古田史学会報一覧

第2446話 2021/04/30

『九州倭国通信』No.202の紹介

 「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.202が届きました。同号には拙稿「古典の中の『都鳥』考」を掲載していただきました。同稿では、古典(『万葉集』『古今和歌集』『伊勢物語』謡曲「隅田川」)に見える「都鳥(みやこどり)」とは通説のユリカモメではなく、冬になるとシベリアから博多湾岸など北部九州に飛来するミヤコドリ科のミヤコドリであることを論証しました。
 この都鳥は、博多湾岸や北部九州に都があったから、都鳥と呼ばれたのであり、九州王朝(倭国)の都がこの地にあったことの証拠ともいえます。そうでなければ、都鳥などとは呼ばれなかったはずですから。この都鳥は、白と黒の美しい模様とオレンジ色のクチバシが印象的な鳥です。
 『万葉集』では次のように詠われています。
 「船競(ふなぎほ)ふ 堀江の川の水際(みなぎわ)に 来(き)居(い)つつ鳴くは 都鳥かも」『万葉集』巻第二十(4462 大伴宿禰家持の作)


第2434話 2021/04/14

『古田史学会報』163号の紹介

 『古田史学会報』163号が発行されましたので紹介します。
一面の正木稿は、7世紀における九州王朝の天子の変遷について本格的に論じたもので、いずれ「九州王朝通史」として結実するものと期待しています。
日野稿は、前号掲載の西村秀己稿の問題提起「九州王朝(倭国)のナンバーワンの称号が天皇でなければ、それ以上の称号を提示すべき」に対しての一つの解答を示したもので、史料根拠を明示して、「法皇」「中皇命」とする仮説を提起されました。この日野稿に対して、西村稿では、再度批判がなされました。
服部稿では、野中寺彌勒菩薩像銘文に見える「中宮天皇」を九州王朝の女帝(倭姫王)とされました。

 わたしは、『古田史学会報』採用審査の難しさについて、特許審査の例をあげて解説しました。
163号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』163号の内容】
○九州王朝の天子の系列(上) 川西市 正木 裕
多利思北孤・利歌彌多弗利から、唐と礼を争った天子の即位
○九州王朝の「法皇」と「天皇」 たつの市 日野智貴
○野中寺彌勒菩薩像銘と女帝 八尾市 服部静尚
○「法皇」称号は九州王朝(倭国)のナンバーワン称号か? 高松市 西村秀己
○「壹」から始める古田史学・二十九
多利思北孤の時代Ⅵ ―多利思北孤の事績― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』採用審査の困難さ 編集部 古賀達也
○2021年度会費納入のお願い
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせ
○編集後記 西村秀己


第2402話 2021/03/07

『多元』No.162の紹介

 先日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.162が届きました。拙稿「『邪馬台国』畿内説の論理 ―戦後実証史学への挑戦―」を掲載していただきました。「邪馬台国」畿内説を支持する考古学者から直接聞いた同説の根拠と論理性について紹介し、そうした考古学者との誠実な対話と文献史学における古田説の紹介が必要との持論を述べたものです。
 一面には、吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)の「続・『景行紀』を読む」が掲載されています。景行紀の史料批判により、東征説話が盗作・転用された動機やその内実に迫られた論稿でした。
 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「元号の始まり」は中国における元号成立について説明され、別系統九州年号とされてきた「中元」「果安」についても触れられています。
 「事務局便り」では、多元的古代研究会ハイブリッド月例会のリモート参加費(資料代、視聴料など)について検討されている様子で、「古田史学の会」関西例会と似たような状況と問題意識を持っておられることがうかがえました。コロナ禍における目先の対応策にとどまらず、将来的な研究活動のスタイルについて真剣に考えるべき時代に入ったと思われます。


第2380話 2021/02/14

『古田史学会報』162号の紹介

『古田史学会報』162号が発行されましたので紹介します。今号も力作好論ぞろいです。
一面を飾った正木稿は、多利思北孤とその前代の高良玉垂命との関係を論じたもので、古田説では別系統の九州年号とされている「始哭」は年号ではなく、高良玉垂命崩御の葬礼行事のこととされました。
西村稿では、「古田史学の会」研究者間で論争となっている「天皇」称号について、九州王朝の時代は九州王朝の天子の別称とする古田新説の根拠として、当時の唐の用例(「皇帝」よりも「天皇」が上位)を新たに指摘されました。
他方、日野稿では、「船王後墓誌」などの金石文を根拠として、六世紀から七世紀初頭の大和政権での天皇号採用を支持され、その勢力範囲について論じられました。日野さんは通説の先行研究や新説にも目配りされており、大学で国史を専攻された実力を感じさせる論稿でした。
藤井稿は会報前号に掲載された野田稿を批判されたもので、今後の真摯な論議検証が期待されます。
大原稿は古代の事件と火山噴火の関係についての諸説を紹介されたもので、九州王朝史研究への応用の可能性を示唆されました。
わたしの論稿では、近年発見が続いている弥生時代の硯に文字が記されていたとする久住猛雄さんの研究を紹介しました。

162号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』162号の内容】
○「高良玉垂大菩薩」から「菩薩天子多利思北孤」へ 川西市 正木 裕
○野田氏の「女王国論」について 神戸市 藤井謙介
○大噴火と天岩戸神話と埴輪祭祀 京都府大山崎町 大原重雄
○六世紀から七世紀初頭の大和政権 「船王後墓誌」銘文の一解釈 たつの市 日野智貴
○田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期 京都市 古賀達也
○「天皇」「皇子」称号について 高松市 西村秀己
○「壹」から始める古田史学・二十八
多利思北孤の時代Ⅴ ―多元史観で見直す「捕鳥部萬討伐譚」― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせ
○割付担当の穴埋めヨタ話 「春秋」とは何か? 西村秀己


第2365話 2021/02/01

『東京古田会ニュース』196号の紹介

 本日、『東京古田会ニュース』196号が届きました。昨年11月に開催された八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)の報告が、同セミナーの実行委員をされている荻野谷正博さん(川崎市)からなされ、わたしや正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の研究発表内容を好意的に紹介していただきました。
 同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「飛鳥から国が始まったのか」が掲載されています。同稿で服部さんは飛鳥や藤原京出土干支木簡の年次に焦点を当て、「発掘成果からは、七世紀後半六六六年以降に、飛鳥が列島を代表するレベルの政治の中心地になっていったと考えられる」とされ、「壬申の乱の後、大和飛鳥が天皇家の本拠地となったものと考えるのが妥当でしょう。それはつまり、天武天皇が壬申の乱(六七二)後、ここを本拠地として勢力拡大を進めたということになります。」と指摘されています。そして、「それ以前に中国史書が伝える倭国が存在したのですから、『飛鳥から国が始まった』とはならない」と一元史観の通説を批判されています。
 七世紀後半から末期にかけての九州王朝から大和朝廷への王朝交代の実相を明らかにするうえで、こうした諸仮説が発表されることは学問研究にとって大切と思いました。


第2361話 2021/01/28

『九州倭国通信』No.201の紹介

 「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.201が届きましたので紹介します。同号には拙稿「縄文海進と幻の糸島水道 ―九州大学・物理学者との邂逅―」を掲載していただきました。九州大学の三人の物理学者との思い出を紹介させていただいたものです。その三人とは、上村正康先生と長谷川宗武先生、そして北村泰一先生(現九州大学名誉教授)です。
 上村先生は、一九九一年十一月に福岡市で開催された物理学の国際学会の晩餐会で古田説(邪馬壹国博多湾岸説、九州王朝説)を英語で紹介(GOLD SEAL AND KYUSHU DYNASTY:金印と九州王朝)され、世界の物理学者から注目を浴びられたことで、古くからの古田ファンには有名な方です。その講演録は「古田史学の会」のホームページ「新古代学の扉」に掲載されています。
 長谷川先生は上村先生と同じ研究室におられた方で、ご著書『倭国はここにあった 人文地理学的な論証』(ペンネーム谷川修。白江庵書房、二〇一八年十二月)を贈っていただき、お付き合いが始まりました。同書の主テーマは、飯盛山と宝満山々頂が同一緯度にあり、その東西線上に須久岡本遺跡・吉武高木遺跡・三雲南小路遺跡・細石神社が並んでいるというものです。この遺跡の位置関係は、太陽信仰を持つ九州王朝が弥生時代から太陽の動きに関心を持ち、測量技術を有していたことを示しています。
 北村先生も古くからの古田ファンです。若い頃、京大山岳部に所属され、同大学院生時代に第一~三次南極越冬隊にオーロラ観測と犬ぞりのカラフト犬担当係として最年少隊員(二五歳)で参加され、第三次越冬隊のとき、昭和基地でタロー・ジローと奇跡の再会をされたことは有名です。この先生方との出会いや想い出を書かせていただきました。
 同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「九州王朝天子よりの禅譲で文武天皇は即位した」も掲載されていました。九州王朝から大和朝廷への禅譲説を新たな視点で論述されたものです。このテーマについては古田学派の研究者から諸説が発表されており、研究の深化が進んでいます。


第2334話 2020/12/30

『多元』No.161の紹介

 先日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.161が届きました。拙稿「アマビエ伝承と九州王朝」を掲載していただきました。コロナ禍の中、注目されたアマビエ伝承と九州王朝との関係について論じたものです。
 肥後の海に現れたとする「アマビエ」の元々の名前は「アマビコ」であり、「コ」が「ユ」と誤記誤伝され「アマビユ」になり、更に「ユ」が「エ」と誤記誤伝され「アマビエ」になったと考え、本来は肥後の古代伝承にある「蜑(アマ)の長者」のことではないかとしました。もちろん、この「蜑の長者」とは九州王朝の王族のことです(注)。
 当号には、大墨伸明さん(鎌倉市)による「古田武彦記念古代史セミナー2020の開催報告」が掲載されていました。本年11月に開催された同セミナーの報告が要領良くなされています。わたしは古代戸籍に遺る二倍年暦(二倍年齢)の痕跡について報告しましたが、発表時間が30分と短かったので、A4で20頁に及んだ予稿集の内容全てを説明することができませんでした。新年になりましたら、「洛中洛外日記」で拙論の論理構造と学問の方法に焦点を当てて、わかりやすく解説したいと思います。

(注)「洛中洛外日記」2212~2215話(2020/08/24~27)「アマビエ伝承と九州王朝(1~4)」


第2322話 2020/12/15

『古田史学会報』161号の紹介

 昨日、『古田史学会報』161号が届きましたので紹介します。わたしは「王朝交替のキーパーソン「天智天皇」 ―鹿児島の天智と千葉の大友皇子―」を発表しましたが、今回も力作がそろいました。また、編集部で採否や修正の意見が従来になくたくさん出されました。採用審査が厳しい『古田史学会報』ではありますが、そうしたハードルを越えて掲載された論稿に、各執筆者の熱意を感じました。

 一面を飾った野田稿は関西例会で発表されたテーマで、従来の古田説(倭人伝行程問題)にはなかった貴重な異見提起が含まれており、別途、紹介論述したいと考えています。

 服部稿も関西例会で発表されたものです。『日本書紀』に見える「称制」に的を絞り、近年、「古田史学の会」の論者間で研究課題となっている、九州王朝から大和朝廷への王朝交替の実態を、骨太な視点で論じたものです。今後の詳細な論究が期待されます。

 正木さんによる九州王朝史の連載も多利思北孤の時代に入っており、連載完了時には通史として書籍化が期待されます。

 161号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』161号の内容】
○女王国論 姫路市 野田利郎
○新春古代史講演会のお知らせ 2021年1月16日 i-siteなんば 2F
講師 谷本茂さん・正木裕さん・古賀達也
○称制とは何か 八尾市 服部静尚
○王朝交替のキーパーソン「天智天皇」 ―鹿児島の天智と千葉の大友皇子― 京都市 古賀達也
○戦後史学は「神武天皇実在説」にどう反応したのか たつの市 日野智貴
○「壹」から始める古田史学・二十七
多利思北孤の時代Ⅳ ―多元史観で見直す「蘇我・物部戦争(丁未の乱)」― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせ
○2020年度会費納入のお願い
○編集後記 西村秀己


第2305話 2020/11/30

『東京古田会ニュース』195号の紹介

 本日、『東京古田会ニュース』195号が届きました。同号には拙稿〝「二倍年暦」と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―〟を掲載していただきました。同稿では、中国周代の「百歳」記事と漢代の「五十歳」記事を紹介し、周代の長寿「百歳」と漢代の長寿「五十歳」という、ちょうど二倍になる認識の存在は二倍年暦(二倍年齢)仮説でなければ説明困難としました。
 同号冒頭には田中巌さん(東京古田会・会長)による「会長独言 郷土史の掘り起こしから」があり、地元千葉県佐倉市の農民一揆や義民伝承について報告されていました。わたしの七代前のご先祖、古賀勘右衛門(浮羽郡西溝尻村庄屋)が江戸時代屈指の百姓一揆(久留米藩宝暦一揆)のリーダーであったこともあり、関心を持って読みました。宝暦一揆については、「古田史学の会」HPに拙稿「久留米藩宝暦一揆の庄屋たち 西溝尻村庄屋六郎左衛門と百姓勘右衛門」(『古田史学会報』66号、2005年2月)が掲載されていますので、ご覧いただければ幸いです。


第2279話 2020/10/31

『多元』No.160の紹介

 本日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.160が届きました。拙稿〝天武紀「複都詔」の考古学的批判〟を掲載していただきました。
 当号には、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の「天武天皇は筑紫都督倭王だった 後篇」や「古田史学の会」関西例会常連の論客、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の「倭人伝には『方向のない行程』が二つある」、上田市の吉村八洲男さん(古田史学の会・会員)の「『景行紀』を読む」など力作が並んでいます。関東や関西など各地の研究者による学問的交流の場としても、『多元』の紙面が役立っているようです。
 中でもわたしが注目した論稿が西坂久和さん(昭島市)の「ユーカラにいた二倍年暦」です。アイヌが二倍年暦を使用していたのではないかとする研究は従来からありましたが、それらを紹介しながら、更に考察を深められています。わたしも「新・古典批判 続・二倍年暦の世界」で「アイヌの二倍年暦」(『新・古代学』第8集 新泉社、2005年)を発表したことがあります。具体的には、菅江真澄『えぞのてぶり』と新井白石『蝦夷志』に見えるアイヌの二倍年暦の痕跡について紹介しました(「古田史学の会」HPに掲載)。
 今月開催される「古田武彦古代史セミナー2020」(八王子セミナー)でも、アイヌの二倍年暦について紹介する予定です。各地の研究者により、二倍年暦の研究が進められることを願っています。


第2277話 2020/10/29

辺境防備兵「戌人」木簡の紹介

 『古田史学会報』160号に掲載された山田春廣さんの論稿〝「防」無き所に「防人」無し〟によれば、「防人」は九州王朝(倭国)の畿内防衛施設「防」に配された守備兵とされ、他方、辺境防備の兵(さきもり)は「辺戌」と呼ぶのが適切とされました。そこで思い出したのですが、以前に読んだ木簡学会編『木簡から古代が見える』(岩波新書、2010年)に〝防人木簡〟の出土が次のように紹介されていました。

〝これまで防人に関する資料は、これらの「万葉集」の防人歌をはじめ、『続日本紀』や法令などに限られ、列島各地の発掘調査においても、なぜか防人に関する資料は全く発見されず、ほとんどその実態はわかっていなかった。
ところが、二〇〇四(平成一六)年、佐賀県の唐津湾に面した名勝「虹の松原」の背後の中原(なかばる)遺跡から“防人”木簡が全国ではじめて発見された。〟『木簡から古代が見える』88頁

 同書によれば、中原遺跡は肥前国松浦郡内にあり、魏志倭人伝にみえる末盧国の故地にあたります。古代から朝鮮半島に渡るための重要拠点とされています。出土した木簡は防人に関する名簿とのことですが、「防人」ではなく「戌人(じゅじん)」と書かれています。「延暦八年」(789年)とあることから8世紀末頃のものとされ、甲斐国から派遣された「東国防人」のことが記された名簿と見られています。

 この「戌人」木簡は、先の山田さんの考察が妥当であることを示しているようです。参考までに奈良文化財研究所「木簡データベース」から同木簡のデータを転載します。

【本文】・小長□部□□〔束ヵ〕○/〈〉□□∥○甲斐国□〔津ヵ〕戌□〔人ヵ〕○/不知状之∥\○□□家□□〔注ヵ〕○【「首小黒七把」】・○□□〈〉桑□〔永ヵ〕\【「□〔延ヵ〕暦八年○§物部諸万七把○§日下部公小□〔浄ヵ〕〈〉\○§□田龍□□〔麻呂ヵ〕七把§□部大前」】
【寸法(mm)】縦(269)・横(32)・厚さ4
【型式番号】081
【出典】木研28-212頁-(2)(木研24-153頁-(7))
【文字説明】裏面「首小黒七把」は表面の人名と同時に記されたかは不詳。
【形状】二度の使用痕残す。上端二次利用後さらに削って整形。左右二次利用後の削りヵ。
【遺跡名】中原遺跡
【所在地】佐賀県唐津市原字西丸田
【調査主体】佐賀県教育委員会・唐津市教育委員会
【遺構番号】SD502
【内容分類】文書
【国郡郷里】甲斐国
【人名】物部諸万・日下部公小(浄)・□田龍(麻呂)・(雀)部大前・首小黒・□□家□(注)・小長□部


第2268話 2020/10/22

『九州倭国通信』No.200のご紹介

 「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.200が届きましたので紹介します。まずは、記念すべき200号の発刊をお祝いしたいと思います。九州王朝の故地で活動されている同会は「市民の古代研究会・九州」の流れをくんだ歴史ある会です。わたしたち「古田史学の会」とは、諸事情により疎遠となっていましたが、関係者のご尽力を賜り、2016年から友好団体として交流を再開しました。互いに切磋琢磨して学問と交流を深めたいと願っています。
 同号には拙稿「九州年号『大化』金石文の真偽論 ―『大化五子年』土器の紹介―」を掲載していただきました。前号掲載の「九州年号『朱鳥』金石文の真偽論 ―三十年ぶりの鬼室神社訪問―」の続稿です。「大化五子年」土器は茨城県岩井市矢作の冨山家が所蔵しているもので、高さ約三〇センチの土師器で、その中央から下部にかけて
 「大化五子年
   二月十日」
の線刻文字が記されています。これは九州年号の「大化五子年」(699年)銘を持つ同時代金石文で、九州年号と九州王朝の実在を示す証拠の土器です。
 なお、九州には「大化元年」銘を持つ木製神獣が現存しています。大分県豊後大野市緒方町大化の大行事八幡社にあるもので、『太宰管内志』には次のように紹介されています。

 「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」(『太宰管内志』豊後之四・大野郡)

 ちなみに、当地地名の「大化」は、この神獣に由来するのではないでしょうか。この「大化元年」銘神獣を炭素同位体年代測定法で分析すれば、七世紀末の九州年号「大化」の同時代史料であることが判明するかもしれませんので、地元の皆様への調査協力も行いました。