古田史学の会一覧

第307話 2011/03/05

中国語の音韻

 昨日、中国から帰国しました。今回の出張は上海を拠点に、江蘇省張家港と宿遷、河北省石家荘、そして山東省斉南などを訪問。中国国内を車と飛行機で何時間もかけて移動するというハードな出張でした。
 中国に出張するようになって10年以上になりますが、その経済発展のスピードには目をみはるものがあります。行くたびに高速道路網は伸びていますし、何よりも食事がおいしくなり、女性は益々きれいになっています。冗談ではなく。
 同行していただいたのは有名な商社Mの王さんと金さん(女性)で、上海出身の王さんは北京語と上海語と日本語(やや関西弁)、朝鮮族出身の金さんは北京語と韓国語と日本語が堪能なエリート商社員です。そのため、商談では様々な言語が飛び交っていました。それにしても中国人の語学力にはいつも驚かされます。 地方都市のホテルマン(ただし高級ホテル)でも、英語と日本語の両方を話せる中国人は少なくありません。
 仕事の合間をぬって、王さんに北京語と上海語の違い、河北省語と北京語の差などについてしつこく質問し、いろいろと教えてもらいました。というのも、現在、『古田史学会報』上で内倉武久さん(本会会員。『太宰府は日本の首都だった』という好著の著者)と、倭人伝の地名などの音韻について論争中ですので、 現代中国語音韻の地域差についても知っておきたかったからです。
 そんなわけで、古代中国語音韻の先行研究を調べているのですが、大下さん(本会全国世話人・総務)から、松中祐二さん(本会会員)の「倭人伝の漢字音 −− 卑弥呼=姫王の証明」(『越境としての古代7』所収)が優れていると紹介していただきました。確かに、魏晋朝音韻研究の先行説など、わたしより深 く広く調査紹介されている好論文でした。松中さんともお会いして、御教示を賜りたいと願っています。
 それにしても、しばらくは中華料理は食べたくない、日本語以外の言葉も聞きたくないというほどの、ハードな出張ではありました。

 


第306話 2011/02/27

『古田史学会報』102号の紹介

 2月5日発行の『古田史学会報』102号の掲載原稿は下記の通りですが、拙稿「前期難波宮の 考古学(1)ーーここに九州王朝の副都ありき」も掲載させていただきました。前期難波宮九州王朝副都説を考古学の視点を中心に解説した論文で、数回に分けて掲載予定です。仕事の都合で出張が多く、なかなかまとまった調査や執筆時間が取りにくいこともあって、分割して執筆するつもりです。明日からも1週間ほど中国出張です(上海や河北省を訪問予定)。
 拙稿の他、今号は力作ぞろいです。ページ数の関係から次号回しになった原稿も少なからずありますが、古田説と異なる新説を発表される場合は、古田説よりも自説が何故優れているかの説明もお願いします。会報読者は基本的に古田説をご存じの方々ですから、この点の説明は新説発表者の義務でもあり、採否の判断基準の一つにもなります。また、その方が読者にも親切です。
 なお、念のため付け加えれば、古田説と異なっていることや批判していることが理由で不採用になることはありません。あくまでも、論証成立の正否と学問の方法論(史料根拠の明示とそれに基づいての立論など)が採否の基準となります。投稿者が新人の場合は、なるべく採用したいと考えていますので、ふるってご 投稿下さい。

『古田史学会報』102号の内容
○年頭の御挨拶  代表 水野孝夫
○ホームページ『新古代学の扉』文字化けについて  インターネット担当 横田幸男
○前期難波宮の考古学(1)ーーここに九州王朝の副都ありき  京都市 古賀達也
○短里によって史料批判を行う場合の問題点などについて  福岡市 棟上寅七
○白村江の会戦の年代の違いを検討する  中国山東省曲阜市 青木英利
○「斉明」の虚構  川西市 正木 裕
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集


第305話 2011/02/26

法興と聖徳

 2月19日の関西例会では、竹村さんが6件という驚異的な数の発表をされました。百済など古代朝鮮に関する研究が中心で、わたしにとっては不勉強な分野ですので初めて知ることも多く、参考になりました。竹村さんを中心として、最近の関西例会はちょっとした韓流ブームです。
 正木さんからは、『二中歴』に見えない九州年号「法興」「聖徳」についての新仮説の発表で、触発されました。この二年号を多利思北孤と利歌弥多弗利の 「法名」「法号」ではないかという仮説です。また、多利思北孤と煬帝の出家が同年ではなかったかとの指摘もあり、こちらも興味深いテーマです。会報での発表が待たれます。
 2月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・2月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 宇佐八幡妄想 (豊中市・木村賢司)
2). P.Fドラッカーと森嶋通夫 (豊中市・木村賢司)
3). 歴史を学んでどう生きる (豊中市・木村賢司)
4). 遊・学同源 (豊中市・木村賢司)
5). 平成の鎖国 (豊中市・木村賢司)
6). 応神紀弓月君と佛流百済 (木津川市・竹村順弘)
7). 南史と北史の温度差 (木津川市・竹村順弘)
8). 雄略紀の百済滅亡記事 (木津川市・竹村順弘)
9). 華北の穢貊人観と江南の倭人観 (木津川市・竹村順弘)
10).百済の馬韓制圧と神功紀 (木津川市・竹村順弘)
11).世子の倭王興 (木津川市・竹村順弘)
12).隅田八幡神社人物画像鏡の銘文  (京都市・岡下英男)

13). 法興・聖徳年号とは何か(試案) (川西市・正木裕)
 釈迦三尊の光背銘や伊予温湯碑に見える「法興」は、法王たる多利思北孤の「法号・法名」であり、彼が法号を授かった五九一年時を元年とする。 聖徳は、同様に多利思北孤の太子「利」の法号である。従って九州王朝の年号というより、多利思北孤と利の個人の「仏教上の年期」を示すものである事を、隋や倭国における法号授与の経緯、法興に「元」が付される事、法皇・菩薩天子は「法号」を持たねばならない事等を根拠として示した。

14). 「橿と檍」、そしてイザナギと神武帝(大阪市・西井健一郎)

○水野代表報告
    古田氏近況・会務報告・行基と道照と智通・他(奈良市・水野孝夫)


第300話 2011/01/16

両京制への展望

 昨日の関西例会では、わたしの前期難波宮九州王朝副都説の検証が行われました。事前に大下さんに多岐に渡る質問項目をレジュメとして用意していただいたので、有意義な質疑応答が繰り返されました。
 わたしも事前に自説を改めて見直したのですが、前期難波宮は副都に留まらず、難波京ともいうべき規模であることから、九州王朝は7世紀後半に倭京(太宰府)と難波京の「両京制」を採用していたのではないかと考えるようになりました。というのも、昨年、難波に条坊制の痕跡が確認されたことにより、その条坊区割り尺度から前期難波宮の造営と同時に条坊制の京域設計がなされたと考えられるに至ったからです。この点、『古田史学会報』に連載予定の拙稿「前期難波宮の考古学」にて詳細に説明したいと考えています。
 この他、例会では竹村さんによる『先代旧事本紀』の研究報告や、水野代表による東大寺「お水取り」長屋王鎮魂法要説は興味深いものでした。このように、新年最初の関西例会に相応しい発表や質疑応答があり、2011年も新発見続出の予感がしています。
1月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・1月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 米国防長官 (豊中市・木村賢司)
(2) 天子(帝)になれる条件 (豊中市・木村賢司)
(3) 陳寿の音韻 (豊中市・木村賢司)
(4) 「糊塗」 (豊中市・木村賢司)
(5) 出産の測定は曜日でする (豊中市・木村賢司)
(6) 倭人伝の「距離」と「旅行記」
ーー倭人伝に残された謎(1)の補足(姫路市・野田利郎)
(7) 其の北岸 ーー倭人伝に残された謎(2) (姫路市・野田利郎)
(8)先代旧事本紀「推古27年条」 (木津川市・竹村順弘)
(9) 唐の倭国駐留軍 (木津川市・竹村順弘)

(10)「飛鳥」は「筑紫小郡」か  (川西市・正木裕)
ーー書紀の編纂者は「飛鳥浄御原宮」の命名根拠を知らなかった

『書紀』では天武が六七二年飛鳥浄御原宮を造り即位したと記す一方、六八六年に朱鳥改元に因んで飛鳥浄御原宮と名づけたとする。この二つの記事の合理的解釈として、
1).飛鳥浄御原宮は九州王朝の宮で「飛鳥の明日香」と呼ばれた筑紫小郡にあった。
2).天武は壬申乱後この宮で即位した。
3).薩夜麻はここで育ち、その地名(山川・野の名)をとり幼名明日香皇子と名づけられた。
4).しかし、近畿天皇家が政権を奪取した九州年号大化期に明日香(飛鳥)は大和の地名とされ、筑紫明日香は阿志岐に変えられた。
5).『書紀』編者は「飛鳥浄御原宮」を近畿天皇家・天武の宮とする必要があったが、筑紫の現地地名に因む宮の名の由来を知らなかった為、「朱鳥改元」を根拠にせざるを得なかった。

以上を「大化改新詔」「古事記序文」「万葉歌」ほかを根拠に示した。

(11)前期難波宮九州王朝副都説の検証 (京都市・古賀達也)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・東大寺「お水取り」は長屋王鎮魂法要・他(奈良市・水野孝夫)


第297話 2010/12/28

倭人伝韓国内陸行の再検討

 18日に行われた関西例会において野田利郎さんから、倭人伝の韓国内水行陸行の出発地である帯方郡を従来説のソウル付 近ではなく、ソウルと平壌の中間付近に位置する沙里院(しゃりいん)とする説を発表されました。その根拠の一つとして、実測値としての距離が倭人伝に記された七千里となることを指摘されまし た。
 わたしとしては古田説のソウル付近で妥当と考えますが、野田さんが指摘された問題点は貴重な論点と思われ、今後の論争・検討の深化が期待されます。
 この他、竹村さんからの、韓国ドラマでは「奴」を「の」と発音しているという報告を興味深くお聞きしました。現代韓国語の漢字音は、いわゆる「日本漢音」と「日本呉音」のどちらに近いのか興味を覚えました。ご存じの方がおられれば御教示下さい。
   12月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「箱物」「心物」(豊中市・木村賢司)
(2) 年の瀬・体験雑感(豊中市・木村賢司)
(3) 中国曲阜市に留学中の会員(青木氏)からの報告 代理報告・大下隆司
(4) 倭人伝に残された謎(姫路市・野田利郎)
(5) 韓ドラに嵌って(木津川市・竹村順弘)
(6) 河内戦争2(相模原市・冨川ケイ子)
(7) 九州年号資料は面白い(その1)−峯相紀の謎−(川西市・正木裕)
(8) 「斉明」とは誰か?(川西市・正木裕)
○水野代表報告
    古田氏近況・会務報告・京都東山の伊勢神宮(日向大神宮)・他(奈良市・水野孝夫)


第296話 2010/12/11

2011年 新年賀詞交換会を開催します

この度発行しました『古田史学会報』101号でもご案内を同封しましたが、来年1月8日に恒例の古田史学の会新年賀詞交換会を大阪で開催します。

日時 2011年1月8日(土) 午後1時30分〜4時30分
会場 大阪市立総合生涯学習センター 大阪駅前第2ビル5階第1研修室
主催 古田史学の会
参加費 1000円
※終了後に懇親会(有料)もあります。

地域の会や遠隔地からご参加の会員の御挨拶などを受けた後、古田先生にもご出席いただきま すので、最新の研究などについてお聞かせいただける予定です。皆さまのご参加をお待ちしております。『古田史学会報』101号の内容は次の通りです。 100号に続いて古田先生からご寄稿いただけました。

『古田史学会報』101号の内容
○九州王朝終末期の史料批判ーー白鳳年号をめぐって 古田武彦
○「漢代の音韻」と「日本漢音」
ーー内倉武久氏「漢音と呉音」の誤謬と誤断  京都市 古賀達也
○「東国国司詔」の真実  川西市 正木 裕
○「磐井の乱」を考える
ーー『日本書紀』記事と『筑後国風土記』の新解釈 姫路市 野田利郎
○星の子II **古田武彦著『古代は輝いていた』より** 深津栄美
○伊倉 十四 ーー天子宮は誰を祀るか 武雄市 古川清久
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内
○新年賀詞交換会のご案内


第293話 2010/11/29

例会での新たな取り組み

 11月20日の関西例会では原さんが初めて発表されました。葛城の古墳や遺跡などについて詳しく説明していただき、その方面に疎いわたしには勉強になりま した。岡下さんからは聖徳太子と善光寺如来のものとされる「消息往来」についての各種史料の紹介がありました。恐らくは九州王朝の利歌弥多弗利と善光寺と の往復書簡と思われる「消息往来」の更なる研究が期待されます。
 関西例会初の取り組みとして、それまで発表された説の当否を徹底的に検証するという質疑応答が西村さんの発案により行われました。その第一回として、提案者の西村さんの仮説「古事記序文に文武が記されている」の再検証が行われました。活発な討議がありましたが、全員一致の「結論」には当然ではありますが至りませんでした。わたしの個人的な感想としては、有力な仮説だが絶対そうだと言い切るには不安、という段階です。次回の再検証の対象となるのは、わたしの 「前期難波宮九州王朝副都説」だそうです。皆さん、お手柔らかに。

11月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「忘れられた真実」を読んで(豊中市・木村賢司)
(2) 「残る、残す」(豊中市・木村賢司)
(3) 「風早歴史文化研究会」の旅(豊中市・木村賢司)

(4) 葛城(奈良市・原幸子)
葛城山麓地域の古墳について/二上山麓の石光寺・当麻寺について

(5) 九州王朝と近畿天皇家の名分(試論)
    −古賀氏の「王朝習合」説を検証する−(川西市・正木裕)
 白村江後、高宗の封禅の儀に列した倭国「酋長」は筑紫君薩夜麻以外に無い。従って九州王朝は高宗により承認された政権であり、近畿天皇家が七〇三年則天武后に「日本国」として承認されるまで、唐との「名分上」の正当性は九州王朝にあった。
『旧唐書』の「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」とは、武后に承認を求めるに際し、「近畿天皇家(日本国)は既に承認済みの九州王 朝(倭国)と同じ」と装う為の主張ではないか。これは古賀氏のいう、「大和朝廷と邪馬壹国を同じものとする『習合』思想」の現れと言える。
 七〇四年近畿天皇家が九州王朝の一部を吸収した形で正当王朝となり「慶雲」と改元。「大長」を建てた九州王朝の抵抗勢力を武力討伐。『書紀』編纂時、多利思北孤や利を聖徳太子に見立てるなど「王朝習合」思想により、九州王朝の歴史を近畿天皇家の歴史に染め直したと考える。
(古賀氏とは、用語として教理的概念の「習合」より、政治的概念の「混斉(こんせい=まろかしひとしめる)」が相応しいのではないかと協議した)

(6) 「消息往来」の伝承(京都市・岡下英男)
2.いろいろの史料における消息往来/3.聖徳太子の伝記にはどのように書かれているか/4.誰が何のために、いつ頃作ったか/5.『法隆寺の謎と秘話』について

(7) 白鳳南海地震と聖武の彷徨(木津川市・竹村順弘)
(8) 新羅の地震と神功皇后(木津川市・竹村順弘)
(9) 中国正史の地震記事(木津川市・竹村順弘)
(10)古事記序文−西村説の再検証−質疑応答(向日市・西村秀己)
○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・藤原不比等碑・奈良市鴻ノ池は八代海の模型・他(奈良市・水野孝夫)


第287話 2010/10/19

『古田史学会報』100号の紹介

記念すべき『古田史学会報』100号が発行されました。古田先生からの記念のご寄稿もいただきました。ページ数も通常の16頁から24頁となり、編集担当の西村さんのご苦労が偲ばれました。
もちろん、内容も充実しています。中でも6月に開催した「禅譲・放伐」シンポジウムの内容を大変要領よくまとめられた大下さんの報告は見事な内容です。 同じく発表の要旨を寄稿された正木稿も好論文です。なお、同シンポジウムのテープ起こしを『古代に真実を求めて』14集に掲載予定です。来春発行されます のでご期待下さい。
『古田史学会報』100号の内容
○忘れ去られた真実ーー100号記念に寄せて  古田武彦
○禅譲・放伐論争シンポジウム・要旨  豊中市 大下隆司
○地名研究と古田史学  京都市 古賀達也
○古代の大動脈・太宰府道を歩く  神戸市 岩永芳明
○「禅譲・放伐」論稿  川西市 正木 裕
○長屋王のタタリ  奈良市 水野孝夫
○越智国に在った「紫宸殿」地名の考察  松山市 合田洋一
○漢音と呉音  富田林市 内倉武久
○新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝  大阪市 西井健一郎
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内


第286話 2010/10/17

卑弥呼は桜井にいたか?

  昨日の関西例会では久しぶりにビデオ鑑賞を行いました。弥生時代の宮殿跡が出土した纏向遺跡の発掘調査担当者である橋本輝彦氏の講演ビデオで、演題は「卑弥呼は桜井にいたか?」(本年9月25日「先人に学ぶ人間学塾」主催)。木村賢司さんが撮影されたものです。
 纏向遺跡が「邪馬台国」ではないことは、第237、238,239話などで指摘しましたし、古田学派内では「邪馬台国」論争はとっくに終わっています。しかし、畿内説論者の言い分も知っておいたほうが良いという木村さんの配慮により、ビデオ鑑賞することになったものです。
 そして、木村さんの意見は正解でした。邪馬台国畿内説の非論理性というものが良く理解できたからです。中でも、纏向遺跡から出土した小規模鍛冶遺構の痕跡とされる鉄くず(カナクソ)の説明には驚きました。橋本氏は畿内と北部九州の勢力は当時友好的であった証拠として説明されたのです。すなわち、武器や農具の材料となる製鉄技術が先進地である北部九州から纏向にもたらされたのは、両者が友好的であった証拠とされたのです。
 北部九州の勢力と纏向遺跡にいた勢力が友好的だったとするのは大賛成ですが、それならば当時の倭国の代表者であった「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)は 製鉄の先進地である北部九州にあったとするのが、学問的論理性というものではないでしょうか。同講演会では最後に参加者からの質問がありました。もしわたしが参加していたら、必ずこの質問をしたと思いますが、「邪馬台国」畿内説の橋本輝彦氏がどう返答されるのか、興味津々です。なお、ビデオで見た橋本氏のお人柄は誠実そうな方でした。だからこそ、正直に製鉄の先進地は北部九州と言われたのでしょう。   
 10月度関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「尊卑・長幼」「近時中国寸評」(豊中市・木村賢司)

(2) ビデオ鑑賞「卑弥呼は桜井にいたか?」橋本輝彦氏講演(撮影・木村賢司)

(3) 磐井の乱の再検討(川西市・正木裕)
 『書紀』継体紀で、古田氏が九州王朝の天子「磐井」だとされる「委意斯移麻岐弥」(『書紀』では「穂積臣押山」)は、任那の四国や伴跛の己文*、加羅の多沙津を百済に割譲する等「親百済」で、これは当時の倭国の立場と一致する。逆に「近江毛臣」は南加羅等の新羅への割譲始め一貫して「親新羅」だ。
 従って毛臣が新羅討伐軍の大将とあるのは不自然だし、新羅から「磐井に」倭国への謀反要請があったとするのも、「磐井に」ではなく「毛臣に」であり、毛臣は新羅を討伐する側ではなく、新羅の要請で謀反を起し討伐される側と考えるのが自然だ。
 また毛臣が帰還の勅命に叛いたため、阿利斯等が謀反を企図し戦となった記事も、本来は毛臣の謀反・叛乱であり、これが「遂に戦ひて受けず」という磐井の叛乱記事として『書紀』に盗用されたと見るべき事を指摘した。
文* は、三水偏に文。JIS第3水準ユニコード6C76

(4) 大和川の水利(木津川市・竹村順弘)
(5) 後漢書・三国志の日付干支(木津川市・竹村順弘)

(6) 『日本書紀』と《『須田鏡』における男弟王の年紀》から割り出される真実(たつの市・永井正範)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・藤原不比等(顕彰)碑・神武東征とは南九州の話・他(奈良市・水野孝夫)


第282話 2010/09/19

孝徳紀「東国国司詔」の新展開

 関西例会では大化改新詔の研究が進められていますが、その中心的研究者の正木さんが今回も新たな仮説を発表されました。それは、孝徳紀の東国国司詔の中に文武天皇の即位の宣命が挿入されているというものです。ちょっと恐い仮説ですがなかなか説得力のある論証が試みられました。会報での発表が期待されます。 
 竹村さんからは今回も多数の発表がなされましたが、中でも日本書紀訓註の一覧データは示唆的でした。日本書紀には難解な字などに訓註(読み)が施されて いますが、万葉仮名が整理統一される以前の古い史料に基づいたと思われる神代紀や神武紀に特に訓註が多く施されています。ところが、皇極紀・孝徳紀・斉明紀・天武紀にも他の天皇紀に比べて訓註が頻出しているのです。他方、天智紀は訓註がゼロです。
 この現象は日本書紀編纂時の原史料の性格の違いによるものと思われますが、この現象が竹村さんの一覧データにより明白となりました。このような史料のデータ化は文献史学の地道な基礎研究に属すると思いますが、こうしたデータが例会に報告されることは研究者として大変ありがたいことです。
 9月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 武烈を誰が殺(や)った(豊中市・木村賢司)

2). 菩薩は全て女性(豊中市・木村賢司)

3). 「評」の淵源についての若干の考察(川西市・正木裕)
「評」の淵源は、前漢代の「廷尉評(平)」にあり、後漢の光武帝は詔獄(警察・裁判)を所掌させ、魏・晋以後もその職は強化された。一方、「都督」の淵 源も光武帝代の督軍御史(督軍制)にあり、魏の曹丕は地方諸州の軍政を所掌する都督を初めて常設し、数万〜十数万の軍の指揮を執らせた。 この様に、金印を授かった後漢から、倭国が臣従した魏・晋朝にかけ都督と評は並存しており、そうした状況の下、倭国が都督—評督制を創設したことは想像に 難くない。

4). 西村干支計算表を使って、日本書紀の干支の比較検討(木津川市・竹村順弘)
1)朔日干支の記事分布とその概要 2)干支記事の偏在有無の検証 3)例外記事の考察 4)結語

5). 日本書紀訓註の謎(木津川市・竹村順弘)

6). こなべ古墳の被葬者(木津川市・竹村順弘)

7). 新羅本紀「阿麻来服」記事と「倭皇天智天皇」(大阪市・西井健一郎)

8). 東国国司詔の実年代(川西市・正木裕)
(1)『書紀』大化元年(六四五)八月の「東国国司招集の詔」の発せられた実年は、九州年号大化元年(六九五)であり、近畿天皇家が、九州王朝により任命されていた国宰の権限を剥奪・縮小し、律令施行に向け新職務を課す主旨。
(2)大化二年(六四六)三月の「東国国司の賞罰詔」は、文武二年・九州年号大化四年(六九八)に、近畿天皇家が、新政権への忠誠度や新職務の執行状況により、国宰を考査し処断・賞罰を行う旨の表明。
(3) 賞罰詔中に記す「去年八月」の詔とは、文武元年八月(六九七)の文武即位の宣命を指し、文武への忠誠と、国法遵守を命じたもので、これを基に賞罰が行われたと考えられる。

9). 三国史記と日本書紀の二倍年暦(木津川市・竹村順弘)

10). 日本第四紀地図とナラ山(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・牽牛子塚古墳見学会・他(奈良市水野孝夫)


第278話 2010/08/22

あおによし

 昨日はいつもの大阪駅前第2ビルではなく、大阪城や難波宮跡近くの大阪歴史博物館で関西例会が行われました。また、関西例会では初めての試みとして外部講師をお招きして特別講演もありました。
 その特別講演として、難波宮や難波京発掘責任者である高橋工氏(大阪市博物館大阪文化財研究所難波宮調査事務所長)から、「古代の難波 発掘調査の最前線」というテーマで御発表いただき、当日初めて外部発表されたという最新の発掘成果などを次々とうかがうことができました。
 更には、参加者からの質問にも丁寧にお答えいただき、本当に勉強になりました。私の前期難波宮九州王朝副都説を補強できるような内容もあり、このことは別の機会にご紹介します。
 会員の発表では、竹村さんが先月に続き、一気に5テーマを発表されました。パソコンを使用し日本書紀の膨大な干支記事データベース作成と解析を行われるなど、目をみはるものがありました。
 中でも意表を突かれたのが、有名な枕詞「あおによし」の問題提起でした。一般には奈良の都の青や赤の鮮やかな瓦の色から「青丹よし」と表現され、後に「なら」にかかる枕詞へ発展したと説明されているようですが、記紀や万葉集に奈良の都ができる以前(710年)の歌に「あおによし」という枕詞が使用され ている例を指摘されたのです。
 これらの史料事実から、「あおによし」という枕詞は奈良の都とは無関係にそれ以前に成立したと考えざるを得ません。わたしは、九州王朝下で「なら」と呼ばれたものに掛かる枕詞として「あおによし」は古くから成立していたのではないかと想像しています。それでは、その「なら」とは何かという問題が新たなテーマとして浮かび上がってきます。これからの楽しみなテーマではないでしょうか。それにしても、「常識」を覆す素晴らしい問題提起だと思いました。
 8月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 1300年余の洗脳・他(豊中市・木村賢司)
2). 古代歌謡「あおによし」の懐疑(木津川市・竹村順弘)
3). 日本書紀の朔日干支記事の分布(木津川市・竹村順弘)
4). 日本書紀の盗用記事挿入の遣り口(木津川市・竹村順弘)
5). ナラの音韻(木津川市・竹村順弘)
6). はるくさ木簡の用字(木津川市・竹村順弘)
7). 日本書紀年齢(向日市・西村秀己)
8). 古代大阪の難波津について(豊中市・大下隆司)
9). 『聖徳太子伝暦』の遷都予言記事(川西市・正木裕)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・『古事類苑』の古代逸年号データベース・他(奈良市水野孝夫)

○特別講演   古代の難波 発掘調査の最前線
 講師 高橋 工 氏(大阪市博物館大阪文化財研究所 難波宮調査事務所長)


第276話 2010/08/14

『古田史学会報』99号の紹介

 『古田史学会報』99号が発行されました。中でも正木さんの「公地公民」と「昔在の天皇」は6月に開催された「禅譲・放伐」シンポジウムでの発表をまとめらたもので、『日本書紀』大化改新詔の「皇太子奏請」が九州年号の大化期(696年)に九州王朝から出されたもので、九州王朝から近畿天皇家への権力交代に関するものとする秀逸な論文です。  
 今後、九州王朝から近畿天皇家への権力交代や大化改新詔の研究に於いて、避けて通れない重要論文となるでしょう。近年矢継ぎ早に発表される正木さんの研究成果は流石と言うほかありません。
 次号は記念すべき100号です。会員の皆さんの投稿をお待ちしています。
 『古田史学会報』99号の内容
○九州王朝から近畿天皇家へ 「公地公民」と「昔在の天皇」 川西市 正木 裕
○−記紀、私の楽しみ方− 隠されていた和珥氏伝承  大阪市 西井健一郎
○「天の原」はあった(その二) —古歌謡に見る九州王朝— 東京都世田谷区 西脇幸雄
○星の子−古田武彦著「古代は輝いていた」より− 深津栄美
○伊倉13 −天子宮は誰を祀るか− 武雄市 古川清久
○古田史学の会 第16回会員総会の報告
○古田史学の会 2009年度会計報告 2010年度予算
○割付担当の穴埋めヨタ話(4) 少童考 向日市 西村秀己
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内