「 近畿天皇家 」一覧

第1254話 2016/08/14

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(15)

 冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の「河内戦争」(古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収。明石書店、2015年)は、「古田史学の会」関西例会で発表されてきた研究を論文としてまとめられたものですが、当初わたしはこの論文の持つ重要性を正しく認識できていませんでした。ところが論文が掲載された『盗まれた「聖徳太子」伝承』が発行されると、何人かの読者の方から冨川稿を高く評価する声が聞こえてきたのです。そこで、わたしも改めて再読三読したところ、当初理解できていなかった同論文の持つ重要性を認識することができました。
 冨川稿の画期は、『日本書紀』崇峻紀に見える捕鳥部萬(よろず)が河内など八国を支配していた近畿地方の有力者であったことを発見されたことにあります。詳細は同論文を読んでいただきたいのですが、大和の近畿天皇家と拮抗する、あるいはそれ以上の権力者が近畿地方に割拠しており、その勢力を6世紀末に九州王朝は攻め滅ぼしていたのです。その戦争を冨川さんは「河内戦争」と名付けられました。そこで活躍したのは『日本書紀』によれば近畿天皇家と蘇我氏ですが、九州王朝の主力軍がどのような勢力だったのかは今後の研究課題です。
 こうして6世紀末の河内や難波での戦争に勝利した九州王朝が、後にその地に天王寺や前期難波宮を造営したと考えられ、冨川さんの「河内戦争」という論文は、前期難波宮九州王朝副都説を成立させうる歴史的背景を明らかにしたものといえるのです。しかし、冨川論文の画期はそこにとどまりません。河内の巨大古墳は近畿天皇家のものではなく、この地域を支配していた捕鳥部萬の祖先の墓ではないかとする服部静尚さんが提起されている新たな仮説へと論理的に繋がっていくのです。
 このように冨川論文は「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《三の矢》(巨大な前期難波宮)の歴史的背景を明らかにしただけではなく、《一の矢》(近畿の巨大古墳)をも解決できる可能性を示したのです。《二の矢》(近畿の古代寺院群)の問題についても、正木裕さんにより、難波から斑鳩に存在した古代寺院を九州王朝によるものとする仮説が検討されています。直ちに賛成できる段階ではないと、わたしとしては考えていますが、「九州王朝説に刺さった三本の矢」問題の解決が前期難波宮九州王朝副都説の展開と冨川さんの「河内戦争」という論文により、ようやく解決の糸口が見えてきたのです。
 最後にもう一度述べますが、それでもわたしの前期難波宮九州王朝副都説に反対される方は、「九州王朝説に刺さった三本の矢」の解決方法を明示してください。それが九州王朝説に立つ論者の学問的責任というものです。(了)


第1227話 2016/07/10

太宰府、般若寺創建年の検討(1)

 太宰府市の著名な考古学者、井上信正さんの論文「大宰府条坊の基礎的考察」(『年報太宰府学』第5号、平成23年)を読んでいて、興味深い問題に気づきました。この論文は太宰府条坊研究において考古学的には大変優れたものですが、大和朝廷一元史観との「整合性」をとるために非常に苦しい表現や矛盾点を内包しています。
 たとえば観世音寺の創建について「創建年代が天智朝に遡る可能性がある観世音寺」(p.90)と冒頭に紹介されています。他方、井上さんが発見されたように、太宰府条坊区画とその北部に位置する政庁2期・観世音寺・朱雀大路の主軸はずれており、条坊区画の造営が先行したと考えられることから、政庁2期などを7世紀末〜8世紀第1四半期、条坊区画はそれ以前とされました(p.88)。この表現からすると、観世音寺は天智朝の頃なのか、7世紀末〜8世紀第1四半期とされるのか混乱しており、意味不明です。
 井上さんの理解としては太宰府条坊区画は7世紀末頃の造営で、藤原京造営と同時期であり、政庁2期や観世音寺はそれ以後の造営とされています。しかし、そうすると観世音寺が天智天皇の発願により660〜670年頃に造営開始されたとする史料事実や伝承と矛盾してしまいます。この明白な矛盾の存在について井上論文では触れられていません。もし、観世音寺造営を660〜670年頃としてしまうと、自身の研究成果により条坊区画の造営が7世紀前半にまで遡ってしまい、わが国初の条坊都市とされてきた藤原京よりも太宰府条坊都市の方が古くなってしまうのです。これでは大和朝廷一元史観に不都合なため、その点を曖昧にし、矛盾を内包した不思議な論文となってしまうのです。
 この井上説が内包する重大な「矛盾」については、これまでも指摘してきましたが、今回、発見したのは同じく太宰府条坊内にある般若寺の創建年についての問題です。(つづく)


第1168話 2016/04/13

近江朝と「不改常典」

 九州王朝を継ぐ天智・大友の「近江朝」という正木裕さんが提起された新概念は、九州王朝説にとって年号や造籍だけではなく、様々な重要課題を惹起します。今回は「不改常典」との関係について考察します。
 わたしは「不改常典」について「洛中洛外日記」584話「天智天皇の年号「中元」?」で次のように記しました。

【以下引用】
 『続日本紀』の天皇即位の宣命中に見える「不改常典」は、内容の詳細については諸説があり、未だ明確にはなっていませんが、近畿天皇家にとって自らの権威の根拠が天智天皇が発した「不改常典」にあると主張しているのは確かです。そうすると、天智天皇は近江大津宮でそうした「建国宣言」のようなものを発したと考えられますが、それなら何故九州王朝に代わって自らの年号を建元しなかったのかという疑問があるとわたしは考えていました。ところが、竹村さんが指摘された天智の年号「中元」が江戸時代の諸史料(『和漢年契』『古代年号』『衝口発』他)に見えていますので、従来のように無批判に「誤記誤伝」として退けるのではなく、「中元」年号を記した諸史料の史料批判も含めて、再考しなければならないと考えています。ちなみに「中元」元年は天智天皇即位年(668)で、天智の没年(671)までの4年間続いていたとされています。
 もちろんこの場合、「中元」は九州年号ではなく、いわば「近江年号」とでも仮称すべきものとなります。「中元」年号について先入観にとらわれることなく再検討したいと思います。
【引用終わり】

 このようにわたしは、「中元」の年号を持つ近江朝を近畿天皇家の天智によるものと理解し、天智による九州王朝の権力簒奪は成功しなかったと考えてきました。ところが、正木説によれば近江朝は九州王朝系であり、「中元」年号は「建元」ではなく、九州年号「白鳳」を引き継ぐ「改元」ということになります。
 この理解が正しければ、天智は九州王朝を引き継ぐ「改元」を行い、その権威継承として「不改常典」を制定したと考えることができます。従って、『続日本紀』の元明天皇即位の詔勅などに見える近江大津宮の天智が制定した「不改常典」とは、九州王朝の権威を継承する「常典」ということになります。
 正木説の当否はこれからの論争や検証作業を待ちたいと思いますが、もし妥当であれば、この先様々な問題を惹起する仮説となりそうです。(つづく)


第994話 2015/07/05

天武元年「癸酉(673年)」説の史料根拠

 『日本書紀』天武紀では壬申の乱の年(672年)を「天武元年」とし、「即位」記事は翌天武2年2月にあります。ところが、「東方年表」等では672年は「弘文天皇(大友皇子)」の即位年とされ、天武元年は翌年の673年(癸酉)とされています。このように、天武の元年に『日本書紀』とは異なる説があるのですが、学問である以上、そうした説を唱えるためには史料根拠が必要です。ということで、今日のテーマは天武元年「癸酉(673年)」説の史料根拠についてです。
 西ノ京の薬師寺東塔に次のような銘文があります。書き下ろし文で紹介します。

「維(こ)れ清原宮馭宇天皇の即位の八年、庚辰の歳、建子の月、中宮の不(忿)を以て、此の伽藍を創(はじ)む。(以下略)」
※(忿)の字は、「分」を「余」にしたもの。

 天武天皇が即位して八年、庚辰の歳(680)の11月、后(中宮、後の持統天皇)が病にかかったので、この伽藍を創建したという内容ですが、天武の八年が庚辰の歳とされていることから、即位年は673年癸酉の歳となり、天智没年(671)の翌々年に即位したことになります。従って、空白の一年間(672)が生じることになり、その一年間に大友皇子が即位したとする説の史料根拠とされているのです。
 この薬師寺東塔銘文はちょっと成立過程がややこしいのですが、薬師寺が完成する前に天武天皇は崩御し、持統天皇により完成されます。元々は藤原京にあったのですが(本薬師寺)、平城京遷都にともない、今の西ノ京の位置に移転されます。この銘文も藤原京の寺にあった銘文を平城京の薬師寺の東塔完成時(730年頃)に新しく刻んだと考えられています。
 730年頃といえば、すでに『日本書紀』は成立(720年)しています。すなわち天武元年を672年とする「公式見解」が成立していることから、それとは異なる内容が、天武や持統に縁が深い完成したばかりの薬師寺東塔に記されたことになります。なんとも不思議な現象(史料事実)と言わざるを得ません。わたしは『日本書紀』の天武2年条に見える「即位」記事から年数を数えれば、東塔銘のように「(天武)天皇即位八年庚辰」となりますから、同銘文作成者は『日本書紀』とは別の立場(認識)で年数表記したのではないかと考えています。
 ただ、この1年のずれについては、もう一つの可能性があります。それは干支が1年繰り上がった暦により年干支を記載した場合です。すなわち、干支が1年ずれた暦であれば、実際の年は『日本書紀』と同じ672年「壬申→癸酉」が天武元年となります。
 この干支が1年繰り上がった暦については拙論「二つの試金石 ー九州年号金石文の再検討ー」(『「九州年号」の研究』に収録)で触れていますが、九州年号金石文の一つ「大化五子年」土器は干支が1年繰り上がった暦によった干支表記となっています。すなわち、九州年号の大化5年(699)の干支は「己亥」で、翌700年の干支が「庚子」ですから、この土器は1年干支がずれた暦により表記されていると考えられます。
 これと同様に、薬師寺東塔銘の「(天武)天皇即位八年庚辰」も「庚辰」が1年繰り上がった干支表記であれば、679年のこととなり、『日本書紀』の天武8年と同年のこととなります。もっとも、近畿天皇家中枢の寺院で公認の暦と異なった暦の年干支を使用することは考えにくいので、可能性としてはきわめて低いと思います。
 いずれにしましても、九州王朝から大和朝廷への王朝交替時期に関わる金石文ですので、複雑な歴史背景がありそうで、九州王朝説多元史観による検討が必要です。


第989話 2015/06/28

九州王朝の「集団的自衛権」

 連日のように国会やマスコミの集団的自衛権や憲法解釈、安保法制の論議や報道が続いています。この問題は、不幸なことに好戦的な国々に囲まれている日本を今後どのような形にして子供たちや子孫に残してあげるのかという歴史的課題ですから、小さなお子さんをお持ちの若いお父さんやお母さんが国会議員以上に真剣に考えるときではないでしょうか。わたしもそのような問題意識を持ちながら、遠回りではありますが、クラウゼヴィツの『戦争論』を再読しています。
 『戦争論』などでも指摘されているように、「好戦的」というのは国際政治における国家戦略の一つですから、いわゆる「善悪」の問題ではありません。その国が、「好戦的」で「軍事的」「威圧的」であることが自国の国益(自国民の幸福)に適うと考え、あるいは結果として国家間秩序(戦争ではない状態)を維持できると考えているということです。そこにおいては「善悪」の議論は残念ながらほとんど意味がありません。「好戦的」であることが自国にとって「善」と考えている国々なのですから。
 そこで、九州王朝の「集団的自衛権」について考えてみました。「洛中洛外日記」980話で、「九州王朝は本土決戦防御ではなく、百済との同盟関係を重視し、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦に突入し、壊滅的打撃を受け、倭王の薩夜麻は捕らえられてしまいます。(中略)九州州王朝は義理堅かったのか、百済が滅亡したら倭国への脅威が増すので、国家の存亡をかけて朝鮮半島で戦うしかないと判断したのかもしれません。」と記しましたが、九州王朝(倭国)が九州本土決戦による防御ではなく、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦を選んだ理由を考えてみました。
 一つは唐や新羅との対抗上から百済との同盟(集団的自衛)を自国防衛の基本政策としていたことです。朝鮮半島南部に親倭国政権(百済)の存在が不可欠と判断したのです。これには理由があります。倭国は新羅などからの侵攻をたびたび受けており、朝鮮半島南部たとえば釜山付近に新羅の軍事拠点ができると、倭国(特に都がある博多湾岸や太宰府)は軍事的脅威にさらされるからです。
 たとえば『二中歴』年代歴の九州年号「鏡當」(581〜584年)の細注に「新羅人来りて、筑紫より播磨に至り、之を焼く」とあるように、新羅など異敵からの攻撃を受けたことが多くの史料に見えます(『伊予大三島縁起』『八幡愚童訓』など)。ですから、九州王朝(倭国)にとって、朝鮮半島南部に親倭政権(同盟関係)があること、更には朝鮮半島に複数の国があり互いに牽制しあっている状態を維持することが自国の安全保障上の国家戦略であったと思われます。中国の冊封体制から離脱したからには、当然の「集団的自衛権」の行使として、唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済再興を目指して、白村江戦まで突入せざるを得なかったのではないでしょうか。
 ところが思わぬ誤算が続きました。一つは倭王と思われる筑紫君薩夜麻が捕らえられ唐の捕虜となったこと。二つ目は国内の有力豪族であった近畿天皇家の戦線離脱です。おそらく唐と内通した上での離脱と思われますが、その内通の成功を受けて、唐は薩夜麻を殺さずに帰国させ、壬申の大乱を経て、日本列島に大和朝廷(日本国)という親唐政権の樹立に成功しました。こうして唐は戦争においても外交においても成功を収めます。
 現代も古代も国際政治における外交と戦争に関しては、人類はあまり成長することなく似たようなことを繰り返しているようです。歴史を学ぶことは未来のためですから、現在の安保法制問題も日本人は歴史に学んで意志決定をしなければならないと思います。


第976話 2015/06/11

禁止された地名への天皇名使用

 「洛中洛外日記」971話「『天皇号』地名成立過程の考察」において、近畿天皇家の王宮(後期難波宮・藤原宮・平城宮・長岡京)跡地に天皇名が地名として遺存していないことを述べました。もともと付けられなかったのか、付いていたけども残らなかったのかは不明ですが、最高権力者(天皇)の名前を地名に使用するのははばかられたのではないかと考えてきました。
 そうしたら「洛中洛外日記」を読まれた正木裕さんから次のようなメールをいただきました。

古賀様、各位
『日本書紀』に天皇名を軽々しく地名に使ってはならないという趣旨の詔があります。

■大化二年(六四六)八月癸酉(十四日)
(略)王者(きみ)の児(みこ)、相続ぎて御寓せば、信(まこと)に時の帝と祖皇の名と、世に忘れべからざることを知る。而るに王の名を以て、軽しく川野に掛けて、名を百姓に呼ぶ。誠に可畏(かしこ)し。凡そ王者の号(みな)は、将に日月に随ひて遠く流れ、祖子(みこ)の名は天地と共に長く往くべし。

これは九州年号大化期のもので近畿天皇家が九州王朝の天子名を消すためにだした詔勅(或は服部説なら九州王朝が自らの王名の尊厳を図るための詔勅を出した可能性もある)と思いますが、天皇地名がないのはこれとの整合をとる為なのかも知れませんね。
正木拝

 『日本書紀』の大化二年条(646)に天皇名を地名などに使用することを禁止するという趣旨の詔勅があるというご指摘です。この「大化2年」の詔勅が646年なのか、九州年号の大化2年(696)なのかという問題と、この詔勅が九州王朝のものなのか近畿天皇家のものなのかという検討課題がありますが、いずれにしても7世紀中頃から末にかけて、このような命令が出されたことは間違いないと思われます。
 従って、古代において最高権力者の名前を地名につけることがはばかられたという事実は動きませんが、同時に詔勅で禁止しなければならなかったということですから、最高権力者と同じ名前の地名が少なからずあったということもまた事実ということになります。そうでなければ詔勅まで出して禁止する必要はありませんから。
 次に考えなければならないことに、その天皇名とは生前に使用されていた名前か、没後におくられた諡号なのかという問題があります。『日本書紀』に付加された「漢風諡号」は8世紀に成立しますから、その対象から外れます。近畿天皇家の「和風諡号」も同時代(各天皇の没後すぐ)に成立したのものか、『日本書紀』編纂時(8世紀初頭)に成立したものかによりますが、『日本書紀』編纂時に「和風諡号」が成立したのであれば、これもまた対象から外れることになります。従って、論理的に可能性が最も高いものとしては生前の名前ということになりそうです。
 そして最も重要な検討課題は、この詔勅が禁止した名前とは九州王朝の天子の名前なのか、近畿天皇家の天皇の名前なのかということです。おそらくは九州王朝の天子や王族の名前と思いますが、近畿天皇家が701年以後に日本列島の最高権力者となった後は、九州王朝と同様にみずからの「天皇名」を地名に付けることは禁止したと思います。正木さんも指摘されたように、こうした詔勅が出されたことと、難波宮や藤原宮、平城宮、長岡京に「天皇名」地名が無いこととは対応しているのではないでしょうか。(つづく)


第972話 2015/06/07

九州王朝の中国風一字名称

 九州王朝(倭国)において、中国風一字名称を倭王が持っていたことを古田先生が指摘されています。たとえば、『三国志』倭人伝に見える倭女王の壹与(3世紀)の「与」や、『宋書』倭国伝に見える「倭の五王」の「讃・珍・済・興・武」(5世紀)などです。
 『隋書』「イ妥(タイ)国伝」に見える太子の利歌彌多弗利(利、カミトウの利、7世紀)の「利」も中国風一字名称ではないでしょうか。古代日本において、「ら行」で始まる名詞(和語)はないことから、この「利」は中国風一字名称と考えざるを得ません。漢語であれば「蘭」や「猟師」などが使われていますから、「利」も中国風一字(漢語)名称と思われるのです。
 以上のように、倭国では少なくとも3世紀から7世紀において中国風一字名称を名乗っていたと考えられます。他方、近畿天皇家の「天皇」には中国風一字名称が記紀には見えません。『日本書紀』成立後に付加された死後の謚(おくり名)の漢風諡号はありますが、この漢風諡号(神武・斉明・天武など)は二字ですから、九州王朝の一字名称とは異なりますし、後代(『日本書紀』成立後)に付けられた謚ですから、神武や斉明たちが生きているときの自称ではありません。
 九州王朝の天子や倭王の死後の謚については史料がありませんので、どのようなものかは判断できませんし、学問的に論じることも現状では困難です。今後の研究課題です。


第777話 2014/08/31

大宰帥蘇我臣日向

 明日香村の都塚古墳が階段状の方墳であたっことで、にわかに蘇我氏との関係が注目されました。蘇我氏の出自については謎が多く、古田学派内でもさまざまな仮説が提起されてきましたが、いずれも確かな根拠が提示されているようには見えませんでした。そこで、改めて注目したいのが「洛中洛外日記」655話で紹介しました『二中歴』「都督歴」に見える次の記事です。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)

 鎌倉時代初期に成立した『二中歴』に収録されている「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されていますが、それ以前の「都督」の最初を孝徳期の「大宰帥」蘇我臣日向としているのです。九州王朝が評制を施行した7世紀中頃、筑紫本宮で大宰帥に任じていたのが蘇我臣日向ということですから、蘇我氏は九州王朝の臣下ナンバーワンであったことになります。
 蘇我臣日向は『日本書紀』にも登場しますが、『二中歴』の「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記ですから、その「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかと考えています。また、『日本書紀』皇極紀によれば、中大兄皇子との婚約が進められていた蘇我倉山 田麻呂の長女を身狭臣(蘇我日向のこととされる)が盗んだとありますが、これも『日本書紀』編纂時に大義名分を入れ替えた記事の可能性があります。
 近畿天皇家においても、蘇我氏が有力者として存在していたことを考えると、九州と大和において蘇我氏は重用されていたことになります。九州王朝説に基づいた蘇我氏研究が期待されます。


第765話 2014/08/14

都塚古墳と蘇我氏

 新聞やテレビニュースで、明日香村の都塚古墳が階段状の方墳であったことが最近の発掘調査で明らかになったことが報道されています。近くにある石舞台古墳が蘇我馬子の墓とされていることから、都塚古墳は馬子の父の蘇我稻目の墓ではないかとする見解も出されており興味深く感じています。
 都塚古墳の階段状の墳形は国内では珍しく、同様の形状を持つ古墳としては、岡山県真庭市の大谷1号墳(五段の方墳)が知られていましたが、都塚古墳は7~8段あったのではないかと見られているようです。もし、石舞台古墳や都塚古墳が蘇我氏の墓であったとすれば、現在は失われている石舞台古墳の墳形も階段状であったのかもしれません。基底部は吹石の痕跡から方形であったことが判明しています。封土が失われた理由は不明ですが、人為的なものを感じさせます。自然の風雨だけであれほど完全に封土が失われるとは考えにくいからです。
 前方後円墳が主流であった時代、飛鳥の地に異形ともいえる階段式方墳が天皇家をもしのぐような有力者だった蘇我氏の墓とすれば、蘇我氏は近畿天皇家とは 異質の豪族であったと考えられます。古田学派内でも蘇我氏に関して様々な見解・仮説が提起されてきました。たとえば「古田史学の会」草創期の会員(元副代表)であった山崎仁礼男さんはその著書『蘇我王国論』(1997年、三一書房)で、『日本書紀』は「蘇我王国」の歴史が換骨奪胎されたものとする作業仮説を発表されました。あるいは蘇我氏は九州王朝から飛鳥に派遣された近畿天皇家への「お目付役」とするアイデアも古田学派内から出されています。
 蘇我氏と九州王朝との関係から、「古田史学の会」でも様々な調査検討が試みられてきました。たとえば「電話帳」検索で全国の「蘇我」さんの分布を調べて みたところ、全国16件中、4件が大分県でした(西村秀己さんの調査による)。また、今回の都塚古墳の報道を聞いて、わたしは何故「都塚」という名称が付けられたのかも気になっています。古田学派内での多元史観による「蘇我氏」「階段状方墳」の研究が期待されます。


第751話 2014/07/24

森郁夫著

『一瓦一説』を読む

 今朝の京都は祇園祭の山鉾巡行(後祭)のため、観光客が見物席の場所取りであふれていました。今年は山鉾巡行が二回になりましたので、観光収入は増えると思いますが、混雑でバスが遅れたりしますので、住んでいる者にはちょっと大変です。
 今日は愛知県一宮市に仕事で来ていますが、ちょうど「一宮七夕祭り」の日で、駅前はイベントで賑やかです。女子高生によるキーボード演奏などもあり、わ たしも若い頃にバンド活動をやっていましたので、生演奏には今でも興味をひかれます。わたしはリードギターを担当していましたが、主にスクウェアやカシオ ペアの曲を好んで演奏していました。30年ほど昔の話しです。

 さて、今回は森郁夫著の新刊『一瓦一説 瓦からみる日本古代史』(淡交社)をご紹介します。あとがきによると、森郁夫さんは昨年五月に亡くなられ たとのことで、同書は最後の著書のようです。古代の瓦についての解説がなされた本で、近畿天皇家一元史観にたったものですが、考古学的遺物という「モノ (瓦)」がテーマですので、考古学的史料事実と一元史観というイデオロギーとの齟齬が見られ、興味深い一冊です。
 なかでもわたしが注目したのが、飛鳥の川原寺の瓦と太宰府観世音寺の創建瓦についての関連を示した次の解説です。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。 そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかる のである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために 天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 観世音寺の創建瓦(老司式)と川原寺や崇福寺の瓦に同笵品があるという指摘には驚きました。九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家 の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという指摘が正しけれ ば、この考古学的出土事実を九州王朝説の立場から、どのように説明できるでしょうか。
 しかもそれら寺院の建立年代は、川原寺(662~667)、崇福寺(661~667頃)、観世音寺(670、白鳳10年)と推定されていますから、観世 音寺のほうがやや遅れるのです。この創建瓦同笵品問題は、7世紀後半における九州王朝と近畿天皇家の関係を考える上で重要な問題を含んでいるようです。(つづく)