二中歴一覧

第1300話 2016/11/27

和水町講演会で古代寺院調査を要請

 昨日の熊本県和水町での講演会は70名近くの町民の皆さんにご参加をいただき、盛況でした(主催:菊水史談会、平田稔会長)。久留米地名研究会の荒川恒光会長も見えておられ、旧交を温めました。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は、最初に九州王朝説の概要を話され、邪馬壹国の所在地が博多湾岸であること、倭人伝に記された傍国に肥後にあった国々が含まれるという仮説を発表されました。
 わたしからは九州王朝における肥後の役割として、古代の鉄や馬の産地であったこと、隋使がわざわざ肥後(阿蘇山)まで訪問していることから、九州王朝の天子・多利思北孤に次ぐ有力者(肥後の君、弟か)がいたことを説明しました。その上で、太宰府が日本最古の条坊都市であること、7世紀中頃には難波に副都(前期難波宮)を造営するに至ったことなどを解説しました。
 最後に、肥後には6世紀末から7世紀初頭の古代寺院があったとする伝承が残されており、地元の皆様で調査していただきたいと協力要請しました。
 肥後の古代寺院・神社について、史料に次の記録がありますのでご紹介します。
○山鹿郡中村手永 久原村の一目神社
 「当社ハ継体帝善記四年十一月四日高天山ノ神主祭之」(善記四年:525年)
○山鹿の日輪寺
「俗説ニ当寺ハ敏達天皇ノ御宇、鏡常三年百済国日羅大士来朝ノ時、当国ニ七伽藍ヲ建立スル其一ニテ、初メ小峰山日羅寺ト称シ法相宗ナリ」(鏡常三年:583年。『二中歴』では「鏡當」)
○上益城郡鯰手永 小池村の項
 「常楽寺飯田山大聖院  ・・・。寺記ニ云。推古帝ノ御宇、吉貴年中、聖徳太子ノ建立ト云伝ヘ・・・」(吉貴年中:594〜600年。『二中歴』では「告貴」)
○下益城郡砥用手永 甲佐平村の項
 「福成寺亀甲山  ・・・。推古帝ノ御宇吉貴元年、湛西上人ノ開基。」(吉貴元年:594年。『二中歴』では「告貴」)


第1261話 2016/08/23

『二中歴』明治17年写本の調査

 「洛中洛外日記」で紹介してきました『二中歴』国会図書館本(小杉氏写本、明治10年)は、「古田史学の会」関西例会でカラーコピーを杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査)からいただき、その存在を知りました。このことが契機となり、『二中歴』の他の写本についても調査したところ、国立公文書館に明治17年書写の『二中歴』があることをつきとめました。同写本はネットでは公開されていないため、いつも史料調査にご協力いただいている斎藤政利さん(古田史学の会・会員、多摩市)にご相談したところ、早速、国立公文書館の『二中歴』の「年代歴」部分などの写真を撮影され、送っていただきました。
 現在、精査中ですので最終結論ではありませんが、同写本は前田家尊経閣文庫所蔵「新写本(実暁本)」、すなわち興福寺の実暁が弘治3年(1557)に「古写本」を書写したものを江戸時代の元禄14年(1701)に清書した「新写本」を明治17年に書写したもののようです。この国立公文書館本には次の奥書があり、明治17年に前田家所蔵『二中歴』を書写したことがわかります。

 「明治十七年二月一日華族前田利嗣蔵書ヲ寫ス
            三級寫字生松本寛茂
  明治十七年四月 五等掌記樹下茂国校 印」

 また別のページにも次のようにあります。

 「明治十七年十二月十日校〔前田利嗣 蔵書ニ拠ル〕
             御用掛前田利鬯 印」

 ※一部、旧字を新字体に改めました。〔〕内は二行の朱書き細注。(古賀)

 これらの内容から前田家蔵書の『二中歴』を書写したことは疑えませんが、前田家にある「古写本」と「新写本(実暁本)」のどちらを書写したのかを更に調べてみたところ、次の理由から国立公文書館本は「新写本(実暁本)」の写本と考えられます。

1.「弘治三年十二月六七両日」に書写したとする実暁による「奥書」が書写されている。
2.「古写本」では虫食いで読めない部分(「不記年号」「明要十二年」の一部分)も、虫食前の字が書写されており、これは「新写本(実暁本)」からの書写でなければ不可能。
3.国立公文書館本を実見された斎藤政利さんの報告によれば、第一巻が「上」「下」の二巻に分けられている。第一巻を「上」「下」で分けているのは「新写本(実暁本)」であり、「古写本」は第一巻としてまとめられている。

 これらの点から、明治17年書写の国立公文書館本は尊経閣文庫の「新写本(実暁本)」を書写したものと考えられます。同写本の全体を精査したわけではありませんから、現時点での所見として報告しておきます。
 国立公文書館本の「年代歴」部分を見て、次のような感想を持ちました。

1.「古写本」では虫食いにより現在では読めない字があるが、実暁が弘治3年(1557)に「古写本」を書写したときはあまり虫食いが進んでいなかったようで、そのためその「新写本」を書写した国立公文書館本の「年代歴」もほとんどの文字が書写されている。
2,従来、論点となっていた「年代歴」末尾の「不記年号」の文字もはっきりと書写されており、「古写本」の虫食い前の文字をそのまま書写したと思われる。

 以上のようなことが、国立公文書館本の史料事実から推定されます。こうなると、是非とも尊経閣文庫の「新写本(実暁本)」も見てみたいと思います。尊経閣文庫に閲覧を申し入れるか、「新写本(実暁本)」の一部を影印本に収録した八木書店にその版元となった「新写本(実暁本)」の写真を見せていただけないか、頼んでみることにします。
 調査にご協力いただきました斎藤さんに改めて感謝申し上げます。


第1258話 2016/08/19

『二中歴』尊経閣文庫の「古写本」と「新写本」

 現存「九州年号群史料」として最も古く、九州年号の原型をよく留めているのが有名な『二中歴』(鎌倉時代成立)です。ただ残念ながら前田家の尊経閣文庫蔵「古写本」(室町時代の写本と見られています)のみが残っており、その他の写本はその「古写本」を再写したものですから、「天下の稀覯本」と称されています。尊経閣文庫には「古写本」と、その「古写本」を興福寺の実暁が弘治3年(1557)に書写したものを江戸時代の元禄14年(1701)に清書した、いわゆる「新写本(実暁本)」が蔵されています。
 最近、わたしが注目した国会図書館デジタルコレクションの『二中歴』(「国会図書館本」という)は明治10年(1877)に小杉榲邨氏が「影写」したものですが、その底本は尊経閣文庫の「古写本」でした。ただし、「古写本」には一部に欠失があり、その失われた箇所は「新写本(実暁本)」から「影写」されています。
 問題の九州年号が記された「年代歴」は「古写本」に残っており、小杉氏も「古写本」から「影写」されています。たとえば「古写本」に欠失している「侍中歴」の一部分は「新写本」から「影写」されているのですが、その部分は字体やレイアウト(段組)が「新写本」のものに変化しています。これは「影写」(底本の上に薄い紙を置き、底本の字をなぞってそっくりに模写する)ですから当然です。
 この小杉氏の「影写」による「古写本」から「新写本」への字体の変化は、国会図書館本の「侍中歴」部分にも現れており、ネットで閲覧可能です。それは「国会図書館デジタルコレクション」の『二中歴』第1冊のコマ番号72です。その右ページが「古写本」からの「影写」で、左のページは「新写本(実暁本)」からの「影写」です。全く字体もレイアウトも異なっていることがわかるでしょう。左ページ冒頭に、朱筆で「新写本」から写したことを小杉氏は注記しています。
 この国会図書館本の「侍中歴」部分が書き分けられていることは、八木書房『二中歴』からも判明します。というのも、八木書房の『二中歴』も底本は尊経閣文庫の「古写本」で、同じく欠失部分を「新写本」から収録しています。従って、「古写本」と「新写本」の両方の字体を八木書房版により確認することができます。先の国会図書館本の「侍中歴」の当該ページに対応するページも収録されていますので、比較しますと、小杉氏はそれぞれを「影写」しており、そのため字体もレイアウトもあえて統一せず、異なったまま国会図書館本を作成したことがわかります。
 上記の当該ページの写真をわたしのFacebookに掲載していますので、ご覧ください。小杉氏の丁寧な「影写」により、「古写本」と「新写本」の字体の違いなどがよく見て取れます。「新写本」の方が清端な字体とされています。


第1251話 2016/08/12

『二中歴』国会図書館本の旧蔵者

 『二中歴』国会図書館本(小杉榲邨氏影写本)の旧蔵者が著名な蒐集家の大島雅太郎氏だったことがわかりました。昭和12年の尊経閣文庫『二中歴』出版の解説によると「大島雅太郎氏蔵小杉榲邨博士自筆本」と紹介されています。その頃までは大島氏が所蔵しており、戦後の財閥解体により散逸したようです。国会図書館本に押されている丸印が大島氏と関係するものかどうかは、まだ不明です。知られている大島氏の蔵書印とは異なるようです。
 下記はウィキペディアの「大島雅太郎」の解説です(一部修正しました)。

 大島 雅太郎【おおしま まさたろう、新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年/明治元年1月1日) – 1948年(昭和23年)6月9日】は、戦前の三井合名会社理事、蒐書家、慶應義塾評議員、日本書誌学会同人。
 源氏物語の写本の収集家で知られるが、鎌倉時代からの古写本の収集に努め、その膨大なコレクションは青谿書屋(せいけいしょおく)と称した。戦後の財閥解体で公職追放となり、旧蔵書は散逸した。雅号は景雅。角田文衛は大島の人となりを、「恭謙温良」と評した。


第1247話 2016/08/06

『二中歴』国会図書館本の書写者と「影写」

 『二中歴』国会図書館本が明治時代の国文学者・日本史学者の小杉榲邨(こすぎおんそん、こすぎすぎむら。1835-1910年)氏の蔵書であったらしいことをつきとめたのですが、その書写も小杉榲邨氏によるものであることがわかりました。
 「洛中洛外日記」第1242話「『二中歴』年代歴の虫喰部分の新史料」を読まれた齋藤政利さん(古田史学の会・会員、多摩市)から、「国会図書館本の書写は収蔵している古典籍資料室に尋ねたところ、第1冊の最後に書かれている明治10年に東京の小杉さんが書写したと思うと言っていました」とのご連絡をいただきました。わたしは問題の「年代歴」が収録されている第2冊ばかりを集中して読んでいましたので、第1冊末尾に書かれた小杉氏自らによる書写の経緯を記した「奥書」を、迂闊にも見落としていました。
 その「奥書」の冒頭には次のように、小杉氏が前田尊経閣本を書写したことが明記されていました。

 「二中歴十三帖 従四位菅原利嗣君〔舊加賀候前田家〕曽ノ秘蔵シ給フ所ノ古寫本ナリ 今茲明治十年六七月間タマタマ被閲スルコトヲ得テ頓ニ筆ヲ起シテ影寫神速ニ功成了」(後略)
 ※〔〕内は二行細注。一部現代字に改めました。

 そして最後に「九月廿?五日」「於東京駿臺僑居小杉榲邨 識」と、日付と所在地が記されています(?の部分の字は「又」のようにも見えます)。「僑居」とは「仮住まい」のことですので、明治10年に東京の駿河台に小杉氏は住んでいたことがわかります。
 以上から、国会図書館本の書写者が小杉榲邨氏であることが判明したのですが、わたしはこの「奥書」に見える「影寫」という表記に注目しました。「影写」とは、書写するときに底本の上に薄く丈夫な紙を置き、下の字を透かし写す書写方法のことで、「透写」とも呼ばれています。国会図書館本は「影写」技法を用いて前田尊経閣本を書写していたのです。
 このことを知り、わたしはずっと疑問に思っていた謎がようやく解けました。というのも、国会図書館本を初めて見たとき、わたしは前田尊経閣本と思ったのです。特に「年代歴」部分は幾度となく精査しましたから、その筆跡や文字の配置が前田尊経閣本にそっくりだったからです。しかし、全体の雰囲気や細部が異なり、やはり別物だと気づいたのですが、それにしてもなぜこんなにそっくりなのだろうかと不思議に思っていたのです。
 通常、写本は原本の内容を写すのですから、筆跡は書写者のものであり、原本とは異なるのが当然と考えていましたし、実際、これまでの古文書研究に於いて、原本と写本とでは筆跡や文字配置が異なるものばかり目にしてきたからです。
 小杉氏による「奥書」の「影寫」の二字を見て、この疑問が氷解しました。文献史学の醍醐味の一つは原本や写本調査にあります。活字本による研究とは異なり、その時代の筆者の息づかいまでが感じられるのですから。「奥書」の存在を教えていただいた齋藤さんに心より御礼申し上げます。なお、わたしのFacebookに同「奥書」を掲載していますので、ご覧ください。


第1243話 2016/08/01

『二中歴』国会図書館本の履歴

 「年代歴」末尾の「不記年号」問題に決着をつけた『二中歴』国会図書館本でしたが、その成立年代や書写者が不明でした。何とかその履歴を知りたいと思い、国会図書館デジタルコレクションで公開されている同写本の画像を拡大熟視したところ、「杉園蔵」と読める蔵書印があることに気づきました。
 杉園(すぎぞの)さんという蔵書家のお名前に全く心当たりがなかったため、インターネット検索で調べたところ、杉園(すぎぞの)さんではなく、明治時代の国文学者・日本史学者の小杉榲邨(こすぎおんそん、こすぎすぎむら。1835-1910年)氏の号、「杉園(さんえん)」のことのようなのです。ネット検索によれば次のようにありました。

「天保5年12月30日生まれ。阿波徳島藩主蜂須賀氏の陪臣。江戸で古典などをまなび、尊攘運動にくわわる。維新後は文部省で「古事類苑」を編集し、明治15年東京大学講師、32年東京美術学校(現東京芸大)教授。帝国博物館にも勤務し、美術品の調査や保存にあたる。明治43年3月29日死去。77歳。号は杉園(さんえん)。編著に「阿波国徴古雑抄」など。」

 文部省で「古事類苑」を編集されたり、帝国博物館では美術品の調査や保存に関わられたとのことてす。前田尊経閣文庫本の虫喰まで書き写すという国会図書館本『二中歴』の書写方法は、他の一般的な写本とは異なっており、「学術的原型模写」のための書写とすれば、よく理解できます。こうしたことから帝国博物館で美術品の調査や保存に関わっていた小杉榲邨であれば、国会図書館本を所持していたとしても不思議ではありません。ですから「杉園蔵」という蔵書印は『二中歴』国会図書館本の出所が小杉榲邨蔵書であることを示し、学術的模写の痕跡から、おそらくは明治時代に作成されたものと推測できます。
 以上のような『二中歴』国会図書館本の履歴が正しければ、前田尊経閣本の「不記」の虫喰や欠損は明治末年頃から更に進んだことになります。わたしの数少ない経験から考えても、虫喰が進んだ古本の取り扱いはとても難しく、虫喰でボロボロになった部分の破損が書写などの取り扱い時に更に進むことは避けられません。もしかすると国会図書館本作成(模写作業)時に、前田尊経閣本の劣化が更に進んだのかもしれません。そのため、後世になって「不記」論争が発生してしまったようです。
 なお、学問的に真の問題はここから始まります。31個の九州年号を列記した直後の文書になぜ「不記年号」などと史料事実に反しているような記述がなされたのかという問題です。この「不記年号」問題の本質はここにあります。このことに対するわたしの見解(回答)については拙論「『二中歴』の史料批判 — 人代歴と年代歴が示す『九州年号』」(『古田史学会報』No.30、1999年2月。ミネルヴァ書房『「九州年号」の研究』に収録)に示しましたのでご参照ください。
 今回の新史料発見について、8月20日(土)の「古田史学の会」関西例会にて発表予定です。


第1242話 2016/07/31

『二中歴』年代歴の虫喰部分の新史料

 6月の「古田史学の会」関西例会にて、わたしは『二中歴』年代歴の九州年号記事末尾の「不記年号」問題を報告しました。この「不記年号」問題とは、『二中歴』の九州年号を列記した最後にある文章中の「不記年号」とされてきた部分が虫喰により「不記」の二字部分が読めないため、「不記」とする説と「記」とする説とで論争が続けられている問題です。
 『二中歴』の古写本は前田尊経閣文庫本があるだけで、他はその再写本という「天下の孤本」です。従って、虫喰などで不明な部分を他の写本で確認することができません。問題の記事は次のようなものです。

「已上百八十四年々号丗一代〔虫食いによる欠字〕年号只有人傳言自大寶始立年号而巳」

 わたしは虫喰の部分は「不記」とあったと考えており、「以上百八十四年、年号三十一代、年号は記さず。只、人の伝えて言う有り『大宝より始めて年号を立つのみ』」と訓んでいます。詳細は拙稿「『二中歴』の史料批判 — 人代歴と年代歴が示す『九州年号』」(『古田史学会報』No.30、1999年2月)をご覧いただきたいのですが、「不記」と理解した根拠は次の点です。

1.八木書店版『二中歴』の写真本を熟視したところ、やはり下半分は「記」と読める。ただし、前後の文字よりも小さな文字であり、従って上半分にも一字あったと見るべき。
2.同古写本は弘治三年(一五五七)興福寺の実暁により書写されており、更に元禄時代にそれを清写した新写本、いわゆる「実暁本」が現存しており、その「実暁本」には、問題の欠字部分が「不記」と記されているので、虫喰前の姿を表していると考えざるを得ない。
3,文章の意味からすれば「丗一代」の九州年号を記した後の文なので、「不記年号」では意味不明。本来「記年号」とあったのなら、わざわざ意味不明となる「不記年号」と書き換えたり、誤写することは考えにくい。従って、元々「不記年号」とあったと考える方が論理的である。

 以上のように尊経閣本の観察と「実暁本」の「不記年号」を重視した結果、わたしは虫喰部分を「不記」と理解したのですが、今回この理解を決定的に証明する新史料の存在を知りましたので、ご紹介します。
 その新史料とは国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている『二中歴』写本です(以下、国会図書館本と記す)。インターネットで閲覧可能ですので確認したところ、同写本は尊経閣本の虫喰の形まで書き込んであり、かなり正確に書写されたもので、まるでコピーのような写本なのです。虫喰の形まで書き込んだ写本など、わたしは初めて見ました。その国会図書館本の当該部分は「不記」とありました。そして、尊経閣本の当該部分と比較したところ、虫喰の形も正確に一致しており、かつ国会図書館本では明確に「不記」と読めるのです。すなわち、国会図書館本はまだ虫喰がそれほど進行していない時点の尊経閣本を書写したものだったのです。
 虫喰以前の姿を書写した国会図書館本の証明力は決定的です。こうして、『二中歴』年代歴の「不記年号」問題は最終的に完全に決着したと思います。なお、国会図書館本について国立国会図書館デジタルコレクションでは解題が付けられていないようですので、誰によるいつ頃の再写本か調査中です。ご存じの方がおられたらご教示ください。

 

 

申し訳ありません。初めに閲覧された方のみ、誤字がございます。
 
「不記年号」とされてきた部分が虫喰により   →  「不記年号」とされてきた部分が虫喰により
デジタルコレクションでは題が   →   デジタルコレクションでは解題が
 

第1069話 2015/10/04

『泰澄和尚傳』に九州年号「朱鳥」の痕跡

 「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)が泰澄研究において最も良い史料であることを説明してきました。そこで、同書の年次表記について更に詳しく調べてみますと、九州年号は「白鳳・大化」だけではなく、「朱鳥」の痕跡をも見いだしました。
 「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)では泰澄について次の年次表記(略記しました)でその人生が綴られています。

西暦 年齢 干支 年次表記         記事概要
682   1 壬午 天武天皇白鳳廿二年壬午歳 越前国麻生津で三神安角の次男として生誕
692   11 壬辰 持統天皇七年壬辰歳    北陸訪問中の道照と出会い、神童と評される
695   14 乙未 持統天皇大化元年乙未歳  出家し越知峯で修行
702  21 壬寅 文武天皇大寶二年壬寅歳  鎮護国家大師の綸言降りる
712  31 壬子 元明天皇和銅五年壬子歳  米と共に鉢が越知峯に飛来
715   34 丙辰 霊亀二年         夢に天衣で着飾った貴女を見る
717   36 丁巳 元正天皇養老元年丁巳歳  白山開山
720   39 庚申 同四年以降        白山に行人が数多く登山
722   41 壬戌 養老六年壬戌歳      天皇の病気平癒祈祷の功により神融禅師号を賜る
725   44 乙丑 聖武天皇神亀二年乙丑歳  白山を参詣した行基と出会う
736   55 丙子 聖武天皇天平八年丙子歳    玄舫を訪ね、唐より将来した経典を授かる
737   56 丁丑 同九年丁丑歳       この年に流行した疱瘡を収束させる。その功により泰澄を号す
758   77 戊戌 孝謙天皇天平寶字二年戊戌歳 越知峯に蟄居
767  86 丁未 称徳天皇神護慶雲元年丁未歳 3月18日に遷化

 おおよそ以上のような年次表記で泰澄の人生が記されているのですが、まさに九州王朝から大和朝廷への王朝交代の時代を生きたこととなります、従って、年次表記には「天皇名」「年号」「年次」「干支」が用いられていることが多く、そのため700年以前の九州王朝の時代には九州年号が使用されているのです。その上で注目すべきは、北陸を訪れていた道照との出会いを記した692年の表記は「持統天皇七年壬辰歳」とあり、九州年号が記されていないことです。
 『日本書紀』では持統天皇六年が「壬辰」であり、翌七年の干支は「癸巳」です。たとえば金沢文庫本の校訂に用いられた福井県勝山市平泉寺白山神社蔵本では「持統天皇六年壬辰歳」とあり、こちらの表記が『日本書紀』と一致しているのです。しかしこの「持統天皇七年壬辰歳」には肝心の年号が抜けています。もしこの壬辰の年を九州年号で表記すれば、「持統天皇朱鳥七年壬辰歳」となり、金沢文庫本の「七年」でよいのです。すなわち、金沢文庫本のこの部分の年次表記には九州年号の「朱鳥」が抜け落ちているのです。「白鳳」「大化」と同様に700年以前は九州年号を使用せざるを得ませんから、「泰澄和尚傳」の書写の段階で「朱鳥」が抜け落ちた写本が、金沢文庫本だったのではないでしょうか。
 九州王朝説に立った史料批判の結果として、「泰澄和尚傳」は九州年号が使用された原史料に基づいて泰澄の事績を記したか、平安時代10世紀(天徳元年、957年)の成立時に、『二中歴』「年代歴」などの九州年号史料を利用して、大和朝廷に年号が無かった700年以前の記事の年次を表記したものと思われます。いずれにしても「泰澄和尚傳」は平安時代10世紀に成立した九州年号史料であり、九州年号偽作説のように「鎌倉時代以後に次々と偽作された」とすることへの反証にもなる貴重な史料ということができるのです。(つづく)


第1067話 2015/10/02

『泰澄和尚傳』の九州年号「白鳳・大化」

 今日は仕事で越前市(旧・武生市)に行ってきました。予定よりも仕事が早く終わったので、当地の企業や地場産業の調査のため、越前市中央図書館に寄りました。そこでの閲覧調査を終えたので、近くにあった『福井県史』を見ていたら、白山を開山したとされる「泰澄和尚傳」が目に留まりました。そこに九州年号「白鳳・大化」がありましたので、よく読んでみると、史料批判上とても面白い、かつ、貴重な史料であることがわかりましたので、ご紹介します。
 『福井県史 資料編1 古代』(昭和62年刊)には、「泰澄和尚傳」を筆頭に、比較参考史料として「泰澄大師伝記」(越知神社所蔵)、「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)などが収録されています。解説(324頁)によれば、「泰澄和尚傳」(底本:金沢文庫本)を「泰澄和尚に関し最も整った伝記である。」とされています。その「泰澄和尚傳」によれば、泰澄の生年は天武天皇の御宇「白鳳廿二年壬午六月十一日」とあり、『二中歴』「年代歴」の「白鳳22年(682)壬午」と干支が一致しています。また、「和尚生年十四」の年を「持統天皇御宇大化元年乙未歳」と記し、これも『二中歴』の九州年号「大化元年乙未(695)」と正しく一致しています。
 この金沢文庫本「泰澄和尚傳」の書写年代は「正中二年(1325)」と奥書にあり、現存最古の写本です。成立は「今、天徳元年丁巳三月廿四日」(957年)と文中にあることから、平安時代の10世紀です。従って、九州年号史料としてはかなり古いものです。『日本書紀』成立後の史料であるにもかかわらず、『日本書紀』の「大化元年乙巳(645)」とは異なる持統天皇時代の九州年号「大化元年乙未(695)」を採用していることが注目されます。すなわち、10世紀当時に九州年号を用いて記録された泰澄関連史料が存在していた可能性をうかがわせるのです。
 以上のように、金沢文庫本「泰澄和尚傳」は成立が平安時代に遡る貴重な九州年号史料だったのです。(つづく)


第1052話 2015/09/12

考古学と文献史学の「四天王寺」創建年

 「洛中洛外日記」1047話『「武蔵国分寺跡」主要伽藍と塔の年代差』において、考古学編年と文献史学との関係性について次のように述べました。

 「考古学者は出土事物に基づいて編年すべきであり、文献に編年が引きずられるというのはいかがなものか」
 「大阪歴博の考古学者は、考古学は発掘事実に基づいて編年すべきで、史料に影響を受けてはいけないと言われていた」

 優れた考古学編年と多元史観が見事に一致し、歴史の真実に肉薄できた事例として、大阪難波の四天王寺創建年について紹介し、考古学と文献史学の関係性について説明したいと思います。
 四天王寺(大阪市天王寺区)の創建(開始)は『日本書紀』により、推古元年(593)と説明されていますが、他方、大阪歴博の展示説明では620年頃とされています。この『日本書紀』との齟齬について大阪歴博の学芸員の方にたずねたところ、考古学は出土物に基づいて編年するものであり、史料に引きずられてはいけないというご返答でした。まことに考古学者らしい筋の通った見解だと思いました。その根拠は出土した軒丸瓦の編年によられたようで、同笵の瓦が創建法隆寺や前期難波宮整地層からも出土しており、その傷跡の差から四天王寺のものは法隆寺よりも時代が下るとされました。
 ところが九州年号史料として有名な『二中歴』年代歴には「倭京二年(619)」に「難波天王寺」の創建が記されており、大阪歴博の考古学編年と見事に一致しているのです。ちなみに、歴博の学芸員の方はこの『二中歴』の記事をご存じなく、純粋に考古学出土物による編年研究から620年頃とされたのです。わたしは、この考古学的編年と『二中歴』の記録との一致に驚愕したのものです。そして、大阪歴博の7世紀における考古学編年の精度の高さに脱帽しました。
 このように文献史学における史料事実が考古学出土事実と一致することで、仮説はより真実に近い有力説となります。しかし事態は「天王寺(四天王寺)」の創建年の問題にとどまりません。すなわち、『二中歴』年代歴の「九州年号」やその「細注」記事もまた真実と見なされるという論理的関係性を有するのです。文献史学が考古学などの関連諸学の研究成果との整合性が重視される所以です。
 古田学派研究者においても、この関連諸学との整合性が必要とされるのですが、残念ながらこうした学問的配慮がなされていない論稿も少なくありません。自分自身への戒めも含めて、このことを述べておきたいと思います。


第1022話 2015/08/13

告貴元年の「国分寺」建立詔

 「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)において、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」の次の「国分寺(国府寺)建立」記事を紹介しました。

「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)

 そして、『日本書紀』の同年に当たる推古2年条の次の記事が九州王朝による「国府(分)寺」建立詔の反映ではないかと指摘しました。

「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 以上の考察は後代史料に基づいたものですが、今回、検討を続けている「武蔵国分寺」についていえば、「七重の塔」の造営を7世紀後半と考えると、告貴元年(594)より半世紀以上遅れてしまいます。そうすると、九州王朝による「武蔵国分寺」建立とする仮説は、文献(史料事実)と遺跡(考古学的事実)とが「不一致」となり、ことはそれほど単純ではなかったのかもしれません。

 もちろん、全国の「国分寺」が一斉に同時期に造営されたとも思えませんから、武蔵国は遅れたという理解もできないことはありません。しかし、そうであっても半世紀以上遅れるというのは、ちょっと無理がありそうです。「武蔵国分寺」の多元的建立説そのものは穏当なものと思われますが、あまり単純に早急に「結論」を急がない方がよさそうです。(つづく)


第1003話 2015/07/19

『二中歴』九州年号の「最勝会」

 最近、「古田史学の会」役員間のメールでのやりとりで、『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号の「白雉」の細注記事の「最勝会」が話題となっています。次の記事です。

  「白雉九年壬子 国〃最勝会始行之」

 大意は、白雉という年号は九年間続き、元年干支は壬子(652年)。国々で最勝会を始めて行う。」ということですが、この「最勝会」とは国家鎮護の経典「金光明最勝王経」を読経する法会です。
 ところが、この記事について服部静尚さん(古田史学の会・全国世話人、『古代に真実を求めて』編集責任者)より、「金光明最勝王経」が日本に渡来するのは早くても8世紀初頭であることから、この白雉年間(652〜660年)に倭国で「最勝会」は行えないとの指摘がありました。従って、この記事は後代になって書き換えられたものではないかとされたのです。
 これに対して、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)より次のような反論がなされました。白雉年間以前に成立している漢訳「金光明経」内には「最勝」という表現があり、この経典による法会が九州王朝において「最勝会」と表現されていた可能性を否定できないという反論です。
 本格的な史料批判に関する論争であり、なかなか興味深いものです。今のところ判断は保留したいと思いますが、ことの当否は「年代歴」全体の史料批判に基づいて考える必要があり、他の細注記事の性格から判断して、西村さんが言われるように、九州王朝内で「最勝会」と呼ばれる法会がなされていたと考えるのがよいように今のところ思います。「年代歴」編者が元史料にあった法会の名称を書き換える必要が感じられないからです。
 いずれにしましても、白雉年間といえば白村江戦の直前ですし、九州王朝下の諸国で国家的危機を前にして国家鎮護の法会が催されたと思われますので、『二中歴』「年代歴」細注記事は九州王朝史を復元する上で貴重な史料であることは間違いないと思います。
 この件、引き続き論争が深化することが期待されます。