高良玉垂命一覧

第2740話 2022/05/14

高良大社研究の想い出 (1)

―古賀壽先生からの手紙―

 45年勤めた化学会社を定年退職し、二年が過ぎようとしています。なぜか定年後も会社時代の夢をみます。なかでも、化学プラントの合成反応が暴走し、制御に苦しむ夢をよく見ます。三十代のとき、深夜に停電が発生した記憶がトラウマになっているようです。
 その夜のことは今でもよく覚えています。仮眠をとっていたわたしは、「古賀さん大変です。停電です」の大声にたたき起こされました。事務管理棟の灯りはついているものの、工場用高圧電源が止まっており、緊急事態の発生でした。夜勤メンバーに対応を指示すると、わたしは懐中電灯を手に真っ暗闇の工場に飛び込みました。エレベーターが動かないので、最上階(4F)まで階段を駆け上り、作業者の安否を確認すると、停止した装置の分電盤を片っ端から開けて元スイッチを切り、加熱用蒸気バルブを手動で閉めました。そうしないと、電源が回復したとき一斉に反応器が動き出し、最悪の場合、化学反応が暴走するからです。
 過去に異常反応で有毒ガスが発生し、逃げ遅れた同期入社の社員が重体になったこともありましたので、化学知識はもとより、非常時での対応力が要求されました。とりわけ深夜勤務は作業員も少なく、責任者ともなれば片時も気を抜けませんでした。このような夢を見ることは、これからは減ることと思います。
 定年後の生活リズムになれてきましたので、古い資料を整理しています。先日、高良玉垂命関連ファイルを整理していたら、古賀壽(たもつ)先生(注①)からのお手紙や貴重な資料が出てきました。古賀壽先生は高良大社研究の碩学で、古田先生とも懇意にされていました。わたしが久留米出身で同姓ということもあってか、何かと親身になってご教示いただきました。高良大社所蔵の貴重な史料を見せていただいたり、コピーをいただくこともありました(注②)。最初にいただいたお手紙を紹介します。氏のお人柄がうかがえます。

〝拝復
 このたびは『古田史学会報』24~32号並びに『古代に真実を求めて』第一集を御恵与賜り、また御丁寧な御便りに接し、誠に有難く厚く御礼申し上げます。
 会報所載の御高論「玉垂命と九州王朝の都」「高良玉垂命と七支刀」「稲員家と三種の神宝」、いずれも興味深く拝読しました。
 私ごとを申し上げますと、私は大川市(旧三潴郡田口村)の出身で、作曲家古賀政男は従祖父に当たります。
 小学生の頃、社会科の授業で教わった大善寺(現久留米市)の御塚・権現塚古墳を一人で見学に行き、そのことを担任の先生から激賞されたことがきっかけで、この道に入りました。だから三潴町の御廟塚・烏帽子塚、大川市の酒見貝塚などは日参する勢いで歩き廻り、リンゴ箱五六個分の土器や石器を集めたものです。それから五十年、現在は二度目になりますが高良大社に奉職し、高良の神=高良玉垂命とは一体何者かを、真剣に考える毎日となり、早や十年を経ました。その私の見解は、社報「たまたれ」第13号に述べたとおりです。
 私の考古学・古代史学研究は、水沼君にはじまり、水沼君に終わるような気がしています。
 白状すれば、私は古田先生や皆様とは、対極にある者ですが、歴史の真実を見極めるためには、さまざまな異なる角度からの研究こそが必要と考えております。
 地元に在って皆様の御研究を拝見しますと、この件ならもっとよい資料があるのに、と思うことが再々です。特に高良山関係の資料は活字化が遅れています。幸い今なら(残り少ないのですが)高良大社に私が居りますので、御研究の便宜を図ることは、微力なりに出来ようかと思います。当社の資料で必要なものがあれば、極力貴意に添いたいと考えています。
 先ずは右、取急ぎ御礼傍々、
 2伸 八月の久留米シンポジウムには、事情が許せば是非参加したいと存じております。その折り拝眉できればと楽しみです。
 同封の小冊子御笑覧下さい。 拝具
 六月七日(注③)
         高良大社 古賀 壽
 古賀達也様
     硯机〟

 古賀壽先生は、学問的見解が〝対極〟にある古田先生やわたしたちに対しても、資料紹介の労を惜しまれなかった真の歴史学者であり、郷土の偉人でした。

(注)
①高良大社文化研究所元所長。高良玉垂命研究の第一人者で関連著書や論文は多数。
②古田武彦「高良山の『古系図』 ―「九州王朝の天子」との関連をめぐって―」(『古田史学会報』35号、1999年)に次の記事がある。
〝今年の九州研究旅行は、多大の収穫をもたらした。わたしの「倭国」(「俀〈たい〉国」、九州王朝)研究は、従来の認識を一段と深化し、大きく発展させられることとなったのである。まことに望外ともいうべき成果に恵まれたのだった。
 その一をなすもの、それが本稿で報告する、「明暦・文久本、古系図」に関する分析である。今回の研究調査中、高良大社の“生き字引き”ともいうべき碩学、古賀壽(たもつ)氏から、本会の古賀達也氏を通じて、当本はわたしのもとに托されたものである。〟
③平成七年(1995)。


第2685話 2022/02/17

古田先生の「紀尺」論の想い出 (3)

古田先生が「紀尺(きしゃく)」を採用して論証に成功された高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』(注①)を始め高良玉垂命系図である「稲員家系図(松延本)」や「物部家系図」(明暦・文久本、古系図)についての論考があります。それは「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」という論文(注②)で、次のような書き出しで始まります。

〝今年の九州研究旅行は、多大の収穫をもたらした。わたしの「倭国」(「俀〈たい〉国」、九州王朝)研究は、従来の認識を一段と深化し、大きく発展させられることとなったのである。まことに望外ともいうべき成果に恵まれたのだった。
 その一をなすもの、それが本稿で報告する、「明暦・文久本、古系図」に関する分析である。今回の研究調査中、高良大社の“生き字引き”ともいうべき碩学、古賀壽(たもつ)氏から、本会の古賀達也氏を通じて、当本はわたしのもとに托されたものである。
 この古系図は、すでに久しく、貴重な文書としてわたしたちの認識してきていた「古系図」(稲員・松延本)と、多くの共通点をもつ。特に、今回の主たる考察対象となった前半部に関しては、ほぼ「同型」と見なすことができよう。
 しかしながら、古文書研究、歴史学研究にとって「同型・異類」写本の出現は重大だ。ことに当本のように、従来の古代史研究において、正面から採り上げられることの少なかった当本のような場合、このような別系統本の入手の意義はまことに決定的だ。しかも、当本は「高良山の大祝家」の中の伝承本であるから、先の「稲員・松延本」と共に、その史料価値のすぐれていること、言うまでもない。〟

 そして、「紀尺」による論証結果が次に示されています。

〝第二、〈その二〉の高良玉垂命神は、この「古系図」内の注記に
 「仁徳天皇治天五十五年九月十三日」
とあるように、「仁徳五十五(三六七)」に当山(高良山)に来臨した、という所伝が有名である。(高良大社の「高良社大祝旧記抜書」〈元禄十五年壬午十一月日〉によって分析。古田『九州の真実 六〇の証言』かたりべ文庫。のち、駸々堂刊。注③)
 中国の南北朝分立(三一六)以後、高句麗と倭国は対立し、撃突した。その危機(高句麗の来襲)を怖れ、博多湾岸中心の「倭国」(弥生時代)は、その中枢部をここ高良山へと移動させたようである。それが右の「仁徳五十五〈皇暦〉」(三六七)だ。
 それ故、高良大社は、この「高良玉垂命神」を以て「初代」とする。〟

 論文末尾は次のように締めくくられます。

〝「古系図」(稲員・松延本)に関しては、すでに古賀達也氏が貴重な研究を発表しておられる。「九州王朝の築後遷宮」(『新・古代学』第4集)がこれである(注④)。
 「九躰の皇子」の理解等において、いささか本稿とは異なる点があるけれど、実はわたしも亦、本稿以前の段階では、古賀氏のように思惟していたのであった。その点、古賀論稿は、本稿にとっての貴重な先行論文と言えよう。
 今、わたしは「俀国版の九州」の名称についても、この「九躰の皇子」にさかのぼるべき「歴史的名辞」ではないか、と考えはじめている。詳論の日を迎えたい。
 先の稲員・松延氏と共に、今回の古賀壽氏の御好意に対し、深く感謝したい。
 最後に、この「古系図」の二つの奥書を詳記し、今回の本稿を終えることとする。
 (イ)明暦三丁酉年(一六五七)秋八月丁丑日
   高良山大祝日往子尊百二代孫
   物部安清
 (ロ)文久元年(一八六一)辛酉年五月五日
   物部定儀誌〟

 以上のように、江戸期成立の近世文書を古代史研究の史料として採用するための方法論の一つとして、古田先生の「紀尺」論は有効性を発揮しています。江戸時代の文書や皇暦(『東方年表』)などを偽作扱い、あるいは軽視する論者があれば、この古田先生の論文を読んでいただきたいと思います。ここで示された「紀尺」を初めとする種々の方法論は和田家文書(明治・大正写本)の史料批判にも数多く採用されています。「紀尺」論は、古田先生の学問を理解する上で、不可欠のものとわたしは考えています。(つづく)

(注)
①『高良社大祝舊記抜書』元禄十五年(1702年)成立。高良大社蔵。
②古田武彦「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」『古田史学会報』35号、1999年12月。
③古田武彦『古代史60の証言』(駸々堂、1991年)59頁、「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。
④古賀達也「九州王朝の築後遷宮–玉垂命と九州王朝の都」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第2684話 2022/02/16

古田先生の「紀尺」論の想い出 (2)

 古田先生が提唱・命名された「紀尺(きしゃく)」という言葉をわたしなりに説明すれば、「『日本書紀』紀年に基づく暦年表記の基準尺」とでもいうべき方法と概念です。この文献史学における暦年表記の論理構造について解説します。

(1) 古代に起こった事件などを後世史料に書き留める場合、60年毎に繰り返す干支だけでは絶対年代を指定できない。
(2) そこで、年号がある時代であれば年号を用いて絶対年代を指定できる。それが六~七世紀であれば、九州王朝の時代であり、九州年号を使用することができる。八世紀以後であれば大和朝廷の年号が採用されている。
(3) 五世紀以前の九州年号がない時代の事件であれば、中国の年号を使用するか、『日本書紀』に記された近畿天皇家の紀年、いわゆる皇暦(『東方年表』等)を使用するほかない。事実、江戸時代以前の文書には皇暦が採用されるのが一般的である。明治以降は西暦や皇暦が採用されている。
(4) 以上のような時代的制約から、中近世文書に古代天皇の紀年で年代表記されている場合、記された皇暦をそのまま西暦に換算して認識することが妥当となるケースがある。
(5) こうして特定した暦年の妥当性が、他の情報により補強・証明できれば、その年次を採用することができる。

 おおよそ以上のような論理構造により古田先生の「紀尺」論は成立しているのですが、この方法は皇暦を援用してはいるものの、その天皇とは、とりあえず無関係に暦年部分のみを採用することに、いわゆる「皇暦」とは決定的に異なる方法論上の特徴があります。
 それではこの「紀尺」による年代判定事例を先生の著書から引用・紹介します。それは江戸期成立の高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』(注①)の史料批判と年代理解です。

 〝すなわち、七支刀をたずさえた百済の国使は、当地(筑後)に来たのだ。それが、東晋の「泰和四年(三六九)」だった。
 ところが、高良大明神の“当山開始(即位)”年代は、「仁徳五十五年(「皇暦」で一〇二七、西暦換算三六七)となる」。ピタリ、対応していた。平地で「こうや」、高地で「こうら」。百済・新羅に共通した、都城の在り方だったようである。〟(注②)

 石上神宮(天理市)に伝わる七支刀(国宝)の銘文中に見える年代(泰和四年)と高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』に記された「仁徳五十五年」が同時期であることから、七支刀は筑後にいた九州王朝(倭国)の王「高良大明神」に百済から贈られたものであるとする仮説の証明に「紀尺」が用いられた事例です。それまで意味不明とされてきた高良大社文書中の「仁徳五十五年」という年次が、生き生きと歴史の真実(四世紀の九州王朝史)を語り始めた瞬間でした。(つづく)

(注)
①『高良社大祝舊記抜書』元禄十五年(1702年)成立。高良大社蔵。
②古田武彦『古代史60の証言』(駸々堂、1991年)59頁、「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。


第2681話 2022/02/11

難波宮の複都制と副都(10)

 FaceBookでの日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)のメッセージには貴重な指摘がありました。この問題が物部氏や弓削氏との関係も絡んできそうという視点です。これはわたしも気になっているテーマです。『続日本紀』によれば、道鏡を皇位につけよとの宇佐八幡神の神託事件により、習宜阿曾麻呂は多褹嶋守に左遷されます。次の記事です(注①)。

 「(前略)初め大宰主神習宜阿曾麻呂、旨を希(ねが)ひて道鏡に媚び事(つか)ふ。(後略)」神護景雲三年(769年)九月条
 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂を多褹嶋守と為す。」神護景雲四年(770年)八月条

 この道鏡の俗名は物部系とされる弓削であり(注②)、同じく物部系の習宜阿曾麻呂との関係が疑われれるのです。九州王朝の都だった太宰府で神を祀り、皇位継承への発言をも職掌とした大宰主神を、アマテラスやニニギではなくニギハヤヒを祖神とする習宜阿曾麻呂が担っていたということになるのですが、わたしはこのことに違和感を抱くと同時に、もしかすると歴史の深層に触れたのではないかとの感触を得ました。
 実は、九州王朝(倭国)の王と考えてきた筑後国一宮の高良大社(久留米市)御祭神の高良玉垂命を物部系とする史料があります。高良玉垂命を祖神とする各家(稲員家、物部家、他)系図には初代玉垂命の名前が「玉垂命物部保連」、その孫が「物部日良仁光連」と記されています(注③)。更に高良大社文書の一つ「高良記」(注④)には次の記事が見えます。

 「高良大并ノ御記文ニモ、五姓ヲサタムルコト、神部物部ヲ ヒセンカタメナリ、天神七代 地神五代ヨリ此カタ、大祝家のケイツ アイサタマルトミエタリ」16頁
 「一、高良大善薩御氏 物部御同性(姓カ)大祝職ナリ
  (中略)
  一、大善薩御記文曰 五性(姓カ)ヲ定ムルコト、物部ヲ為秘センカ也」79頁
 「一、大并御記文 物部ヲソムキ、三所大并ノ御神秘ヲ 多生(他姓カ)エシルコトアラハ、当山メツハウタリ」80頁
 「一、同御記文之事(※) 物部ヲサツテ、肉身神秘□他ニシルコトアラハ、此山トモニモツテ我滅ハウタリ
  一、同御記文之事(※) 物部ヲ績(続カ)セスンハ、我左右エ ヨルコトナカレ」151頁
 (※)「事」の異体字で、「古」の下に「又」。

 これらの物部記事は意味がわかりにくいところもありますが、その要旨は、高良大菩薩(玉垂命)は物部であり、このことを秘すべく五姓を定めた。他者に知られたら当山は滅亡すると述べています。なぜ、物部であることを隠さなければならないのかは不明ですが、よほどの事情がありそうです。それは九州王朝の末裔であることや、道鏡擁立に関わった習宜阿曾麻呂との繋がりを隠すためだったのでしょうか。
 代々の高良玉垂命が九州王朝の天子(倭国王)であれば(注⑤)、九州王朝の王族は物部系ということになります。この問題の存在については早くから指摘してきたところで、「洛中洛外日記」でも何度か触れたテーマでした。古田先生も同様の問題意識を持っておられました(注⑥)。今回、大宰主神だった習宜阿曾麻呂が筑後地方の出身で物部系とする仮説に至り、このテーマが改めて問われることになりました。(つづく)

(注)
①『続日本紀』新日本古典文学大系、岩波書店。
②『新撰姓氏録』(左京神別上)に「弓削宿禰 石上同祖」、その前に「石上朝臣 神饒賑速日命之後也」とある。
③「草壁氏系図」松延家写本による。
④『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社発行、1972年。
⑤藤井緩子『九州ノート 神々・大王・長者』葦書房、1985年。
 同書に玉垂命の子孫を倭の五王とする説が記されている。著者は平成八年に亡くなられたが、同じ久留米出身ということもあってか、何かと励ましのお便りを頂いた。生前の御厚情が忘れ難い。
 古賀達也「玉垂命と九州王朝」『古田史学会報』24号、1998年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga24.html
 古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai4/tikugoko.html
⑥古賀達也「洛中洛外日記」200話(2008/12/14)〝高良玉垂命と物部氏〟
 古賀達也「洛中洛外日記」207話(2009/02/28)〝九州王朝の物部〟
 古賀達也「洛中洛外日記」275話(2010/08/08)〝『先代旧事本紀』の謎〟


第2552話 2021/08/30

11月14日、八王子セミナー2021 発表原稿の作成

―「倭の五王」時代(5世紀)の考古学―

 前話で紹介した久留米大学公開講座用論文の採用決定通知が同大学担当者より届きました。字数制限を大幅に超えていたのですが、まずは一安心です。
 ところが、今度は11月13~14日に開催される〝八王子セミナー2021〟の発表原稿の締め切りが近づいてきました。一応は完成させたのですが、こちらも更に字数が増え、A4で35枚(資料込み)を越えてしまいました。引き続き、字数削減と修正を行います。
 現時点でのテーマと小見出しは次の通りです。

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学

1.「筑後川の一線」の論理
2.古墳時代の最大都市、大阪上町台地
3.須恵器窯跡群、筑後・肥後・豊後「空白の5世紀」
4.九州最大の西都原古墳群(日向国)
5.考古学の実証(出土事実)と論証(出土解釈)
6.西都原古墳群の事実と解釈
7.倭王武「上表文」に見える倭国の領域「衆夷」
8.倭王武「上表文」に見える倭国の領域「毛人」
9.倭王武「上表文」と大阪上町台地倉庫群
10.「毛人五十五国」と仙台市の前方後円墳
11.古田説の変遷とその論理構造
(1)『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。
(2)『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店、昭和60年(1985)。
(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、平成元年(1989)。
(4)『古田武彦の古代史百問百答』東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、ミネルヴァ書房、平成二六年(2014)。

【資料Ⅰ】
古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第4集、新泉社、1999年
一、玉垂命と九州王朝の都
二、高良玉垂命と七支刀
三、高良玉垂命の末喬
四、多利思北孤の都
〈追記〉『九躰皇子』異論
《高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)》
高良玉垂命(初代)――┬―斯礼賀志命(しれかし)→隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く
物部保連(やすつら) |
          ├――朝日豊盛命(あさひとよもり)→草壁(稲員)氏へ続く
          ├――暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
          ├――渕志命(ふちし)
          ├――渓上命(たにがみ)
          ├――那男美命(なをみ)
          ├――坂本命(さかもと)
          ├――安志奇命(あしき)
          └――安楽應寳秘命(あらをほひめ)

【資料Ⅱ】
古賀達也「大宰府政庁「倭の五王」王都説の検証」『多元』165号、2021年9月。
一、九州大学「坂田測定」の検証
二、「坂田測定」サンプルの試料性格
三、水城堤防出土サンプルの由来
四、水城出土物の放射性炭素年代測定値
五、「水城出土杭」、もう一つの可能性
六、内倉さんの「太宰府・筑後」王都説

【資料Ⅲ】
古賀達也「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2017年8月。
一、前畑遺跡土塁の炭片の年代
二、前畑遺跡土塁に地震の痕跡
三、「羅城」「関」「遮断城」?
四、井上信正さんの問題提起
五、木樋による水城の造営年代
六、敷粗朶による水城の造営年代
七、敷粗朶の出土状況
八、敷粗朶のサンプリング条件
九、おわりに


第2209話 2020/08/21

高良玉垂命と甲良町と高良健吾さん

 前話に続き、滋賀県と九州王朝関係の話題をもう一つ紹介します。飛鳥時代の絵画が発見された西明寺がある滋賀県甲良町が、筑後の高良大社(祭神は高良玉垂命)と関係があることは、「洛中洛外日記」147話(2007/10/09)〝甲良神社と林俊彦さん〟で既に指摘した通りです。御祭神の高良玉垂命が五世紀頃の九州王朝の王(倭の五王)であったとする研究もわたしは発表しています(注①)。
 そのご子孫が筑後地方に現在も続いていることが判明しています。稲員(いなかず)、鏡山、神代(くましろ)、隈(くま、大善寺玉垂宮神官の家系)と名乗られている一族です。ところが、地元(高良山の近傍)にはそのものずばりの「高良」というお名前をわたしは聞いたことがありませんでした。
 他方、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で高杉晋作役をされた人気俳優の高良健吾さんは、そのお名前から九州王朝と縁(ゆかり)のある方ではないかと思っていたところ、2016年の熊本大地震で、故郷の熊本にボランティアで救援活動に行かれたとの報道に接し、やはり九州のご出身であったのかと納得したものです。ですから、何らかの事情で「高良玉垂命」の御子孫は、地元では「高良」を名乗らず、他県で「高良」を名乗られたことになるわけです。
 似たような例で、わたしのご先祖は星野を名乗っていたのですが、豊臣秀吉の九州征伐(侵略)のとき、抵抗した星野宗家は滅び、新潟県小千谷市まで逃げ延びた者は当地で星野を名乗り続けました。九州に残った者は名前を変えて潜伏したようです。わたしのご先祖は、星野から佐藤に姓を変えて加藤清正公に仕え、その後、筑後の浮羽郡古賀に土着したことから古賀姓になったと伝えられています。
 このような例があることから、高良健吾さんのご先祖も九州王朝滅亡時に肥後に逃れ、高良を名乗られたのではないかと想像していました。
 その後、「高良」性は鹿児島県に多く分布していることが、久留米市在住の歴史研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)から教えていただきました。下記の通りで、「高良」さんが久留米市におられることもわかりました。薩摩地方に「高良」姓が多いことは、九州王朝滅亡時に薩摩まで落ち延びた九州王朝王族(筑紫君薩野馬か。鹿児島県大宮姫伝説に関する正木裕さんの優れた研究があります。注②)と関係するのではないでしょうか。犬塚さんの調査結果と説明文を抜粋して転載します。

(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 玉垂命と九州王朝の都」『新・古代学』第四集(新泉社。1999年)
②正木裕「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(古田史学の会編、明石書店。2019年)

【姓名検索サイトでの調査報告・犬塚幹夫さん】(2016年)
全国計  1,420人
 このうち10人以上いる都道府県(単位:人)
埼玉県    10
東京都 27
神奈川県   25
静岡県 16
愛知県 11
大阪府 42
兵庫県 13
広島県 11
山口県 12
福岡県 115
熊本県 11
鹿児島県 54
沖縄県 1,004

 このうち断トツに多い沖縄県は、現那覇市の高良(たから)という地名を名乗ることになった一族とされており、九州王朝とは関係ないと思われます。
 福岡県、熊本県、鹿児島県の内訳は次のとおりです。

福岡県   115
 久留米市   38
 朝倉市    34
 福岡市    13
 北九州市    7
 大刀洗町    5
古賀市      3
 飯塚市     3
 その他    12

熊本県    11
 熊本市     3
 山鹿市     3
 荒尾市     2
 玉名市     1
 合志市     1
 南関町     1

鹿児島県   54
 南九州市   19
 鹿児島市   15
 南さつま市   6
 薩摩川内市    4
 曽於市      3
 指宿市      2
その他 5

 各県の傾向について言えば、まず福岡県は、県内の大都市圏である福岡市と北九州市を除けば久留米市と朝倉市に集中し、熊本県は福岡県に近い県北地方に分布し、鹿児島県は薩摩地方がほとんどを占めており大隅地方や島部はごくわずかということが分かりました。非常に興味深い結果です。(転載、終わり)


第1065話 2015/09/30

長野県内の「高良社」の考察

 昨晩の村田正幸さんとの話題は長野県内に分布する「高良社」についてでした。村田さんの調査によれば、石碑を含めて県内に12の「高良社」を確認したとのこと。次の通りです。

長野県内の高良社等の調査一覧(村田正幸さん調査)
No. 場所        銘文等    建立年等
1 千曲市武水別社   高良社   室町後期か?長野県宝
2 佐久市浅科八幡神社 高良社   八幡社の旧本殿
3 松本市入山辺大和合神社 高良大神1 不明
4 松本市入山辺大和合神社 高良大神2 不明
5 松本市入山辺大和合神社 高良大神2 明治23年2月吉日
6 松本市島内一里塚  高良幅玉垂の水 明治8年再建
7 松本市岡田町山中  高麗玉垂神社 不明
8 安曇野市明科山中  高良大神   不明
9 池田町宇佐八幡   高良神社   不明
10 白馬村1      高良大明神  不明
11 白馬村2      高良大明神  不明
12 白馬村3      高良大明神  不明

 まだ調査途中とのことですが、分布状況の傾向としては県の中・北部、特に松本市と白馬村の分布数が注目されます。「高良」信仰がどの方角から長野県に入ってきたのかを示唆する分布状況かもしれませんが、断定するためには隣接県の「高良」信仰の分布調査が必要です。
 この「高良」信仰は九州でも筑後地方に濃密分布しており、隣の筑前や肥後では激減しますから、極めて在地性の強い神様です。わたしの研究では「倭の五王」時代から6世紀末頃までの九州王朝の都は筑後(久留米市)にあり、その間の代々の倭王は「玉垂命」を襲名していたと思われます(拙論「九州王朝の筑後遷宮 -高良玉垂命考-」を御参照ください)。従って、その「高良玉垂命」の信仰が信州(長野県)に伝播した時代は、古代であればその頃が有力ではないかと考えています。もちろん、中近世において「高良神」信仰を持った有力者が信州に移動した、あるいは勧請したというケースも考えられますが、それであれば中近世史料にその痕跡が残っていてほしいところです。
 以上のように信州の「高良神」について考察を進めていますが、まだまだ結論を出すには至っていません。当地の伝承や史料の調査検討が必要です。他方、筑後地方に「高良玉垂命」が信州に行ったとするような伝承・史料の存在は知られていません。
 また、九州王朝と信州との関係をうかがわせるものには、『善光寺縁起』などに見られる九州年号の存在、天草に濃密分布する「十五所神社」が岡谷市にも多数見られるということがあり、信州の古代史を九州王朝説・多元史観で研究する必要があります。村田さんのご研究に期待したいと思います。


第1064話 2015/09/29

「古田史学の会・まつもと」の皆さんと懇談

 今日から北陸・信州・名古屋と出張です。富山からは北陸新幹線で長野に入り、仕事と行程の都合から松本市で宿泊です。ちょうどよい機会ですので、「古田史学の会・まつもと」の北村明也さん、鈴岡潤一さん(松本深志高校教諭)と夕食をご一緒し、その後、村田正幸さんと歓談しました。北村さんは松本深志高校での古田先生の教え子さんで、村田さんは「古田史学の会」全国世話人を引き受けていただいています。北村さん・鈴岡さんとは「古田史学の会」の展望について意見交換し、村田さんからは長野県に分布する「高良社」「高良明神」などの調査結果の説明があり、なぜ筑後地方神とされる「高良神」が信州に数多く祀られるのかについて論議しました。いずれも楽しく有意義な一夕となりました。
 お会いする約束をいただくため、事前に北村さんにお電話したのですが、突然のわたしからの電話に、「古田先生に何かあったのですか」と驚かれていました。ちょっと申しわけない気持ちと、古田先生を気遣い慕う教え子さんたちの思いが、60年以上たった今日でも続いていることに感動を覚えました。
 今日、初めて北陸新幹線に乗りましたが、内装もきれいですし、シートに着いている枕は上下に移動するという優れものでした。金沢駅から富山駅まで乗り、その後、黒部宇奈月温泉駅から長野駅まで利用しましたが、いずれの駅も積雪に耐えられるように、ホームの屋根を支える鉄骨は京都駅などには見られないような頑丈な作りでした。さすがは雪国の新幹線仕様です。聞けば、様々な降雪対策が施されているとのことですので、岐阜・米原間の降雪でよく止まる東海道新幹線も見習ってほしいものです。なお、「黒部宇奈月温泉駅」は新幹線の駅名としては最も長い名前とのことでした。
 松本には仕事ではなく、次回はプライベートな旅行で訪れたいと思いました。


第199話 2008/12/13

『高良山物語』

 拙宅の前の河原町通の銀杏並木も枝が切り払われ、いよいよ京都も冬支度の頃となりました。そんなある日、書庫を整理していると『高良山物語』という小冊子が目にとまりました。おそらく20年ほど前に購入したものですが、昭和9年に久留米市の菊竹金文堂から出版され、昭和 53年の復刻版です。著者は倉富了一とあります。
 神籠石で有名な高良山の古代から近世までの歴史や伝承、研究などが要領よくまとめられた一冊です。もちろん大和朝廷一元史観の立場から著されていますが、様々な史料や伝承などが紹介されており、高良山研究における貴重な文献と言えます。その中に大変気になる一節があります。
 それは神籠石を紹介したところで、高良山神籠石の他に女山・鹿毛馬・雷山・御所ケ谷など著名な神籠石と並んで、「八女郡串毛村田代」という神籠石が紹介されているのです。わたしはこのような神籠石の存在を聞いたことがありません。もしかして、未だ学界に報告されていない神籠石が八女郡にあるのかも知れません。どなたか、近郊の方で調査していただければ有り難いのですが。