵器にはつまみのない蓋もある)、坏B(高台付きの坏)、坏A(無高台の坏)を使用する場合がある。」『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』

 すなわち、蓋に「かえり」が付いているものは「つまみ」がなくても坏Gに分類していたのです。おそらく同一遺構から「つまみ」付きの坏G蓋が多数出土し、併出した「つまみ」無しの蓋でも「かえり」があれば、坏Gに見なすということのようです。蓋に「つまみ」がない坏Bも同様です。こうしたことから、調査報告書の須恵器を分類する際は「つまみ」の有無だけでの単純な型式判断で済ませることなく、地域差も考慮しなければならないことを知ったのです。
 以上のことから、太宰府関連遺構出土の須恵器坏セリエーション分類作業は、当地の考古学者の協力を得たり、地域差について教えを請うことから始めなければならないことに気づき、わたしは土器編年研究に一層慎重になりました。他方、土器セリエーションによる相対編年は考古学界の先進的研究者に採用されつつあります。その成果が古田史学・九州王朝説と整合する日が来ることを期待し、わたしたち古田学派研究者による精緻なセリエーションでの土器編年確立が待たれます。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2547話(2021/08/22)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)〟
②『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ ―79地点の調査― 大野城市文化財調査報告書 73集』大野城市教育委員会、2007年。
③『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ― 大野城市文化財調査報告書 第77集』大野城市教育委員会、2008年。

 


2694話 2022/03/05

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (4)

 須恵器セリエーション分類作業におけるハードルとして次の四点を示しました。

(a) 遺跡調査報告書の刊行が遅れることがあり、考古学関係者は知っている最新データが未発表のケースがある。
(b) 出土土器の破片が小さい場合、型式が判断できないケースが発生する。その数が多量だと、セリエーションの不確定要素が増し、編年誤差が拡大する。
(c) 遺跡調査報告書に掲載された出土土器の写真や断面図が、出土した土器の全てとは限らないケースがある。土器やその破片が大量に出土した場合は尚更で、報告書に全てが収録されることは期待できない。
(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器坏H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 まず最初に、(c)についての体験を紹介します。水城の築造時期を探るために考古学エビデンスとできる堤体内からの出土須恵器に注目し、報告書(注①)を精査したところ、東門付近の木樋遺構SX050とその木樋付近SX051から須恵器が出土していました(第5次)。これらの土器は水城堤体内部(基底部)からの出土であり、築造当時までに使用あるいは廃棄されていたものですから、その土器年代以後に水城が築造されたことを意味します。
 『水城跡 下巻』192頁の図面(Fig156)に掲載された須恵器はSX050(坏身1点)とSX051(坏蓋5点、坏身6点、高坏の脚2点)の14点ですが、高坏の2点を除けばいずれも坏Hと呼ばれる型式の須恵器坏です。他方、山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注②)では次の説明がなされています。

 「水城跡では水処理を目的とした木製の箱型の暗渠である『木樋』が土塁の下に設置されているが、木樋の設置坑は長さ80㍍にわたって水城を縦断するように土塁の構築中に設定され、土塁の構築とともに埋められていた。5次と62次調査ではこの設置坑(5次SX051)から須恵器坏Ⅳ型式(奈文研坏H)に少量のⅤ型式の坏身(奈文研坏G)と短脚の高坏が一定量出土している。」202頁

 更に「第2表 遺跡出土遺物表」(213頁)中の「水城跡」「5次」「SX050,051」欄の坏Hと坏Gに「○」印があり、同木樋遺構から須恵器坏HとGが出土していることを指示しています。しかし、土器の図面(Fig156)には坏Gが見当たらないので、わたしは困惑しました。しかし、太宰府市教育委員会の考古学者である山村さんが、「設置坑(5次SX051)から須恵器坏Ⅳ型式(奈文研坏H)に少量のⅤ型式の坏身(奈文研坏G)と短脚の高坏が一定量出土している。」と明記していることから、少量の坏Gが伴出していることを疑えません。従って、図面(Fig156)に掲載された14点以外にも須恵器が出土していたと考えざるを得ません。更に、「短脚の高坏が一定量出土」という表記からも、図面(Fig156)に掲載されている2点以外にも「一定量」の高坏が出土したことがうかがえます。
 このことから、水城堤体内(木樋遺構SX051)から出土した須恵器の全てが報告書に掲載されているわけではないことに気づいたのです。ですから、正確な土器セリエーションを確立するためには、報告書に掲載されていない全ての出土須恵器のデータが必要となるわけです。(つづく)

(注)
①『水城跡 下巻』192頁Fig156に掲載されたSX050 SX051 SX135の土器(須恵器坏H、坏G、他)。
②山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。