「 近畿天皇家 」一覧

第1909話 2019/05/29

「日出ずる国」の天子と大統領(1)

 アメリカ合衆国のトランプ大統領が来日され、そのスピーチで万葉集や万葉歌人、そして「日出ずる国」などの日本古代史ではお馴染みの言葉を使われました。外交交渉においても、それぞれの国のトップが互いの国の歴史や文化を尊重することは大切と改めて思いました(仮にリップサービスであったとしても)。
 この「日出ずる国」の出典は『隋書』国(たいこく)伝の次の文章です。※この「」は「大委」(たいゐ)の一字表記。

 「其國書曰、日出處天子、致書日沒處天子、無恙、云云。」
【読み下し文】その国書に曰く、「日出ずる處の天子、日沒する處の天子に書を致す。恙(つつが)無きや。云云。」。

 大和朝廷一元史観による通説や歴史教科書では、聖徳太子による倭国(日本)と隋国(中国)との対等外交を著した国書とされています。現在、中国との「貿易戦争」を戦っているトランプ大統領が、古代日本の中国への対等外交の際に用いられた国書の意味や背景を理解した上で、「日出ずる国」という言葉を用いたとすれば、かなり意味深長です。
この国書をもらった隋の皇帝(煬帝)は気分を害したらしく、次のような文が続きます。

 「帝覽之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
【読み下し文】帝、これを覧(み)て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く「蠻夷の書に無禮あり。復(ま)た以て聞くなかれ。」と。

 中華思想により世界に天子は自分一人でなければならないと煬帝は思っていますから、「日出ずる處の天子」などと名乗る国書に激怒するのはよくわかります。
 古田説(九州王朝説)では、この「日出ずる處の天子」は聖徳太子ではなく九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤のことで、その国には阿蘇山が噴火していると『隋書』には記されています。この『隋書』の記述はどう控えめに読んでも大和の聖徳太子や推古天皇のことではありません。何よりも「阿毎の多利思北孤」という名前の天皇は近畿天皇家にはいません。ちなみに、多利思北孤の奥さんの名前は「キミ」、太子は「利歌彌多弗利」と記されています。もちろんこのような名前の妻や子供を持つ天皇は近畿天皇家にはいません。
 阿蘇山の噴火を隋使は見ており、その情景が次のように記されています。

 「有阿蘇山、其石無故火起接天者」
【読み下し文】阿蘇山あり。その石、故無くして火を起こし、天に接す。

 この表現は実際に阿蘇山の噴火を見ていなければ書けないリアルなものです。そしてこの国には昔「卑彌呼」が女王として君臨したことも記されています。

 「有女子、名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立爲王。」
【読み下し文】女子あり、名は卑彌呼。鬼道を以て能(よ)く衆を惑わす。ここに於いて國の人、共立して王と爲す。

 このように『隋書』の一連の記事は、イ妥国を女王卑彌呼(『三国志』倭人伝の邪馬壹国。博多湾岸にあった倭国の中心国)の時代から続いた、阿蘇山がある九州の国であると述べているのです。普通に文章読解力や土地勘のある日本人なら、そのようにしか読めないでしょう。ところが日本の古代史学界ではこの記事が「大和朝廷(奈良県)」の記事に見えてしまうというのですから、一元史観の宿痾は深刻です。(つづく)


第1907話 2019/05/25

七世紀における「天皇」号と「天子」号

 「古田史学の会」関西例会では、七世紀の金石文に見える「天皇」を九州王朝の〝旧・天子〟のこととする晩年の古田説に対して賛否両論が出され活発な論争が続いています。このように関西例会では、古田先生が〝わたしの学問の原点〟とされた「師の説にななづみそ」(本居宣長)、「自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風」を体現した学問研究が続けられています。
 わたしは、倭国ナンバーワンの九州王朝の「天子」に対して、ナンバーツーとしての近畿天皇家の「天皇」とする古田旧説を支持しています。従って、七世紀の金石文に見える「天皇」はナンバーツーとしての近畿天皇家の天皇と考えています。そのことを論じた拙稿「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」を『古田史学会報』(152号、2019年6月)に投稿しました。同稿では船王後墓誌に見える「天皇」を近畿天皇家の天皇としましたが、さらに「天皇」号の位置づけについて、別の視点から説明することにします。それは九州王朝の「天子」号との関係についてです。
 九州王朝の多利思北孤が「天子」を名乗っていたことは『隋書』の記事「日出る処の天子」から明らかです。他方、近畿天皇家では七世紀初頭の推古から後半の天武が「天皇」を名乗っていたことは、法隆寺の薬師如来像光背銘の「大王天皇」や飛鳥池出土の「天皇」木簡から明らかです。こうした史料事実が古田旧説の根拠となっています。
 もし古田新説のように船王後墓誌などの七世紀の金石文に見える「天皇」を九州王朝の〝旧・天子〟とすると、ナンバーワンの九州王朝もナンバーツーの近畿天皇家も同じ「天皇」を称していたこととなります。しかし、ナンバーツーがナンバーワンと同じ称号を名乗ることをナンバーワンが許すとは到底考えられません。こうした、称号の序列という論理から考えても、古田新説は成立困難と思われるのです。


第1901話 2019/05/15

椿井大塚山墳・黒塚古墳の被葬者は誰か

 河内の巨大前方後円墳の築造者や被葬者についての疑問と同様に、多くの三角縁神獣鏡の出土で有名な椿井大塚山古墳(京都府木津川市)・黒塚古墳(奈良県天理市)についても同様の疑問をわたしは持っています。
 たとえば3世紀末頃の前方後円墳(全長175m)とされる椿井大塚山古墳からは36面以上の三角縁神獣鏡が出土しており、その同笵鏡が西日本各地の古墳から出土していることが知られています。一元史観では大和の有力者が各地の豪族へ「下賜」したものとする説が有力とされています(異見あり)。同様の現象は三角縁神獣鏡33面が出土した黒塚古墳(4世紀初頭〜前半頃。全長130m)でも見られます。この三角縁神獣鏡の同笵鏡出土とその出土中心が両古墳と思われることはわたしも認めうるのですが、わたしの疑問は〝それではなぜ両古墳は「天皇陵」あるいは「皇族」の陵墓として伝承されていないのか〟という一点です。
 九州や関東などの遠隔地の豪族にまで同笵鏡を配布した有力者の古墳であれば、一元史観が正しければ両古墳の被葬者は近畿天皇家の「天皇」かその「皇族」級の権力者と考えざるを得ないでしょう。そうであれば「陵墓」として伝承されていてしかるべきです。しかし、両古墳はそうした伝承を持っていません。従って、両古墳から出土した同笵鏡は近畿天皇家一元史観を否定するのではないでしょうか。


第1900話 2019/05/14

百舌鳥・古市古墳群の被葬者は誰か

 日野智貴さんとの「河内戦争」問答で、日野さんの青年らしい鋭い指摘を受けて、わたしは「大和朝廷」前史というテーマをより深く考える必要性を感じました。その一つとして近畿の巨大前方後円墳の存在をどのように考えるのかがあります。今朝のテレビニュースでは百舌鳥・古市古墳群が世界遺産登録へ前進したと言われています。こうしたことにより、「令和」改元により高まった日本古代史への社会の関心がより学問的に深まることを願っています。
 過日、京都市上七軒で桂米團治さんにお会いしたとき、百舌鳥・古市古墳群について話を聞かせて欲しいと仰っていましたので、古田学派でも研究が進展しつつあると返答しました。「古田史学の会」では、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の論稿「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収)の発表により、河内を中心とする八カ国の権力者としての捕鳥部萬(ととりべのよろず)の存在が注目されています。その後、冨川説を発展させるような研究として服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)により、河内の巨大前方後円墳を築造した勢力は近畿天皇家ではなく在地豪族の捕鳥部萬らではなかったかとされ、被葬者も近畿天皇家の「天皇」たちではなく、捕鳥部萬らの先祖ではないかとする仮説が発表されました。
 とても興味深い仮説ですが、学問的に成立するものかどうか服部さんの研究の進展を見守っている状況です。(つづく)


第1899話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(8)

 わたしからの5回の返答を終えて、その後の問答です。もちろん、この問答で決着がついたわけでも両者が十分に納得したわけでもありません。しかし、互いの意見交換により双方の認識が深まり、新たな課題や問題意識の発展へと繋がりました。
 学問論争とは互いに高め合うことが重要です。わたしも若い日野さんからの鋭い質問と指摘を得て、「大和朝廷」前史の研究という新たなテーマへと進むきっかけを得ました。また、日野さんも「河内政権」論に関する論文を書かれるとのことなので、『古田史学会報』への投稿を要請しました。日野さんに感謝します。

2019.05.12【日野さんからの最後のコメント】

 「河内の巨大古墳の造営者」が「近畿天皇家と対等な地方豪族」であったと仮定すると、関西八国の支配者だという文献の解釈結果と矛盾します。
 近畿天皇家は八か国にも及ぶ支配領域を持っていなかったであろうことは、古賀さんも論証されているところですから。「対等」であれば、同じぐらいの力を持っていないと可笑しいわけです。
 河内の政権についての仮説は、確かに今の古田学派の中では主流派になりつつありますが、現段階では確実性が低すぎます。存続期間と勢力範囲が明確ではない政権、ということです。

2019.05.12【古賀の最後の返答】

 「対等」と述べたのは、共に九州王朝の配下の地方豪族という意味でのことです。実勢力としては河内の勢力の方が大きいと思います。ただ、「関西八カ国」の領域がまだ特定できていません。そのため、その勢力範囲については引き続き検討が必要です。その点、日野さんの危惧には同意します。


第1898話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(7)

 日野さんへの返答の5回目を転載します。

2019.05.11【日野さんへの返答⑤】

 日野さんからのご質問がきっかけとなって、701年の王朝交替により成立した「大和朝廷」の前史について考察を続けています。近年の研究では古墳時代以前の大和には、たとえば筑前の那珂遺跡や難波の上町台地のような都市的景観を持つ大規模な集落遺跡がないとされています。「古田史学の会」関西例会でも原幸子さん(古代大和史研究会・代表)からも何度か同様の指摘が発表されてきました。
 そうしたこともあり、飛鳥時代には飛鳥の地を中心に宮殿遺構や寺院跡の出土が知られているのですが、それよりも前の時代には王権の存在を示唆するような大型集落(都市)遺構は大和にはないように思われるのです。そのような時期に近畿天皇家が山城国まで支配していたとは考えられないとわたしは思うのです。
 6世紀末頃から7世紀初頭になってようやく奈良盆地の南隅に割拠するようになった近畿天皇家が山城国までも支配したのはやはり壬申の乱以降ではないでしょうか。この点、天智の「近江朝廷」については特別のなものとして、引き続き検討が必要です。いずれにしても、この「大和朝廷」前史について、『日本書紀』のイデオロギーや既存学説による先入観を排して、改めて多元史観・九州王朝説により研究する必要を日野さんへの返答を書いていて感じました。
 わたしからの返答は以上で一旦終わらせていただきますので、日野さんからの反論や再質問をお願いします。


第1897話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(6)

 日野さんへの返答の4回目を転載します。

2019.05.11【日野さんへの返答④】

 続いて、日野さんからのご質問に対してお答えしながら、近畿天皇家の実勢についての考察などを説明します。

 まず(1)の「河内戦争」の実年代についてですが、わたしは『日本書紀』に記された崇峻即位前紀(用明天皇二年、587年)の頃として問題ないと考えています。記事に記された地名などから、少なくとも前期難波宮や難波京成立後の7世紀後半とは考えられません。

 (2)についても、冨川説のように九州王朝による6世紀末頃の律令支配の痕跡とする説は有力と思います。通説のように、『日本書紀』編纂時の脚色により律令用語が使用されたとする可能性も否定できませんが、今のところわたしは冨川説がよいと考えています。

 (3)のご質問が、今回の問答での最重要テーマです。大変良いご質問をいただいたと思いました。捕鳥部萬が支配した八カ国の範囲ですが、河内を中心として難波を含むことはその記事から推測できますが、大和や山城なども含むのかどうかは今のところ不明です。
 河内の巨大古墳は近畿天皇家のものではなく、捕鳥部萬らの先祖の墳墓とする服部静尚さんの研究によるのであれば、あの巨大古墳群を造営できるほどの勢力となりますから、それなりの支配範囲を有していたと考えなければなりませんが、今後の研究課題です。
 大和(飛鳥地方)に割拠していた近畿天皇家との関係ですが、今のところ九州王朝(倭国)下における対等な地方豪族であったと考えています。すなわち大和の代表権力者の近畿天皇家、河内を中心とする地域の代表権力者の捕鳥部萬といった関係を想定しています。(つづく)


第1892話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(1)

 FaceBookと「洛中洛外日記」で連載した「京都市域(北山背)の古代寺院」を読んだ日野智貴さん(古田史学の会・会員、奈良市)からFaceBookにコメントが寄せられ、問答が続きました。
 日野さんは奈良大学の学生さんで国史を専攻する古田学派内でも気鋭の若手研究者です。今回、寄せられた質問やわたしの見解への鋭い疑問の提起など、学問としてもハイレベルで深い洞察力に裏付けられたものでした。その二人のやりとりを「河内戦争」問答と銘打って「洛中洛外日記」でご披露することにしました。もちろん日野さんの了承もいただいています。
 まずは発端となった日野さんからの質問とわたしの返答の序盤戦を転載します。

2019.05.09【日野さんからの質問】
 一応、「この時代は九州王朝(倭国)の時代で、この地に近畿天皇家の支配が及んでいたとは考えられません。」という部分については、古田学派でも統一見解とは言えないと思います。近畿天皇家の勢力範囲については、初期からずっと議論があり今でも決着を見ていないと思います。
 大和と山城の境界が確定したのは恐らく多利思北孤の時代である(それ以前には山背の一部が大和に編入されていた可能性も否定できない)わけですし。

2019.05.10【古賀の返答】
 日野さん、コメントありがとうございます。
 冨川ケイ子さんの論文「河内戦争」において、タリシホコの九州王朝が摂津・河内を制圧する前の当地の権力者は関西八国の支配者であり、それは近畿天皇家の勢力でもないとされています。わたしは冨川説は有力と考えており、それであれば山城国が近畿天皇家の影響下となるのは七世紀第四四半頃と考えています。壬申の乱以降ではないでしょうか。
 河内戦争の勝利後に九州王朝は全国を66国に分国したものと思いますが、いかがでしょうか。
(つづく)


第1890話 2019/05/09

京都市域(北山背)の古代寺院(6)

 連載した「京都市域(北山背)の古代寺院」の最後として大宅廃寺(山科区)を紹介します。大宅廃寺は早くから顕著な遺跡として認識されていましたが、昭和33年の名神高速道路建設に伴う調査でその一部が明らかとなりました。そして平成16年の調査で金堂基壇(二重基壇)が発見され、七世紀末頃の創建であることがわかりました。
 大宅廃寺の発掘調査で、最も注目されたのが藤原宮の瓦(藤原宮6646C型式)と同笵瓦の出土でした。しかも藤原宮よりも大宅廃寺の瓦の方が先行しており、この地で使用された笵型が藤原宮に転用されたこととなります。この事実は、七世紀末頃には近畿天皇家の影響力が山背国にまで及んでいたことを意味します。当時の近畿天皇家は没落した九州王朝に替わって列島の第一権力者に上りつめ、701年には王朝交替(九州王朝・倭国から大和朝廷・日本国へ)を果たし、九州年号に代えて[大宝」年号を建元しました。そのことを大宅廃寺から出土した藤原宮との同笵瓦も「証言」しているのではないでしょうか。
 このように、京都市域の古代寺院遺構を多元史観・九州王朝説で俯瞰することにより、新たな山背国古代史学が成立すると思われます。(おわり)


第1866話 2019/03/30

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(3)

 拙稿「九州王朝鎮魂の寺 -法隆寺天平八年二月二二日法会の真実-」、『古代に真実を求めて』第十五集所収、2012.3)において、『法隆寺縁起并流記資財帳』に記された「丈六仏像」への光明皇后らによる献納が「天平八年歳次丙子二月廿二日」に集中していることを根拠に、法隆寺を前王朝である九州王朝鎮魂の寺とする説を発表しました。
 釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」の命日「法興三十二年(622年)」「二月廿二日」は、『日本書紀』に記された「聖徳太子(厩戸皇子)」の命日の推古29年(621)2月5日とは明確に異なり、両者は別人です。他にも、光背銘には母親の名前「鬼前太后」や妻の名前「干食王后」が記されており、「聖徳太子」の母親や妻はこのような名前ではありません。更に、「上宮法皇」の「法皇」とは仏門に入った天子を意味し、「法興」という年号も王朝の最高権力者の天子にしか作れません。しかし、「聖徳太子」はナンバーツーの「摂政」であり天子ではありませんし、「法興」という年号も持っていません。
 以上のように、法隆寺の釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」を近畿天皇家の「聖徳太子」とすることは無理というものです。しかも、「聖徳太子」の命日や家族の名前は『日本書紀』に記されており、法隆寺で法会が行われた天平8年(736)は『日本書紀』が成立した720年のわずか16年後であり、『日本書紀』を編纂した大和朝廷の有力者や官僚たちがそのことを誰も知らなかったとは万に一つも考えられないのです。
 したがって、光明皇后らは法隆寺や釈迦三尊像が九州王朝の寺院であり仏像であることをわかったうえで、大宰府官内から流行した天然痘の猛威を、滅び去った前王朝の祟りと思い、その鎮魂のために「上宮法皇」の命日である天平8年の「二月二十二日」に法会を行い、多くの品々を献納したと思われるのです。その大量の施入を記した『法隆寺縁起』に不思議な施入記事があることに、わたしは気づきました。(つづく)