「 国分寺 」一覧

第1031話 2015/08/22

多元的「国分寺」研究のすすめ(1)

 このところ、「洛中洛外日記」やメールで進めている多元的「国分寺」研究ですが、学問の方法ともかかわって多方面への進展波及が進んでいます。古田学派における学問研究の方法、進め方についても意見を交わしており、ネット社会ならではの学問環境と言えそうです。
 このテーマに関して会員の皆さんからメールをいただいており、たいへんありがたく思っています。「お詫びメール」もときおりいただくのですが、学問研究途上の「過誤」は発生するのが当たり前で、特に誰もやっていない最先端研究は理系文系を問わず、失敗や誤りがあるのが当たり前で、そのことで学問研究が発展するのです。「答え」が無い最先端研究で苦しんだ経験をお持ちの方ならご理解いただけるはずです。
 わたしも企業の製品開発で納期に追われ成果を要求される「地獄の苦しみ」を何年も味わい、体調がおかしくなるほどでした。しかも企業機密のため、誰にも相談できないし、誰もやっていない開発ですから、社内に相談する相手もいないという孤独な毎日でした。ですから「STAP報道事件」で、そのような最先端研究の苦しみなど味わったこともないマスコミや評論家が小保方さんや笹井さんを犯罪者であるかのごとくバッシング(集団リンチ)を続けるのを見て、心から憤ったものです。
 昨日も、肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)から「お詫び」メールをいただきました。「法隆寺」の方位がネット検索により「7度西偏」と紹介したが、自ら文献などで調査したところ、3〜4度であったとのことでした。しかも、肥沼さんは法隆寺に直接電話して確認され、わたしに報告されたのでした。こうした「聞き取り調査」は現地調査に準ずるもので、立派な研究姿勢です。
 わたしからは、ネット検索は概略をおさえる程度のもので、学問的には実地調査や学術論文に依らなければならないと返信しました。いわばネット検索は「広く周囲の意見を聞く」という作業であり、それらの意見が妥当かどうか、仮説として検証するに値するかどうかは、別の問題です。ですから、不十分な「情報」や誤った「情報」があることも当然です。専門家の学術論文でも誤りがあることも少なくありませんから、このリスクは避けられません。しかしそれでも「広く周囲の意見を聞く」(今回は「ネット検索」)という作業は学問研究にとって大切な作業であり、それにより早く真実に近づくことも可能となり、自らの誤りにも気づきやすいという学問上のメリットがあります。「例会」活動にもこうした目的や利点があります。
 次に研究・考察過程を「洛中洛外日記」のようなブログでリアルタイムに発信する目的やメリットについて説明します。(つづく)


第1030話 2015/08/20

「磁北」7度西偏説の痕跡

 「洛中洛外日記」1029話(2015/08/19)『「磁北」方位説の学問的意義』で述べましたように、「武蔵国分寺」の主要伽藍の主軸が真北から西に7度ふれている理由を「磁北」とした場合、次の検証課題がありました。

1.真北と磁北のふれは、地域や時代によって変化するので、「武蔵国分寺」建立の時代の「磁北」のふれが「7度西偏」であったことをどのように証明できるのか。
2.「磁北」を測定する方位磁石(コンパス)の日本列島への伝来時期と使用時期が古代まで遡ることを、どのように証明できるのか。

 この二つの課題について、とりあえず1については次の方法で証明可能、あるいは有力仮説にできると考えました。すなわち、8世紀に建立された寺院や遺構に同様の傾向が見られれば、それら全てを偶然の一致とすることは困難となり、意図的に「7度西偏」させたとする仮説が有力となります。その結果、それを当時の「磁北」の影響と見なす説は妥当性を増します。もちろん「7度西偏」の他の有力な根拠があれば、どちらがより妥当かという相対的論証力を比較する作業へと移ります。しかし、他に有力な根拠がなければ、「磁北」とする仮説が最有力説となるわけです。
 このような考え方から、全国の7〜8世紀の遺構の方位を調査しなければならないと思っていたやさきに、肥沼さんから、またまた驚くべき情報が寄せられたのです。詳細は肥沼さんのブログ「肥さんの夢ブログ」を見ていただきたいのですが、インターネット検索で古代建造物の方位を調査された結果、「7度西偏」の主軸方位を持つものが少なからず見いだされたとのことなのです。次の通りです。(順不同)

【「7度西偏」の寺社など】
○常陸国の国分寺・国分寺跡
○気比神宮
○太子山から斑鳩寺への道。
○斑鳩寺(揖保郡太子町)堂塔伽藍すべて。
○稗田神社(揖保郡太子町)
○中臣印達神社(たつの市揖保町中臣・粒丘)
○石上神宮(奈良県天理市布留)
○広峯神社(姫路)
○増位山随願寺(姫路)
○麻生八幡宮(姫路)
○松原八幡宮(姫路市白浜)
○法隆寺(奈良・生駒郡・斑鳩町)
○龍田神社(奈良・斑鳩町)
○島庄春日神社?あすか夢耕社(奈良・明日香村岡寺北)
○広隆寺(京都市右京区太秦)
○百済王神社・百済寺跡(枚方市中宮?)

 以上のようです。ネット検索によるものですから、学問的には現地調査・発掘調査報告書などでの確認が必要ですが、これだけそろうと全て偶然とするのは不可能と言わざるを得ません。また、造営年代も異なっており、どの時代に「7度西偏」を採用されたのかも検討が必要であることは言うまでもありません。
 この中で、わたしが特に注目したのが「法隆寺」です。全焼した「若草伽藍」は南北軸から20度ほどふれており、およそ真北を意識した寺院とは考えられませんが、現存する法隆寺は8世紀初頭の和銅年間頃の「移築」と考えられますから、近畿天皇家が九州王朝の寺院を移築する際、北を意識して移築したものの、「武蔵国分寺」と同様に西へ7度ふっていることがわかります。すなわち、8世紀において近畿天皇家は中枢寺院(法隆寺)の移築において、「7度西偏」方位を国家意志として採用し、同様に8世紀後半に造営された「武蔵国分寺」もその国家意志に従ったと考えられるのです。
 他方、前期難波宮(九州王朝副都)や藤原京、平安京は真北方向を採用し、「7度西偏」ではありません。これらも国家意志に基づく都や宮殿の造営ですから、この設計思想の違いは何によってもたらされたのでしょうか。不思議です。(つづく)


第1029話 2015/08/19

「磁北」方位説の学問的意義

 「洛中洛外日記」1027話(2015/08/16)で、武蔵国分寺の方位のぶれ(西へ7度)は「磁北」ではないかとするYさんのご指摘を紹介しました。その後、そのYさんから、「磁北」の角度のずれは場所や時代で変化するため、現在の「磁北」である「西へ7度のずれ」をもって、古代の武蔵国分寺の方位のずれの根拠とすることは不適切であったとのお詫びのメールをいただきました。同様のご指摘を関西在住の会員Sさんからもいただきました。いずれも真摯で丁寧なメールでした。
 いずれのご指摘も真っ当なもので、わたしにとっても認識を前進させるありがたいメールでしたが、学問の方法についても関わる重要な問題を含んでいることから、この「磁北・7度西偏」説ともいうべき仮説の学問的意義や位置づけについて説明したいと思います。
 本テーマのきっかけとなった所沢市の肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)の「武蔵国分寺」の方位が東山道武蔵路や塔の方位とずれているという考古学的事実から、なぜ同一寺院内で塔と金堂等の方位がふれているのか、なぜ7度西にふれているのか、という課題が提起されました。
 そして、多元史観・九州王朝説により説明できる部分と説明が困難な部分があり、中でもなぜ7度西にふれているのかの解明がわたしの中心課題となりました。それは「洛中洛外日記」1021話『「武蔵国分寺」の設計思想』に記した通りです。そして「南北軸から意図的に西にふった主要伽藍の主軸の延長線上に何が見えるのか、9月5日の現地調査で確かめたい」と、現地調査によりその理由を確かめたいと述べました。
 このとき、わたしは西に7度ふれた主要伽藍の主軸の延長線上に信仰の対象となるような、あるいは当地を代表するような「山」やランドマークがあるのではないかと考えていました。そんなときに、関東の会員のYさんから、「7度西偏」は現代の東京の「磁北」のふれと同一とのご指摘をメールでいただき、驚いたのでした。武蔵国分寺主要伽藍のふれが「磁北」で説明できるのではないかとのYさんのご指摘(仮説)に魅力を感じたのです。
 その後、この仮説の当否を検証する学問的方法について次のような問題を検討しました。

1.真北と磁北のふれは、地域や時代によって変化するので、「武蔵国分寺」建立の時代の「磁北」のふれが「7度西偏」であったことをどのように証明できるのか。
2.「磁北」を測定する方位磁石(コンパス)の日本列島への伝来時期と使用時期が古代まで遡ることを、どのように証明できるのか。

 この二点について検討を始め、それは今も継続しています。こうした未検証課題があったため、「もちろん、まだ結論は出せませんが、どのような歴史の真実に遭遇できるのか、ますます楽しみな研究テーマとなってきました。」と「洛中洛外日記」1027話末尾に記したわけです。
 このように、学問研究にとって「仮説」の提起はその進化発展のために重要な意味を持ち、たとえその「仮説」が不十分で不備があり、結果として誤りであったとしても、学問研究にとってはそうした「仮説」の発表は意義を持ちます。
 近年、勃発した「STAP報道」事件(「STAP細胞」事件ではなく、「報道」のあり方が「事件」なのです)のように、匿名によるバッシング、あるいは「権威」やマスコミ権力がよってたかって研究者(弱者)を集団でバッシング(リンチ)するという、とんでもない「バッシング社会」に日本はなってしまいました。これは学問研究にとって大きなマイナスであり、こうした風潮にわたしは反対してきました。(「洛中洛外日記」699話「特許出願と学術論文投稿」700話「学術論文の『画像』切り張りと修正」760話「研究者、受難の時代」をご参照ください。)
 したがって、YさんやSさんの懸念はよく理解できますし、もっともなご指摘でありがたいことですが、それでも「磁北・7度西偏」説の発表は学問的に意義があり、検証すべき仮説と、わたしは考えています。もし、「どこかの誰かが、たまたま7度西にふれた方位で武蔵国分寺を建立したのだろう」で済ませる論者があるとすれば、それこそ学問的ではなく、「思考停止」と言わざるを得ません。それは「学問の敗北」に他なりません。(つづく)


第1027話 2015/08/16

武蔵国分寺の方位は「磁北」か

 「洛中洛外日記」1021話(2015/08/12)で、「武蔵国分寺」の設計思想として、「七重の塔が、傍らを走る東山道武蔵路と平行して南北方位で造営されているにもかかわらず、その後、8世紀末頃に造営されたとする金堂などの主要伽藍が主軸を西に7度ふって造営された理由が不明。」と記したのですが、それを読まれた関東にお住まいのYさん(古田史学の会・会員)から、大変重要なご指摘のメールをいただきました。
 それは、「武蔵国分寺」の金堂などの主要伽藍の方位は「磁北」とのことなのです。Yさんのご指摘によれば、東京の磁北は真北方向より西へ7度ふれているとのことで、「武蔵国分寺」主要伽藍の方位のずれと一致しているのです。これは偶然の一致とは考えにくく、「七重の塔」や東山道武蔵路は真北に主軸を持つ設計ですが、「武蔵国分寺」主要伽藍造営者はそれらとは異なり、「磁北」を主軸として設計したのです。従って、設計の基礎となる基本方位の取り方が、たまたま7度ふれていたのではなく、磁北採用という設計思想が計画的意識的に採用された結果と考えられます。
 古代寺院や宮殿の主軸は天体観測による真北方位(北極星を基点としたと思われます)が採用されているのが「当然」だと今まで考えてきたのですが、Yさんのご指摘を得たことから、「磁北」を採用したものが他にもあるのか、もしあればそれは九州王朝から近畿天皇家への権力交代に基づくものか、あるいは地域的特性なのかなどの諸点を再調査したいと思います。
 読者や会員の皆様のご教導により、多元的「国分寺」建立説の研究も着実に前進しています。もちろん、まだ結論は出せませんが、どのような歴史の真実に遭遇できるのか、ますます楽しみな研究テーマとなってきました。(つづく)


第1026話 2015/08/15

摂津の「国分寺」二説

 「洛中洛外日記」1024話では、大和に二つある「国分寺」を「国分寺」多元説で考察しましたが、同類のケースが摂津国にもあるようです。摂津には九州王朝の副都前期難波宮があることから、九州王朝副都における「国分寺」とは、どのようなものかが気になっていました。そこでインターネットなどで初歩的調査をしたところ、摂津には次の二つの「国分寺」がありました。
 有力説としては、大阪市天王寺区国分町に「国分寺」があったとされています。当地からは奈良時代の古瓦が出土していることと、その地名が根拠とされているようです。しかし、国分寺の近隣にあるべき「摂津国分尼寺」(大阪市東淀川区柴島町「法華寺」が比定地)とは約9km離れており、この点に関しては不自然です。
 もう一つは「長柄国分寺」とも称されている大阪市北区国分寺の「国分寺」です。寺伝では、斉明5年(659年)に道昭が孝徳天皇の長柄豊碕宮旧址に「長柄寺」を建立し、後に聖武天皇により「国分寺」に認められたとあります。ちなみに、この「長柄国分寺」は国分尼寺とは約2.5kmの距離にあり、位置的には天王寺区の「国分寺跡」より穏当です。
 この摂津の二つの「国分寺」も九州王朝説による多元的「国分寺」建立に遠因すると考えてもよいかもしれません。もしそうであれば、上町台地上に「倭京2年(619年)」に「聖徳」により建立された「難波天王寺」(『二中歴』による)に、より近い位置にある天王寺区の「国分寺跡」が九州王朝系「国分寺」であり、北区の「長柄国分寺」は寺伝通り近畿天皇家の「国分寺」と考えることもできます。
 この二つの「摂津国分寺」問題も両寺の考古学編年などを精査のうえ、九州王朝説に基づきその当否を判断する必要があります。(つづく)


第1025話 2015/08/15

九州王朝の「筑紫国分寺」は何処

 「洛中洛外日記」1014話(2015/08/03)において、九州王朝説への「一撃」という表現で、多利思北孤の時代(7世紀初頭)の北部九州に王朝を代表するような寺院遺跡群が見られず、その数でも近畿に及ばないことを指摘しました。この問題は九州王朝説にとって深刻な課題です。
 この課題は「国分寺」多元説に対しても同様の「一撃」となっています。告貴元年(594年)に「聖徳太子」(多利思北孤か)が諸国に国分寺建立を詔したとすれば、この時期は太宰府遷都(倭京元年、618年)以前ですから、九州王朝は筑後遷宮時代となるのですが、筑後地方に「聖徳太子」創建伝承を持ち、九州王朝を代表するような大型寺院の痕跡を、わたしは知りません。
 現在知られている「筑後国分寺跡」は久留米市にありますが、それは聖武天皇の時代(8世紀中頃)の「国分寺」とされており、九州王朝による「国分寺跡」ではないように思われます。この問題について、九州王朝説論者としてどのように解決するかが、問われています。(つづく)


第1024話 2015/08/14

大和の「国分寺」二説

 「洛中洛外日記」1023話で、「聖武天皇による代表的な国分寺である奈良の東大寺」と記したところ、早速、水野さん(古田史学の会・顧問)や小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)からメールをいただきました。中でも小林さんからの次の情報は衝撃的でした。

 「大和国は、橿原市八木にある国分寺がその法灯を伝えていると言うのですが?(昨年12月のハイキングで訪れた)」

 というのも、九州王朝が告貴元年(594年)に「聖徳太子」(多利思北孤か)により「国府(分)寺」建立の詔を発したとしたら、当然のこととして66ヶ国の一つである大和国にも、聖武天皇による東大寺とは別に九州王朝系「国分寺」がなければならないと考えていたからです。そうした疑問を抱いていたときに、なんとタイムリーな小林さんからのメールを見て、衝撃が走ったのです。
 しかも場所が奈良市ではなく橿原市というのも驚きでした。告貴元年頃であれば、近畿天皇家の宮殿(大和国府)は飛鳥にあったはずですから、その「国分寺」も飛鳥にあったのではないかと、論理的考察の結果として考えていたからです。ですから九州王朝系「大和国分寺」が橿原市の国分寺であっても、まったく不思議ではありません。すなわち、「国分寺」建立多元説は大和国にも適用されなければならないからです。
 こうなると、「武蔵国分寺」とともに橿原市の「大和国分寺」の現地調査にも行かなければなりません。特に遺構や出土瓦の編年を調査する必要があります。どなたかご一緒していただけないでしょうか。(つづく)


第1023話 2015/08/14

「国分寺式」伽藍配置の塔

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)からのメールがきっかけとなって勉強を開始した「武蔵国分寺」の多元的建立説ですが、おかげさまでわたしの認識も一歩ずつ深まってきました。お盆休みを利用して、古代寺院建築様式について勉強しているのですが、特に「国分寺式」と呼ばれる伽藍配置について調査しています。
 国分寺は大和朝廷によるものと捉えていたこともあり、この「国分寺式」という伽藍配置のことは知ってはいたのですが、あまり関心もないままでした。今回、あらためて確認したのですが、回廊内に金堂と共に塔を持つ一般的な古代寺院様式とは異なり、「国分寺式」とされる伽藍配置は回廊で繋がっている金堂と中門の東南に塔が位置しています。各地の国分寺がこの伽藍配置を採用していますが、回廊内に塔がある国分寺もあり、全ての国分寺が同一様式ではありません。
 こうした「国分寺式」という視点から「武蔵国分寺」を見たとき、金堂や講堂などの主要伽藍の「東南」方向に「塔」があるという点については、「国分寺式」のようではありますが、「武蔵国分寺」の場合は塔が離れており、方位も異なっていることは何度も指摘してきたとおりです。ですから、位置も離れ方位も異なった主要伽藍と塔をいびつな外郭で囲み、かなり無理して「国分寺式」もどきの寺域を「形成」しているとも言えそうです。
 ちなみに、聖武天皇による代表的な国分寺である奈良の東大寺は、金堂・中門の南側の東と西に塔を有すという伽藍配置で、諸国の国分寺よりは「格が上」という設計思想が明確です。中でも大仏の大きさは、国家意志の象徴的な現れです。(つづく)


第1022話 2015/08/13

告貴元年の「国分寺」建立詔

 「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)において、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」の次の「国分寺(国府寺)建立」記事を紹介しました。

 「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)

 そして、『日本書紀』の同年に当たる推古2年条の次の記事が九州王朝による「国府(分)寺」建立詔の反映ではないかと指摘しました。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 以上の考察は後代史料に基づいたものですが、今回、検討を続けている「武蔵国分寺」についていえば、「七重の塔」の造営を7世紀後半と考えると、告貴元年(594)より半世紀以上遅れてしまいます。そうすると、九州王朝による「武蔵国分寺」建立とする仮説は、文献(史料事実)と遺跡(考古学的事実)とが「不一致」となり、ことはそれほど単純ではなかったのかもしれません。
 もちろん、全国の「国分寺」が一斉に同時期に造営されたとも思えませんから、武蔵国は遅れたという理解もできないことはありません。しかし、そうであっても半世紀以上遅れるというのは、ちょっと無理がありそうです。「武蔵国分寺」の多元的建立説そのものは穏当なものと思われますが、あまり単純に早急に「結論」を急がない方がよさそうです。(つづく)


第1021話 2015/08/12

「武蔵国分寺」の設計思想

 「武蔵国分寺」の異常な伽藍配置は九州王朝による「国分寺」建立多元説によっても説明や理解が難しい問題が残されています。たとえば次のような点です。

1.最初に「七重の塔」が、傍らを走る東山道武蔵路と平行して南北方位で造営されているにもかかわらず、その後、8世紀末頃に造営されたとする金堂などの主要伽藍が主軸を西に7度ふって造営された理由が不明。
2,金堂や講堂などの主要伽藍は回廊内に造営されているが、なぜそのときに回廊内に「塔」も新たに造営されなかったのか不明。
3.既にあった「七重の塔」が立派だったので、回廊内には「塔」を造営しなかったとするのであれば、なぜその立派な「七重の塔」の側に主要伽藍を造営し、共に回廊で囲まなかったのか、その理由が不明。
4.もし「七重の塔」とは無関係に別の国分寺を造営したとするのであれば、南門を含む外郭が主要伽藍から離れた位置にある「七重の塔」の地域をもいびつな四角形(厳密に観察すると四角形ともいえないようです)で囲んだのか不明。

 以上のような疑問だらけの「武蔵国分寺」なのですが、その状況から推測すると、次のような「設計思想」がうかがいしれます。

(A)金堂など主要伽藍造営者は「七重の塔」や東山道武蔵路のような南北方向に主軸を持つ築造物と同一の主軸方位とすることを「拒否」した。「受け入れることはしない」という主張(思想)を自他共に明確にしたかったと考えられる。
(B)それでいながら、回廊内に「塔」は「新築」せず、既に存在していた「七重の塔」を存続、代用した。すなわち、「七重の塔」の「権威」を完全には否定(破壊・移築)できなかった。
(C)その後、「七重の塔」の「権威」を取り込むかのように外郭を定め、その外郭に「南門」を造営した。すなわち、「七重の塔」の「権威」をいびつな外郭で取り込んだ。

 以上、いずれも論理的推測に過ぎませんが、南北軸から意図的に西にふった主要伽藍の主軸の延長線上に何が見えるのか、9月5日の現地調査で確かめたいと思います。なお、現地調査には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)も同行していただけることになりました。楽しみです。(つづく)