「 赤渕神社 」一覧

第1097話 2015/11/27

『赤淵大明神縁起』の史料状況

 「洛中洛外日記」第1093話で、永禄三年(1560)成立の『赤淵大明神縁起』をオール漢字の『赤淵神社縁起』を読み下したものと紹介したのですが、それはわたしのとんでもない勘違いでした。同書の存在を教えていただいた金沢大学のKさんから届いたメールによると、Kさんがわたしに提供されたものは『赤淵大明神縁起』をKさんが書き下ろして訳されたもので、原本は漢文とのことでした。
 『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)は福井県文書館に所蔵されており、同館のデジタルライブラリーで閲覧可能でした。パソコン画面で拝見しますと、本文は赤淵神社所蔵の『赤淵神社縁起』とほとんど同文のようです(比較精査中)。また、両者の活字本の共通した「欠字」部分は、欠字ではなく、ワープロに無い文字(梵字か)であったため、共に「欠字」のような扱いとなっていたことも、赤淵神社で原文を実見して判明しました。『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)をワープロで活字起こしされたKさんからも、このことを確認できました。この点も、わたしの「早とちり」でした。
 既に指摘したことですが、『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)には末尾に「天長五年」という年次表記がなく、体裁としては永禄三年(1560)に心月寺(福井市)の才応総芸によるものとなっています。その理解が正しいとすると、赤淵神社にあるほぼ同文の『赤淵神社縁起』は才応総芸による『赤淵大明神縁起』の写本となってしまうのですが、その場合、末尾の「天長五年」という年次表記が意味不明となってしまいます。
 なお赤淵神社には、ともに「天長五年」の年次表記を末尾に持つ、内容が若干異なる「赤淵神社縁起」が2種類あり、このことも含めて才応総芸による『赤淵大明神縁起』との関係などを引き続き調査検討する必要があります。
 ちなみに、才応総芸が『赤淵大明神縁起』を書いたとき、九州年号の「常色元年(647)」「常色三年(649)」「朱雀元年(684)」をそのまま使用しており、永禄三年(1560)にそれら九州年号による表米の活躍を記した史料が存在していたことは疑えません。そして、才応総芸はそれら九州年号を『日本書紀』にある「大化(645〜649)」や「朱鳥(686)」に書き換えることなく、そのまま九州年号で『赤淵大明神縁起』を書いたとすれば、それが創作であれ書写であれ、才応総芸の「古代年号」認識を考える上で興味深い史料状況です。(つづく)


第1095話 2015/11/21

関西例会で赤淵神社文書調査報告

 今日の関西例会は冒頭に西村さんから、那須与一が扇の的を射たのは現地伝承の高松市牟礼町側(東側)ではなく、西の屋島側からとする考察が発表されました。西側からでないと逆光(夕日)となり、眩しくて的を射ることは困難とのことです。また、その日の戦闘で那須与一は屋島の「内裏」焼き討ちに参戦しており、屋島側にいたことは明らかです。従って、現在の「現地伝承」は信用できないとされました。
 正木裕さんからは、北海道のアイヌの聖地(沙流川水系額平川・沙流郡平取町)から産出される「アオトラ石(縄文時代の石斧の材料・緑色片岩の一種)」を紹介され、古田先生が『真実の東北王朝』で記されたとおり、アイヌ神話(アイヌの「天孫降臨神話」)が縄文時代にまで遡ることを報告されました。
 11月18日に実施した朝来市の赤淵神社文書現地調査報告として、茂山憲史さんが撮影された文書の写真をプロジェクターで映写し、正木さんから説明されました。
 わたしからも、赤淵神社縁起が2種類あり、どちらがより原型を保っているのか史料批判上判断しがたいことを説明しました。いずれにしても平安時代成立(天長5年、828年)の史料に九州年号の「常色」や「朱雀」が記されていることには違いなく、九州年号を鎌倉時代に僧侶が偽作したとする「通説」を否定する直接史料であることを強調しました。引き続き、同史料の調査分析を進めたいと思います。
 11月例会の発表は次の通りでした。

〔11月度関西例会の内容〕
①那須与一「扇の的」の現場検証(高松市・西村秀己)
②「最勝会」について(八尾市・服部静尚)
③イ妥国伝の「東西五月行南北三月行」(姫路市・野田利郎)
④『園部垣内古墳』を読んで(京都市・岡下英男)
⑤『真実の東北王朝』は「真実」だった(川西市・正木裕)
⑥赤淵神社文書映写(茂山憲史氏撮影。解説:正木裕さん)
⑦赤淵神社文書現地調査報告(京都市・古賀達也)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生追悼会の準備・森嶋瑤子さん(森嶋通夫夫人)へメッセージ要請・KBS京都「本日、米團治日和」テープ起しの校正・史跡巡りハイキング(阪神香櫨園駅周辺、辰馬考古資料館)・TV視聴(奈良大学文学講座)・光石真由美『旅を書く』・大橋乙羽『千山萬水』・その他


第1093話 2015/11/14

永禄三年(1560)成立『赤淵大明神縁起』

 朝来市の赤淵神社所蔵の『赤淵神社縁起』の研究を「洛中洛外日記」で連載したところ、金沢大学のKさんからメールをいただき、以来、学問的な交流が続いています。今回、Kさんから『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)の存在を教えていただきました。いただいたメールによると、『赤淵神社縁起』は朝倉義景が永禄三年(1560年)に心月寺(福井市)の才応総芸に命じて作らせたとされる『赤淵大明神縁起』に酷似しているということなのです。
 そこで、先日拝見させていただいた赤淵神社所蔵の『赤淵神社縁起』(活字本、天長五年成立)と比較したところ、オール漢字の『赤淵神社縁起』を読み下したものが『赤淵大明神縁起』であることがわかりました。しかも、『赤淵大明神縁起』は欠字が多く、『赤淵神社縁起』の方がより祖形であると判断できました。
 しかも両者は恐らく同系統の原本に基づいていると考えられます。その根拠の一つは、冒頭近くにある次の文の※部分の字が共に欠字となっており、既に※の部分が欠字となった共通の原本(の系統)によったと考えられるからです。

 「吾朝大日※字之上具足国也雖為小国号大日本国」(『赤淵神社縁起』赤淵神社所蔵本)

 「吾ガ朝ハ大日※字ノ之上ニ□テ?□足スル国也、小国為リトイヘドモ、大日本国ト号ス、」(『赤淵大明神縁起』松平文庫本)
 〔古賀注〕「※」「□」は欠字。「?」は活字が読みとれませんでした。

 この他にも、『赤淵大明神縁起』では九州年号の「常色元年」(647年)という表記が「常□元年」(□は欠字)となっていたり「常常元年」となっている部分があり、『赤淵神社縁起』赤淵神社所蔵本の方が良好な写本です。しかも、『赤淵大明神縁起』松平文庫本の末尾には書写年次は「永禄三年庚申六月六日 総芸 判」と記されていますが、書写原本の成立年次「天長五年」(828年)は記されていません。もちろん、最終的には活字本ではなく原本での確認が必要です。
 この『赤淵大明神縁起』松平文庫本により、『赤淵神社縁起』赤淵神社所蔵本の書写原本、あるいは同系統本の存在が永禄三年(1560年)までは確実に遡れることとなりました。
 心月寺(福井市)の才応総芸に『赤淵大明神縁起』の作成を命じた朝倉義景は表米宿禰の子孫ですから、みずからの出自が7世紀の表米宿禰であり、表米宿禰は孝徳天皇の皇子であるとする『赤淵大明神縁起』やその伝承を重要視していたことは確かでしょう。こうして、平安時代成立の九州年号史料『赤淵神社縁起』の研究はまた一歩進展しました。こうなると学問のためにも、赤淵神社所蔵原本を拝見する機会を得たいと願っています。


第791話 2014/09/24

所功『年号の歴史』を読んで(3)

 所さんは『二中歴』の成立時期に対する誤解から、九州年号の「出揃い(偽作)」時期を鎌倉末期とされ、平安時代の史料には存在しないとされています。しかし、「洛中洛外日記」618話「『赤渕神社縁起』の九州年号」などにおいて、わたしは平安時代に成立した『赤渕神社縁起』(兵庫県朝来市赤淵神社蔵)に九州年号の「常色元年」「常色三年」「朱雀元年」が記されていることを紹介しました。こうした史料の存在も所さんはご存じなかったようです。
 現存の『赤渕神社縁起』は書写が繰り返された写本ですが、その成立は「天長五年丙申三月十五日」と記されていますから、828年のことです(天長五年の干支は戊申。丙申とあるのは誤写誤伝か)。
 なお、古田先生が紹介された『続日本紀』神亀元年十月条(724)の聖武天皇詔報に見える九州年号「白鳳」「朱雀」を所さんは九州年号とは見なされていません。「白鳳」「朱雀」も『二中歴』に見える「古代年号」に含まれているのですから、九州年号が成立の早い史料に見えないとするのは不当です。(つづく)


第690話 2014/04/06

朝来市「赤淵神社」へのドライブ

 昨日はお花見を兼ねて、兵庫県朝来市までドライブしました。高速道路を使って京都から3時間ほどの行程で、途中、有名な山城の竹田城を車窓から見ることもできました。今回のドライブの一番の目的は、九州年号史料(常色元年〔647〕など)の『赤渕神社縁起』を持つ赤淵神社を訪問することでした。地図などでは「赤渕神社」と表記されることが多いのですが、同神社紹介のパンフレット(旧「和田山町教育委員会」発行)には「赤淵神社」とありましたので、今後は神社名は「赤淵神社」、史料名としては『赤渕神社縁起』と記すことにします。
 残念ながら宮司さん(国里愛明さん)はご不在でしたので朝来市和田山郷土歴史館に行き、『和田山町史』(平成16年発行・2004年)をコピーさせていただきました。赤淵神社のパンフレットも同館で入手したものです。入館料や駐車料金も無料で、とても親切な歴史館でした。そこでの展示パネルを見て驚いたのですが、同地の円龍寺には白鳳時代のものと思われる小型の金銅菩薩立像(32cm)があることでした。
 更にこんな山奥の狭い地域にもかかわらず多くの古墳があり、三角縁神獣鏡などが出土していることも注目されました。朝来市発行の観光パンフレットなどによれば、朝来市和田山筒江にある「茶すり山古墳」は近畿地方最大の円墳(直径約90m、高さ18m。5世紀前半代)とのことで、未盗掘だったため、長さ 8.7mの木棺からは多数の副葬品が出土しています。
 北近畿豊岡自動車道の山東パーキングエリアに隣接している朝来市埋蔵文化財センター「古代あさご館」には同地の古墳などからの出土品が展示されており、まだ真新しく、しかも入館料・駐車料ともに無料でした。一般道路からも入れますので、おすすめです。遺跡等を紹介したパンフレットも多数あり、それらも無料でしたのでいただいてきました。展示品には「茶すり山古墳」出土の「蛇行剣」とその複製品に目を引かれました。
 天長5年(828)成立の九州年号史料『赤渕神社縁起』や、『古事記』(和銅5年成立・712年)よりも成立が古い『粟鹿大神元記』(和銅元年成立・ 708年)で著名な「粟鹿神社」、そして近畿地方最大の円墳「茶すり山古墳」などが存在する朝来市は予想以上にすごいところでした。「粟鹿神社」を最後に訪問して京都に帰りましたが、朝来市の桜も京都鴨川の桜並木も満開で、快適なドライブでした。


第618話 2013/11/04

『赤渕神社縁起』の九州年号

 『赤渕神社縁起』に九州年号の「常色元年」「常色三年」「朱雀元年」が記されていることは既に紹介してきたところですが、実はこの史料事実が持つ重要な論理性を見落とすところでした。わたしにとって、九州年号の実在性は、あまりにも当然でわかりきったことでしたので、 うっかり大切なことに気づかずにいました。このことについて説明します。
 現存の『赤渕神社縁起』は書写が繰り返された写本ですが、その成立は「天長五年丙申三月十五日」と記されていますから、828年のことです(天長五年の干支は戊申。丙申とあるのは誤写誤伝か)。従って、『日本書紀』成立(720)以後に記された縁起です。もちろん、九州年号を含む記事の原史料の成立はおそらく7世紀にまで遡ることでしょう。そのため、『赤渕神社縁起』には『日本書紀』の影響下で編纂された痕跡が当然のこととして見られます。たとえば7世紀の出来事であっても、行政単位は「評」ではなく、「郡」で表記されています。「丹後国与佐郡」「丹波天田郡」「養父郡」「朝来郡」などです。天皇の名前も「神武天皇」「孝徳天皇」「皇極天皇」「斉明天皇」といったように、『日本書紀』成立以後につけられた漢風諡号が用いられています。
 こうしたことは、天長五年成立の文書であれば、当然ともいえる現象なのですが、それなら何故九州年号の「常色」が記されたのでしょうか。『日本書紀』にはこの常色元年(647)に当たる年は「大化三年」とされていますし、常色三年(649)は「大化五年」であり、わざわざ九州年号の常色を使用しなくても、『日本書紀』にある「大化」を使用すればよかったはずです。しかし、『赤渕神社縁起』には、年号については九州年号の常色が使用されているのです。
 この史料事実は、『赤渕神社縁起』編纂に当たり引用した元史料には九州年号の常色が既に書かれていたことを意味します。もし、元史料が干支のみの年代表記であれば、そのとおりの干支を用いるか、『日本書紀』にある「大化」を使用したはずで、わざわざ九州年号などで記す必要性はありません。ということは、 天長五年時点に九州年号「常色」による元史料があったことを意味するのです。近畿天皇家一元史観の通説では、九州年号は鎌倉・室町時代以降に僧侶により偽作されたものとしているのですが、828年に成立した『赤渕神社縁起』に記された九州年号「常色」の存在は、この通説を否定する論理性を有しているのです。この論理性を、わたしは見過ごすところでした。
 もともと、九州年号偽作説には学問的根拠がなく、論証の末に成立した仮説ではありません。いうならば、近畿天皇家一元史観というイデオロギー(戦後型皇国史観)により、論証抜きで「論断」された非学問的な「仮説(憶測)」に過ぎなかったのです。したがって、わたしが提起した「元壬子年」木簡(九州年号の白雉元年壬子、652年。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土)についても全く反論できず、無視を続けています。こうした、九州年号偽作説(鎌倉・室町時代に僧侶が偽作したとする)を否定する論理性を『赤渕神社縁起』の九州年号「常色」は有していたのです。
 また、九州年号には「僧聴」「和僧」「金光」「仁王」「僧要」などのように仏教色が強い漢字が用いられていることから、僧侶による偽作と見なされてきたのですが、実際の史料状況は『赤渕神社縁起』のように、寺院よりも神社関連文書に多く九州年号が見られます。こうした点からも、九州年号偽作説がいかに史料事実に基づかない非学問的な「仮説」であるかは明白なのです。


第615話 2013/10/24

日本海側の「悪王子」「鬼」伝承

 今週初めからの出張で、富山県高岡市・魚津市、新潟県長岡市・五泉市と周り、ようやく東京に着きました。今、八重洲のブリジストン美術館のティールーム・ジョルジェットでランチをとっています。このお店のミックスサンドとダージリンティーのセット(1200円、30食限定)はおすすめです。壁には長谷川路可(はせがわ・るか 1897-1967)のフレスコ画4点が展示されており、そのやわらかな色調には心が癒されま す。ここはわたしのお気に入りのお店です。

 高岡市では少し空き時間ができましたので、お城の中にある市立博物館に行ってきました。古くて地味な博物館でしたが、入館料は無料で受付のご婦人はとても上品で親切な方でした。当地の歴史研究会が発行した会誌などを閲覧しましたが、そこに連載されていた「悪王子」伝説の研究論文には興味をひかれました。
 昔々、高岡市の二上山に住む悪王子に、毎年、越中の乙女を大勢人身御供として差し出していたという伝説に関する研究で、「悪王子」を祭る神社や伝説が各 地にあることなどが紹介されていました。京都にも「悪王子」を祭る神社があるとのことで、わたしはそのことを知りませんでした。
 また別の記事によれば、日本海側には各地に「鬼」に関する伝承があり、「鬼」サミットなどが開催されていることも知りました。これら「悪王子」や「鬼」 の伝承が、『赤渕神社縁起』の「鬼神」「悪鬼」と関係があるのかどうか興味がわきました。有名な秋田の「なまはげ」なんかも「鬼」伝承の一つでしょうか。 すでに「鬼」に関する研究は数多くなされていますから、「鬼」を「蝦夷」とする先行説があるのか、京都に帰ったら調べてみようと思います。

 外はまだ雨です。これから東京で仕事をした後、名古屋に向かい、夕方から代理店と商談です。今夜は名古屋で宿泊し、明日は岐阜県養老町に向かいます。台風の影響で新幹線が遅れないことを祈っています。


第614話 2013/10/22

『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」

 正木裕さんが『日本書紀』天武紀持統紀の記事に34年前の記事が移動挿入され ているという「34年遡上」説を関西例会などで発表されたとき、34年前の記事なのか本来その年の記事なのかの判断に恣意性が入り、論証は困難ではないかと、わたしや西村秀己さんから度々批判がなされ、論争が続きました。そうした数年にわたる学問的試練を経て、正木さんの「34年遡上」説は検証され淘汰され、今日に至っています。関西例会参加者には、よくご存じのことかと思います。
 しかしそれでもなお「34年遡上」説の中には半信半疑のテーマもありました。たとえば『古田史学会報』85号(2008年4月)で発表された「常色の宗教改革」 という仮説です。九州年号の常色元年(647)、九州王朝により全国的な神社の「修理」や役職任命、制度変更が開始されたとする説です。そしてその「常色の宗教改革」の詔勅が34年後の天武十年(681)に「神宮修理の詔勅」として『日本書紀』に記されているとされたのです。次の詔勅です。

 「天武十年(681)の春正月(略)己丑(十九日)に、畿内及び諸国に詔して、天社地社の神の宮を修理(おさめつく)らしむ。」

 この記事について、正木さんは次のように指摘されています。
 「この記事は本来三四年遡上した常色元年の『神社改革の詔勅』であり、以後順次全国的に実施されたと考えられる。」正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号(2008年4月)

 この正木説に対して、そうかもしれないが本当にそうだと断言してもよいのかと、わたしはずっと半信半疑でした。ところが、今回知った天長五年(828)成立の『赤渕神社縁起』に次の記事があることに気づき、わたしは驚愕しました。

 「常色三年六月十五日在還宮為修理祭礼」

 常色三年(649)に表米宿禰が宮に還り、「修理祭礼」を為したとあり、正木さんが指摘した通り、天武十年正月条の「宮 を修理(おさめつく)らしむ。」という詔に対応しているのです。時期(常色年間)だけではなく、「修理」という言葉も一致しています。しかも『赤渕神社縁 起』では九州年号の「常色三年」の出来事として記録されていますから、九州王朝による「神宮修理」の詔勅(常色元年の詔勅)が出されていたことの史料根拠となります。『赤渕神社縁起』により、正木さんの「34年遡上」説の一例としての「常色の宗教改革」が史料根拠を持つ有力説であることが判明したのです。 「34年遡上」説、おそるべしです。
 この他にも『赤渕神社縁起』には重要な記事が記されていますが、引き続き検討して報告したいと思います。


第611話 2013/10/18

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相

 天長5年(828)成立の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事ですが、実は次のような表現となっています。

「(常色元年二月)十八日、丹後国与謝郡白糸浜而立向給、鬼神聞之引退海上。表米得力集数千艘船為悪魔降伏。悪鬼取返起悪風波立」「而責戦給、新羅難叶而引退。表米乗勝進給」「新羅退治」「常色元年九月三日、怱平悪鬼」(「、」「。」は古賀による付記)

 このように常色元年に丹後に攻めてきたのは、冒頭では「鬼神」「悪魔」「悪鬼」と記され、その後に「新羅」になり、最後は「悪鬼」でこの戦闘伝承は終わります。こうした史料状況から、常色元年(647)の戦闘伝承は本来「鬼」と表現されていたものが、天長五年(828)の 『赤渕神社縁起』編集時の歴史認識(720年成立の『日本書紀』の歴史観)により「新羅」が付加されたのではないでしょうか。
 なぜなら、もし常色元年の戦闘の相手が新羅であったのなら、この有名な隣国である「新羅」の表記で最初から戦闘伝承が語られたはずで、わざわざ抽象的な 「鬼神」「悪魔」「悪鬼」などと表記伝承する必然性が低いからです。むしろ、攻めてきた異賊が何者かわからない、あるいはよく知られていない異様な侵入者だったから、「鬼神」「悪魔」「悪鬼」という表現で伝承記録されたのではないでしょうか。
 それではこの常色元年に丹後半島に侵入した「鬼神」「悪魔」「悪鬼」とは何者でしょうか。検討と考察を続けてみましょう。(つづく)


第610話 2013/10/17

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎

 朝来市の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事について「洛中洛外日記」で紹介しましたが、その頃の倭国(九州王朝)と新羅の関係は『日本書紀』によれば良好で、特に戦争状態にあったことはうかがえません。そのため、「洛中洛外日記」第606話において、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」に「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。」とある記事を根拠に、この新羅との戦闘記事は「常色元年」ではなく、天智天皇の頃の事件(唐・新羅連合と倭国の戦争)のことであれば理解できると述べました。
 ところが、森茂夫さんから送られてきた『赤渕神社縁起』には「常色元年(647)」の出来事として新羅との戦闘記事が詳述されています。しかも、表米宿禰伝承の中心記事として記されており、やはり「常色元年」の出来事と理解せざるを得ないことが判明しました。「日下部系図」に記された「天智天皇の時」とする記述は、後代において「常色元年」での新羅との交戦記事を不審とした系図編纂者により、『日本書紀』の認識に基づき、書き加えられた(伝承の改変)と思われるのです。少なくとも、系図よりもはるかに成立が早い『赤渕神社縁起』(天長5年成立・828年)の記事が史料批判の結果から優先されます。すなわち、現代や後代の認識に基づいて、史料を改変したり理解してはならないという、文献史学(古田史学)の原則がここでも試されているのです。
 それでは「常色元年(647)」の新羅との交戦記事は何だったのでしょうか。その真相に迫りたいと思います。(つづく)