日本書紀一覧

第1729話 2018/08/23

那須国造碑「永昌元年」の論理(5)

 那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が唐の影響下にあったため、「永昌元年(689年)」という唐の年号を用いた叙位「任命書」を発行したとするわたしの仮説は、その権力者を九州王朝の天子としても近畿天皇家(持統天皇)としても、それを支持する史料根拠が見当たらず、逆に唐の影響下にはなかったと考えざるを得ないこととなりました。このままではわたしの「思考実験」は袋小路に迷い込んでしまいそうです。そこで、今回は検討の目先を変えて、「追大壹」という冠位について考察を進めてみることにします。
 『日本書紀』によれば「追大壹」という冠位は天武14年(685年)に制定記事があり、48階の33番目に相当します。従って、碑文にある「永昌元年(689年)」の年次と矛盾しません。この点についての『日本書紀』の記述は正確と言えそうです。この冠位48階制度に含まれる「進大弐」が太宰府出土「戸籍」木簡に記されています。更に河内国春日村(現・南河内郡太子町)から出土した「釆女氏榮域碑」(己丑年、689年)にも「直大弐」が見えます。
 それよりも前の位階で『日本書紀』によれば649〜685年まで存在したとされる「大乙下」「小乙下」などが「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記されています。小野毛人墓誌にも『日本書紀』によれば、664〜685年の期間の位階「大錦上」が記されています。同墓誌に記された紀年「丁丑年」(677年)と位階時期が一致しており、『日本書紀』に記された位階の変遷と金石文や木簡の内容とが一致していることがわかります。
 以上のような史料事実から、「追大壹」(33番目)・「進大弐」(43番目)・「直大弐」(11番目)などの冠位48階制度が7世紀後半の天武・持統期に採用されていたことは疑えず、その範囲が関東(那須)・近畿(河内・大和)・北部九州(筑前国嶋評)の広範囲であることもまた確かです。だとすると、そうした冠位制度が当時の日本列島の統一権力者により施行されていたということになります。これは九州王朝説にとって重要な問題です。なぜなら、関東の那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が、太宰府出土木簡に見える「進大弐」を北部九州(筑前国嶋評)在住の人物に叙位したことになるからです。(つづく)

《太宰府出土「戸籍」木簡》

「木簡表側」
嶋評   戸主 建ア身麻呂戸 又附加□□□[ ? ]
政丁 次得□□ 兵士 次伊支麻呂 政丁□□
嶋ー□□ 占ア恵□[ ? ] 川ア里 占ア赤足□□□□[ ? ]
少子之母 占ア真□女   老女の子 得  [ ? ]
穴□ア加奈代 戸 附有

注記:ア=部

「木簡裏側」
并十一人 同里人進大弐 建ア成 戸有一 戸主 建   [ ? ]
同里人 建ア昨 戸有 戸主妹 夜乎女 同戸有[ ? ]
麻呂 □戸 又依去 同ア得麻女   丁女 同里□[ ? ]
白髪ア伊止布 □戸 二戸別 戸主 建ア小麻呂[ ? ]

 (□=判読不能文字、 [ ? ]=破損で欠如)

《釆女氏榮域碑》※拓本が現存。実物は明治頃に紛失。

飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年十二月二十五日。


第1725話 2018/08/20

那須国造碑「永昌元年」の論理(1)

 「古田史学の会・関西」の八月例会で谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)から、那須国造碑に記された「永昌元年己丑四月」(689年、永昌は唐の年号)の「追大壹」叙位記事は『日本書紀』持統四年四月条(690年)の叙位記事しかその付近に対応記事がないことから、那須国造碑の紀年と持統紀の紀年には一年のずれがあるとする仮説が発表されました。
 確かに茨城県坂東市(旧・岩井市)出土「大化五子年」(699年)など、7世紀末頃の史料に干支が一年ずれているものがあり、そのことについては拙論(「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』所収)でも論じたことがあります。そうした認識がありましたので、この谷本説も理解できるのですが、そうすると別の問題も発生するため、判断に悩むものでした。
 そこでこの那須国造碑の「永昌元年」「追大壹」を手がかりに、7世紀末の九州王朝から大和朝廷(近畿天皇家)への王朝交代の実相を探るべく論理を展開させてみることにしました。まだ結論は出ていませんから、連載途中で見解が変わるかもしれません。古代史研究における「思考実験」の現在進行形としてご覧いただければ幸いです。(つづく)

《那須国造碑文》
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮
照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
曽子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固


第1712話 2018/07/23

孝徳紀から出現する「封戸」記事

 先日の「古田史学の会」7月度関西例会では、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)からの捕鳥部萬(ととりべのよろず)の墓守(塚元家・岸和田市)訪問報告の他にも、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から重要な研究発表がありました。「天武五年の封戸入れ替え」です。『日本書紀』に見える「封戸」関連記事に着目されたもので、『日本書紀』天武五年条に見える「封戸入れ替え」記事はこの時期としては不自然であり、約30年遡った孝徳期の頃の事績を天武紀に転載されたとする仮説です。
 「封戸(ふこ)」とは古代における官人や貴族への俸禄制度で、与えられた封戸からの税収(食封)が官人らへの俸禄とされます。従って、公地公民制と律令制を前提として成り立つ制度です。
 服部さんの発表の中で特に重要と感じたことは、『日本書紀』で封戸記事が現れるのが孝徳紀からという史料事実の指摘でした。孝徳期(7世紀中頃)は九州王朝(倭国)が全国に評制を施行した時期であり、そのことと『日本書紀』に封戸記事が孝徳紀から現れることは無関係ではないと考えられます。中央集権的評制により、諸国の国宰・評督の任命や派遣が九州王朝によりなされますから、それらの官人の俸禄を封戸制度という「現地調達」で賄ったことになります。このことは、それまで現地の豪族などの支配下にあった「徴税権」が公地公民制と律令の規定により、部分的とは思われますが中央政府に取りあげられることを意味し、中央政府(九州王朝)の強大な権力(軍事力)がなければ成立し得ない制度であることは論を待たないでしょう。
 前期難波宮九州王朝副都説に反対する論者に、7世紀中頃の九州王朝の勢力(評制による全国支配力)を過小に評価する意見もあるようですが、今回、服部さんが指摘された「封戸」問題を見ても、九州王朝説(古田説)に立つ限り、7世紀中頃には九州王朝の全国支配力が最盛期を迎えていたことを疑えません。そうした意味でも服部さんの九州王朝説による「封戸」研究は貴重なものと思われます。


第1709話 2018/07/19

「東山道十五国」の成立時期

 9月1日(土)の『発見された倭京』出版記念東京講演会(東京家政学院大学・千代田三番町キャンパス)に向けて、講演者の準備も着々と進められています。中でも、「九州王朝の古代官道」について講演される肥沼孝治さんと山田春廣さんの講演内容の目次や当日使用されるパワーポイントの画像作成状況が、両氏のブログにリアルタイムで紹介されており、その内容が面白く、ますます講演会が待ち遠しくなってきました。
 特に山田さんが講演される「東山道十五国」(『日本書紀』景行紀55年条)を九州王朝の「東山道」とするテーマは画期的な発見であり、多くの皆さんにお聴きいただきたい研究です。もちろん、まだまだ研究・検証が必要な仮説で、その「東山道十五国」記事がなぜ『日本書紀』景行紀55年条に記されているのかなど重要な課題も残されています。この点については、山田さんご自身も「『東山道十五國』の比定」(『発見された倭京』所収)の末尾で次のように述べられています。

 「また、『古事記』にはない“以彦狭嶋王、拝『東山道十五國』都督”記事がなぜ『日本書紀』景行紀にあるのかも未解明です。これらは今後の研究に委ねたいと思います。」(145頁)

 『日本書紀』景行55年の実年代をいつ頃とするかという問題もありますが、この時代に九州王朝が「東山道十五国」を制定したとするには早いような気がします。しかし、『日本書紀』編者は何らかの根拠に基づいてこの記事を景行紀に記したわけですから、頭から否定することもできません。
 他方、『常陸国風土記』冒頭には次のような記事があり、この記事を「是」とするのであれば、九州王朝「東山道十五国」の成立は7世紀中頃の評制施行時期の頃となります。

 「國郡の舊事を問ふに、古老答へていへらく、古は、相模の國足柄の岳坂より東の諸縣は、惣べて我姫(あづま)の國と称(い)ひき。(中略)其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、高向臣・中臣幡織田連等を遣はして、坂より東の國を惣領(すべをさ)めしめき。時に、我姫の道、分かれて八つ國と爲(な)り、常陸の國、其の一に居れり。」(日本古典文学大系『風土記』35頁)

 岩波の頭注によれば、「分かれて八つ國」とは、相模・武蔵・上総・下総・上野・下野・常陸・陸奥とされています。山田説によれば「東山道十五国」とは九州王朝の都、太宰府を起点として次の国々とされています。

 「豊前・長門・周防・安芸・吉備・播磨・摂津・山城・近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野」

 ですから、『常陸國風土記』の記事を信用すれば、「上野・武蔵・下野」」の成立は「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世」の7世紀中頃ですから、「東山道十五国」の成立もそれ以後となってしまいます。
 九州王朝の「東山道十五国」の成立が7世紀中頃では逆にちょっと遅いような気もしますが、景行天皇の時代とするのか孝徳天皇の時代とするのか、引き続き検討したいと思います。


第1707話 2018/07/17

大化改元の真実と改元の論理

 「九州年号偽作説の誤謬 所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』)において、わたしは所功さんが編集された『日本年号史大事典』(雄山閣)の「大化建元」とする次の記事を批判しました。

 「日本の年号(元号)は、周知のごとく「大化」建元(六四五)にはじまり、「大宝」改元(七〇一)から昭和の今日まで千三百年以上にわたり連綿と続いている。」(第三章、五四頁)

 このように大和朝廷最初の年号制定を意味する「建元」が「大化」年号とされ、『続日本紀』に「建元」と記されている「大宝」を「改元」と記されていました。しかし、『日本書紀』に見える「大化」年号制定記事は次の二ヶ所で、いずれも「建元」ではなく、「改めて」「改元」と表記されています。すなわち「大化」は「改元」とされているのです。

 「天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の四年を改めて大化元年とする」(孝徳天皇即位前紀)
 「皇后(皇極天皇)、天皇位に即(つ)く。改元する。四年六月に天萬豊日天皇(孝徳天皇)に讓位し、天豊財重日足姫天皇曰皇祖母尊と稱す。」(斉明天皇即位前期)

 「建元」とは、ある王朝が初めて年号を建てることを意味し、その後に年号を改めることを「改元」といいます。すなわち、近畿天皇家は自らの史書で「大化」は改元であり、近畿天皇家にとっての最初の年号は「大宝」(建元)と主張しているのです。
 所さんは旧著『日本年号史大事典』では“「大化」建元”とされていたのですが、新著『元号 年号から読み解く日本史』では、どうしたことか「大化」について「建元」という表現を用心深く避けておられます。例えば次のような表現に変更されているのです。

 「改新の先駆け『大化』創建」(55頁)
 「日本で初めての公年号『大化』が創建された意味は、きわめて大きい。」(56頁)
 「この『大化』が、日本で最初の公年号だとみなされている。」(57頁)
 「『大化』という公年号を初めて定めたのである。」(58頁)
 「前述の『大化』は代始(天皇の代替わり初め)による改元の初例」(60頁)

 このように「大化」に対して「建元」という表記に代えて、「創建」「最初の公年号」「改元の初例」という表現を使用されています。恐らく、新著で「大宝」を正しく「建元」とされたため、旧著のように「大化」に対して「建元」を使用することの矛盾に気づかれたものと思われます。しかし、ある王朝が「最初公年号」を「創建」することを「建元」というのであり、新著での表記変更によっても、『日本書紀』の「大化改元」記事と『続日本紀』の「大宝建元」記事が近畿天皇家一元史観では説明できないことがますます露呈したと言わざるを得ません。(つづく)


第1655話 2018/04/20

天智五年(666)の高麗使来倭

 「洛中洛外日記」1627、1629、1630話(2018/03/13-18)「水城築造は白村江戦の前か後か(1〜3)」で、水城築造年が『日本書紀』の記事通り、白村江戦後の天智三年(664)で問題ないとする見解について説明しましたが、このことを支持すると思われる天智五年(666)の高麗遣使来倭記事について紹介します。
 水城築造を白村江戦の前とする説の論拠は、白村江戦後に唐軍の進駐により軍事制圧された状況下で水城など築造できないとするものでした。わたしは唐軍二千人の筑紫進駐は『日本書紀』によれば天智八年(669)以降のことであり、『日本書紀』の水城築造記事がある天智三年段階では筑紫は唐軍の筑紫進駐以前で、水城築造は可能としました。この理解を支持するもう一つの記事が、『日本書紀』天智五年(666)条に見える高麗使(高句麗使)の来倭記事です。
 『日本書紀』天智五年(666)条に次のような「高麗(高句麗)」から倭国に来た使者の記事が見えます。

 「高麗、前部能婁等を遣(まだ)して、調進する。」(正月十一日)
 「高麗の前部能婁等帰る。」(六月四日)
 「高麗、臣乙相菴ス等を遣して、調進する。」(十月二六日)

 これらの高麗(高句麗)使は、当時、唐との敵対関係にあった高句麗が倭国との関係強化を目指して派遣したと理解されています。というのも、この年(乾封元年)の六月に、唐は高句麗遠征を開始しています。従って、倭国が唐軍の制圧下にあったのであれば、高句麗使が倭国に支援を求めて来るばすはなく、また無事に帰国できることも考えられません。
 こうした高句麗使来倭記事は、少なくとも天智五年(666)時点では倭国は唐軍の制圧下にはなかったことを示しています。


第1653話 2018/04/15

九州王朝系近江朝廷の「血統」論(3)

 天智のように遠縁の男系「血統」と直近の皇女という「合わせ技」で即位した先例が『日本書紀』には見えます。第26代の継体です。『日本書紀』によれば継体は応神から五代後の子孫とされています。

 「男大迹天皇は、誉田天皇の五世の孫、彦主人王の子なり。」(継躰紀即位前紀)

 このように誉田天皇(応神天皇)の子孫であるとは記されていますが、父親より先の先祖の名前が記紀ともに記されていません。男系で近畿天皇家と「血統」が繋がっていることを具体的に書かなければ説得力がないにもかかわらず記されていないのです。この史料事実を根拠に、継体の出自を疑う説はこれまでにも出されています。
 そして今の福井県三国から紆余曲折を経て、継体(男大迹)は大和に侵入するのですが、臣下の助言を受けて第24代の仁賢の娘、手白香皇女を皇后とします。継体の場合は天智に比べれば遠縁とは言え6代ほどしか離れていませんが、天智は瓊瓊杵尊まで約40代ほどの超遠縁です。ですから、継体の先例はあったものの、周囲の豪族や九州王朝家臣団の支持を取り付けるのには相当の苦労や策略があったことと推察されます。
 ところが『続日本紀』では、天智天皇が定めた不改常典により皇位や権威を継承・保証されているとする宣命が何回も出されています。従って、701年の王朝交替後の近畿天皇家の権威の淵源が、初代の神武でもなく、継体でもなく、壬申の乱の勝者たる天武でもなく、天智天皇にあるとしていることは九州王朝説の視点からも極めて重要なことと思います。
 正木さんから九州王朝系近江朝という新仮説が出されたことにより、こうした男系「血統」問題も含めて、古田学派の研究者による論争や検証が待たれます。(了)


第1652話 2018/04/15

九州王朝系近江朝廷の「血統」論(2)

 天智が「九州王朝の皇女を皇后に迎えても天智の子孫は女系」になると一旦は考えたのですが、よくよく考えてみると、そうではないことに気づきました。
 『日本書紀』によれば、そもそも近畿天皇家の祖先は天孫降臨時の天照大神や瓊瓊杵尊にまで遡るとされ、少なくとも瓊瓊杵尊まで遡れば、近畿天皇家も九州王朝王家と男系で繋がります。歴史事実か否かは別としても、『日本書紀』では自らの出自をそのように主張しています。従って、天智も九州王朝への「血統」的正当性は倭姫王を娶らなくても主張可能なのです。このことに、わたしは今朝気づきました。
 しかし現実的には、瓊瓊杵尊まで遡らなければ男系「血統」が繋がらないという主張では、さすがに周囲への説得力がないと思ったのでしょう。天智の側近たちは「定策禁中(禁中で策を定める)」して、九州王朝の皇女である倭姫王を正妃に迎えることで、遠い遠い男系「血統」と直近の皇女という「合わせ技」で天智を九州王朝系近江朝廷の天皇として即位させたのではないでしょうか。
 この推測が正しければ、『日本書紀』編纂の主目的の一つは、天孫降臨時まで遡れば九州王朝(倭国)の天子の家系と男系により繋がるという近畿天皇家の「血統」証明とも言えそうです。なお、こうした「合わせ技」による「血統」証明の方法には先例がありました。(つづく)


第1649話 2018/04/13

九州王朝「官道」の造営時期

 「古田史学の会」は会誌『発見された倭京 太宰府都城と官道』(明石書店、2018年3月)において、太宰府を起点とした九州王朝「官道」を特集しました。その後、同書執筆者の一人である山田春廣さんが、ご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)において「東山道」の他に「東海道」「北陸道」についての仮説(地図)を発表されました。こうした古田学派研究陣による活発な研究活動に刺激を受けて、わたしも九州王朝「官道」について勉強を続けています。
 中でも九州王朝「官道」の造営時期について検討と調査をおこなっているのですが、とりあえず『日本書紀』にその痕跡がないか精査しています。山田さんが注目され、論文でも展開された景行紀に見える「東山道十五国」も史料痕跡かもしれませんが、そのものずばりの道路を意味する「大道」については次の三つの記事が注目されます。

(A)「この歳、京中に大道を作り、南門より直ちに丹比邑に至る。」『日本書紀』仁徳14年条(326)
(B)「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
(C)「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』孝徳紀白雉4年条(653)

 (B)(C)はいわゆる「難波大道」に関する記事と見なされて論争が続いています。(A)は、仁徳の時代に「京」はないとして、歴史事実とは見なされていないようです。
 わたしたち古田学派としてのアプローチは『日本書紀』のこれらの記事が九州王朝系史料からの転用かどうかという視点での史料批判から始めなければなりませんが、わたしとしては確実に九州王朝系史料に基づいた記事は(C)ではないかと考えています。すなわち、前期難波宮を九州王朝が副都として造営したときにこの「大道」も造営したと考えれるからです。また、実際に前期難波宮朱雀門から真南に通る「大道」の遺構も発見されており、考古学的にも確実な安定した見解と思います。
 しかし、この「処処の大道」が太宰府を起点とした「東海道」「東山道」などの「官道」造営を意味するのかは、『日本書紀』の記事だけからでは判断できません。7世紀中頃ではちょっと遅いような気もします。本格的検討はこれからですが、(A)(B)も含めて検討したいと思います。

 


第1629話 2018/03/18

水城築造は白村江戦の前か後か(2)

 水城基底部出土の敷粗朶の理化学的年代測定値からすると、水城造営年(完成年)を白村江戦後とする理解が比較的妥当であることがわかるのですが、わたしが白村江戦後とする理由で最も重視したのは『日本書紀』編纂の論理性でした。『日本書紀』には次のように水城築造が記されています。
 「筑紫国に大堤を築き水を貯へ、名づけて水城と曰う。」『日本書紀』天智三年(664)条
 『日本書紀』編纂において、近畿天皇家は自らの大義名分に沿った書き換えや削除は行うかもしれません。水城築造記事においても築造主体について九州王朝ではなく「近畿天皇家の天智」と書き換えることはあっても、その築造年次を白村江戦後へ数年ずらさなければならない理由や動機がわたしには見あたらないのです。ですから天智紀の築造年次については疑わなければならない積極的理由がありません。
 古田先生は、白村江戦後の唐軍に制圧された筑紫で水城のような巨大防衛施設を造れるはずがないということを水城築造を白村江戦以前とする根拠にされたのですが、これも厳密に考えるとあまり説得力がありません。というのも『日本書紀』天智紀によれば唐の集団二千人が最初に来倭(筑紫)したのは天智八年(669)です。従って、水城を築造したとする天智三年(664)は唐軍二千人の筑紫進駐以前であり、白村江戦敗北(663)の後に太宰府防衛のために水城を築造したとする理解は穏当なものです。すなわち白村江戦敗北後の天智三年(664)に水城築造ができないとする理解にはそもそも根拠がなかったのです。
 この件について「古田史学の会」の研究者とも意見交換していますが、今のところ賛成意見はなく、古田学派内ではわたし一人だけの極少数説です。かつ研究途上のテーマであり、わたし自身ももっと深く検討を続けるつもりです。その結果、もし間違っているとなれば、もちろんこの説は撤回します。(つづく)


第1626話 2018/03/12

九州王朝の高安城(6)

 『日本書紀』天智6年(667)条の記事を初見とする高安城ですが、次の記事が『日本書紀』や『続日本紀』に見えます。

①「是月(十一月)、倭国に高安城、讃吉国山田郡に屋嶋城、對馬国に金田城を築く。」天智六年(667)
②「天皇、高安嶺に登りて、議(はか)りて城を修めんとす。仍(なお)、民の疲れたるを恤(めぐ)みたまいて、止(や)めて作らず。」『日本書紀』天智八年(669)八月条
③「高安城を修(つく)りて、穀と塩とを積む。」『日本書紀』天智九年(670)二月条
④「是の日に、坂本臣財等、平石野に次(やど)れり。時に、近江軍高安城にありと聞きて登る。乃ち近江軍、財等が来たるを知りて、悉くに税倉を焚(や)きて、皆散亡す。仍(よ)りて城の中に宿りぬ。會明(あけぼの)に、西の方を臨み見れば、大津・丹比の両道より、軍衆多(さわ)に至る。顕(あきらか)に旗幟見ゆ。」『日本書紀』天武元年(672)七月条
⑤「天皇、高安城に幸(いでま)す。」『日本書紀』天武四年(676)二月条
⑥「天皇、高安城に幸す。」『日本書紀』持統三年(689)十月条
⑦「高安城を修理す。」『続日本紀』文武二年(698)八月条
⑧「高安城を修理す。」『続日本紀』文武三年(699)九月条
⑨「高安城を廃(や)めて、その舎屋、雑の儲物を大倭国と河内国の二国に移し貯える。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条
⑩「河内国の高安烽を廃め、始めて高見烽と大倭国の春日烽とを置き、もって平城に通せしむ。」『続日本紀』和銅五年(712)正月条
⑪「天皇、高安城へ行幸す。」『続日本紀』和銅五年(712)八月条

 以上の高安城関係記事によれば、白村江戦(663)の敗北を受けて、近江朝にいた天智により築城され、九州王朝から大和朝廷へ王朝交代が起こった大宝元年(701)に廃城になったことがわかります。こうした築城と廃城記事の年次が正しければ、次のことが推測できます。

①九州王朝が難波に前期難波宮(副都)を造営したとき、海上監視のための施設を高安山に造営しなかった。
②このことから、三方が海や湖で囲まれている前期難波宮の地勢のみで副都防衛は可能と九州王朝は判断していたと考えられる。
③すなわち、前期難波宮では瀬戸内海側からの敵勢力(唐・新羅)侵入を現実的脅威とは感じていなかった。あるいは前期難波宮造営当時(白雉年間、伊勢王の時代)は唐や新羅との対決政策は採っていなかった。
④白村江戦の敗北後に金田城・屋嶋城・高安城を築造したとあることから、その時期(白鳳年間、薩夜麻の時代)は唐・新羅との対決姿勢へと九州王朝は方針転換していたと考えられる。この白雉年間から白鳳年間にわたる九州王朝(倭国)の外交方針(対唐政策)の転換については正木裕さんが既に指摘されている(注)。
⑤文武天皇の時代になっても高安城は修理されていたが、王朝交代直後の大宝元年に廃城とされていることから、近畿天皇家は高安城による海上監視の必要性がないと判断したと考えられる。しかも、前期難波宮は朱鳥元年(686)に焼失しており、守るべき「副都」もこのとき難波には無かった。
⑥廃城後の高安山には「烽」が置かれていたが、それも廃止され、他の「烽」に置き換わった。このことから、海上監視よりも連絡網としての「烽」で藤原京防衛は事足りると大和朝廷は判断したことがわかる。

 以上のような推論が可能ですが、そうであれば高安城は九州王朝系近江朝により築城され、701年に王朝交代した大和朝廷により廃城されたとする理解が成立します。これ以外の理解も可能かもしれませんが、現時点ではこのような結論に至りました。(了)

(注)正木裕「王朝交代 倭国から日本国へ (2)白村江敗戦への道」『多元』一四四号(二〇一八年三月)


第1620話 2018/03/02

九州王朝の難波大道(3)

 安村俊史さんによれば、前期難波宮朱雀門から南の堺市付近まで一直線に伸びる「難波大道」を『日本書紀』孝徳紀白雉4年(653年、九州年号の白雉2年)条の「處處の大道を修治る」に対応しているとされました。他方、『日本書紀』推古21年(613年)条の「難波より京に至る大道を置く」の「難波大道」について次のような「渋河道ルート」を提唱されました。

・難波津-熊野街道-[四天王寺]-渋河道-[渋河廃寺]-渋河道(大和川堤防)-[船橋廃寺]-[衣縫廃寺]-〔石川〕-大和川堤防-〔大和川〕-竜田道-[平隆寺]-[斑鳩寺]-[中宮寺]-太子道(筋違道)-飛鳥(小墾田宮)

 この「渋河道ルート」と考える理由として次の点を挙げられました。

a.古代寺院の立地-7世紀初頭〜前葉に創建された寺院が建ち並ぶ。
b.奈良時代には平城宮から難波宮への行幸路であった。(『続日本紀』の記事が根拠)
c.斑鳩を経由-飛鳥から斑鳩へ移った厩戸皇子の拠点を通過。
d.太子道の利用-斑鳩から飛鳥への斜向直線道路が7世紀初頭には設置されていた。
e.大和川に近接-大和川水運で利用された渋河、船橋、斑鳩などの施設が利用可能。
f.高低差少ない-河内と大和国境の峠越えで最も起伏が小さいルート(標高78m)。

 以上の理由を挙げ、7世紀前半は斜向直線道路の時代であり、それは自然地形を利用しながら、ある地点の間を直線で結ぶ道路であったとされました。そしてこの「渋河道ルート」が厩戸皇子との関係が深いことも指摘されました。
 こうした安村さんの見解は一元史観に基づかれてはいますが、説得力を感じました。これを多元史観・九州王朝説で再解釈してみると、次のような理解が可能です。

①九州王朝による古代官道は7世紀初頭頃までは斜向直線道路で、国府など各地点を結んでいた。
②7世紀初頭以降になると正方位の直線道路や条坊都市・条里が都市計画に採用される。
③その傾向は難波・斑鳩・飛鳥間や周辺地域にも痕跡を残している。
④上町台地でもその北部から四天王寺・斑鳩を結ぶ道路(渋河道など)に斜向直線道路が見られ、その周辺に「聖徳太子」に関連する寺院が並んでいるが、これも九州王朝の多利思北孤か利歌彌多弗利による造営と見なすことができる。
⑤7世紀中頃になると、正方位規格による難波京条坊都市や難波大道、条里(110m方眼)が造営されている。
⑥すなわち、九州王朝による正方位による都市計画思想が7世紀初頭頃から採用され、その先駆けが太宰府条坊都市だったと思われる。

 以上のような七世紀における九州王朝の都市計画思想に基づき、全国の都市遺跡や古道を精査することにより、九州王朝の影響力範囲や編年研究の進展が期待されます。(了)