神社一覧

第3525話 2025/09/03

東北地方の「山」地名〝山形〟を考える

 東北地方に濃密分布する「山神社」ですが、なぜか山形県が最も多いようでした。同県には下記の「山神社」がウィキペディアで紹介されています。

【山形県の主な山神社】
山神社 – 山形県新庄市本合海
山神社 – 山形県最上郡金山町有屋
山神社 – 山形県最上郡最上町富沢
山神社 – 山形県最上郡舟形町舟形
山神社 – 山形県最上郡真室川町及位
山神社 – 山形県最上郡鮭川村曲川
山神社 – 山形県最上郡戸沢村松坂
山神社 – 山形県最上郡最上町本城
山神社 – 山形県山形市神尾
山神社 – 山形県寒河江市田代
山神社 – 山形県村山市河島
山神社 – 山形県天童市山口
山神社 – 山形県東根市関山
山神社 – 山形県尾花沢市五十沢
山神社 – 山形県東田川郡三川町押切新田
山神社 – 山形県西村山郡朝日町杉山
山神社 – 山形県西村山郡大江町柳川
山神社 – 山形県西置賜郡白鷹町萩野

 山形県内の「山神社」をプロットした地図を見ていて、山形県・山形市の山も「山神社」と無関係ではないのではないかと考えました。そこで「山形」地名の由来を調べてみました。関係自治体ホームページなどでは、『倭名抄』(注)に見える「山方郷」(山形市の南部とされる)が地名の由来とされています。それはその通りだと思いますが、今、問題にしているのは、「山形・山方(やまかた)」の「山(やま)」の由来ですから、こうした説明だけでは不十分です。平地から見て山の方にある郷だから山方郷とする説明も見えますが、内陸部にある山形市の四方はほぼ山ですから、南側だけ「山方」と名づけられたことになる、このような説明では納得できそうにありません。

 そこで、ここからはわたしの作業仮説(思いつき)ですが、「山方(やまかた)」は「やま」の「県(あがた)」が本来の行政地名であり、その「やまあがた」が「やまがた」と呼ばれ、漢字の「山方」「山形」を当てられたのではないでしょうか。そうであれば、その地名の語幹は「やま」となり、当地はもともと「やま」と呼ばれていた領域と考えることができます。なお、この場合の「やま」は moutain のこととは限りません。

 しかしながら「山県(やまあがた)」由来説には考えなければならない問題があります。それは、「県(あがた)」は七世紀前半以前の倭国(九州王朝)の行政単位であり、古代の蝦夷国であった山形県に倭国の行政単位が採用されていたのかという問題です。引き続き、この作業仮説が成立するのか深く考えてみます。(つづく)

(注)『倭名類聚抄』の略称。『和名類聚抄』『和名抄』ともいう。同書は源順による辞典類で、平安時代中期の承平年間(931~938年)に成立。当時の地名が記されており、地名研究では基本資料として重視されている。


第3524話 2025/08/30

「山神社」名称の由来を考える

 「洛中洛外日記」3519話〝東北地方に濃密分布する「山神社」〟で、山神社が東北地方や東海地方に濃密分布していることを紹介しましたが、その神社名の意味や由来についてはよくわかりませんでした。そこで、今回はこの「山神社」名称の由来を考えてみました。

 神社名には、地名や山名、神名などが一般的には用いられています。白山神社とか月山神社は山の名前を採用した例です。大山祇神社や八幡神社は神名です。その点、「山神社」は「山(やま・さん)」という神様を祀る神社なのか、「山(やま・さん)」という地名・領域を冠した神社なのか、あるいはそれ以外なのか、まだよくわかりません。

 「山の神」伝承は各地にありますが、その神様の本名が「山(やま・さん)」なのか、本名は不明だが山に住んでいる神様だから「山の神」と呼ばれているのか、これもまたよくわかりません。

 東北地方に分布する「山神社」のご祭神は大山祇であったり、コノハナサクヤ姫であったりと統一されていないところをみると、もともと「山神社」とあったので、『日本書紀』成立以降に著名な大山祇やコノハナサクヤ姫を祭神として後付け、あるいは本来の神様と取り替えたようにも思われます。しかし、後者であれば本来の神様の名前が共通の祭神として各地に遺っていてもよさそうですが、今のところそうした様子はうかがえません。

 「山神社」と似た名称構造を持つ神社に「天神社(てんじんしゃ)」があります。この「天」は sky や heaven ではなく、海を意味する倭語「アマ」です。地名にも使われている、たとえば「天草」のアマです。なお、この場合の「草(クサ)」は grass plnat ではなく、太陽・日を意味する古語「クサ」であり、「天草」とは〝海の太陽=海に沈む夕日〟とする説をわたしは発表しました(注①)。

 古田武彦説では天孫族の故地〝高天原〟と呼ばれている壱岐・対馬などの海洋領域を天国(あまくに)としており、「天神」とはアマテラスなどのアマ国領域の神様を意味します。従って、「天神社」の「天」とは天国(あまくに)領域を意味します。「山神社」がこれと同様の名称構造であれば、「山(やま)」という領域の神の社という理解が可能です。

 そこで思い起こされるのが、『三国志』倭人伝の中心国名「邪馬壹国」です。古田説によれば、倭(wi)国の中の邪馬(yama)という領域を意味する「邪馬壹国」が、倭国の中心領域の国名になったとしますから、九州王朝の故地、筑紫がヤマであり、それを漢字で「山」と表すことがあるとします(注②)。この理解に基づけば、「山神社」の「山」は筑紫を意味しますが、そうであれば「山神社」の分布が筑紫にあってほしいところですが、それはありません。したがって、「山」の由来を領域名とするのであれば、筑紫ではなく、「山神社」が濃密分布する東北地方に淵源を求めなければなりません。そのような領域が東北地方にあるでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」425話(2012/06/12)〝「天草」の語源〟
②筑後(福岡県南部にあった山門郡)の「山門(やまと)」、筑前(福岡市西区)にある「下山門(しもやまと)、上山門(かみやまと)」は、「やま」領域の南北の入り口「門」「戸」を意味する地名と考えられる。

【写真】広島県厳島神社の天神社。山梨県南都留郡富士河口湖町本栖の山神社。


第3520話 2025/08/22

大高山神社(宮城県柴田郡)の創建伝承

 「洛中洛外日記」3519話〝東北地方に濃密分布する「山神社」〟で、宮城県栗原市の櫻田山神社のご祭神「武烈天皇」について、〝『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇に置き換えられて伝わったのかもしれませんが、さすがに宮城県北部まで倭王武が来たとは考えにくい〟としました。

 他方、『常陸国風土記』には当地を巡航する「倭武天皇」伝承が記されており、古田説ではこれを倭国(九州王朝)の倭王武の伝承が日本武尊(やまとたけるのみこと)伝承に置き換えられたものとしてきました。したがって、『宋書』倭国伝に見える〝東征毛人五十五國〟の範囲に常陸国が含まれているとわたしは考えています。しかしさすがに宮城県北部の栗原市までは遠征していないだろうと思っていました。ところが櫻田山神社の武烈天皇伝承の調査を進めるなかで、宮城県にもヤマトタケル伝承が遺っていることを知りました。たとえば、宮城県南部の柴田郡大河原町にある大高山神社(おおたかやまじんじゃ)のご祭神が日本武尊で、『ウィキペディア(Wikipedia)』には次の説明があります。

〝社伝によれば、大高山神社は敏達天皇元年(572年)に日本武尊を主祭神として創建されたという。当神社の縁起書や『安永風土記』『奥羽観蹟聞老志』(おううかんせきもんろうし)などによれば、日本武尊が蝦夷征伐のための東征の折に仮宮を立てて住んだと伝わり、その仮宮の跡地に「白鳥大明神」と称する社殿を設け、日本武尊を奉斎したという。

 また伝承によれば、崇峻天皇二年(588年)には主祭神として橘豊日尊(用明天皇)が合祀された。これは、用明天皇が橘豊日尊と呼ばれた皇子の頃、勅命により当地へやってきたことがあり、用明天皇の皇子である聖徳太子がその縁を持って大高山神社へ合祀したと伝わる。〟

同神社ホームページにも次の解説があります。以下転載します。

《大高山神社の由緒》

 人皇30代敏達天皇の元年(571年)日本武尊を祭神として創建されました。 その後、推古天皇のお守り、橘豊日尊(31代用明天皇、聖徳太子の父君)を合祀しております。

 縁起書、安永風土記、観蹟聞老志などを併せて見ることによって日本武尊が蝦夷征伐の時にこの地に仮に宮を建てて住んだので、その跡地に白鳥大明神として日本武尊を奉祭したと言われています。

 場所も新開の台の山までありましたが(ママ、台の山で か?)、元禄初期の火災焼失により、新開126番地に移し、その後大正3年に金ヶ瀬神山に移築遷座されて現在に至っております。

《御祭神について》

 日本武尊が東国ご討征の時、お宮を建ててご住居になったことがあります。そして、尊が都へ帰られた後、白鳥大明神として祀ったということであり、その後、用明天皇が、橘豊日尊と呼ばれた、皇子の頃、この地に来られたことがあったので、その子の聖徳太子がこの地のゆかりをもって大高山神社に祀ったといいます。

 このようなことで、日本武尊と用明天皇を祀る二祭神であります。
日本武尊が東国平定に向かわれたのは、紀元110年の景行天皇40年のこととされているので、その462年後の紀元572年に創建されたことになります。
また、それより30余年後の推古天皇の代において、聖徳太子が父君・用明天皇を大高山神社に合祀したことになっています。

 明治42年(1909)8月8日、従来の『日本武尊』『用明天皇』二祭神のほか、堤に鎮座した愛宕神社の祭神迦具土尊(かぐつちのみこと)と、新寺に鎮座した山神社の祭神大山祇命(おおやまつみのみこと)とを合祀しています。更に、大正3年(1914)に、新開の尾鷹から現在地に遷座する際、祭神倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、火彦霊命(ほむすびのみこと)を合祀しています。
【本祭神】
日本武尊(やまとたけるのみこと)
用明天皇(ようめいてんのう)
【合祀祭神】
迦具土命(かぐつちのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
火産霊命(ほむすびのみこと)
白山菊理媛(しらやまくくりひめ)
https://ohtakayama.org/keidai/index.html
【転載終わり】

 柴田郡大河原町は福島県から宮城県へ向かう国道4号線上にあり(注)、それは倭王武らによる蝦夷国侵攻の経由地とできることから、同社伝承を歴史事実の反映とすることもできそうです。そうであれば、宮城県北部の櫻田山神社の武烈天皇伝承も倭王武のこととする可能性をはじめから排除しない方がよいかもしれません。

 なお、ご祭神として用明天皇も祀られていますが、全国的に著名な聖徳太子ではなく、なぜそのお父さんの用明天皇を祀ったのかという興味深い問題もあります。これも九州王朝(倭国)の伝承が用明天皇や聖徳太子に置き換えられたと考えれば、社伝の「用明天皇」とは、〝日出ずる処の天子〟と自称した国書で有名な、『隋書』俀国伝に見える俀国(倭国)の天子、阿毎多利思北孤(あまのたりしほこ)のことであり、その太子、利歌彌多弗利(りかみたふり)が同社に合祀したと考えることができます。(つづく)

(注)国道4号は、東京都中央区から栃木県宇都宮市、福島県福島市、宮城県仙台市、岩手県盛岡市を経て、青森県青森市に至る一般国道で、実延長が日本一長い国道。江戸時代の五街道のひとつである日光街道や奥州街道を踏襲する道筋で、高速道路では東北自動車道、鉄道では東北新幹線や東北本線とおおむね並行する経路をとる。


第3519話 2025/08/20

東北地方に濃密分布する「山神社」

 狩野英孝(かのえいこう)さんのご実家の櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)が千五百年の歴史を持つ古社であることを知り、驚きました。福岡県出身で京都に五十年住んでいるわたしには、「山神社」という聞き慣れない名称が気になり、ネットで調べてみました。各県神社庁のホームページによれば、山神社は東北地方に濃密分布しており、中でも宮城県と山形県が最濃密地域のようでした(注①)。秋田県や岩手県にも分布が見られますが、なぜか青森県には分布を見いだすことが、今のところできていません。

 「山神社」の訓みは、「さんじんじゃ」「やまじんじゃ」「やまのかみしゃ」「やまがみしゃ」などですが、ご祭神を武烈天皇とするのは少数でした。多いのは木花咲耶姫と大山祇神のようです。現時点で見つけた武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)をご祭神とする山神社は、冒頭紹介した櫻田山神社(宮城県栗原市栗駒桜田山神下)と山神社(宮城県栗原市一迫王沢字北沢十文字)、新山神社(しんざんじんじゃ、宮城県栗原市志波姫堀口御駒堂)で、いずれも宮城県北西部の栗原市内で、限定された祭神伝承のようです。栗原市にはこの他にも多数の山神社があるのですが、それらの祭神は武烈天皇ではありません。ですから、武烈天皇に仮託された人物の伝承が、栗原市の一部の山神社に遺っていると考えることができそうです。

 また、山神社の濃密分布範囲は東海地方を除けば蝦夷国領域ですから、もしかすると山神社とは本来は蝦夷国の神様のことかも知れません。ちなみに武烈天皇伝承は、仙台藩の地史『封内風土記』(注②)には次のように記されています。

 〝伝え云う。人皇第二五代武烈天皇、故ありて本州に配せられ、久我大連・鹿野掃部祐の両人扈従す、天皇崩後の後天平山に葬り社を建てて神霊を祀り山神と称した。久我氏は連綿今(明和九年、1772年頃)に至る。皇居の地を王沢・王沢宅といい、天皇の宸影は別当修験大性院家に蔵す。〟

 ここに見える「久我大連」という人物名が歴史事実であれば、「大連(おおむらじ)」の姓(かばね)を持つことから、蝦夷国ではなく恐らくは九州王朝系の人物であり、武烈天皇の時代(498~506年)、すなわち六世紀初頭頃に九州王朝系の有力者がこの地(蝦夷国)に来たことを示す伝承なのかもしれません。もしかすると、『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇に置き換えられて伝わったのかもしれませんが、さすがに宮城県北部まで倭王武が来たとは考えにくいように思います。

 しかしながら、栗原市の入の沢遺跡の古墳時代前期(4世紀)の集落跡からは、銅鏡4面や勾玉や管玉、ガラス玉、斧などの鉄製品が出土しています。また、仙台市には遠見塚古墳(墳丘長110m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)、隣接する名取市には東北地方最大の雷神山古墳(墳丘長168m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)があります。両古墳の存在から、仙台平野や名取平野が古墳時代の東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえます。ちなみに、雷神山古墳は九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半の前方後円墳)よりも墳丘長が大きいのです。

 更に仙台市には東北地方最古の須恵器窯跡とされる大蓮寺窯跡(5世紀中頃)もあり、古墳時代から九州王朝(倭国)との交流があったことは疑えません。(つづく)

(注)
①Wikipediaには次の山神社が紹介されている。
【主な山神社(さんじんじゃ)】
釜石製鐵所山神社 – 岩手県釜石市桜木町
山神社 – 宮城県栗原市鶯沢
山神社 – 宮城県栗原市若柳川南
山神社 – 宮城県栗原市若柳上畑岡
山神社 – 宮城県栗原市一迫北沢
山神社 – 宮城県栗原市一迫清水目
櫻田山神社 – 宮城県栗原市栗駒:山神社
山神社 – 宮城県石巻市北上町十三浜大室
山神社 – 宮城県石巻市北上町十三浜小滝
山神社 – 宮城県柴田郡柴田町四日市場
山神社 – 山形県新庄市本合海
山神社 – 山形県最上郡金山町有屋
山神社 – 山形県最上郡最上町富沢
山神社 – 山形県最上郡舟形町舟形
山神社 – 山形県最上郡真室川町及位
山神社 – 山形県最上郡鮭川村曲川
山神社 – 山形県最上郡戸沢村松坂
山神社 – 徳島県吉野川市山川町皆瀬:紙漉神社
山神社 – 愛媛県松山市東野
【主な山神社(やまじんじゃ)】
山神社 – 宮城県亘理郡亘理町吉田
山神社 – 秋田県北秋田市阿仁笑内:旧郷社
山神社 – 山形県最上郡最上町本城
山神社 – 山形県山形市神尾
山神社 – 山形県寒河江市田代
山神社 – 山形県村山市河島]
山神社 – 山形県天童市山口
山神社 – 山形県東根市関山
山神社 – 山形県尾花沢市五十沢
山神社 – 山形県東田川郡三川町押切新田
山神社 – 山形県西村山郡朝日町杉山
山神社 – 山形県西村山郡大江町柳川
山神社 – 山形県西置賜郡白鷹町萩野
山神社 – 千葉県君津市笹
山神社 – 千葉県君津市日渡根
山神社 – 栃木県宇都宮市下岡本町
山神社 – 東京都多摩市桜ヶ丘
新屋山神社 – 山梨県富士吉田市新屋:山神社
山神社 – 愛知県名古屋市千種区田代町:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市中区松原:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市北区安井
山神社 – 愛知県刈谷市一里山町
山神社 – 兵庫県豊岡市日高町:式内名神大社
山神社 – 和歌山県西牟婁郡白浜町3035
山神社 – 愛媛県松山市萩原
山神社 – 長崎県南松浦郡新上五島町船崎郷
山神社 – 大分県大分市広内
【主な山神社(やまのかみしゃ)】
山神社 – 宮城県遠田郡美里町牛飼:旧郷社
山神社 – 山梨県中央市大鳥居
山神社 – 愛知県名古屋市港区知多:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市緑区大高町:旧村社
山神社 – 愛知県尾張旭市瀬戸川町
山之神社 – 愛知県半田市山ノ神町
山神社 – 愛知県半田市天王町
山神社 – 愛知県半田市岩滑東町
山ノ神社 – 愛知県知多郡武豊町山ノ神
※東海地区では小規模な神社が多い。ただし、数は多く、境内社も含めると相当数になる。
【主な山神社(やまがみしゃ)】
山神社 – 愛知県碧南市山神町
②『封内風土記』(ほうないふどき)は、日本の江戸時代に仙台藩が編纂した地誌である。1772年に完成した。仙台と領内のすべての村について、地形・人文地理に関わる事項を列挙・解説し、各郡ごとに集計し、さらに郡単位の統計事実や解説を加える。著者は仙台藩の儒学者田辺希文。全22巻で、漢文で書かれた。(Wikipediaによる)


第3518話 2025/08/19

狩野英孝さんの実家

  「櫻田山神社」の祭神「武烈天皇」

 テレビでも人気お笑い芸人として活躍している狩野英孝(かのえいこう、注①)さんのご実家が神社ということは聞いていましたが、たまたまテレビ番組でその神社は千五百年の歴史があると紹介されており、驚きました。そこでネットで調べてみると、それは宮城県栗原市にある櫻田山神社(さくらださんじんじゃ、注②)という神社で、ご祭神は『日本書紀』では非道な天皇とする武烈天皇でした。ちなみに、英孝さんは東日本大震災で被災した実家の神社を継いで神職もされているとのこと。

 ここでわたしが抱いた疑問が、❶何故、祭神が武烈天皇なのか、❷武烈天皇が当地に追放され、同天皇の側近であった鹿野掃部之祐が当地に創建したという社伝は歴史事実なのか、❸大和にいた武烈がなぜ宮城県に逃げたのか、❹そしてなぜ「山神社」と呼ばれているのかということでした。(つづく)

(注)
①Wikipediaでは次のように紹介する。
狩野英孝(かの えいこう、1982年〈昭和57年〉2月22日)は、日本のお笑いタレント、YouTuber、ミュージシャン、俳優、神職。マセキ芸能社所属。芸風はナルシシストキャラによる1人コント、クセの強い歌ネタ、リアクション芸が特徴。ミュージシャンとしては、主に『ロンドンハーツ』のドッキリ企画から誕生した50TA(フィフティーエー)として活動。第39代櫻田山神社神主。
②同上。
櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)は、宮城県栗原市栗駒桜田にある神社。正式名称は山神社(さんじんじゃ)であるが、地区名の桜田を冠した「櫻田山神社」で一般に呼ばれる。約1500年前に創建されたとされ、県内でも有数の歴史を持つ。社格は村社。仙台藩編纂の封内風土記によれば武烈天皇の崩御後の6世紀初頭(古墳時代後期)、同天皇の側近であった鹿野掃部之祐が、当地に創建したとされる。当社は、北上川水系江合川上流の二迫川南岸、栗駒山から南東に延びる舌状台地上にあり、「山神社」と呼ばれた。


第3310話 2024/06/25

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (3)

 九世紀の大阪(摂津国)に「長柄(ながら)」地名があったことを示す『日本後記』『日本文徳天皇實録』の記事よりも更にはやい、八世紀の史料『住吉大社神代記』があることを谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えて頂きました。『住吉大社神代記』は、わたしも三十年前に研究したことがあり、当時の資料ファイルを書架から引っ張り出しました。わたしが持っている「校訂住吉大社神代記」(注)コピーには、「長柄」地名が記されている部分に傍線を引いていましたので、わたしも注目していたようです。当該部分を引用します。

 「長柄神」〔長柄の神〕
「難波長柄泊賜。膽駒山嶺登座時。」〔難波の長柄に泊り賜ふ。膽駒山の嶺に登り座す時。〕
「自長柄泊登於膽駒峯賜」〔長柄の泊(とまり)より膽駒の嶺に登り賜ひて〕
「長柄船瀬本記
四至(東限高瀬。大庭。南限大江。西限鞆淵。北限川岸。
右。船瀬泊~」〔長柄船瀬の本記 四至(東を限る、高瀬・大庭。南を限る、大江。西を限る、鞆淵。北を限る、川*岸。 右の船瀬泊は~)〕 ※「*岸」は土偏に岸。
「自筑紫難波長柄 仁 依坐 弖」〔筑紫より難波の長柄に依り坐して〕

 『住吉大社神代記』の奥書には「天平三年七月五日」(731年)とあり、この成立年次が正しければ八世紀前半には「長柄」地名があったことになります。しかも、「長柄船瀬本記」に見える長柄船瀬の四至により、長柄船瀬は上町台地の北にあると理解されているようです。脚注に次の説明があります。

○高瀬―和名抄、河内国茨田郡高瀬郷あり。播磨国風土記に「摂津国高瀬之済」とみゆ。行基年譜に「直道一所、高瀬より生馬大山への登道あり」とみえることに注意。
○大庭―河内志、茨田郡に大庭荘・大庭渠あり。
○大江―上町台地の北にそそぐ河内川なるべし。
○鞆淵―摂津志、東生郡に友淵あり。
○川*岸―この川は摂津志西生郡の長柄河(一名中津川)なるべし。

 この脚注が正しければ、長柄船瀬は大阪市北区長柄の地にあったとしてもよいように思いますし、大きくは外れていないのではないでしょうか。(つづく)

(注)田中卓『住吉大社史』上巻「校訂住吉大社神代記」「訓解住吉大社神代記」1963年。


第3050話 2023/06/23

「赤淵大明神縁起」所蔵文書館の紹介

本日の「多元の会」リモート研究会では、服部静尚さんによる『赤淵神社縁起』の解説がありました。同縁起は兵庫県朝来市にある赤淵神社所蔵のもので、九州年号の常色や朱雀などが記されており、注目されています。同研究会に参加した関東の研究者の皆さんも感心を示されたようで、『赤淵神社縁起』に関する拙稿についても紹介させていただきました。本稿末尾に同じく正木裕さんの関連論文と拙稿の表題などを付記しましたので、「古田史学の会」ホームページ「新古代学の扉」などで閲覧いただければ幸いです。また、ご質問頂いた、常色年間(647~651)頃の九州王朝(倭国)と蝦夷国との関係については、正木裕さんの論稿「『書紀』「天武紀」の蝦夷記事について」(注①)に詳述されていますので、ご参照下さい。
なお、赤淵神社蔵『赤淵神社縁起』とほぼ同内容の『赤淵大明神縁起』(注②)が福井県文書館松平文庫にあり、申請すれば閲覧が可能です。こちらは公立の施設ですから、どなたでも利用でき、研究に便利です。

(注)
①正木 裕「『書紀』「天武紀」の蝦夷記事について」『古田史学会報』113号、2012年。
②朝倉義景が永禄三年(1560)に心月寺(福井市)の才応総芸に命じて作らせたとされる。内容は『赤淵神社縁起』に酷似している。

【赤淵神社関連論稿(古田史学の会)】

古賀達也の洛中洛外日記「赤淵神社」カテゴリー一括表示
○古賀達也「洛中洛外日記」604話(2013/10/03)〝赤渕神社縁起の「常色元年」〟
○同606話(2013/10/06)〝「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号〟
○同607話(2013/10/12)〝実見、『赤渕神社縁起』(活字本)〟
○同608話(2013/10/13)〝『多遅摩国造日下部宿禰家譜』の表米宿禰〟
○同610話(2013/10/17)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎〟
○同611話(2013/10/18)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相〟
○同613話(2013/10/20)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」〟
○同614話(2013/10/22)〝『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」〟
○同615話(2013/10/24)〝日本海側の「悪王子」「鬼」伝承〟
○同618話(2013/11/04)〝『赤渕神社縁起』の九州年号〟
○同690話(2014/04/06)〝朝来市「赤淵神社」へのドライブ〟
○同719話(2014/06/02)〝因幡国宇倍神社と「常色の宗教改革」〟
○同1093話(2015/11/14)〝永禄三年(1560)成立『赤淵大明神縁起』〟
○同1095話(2015/11/21)〝関西例会で赤淵神社文書調査報告〟
○同1097話(2015/11/27)〝『赤淵大明神縁起』の史料状況〟
○同2949話(2023/02/20)〝甲斐国造の日下部氏と九州王朝〟
○古賀達也「『赤渕神社縁起』の史料批判」『古代に真実を求めて』17集、明石書店、2014年。
○同「赤渕神社縁起の表米宿禰伝承」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)明石書店、2019年。
○正木 裕「九州王朝の天子の系列(下改め3)『赤渕神社縁起』と伊勢王の事績」『古田史学会報』166号、2022年。


第2949話 2023/02/20

甲斐国造の日下部氏と九州王朝

甲斐国造と但馬国造を日下部氏とする諸説(注①)を知り、わたしは赤渕神社史料のことを思い出しました。朝来市にある同神社調査については「洛中洛外日記」などでも報告したように(注②)、九州年号「常色」「朱雀」などを持つ『赤渕神社縁起』の成立は天長五年(828年)で、現存する九州年号史料としては最古級です。
『赤渕神社縁起』によれば、表米宿禰(ひょうまいのすくね)という人物の伝承が記されており、それは常色元年(647年)に丹後に攻めてきた新羅の軍船を表米宿禰が迎え討ち、勝利したというものです。表米宿禰は孝徳天皇の第二皇子という伝承もありますが、『日本書紀』にはこのような名前の皇子は見えません。そこで、これは九州王朝の王族に関する伝承ではないかと考えています。
この表米宿禰は現地氏族の日下部氏の祖先とされています。他方、九州王朝の天子の一族と思われる高良大社の祭神、高良玉垂命の子孫も日下部氏(草壁氏)を名乗っています。もしかすると、古代における日下部氏は九州王朝の有力な軍事氏族ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①関晃「付編1、甲斐国造と日下部」『関晃著作集二 大化改新の研究 下』吉川弘文館、1996年。
古川明日香「甲斐国造日下部氏の再評価 ―『古事記』・『国造本紀』の系譜史料を手がかりに―」『研究紀要 26』山梨県立考古博物館 山梨県埋蔵文化財センター、2010年。
②古賀達也「洛中洛外日記」604話(2013/10/03)〝赤渕神社縁起の「常色元年」〟
同606話(2013/10/06)〝「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号〟
同607話(2013/10/12)〝実見、『赤渕神社縁起』(活字本)〟
同608話(2013/10/13)〝『多遅摩国造日下部宿禰家譜』の表米宿禰〟
610話(2013/10/17)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎〟
同611話(2013/10/18)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相〟
同613話(2013/10/20)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」〟
同614話(2013/10/22)〝『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」〟
同618話(2013/11/04)〝『赤渕神社縁起』の九州年号〟
古賀達也「『赤渕神社縁起』の史料批判」『古代に真実を求めて』17集、明石書店、2014年。
同「赤渕神社縁起の表米宿禰伝承」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)明石書店、2019年。


第1544話 2017/11/25

『苫田郡誌』に見える「高良神社」

 「洛中洛外日記」1542話で紹介した『まいられぇ岡山』(山陽新聞社)に掲載されている高野神社(津山市、安閑天皇2年〔534〕)について調査してみました。
 津山市地方の昭和初期の記録に『苫田郡誌』(苫田郡教育委員会編集、昭和2年発行)があり、国会図書館デジタルライブラリーで同書を流し読みしたところ、高野神社の説明として次のように記されていました。

 「高野神社 所在 二宮村字高野
 彦波限建鵜草葺不合尊を祀り、大己貴命・鏡作尊を相殿となす。社傳によれば安閑天皇二年の鎮座と称せられ、(以下略)」(1004頁)

 社傳に「安閑天皇二年の鎮座」とあるとのことですから、神社には史料が残っていそうです。
 その『苫田郡誌』の神社の項目を読んでいますと、この地方にも「高良神社」「高良神」がありました。

 「田神社 所在 田邑村大字下田邑
 應神天皇・神功皇后を祀り、高良命を相殿となす。(以下略)」(1105頁)
 「高良神社 所在 高野村大字押入
 武内宿禰命を祀る。由緒不明」(1116頁)

 この他に、「高良神社」ではありませんが、欽明期創建と伝える神社が散見され、興味深い地域のように思われました。当地の研究者による多元史観での再検討が期待されます。


第1543話 2017/11/24

四国の高良神社

 今日、出張から戻ると別役政光さん(古田史学の会・会員、高知市)から『古田史学会報』への投稿原稿が届いていました。「四国の高良神社 見えてきた大宝元年の神社再編」という論稿で、四国各県の「高良神社」の一覧が添えられていました。それには四国四県併せて20社以上の高良神社が列記されており、四国にこれほどの高良神社があることに驚きました。
 今までの研究では、本家本元の福岡県以外では長野県に高良神社が濃密分布していることが知られていました。その後、久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)の調査により、淡路島にも複数の高良神社の存在が確認されたのですが、なぜ淡路島に分布するのかがわかりませんでした。今回の別役さんの報告により、四国と淡路島に高良神社の分布が確認されたわけで、福岡県(筑後)から四国を経由して淡路島へと高良信仰が伝わったという可能性が浮上してきました。
 別役さんの論稿は、四国の高良神社研究の初歩的ではありますが先駆をなすものですので、『古田史学会報』への採用を決めました。これからの更なる研究の進展が期待されます。


第1462話 2017/07/23

『丹哥府志』の古伝承(1)

 「洛中洛外日記」1436話と1437話において、舞鶴市の朝代神社(あさしろじんじゃ)が『丹哥府志』の記録などを根拠に白鳳元年(661)創建であったことを論じました。その「洛中洛外日記」を読まれた京丹後市の森茂夫さん(古田史学の会・会員)から『丹哥府志』に記された興味深い伝承記録についての情報が寄せられましたので、ご紹介します。

 『丹哥府志』「巻之八 加佐郡第一 志楽の庄 小倉村」の項に、河良須神社の勧請が「天智天皇白鳳十年辛未の秋九月三日」とされているのですが、この「九月三日」が先の朝代神社の創建日と同じなのです。『丹哥府志』には朝代神社の創建記事が次のように記されています。

 「田辺府志曰。朝代大明神は日之若宮なり、白鳳元年九月三日淡路の国より移し祭る」

 ともに白鳳年間の創建であり「九月三日」の日次が同じなのは偶然とは考えにくく、両神社には何か関係があったのではないかと思います。『丹哥府志』の河良須神社の記事は次の通りです。

◎小倉村(市場村の次、若狭街道、古名春日部)
【河良須神社】(延喜式)
社記曰。丹波の国加佐郡春日部村柳原に鎮座ましますは豊受大神宮なり、神名帳に所謂河良須神社是なり、今正一位一宮大明神と稱す、天智天皇白鳳十年辛未の秋九月三日爰に勧請す、明年高市皇子故ありて丹波に遁る、此時柳原の神社へ詣で給ふ時に和歌一首を作る、(後略)

 ここに見える「天智天皇白鳳十年辛未」の表記ですが、九州年号の白鳳十年の干支は庚午で670年に当たります。辛未は天智十年(671)のことであり、『日本書紀』の紀年と九州年号が一年ずれて「合成」された姿を示しています。従って、本来の伝承が九州年号の「白鳳十年」であれば、「天智天皇」「辛未」は後世において『日本書紀』の影響を受けて付加されたものと考えられます。

 「明年高市皇子故ありて丹波に遁る」という伝承も興味深いものです。天智十年の明年であれば「壬申の乱」の年(672)に相当しますから、その年に高市皇子が丹波国に逃れたという伝承が真実か否かはわかりませんが、何らかの歴史事実を反映したものではないでしょうか。なお、ネット検索によると「河良須神社」ではなく「阿良須神社」とあり、森さんから送っていただいた『丹哥府志』活字本の誤植のようです。(つづく)


第1339話 2017/02/20

住吉大社「九州王朝常備軍」説と学問研究

 2月の「古田史学の会」関西例会において、原幸子さんから住吉大社は九州王朝の「常備軍」とする仮説が発表されました。わたしも意表を突かれた思いでお聞きしましたが、正確に言うならばまだ作業仮説(思いつき)の段階に留まっている研究です。しかし、わたしは学問研究において、こうしたアイデアや作業仮説が自由に発表され、また自由に論争できる環境こそ「古田史学の会」らしい真の学問研究の場だと確信しています。
 こうした作業仮説の発表に対して、「実証されていない」とか、「古田説と異なる」という「批判」が出されるかもしれませんが、それは学問的態度ではありません。古田先生ご自身も古墳に埋納された多量の武器や甲冑に対して、これを埋納ではなく、古墳を武器庫(軍事施設)としていたのではないかとする作業仮説を発表されたことがありました。この仮説について、わたしは賛成できませんでしたが(地下の石室中では腐食や腐敗が避けられないため)、学問研究ではこうした意見を自由に発表しあえることが重要であり、仮に間違っていたとしても、学問研究の進展に役立つことができることを古田先生から学びました。
 今回の原さんの仮説は『住吉大社神代記』などを根拠にされたもので、「住吉大社は軍事施設」だったと直接記された史料(実証)があるわけではありません。これは「太宰府は九州王朝の都」だと直接記された史料(実証)がないのと同様です。
 しかし、難波に古くから九州王朝の軍事組織があったとするアイデアは九州王朝説の立場からすれば必ずしも不当な考えではありません。また「難波吉士」という不思議な「職名」が古代史料に散見することも、原さんの仮説により説明しやすくなりそうです。この仮説の当否は今後の検討・論争に委ねなければなりませんが、学問研究にとって有益な新視点をもたらす仮説だとわたしは評価します。