「 二中歴 」一覧

第789話 2014/09/22

所功『年号の歴史』を読んで(1)

 「洛中洛外日記」775話で所功編『日本年号史大事典』の「建元」と「改元」について批判し、 古田先生の九州年号説に対して「学問的にまったく成り立たない」(15頁)と具体的説明抜きで切り捨てられていることを紹介しました。他方、同じく所功著の『年号の歴史〔増補版〕』(雄山閣、平成二年・1990年)では古田先生の九州年号説に対する批判が展開されています。
 所さんの九州年号説批判は古田説の根幹である九州王朝説には正面から検証するのではなく、そこから展開された九州年号に「焦点」を当て、その出典が信用できないというものです。その上で、次のように批判されています。

 「もしもその“古代年号”(九州年号のこと。古賀注)が、ごくわずかでも六~七世紀の金石文なり奈良・平安時代の文献などに見出されるならば、当 然検討しなければならないであろう。しかし今のところ、そのような傍証史料は皆無であり、それどころか古田氏が高く評価される中国側の史書にも“古代年号”はまったくみえず、いわば“まぼろしの「九州年号」”とでも評するほかあるまい。」(26頁)

 この文章は「昭和五十八年八月三十日稿」(1983年)とされていますから、その後の九州年号金石文や木簡の発見・研究について、所さんはご存じなかったものと思われます。拙稿「二つの試金石」(『「九州年号」の研究』所収)などで紹介してきましたが、茨城県岩井市出土の「大化五子年(699)」土器や滋賀県日野町の「朱鳥三年戊子(688)」鬼室集斯墓碑などの九州年号金石文の存在をご存じなかったようです。
 更に、芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「元壬子年」木簡の発見に より、「白雉元年」が「壬子」の年となる『二中歴』などに記されている九州年号「白雉」が実在していたことが明白となりました。そのため、大和朝廷一元史 観の研究者たちはこの木簡に触れなくなりました。触れたとしても「壬子年」木簡と紹介するようになり、「元」の一字を故意に伏せ始めたようです。すなわち、学界はこの「元壬子年」木簡の存在が一元史観にとって致命的であることに気づいているのです。
 所さんも年号研究の大家として、これら九州年号金石文・木簡から逃げることなく、正々堂々と論じていただきたいものです。


第722話 2014/06/08

九州王朝の建元は「継体」か「善記」か

 「洛中洛外日記」721話の「NHK『歴史秘話ヒストリア』のウラ読み」を綴っていて、『三国史記』新羅本記に法興王による年号の制定記事(「建元」元年、536年)があることを思い出しました。ある王朝が年号を最初に制定することを「建元」といい、その後、年号を変更することを「改元」というのですが、新羅の場合、建元した際の年号名がそのものずばりの「建元」です。そして改めて気づいたテーマがありました。
 それは九州王朝の年号「九州年号」の建元年号は「継体(517~521年)」(『二中歴』にのみ遺存)か、「善記(522~525年)」(『二中歴』以外の史料)かというテーマです。古田先生を始め古田学派内の大勢としては「継体」を最初の九州年号とされているようです。その理由は、『二中歴』の史料的優位性(成立の古さ。内容が九州王朝系史料に基づく)と論理性(継体天皇の漢風諡号が誤記誤伝により年号と間違われ、『二中歴』に記録されたとは考えにくい)によるもので、わたしも同様に考えています。
 しかし、圧倒的多数の年代暦類が「善記」を最初の九州年号としていたり、「善記」を我が国の年号の最初と説明する後代史料が少なからず見えることから、 どちらが最初の九州年号かを確定できる実証や論証ができないものかと考え続けてきました。今回、新羅の建元年号名が「建元」であることからもわかりますよ うに、新たな権力者が新王朝を立ち上げたときに建元するのですが、その年号は新王朝最初の年号にふさわしい漢字や単語を採用することは当然でしょう。王朝 内の最高の知識人や歴史官僚・文字官僚を動員して検討したことを疑えません。
 このような視点から見ると、中国最初の本格的年号の最初は前漢の武帝による「建元元年」(BC140年)からとされていますが、この「建元」という年号も最初に元号を建てるという字義そのものです。おそらくは新羅もこの武帝の年号をならって、自ら最初の年号名を「建元」としたのではないでしょうか。
 ちなみに、前漢を滅ぼして「新」を建国した王莽の年号は「始建国」(9年)で、そのものずばりの年号名です。
 また、近畿天皇家の最初の年号「大宝」も、天子の意味を持つ「宝」の字が使用され、新王朝の初めての天子(宝)を礼賛する「大宝」という名称は最初の年号にふさわしいものです。ちなみに、天子の位を「宝位」といいます。
 同様に九州王朝の最初の年号の字義として、「継体」と「善記」のどちらがふさわしいでしょうか。古田先生によれば、「善記」は筑紫君磐井による律令(善き記)制定による年号と考えられています。「継体」はそれまで九州王朝・倭国が臣従していた中国南朝からの自立と、その権威を引き継ぐという意味で制定された年号ではないかと、古田先生は講演などで発表されています。こうしたことから、九州王朝最初の年号としては「継体」の方がよりふさわしいのではないでしょうか。現時点ではそのように考えています。


第695話 2014/04/18

一元史観による四天王寺創建年

 先日、西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人、大阪市)より資料が郵送されてきました。4月12日に行われた「難波宮址を守る会」総会での記念講演会のレジュメでした。講師は京都府立大学教授の菱田哲郎さんで、「孝徳朝の難波と畿内の社会」というテーマです。近畿天皇家一元史観による講演資料ですので、特に目新しいテーマではありませんでしたが、四天王寺の創建時期についての説明部分には興味深い記述がありました。
 そこには四天王寺について、「聖徳太子創建は疑問あり」「瓦からは620年代創建 650年代完成」とあり、「620年代創建」という比較的具体的な創建時期の記述に注目しました。かなり以前から四天王寺創建瓦が法隆寺の創建瓦よりも新しいとする指摘があり、『日本書紀』に見える聖徳太子が6世紀末頃に 創建したとする記事と考古学的編年が食い違っていました。菱田さんのレジュメでは具体的に「620年代創建」とされていたので、瓦の編年研究が更に進んだ ものと思われました。
 四天王寺(天王寺)の創建年については既に何度も述べてきたところですが(「洛中洛外日記」第473話「四天王寺創建瓦の編年」・他)、『二中歴』所収 「年代歴」の九州年号部分細注によれば、「倭京 二年難波天王寺聖徳造」とあり、天王寺(現・四天王寺)の創建を倭京二年(619)としています。すなわち、『日本書紀』よりも『二中歴』の九州年号記事の方が考古学的編年と一致していることから、『二中歴』の九州年号記事の信憑性は高く、『日本書紀』よりも信頼できると考えています。菱田さんは四天王寺創建を620年代とされ、『二中歴』では「倭京二年(619)」とあり、ほとんど一致した内容となってい るのです。
 このように、『二中歴』の九州年号記事の信頼性が高いという事実から、次のことが類推できます。

 1,現・四天王寺は創建当時「天王寺」と呼ばれていた。現在も地名は「天王寺」です。
 2.その天王寺が建てられた場所は「難波」と呼ばれていた。
 3.『日本書紀』に書かれている四天王寺を6世紀末に聖徳太子が創建したという記事は正しくないか、現・四天王寺(天王寺)のことではない。(四天王寺は当初は玉造に造営され、後に現・四天王寺の場所に再建されたとする伝承や史料があります。)
 4.『日本書紀』とは異なる九州年号記事による天王寺創建年は、九州王朝系記事と考えざるを得ない。
 5.そうすると、『二中歴』に見える「難波天王寺」を作った「聖徳」という人物は九州王朝系の有力者となる。『二中歴』以外の九州年号史料に散見される 「聖徳」年号(629~634)との関係が注目されます。この点、正木裕さんによる優れた研究(「聖徳」を法号と見なす)があります。
 6.従って、7世紀初頭の難波の地と九州王朝の強い関係がうかがわれます。
 7.『二中歴』「年代歴」に見える他の九州年号記事(白鳳年間での観世音寺創建など)の信頼性も高い。
 8.『日本書紀』で四天王寺を聖徳太子が創建したと嘘をついた理由があり、それは九州王朝による難波天王寺創建を隠し、自らの事績とすることが目的であった。

 以上の類推が論理的仮説として成立するのであれば、前期難波宮が九州王朝の副都とする仮説と整合します。すなわち、上町台地は7世紀初頭から九州王朝の直轄支配領域であったからこそ、九州王朝はその地に天王寺も前期難波宮も創建することができたのです。このように、『二中歴』「年代歴」の天王寺創建記事(倭京二年・619年)と創建瓦の考古学的編年(620年代)がほとんど一致する事実は、このような論理展開を見せるのです。西井さんから送っていただいた「一元史観による四天王寺創建瓦の編年」資料により、こうした問題をより深く考察する機会を得ることができました。西井さん、ありがとうございま した。


第625話 2013/11/26

「学問は実証よりも論証を重んじる」(4)

 「洛中洛外日記」第624話で紹介した「元壬子年」木簡(九州年号の「白雉元年壬子」、652年)の事例は、実証(文字判読結果)そのものの不備・誤りを、学問的論証結果を重視したために実施した再調査により発見できたという、比較的わかりやすいケースでした。その意味では「足利事件」も、論理的に考えて冤罪であるとする弁護団の主張が受け入れられ、科学技術が進歩した時点でDNA再鑑定したことにより、当初の鑑定の誤りを発見できたのであり、よく似たケースといえます。
 しかし、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉を理解するうえで、わたしはもっと複雑な学問的試練に遭遇したことがありました。今回はそのことについて紹介します。
 それは「大化五子年」土器の調査研究の経験です。茨城県岩井市から江戸時代(天保九年、1838年)に出土した土器に「大化五子年二月十日」という線刻文字があり、地元の研究者から専門誌に発表されていました。学界からは無視されてきた土器ですが、古田先生は九州年号「大化」が記された本物の同時代金石文ではないかと指摘されていました(『日本書紀』の大化五年(649)の干支は「己酉」で、その大化年間(645~649)に「子」の年はない)。
 ところが、九州年号史料として最も原型に近いと考えていた『二中歴』によれば、大化五年(699)の干支は「己亥」で、「子」ではありません。翌年の700年の干支が「庚子」であり、干支が1年ずれていたのです。もし、この土器が同時代金石文であり、「大化五子年」と間違いなく記されていたら、『二中歴』の九州年号を原型としてきたこれまでの九州年号研究の仮説体系や論証が誤っていたということになりかねません。そこでわたしは1993年の春、古田先生・安田陽介さんと共に茨城県岩井市矢作の冨山家を訪問し、その土器を見せていただき、手にとって観察しました。
 観察の結果、「子」の字が意図的な磨耗によりほとんど見えなくなっていることがわかりました。おそらく、『日本書紀』の大化五年の干支「己酉」とは異なるため、出土後に削られたものと思われました。しかしよく見ると、かすかではありましたが、「子」の字の横棒が残っており、やはり「子」であったことが確認できました。この土器は同地域の土器編年により、7世紀末頃のものとされていることから、まさに同時代金石文なのです。そうした第一級史料が『二中歴』 などの後代史料と異なっているため、同時代史料を優先するという歴史学の方法論からすれば、従来の九州年号研究による諸仮説や論証が間違っていたことにな るのです。すなわち、ここでも「大化五子年」土器という「実証」結果が、それまでの九州年号論という「論証」結果と対立したのです。(つづく)


第624話 2013/11/24

「学問は実証よりも論証を重んじる」(3)

 村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を深く実感できた学問的経験が、わたしにはありました。それは「元壬子年」木簡(九州年号の「白雉元年壬子」、652年)の発見のときです。
 長期間にわたる九州年号研究の成果として、『二中歴』(鎌倉時代初期成立)に見える「年代歴」の九州年号群が最も真実に近いとする原型論が史料批判や論証の結果、成立したのですが、その「白雉」年号の元年は壬子の年(652)で、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年(650)とは二年の差がありました。従って、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」は本来の九州年号「白雉」を2年ずらして盗用したものとする結論に至りました。
 ところが、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した木簡に「三壬子年」という紀年銘があり、奈良文化財研究所の「木簡データベース」では『日本書紀』孝徳紀の白雉三年壬子(652)の木簡とされ、『木簡研究』に掲載された「報告書」でも「白雉三年壬子(652)」とされていました。この発掘調査報告書(実証) を読んだわたしは驚きました。これまでの九州年号研究の成果(論証)を否定し、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」が正しいとする内容だったからです。しかも、 同時代の木簡という第一級史料だけに、鎌倉時代初期成立の『二中歴』よりもはるかに有力な「実証力」を有する「直接証拠」なのです。
 永年の九州年号研究の結果、成立した仮説(論証)と、同時代史料の木簡の記述(実証)とが対立したのですから、わたしがいかに驚き悩んだかはご理解いただけることと思います。そこで、わたしが行ったのは、「論証」結果を重んじ、「実証(木簡)」の方の再検証でした。兵庫県教育委員会に同木簡の実見・調査の許可申請を行い、調査団を組織し光学顕微鏡や赤外線カメラを持ち込み、2時間にわたり調査しました。その結果、それまで「三」と判読されていた字が、実は「元」であったことを確認できたのでした。
 このときの経験により、わたしは村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を心から実感できたのでした。(つづく)