日本書紀一覧

第1457話 2017/07/15

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(7)

 前期難波宮「天武朝」造営説が考古学からも文献史学からも成立し難いことを説明してきましたが、もし「天武朝」の造営であれば多くの矛盾が噴出します。この矛盾について更に詳述します。
 たとえば藤原宮に持統天皇が694年に遷都したことが『日本書紀』に記されていますが、その造営は天武朝の頃から開始されていたことが出土干支木簡(680年代)から判明しています。ですから、前期難波宮を天武朝の造営とするならば、天武は藤原宮(京)と前期難波宮(京)を同時期に造営していたこととなります。
 ところが、前期難波宮整地層から出土する須恵器は坏Hと坏Gが主流ですが、藤原宮整地層から出土する主流須恵器は坏Bで、明らかに両者の出土土器の様相が異なるのです。相対編年では坏Bが新しく、坏Hが古いとされ、その中間が坏Gです。従って、前期難波宮と藤原宮では整地層出土土器は前期難波宮の方が1〜2様式古いのです。この考古学事実は前期難波宮の造営が藤原宮よりも早いことを示し、仮に1様式の年代差を20年とするのなら、前期難波宮の方が30年ほど古いということになります。従って、藤原宮の造営時期を680年頃とするならば、前期難波宮の造営時期は650年頃となり、それは「孝徳期」に相当します。
 このように、前期難波宮と藤原宮の整地層出土土器様式の違いは、前期難波宮「天武朝」造営説を否定するのです。このことをわたしは早くから指摘してきたのですが、「天武朝」造営説論者からの応答はありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1454話 2017/07/14

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(5)

 前期難波宮「天武朝」造営説の根拠とされてきた白石論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」の基礎データそのものに問題があり、仮説として誤りであることを説明しましたが、考古学だけではなく文献史学の面からも脆弱な仮説であることを指摘してきました。
 それは、「もし前期難波宮を天武が造営したのなら、何故そのことが孝徳紀ではなく天武紀に書かれていないのか」という単純かつ本質的な疑問に答えられないという問題です。この理屈は白石さんの「天智朝」造営説でも同様です。
 『日本書紀』は天武の子供や孫たちにより編纂されており、天武を賞賛することが主目的の一つであることは、天武紀のみを「前編」「後編」に分けて記すという破格の待遇であることからも明らかです。もし、国内初の朝堂院様式でそれまでの王宮よりもはるかに大規模な前期難波宮を天武が造営したのなら、そのことを天武紀には書かずに孝徳紀に書くなどということは考えられないのです。
 孝徳紀には前期難波宮「孝徳朝」造営説の史料根拠とされる次の有名な記事があります。
 「秋九月、宮を造りおわる。その宮殿の状、ことごとくに論(い)うべからず。」『日本書紀』白雉三年条(652年、九州年号の白雉元年と同年)
 いうこともできないほどの宮殿が完成したという記事で、まさに前期難波宮完成にふさわしい表現です。おそらく、前期難波宮の造営を記念して九州年号はこの年に常色から白雉に改元され、『日本書紀』白雉元年条(650年)に転用された大々的な白雉改元の儀式が完成間近の前期難波宮で執り行われたと思われます。
 もし、前期難波宮が「天武朝」で造営されたのであれば、なぜ『日本書紀』は先の孝徳紀の記事を天武紀に記さなかったのでしょうか。この問いかけに対しても前期難波宮「天武朝」造営説論者からは応答がありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1422話 2017/06/11

『古田史学会報』140号のご案内

 『古田史学会報』140号が発行されましたので、ご紹介します。本号には天文学者の谷川清隆さんからご寄稿いただきました。
 『日本書紀』の天文関連記事の史料批判により、古代日本に二つの権力集団が存在したとする論稿です。これまでも天文学という視点から古田説を支持する研究を発表されてきた谷川さんの論稿は読者にもご満足いただけるものと思います。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が谷川稿を過不足無く解説されていますので、以下に転載します。

【転載】
《谷川清隆博士の紹介》
 谷川氏は現役の天文学者です。
 その天文学者の目で見た古代史研究論文に感銘を受け、無理を言って今回寄稿願いました。
 日本書紀には、漢文の正確性からα群・β群があって、巻によって著者が異なると言う森博達氏の研究が有名ですが、谷川氏はその天文観測記事より、単に著者が違うのではなく、書かれた団体・組織が異なることを発見されたわけです。
 森氏の言うβ群は天群の人々(九州王朝ととっていただくと分かり易い)によって書かれた、α群は地群の人々(近畿天皇家)によって書かれたとなります。
 過去古田説は、谷本茂氏の『周髀算経』からの数学的アプローチによって、又メガース博士の南米における縄文土器発見によって、その都度新しい実証・論証ツールを得てきました。ここに谷川氏によって又強力なツールを得たわけです。(服部静尚)

『古田史学会報』140号の内容
○七世紀、倭の天群のひとびと・地群のひとびと 国立天文台 谷川清隆
○谷川清隆博士の紹介 八尾市 服部静尚
○6月18日(日)井上信正氏「大宰府都城について」講演会・「古田史学の会」会員総会のお知らせ
○前畑土塁と水城の編年研究概要 京都市 古賀達也
○「白鳳年号」は誰の年号か -「古田史学」は一体何処へ行く 松山市 合田洋一
○高麗尺やめませんか 八尾市 服部静尚
○「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(上) 川西市 正木 裕
○西村俊一先生を悼む 古田史学の会・代表 古賀達也
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第1408話 2017/05/30

佐藤論文に見える飛鳥編年の脆弱性

 土器の相対編年(様式変遷)などにより10年単位で暦年(絶対編年)が可能とする飛鳥編年(白石説)が、その根拠とした基礎データや『日本書紀』の暦年記事の信頼性が学問的に脆弱であることを、これまでも繰り返し指摘してきました。たとえば「洛中洛外日記」1387話「服部論文(飛鳥編年批判)への賛否を」においても、次の服部さんのメッセージを転載しました。

【服部さんのメッセージの転載】
 飛鳥編年でもって七世紀中頃(孝徳期)造営説を否定した白石太一郎氏の論考「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」があります。私はこの白石氏の論考批判を、「古代に真実を求めて第十七集」に掲載してもらったのですが、この内容についてはどなたからも反応がありません。こき下ろしてもらっても結構ですので批判願いたいものです。
 白石氏の論考では、①山田池下層および整地層出土土器を上宮聖徳法王帝説の記事より641年とし、②甘樫丘東麓焼土層出土土器を乙巳の変より645年とし、③飛鳥池緑粘砂層出土土器を655年前後とし、④坂田寺池出土土器を660年代初めとし、⑤水落貼石遺構出土土器を漏刻記事より660年代中から後半と推定して、前期難波宮の整地層と水利施設出土の土器は④段階のものだ(つまり660年代の初め)と結論付けたものです。
 氏は①〜⑤の坏H・坏G土器が、時代を経るに従って小径になっていく、坏Gの比率が増えていくなどの差があり、これによって10年単位での区別が可能であるとしています。
 私の論考を読んでいただければ判ってもらえますが、小径化の傾向・坏HおよびGの比率とも、確認すると①〜⑤の順にはなっていないのです。例えば①→②では逆に0.7mm大きくなっていますし、②→③では坏Hの比率がこれも逆に大きくなっています。白石氏のいうような10年単位での区別はできないのです。だから同じ上記の飛鳥編年を用いても、大阪文化財協会の佐藤氏は②の時期とされています。(以下略)

 ※服部静尚「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」(『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店。2014年)

 前期難波宮孝徳期造営説に対して飛鳥編年を根拠に批判される論者からは、残念ながらまだ服部説への応答がないようです。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させるとわたしは考えていますので、服部説への真摯なご批判を期待しています。
 前期難波宮造営時期について、飛鳥編年と難波編年の対立が考古学者間でも続いてきましたが、現在ではほとんどの考古学者が前期難波宮孝徳期造営説を支持するに至っていると聞いています。もちろん、学問は「多数決」ではありませんから、その当否・優劣は論証そのものにより決まります。
 わたしの前期難波宮九州王朝副都説への批判においても、飛鳥編年を根拠に否定するという論者が見られますが、どちらの編年がより正しいのかが考古学的に論争されてきたのであり、“飛鳥編年によれば難波編年が間違っている”“飛鳥編年によれば660年代となる土器が前期難波宮整地層から出土している”というレベルの批判(循環論法)では、およそ学問論争の体をなしません。
 その点、難波編年の妥当性を証明するために、出土「戊申年」木簡(648年)や出土木材の年輪年代測定値(634年)、出土木柱の年輪セルロース酸素同位体比年代測定値(583年、612年)を根拠(実証)に、孝徳期造営説が妥当としてきた大阪歴博や大阪府埋蔵文化財センターの考古学者の説明(論証)の方が合理的で説得力があります。他方、孝徳期造営説を批判する側からは、自説の根拠となる前期難波宮出土物の理化学的年代測定値の提示(実証)は全くありません。こうした両者の提示した実証や論証を冷静に比較したとき、そこには質・量ともに明確な差があり、従って大多数の考古学者が前期難波宮孝徳期造営説を支持していることも当然であり、既に「勝負はついている」と、わたしには思われるのです。
 今回、読んだ大阪歴博『研究紀要』15号の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」でも、直接的な表現ではありませんが、随所に飛鳥編年の問題点が指摘されています。たとえば、土器の「法量変化」に関する指摘です。土器の径が時代とともに小さくなることを前提に成立していた飛鳥編年(白石説)に対しては、先に紹介したように服部さんも批判されていますが、佐藤論文にも同様の指摘がなされています。

 「筆者は飛鳥Ⅲを細分する必要性は感じていないが、たしかに飛鳥Ⅱの資料や飛鳥Ⅳの代表例である雷丘東方遺跡SD110などの資料と比べると、後者との様相差がより小さく見える(図4)。その内容としては、飛鳥Ⅲ・Ⅳでは土師器・須恵器ともに坏A・Bが定型化すること、土師器坏Cの器高がこの間に低下していくこと、いったん極限まで縮小した須恵器坏Gの法量が再び大きくなることなどである。」(8頁)

 わたしは「いったん極限まで縮小した須恵器坏Gの法量が再び大きくなる」という部分を読み、図4を確認したところ、佐藤さんの指摘通り、より新しく編年されている飛鳥Ⅲ・Ⅳの須恵器の方が飛鳥Ⅱよりもかなり大きいのです。わたしも、土器(主に須恵器)の径は時代が下がるとともに小型化するという飛鳥編年の基本テーゼは信用していましたので、佐藤論文の指摘にとても驚きました。考古学の土器編年を、もっと勉強しなければならないと深く反省しました。


第1407話 2017/05/28

前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致

 大阪歴博『研究紀要』15号の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」を何度も読み返しています。興味深い出土事実や『日本書紀』の記事との関係についての指摘が記されているのですが、次の点は特に重要と思われました。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1〜2頁)
 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)
 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
 しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。
 この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされているのです。この考古学的事実こそ、前期難波宮九州王朝副都説に見事に対応しているのではないでしょうか。孝徳の宮殿は前期難波宮ではなく、恐らく北区長柄豊崎にあった「長柄豊碕宮」であり、その没後も九州王朝の天子(正木裕説では伊勢王「常色の君」)が居していた前期難波宮と難波京は発展し続けたと考えられるからです。そしてその発展は、佐藤さんによれば「白村江戦(663年)」のころまで続いたとのことですから、九州王朝の白村江戦での敗北により難波副都は停滞を始めたと思われます。
 わたしはこれまで難波編年の勉強において、土器様式の変遷に注目してきたのですが、佐藤さんは土器の出土量の比較変遷にも着目され、その事実が『日本書紀』の飛鳥地域中心の記述と「不一致」であることを指摘されました。難波を自ら発掘されている考古学者ならではの慧眼と思います。そして佐藤さんが指摘された考古学的出土事実こそ、わたしの前期難波宮九州王朝副都説と最もよく対応しているのではないでしょうか。
 佐藤さんは論文のまとめとして次のように記されています。

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(14頁)

 考古学者ならではの鋭い指摘と言わざるをえません。土器による相対編年以外にも、出土干支木簡や出土木材の年輪年代測定、出土木柱の理化学的年代測定という絶対編年の参考となる「実証」に基づいて難波編年を作り上げてきた大阪の考古学者たちに対して、『日本書紀』孝徳紀の記事を盲信したものと非難する論者もありますが、その非難が失当であることは、この佐藤論文からも明らかと言えるでしょう。


第1398話 2017/05/14

前期難波宮副都説反対論者への問い(3)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 「前期難波宮九州王朝副都説」に反対し、前期難波宮造営を天武期とする意見があるのですが、それでは『日本書紀』天武紀には難波宮(前期難波宮)についてどのような記事があるのかを見てみましょう。難波宮に関係する記事は次の通りです。

①8年11月是月条(679)
 初めて關を龍田山・大坂山に置く。仍(よ)りて難波に羅城を築く。
②11年9月条(682)
 勅したまはく、「今より以後、跪(ひざまづく)禮・匍匐禮、並に止めよ。更に難波朝庭の立禮を用いよ」とのたまふ。
③12年12月条(683)
 又詔して曰はく、「凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都つくらむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」とのたまう。
④朱鳥元年正月条(686)
 乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉(ことごとく)に焚(や)けぬ。或(あるひと)曰はく、「阿斗連薬が家の失火、引(ほびこ)りて宮室に及べり」といふ。唯し兵庫職のみは焚けず。

 この他に地名としての「難波」が見えるだけで、天武紀には「難波宮」関連記事はそれほど多くはありません。「壬申の乱」平定以後の天武の記事のほとんどが飛鳥が舞台だからです。しかし、これらの記事からわかるように、天武紀は難波宮や難波朝廷が既に存在していることを前提にしています。天武が前期難波宮を造営させたというような記事は皆無です。
 たとえば①の難波に羅城を造営させたという記事は、羅城で守るべき都市の存在が前提です。②の「難波朝廷の立禮」という表現も、自らとは異なる禮法を用いている王朝が難波に先在していたことを意味しています。③の記事は「副都詔」と呼ばれている有名な記事で、この記事を根拠に天武が前期難波宮を造営したとする見解がありますが、二年後の朱鳥元年に前期難波宮は消失しており(④の記事)、そのような短期間での造営は不可能という批判が考古学者からはなされています。しかも前期難波宮からは長期間の存続を示す「修築」の痕跡も出土していることから、孝徳紀にあるように「白雉三年(652)」の造営とする見解が有力です。
 今回、この「洛中洛外日記」を執筆するにあたり、この「副都詔」を精査して、あることに気づきました。それは、今まで岩波『日本書紀』の訳文で記事を理解していたのですが、「先づ難波に都つくらむと欲(おも)う」という訳は不適切で、原文「故先欲都難波」には「つくらむ」という文字がないのです。意訳すれば「先ず、難波に(の)都を欲しい」とでもいうべきものです。
 後段の訳「是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」も不適切です。原文は「是以百寮者各往請家地」であり、「これを以て、百寮はおのおの往(ゆ)きて家地を請(こ)え」と訳すべきです(西村秀己さんの指摘による)。すなわち、岩波の訳では一元史観のイデオロギーに基づいて、百寮は天皇のところに「まかりて」、家地を天皇から「たまわれ」としているのですが、原文の字義からすれば、百寮は難波に行って(難波の権力者あるいはその代理者に)家地を請求しろと天武は言っていることになるのです。もし、前期難波宮や難波京を天武が造営したのであれば、百寮に「往け」「請え」などと命じる必要はなく、天武自らが飛鳥宮で配給指示すればよいのですから。
 このように、前期難波宮天武期造営説の史料根拠とされてきた副都詔も、実は前期難波宮や難波京は天武が造営したのではなく、支配地でもないことを指し示していたのでした。こうした発見ができるのも、学問論争の成果といえます。(つづく)


第1387話 2017/05/07

服部論文(飛鳥編年批判)への賛否を

 『日本書紀』等の暦年記事を「是」として土器の相対編年とリンクさせて成立している、いわば一元史観による土器編年である飛鳥編年が、考古学界では不動の通念となっています。それに代わる九州王朝説・多元史観に基づく新たな太宰府土器編年を構築するべく、わたしは鋭意検討を進めています。
 他方、古田学派の中には未だ一元史観に基づく飛鳥編年により、前期難波宮の造営年代を660年以降と見なす論者もおられます。学問研究ですから様々な意見があってもかまわないのですが、飛鳥編年の根拠が脆弱で、基礎データにも誤りがあるとする論文が古田学派内から既に発表されていますので、改めてご紹介しておきたいと思います。
 それは服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」(『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店。2014年)です。服部さんは金属工学がご専門で、データ解析処理なども得意とされています。同論文では飛鳥編年の根拠とされた須恵器の外径の測定値が誤っていることや、サンプル母集団の問題点などが具体的に指摘されています。あわせて『日本書紀』の暦年記事の年代の問題点も古田説など多元史観に基づいて批判もされています。
 同論文に先立ち、服部さんはその研究報告を「古田史学の会・関西例会」でも発表されていました。しかしその後、それに対する賛否も意見もないまま、飛鳥編年を「是」とする意見が出されています。自説への批判を求めた、facebookに寄せられた服部さんのメッセージの一部を転載します。前期難波宮造営時期を660年以降とする論者からの真摯なご批判を期待しています。

【服部さんのメッセージの転載】
 飛鳥編年でもって七世紀中頃(孝徳期)造営説を否定した白石太一郎氏の論考「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」があります。私はこの白石氏の論考批判を、「古代に真実を求めて第十七集」に掲載してもらったのですが、この内容についてはどなたからも反応がありません。こき下ろしてもらっても結構ですので批判願いたいものです。
 白石氏の論考では、①山田寺下層および整地層出土土器を上宮聖徳法王帝説の記事より641年とし、②甘樫丘東麓焼土層出土土器を乙巳の変より645年とし、③飛鳥池緑粘砂層出土土器を655年前後とし、④坂田寺池出土土器を660年代初めとし、⑤水落貼石遺構出土土器を漏刻記事より660年代中から後半と推定して、前期難波宮の整地層と水利施設出土の土器は④段階のものだ(つまり660年代の初め)と結論付けたものです。
 氏は①〜⑤の坏H・坏G土器が、時代を経るに従って小径になっていく、坏Gの比率が増えていくなどの差があり、これによって10年単位での区別が可能であるとしています。
 私の論考を読んでいただければ判ってもらえますが、小径化の傾向・坏HおよびGの比率とも、確認すると①〜⑤の順にはなっていないのです。例えば①→②では逆に0.7mm大きくなっていますし、②→③では坏Hの比率がこれも逆に大きくなっています。白石氏のいうような10年単位での区別はできないのです。だから同じ上記の飛鳥編年を用いても、大阪文化財協会の佐藤氏は②の時期とされています。(以下略)


第1384話 2017/05/06

飛鳥編年と難波編年の原点と論争

 このところ太宰府や北部九州の土器編年の勉強を続けていますが、それらが飛鳥編年に準拠しており、同編年の影響力の大きさを改めて感じています。
 飛鳥編年の方法論と原点は、畿内の遺跡から出土した土器の相対編年を『日本書紀』の記事の暦年とリンクするというものです。それを基点に藤原京から出土した干支木簡などで追認されています。特に七世紀については須恵器の詳細な様式編年がなされており、土器により正確な暦年特定が可能と断定する論者もいます。すなわち、『日本書紀』の暦年記事は正しいとする立場(一元史観)です。
 わたしが前期難波宮九州王朝副都説を提起した後、難波編年について集中して勉強しました。特に大阪歴博の考古学者からは何度もご教示いただき、難波編年が文献(『日本書紀』孝徳紀、『二中歴』年代歴)との整合性もとれており、当初思っていた以上に正確であるとの印象を抱いたものです。その過程で、難波編年と飛鳥編年の考古学者間で激しい論争が続けられていることを知ったのです。
 それは前期難波宮整地層から極少数出土した須恵器(坏B)を根拠に、前期難波宮は天武期に造営された『日本書紀』に記録されていない宮殿であると、飛鳥編年に立つ研究者から批判が出され、それに対して難波編年に立つ研究者が出土事実(整地層や前期難波宮造営期の主要土器〔坏H、G〕、戊申年木簡〔648年〕の出土、前期難波宮水利施設からの出土木材の年輪年代〔634年〕、前期難波宮外周木柵の年輪セルロース酸素同位体比測定〔583年、612年〕など)を根拠に反論するという論争です。
 この論争経緯と内容を知ったとき、飛鳥編年により難波編年を批判する論者のご都合主義に驚きました。『日本書紀』の暦年記事を「是」として自らの飛鳥編年の正当性を主張しながら、前期難波宮整地層から自説に不都合な土器が出土したら、『日本書紀』孝徳紀の難波宮造営(652年)記事は誤りとするのです。理不尽(ダブルスタンダード)と言うほかありません。
 こうした理不尽な批判に対して、難波宮発掘を担当した考古学者は、『日本書紀』孝徳紀の記事を根拠に反論するのではなく、考古学者らしく出土事実と理化学的年代測定で反論を続けました。“孝徳紀の記事は間違っている”とする批判者に対して、“孝徳紀の記事は正しい”という反論では学問論争の体をなしませんから、考古学的事実の提示をもって反論するという大阪歴博等の考古学者の対応は真っ当なものです。ですから、わたしは彼らの方法や主張こそが学問的だと思いました。
 この論争はまだ水面下で続いているようですが、ほとんどの考古学者は大阪歴博が示した難波編年(前期難波宮の造営を7世紀中頃とする)を支持しているとのことです。もちろん、学問は多数決ではありませんが、この論争はどう贔屓目にみても難波編年がより正しいと言わざるを得ないのです。もし、難波編年が間違っているといいはりたいのなら、干支木簡でも年輪年代でも何でもいいですから、前期難波宮整地層や造営期の地層から明確に天武期とわかる遺物が出土したことを事実でもって示す必要があるでしょう。さらに指摘するなら、自らの飛鳥編年の根拠とした『日本書紀』の暦年記事は正しいが、孝徳紀の難波宮造営記事は誤りとする史料批判の根拠も示していただきたいものです。
 最後に、前期難波宮整地層出土の須恵器坏Bについてですが、大阪歴博の考古学者からお聞きした見解では当該須恵器は坏Bの原初的なタイプで、7世紀前半のものとみて問題ないとのことでした。報告書にもそのように記されていたと記憶しています。本年1月に開催した「古田史学の会・新春講演会」でも、講師の江浦洋さん(大阪府文化財センター次長)におたずねしたところ、同須恵器は通常の坏Bよりも大型で、いわゆる坏Bとは見なせないとのご返答でした。坏Bについては大宰府政庁Ⅰ期からも出土しており、太宰府編年とも深く関わっていますので、只今、猛勉強中です。


第1343話 2017/02/28

続・「倭京」の多元的考察

 「洛中洛外日記」1283話で「倭京」の多元的考察について論じました。『日本書紀』の「倭京」が孝徳紀・天智紀・天武紀上の六五三〜六七二年の間(前期難波宮存続期間)にのみ現れるという不思議な分布状況を示していることから、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当)のアイデア、すなわち「壬申の乱に見える倭京は前期難波宮・難波京のことではないか」は作業仮説として成立していると考えました。
 ちなみに『日本書紀』に見える「倭京」記事は次の通りです。

①六五三年  (白雉四年是歳条) 太子、奏請して曰さく、「ねがわくは倭京に遷らむ」ともうす。天皇許したまわず。(後略)
②六六七年八月(天智六年八月条) 皇太子、倭京に幸す。
③六七二年五月(天武元年五月条) (前略)或いは人有りて奏して曰さく、「近江京より、倭京に至るまでに、処々に候を置けり(後略)」。
④六七二年六月(天武元年六月条) (前略)穂積臣百足・弟五百枝・物部首日向を以て、倭京へ遣す。(後略)
⑤六七二年七月(天武元年七月条) (前略)是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂等、倭京将軍大伴連吹負近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分りて、置始連菟を遣して、千余騎を率いて、急に倭京に馳せしむ。
⑥六七二年九月(天武元年九月条) 倭京に詣りて、島宮に御す。

 『日本書紀』には基本的に「倭」は奈良県の「やまと」として使用されているので、「倭京」とは明日香にあった近畿天皇家の宮の意味とされてきました。他方、「壬申の乱」に見える「倭京」は九州王朝「倭国」の「京(みやこ)」であった前期難波宮とするのが西村仮説なのですが、『日本書紀』の「倭京」記事が前期難波宮の存続期間(652〜686)にのみ見えることから、わたしは西村説が作業仮説として成立していると考えたわけです。
 とはいうものの、わたしはこの西村仮説が本当に成立するのか、『日本書紀』天武紀を精読する必要を感じていました。ようやく今週の日曜日に時間がとれましたので、天武紀を精読しました。西村仮説以外でも『日本書紀』の「倭京」出現期間を説明できる他の仮説がないか、西村仮説の論理展開上に不備がないのかをじっくりと考えてみました。その結果、前期難波宮存続期間と「倭京」記事の出現時期の一致について、西村仮説以外によっても説明可能であることに気づきました。それは次のようなケースです。

1.『日本書紀』編者は近畿天皇家の宮を規模や実体にかかわらず「京」と表現している。
2.近畿天皇家の宮殿が一カ所であれば、「京」や「都」「朝庭」と記せば、編年体史書なのでその時代の「天皇」がいた宮があった場所であることを特定できる。
3.ところがその時代に複数の「京」が併存していた場合、どちらなのかを具体的に区別して記す必要がある。
4.したがって、「倭(ヤマトの明日香)」以外に「京」が存在しており、『日本書紀』に両方の「京」を記述しなければならない場合、それらを区別するためにヤマトの「京」を「倭京」と表記するケースが発生する。
5.『日本書紀』で同時期に複数の「京」が存在したとされるのは、「難波朝庭」と「近江朝庭」の存在を記述した期間であり、それは前期難波宮造営の「孝徳紀白雉三年(652)」から、天智による近江遷都の期間(668〜672)を含み、前期難波宮が消失した「天武紀朱鳥元年(686)」までである。
6.この期間であれば『日本書紀』編者は、複数の「京」を区別するため、ヤマトの明日香の「京」を「倭京」と表記することが考えられる。
7.この理解に立てば、『日本書紀』の「倭京」出現期間が前期難波宮や近江朝庭存続期間と重なることを合理的に説明できる。

 以上の論理展開(論証)と西村仮説を支持する論理展開(論証)のいずれが妥当か、説得力があるのか、安定して成立している先行説との整合性があるのはどちらなのか、という検討が必要となりますので、引き続き深く考えていきます。
 なお付言しますと、研究者の中には自らの思いつきにとらわれ過ぎて、自説以外の「他説」の存在の有無の検討を怠ったり、自説に不利な史料事実や可能性を軽視・無視する論者が少なくありません(多元史観や古田説に対する一元史観の学界の対応はその典型です)。そうした態度は真理を見誤り学問的に危険です。もちろん「他説」や自説に不利な史料事実の存在に気づかないケースも残念ながらあります。ですから学問研究には批判や論争が必要です(「古田史学の会」関西例会はその役割の一端を担っています)。自説の発表は自由に行いたいが、自説への自由な批判は歓迎しないというのも学問的態度ではありません。このことを自戒を込めて記しておきます。


第1304話 2016/12/04

漢風諡号「孝徳」の出典

 『東京古田会ニュース』に『二中歴』関連研究の投稿原稿執筆のため、『二中歴』影印本を読み直したのですが、孔安国による「古文孝経序」が収録されていることに気づきました。孔安国は孔子十一世の子孫(前漢時代の学者。『孔子家語』の作者)とされる人物です。『古文孝経』には孔安国による「序」が付されていますが、その「古文孝経序」が『二中歴』「産所歴」冒頭の「読書」に収録されています。
 『二中歴』所収「古文孝経序」はわたしのfacebookに掲載していますのでご覧ください。その「古文孝経序」に「大化」と「孝徳」という文言があり、『日本書紀』孝徳紀に見える九州年号「大化」と、後に追号された漢風諡号「孝徳」と関係があるのではないかと思いました。「古文孝経序」の当該部分は次の通りです。

「上有明王則大化滂流充塞六合」(上に明王あれば則大化滂流し、六合に充塞す。)
「夫孝徳之本也」(それ孝は徳の本なり。)

 「古文孝経序」や『孝経』の内容や意味については触れませんが、もしこの「大化」「孝徳」の文字が『日本書紀』と偶然の一致でなければ、『日本書紀』に追記された漢風諡号を作成したとされる淡海三船(722〜785)は孔安国の「古文孝経序」を読んでいたことになります。そうであれば、淡海三船は『日本書紀』の「孝徳紀」に見える「大化」という年号と「古文孝経序」に見える「大化」を意識して、漢風諡号も「古文孝経序」にある「孝徳」を選んだということになります。
 以上、わたしの思いつきに過ぎませんが、『日本書紀』の漢風諡号の成立経緯や出典を考える上で、ヒントになるかもしれません。なお、この思いつきについて先行説があるかもしれません。ご存じの方はご教示ください。


第1257話 2016/08/17

続・「系図」の史料批判の難しさ

 「洛中洛外日記」635話「『系図』の史料批判の難しさ」で、7世紀中頃よりも早い時代の「評」が記された「系図」があり、評制施行を7世紀中頃とするのは問題ではないかとするご意見に対して、わたしは次のように反論しました。

 「わたしは7世紀中頃より以前の『評』が記された『系図』の存在は知っていたのですが、とても『評制』開始の時期を特定できるような史料とは考えにくく、少なくともそれら『系図』を史料根拠に評制の時期を論じるのは学問的に危険と判断していました。『系図』はその史料性格から、後世にわたり代々書き継がれ、書写されますので、誤写・誤伝以外にも、書き継ぎにあたり、その時点の認識で書き改めたり、書き加えたりされる可能性を多分に含んでいます。」

 そのため、「系図」を史料根拠に使う際の史料批判がとても難しいとして、次の例を示しました。

 「『日本書紀』には700年以前から『郡』表記がありますが、それを根拠に『郡制』が7世紀以前から施行されていたという論者は現在ではいません。また、初代の神武天皇からずっと『天皇』と表記されているからという理由で、『天皇』号は弥生時代から近畿天皇家で使用されていたという論者もまたいません。」

 そして、ある「系図」の7世紀中頃より以前の人物に「○○評督」や「××評」という注記があるという理由だけで、その時代から「評督」や行政単位の「評」が実在したとするのは、あまりに危険なので、それら「系図」がどの程度歴史の真実を反映しているかを確認する「史料批判」が不可欠であると指摘しました。
 この指摘から3年が過ぎましたので、改めて「系図」の史料批判の難しさと、「評」系図の史料批判について、8月20日の「古田史学の会」関西例会にて報告することにしました。「洛中洛外日記」でも、その要点を紹介していきたいと思います。
 私事ではありますが、わたしの実家には畳二畳ほどの大きな「星野氏系図」があります。古賀家の先祖は星野氏で、「天小屋根命」に始まり、初代星野氏からわたしの曾祖父(古賀半助昌氏)までが記されています。その「星野氏系図」の途中から枝分かれした他家の部分を省いた「古賀家系図」を亡くなったわたしの父が三部作り、わたしたち兄弟三人に残してくれました。
 その「古賀家系図」を作成するにあたり、父は江戸時代の浮羽郡西溝尻村庄屋だった先祖の没年を古賀家墓地の墓石から読みとり、傍注として系図に付記しました。ところが、その注記に誤りがあることにわたしは気づきました。その原因は不明ですが、系図作成に於いて、こうした誤記誤伝が発生することを身を以て知ったものでした。
 古代に比べれば史料も豊富な江戸時代のことを平成になって誤り伝えるということが、系図のような「書き継ぎ文書」では発生してしまうのです。ましてや古代の部分に誤記誤伝が発生するのは避けられません。更に言えば、誤記誤伝ではなく大義名分による意図的な改訂、善意による改訂(原本の内容が誤っていると思い、その時代の認識で「訂正」する)さえも起こり得るのです。
 このような誤記誤伝、善意による原文改訂などを、わたしはこれまで何度も見てきました。ですから、「史料批判」抜きで、評価が定まっていない史料を自説の根拠にすることなどは恐くてとてもできないのです。(つづく)


第1209話 2016/06/16

古田先生の九州王朝系「近江令」説

 正木裕さんが提唱された九州王朝系「近江朝廷」という新概念について、「洛中洛外日記」で考察を加え、それをまとめて『古田史学会報』に発表したのですが、古田先生が既に「九州王朝系『近江令』」という視点に言及されていることを思い出しました。
 『古代は輝いていた・3』の第六部二章に見える「律令制の新視点」(ミネルヴァ書房版316頁)の次の記述です。

 「『日本書紀』の天智紀に「近江令」制定の記載はない。にもかかわらず、『庚午年籍』と一連のものとして、その存在は、あって当然だ。この点、『庚午年籍』が九州王朝の「評制」にもとづくとすれば、いわゆる「近江令」なるものの実体は、実は九州王朝系の「令」であった。そのような帰結へとわたしたちは導かれよう。」

 この古田先生の九州王朝系「近江令」という指摘は、その論理展開として、九州王朝系「近江令」を制定した「近江朝廷」も九州王朝系「近江朝廷」という正木新説への進展を暗示しています。古田先生の先見の明には驚かされるばかりです。(つづく)