高良玉垂命一覧

第2951話 2023/02/24

筑紫の月神「高良玉垂命」

過日の「多元の会」リモート研究会で「月読命」が話題に上りました。そのおり、筑後国一宮の高良大社(久留米市)は「月神」と呼ばれていることを紹介しました。同神社のご祭神は高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)ですが、『古事記』や『日本書紀』にも記されていない謎の神様です。わたしはこの玉垂命を九州王朝(倭国)の天子のこととする論稿「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」(注①)を発表したことがありますが、この神がなぜ「月神」と呼ばれているのかは知りませんでした。そこで、高良大社研究の碩学、古賀壽(こがたもつ、注②)氏の論文を精査したところ次の解説がありました(注③)。

「すなわち、『高良玉垂宮縁起』(注④)の説くところを要約すれば、高良神は藤大臣という神功皇后異国征伐の際の功臣(武内宿禰と混同される理由もここにある)であるが、実は皇后の祈請に応じて筑紫に降臨した月天子=月神であったというのである。降臨の日、遷幸の日が、ともに九月十三日とされるのも月神の故である。陰暦九月十三日が「後の月」、いわゆる「十三夜」であることはいうまでもなかろう。(中略)
現在のところ、高良と月神の関わりを示す史料の初見は、文治四年(一一八八)七月の『高良社施入帳』(後白河院のため、醍醐寺座主主勝賢権僧正が高良社に大般若経一部六百巻を施入した際の表白文)に、
右高良大明神ハ、内証ヲ金刹ノ雲ニ秘シ、応用ヲ西海ノ月ニ垂レテヨリ以降、久シク百王ノ洪業ヲ護リ、已ニ万代ノ霊祠ト為リタマフ(原漢文)。

とあるものである。この神を月神とする信仰が、古代以来のものであることが知られよう。」(高良山〈筑紫の月神〉)

古賀壽氏によれば、古代から高良神は月神とされていたようです。同稿の末尾には次の言葉が見え、氏の多元的な歴史認識と研究姿勢がうかがわれますので、最後に紹介します。

「高良大社が、その鎮座の地、歴史からしても、古代以来の筑後地方の宗祀であることは疑いを容れぬところである。その主祭神高良玉垂命が月神なのであるから、古代筑紫の最高神は、大和の日神天照に対する、月神玉垂だったのではあるまいか。」
「地方の神社の縁起など、正史を基に創作・捏造されたものと極めつけるのは、もはや時代遅れの中央集権的史観といわねばならないだろう。
本稿に於て私が最も主張したかったのは、実にこの一点に尽きるのである。」

(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 — 高良玉垂命考」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2740話(2022/05/14)〝高良大社研究の想い出 (1) ―古賀壽先生からの手紙―〟
③古賀寿「高良山〈筑紫の月神〉」『高良山の文化と歴史』第3号、高良山の文化と歴史を語る会、平成四年(1992年)。
④鎌倉時代後期の成立とされる。


第2950話 2023/02/23

九州王朝(筑後)の日下部(草壁)氏

「洛中洛外日記」前話(注①)で、「古代における日下部氏は九州王朝の有力な軍事氏族ではないでしょうか」としました。そして、九州王朝の天子の一族と思われる高良大社の祭神、高良玉垂命の子孫も日下部氏(草壁氏)を名乗っていたことを紹介しました。たとえば、平成九年に広川町郷土史研究会より発刊された『稲員家文書』五一通(近世文書)には、佐々木四十臣氏(同会顧問)による「稲員氏の歴史と文書」に次の解説があります。

「稲員氏の出自を同氏系図でみると高良大明神の神裔を称し、延暦二十一年(八〇二)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は北野町)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。」

康暦二年(一三八〇年)の奥書を持つ高良大社蔵書『高良玉垂宮大祭祀』にも「三種之神宝者、自草壁党司之事」「草壁者管長先駈諸式令職務也」とあり、稲員家が草壁を名乗っていた当時から三種の神宝を司る高良大社でも中心的な家柄であったことがわかります。
また、『周防国天平十年正税帳』にも筑後国介従六位上の「日下部宿禰古麻呂」の記事が見えます。

「四日、向従大宰府進上御鷹部領使筑後国介従六位上日下部宿禰古麻呂、将従三人、持鷹廿人、(中略)御犬壱拾頭(以下略)」

大宰府からの献上品(持鷹、御犬)とともに御鷹部領使の日下部宿禰古麻呂という人物が記されています。この筑後国の日下部氏は、高良大社官長職の日下部氏(草壁とも記される稲員家の祖先)と同族の可能性が高く、九州王朝王家一族の一人と思われます。
五〇年に一度執り行われる高良大社御神期大祭御神幸では、稲員家を中心に「三種の神器」などとともに、羽の付いた冠を被った「鷹鳶」と呼ばれる一団が行列に加わります。これも、九州王朝の天子、玉垂命らが鷹狩りをしていた名残ではないでしょうか。拙稿「九州王朝の鷹狩り」(注②)に関連史料を紹介しましたので、ご覧ください。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2949話(2023/02/20)〝甲斐国造の日下部氏と九州王朝〟
②古賀達也「『日出ずる処の天子』の時代 試論・九州王朝史の復原」『新・古代学』第5集、新泉社、2001年。


第2949話 2023/02/20

甲斐国造の日下部氏と九州王朝

甲斐国造と但馬国造を日下部氏とする諸説(注①)を知り、わたしは赤渕神社史料のことを思い出しました。朝来市にある同神社調査については「洛中洛外日記」などでも報告したように(注②)、九州年号「常色」「朱雀」などを持つ『赤渕神社縁起』の成立は天長五年(828年)で、現存する九州年号史料としては最古級です。
『赤渕神社縁起』によれば、表米宿禰(ひょうまいのすくね)という人物の伝承が記されており、それは常色元年(647年)に丹後に攻めてきた新羅の軍船を表米宿禰が迎え討ち、勝利したというものです。表米宿禰は孝徳天皇の第二皇子という伝承もありますが、『日本書紀』にはこのような名前の皇子は見えません。そこで、これは九州王朝の王族に関する伝承ではないかと考えています。
この表米宿禰は現地氏族の日下部氏の祖先とされています。他方、九州王朝の天子の一族と思われる高良大社の祭神、高良玉垂命の子孫も日下部氏(草壁氏)を名乗っています。もしかすると、古代における日下部氏は九州王朝の有力な軍事氏族ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①関晃「付編1、甲斐国造と日下部」『関晃著作集二 大化改新の研究 下』吉川弘文館、1996年。
古川明日香「甲斐国造日下部氏の再評価 ―『古事記』・『国造本紀』の系譜史料を手がかりに―」『研究紀要 26』山梨県立考古博物館 山梨県埋蔵文化財センター、2010年。
②古賀達也「洛中洛外日記」604話(2013/10/03)〝赤渕神社縁起の「常色元年」〟
同606話(2013/10/06)〝「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号〟
同607話(2013/10/12)〝実見、『赤渕神社縁起』(活字本)〟
同608話(2013/10/13)〝『多遅摩国造日下部宿禰家譜』の表米宿禰〟
610話(2013/10/17)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎〟
同611話(2013/10/18)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相〟
同613話(2013/10/20)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」〟
同614話(2013/10/22)〝『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」〟
同618話(2013/11/04)〝『赤渕神社縁起』の九州年号〟
古賀達也「『赤渕神社縁起』の史料批判」『古代に真実を求めて』17集、明石書店、2014年。
同「赤渕神社縁起の表米宿禰伝承」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)明石書店、2019年。


第2783話 2022/07/08

道鏡(兄)と弓削浄人(弟)の兄弟統治

 「高良玉垂宮大祭礼」(御神幸祭)が称徳天皇からの勅使参向により神護景雲元年(767年)に始まり、その二年後に宇佐八幡宮神託事件(注①)が発生していることに気づき、『続日本紀』を精査中です。宇佐八幡宮神託事件を中心に繰り返し読んでいますが、道鏡は朝廷内の権力抗争の敗者に過ぎず、皇位簒奪未遂の「悪人」と決めつけるには証拠不十分で、むしろ冤罪ではないのかと思うほど、『続日本紀』の記事は不審だらけです。この点については結論を急がず、検討を続けますが、今回、わたしが注目したのは道鏡の弟、弓削浄人(ゆげのきよひと、清人とも記される。注②)の存在です。
 弓削浄人は、天平宝字八年(764年)七月に宿禰姓を賜与され、同年九月の藤原仲麻呂の乱を経て、兄の道鏡が朝政の実権を掌握すると、従八位上から一挙に十五階の昇叙により従四位下に昇進。氏姓を弓削御浄朝臣に改め、衛門督に任ぜられます。
 天平神護元年(765年)正月に乱での功労により勲三等を与えられ、同年中に従四位上・参議として公卿に列すると、翌天平神護二年(766年)には正三位・中納言、その後も神護景雲元年(767年)に内豎卿を兼ね、同二年(768年)大納言、同三年(769年)従二位と道鏡政権下で急速に昇進を果たし、大宰帥に任じられ、大宰主神・中臣習宜阿曾麻呂と共に、道鏡を皇位に就けることが神意に適う旨の宇佐八幡宮の神託を奏上し、「宇佐八幡宮神託事件」を引き起こします。
 宝亀元年(770年)称徳天皇の崩御により道鏡と共に失脚し、弓削姓(無姓)に戻され、三人の子(広方、広田、広津)と共に土佐国へ流罪となりますが、桓武朝初頭の天応元年(781年)に赦免され、本国の河内国に戻りますが、平城京に入ることは許されませんでした。
 この道鏡(兄)と弓削浄人(弟)の関係は、仏教僧侶として法王と称された道鏡は権威の象徴で、大納言として従二位まで上り詰めた弓削浄人は権力の象徴とすれば、『隋書』俀国伝に見える阿毎多利思北孤とその弟による九州王朝独特の制度、兄弟統治(注③)を思い起こします。そして、もし道鏡が皇位につけば、おそらく法王から法皇になり、法隆寺釈迦三尊像光背銘の上宮法皇(多利思北孤)と同じ称号になります。これこそ、わたしの作業仮説(思いつき)、「物部系で筑後出身の習宜氏(阿曾麻呂)と弓削氏(道鏡)らが結託して、大和朝廷の天皇位簒奪(九州王朝王族の復権)を目論んだ事件」ということになりそうです。(つづく)

(注)
①ウィキペディアでは次のように解説している。
 宇佐八幡宮神託事件。奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。道鏡事件とも呼ばれる。同年旧暦の10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。
②弓削浄人(ゆげのきよひと)、清人とも記される。道鏡の弟。氏姓は弓削連のち弓削宿禰、弓削御浄朝臣。
③『隋書』俀国伝に次の記事が見える。
 「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聽き、跏趺坐し、日出づれば便(すなわち)理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」『隋書』俀国伝
 古田先生はこの記事により、俀王は「天を兄とし、日を弟とする」という立場に立っており、俀王の多利思北孤は宗教的権威を帯びた王者であり、実質上の政務は弟に当る副王にゆだねる、そういう政治体制(兄弟統治)だと指摘された。


第2782話 2022/07/04

神護景雲元年に始まった高良社大祭礼

 上妻郡上広川庄古賀村の大庄屋で高良玉垂命の神裔、稲員安則が著した『家勤記得集』(注①)を読んでいて、とても興味深い記事に気づきました。高良玉垂宮大祭礼が神護景雲元年に始まったとする次の記事です。

「大祝旧記に曰く、玉垂宮神事祭礼年中六十余度これを執行す。然りといえども春冬二季の祭祀五月九月両会の神事をこれをもって一社の大営なり。
 称徳天皇〔第四十八代なり、孝謙帝重祚〕神護景雲元年(767年)丁未冬十月十三日勅使参向あり。明神朝妻に御幸し、大祝物部保維神輿に神体を奉遷す。(中略)これより毎歳大祭礼を行わる。光厳天皇〔第九十六代なり〕正慶二年(1333年)壬申(ママ)鎌倉北條家滅亡す。これにより諸国乱逆おこる。故に大礼断絶す。然りといえども毎歳九月九日祭礼を執行すること今に絶えず。」『家勤記得集』3頁 ※〔 〕内は二行細注。
「同(寛文)九年(1669年)己酉秋九月九日、高良社大祭礼を執行す。称徳天皇御宇始めてこれを行う。光厳天皇御宇断絶し、その後行われず。今年大祝保正と座主月光院寂源とこれを談じ、太守(久留米藩主)に訴え古例に任せこれを再興す。」同52頁

  今日の高良大社の大きなお祭りは秋の例大祭「高良山くんち」(注②)ですが、古来より最も尊重されてきたのは「高良玉垂宮大祭礼」(御神幸祭)でした。この大祭礼が称徳天皇からの勅使参向により神護景雲元年(767年)に始まったというのです。わたしはこの年次を知り、驚きました。この年の二年後に宇佐八幡宮神託事件が発生しているからです。そこで、『続日本紀』に記された同事件(注③)を精査することにしました。(つづく)

(注)
①稲員安則『家勤記得集』元禄九年(1696)。久留米郷土研究会、昭和五十年(1975)。
②旧暦の九月九日に近い十月九日に行われている祭礼。「くんち」の語源としては、「九日」や「宮日」など諸説ある。
③ウィキペディアに次の解説がある。
 宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。道鏡事件とも呼ばれる。同年旧暦の10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。


第2780話 2022/07/02

筑後の弓削氏と現代の弓削さんの分布

 高良玉垂命の末裔の稲員(いなかず)家が草部・日下部を称していた頃、御井郡の大領・少領や弓削郷の戸主であったことから、筑後地方の弓削氏について史料調査しました。高良玉垂命研究の碩学、古賀壽(たもつ)さんから二十数年前にいただいた論文や史料を改めて精査したところ、次の弓削氏がありましたので紹介します。
 高良山に仏教を開基した人物は隆慶上人とされており、「白鳳二年癸酉」(673年)のことと伝えられています(注①)。この隆慶上人の伝記『高良山隆慶上人傳』には、上人の母親が弓削氏の出身であると記されています。

 「上人諱ハ隆慶。世姓ハ紀氏。人皇八代孝元天皇十一世ノ之苗裔。武内大臣八代ノ之的孫ナリ也。父ハ紀ノ護良。母ハ弓削氏ナリ。自當社垂迹已降。紀氏累代 監察シ九國ヲ 守禦ス三韓ヲ。故ニ九州尤モ重ンス 其ノ氏族。」『高良山隆慶上人傳』(注②)

 同じく高良山史料『筑後国高良山寺院興起之記』には隆慶上人の母親について次のように記されています。

「正覚寺
 白鳳七年、隆慶上人ノ寿母、弓削戸部岩人麻麻呂ガ娘、老後髪ヲ薙リ、衣ヲ染メ、北澗ニ隠ル。弥陀三尊ヲ安ンジ、二六時中唱名念仏ス。朱鳥十年六十八歳ニシテ逝ス。」『筑後国高良山寺院興起之記』(注③)

 以上の史料状況から、古代の筑後に弓削氏がいたことがわかります。また、『日本書紀』持統四年(690年)十月条に、筑紫君薩夜麻と共に唐の捕虜になった人物に「弓削連元寶の児」が見えます。筑後出身とまでは断定できませんが、筑紫君に付き従っていることから、筑紫の弓削氏と考えるべきでしょう。
 ちなみに、現代の名字としての弓削さんの分布は次の通りで、宮崎県南部や福岡県筑後地方・鹿児島県・千葉県香取市に多いことが注目されます。道鏡の出身地とされる河内国弓削村がある大阪府には濃密分布地が見えないようです。(つづく)

【弓削さんの分布】※web「日本姓氏語源辞典」で検索。
 人口 約7,000人 順位 2,093位

〔都道府県順位〕
1 宮崎県 (約900人)
2 福岡県 (約700人)
3 鹿児島県(約500人)
4 千葉県 (約500人)
5 東京都 (約400人)
6 京都府 (約400人)
7 大阪府 (約400人)
8 兵庫県 (約400人)
9 神奈川県(約300人)
10 滋賀県 (約300人)

〔市区町村順位〕
1 宮崎県 宮崎市 (約400人)
2 滋賀県 長浜市 (約200人)
3 鹿児島県 鹿児島市 (約130人)
4 福岡県 久留米市 (約130人)
4 宮崎県 小林市 (約130人)
6 福岡県 八女郡広川町(約130人)
7 宮崎県 西都市 (約120人)
8 兵庫県 加古川市 (約110人)
9 千葉県 香取市 (約100人)
10 熊本県 熊本市 (約100人)

(注)
①『高良記』(『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社発行、昭和47年・1972年)には次の白鳳年号が見えることから、本来の九州年号「白鳳」(661~683年)で正しく記された「白鳳十三年癸酉」が、『日本書紀』の影響により、「天武天皇二年癸酉」→「天武白鳳二年癸酉」→「白鳳二年癸酉」へと、後代に改変されたものと思われる。これを「後代改変型白鳳」とわたしは称し、本来の九州年号と峻別する必要を主張している。
「一、天武天皇四十代、御ソクイ二年にタクセンアリテヨリ、外宮ハ サウリウナリ」 17頁
「天武天皇四十代白鳳二年ニ、御ホツシンアリシヨリコノカタ(後略)」 32頁
「人皇四十代天武天皇白鳳二年、(後略)」 39頁
「一、御託宣ハ白鳳十三年也、天武天皇即位二年癸酉二月八日ノ御法心也」 82頁
 後代改変型白鳳については、次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「洛中洛外日記」1883話(2019/05/03)〝改変された『高良記』の「白鳳」〟
 同「洛中洛外日記」1930話(2019/06/30)〝白鳳13年、筑紫の寺院伝承〟
②「高良山隆慶上人傳」『續天台宗全書 史傳2』天台宗典編纂所、昭和六三年(1988年)。
③古賀壽「〔訓読〕筑後国高良山寺院興起之記」『高良山の文化と歴史』第5号、高良山の文化と歴史を語る会、平成五年(1993年)。


第2779話 2022/07/01

御井郡弓削郷にいた稲員氏(草部氏)

 高良玉垂命の末裔の稲員(いなかず)家(旧・草壁氏。草部・日下部とも記される)の研究をしていたとき、同家の墓地を訪問したことがありました。墓石正面の上部に削られた痕跡があり、恐らくは家紋の菊花が削られたのではないかと思われました。稲員家は正応三年(1290)に上妻郡広川庄古賀村に転居する前は御井郡稲員村に居住しており、高良山から稲員村に移る前は草壁氏を名のっていました。
 久留米市の地図を見て驚いたのですが、その御井郡稲員村は現在の久留米市北野町にあり、道鏡を祀っていた法皇宮と同じ町内だったのです。しかも稲員氏が草部や日下部を称していた頃、御井郡の大領・少領や弓削郷の戸主であったとする史料が残っており、『家勤記得集』の「発刊によせて」(注①)で古賀壽氏がそのことを紹介しています。

〝筑後の草部氏も、『高良縁起』(石清水文書)、『高良玉垂宮縁起』(御舟本)に「長日下部公」「弓削郷戸主草部公富松」「大領草部公吉継」「少領草部公名在」などとあるところから、公(君)姓を称する古代豪族で、高良山下御井郡弓削郷を本貫の地とし、御井郡司に任じた氏族であったことが推定される。〟『家勤記得集』「発刊によせて」古賀壽

 すなわち、法皇宮がある御井郡弓削郷の戸主も後の稲員氏だったというのです。また、御井郡の郡衙は弓削郷にあったと考えられており(注②)、稲員村や弓削村(郷)の地に草部氏は郡司や戸主として重きをなしていたのです。そうすると法皇宮にあった菊花紋瓦は草部氏・稲員家の家紋だったのではないでしょうか。そして、その地で道鏡を祀っていたことになり、神護景雲三年(769)に起きた宇佐八幡ご神託事件は九州王朝王族の復権のための物部系氏族による〝共同謀議〟とする、わたしの作業仮説(思いつき)の傍証に菊花紋はなりそうです。(つづく)

(注)
①稲員安則『家勤記得集』元禄九年(1696)。久留米郷土研究会、昭和五十年(1975)。
②津田勉「『高良縁起』の成立年代」(『神道宗教』第170号、1998年)に次の指摘がある。
 「ところで、御井郡の郡衙跡ともいわれるヘボノキ遺跡は、まさに弓削郷に存在する。弓削郷は筑後国府(枝光国府・朝妻国府)に隣接する筑後川沿いの郷であり、現在も弓削の地名は使われている。国衙と郡衙とが近接している実態は、御井郡の郡・郷を支配していた郡司と国司が強く結びついていたことを如実に示している。」60頁
 なお、弓削地名は筑後川の両岸に遺っており、法皇宮は北岸の北野町、ヘボノキ遺跡は南岸の東合川町にある。筑後国の中で御井郡のみが筑後川の両岸にまたがっている。


第2778話 2022/06/30

上弓削の法皇宮と稲員家の菊花紋

 久留米市の研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からいただいた『北野町の神社と寺院』(注①)にある法皇宮の解説には、「法皇宮は北野町上弓削の氏神で、祭神は後白河法皇を奉祀するといわれる。また弓削の道鏡を祀るとの説もある。法皇説としては棟瓦の中央と両端に菊花の御紋章が三ヶ所入れられていた。ところが戦時中に村の駐在所の指示により、勿体ないから取りはずせとのことで、これを処理したとのことであるが、その現物は現在残ってはいない。」とあります。これは、よくよく考えるとおかしなことです。後白河法皇を祀っているのであれば、菊花紋の瓦をはずせなどと駐在所のおまわりさんに言えるはずがありません。それこそ、後白河法皇の霊に対して失礼な所業だからです。戦時中であればなおさらです。従って、駐在所が菊花紋瓦を取りはずせと指示したのは、この法皇宮に祀られているのは後白河法皇ではなく、弓削の道鏡だとおまわりさんも知っていたからではないでしょうか。その証拠に、江戸時代の地誌(注②)には、祭神は道鏡であると記録されています。
 このことと対応するのですが、筑後地方には菊花を家紋とする一族があり、同様に御上に対して差し障りがあるとして使用を止めさせられています。その一族とは、高良玉垂命の末裔で高良大社の神事を執り行っていた稲員(いなかず)家(旧・草壁氏)です。草壁氏は草部・日下部と記されることもあり、御井郡稲員村に居住したことから稲員氏を名乗ります。正応三年(1290)に上妻郡広川庄古賀村に転居し、江戸時代には筑後国上妻郡広川村古賀の大庄屋となり、久留米藩に仕えました。大庄屋職にあった稲員安則が寛永十年~元禄九年(1633~1696)に書き留めた『家勤記得集』(注③)末尾に次の一文が見えます。

〝稲員家の紋、古来は菊なり、今は上に指合うによりて止むる由なり。〟『家勤記得集』

 九州王朝の王族と思われる高良玉垂命の子孫(注④)、稲員家の家紋が菊花紋であり、後世において差し障りがあり、止めたとの記事です。それでは御井郡北野村弓削の法皇宮の菊花紋瓦と、上妻郡広川村の大庄屋稲員家の菊花紋とは何か関係があるのでしょうか。(つづく)

(注)
①『北野町の神社と寺院』三井郡北野町教育委員会、昭和62年(1987)。②伊藤常足編『太宰管内志』天保十二年(1841)。歴史図書社刊、昭和44年(1969)。
③稲員安則『家勤記得集』元禄九年(1696)。久留米郷土研究会、昭和五十年(1975)。
④古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第2742話 2022/05/17

高良大社研究の想い出 (3)

―玉垂媛神と倭王旨―

 『筑後国神名帳』に見える玉垂媛神を倭王旨ではないかと考えたことがありました。倭王旨とは、天理市の石上神社所蔵の七支刀銘文に見える倭王の名前(中国風一字名称)ですが、筑後(三潴)に君臨したこの倭王旨を女性ではないかとする仮説を初期の論文「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」などで発表しました(注①)。当該部分を要約して紹介します。

〝残された問題として、倭王旨は女性ではなかったかというテーマがある。その理由の一つは七支刀記事が『日本書紀』では神功皇后紀(神功五二年)に入れられていることだ。これは『日本書紀』編纂時に百済系史書にあった七支刀記事を単純に干支二巡繰り上げた結果とも考えられるが、七支刀贈呈時の倭王が女性であったため、神功皇后紀に入れられたのではないか。
 「高良の神は玉垂姫」という現地伝承の存在も無視できない。『筑後国神名帳』の「玉垂媛神」以外にも、『太宰管内志』に紹介された「袖下抄」に「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」という記事もあるからだ。〟

 この論文は1999年に発表したものですが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は同趣旨の仮説を更に深化させた論を詳述されています(注②)。倭王旨女王説は有力ですが、他の可能性もあるのではないかと、わたしは考えています。というのも、筑後地方に色濃く遺る玉垂命信仰の淵源は縄文時代にまで遡るとする古田先生の考察があったからです。(つづく)

(注)
①古賀達也「高良玉垂命と七支刀」『古田史学会報』25号、1998年。
 同「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②正木裕「九州王朝の女王たち ―神功皇后一人にまとめられた卑弥呼・壱与・玉垂命―」『古田史学会報』112号、2012年。


第2741話 2022/05/16

高良大社研究の想い出 (2)

―『筑後国神名帳』の玉垂媛神―

 高良玉垂命関連ファイルを整理していたら、古賀壽(たもつ)先生(注①)からいただいた『筑後国神名帳』(注②)のコピーが出てきました。とても懐かしい史料で、高良大社で実物を見せていただいた記憶があります。そのとき古賀壽先生と議論になったことを思い出しました。それは玉垂命が男か女かを巡っての問答です。
 わたしは玉垂命を四世紀から六世紀にかけての九州王朝(倭国)の王の別名(襲名)と考えていましたので(注③)、男性と理解していました。ところがわたしの父(正敏)が、生前に「大善寺(玉垂命)の神様は女子(おなご)の神様と聞いちょるけどな」と話していたことが気になっていましたので、古賀壽先生にたずねたところ、『筑後国神名帳』に「玉垂媛」とあるとのことで、同高良大社本のコピーをいただきました。それによると、三潴郡の「正六位上四十四前」の段に「玉垂媛神」とあるのですが、「媛」の字が不鮮明で、見方によっては「髟」にも見えました。そこで、本当に「媛」なのでしょうかと確認したところ、古賀壽先生は「媛」の字に間違いないと断言されました。しかし、わたしは半信半疑のままで今日に至ったのでした。
 同コピーが見つかったのも何かの御縁と思い、改めて他の写本を調査しました。国会図書館本がデジタルアーカイブで閲覧できたので精査したところ、古賀壽先生のご意見通り「玉垂媛神」とありました。しかも、国会図書館本と高良大社本を比較したところ、「玉垂媛神」の次の行から高良大社本に欠落があることがわかりました。国会図書館本の三頁分ほどが欠帳していたのです。この史料状況から、国会図書館本と高良大社本は異系統の写本であることがわかり、国会図書館本には明確に「玉垂媛神」とあることから、高良大社本のやや不鮮明な「媛」の字も、「媛」としてよいようです。
 こうして、永年の疑問が氷解したのですが、それではこの「玉垂媛神」とは何者かという、新たな疑問が生じたのでした。(つづく)

(注)
①高良大社文化研究所元所長。
②『筑後国神名帳』高良大社所蔵本。10世紀に成立した『延喜式』に収録されている。
③古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。http://furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai4/tikugoko.html


第2740話 2022/05/14

高良大社研究の想い出 (1)

―古賀壽先生からの手紙―

 45年勤めた化学会社を定年退職し、二年が過ぎようとしています。なぜか定年後も会社時代の夢をみます。なかでも、化学プラントの合成反応が暴走し、制御に苦しむ夢をよく見ます。三十代のとき、深夜に停電が発生した記憶がトラウマになっているようです。
 その夜のことは今でもよく覚えています。仮眠をとっていたわたしは、「古賀さん大変です。停電です」の大声にたたき起こされました。事務管理棟の灯りはついているものの、工場用高圧電源が止まっており、緊急事態の発生でした。夜勤メンバーに対応を指示すると、わたしは懐中電灯を手に真っ暗闇の工場に飛び込みました。エレベーターが動かないので、最上階(4F)まで階段を駆け上り、作業者の安否を確認すると、停止した装置の分電盤を片っ端から開けて元スイッチを切り、加熱用蒸気バルブを手動で閉めました。そうしないと、電源が回復したとき一斉に反応器が動き出し、最悪の場合、化学反応が暴走するからです。
 過去に異常反応で有毒ガスが発生し、逃げ遅れた同期入社の社員が重体になったこともありましたので、化学知識はもとより、非常時での対応力が要求されました。とりわけ深夜勤務は作業員も少なく、責任者ともなれば片時も気を抜けませんでした。このような夢を見ることは、これからは減ることと思います。
 定年後の生活リズムになれてきましたので、古い資料を整理しています。先日、高良玉垂命関連ファイルを整理していたら、古賀壽(たもつ)先生(注①)からのお手紙や貴重な資料が出てきました。古賀壽先生は高良大社研究の碩学で、古田先生とも懇意にされていました。わたしが久留米出身で同姓ということもあってか、何かと親身になってご教示いただきました。高良大社所蔵の貴重な史料を見せていただいたり、コピーをいただくこともありました(注②)。最初にいただいたお手紙を紹介します。氏のお人柄がうかがえます。

〝拝復
 このたびは『古田史学会報』24~32号並びに『古代に真実を求めて』第一集を御恵与賜り、また御丁寧な御便りに接し、誠に有難く厚く御礼申し上げます。
 会報所載の御高論「玉垂命と九州王朝の都」「高良玉垂命と七支刀」「稲員家と三種の神宝」、いずれも興味深く拝読しました。
 私ごとを申し上げますと、私は大川市(旧三潴郡田口村)の出身で、作曲家古賀政男は従祖父に当たります。
 小学生の頃、社会科の授業で教わった大善寺(現久留米市)の御塚・権現塚古墳を一人で見学に行き、そのことを担任の先生から激賞されたことがきっかけで、この道に入りました。だから三潴町の御廟塚・烏帽子塚、大川市の酒見貝塚などは日参する勢いで歩き廻り、リンゴ箱五六個分の土器や石器を集めたものです。それから五十年、現在は二度目になりますが高良大社に奉職し、高良の神=高良玉垂命とは一体何者かを、真剣に考える毎日となり、早や十年を経ました。その私の見解は、社報「たまたれ」第13号に述べたとおりです。
 私の考古学・古代史学研究は、水沼君にはじまり、水沼君に終わるような気がしています。
 白状すれば、私は古田先生や皆様とは、対極にある者ですが、歴史の真実を見極めるためには、さまざまな異なる角度からの研究こそが必要と考えております。
 地元に在って皆様の御研究を拝見しますと、この件ならもっとよい資料があるのに、と思うことが再々です。特に高良山関係の資料は活字化が遅れています。幸い今なら(残り少ないのですが)高良大社に私が居りますので、御研究の便宜を図ることは、微力なりに出来ようかと思います。当社の資料で必要なものがあれば、極力貴意に添いたいと考えています。
 先ずは右、取急ぎ御礼傍々、
 2伸 八月の久留米シンポジウムには、事情が許せば是非参加したいと存じております。その折り拝眉できればと楽しみです。
 同封の小冊子御笑覧下さい。 拝具
 六月七日(注③)
         高良大社 古賀 壽
 古賀達也様
     硯机〟

 古賀壽先生は、学問的見解が〝対極〟にある古田先生やわたしたちに対しても、資料紹介の労を惜しまれなかった真の歴史学者であり、郷土の偉人でした。

(注)
①高良大社文化研究所元所長。高良玉垂命研究の第一人者で関連著書や論文は多数。
②古田武彦「高良山の『古系図』 ―「九州王朝の天子」との関連をめぐって―」(『古田史学会報』35号、1999年)に次の記事がある。
〝今年の九州研究旅行は、多大の収穫をもたらした。わたしの「倭国」(「俀〈たい〉国」、九州王朝)研究は、従来の認識を一段と深化し、大きく発展させられることとなったのである。まことに望外ともいうべき成果に恵まれたのだった。
 その一をなすもの、それが本稿で報告する、「明暦・文久本、古系図」に関する分析である。今回の研究調査中、高良大社の“生き字引き”ともいうべき碩学、古賀壽(たもつ)氏から、本会の古賀達也氏を通じて、当本はわたしのもとに托されたものである。〟
③平成七年(1995)。


第2685話 2022/02/17

古田先生の「紀尺」論の想い出 (3)

古田先生が「紀尺(きしゃく)」を採用して論証に成功された高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』(注①)を始め高良玉垂命系図である「稲員家系図(松延本)」や「物部家系図」(明暦・文久本、古系図)についての論考があります。それは「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」という論文(注②)で、次のような書き出しで始まります。

〝今年の九州研究旅行は、多大の収穫をもたらした。わたしの「倭国」(「俀〈たい〉国」、九州王朝)研究は、従来の認識を一段と深化し、大きく発展させられることとなったのである。まことに望外ともいうべき成果に恵まれたのだった。
その一をなすもの、それが本稿で報告する、「明暦・文久本、古系図」に関する分析である。今回の研究調査中、高良大社の“生き字引き”ともいうべき碩学、古賀壽(たもつ)氏から、本会の古賀達也氏を通じて、当本はわたしのもとに托されたものである。
この古系図は、すでに久しく、貴重な文書としてわたしたちの認識してきていた「古系図」(稲員・松延本)と、多くの共通点をもつ。特に、今回の主たる考察対象となった前半部に関しては、ほぼ「同型」と見なすことができよう。
しかしながら、古文書研究、歴史学研究にとって「同型・異類」写本の出現は重大だ。ことに当本のように、従来の古代史研究において、正面から採り上げられることの少なかった当本のような場合、このような別系統本の入手の意義はまことに決定的だ。しかも、当本は「高良山の大祝家」の中の伝承本であるから、先の「稲員・松延本」と共に、その史料価値のすぐれていること、言うまでもない。〟

そして、「紀尺」による論証結果が次に示されています。

〝第二、〈その二〉の高良玉垂命神は、この「古系図」内の注記に
「仁徳天皇治天五十五年九月十三日」
とあるように、「仁徳五十五(三六七)」に当山(高良山)に来臨した、という所伝が有名である。(高良大社の「高良社大祝旧記抜書」〈元禄十五年壬午十一月日〉によって分析。古田『九州の真実 六〇の証言』かたりべ文庫。のち、駸々堂刊。注③)
中国の南北朝分立(三一六)以後、高句麗と倭国は対立し、撃突した。その危機(高句麗の来襲)を怖れ、博多湾岸中心の「倭国」(弥生時代)は、その中枢部をここ高良山へと移動させたようである。それが右の「仁徳五十五〈皇暦〉」(三六七)だ。
それ故、高良大社は、この「高良玉垂命神」を以て「初代」とする。〟

論文末尾は次のように締めくくられます。

〝「古系図」(稲員・松延本)に関しては、すでに古賀達也氏が貴重な研究を発表しておられる。「九州王朝の築後遷宮」(『新・古代学』第4集)がこれである(注④)。
「九躰の皇子」の理解等において、いささか本稿とは異なる点があるけれど、実はわたしも亦、本稿以前の段階では、古賀氏のように思惟していたのであった。その点、古賀論稿は、本稿にとっての貴重な先行論文と言えよう。
今、わたしは「俀国版の九州」の名称についても、この「九躰の皇子」にさかのぼるべき「歴史的名辞」ではないか、と考えはじめている。詳論の日を迎えたい。
先の稲員・松延氏と共に、今回の古賀壽氏の御好意に対し、深く感謝したい。
最後に、この「古系図」の二つの奥書を詳記し、今回の本稿を終えることとする。
(イ)明暦三丁酉年(一六五七)秋八月丁丑日
高良山大祝日往子尊百二代孫
物部安清
(ロ)文久元年(一八六一)辛酉年五月五日
物部定儀誌〟

以上のように、江戸期成立の近世文書を古代史研究の史料として採用するための方法論の一つとして、古田先生の「紀尺」論は有効性を発揮しています。江戸時代の文書や皇暦(『東方年表』)などを偽作扱い、あるいは軽視する論者があれば、この古田先生の論文を読んでいただきたいと思います。ここで示された「紀尺」を初めとする種々の方法論は和田家文書(明治・大正写本)の史料批判にも数多く採用されています。「紀尺」論は、古田先生の学問を理解する上で、不可欠のものとわたしは考えています。(つづく)

(注)
①『高良社大祝舊記抜書』元禄十五年(1702年)成立。高良大社蔵。
②古田武彦「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」『古田史学会報』35号、1999年12月。
③古田武彦『古代史60の証言』(駸々堂、1991年)59頁、「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。
④古賀達也「九州王朝の築後遷宮–玉垂命と九州王朝の都」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。