「 二中歴 」一覧

第937話 2015/04/28

「年代歴」編纂過程の考察(3)

 「年代歴」の九州年号群は「年号一覧」ともいうべき史料性格ですから、その元史料は「九州年号群」史料である、いわゆる「年代記」あるいは「年表」であり、それらに記された九州年号を抜粋して「年代歴」は作成されたものと思われます。それら以外に代々の九州年号が記された史料の存在をわたしは知りませんし、想定もできないからです。
 そうした九州年号が記された「年表」はおよそ次のようなことが記されていたはずです。「九州年号」「年次」「干支」「その年に起きた事件」といった構成です。具体例をあげれば次のようなかたちです。

法清元年甲戌「記事」二年乙亥「記事」三年丙子「記事」四年丁丑「記事」兄弟元年戊寅「記事」蔵和元年己卯「記事」二年庚辰「記事」三年辛巳「記事」四年壬午「記事」五年癸未「記事」〜

 このような年代記(年表)から「年代歴」に必要な「年号」「継続年」「元年干支」を抜き取る作業となるわけですから、編者は次の手順で「年代歴」を作成するはずです。

(1)年号を抜粋する。
(2)その年号の最末尾の「年数」を抜粋する。
(3)元年干支を抜粋する。
(4)その年間の代表的記事を抜粋する。なければ書かない。

以上の作業を、上記の例で行うと次のような内容となります。

「法清・四年・甲戌 (記事)」
「兄弟・元年・戊寅 (記事)」
「蔵和・五年・己卯 (記事)」

 このように、記された文字をそのまま抜粋すると、元年しかない「兄弟」は「元年」とそのまま書き写す可能性が発生するのです。その結果、書写が繰り返された『二中歴』「年代歴」のどこかの書写段階で、「元」が「六」に誤写されたと、わたしは現存する『二中歴』「年代歴」の「兄弟六年」とある史料事実から判断するに至ったのです。今のところ、この編纂過程以外に、この誤写が発生する状況をわたしには想定できません。もし、もっと合理的な誤写過程があれば賛成するにやぶさかではありませんが、いかがでしょうか。
 また、「年代歴」の九州年号の下に細注があり、その年間の事件が記されているという史料事実も、これら九州年号の元史料が年代記(年表)の類であったとする、わたしの推定を支持します。
 以上、3回にわたり、『二中歴』「年代歴」の編纂過程について考察してきました。史料批判とはこうした考察の集大成であり、その結果、当該史料がどの程度信頼してよいのかが推定できます。こうした作業、すなわち史料批判は文献史学における学問の方法の基本ですから、私自身の勉強も兼ねて、これからも機会があれば繰り返しご紹介したいと思います。

(補記)「師安一年」というように1年しかない年号の場合は「元年」ではなく、「一年」と記すのが『二中歴』「年代歴」の九州年号部分の「表記ルール」と紹介しましたが、「年代歴」の近畿天皇家の年号部分には、1年しかない年号「正長」が「正長元」 (1428年)と表記されています(正確には翌二年の九月に永享と改元。従って年表上では元年のみの表記となります)。『二中歴』そのものが複数の編者により書写・追記されていますから、上記のような「表記ルール」が全てに厳密に採用されているわけではありません。この点、『二中歴』の全体像をご存知ない方も多いと思いますので、補足しておきます。


第936話 2015/04/27

「年代歴」編纂過程の考察(2)

 林さんのご指摘のように、『二中歴』「年代歴」の「兄弟六年 戊寅」は「師安一年」のように「一年」とあるのが、九州年号部分の表記ルールという ことについては、わたしも賛成です。しかし、史料事実が物語っているように、「年代歴」成立過程で「兄弟元年」という表記が存在したことを想定せざるを得ないことは、935話で説明した通りです。そうすると、なぜ表記ルールとは異なった「兄弟元年」という表記が出現したのかが、次の問題となります。今回は この点について説明したいと思います。
 実は『二中歴』の九州年号部分は、他の九州年号史料と比べ、かなり異質な史料状況なのです。通常、寺社縁起などのように、ある特定時点の事件を説明するために個別の九州年号が現れるのが一般的な九州年号史料の状況です。これに対して、九州年号が多数記された史料は「九州年号群」史料と呼ばれ、一般的な九州年号史料と区別しています。それら「九州年号群」史料としては、いわゆる「年代歴」と呼ばれるタイプのものが多数あります。すなわち、九州年号を使って代々の歴史を記録されたものです。「年表」と称してもよいかもしれません。
 この「年表」にもいくつかのタイプがあるのですが、九州年号で年代を特定しながら、歴史事実を長文の記事として記録するタイプと、縦横のグリットの中に干支や年号を書き込み、 そのグリットの余白部分にメモ程度の単文記事を書き込むタイプが見られます。昨年、熊本県和水町で発見された「納音付き九州年号」史料は後者のグリットタイプの「九州年号群」史料です。
 ところが『二中歴』「年代歴」はこれら「九州年号群」史料とは全く異なり、「年表」としての歴史事実の記録機能を本来の目的とはしていないのです。それは『二中歴』の史料性格が歴史事典のようなものであり、その中の「年代歴」はどのような年号がいつ頃存在したのか記した「年号一覧」という史料性格を有しており、年号の知識を必要とする当時のインテリ向けに作成された「年号辞典」だからです。
 したがって、 「大寶」以降の近畿天皇家の年号部分は「年号・年数・元年干支」が中心で、それに天皇名等が付記されているといった様相を示しています。それに比べて、冒頭の九州年号部分にはその年号の時代に起こった記事が細注として付記されており、一見すると「年代歴」風の様式も兼ねています。実は、このことが「兄弟六年」という誤写の原因となっていると考えられるのです。(つづく)


第935話 2015/04/26

「年代歴」編纂過程の考察(1)

 先日、瀬戸市の林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)からお電話をいただき、「洛中洛外日記」924話「『二中歴』九州年号校訂跡の証言」についてご質問をいただきました。
わたしが、『二中歴』「年代歴」にある「兄弟六年 戊寅」の「六」は誤りであり、正しくは「兄弟元年」とあるべきところを、「元年」の「元」の字を「六」 と読み間違えた書写者がいたとしました。このことに対して林さんからのご指摘は、「年代歴」には「師安一年」(564年)という表記があるように、年号が1年しか続かない場合は「一年」とあるべきで、「元年」とは記さないということでした。ちなみに、林さんは「兄弟六年」のままで正しいというご意見のようでした。
 確かに「年代歴」の九州年号部分の表記としては、一年限りの九州年号は「師安一年」の例と、「兄弟六年」の傍注の「一イ」のみがあるだけですから、林さんのご指摘はもっともなものです。そこで、わたしは次のような論理展開であることを説明しました。

(1)九州年号の「兄弟」は他の史料でも元年だけの1年で終わり、翌年は「蔵和」と改元されている。
(2)「年代歴」の傍注にも「一イ」と校訂がなされていることも、この史料状況に対応している。また、翌年に「蔵和」と改元されている。
(3)従って、「兄弟六年」とあるのは、傍注通り「兄弟一年」とあるべきだった。
(4)それでは何故「六」と誤ったのかを考えたとき、本来、元史料に「一」と書かれていた字を「六」に読み間違えることは考えにくい。
(5)その点、「元年」とあったのなら、「元」と字形が似ている「六」に読み間違える可能性がある。
(6)従って、本来「兄弟元年」と表記されたものがあり、数次に及ぶ「年代歴」書写のどこかの段階で「兄弟六年」と誤写されたと考えれば、このケースの説明が可能である。
(7)このような誤写発生過程以外に「一」を「六」に誤写するケースは考えにくい。

 以上のようにわたしは判断し、先の「洛中洛外日記」を書いたのでした。そして、この誤写発生過程の可能性以外に「六」と誤写するケースを、わたしには考えられないと林さんに説明したのです。(つづく)


第934話 2015/04/25

『二中歴』九州年号細注の史料批判(2)

「洛中洛外日記」932話に続いての『二中歴』「年代歴」に見える九州年号細注の考察です。
『古事記』や『日本書紀』とは異なって、 『二中歴』は「尊経閣文庫本」と称される古写本とその系列の新写本しか現存しないため、異なる系統の写本による比較や校訂ができません。また、「尊経閣文 庫本」自体も数次の書写や追記が繰り返された末に成立していることが、その内容から明らかです。ですから、それら書写や追記時点における書写者や追記者による原文改訂や誤写の可能性を排除できないという史料性格を帯びています。
このことは「年代歴」の九州年号細注についても同様であり、留意が必要です。たとえば、各九州年号の元年干支表記部分だけでも、次のような史料状況を示しています。
「年代歴」冒頭の第1ベージから九州年号は記されていますが、その1ページ目には「継躰」「善記」「正和」「教倒」「僧聴」「明要」「貴楽」「法清」の8年号が並んでいます。2ページ目には「兄弟」以降の年号が続き、3ページ目の「大化」で九州年号部分は終わります。4ページ目からは近畿天皇家の「大寶」 が始まります。このうち1ページ目にある8年号については元年干支表記が「元○○」という表記になっています。具体的には「継躰五年 元丁酉」のように、 「継躰は五年間続くが、その元年干支は丁酉」とわかるような表記となっています。ところが2ページ目からは「元」の字がなくなり干支だけとなります。「兄 弟六年 戊寅」というようになっており、そのため「兄弟六年の干支が戊寅」と間違って受け取られるような表記に変わっているのです。実際にそのように勘違いして論文を書かれた古田学派の研究者もおられました。すなわち「元」の字がないので、年号と年数の下に付記された干支が元年のことかどうか、一見すると わかりにくい表記に省略されています。
このような表記様式の変化が発生した理由は何でしょうか。次の二つのケースが考えられるのではないでしょうか。

(1)編纂時使用した元史料に表記が異なるものがあり、その表記を統一せず、そのまま採用した。
(2)編纂者あるいは書写者が2ページ以降は「元」の字を省略してしまった。

この二つのケースの可能性が考えられますが、どちらのケースだったのかは、今のところよくわかりません。引き続き検討したいと思います。
このように「年代歴」九州年号部分だけでも、表記方法などが統一されておらず、論証の根拠にこれらの記事を利用する場合は、よくよく注意しなければなりま せん。史料批判という基礎的な学問作業はこうした考察の集大成とも言うべきものなのです。史料批判を抜きにして、その史料を研究や論証の根拠に無条件に使うことがいかに危険かということを強調しておきたいと思います。


第932話 2015/04/24

『二中歴』九州年号細注の史料批判

 今回は『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号に付記された細注について、その史料性格を考察してみます。
 既に何度も指摘しましたように、同九州年号の下に付記された細注記事は九州王朝系史料に基づいていると考えられ、九州王朝史研究にとって貴重なものです。しかしながら、それら細注は後世に改訂された痕跡を残しており、いわゆる同時代史料の忠実な書写ではなく、その二次史料的性格を有しています。従って、九州王朝系史料に基づいてはいるものの、取り扱いには慎重な史料批判や手続きが必要です。
 たとえば、細注が「年代歴」に記録された時期は、その当該細注が付記された各九州年号の時代ではありません。そのことが端的に現れているのが細注記事に散見する「唐」という国名表記です。例をあげれば「法清」「端政」「定居」「仁王」「僧要」に付記された次の細注です。

「法清四年 元甲戌 法文ゝ唐渡僧善知傳」
「端政五年 己酉 自唐法華経渡」
「定居七年 辛未 法文五十具従唐渡」
「仁王十二年 癸巳 自唐仁王経渡仁王会始」
「僧要五年 乙未 自唐一切経三千余巻渡」

 いずれの記事も「唐」より「法文」「法華経」「仁王経」「一切経」が渡ってきたという内容ですが、唐王朝が成立したのは618年で、九州年号の「倭京」元年に相当します。従って、それ以前の九州年号「法清(554〜557)」「端政(589〜593)」「定居(611〜617)」の時には中国の王朝はまだ 「唐」ではありません。ですから、これら細注記事は「唐」の時代になってから付記され、その際に当時の中国王朝名の「唐」という表記にされたと考えられます。おそらく原史料にはその当時の中国王朝名が記されていたと思われますが、「年代歴」編纂時(正確には「年代歴」中の九州年号史料部分の成立時)に「唐」と統一した表記にしたのです。
 このような編纂時の国名で過去の記事も統一して表記することは普通に行われ、それほど不可解な現象ではありません。現代でも「中国の孔子」とか言ったり書いたりするように、孔子が生きた時代の国名で表記するとは限らないのです。
 このようなことから、「年代歴」九州年号の細注には、細注付記当時の認識で書き換えられたりする可能性がありますから、論証などの史料根拠に使用する場合は注意が必要です。史料性格を十分に確認し、その史料の有効性(どの程度真実か)と限界を見極める作業、すなわち史料批判が文献史学では大切になるのです。残念ながら、古田学派の論考にも、わたしも含めて史料批判が不十分であったり、問題があったりするケースが少なくありません。お互いに切磋琢磨し研鑽していきたいと願っています。


第931話 2015/04/23

『二中歴』「年代歴」の武烈即位記事

 今朝の京都は快晴です。比叡山や大文字山は春霞でうっすらとしており、鴨川端のしだれ桜並木はすっかり葉桜に衣替えです。満開の桜や紅葉の京都、雪化粧の京都も美しいのですが、このような季節の変わり目の京都も風情があり、わたしは好きです。

 昨日に続き、『二中歴』がテーマです。『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号が最も原型に近いと判断されている理由の一つに、その九州年号が近畿天皇家の年号や記事とは別に記されており、各九州年号の下に付記された細注が九州王朝系記事と理解できることがあります。そして成立年代が他の九州年号群史料よりも古い(鎌倉初期)ことなどです。
 ところが、その細注に一見して近畿天皇家の天皇名と思われる記事があり、以前から不審に思っていました。次の記事です。

「善記四年 元壬寅同三年放誰(※)成始文 善記以前武烈即位」
 ※「放誰」の二字には草冠があります。

 この意味するところは、「九州年号の善記は4年間続き、元年干支は壬寅(522年)。善記3年に放誰が始めて文を成す。 善記以前に武烈が即位。」というものですが、「放誰が始めて文を成す」の意味はまだわかりません。注目されるのが「善記以前に武烈が即位」という記事です。普通に考えれば、近畿天皇家の武烈天皇が善記年間以前に即位したということですが、武烈の在位年は『日本書紀』によれば、499〜506年ですから、正確に表現すれば「善記以前」というよりも「継躰(九州年号、517〜521年)以前」とされるべきでしょう。しかも、なぜ武烈天皇の即位年に関する記事が細注に記されたのか、その理由もよくわかりません。そもそも、「年代歴」細注は近畿天皇家ではなく九州王朝系記事が記されていると考えられますから、ここだけ「武烈」という『日本書紀』成立以後に付けられた漢風諡号がなぜ存在するのかという合理的説明も困難です。
 わたしが十数年前に関西例会で発表したことですが、この「武烈即位」というのは近畿天皇家の武烈天皇ではなく、九州王朝にいた「武烈」という倭王の名前ではないかと考えています。『宋書』倭国伝などで明らかなように、この時期の九州王朝の倭王は中国風一字名称も名乗っていますから、この「武烈」という二字名称は不自然です。従って、この「武烈」というのは、倭王武と倭王烈の二人のことではないでしょうか。倭王武は『宋書』に「倭の五王」の最後の一人として見えますから、その次代の倭王が一字名称として烈を名乗っていたというアイデア(思いつき)です。
 この作業仮説(思いつき)は他に傍証がなく、「年代歴」細注は九州王朝系の記事という一点の論理性を突き詰めた結果ですので、仮説として提起することさえ怖いくらいです。今のところ、「古賀の思いつき」程度に受け止めておいて下さい。

 今朝は京阪電車で出町柳駅から大阪の淀屋橋駅に向かっています。もうすぐ到着です。大阪も好天で、出張日和の一日となりそうです。


第930話 2015/04/22

『二中歴』「人代歴」の建元記事

 九州年号群史料として最も優れている『二中歴』(鎌倉時代初頭の成立)には、九州年号が記されている「年代歴」が第二冊に収録されています。『二中歴』の最初である第一冊冒頭には「神代歴」があり、以下「人代歴」と続きます。今回、ご紹介するのは「人代歴」にある「建元記事」についてです。
 ご存知のように、年号のことを記した「年代歴」では「継躰」から始まる九州年号が「大化」まで記され、その後、近畿天皇家の「大宝」年号へと続く編成となっています。従って、九州年号の「継躰」が最初の年号という認識で編纂されています。これとは別に、神武天皇を先頭にして近畿天皇家の歴代天皇名が記されている「人代歴」には、次のような記事があります。

「継躰二十五 應神五世孫 此時年号始」

 この記事は「継躰天皇の在位は25年であり、応神天皇の五世の子孫である。このとき年号が始まる。」という意味ですが、「年代歴」と同様に、「人代歴」も九州年号が継躰天皇の時に始まった、すなわち建元されたという認識で編纂されているのです。ちなみに、『続日本紀』で「大宝」を建元したと記されている文武天皇については、「人代歴」に次のようにあります。

「文武治十一 天武太子 持統南宮 大寶三 慶雲四」

 意味するところは、「文武天皇の治世は11年 天武天皇の太子であり、持統天皇の南宮(皇太子か?)。大宝は3年間、慶雲は4年間」というもので、ここで初めて近畿天皇家の年号「大宝」「慶雲」が現れ、以下、歴代天皇名とその年号が記されます。このように『続日本紀』で「建元」とされた「大宝」を文武天皇の細注に記してはいるものの、「建元」や「初めて」といった注記はありません。
 このように、『二中歴』「人代歴」も九州年号が最初の年号であるという認識で編纂されていることがわかります。他方、第二冊に収録されている「都督歴」冒頭には「孝徳天皇大化五年三月」という記事が見え、『日本書紀』孝徳紀の「大化」年号が記されています。このように、『二中歴』は年号に関して異なった認識を持つ複数の編者により記されたという史料性格を持つことがわかります。従って、史料批判は少なくとも個別の「歴」毎に行う必要があります。
 この「人代歴」編者の認識は、我が国における「建元」(最初の年号)は九州年号の「継躰」であるということであり、このことから少なくとも鎌倉時代以前において、九州年号が最初の年号であり、実在していたとする認識が『二中歴』を読むようなインテリや官僚にとって「常識」であったことがうかがえます。九州年号が鎌倉時代以降に僧侶により偽作されたという九州年号偽作説が全く史料事実に反した、論証抜きの憶説であったことは明らかです。従って、九州年号偽作説は非学問的と言わざるを得ないのです。


第924話 2015/04/16

『二中歴』九州年号 校訂跡の証言

 昨日、出張で加東市から香川県に向かう途中、サービスエリア(淡路南SA)で休憩していたとき、『二中歴』「年代歴」所収の九州年号に見える校訂跡が重要な問題を示していることに気づきました。それは「兄弟六年 戊寅」(558年)の「六」の字の右に記された「一イ」という傍書(縦書き)です。
 この「一イ」という傍書の意味は、異(イ)本によれば「六」の字は「一」とある、という意味です。他の九州年号史料によれば「兄弟」という九州年号は元年だけで、翌年は「蔵和」と改元されています。このことは『二中歴』「年代歴」自身からも明らかで、この「兄弟六年 戊寅」という文の意味は「兄弟」という年号は六年間続き、その元年干支は戊寅(558年)であるということです。ところが、「兄弟」の次の年号「蔵和」は「蔵和五年 己卯」とあり、元年干支「己卯」は「戊寅」の翌年の559年ですから、「兄弟」は元年しかないことがわかります。従って、「兄弟六年」というのは誤りで、正しくは「兄弟元年」とあるべきなのです。
 それでは何故「六年」と書かれたのでしょうか。これは単純な誤写によるものと思われます。すなわち「元年」の「元」の字を「六」と読み間違えた書写者がいたのです。「元」と「六」は字形が似ていますから、わたしは同様の誤写を他の史料でも見た記憶があります。そこで、「年代歴」部分を書写した人がそのことに気づき、他の九州年号史料(異本)により校訂し、「六」の字の右に「一イ」と傍書したのです。
 このように「一イ」という傍書が直接意味するところは、わたしは『二中歴』研究の当初から気づいていましたが、実はこの傍書が重要な問題の証拠・証言になるという論理性に、昨日気づいたのです。それは次のようことです。箇条書きします。

(1)「年代歴」に示された九州年号史料とは別の九州年号史料が、その当時(平安時代以前)、存在していた。だから比較校訂できた。
(2)「年代歴」の校訂跡はここだけなので、校訂時に参照した九州年号史料との異同が「兄弟」の他にはなかったと考えられる。
(3)『二中歴』タイプとは異なる年号立ての九州年号群史料がある(鎌倉時代以降成立の史料)。たとえば「聖徳」「大長」があり、「継躰」「朱鳥」が無い一群である。このタイプの九州年号群史料は、この校訂を行った時には存在していなかったことになる。もし存在していたのなら、校訂者はそれらとの差ついても校訂の傍書をしたはずだから。
(4)従って、『二中歴』「年代歴」の示す九州年号が現存九州年号群史料としては最も成立が古く、かつ原型に近いと考えられる。

 以上の論理性が成立することに、わたしは気づいたのです。


第835話 2014/12/10

「聖徳」は九州年号か、法号か

 昨晩は名古屋で仕事でしたので、「古田史学の会・東海」の林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人、瀬戸市)や石田敬一さん(名古屋市)とSKE48で有名な栄で夕食をご一緒しました。
 会食での話題として、明石書店(秋葉原のAKB48劇場のやや近くにあります)から出版していただいている『古代に真実を求めて』の別冊構想について相談しました。というのも、毎年発行している『古代に真実を求めて』とは別にテーマ毎の論文や資料による別冊の発刊企画を検討しているのですが、私案として「九州年号」資料集も別冊として出版したいと考えてきました。そこで永く九州年号史料の収集を手がけられてきた林さんにその編集を引き受けていただけないかとお願いしました。
 そうしたこともあり、九州年号についての意見交換を林さんと交わしたのですが、『二中歴』には「聖徳」は無いが、「聖徳」が九州年号かどうかとのご質問が出されました。基本的には九州年号群史料として『二中歴』が最も優れていると考えていますが、『二中歴』には無く、他の九州年号群史料に見える「聖徳」(629〜634、『二中歴』では「仁王」7〜12年に相当)を九州年号とするのかという問題は、研究途上のテーマでもあり難しい問題です。
 ホテルに戻ってからもこの問題について考え、何とか史料根拠に基づいた論証ができないものかと思案したところ、次のような論証が可能ではないかと気づきました。

1.九州年号原型論研究において、『二中歴』が最も優れた、かつ成立が古い九州年号群史料であることが判明している。
2.その『二中歴』に見えない「聖徳」は本来の九州年号ではない可能性が高いと考えるべきである。
3.しかし、それではなぜ他の九州年号群史料等に「聖徳」が九州年号として記されているのか。記された理由があるはず。
4.その理由として正木裕さんは、多利思北孤が出家してからの法号の「法興」が年号のように使用されていることから、「聖徳」も利歌彌多弗利(リ、カミトウのリ)の出家後の法号ではないかとされた。
5.この正木説を支持する史料根拠として、『二中歴』の九州年号「倭京」の細注に「二年、難波天王寺を聖徳が造る」という記事があり、倭京2年(619年)は多利思北孤の治世であり、その太子の利歌彌多弗利が活躍した時代でもある。従って、難波天王寺を建立するほどの九州王朝内の有力者「聖徳」を利歌彌多弗利とすることは穏当な理解である。
6.『日本書紀』に、四天王寺を大和の「聖徳太子」が建立したとする記事が採用されたのは、九州王朝の太子「聖徳」(利歌彌多弗利)が天王寺を建立したとする事績を近畿天皇家が盗用したものと考えることが可能。しかも、考古学的事実(四天王寺の創建年が『日本書紀』に記された6世紀末ではなく、620年頃とする見解が有力)も『二中歴』の細注を支持している。
7.以上の史料根拠に基づく論理性から、九州王朝の天子(多利思北孤が没した翌年の仁王元年・623年に天子に即位したと考えられる)「聖徳」(利歌彌多弗利)の「名称」を政治的年号に採用するとは考えられない。
8.従って、利歌彌多弗利が即位の6年後に出家し、その法号を「聖徳」としたとする正木説が今のところ唯一の有力説である。それが後世に、「法興」と同様に年号のように使用された。その結果、多くの年代記などに他の九州年号と同列に「聖徳」が記載された。ちなみに、多利思北孤も天子即位(端政元年・589年)の2年後が「法興元年(591)」とされていることから、即位後に出家したことになる。利歌彌多弗利も父の前例に倣ったか。
9.付言すれば、利歌彌多弗利「聖徳」の活躍がめざましく、その事績が近畿天皇家の「聖徳太子」(厩戸皇子)の事績として盗用されたと考えられる。
10.同様に九州王朝内史書にも「聖徳」としてその活躍が伝えられた。『二中歴』倭京2年の難波天王寺聖徳建立記事も、利歌彌多弗利出家後の法号「聖徳」の名称で記載されたことになる。

 以上のような論理展開が可能ではないでしょうか。引き続き検証を行いますが、今のところ論証として成立しているような気がしますが、いかがでしょうか。なお、正木さんも「聖徳」法号説の論証を更に深められており、関西例会で発表予定です。

(補注)上記の論理展開において、7が最も重要な論理性です。


第790話 2014/09/23

所功『年号の歴史』を読んで(2)

 所さんは『年号の歴史』において、九州年号を仏教僧侶・関係者による偽作とし、その時期は鎌倉時代末期には出揃ったとされています。次の通りです。

 「私は、「善記」以下三十あまりの「古代年号」が出揃った時期は、もう少し古く鎌倉末期ころとみて差し支えない(けれどもそれ以上に遡ることはむずかしい)と考えている。」(16頁)
 「“古代年号”の創作者は、おそらく鎌倉時代(末期)の僧侶か仏教に関係が深い人物と推測して大過ないと思われる。」(27頁)

 このような所さんの見解の根拠は、『二中歴』所収「年代歴」に見える「古代年号」が最も成立が古いとされ、その『二中歴』の成立を鎌倉末期と理解されたことによるようです。

 「周知のごとく、『二中歴』は、平安後期(天治~大治〔一一二四~三〇〕ごろ)成立の『掌中歴』と『懐中歴』とをもとにしながら、新しく大幅に増訂した類聚辞典で、文中に後醍醐天皇を「今上」と記しているから、一応その在位年間(文保二年〔一三一八〕から延元四年〔一三三九〕まで)に成立したとみてよいが、その後数代約一世紀の追記が認められる。」(16頁)

 しかし、これは所さんの誤解で、現存『二中歴』には後代における追記をともなう再写の痕跡があり、その再写時期の一つである鎌倉末期を成立時期と勘違いされているのです。現存最古の『二中歴』写本のコロタイプ本解説(尊経閣文庫)にも、『二中歴』の成立を鎌倉初頭としています。
 したがって「年代歴」に収録されている「古代年号」(九州年号)は遅くとも鎌倉初期あるいは平安時代には「出揃った」と言わなければならないはずなので す。このような所さんの史料理解の誤りが、九州年号偽作説の「根拠」の一つとなり、その他の九州年号偽作説論者は所さんの誤解に基づき古田説を批判する、 あるいは無視するという学界の悲しむべき現状を招いているのです。