倭人伝一覧

第2352話 2021/01/17

倭人伝〝道行き読法〟の「至」と「到」

昨日の令和三年新春古代史講演会では次の三つの講演がありました。いずれも、「古田史学の会」の研究者による最先端研究の報告でした。

①古賀達也  古代戸籍に見える二倍年暦の痕跡
②谷本 茂さん 「邪馬台国」位置論と〝道行き読法〟の今日的意義
③正木 裕さん 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国説」

今回の講演会では、古田先生が提唱された『三国志』倭人伝における〝道行き読法〟の素晴らしさを、谷本さんの発表により改めて認識させられました。なかでも、「至」と「到」の字義の違いに着目された解説は見事なもので、驚きました。
倭人伝の行程記事には「いたる」という動詞に「至」と「到」が使用されていますが、谷本さんの説明によれば、直線的に目的地へいたる場合は「至」が使用され、曲線的にまわっていたる場合には「到」が使用されているとのことでした。倭人伝には次の二例で「到」が使われており、それらは〝道行き読法〟や曲線コースを示すケースであり、直線的に目的地へいたる「至」の場合とは区別して使用されています。

○歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
○東南陸行五百里、到伊都國

古田説では、狗邪韓國へは韓国内を南へ東へとジグザクに陸行するとされ、直接コースではありません。伊都国へも末盧国から一旦は東南方向へ道沿いに始発するという曲線コースです。その古田説に対応するかのようにこの2ケースのみに「到」が使われているわけです。
この「至」と「到」の使い分けという説は谷本さんが発見されたのですかと、講演後にお聞きしたところ、漢字辞典にそのような字義の説明があるとのことでした。そこで『新漢和辞典』(大修館)を確認したところ、次の説明がありました。

「到 (中略)
〔解字〕形声。至(いたる)が意符。刀(トウ)が音符で、また、ぐるりとまわる意を表す。ぐるりとまわって、いたり着く意。」

この字義に気づかれた谷本さんに脱帽するとともに、古田説がいかに優れたものであるかを改めて認識しました。冥界の先生もこの講演を喜んでいただいていると思います。
最後に、緊急事態宣言下にもかかわらずご来場いただいた皆様に心より御礼申し上げます。「古田史学の会」としましては、会場使用が可能であれば、コロナ感染予防対策をとりながら、これからも講演会や例会活動を続ける所存です。会員の皆様のご理解とご協力をお願いいたします。


第2255話 2020/10/08

『纒向学研究』第8号を読む(3)

 柳田康雄さんが「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)において、「弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである」と主張されていることを紹介しましたが、この他にも貴重な提言をなされています。たとえば次のようです。

〝中国三国時代以後に研石が見られないのは固形墨の普及と関係することから、倭国では少なくとも多くの研石が存在する古墳前期までは膠を含む固形墨が普及していないことが考えられる。したがって、出土後水洗されれば墨が剥落しやすいものと考えられる。〟(41頁)

〝何よりも弥生石器研究者に限らず考古学に携わる研究者・発掘調査担当者の意識改革が必要である。調査現場での選別や整理作業での慎重な水洗の重要性は、調査担当者のみにらず作業員の熟練が欠かせないことを今回の出土品の再調査でもより一層痛感した。出土品名の誤認に始まり、不用意に水洗された結果付着していたはずの黒色や赤色付着物が失われている。(中略)
 原始時代とされている弥生時代において、文字だけではなく青銅武器や大型銅鏡を製作できる土製鋳型技術が出現し継続しているはずがないという研究者が多い現実がある(柳田2017c)。また、遺跡・遺物を観察・分類できる能力(眼力)を感覚的だと軽んじ、認識・認知や理論という机上の操作で武装する風潮が昨今の考古学者には存在する。このような考古学の基礎研究不足は、研究を遅滞し高上(ママ)は望めない。基礎研究不足のまま安易に科学分析を受け入れた、その研究者のそれまでの研究成果はなんだったのだろう、旧石器捏造事件を想起する。修練された感覚的能力なくして、遺跡・遺物を研究する考古学という学問は存在意義があるのだろうか。大幅に弥生時代の年代を繰り上げた研究者や博物館などの施設は、それまでの考古学の基礎研究では弥生時代の年代が決定できなかったことを証明している。考古学研究の初心に戻りたいものだ。これはデジタル化に取り越されたアナログ研究者のぼやきだけで済むのだろうか。〟(43頁)

 弥生編年の当否はおくとしても、柳田さんの指摘や懸念には共感できる部分が少なくありません。この碩学の提言を真摯に受け止めたいと思います。(おわり)

(注)『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。


第2253話 2020/10/06

『纒向学研究』第8号を読む(2)

 柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)によれば、弥生時代の板石硯の出土は福岡県が半数以上を占めており、いわゆる「邪馬台国」北部九州説を強く指示しています。なお、『三国志』倭人伝の原文には「邪馬壹国」とあり、「邪馬台国」ではありません。説明や論証もなく「邪馬台国」と原文改定するのは〝学問の禁じ手(研究不正)〟であり、古田武彦先生が指摘された通りです(注②)。
 古田説では、邪馬壹国は博多湾岸・筑前中域にあり、その領域は筑前・筑後・豊前にまたがる大国であり、女王俾弥呼(ひみか)がいた王宮や墓の位置は博多湾岸・春日市付近とされました。ところが、今回の板石硯の出土分布を精査すると、その分布中心は博多湾岸というよりも、内陸部であることが注目されます。それは次のようです。

〈内陸部〉筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)

〈糸島・博多湾岸部〉糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)
 ※この他に、豊前に相当する北九州市20例と築城町8例(研石1)も注目されます。

 しかも、弥生中期前半頃に遡る古いものは内陸部(筑紫野市、筑前町)から出土しています。当時、硯を使用するのは交易や行政を担当する文字官僚たちですから、当然、倭王の都の中枢領域にいたはずです。内陸部に多いという出土事実は古田説とどのように整合するのか、あるいは今後の発見を期待できるのか、古田学派にとって検討すべき問題ではないでしょうか。
 柳田さんは次のように述べて、教科書の改訂を主張されています。

 「これからは倭国の先進地域であるイト国・ナ国の王墓などに埋葬されてもよい長方形板石硯であるが、いまだに発見されていない。いずれ発見されるものと信じるが、今回の集落での発見は一定の集落内にも識字階級が存在することを示唆しているだけでも研究の成果だと考えている。青銅武器や銅鏡の生産を実現し、一定階級段階での地域交流に文字が使用されている弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである。」(43頁)

 大和朝廷一元史観に基づく通説論者からも、このような提言がなされる時代に、ようやくわたしたちは到達したのです。(つづく)

(注)
①『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻)


第2249話 2020/10/04

ベティー・J・メガーズ博士の想い出(1)

 古田武彦先生の名著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻)の中で異彩を放つテーマがあります。倭人が中南米にあった裸国・黒歯国まで太平洋を渡って交流していたというテーマです。この部分の削除を編集者から要請されたり、ご友人からも掲載に反対されたとのことですが、古田先生はそれを拒否されました。
 その後、倭人の太平洋横断を支持する研究がアメリカでもなされていたことがわかりました。アメリカの考古学者、クリフォード・エバンズ(Clifford Evans)夫妻の研究によれば、エクアドルのバルディビア遺跡から出土した土器の文様が日本列島の縄文土器に類似していることから、縄文人が太平洋を渡り、縄文土器の文様が伝播したとされました。この研究を知った古田先生は自説を支持するものとして評価され、古田武彦訳著『倭人も太平洋を渡った コロンブス以前の「アメリカ発見」』(創世記、1977年)を刊行されました。
 1995年11月にはエバンス夫人(Betty Jane Meggers 1921-2012、アメリカ合衆国考古学会副会長)が来日され、古田先生を始め各界の専門家との「縄文ミーティング」に出席されました。その内容は古田武彦著『海の古代史』(原書房、1996年)に掲載されていますのでご参照下さい。わたしは古田先生のご配慮により、録音係として同ミーティングに同席させていただきました。今でも、通訳の女性の博識を鮮明に記憶しています。メガーズ博士が話される考古学用語や出席者の多方面の専門用語を見事に訳されていました。日本語訳について確認されたのは「〝point〟は〝やじり〟でよろしいですね」の一回だけでした。出席者の各分野の専門用語を淀むことなく英訳され、ミーティング終了時には参加者一同から拍手が贈られたほどです。

【縄文ミーティング出席者】
 1995年11月3日(金) 全日空ホテル(東京都港区赤坂)
ベティー・J・メガーズ博士
大貫良夫(東京大学理学部教授)
鈴木隆雄(老人総合研究所疫学室長)
田島和雄(愛知ガンセンター疫学部長)
古田武彦(昭和薬科大学教授)〈司会〉
 ※所属・肩書きは当時のもの。

 議論が白熱すると、通訳を待たずに全員が英語で話し出すという一幕もあり、主催者の藤沢徹さん(故人・東京古田会々長)から、「この内容は日本語で書籍化しますので、日本語で話して下さい」と注意がなされたほどです。通訳の女性は、皆が英語で話している間は一休みできてホッとされていました。わたしの英語力では専門用語はもとより、メガーズさんの英語はほとんど理解できませんでした。ときおり耳に入る〝migration〟という言葉に、縄文人や土器の「移動」について論議されているのだなあと推測していました。
 ところが、南米でバルディビア土器よりも古い土器の発見が続いていることを最近になって大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えていただき、従来のメガーズ説について検証が必要であることを知りました。(つづく)


第2244話 2020/09/27

田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期(4)

 久住猛雄さんの論文「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」(注①)には日本列島における文字受容に関する、これからの考古学への重要な指摘と提言が含まれています。例えば次の様な指摘です。

 (硯に書かれた文字は)〝当時(漢代)の木簡・竹簡の平均的なサイズである幅10~13mmのものに書かれてもおかしくないサイズである。ある程度書きなれた隷書体の文字に、当時の平均的木簡サイズの文字が存在することは、当時の日本列島において、漢代簡牘を模倣したような幅の狭い「木簡」が、存在した可能性を提起する。〟(94頁)

〝田和山遺跡457資料の「文字」板石硯の発見により、板石硯は文字書写用に使われた可能性が極めて高くなったし、木簡に書かれるような「文字」が存在していたことが判明した。したがって今後、弥生時代中期中頃以降の有機質遺物が遺るような遺跡においては、「木簡」が遺存している可能性を視野に入れて、発掘調査することが不可欠である。なお当時は「膠」使用以前の墨であるから、墨書の遺存度が悪いことも想定する必要がある。今後の注意深い調査により、まさに「歴史」が書き換えられることになるだろう。〟(95頁)

 「弥生木簡」出土を予見した久住さんの指摘は論理的と思われます。こうした考古学的予見と論理性は文献史学へも激震を与えます。
 わたしは、「洛中洛外日記」2076話(2020/02/06)〝松江市出土の硯に「文字」発見(2)〟において、銅鐸圏(銅鐸国家)での文字使用を予見し、1844話(2019/02/26)〝紀元前2世紀の硯(すずり)出土の論理〟では、福岡県糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と佐賀県唐津市の中原(なかばる)遺跡(弥生中期中頃、紀元前100年頃)から出土した「硯」を論拠に、「天孫降臨」の50年後、遅くても100年後頃には天孫族(倭人)は文字(漢字)を使用していた可能性があり、彼らは自らの名前や歴史を漢字漢文で記そうとしたであろうと指摘しました。
 したがって、天孫族が「天孫降臨神話」の神々の名前を漢字表記していたとなれば、記紀に見える神名漢字表記の中には「天孫降臨」時代に成立したものがあるという可能性を前提にした文献史学の研究方法が必要となります。
 久住さんらの一連の板石硯・文字発見と考古学的予見は、文献史学の常識と論理構成の見直しを迫った歴史的研究業績ではないかとわたしは思います。(おわり)

(注)
①久住猛雄「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」(『古代文化』Vol.72-1 2020.06)


第2243話 2020/09/27

田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期(3)

 田和山遺跡出土板石硯(弥生時代中期後半~後期初頭、紀元前後)に文字(「子戊」と判読)が書かれていることを発見された久住猛雄さんは「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」(注①)において、同硯とほぼ同時期(弥生時代中期後半頃)の「文字」痕跡を有する福岡県久留米市塚崎東畑遺跡出土の「丹塗磨研土器」を紹介されています。そのような土器がわたしの故郷の久留米市から出土(1987年)していたことを全く知りませんでしたので、わたしは昨日京都府立歴彩館で「墨書状痕跡」を持つ同土器の資料紹介(注②)を閲覧しました。
 その掲載写真によれば、それは美しい朱色に塗られた高坏の脚部中程部分で、杯部と脚部は失われています。その残存部分に縦書きで一文字(「門」「内」「田」か)と四文字(一字目は「今」「令」か。他は不詳)の文字らしき黒色の〝墨書状痕跡〟がうっすらと肉眼でも見えるのです。説明では、同土器の墨書状痕跡は、土器の整形がなされた後、丹が塗られる前に施されており、高坏が製作された当時のものである可能性が極めて高いと判断されています。そして、「現在までに日本列島で確認されている最古の墨書土器となる。」とも記されています。なお、「墨書状」の黒色色素は墨(炭素)ではなく、マンガン系顔料と分析されたことが久住論文に紹介されています。
 この「墨書状痕跡」を持つ丹塗磨研土器の存在により、田和山遺跡出土板石硯の「文字」は孤立していないと久住さんは指摘されています。これらの発見により、弥生時代中期頃に倭人が文字を受容し、外交や交易に使用していたことは決定的になったと思われます。しかし、柳田さんや久住さんらのこの発見は発表当初は考古学界から無視されたようで、そのことが久住論文には次の様に記されています。

〝457資料(板石硯)裏面における「文字」の存在も含めて、その事実を同年(2019年)11月に発表した。ところが、柳田(柳田康雄さん・国学院大客員教授)の発表に対する学会の反応は冷淡であり、重大な公表にも関わらず事実上無視されてしまった。〟〔92頁〕※()内は古賀による注。

 このように学会から無視された理由を「注」で次の様に説明されています。

〝令和元年度九州考古学会においては、「板石硯」そのものに対する懐疑派が少なくなかったためと、本来は板石硯研究を牽引していた武末純一が、柳田や筆者が次々に板石硯を認定することに対する疑念を表明したことにその原因の一つがある。ましてや、弥生時代後期初頭に列島で書かれた「文字」が存在するなどというのは「常識外」と受け取られた。また柳田が「文字」釈読の一案として、干支の「壬戌」(西暦2年)という案も示したことが、「出来過ぎている」ととらえられたことも一因らしい。〟〔97頁〕

 この久住さんの感想は示唆に富んでいます。恐らくは古田史学・九州王朝説も学界からは「常識外」「出来過ぎている」ととらえられているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①久住猛雄「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」(『古代文化』Vol.72-1 2020.06)
②酒井芳司「塚崎東畑遺跡出土丹塗磨研土器の墨書状痕跡について」(『九州歴史資料館研究論集』31、2006年)。同土器は「未報告」とある。


第2242話 2020/09/26

田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期(2)

 『古代文化』(Vol.72-1 2020.06)に掲載された久住猛雄さんの「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」の冒頭に次の一文があります。

〝近年注目されている「板石硯」は、漢~晋代の「長方形板石硯」を日本列島あるいは朝鮮半島において模倣作製したものである。日本列島では、前漢中期前葉の長方形板石硯出現直後の須玖Ⅰ式新相に早くも受容と模倣が開始されていることが判明している。その後、弥生時代中期後半から後期にかけて西日本に広がり、弥生時代終末期以降には伊勢湾岸およびそれ以東に波及するということも指摘され、弥生時代だけではなく古墳時代全期間を通じて存在することも予想されている。〟(同書90頁)

 先に紹介した毎日新聞WEB版(2020年2月1日)にも、「九州から近畿にかけて近年、弥生時代のすずりとみられる遺物が相次いで見つかり」とあり、弥生時代の硯の出土は筑紫(福岡市西新町遺跡・他)と出雲(松江市田和山遺跡)だけとわたしは思っていたのですが、西日本から伊勢湾岸以東にまで出土例があるとのことでした。そこでその具体的な出土状況を知りたいと思っていたところ、次の奈良新聞の記事がありました。現在、記事に紹介されている柳田康雄さん(国学院大客員教授)の論文(「纏向学」紀要)入手を試みています。

 本稿執筆のため京都府立歴彩館で図書閲覧していたところ、岡下英男さん(古田史学の会・会員、京都市)とお会いしました。岡下さんは聖徳太子関連資料調査のため来館したとのこと。他の図書館で「古田史学の会」の会員さんと出会うことはほとんどないのですが、歴彩館ではたまにあります。京都府立大学図書館と隣接していることもあって、歴史関連文献の調査閲覧に便利なことも、その一因かもしれません。(つづく)

【奈良新聞WEB版(2020.04.24)から転載】
石製の硯、150例以上 ―弥生時代から文字文化浸透か―
国学院大の柳田客員教授「纏向学」紀要で発表

 弥生時代中期中ごろから古墳時代中期までの石製品を調べた結果、硯(すずり)の可能性があるものが全国で150例以上あることが分かったと、柳田康雄国学院大学客員教授(考古学)が発表した。確認事例は西日本各地に分布し、多くが地域の拠点集落で出土していることから、「当時、交易にも文字文化が浸透していたことが推測できる」としている。
 纒向学研究センター(桜井市)の紀要で研究成果を報告した。
 柳田客員教授は、扁平(へんぺい)な板状石材で製作された「方形板石硯」と呼ばれる石製品の確認調査を実施。中国・前漢中期から出現したもので、日本では島根県や福岡県で発見されるなど確認事例が増えている。
 これまで砥石(といし)と考えられてきた石製品も、摩滅による窪みの形状や墨とみられる黒色、赤色の付着物から硯と判断。福岡県を中心に北部九州から近畿・北陸までで150例以上あることを確認した。
 県内では、纒向遺跡(桜井市)で平成26年に出土した石製品(縦約11センチ、幅約7センチ、厚さ約1センチ)をはじめ、唐古・鍵遺跡(田原本町)や布留三島遺跡(天理市)、新堂遺跡(橿原市)出土の計10例を挙げている。
 大半は拠点集落とみられる遺跡から見つかっており、柳田客員教授は「一定の集落内にも識字階級が存在することを示唆している」と指摘。「国内では弥生時代から、外交文書だけでなく貿易交流にも文字が使われていたことが考えられる」と話している。


第2173話 2020/06/23

九州王朝の国号(2)

 一世紀の金石文「志賀島の金印」に次いで古い同時代史料による九州王朝の国号は、有名な『三国志』倭人伝に見える「倭」「倭国」です。倭人伝には次の表記が有り、三世紀頃には人偏の「倭」の字が国号表記に使用されていたと判断できます。なお、当時の「倭」の発音は「わ」ではなく、金印の「委奴国」の「委」と同じ「ゐ(wi)」と考えられています。

 「景初二年六月。倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏、將送詣京都。其年十二月詔書報倭女王、曰制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利、奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻。是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬。」(『三国志』魏志倭人伝)

 景初二(238)年六月に魏の明帝に謁見した倭国の使者に対して、同年十二月に明帝は「詔」を下し、その中で卑弥呼を「親魏倭王」と為して「金印紫綬」を授けたとあります。このように『三国志』では一貫して人偏の「倭」を国号に使用しています。
 『三国志』の著者は陳寿(233-297年)で、成立は西晋の時代三世紀末頃(280年以降)とされています。西晋は魏の禅譲を受けた王朝であり、『三国志』は魏王朝を継承した西晋内において成立した同時代史料です。従って、その倭人伝に記された明帝の「詔」に見える「親魏倭王」という表記は当時の九州王朝の国号が「倭」「倭国」であったことを示す有力な史料根拠なのです。この国号「倭」「倭国」は、後の史書にも受け継がれており、遅くとも三世紀からは人偏の「倭」が九州王朝の国号表記として中国から認知されていたと思われます。
 なお、国号を「委」から「倭」の字に変更したのは九州王朝側なのか中国側(魏王朝)なのか、そしてその理由は何なのかという興味深いテーマもありますが、本稿では立ち入りません。(つづく)


第2168話 2020/06/06

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(9)

 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論として、「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」との訓みを思いついたのは2004年頃でした。この訓みが成立するのか古田先生と検討してから16年経ちました。そのとき成立困難との結論に至りましたが、今回もまた同様でした。しかし、今回はより深く認識することができ、同時に『三国志』全編を読み通しましたので、様々なことに気づき、有意義でした。
 わたしの仮説(思いつき)を積極的に支持する、ある数値を「合計して」という確実な用例はみつかりませんでしたが、「都」の字は、「みやこ(名詞)」「みやことする(動詞)」の意味と、「統べる」「統括する」の意味で使用されていることが確認できました。同時に「女王之所都」〔女王の都(みやこ)する所〕の「之所」について、どのような用例があり、どのような文法ルールを持っているのかを今回調べてみました。
 「之所」という用例は『三国志』にはそれほど多用されていませんが、各所に散見されることから、特殊な用例ではないようです。東夷伝中の印象的な用例としては次の記事があります。

 「長老説有異面之人、近日之所出」(三 840頁、魏書)

 これは粛慎の長老の言葉ですが、「近日之所出」(日が出る所に近し)のように「女王の都(みやこ)する所」と同様に、「之所」の直後に「出」という動詞が続きます。次に紹介する用例でも同様ですが、「之所」の直後に動詞が続くのが文法ルールのようです。

 「周公之所以用、大舜之所以去」「在陛下之所用」(二 503頁、魏書)
 「不以舜之所以事」(三 572頁、魏書)

 これとは別に、「之」の字がなく、「所」だけで、その後に動詞が続く用例は多数ありますが、「之」の有無にどのような意味の差があるのかは、まだわかりません。勉強はこれからも続きます。(おわり)


第2162話 2020/05/29

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(8)

 『三国志』(中華書局本)本文に見える「都」で、名詞の「みやこ」や動詞の「みやこする」ではなく、「全て」「全ての」という意味で使用されていると考えられる次の例について、訳を検討してみました。

(9)「景初中、受詔作都官考課」(三 619頁、魏書)
《訳案》
①景初(年)中、詔を受けて都(すべて)の官の考課を作る。
②景初(年)中、詔を受けて官を都(す)べる考課を作る。
③景初(年)中、詔を受けて都官(とかん)の考課を作る。

(28)「詔立都講祭酒」(五 1136頁、呉書)
《訳案》
①詔す、都(すべて)の講に祭酒を立てよ。
②詔す、講を都(す)べる祭酒を立てよ。
③詔す、都講(とこう)に祭酒を立てよ。

(33)「身長八尺、儀貌都雅」(五 1216頁、呉書)
《訳案》
①身長は八尺、儀貌(容貌)は都(すべて)雅(みやび)なり。
②身長は八尺、儀貌(容貌)は都雅(とが)なり。

 なお、(9)(28)については、「都官」を「みやこの官僚たち」、「都講」を「みやこの講」と訓めないこともありませんが、〝みやこの「官」や「講」〟という表記は『三国志』中の他には見えませんので採用しませんでした。また、「都(す)べる」と訓む場合は、日本語では「統(す)べる」の表記が通常で、その意味は「統括する」です。『三国志』でも「統括する」の意味には「統」の字がよく使われています。
 他方、『後漢書』や漢和辞典類には「都官」「都講」「都雅」という熟語が見え、「都官:役職名(『後漢書』)」「都講:塾頭」「都雅:みやび」などが見えます。このことを加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からご教示いただきました。この点を重視すると、「都講」の訓みは「講を統(す)べる」「講を統括する」が適切となります。あるいは、『三国志』編纂時代には「都督」「都尉」などのように、「都講」という役職名が既に成立していたのかもしれません。また、同様に「都雅」という二字で「みやび」という意味が『三国志』の時代に成立していた可能性も考慮する必要がありそうです。
 引き続き検討を進めますが、今回の『三国志』調査においては「全て」「全ての」という意味で「都」の字が使用される確かな例(他の字義では意味が通らないケース)は今のところ見つかっていません。また、わたしの仮説を積極的に支持する、ある数値を「合計して」という確実な用例はみつかりませんでした。現時点での結論としては、「都」の字は、「みやこ(名詞)」「みやことする(動詞)」の意味と、「統べる」「統括する」の意味で使用されていることが確認できました。(つづく)


第2158話 2020/05/23

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(7)

 『三国志』(中華書局本)に見える「都」には動詞と名詞、そして「全て」の意味を持つ用例がありました。特に三国時代(後漢末期)の遷都記事に関わるものとして、190年の「長安」遷都関連記事(1)(7)(25)、196年の「許」遷都関連記事(2)(3)(4)(6)(10)(11)、呉の遷都記事(26)(27)(30)(31)(30)(39)(41)(42)(43)(45)(46)(47)があり、いずれも「みやこする」(文語的表現)「みやことする」(口語的表現)と訓むのが妥当と思われます。
 他方、注目すべきは倭国と高句麗の次の「都」関連記事です。

(17)「儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句麗所都、斬獲首虜以數千」「刊丸都之山」魏書毋丘儉(カンキュウケン)伝(三 762頁)
(20)「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」魏書倭人伝(三 855頁)

 共に「所都」という表記で、丸都が高句麗の都であること、邪馬壹国が女王の都であることを説明する文脈で使用されており、「都」を動詞とする「みやこする所」「みやことする所」の訓みが最も適切で、記事の意味を的確に表しています。なお、倭人伝(20)には「女王之所都」と「之」の字があり、毋丘儉伝(17)「屠句麗所都」にはありません。この差異により文意にどのような影響が出るのか、今のところよくわかりません。(つづく)


第2157話 2020/05/22

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(6)

 『三国志』(中華書局本)を久しぶりに全巻読み通しました。わたしの好みでもありますが、「蜀書」姜維伝を読むと、なぜか胸が熱くなりました。横山光輝さんの漫画『三国志』に描かれた姜維の印象が強いこともあり、わたしは諸葛孔明と姜維のファンです。
 『三国志』での「都」の字は、「都督」「都尉」などの役職名や行政名称の「京都」、地名の「成都」「陽都」「武都」などに使用される例が多いのですが、今回のテーマに関係しそうな、それ以外の「都」の例を下記に紹介します。見いだした全てを記載はしていませんし、重要な使用例の見落としがあるかもしれません。その場合はご教示下さい。

(1)「(初平元年)二月、卓聞兵起、乃徙天子都長安。卓留屯洛陽、遂焚宮室」(一 7頁、魏書)
(2)「天子都許、拜洪諫議大夫」(一 278頁、魏書)
(3)「太祖議奉迎都許」「太祖遂至洛陽、奉迎天子都許」(二 310頁、魏書)
(4)「太祖迎天子都許」(二 322頁、魏書)
(5)「伍員絶命於呉都」(二 376頁、魏書)
(6)「天子都許、以(日/立)為尚書」(二 428頁、魏書)※(日/立):「日」の下に「立」
(7)「是時董卓遷天子都長安、卓因留洛陽」(二 466頁、魏書)
(8)「趙都賦」「許都」「洛都賦」(三 618頁、魏書)
(9)「景初中、受詔作都官考課」(三 619頁、魏書)
(10)「建安初、太祖迎天子都許」(三 665頁、魏書)
(11)「太祖始迎獻帝都許」(三 668頁、魏書)
(12)「時新都洛陽」(三 678頁、魏書)
(13)「凡帝王徙都立邑」(三 711頁、魏書)
(14)「都城禁衛」「都圻之内」(三 718頁、魏書)
(15)「時都畿樹木成林」(三 744頁、魏書)
(16)「楚王彪長而才、欲迎立彪都許昌」(三 758頁、魏書)
(17)「儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句麗所都、斬獲首虜以數千」「刊丸都之山」(三 762頁、魏書)
(18)「積穀干許都以制四方」(三 775頁、魏書)
(19)「都於丸都之下」(三 843頁、魏書)
(20)「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」(三 855頁、魏書)
(21)「興復漢室、還干舊都」(四 920頁、蜀書)
(22)「曹公議徙許都以避其鋭」(四 941頁、蜀書)
(23)「陛下大軍、金鼓以震、當轉都宛、鄧、若二敵不平、軍無還期」(四 993頁、蜀書)
(25)「卓尋徙都西入關、焚燒雒邑」(五 1097頁、呉書)
(26)「權自公安都鄂、改名武昌」(五 1121頁、呉書)
(27)「權遷都建業」(五 1135頁、呉書)
(28)「詔立都講祭酒」(五 1136頁、呉書)
(29)「此都無所損、君意特有所忌故耳」(五 1160頁、呉書)
(30)「從西陵督歩闡表、徙都武昌」(五 1164頁、呉書)
(31)「晧還都建業」(五 1166頁、呉書)
(32)「呉都言掘地得銀」「呉都言臨平湖自漢末草穢壅塞」「楚九州渚、呉九州都、揚州士、作天子、四世治、太平始」(五 1171頁、呉書)
(33)「自權西征、還都武昌」「身長八尺、儀貌都雅」(五 1216頁、呉書)
(34)「自今蔽獄、都下則宜諮顧雍」(五 1239頁、呉書)
(35)「事畢還都」(五 1250頁、呉書)
(36)「後召還都、拜(津)右護軍、曲領辭訟」(五 1287頁、呉書)
(37)「權破羽還、都武昌」(五 1310頁、呉書)
(38)「及還都建業」(五 1311頁、呉書)
(39)「黄龍元年、權遷都建業」(五 1340頁、呉書)
(40)「及求詣都」「葬送東還、詣都謝恩」「太元元年、就都治病」(五 1354頁、呉書)
(41)「權遷都建業」(五 1364頁、呉書)
(42)「又恪有徙都意、使治武昌宮、民間或言欲迎和。及恪被誅、孫峻因此奪和璽綬、徙新都、又遣使者賜死」(五 1370頁、呉書)
(43)「晧徙都武昌」(五 1400頁、呉書)
(44)「非王都安國養民之處」(五 1401頁、呉書)
(45)「既定荊州、都武昌」(五 1411頁、呉書)
(46)「權下都建業」(五 1414頁、呉書)
(47)「初、權黄龍元年遷都建業」(五 1434頁、呉書)
(48)「北方都定之後、操率三十萬衆來向荊州」(五 1436頁、呉書)
(49)「太元元年、權寝疾、詣都」(五 1443頁、呉書)
(50)「而都下諸官、所掌別異」「定送到都」(五 1468頁、呉書)

 ※『三国志』中華書局本(2000年北京第15次印刷)

 以上のような「都」の用例が見られました。(20)「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」が今回のテーマである倭人伝の記事です。なお、『三国志』本文中で夷蛮の諸国に「都(みやこ)」記事があるのは、毋丘儉(カンキュウケン)伝(17)「儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句麗所都」と倭人伝(20)と高句麗伝(19)だけです。このことを検討会で古田先生が指摘されたのを懐かしく思い出しました。(つづく)


第2155話 2020/05/20

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(5)

 

 話題を「南至邪馬壹国女王之所都」の「都」の字義に戻します。

 わたしの仮説が成立するのかどうかを古田先生と検討したときのことを紹介します。「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓む私案について、最大の問題となったのが、「女王之所」をどう訓むのかということでした。

 たとえば、「之」の字義に「行く」という意味もあり、そのような他の字義での訓みや理解について古田先生と検討を続けました。しかし、結論としては妥当な訓みが成立しそうもなく、わたしの仮説はペンディングとなり、とりあえずは通説の訓み「南、至る邪馬壹国。女王之都する所」でよいということになりました。

 今回、わたしは久しぶりに『三国志』(中華書局本ですが)を全巻読破し、「都」の用例調査を改めて行い、特に「都」の「合計する」「全て」という使用例を探しました。(つづく)


第2152話 2020/05/13

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(3)

 『海東諸国紀』「日本国紀」の「道路里数」には、朝鮮国慶尚道から日本国の王城(京都)までの里程が次のように記されています。

 「我が慶尚道東莱県の冨山浦より対馬島の都伊沙只に至るまで四十八里。○都伊沙只より船越浦に至るまで十九里。○船越より一岐島風本浦に至るまで四十八里。○風本より筑前州の博多に至るまで三十八里。○博多より長門州の赤間関に至るまで三十里。《風本より直ちに赤間関を指せば則ち四十六里》○赤間より竈戸関に至るまで三十五里。○竈戸より尾路関に至るまで三十五里。○尾路より兵庫関に至るまで七十里。《並に水路》○兵庫より王城に至るまで十八里。《陸路》○都計、水路三百二十三里。陸路十八里なり。《我が国の里数を以て計らば則ち水路三千二百三十里、陸路百八十里なり。》」(120頁)※《》内は二行細注

 このように、倭人伝の行程記事と類似した書き方で里程を綴り、最後に水路と陸路の合計里数を「都計(すべて)」として記していることから、倭人伝の「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」という記事を「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と理解した上で、『海東諸国紀』の読者が誤解しようのないように、「計」という字も加えて、「都計」という明確な表記にしたのではないでしょうか。
 この『海東諸国紀』の「都計、水路三百二十三里。陸路十八里なり。」を知り、わたしは国も時代も異なる知己を得たような気がしたものです。なお、同書の「琉球国記(ママ)」の里程記事も同様の表記「都計、五百四十三里なり。」を採用しています。(つづく)


第2151話 2020/05/12

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(2)

 倭人伝に見える「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」の記事を「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓む私案ですが、わたしのこの訓みと同じようにとらえた先人がいます。李氏朝鮮の最高の知識人とも評される『海東諸国紀』(1471年成立)の著者、申淑舟(1417-1475)です。
 『海東諸国紀』は「九州年号」史料としても著名で、近畿天皇家の天皇の記録が九州年号(善化~大長。※「善化」は「善記」の誤伝)と共に記されています。従って、申淑舟は九州年号が九州王朝の年号であることや九州王朝の存在そのものを認識していなかったことがわかります。他方、同書は李王朝の公的な史料として編纂されていますから、当時の李王朝による日本国や琉球国に関する情報や認識を推し量る上で貴重な史料でもあります。
 あるとき、わたしが九州年号の調査研究のため『海東諸国紀』(岩波文庫、田中健夫訳注、1991年)を読んでいたところ、朝鮮国慶尚道から日本国の京都までの行程が記された「道路里数」の記事を見て、その文章が『三国志』倭人伝を模倣していることに気づいたのです。(つづく)