「 近畿天皇家 」一覧

第580話 2013/08/15

近江遷都と王朝交代

 今年もNHKの大河ドラマ「八重の桜」を楽しみに見ていますが、前半のクライマックス「会津戦争」が終わり、今週からは京都を舞台にした「京都 編」が始まりました。同志社大学校舎が建てられた旧薩摩藩邸跡地や大久保利通邸跡地などの石碑がご近所にありますので、とても身近に感じられる大河ドラマです。娘の母校の同志社大学からも新島八重の生涯を紹介したパンフレットが送られて来るなど、並々ならぬ力の入れようです。

 近江大津宮についての考察を続けてきましたが、いよいよ最後のテーマ「王朝交代」の考察に入ります。これまでの考察をまとめますと、遷都年は『日本書紀』天智6年(667)と『海東諸国紀』の白鳳元年(661)とする二説があり、下層出土土器の編年(飛鳥編年による)から白鳳元年(661)説のほうが妥当と思われるということでした。しかし、『日本書紀』天智紀などの記事から、天智が近江大津宮にいたことは、特に否定できるような疑問点も見あたり ませんから、史実としてよいでしょう。そうすると、九州王朝により造営され「遷都」した大津宮に、天智天皇は「遷都」したことになります。すなわち、二つの王朝が同じ大津宮に異なる時期に「遷都」し、君臨したと考えてみてはどうでしょうか。
 白村江戦の敗北と九州王朝の筑紫君薩野馬の抑留などにより、大きなダメージを受けた九州王朝に代わって、天智は主人不在の大津宮で新王朝の樹立、または九州王朝からの王権の継承を宣言したのではないかという作業仮説(アイデア)が浮かんでいるのですが、そのことと関連するのではないかと思われる史料根拠があります。
 第577話で触れた『続日本紀』に見える「不改の常典」、すなわち「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命もその史料痕跡の一つなのですが、『日本書紀』天智7年(668)7月条に見える次の記事が注目されます。

 時の人の曰く、「天皇、天命将及」といふ。

 岩波『日本書紀』には、「天命将及」に「みいのちをはりなむとす」という訓みをつけ、頭注には「中国で王朝交代の意」との説明をしています。訓みは天智天皇の寿命のこととする変な解釈を行っていますが、やはり頭注で説明された「王朝交代」のこととするべきです。多元史観では何の問題もなく「王朝交代」と字義にそった解釈が可能ですが、近畿天皇家一元史観では天智天皇の寿命のこととする矮小な解釈しかできないのです。先の「不改常典」の内容についても一元史観の諸説が提案されていますが、いずれもうまく説明できていません。「天命将及」も同様に一元史観ではうまく説明できないのです。
 ちなみに、『日本書紀』天智7年(668)7月条の、「天命将及」を天智天皇が大和朝廷の創立者であったとする証拠として指摘された論者に中村幸雄さん(古田史学の会草創の同志、故人)がおれらます。このことが記された中村さんの研究論文「誤読されていた日本書紀」は当ホームページに掲載されていますので、是非ご覧ください。
 さらにもう一つ、朝鮮半島の史料『三国史紀』新羅本紀の文武王10年条(670)に見える次の記事です。

倭国、更(あらた)めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以(ゆえ)に名と為すと。

 文武王10年条(670)ですから天智9年に相当します。倭国から日本国への国名の変更記事ですが、『旧唐書』では倭国伝(九州王朝)と日本国伝 (近畿天皇家)を書き分けられていますから、同様に考えれば『三国史紀』のこの記事も倭国(九州王朝)から日本国(近畿天皇家)への「交代」を反映した記事ではないでしょうか。
 以上のように、天智が大津宮で「王朝交代」を行った史料痕跡が見えるのですが、もしこの推論が正しかったとすれば、天智は「王朝交代」に成功したので しょうか。この点は比較的はっきりしています。天智の時代の九州年号は「白鳳」で、白鳳年間(661~683)に天智の称制即位(662)から没年 (671)までが入っていますが、即位年も没年も、新王朝の創立者として「建元」もされず、九州王朝を継承者としての「改元」もされていません。ですか ら、天智は何らかの宣言(不改常典)はしたのでしょうが、「王朝交代」には成功しなかったと思われます。
 以上、近江大津宮遷都年・造営年の考察から、天智の「不改常典」「王朝交代」まで推論を試みてみました。もちろん、この推論が正解かどうかは学問的検証の対象です。一つの作業仮説(アイデア・思いつき)としてご検討していただければと思います。


第577話 2013/08/05

近江大津宮造営年の論理性

 今朝は仕事で鯖江市に向かっています。JR湖西線を走る特急サンダーバード5号に乗っているのですが、大津京駅を通過す るとき、この付近が大津宮跡(錦織遺跡)だなあと、感慨深く車窓から眺めていました。わたしは25年ほど前に錦織遺跡を訪れたことがあり、発掘残土の中に 白鳳時代の布目瓦片が多数混ざっていることに驚いた記憶があります。
 車中で、琵琶湖と山に挟まれた狭隘なこの地に、なぜ都や宮殿が造営されたのだろうと思索しているうちに、近江大津宮造営年が重要な論理性を持つことに気づきました。『日本書紀』では近江遷都を天智6年(667)のこととされていますが、『海東諸国紀』には九州年号の白鳳元年(661)と記され、6年の差があります。この差に重要な論理的問題を含んでいるのです。
 もし『海東諸国紀』の白鳳元年(661)が正しいとすれば、おそらく造営開始は650年代後半でしょうから、前期難波宮完成年(652)の数年後のこととなります。九州王朝は列島の代表者として健在の時期ですから、その副都と同様式で同じような規模の「北闕型」王宮を近畿天皇家が作ることを九州王朝が認めるはずがないでしょう。従ってこの場合、近江大津宮は九州王朝による造営と考えざるを得ないという論理性を有します。もちろん近隣の豪族(近畿天皇家を含む)らに、九州王朝が命じて造営させたのでしょう。
 次に『日本書紀』の天智6年(667)が正しい場合、その造営は白村江敗戦(663)直後から始められたと思われますから、敗戦で疲弊した九州王朝には困難な事業と考えることもできます。そうすると九州王朝副都の前期難波宮を模倣した王宮を近畿天皇家(おそらくは天智天皇)が造営したことになりますから、近畿天皇家は没落しつつある九州王朝に代わって、列島の代表者になるという自覚と決意があったものと思われます。この見方が正しければ、『続日本紀』 に見える「不改の常典」がよく理解できます。すなわち、「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命は、九州王朝に代わって列島の代表者になったのは天智天皇の不改常典(代表王朝交代の宣言、権威継承の根拠)によると主張している。そのような理解が可能となるからです。
 このように、近江大津宮造営年二説の「6年の差」は古代史理解において、決定的な差を生じさせる論理性を有していることに、わたしは気づいたのです。(つづく)


第488話 2012/10/28

多元的木簡研究のすすめ

 第485話で紹介しました原幸子さん(古田史学の会々員)からの質問、「大化改新の宮はどこか」という問題について、昨日、正木裕さんとディスカッションしました。
 『日本書紀』大化二年条(646)に記された改新詔は九州年号の大化二年(696)に藤原宮で出されたとする説をわたしは発表していたのですが、藤原宮朝堂東側回廊の完成が大宝三年(703)以降であることが出土木簡から判明したため、696年に大極殿など主要宮殿が完成していたことが疑問視されているのです。さらに突き詰めれば、天武期(680年代)には造営が開始されていた藤原宮ですが、その回廊が703年に至っても完成していなかったということに、わたしは深い疑問を抱いたのです。
 こうした疑問もあり、正木さんと意見交換を行いました。まだ結論は出ていませんが、何か重要な視点(仮説)が抜け落ちているような気がしています。たとえば『日本書紀』で持統が694年に遷都したとされる「藤原宮」は発掘された藤原宮(鴨公村大宮土壇)と同じなのか、697年に文武が即位した宮殿はどこなのか、大宝元年(701)に文武が朝賀の儀式を行った宮はどこかといった問題を通説にとらわれず丁寧に再調査する必要を感じています。
 ちなみに、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)は文武が即位したのは(飛鳥)清原大宮とする説を発表されていますが、古田先生も同様の見解を京都で発表されました(10月21日、「森嶋学と日本古代史」京都市下京区旧・成徳中学校舎にて)。
 7~8世紀における九州王朝から近畿天皇家への権力交代を研究するうえで、同時代史料である木簡の多元史観による研究は不可欠です。このことを正木さんに提案し、「多元的木簡研究会」を立ち上げることで合意しました。具体的なことはこれから検討していきますが、将来的には研究成果を書籍として出版したいと考えています。


第444話 2012/07/20

飛鳥の「天皇」「皇子」木簡

 昨日は関東から多元的古代研究会の皆さんが来阪され、難波宮跡などの見学をされ、夕方は「古田史学の会」のメンバーと研修会・懇親会が行われました。わたしも研修会で前期難波宮九州王朝副都説について説明させていただきました。これを機に、関東と関西の古田学派の交流が更に深まるものと期待しています。
 古田史学では、九州王朝の「天子」と近畿天皇家の「天皇」の呼称について、その位置づけや時期について検討が進められてきました。もちろん、倭国のトップとしての「天子」と、ナンバー2としての「天皇」という位置づけが基本ですが、それでは近畿天皇家が「天皇」を称したのはいつからかという問題も論じられてきました。
 もちろん、金石文や木簡から判断するのが基本で、『日本書紀』の記述をそのまま信用するのは学問的ではありません。古田先生が注目されたのが、法隆寺の薬師仏光背銘にある「大王天皇」という表記で、これを根拠に近畿天皇家は推古天皇の時代(7世紀初頭)には「天皇」を称していたとされました。
 近年では飛鳥池から出土した「天皇」木簡により、天武の時代に「天皇」を称したとする見解が「定説」となっているようです。この点、市大樹著『飛鳥の木簡 — 古代史の新たな解明』(146頁)では、この「天皇」木簡に対して、「現在、『天皇』と書かれた日本最古の木簡である。この『天皇』 が君主号のそれなのか、道教的な文言にすぎないのか、何とも判断がつかない。もし君主号であれば、木簡の年代からみて、天武天皇を指す可能性が高い。」と されています。専門家らしく慎重な解説がなされており、ひとつの見識ではあると思いました。
他方、飛鳥池遺跡からは天武天皇の子供の名前の「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」などが書かれた木簡も出土しています。こうした史料事実から、近畿天皇家では推古から天武の時代において、「天皇」や「皇子」を称していたことがうかがえます。
 さらに飛鳥池遺跡からは、天皇の命令を意味する「詔」という字が書かれた木簡も出土しており、当時の近畿天皇家の実勢や「意識」がうかがえ、興味深い史料です。九州王朝末期にあたる時代ですので、列島内の力関係を考えるうえでも、飛鳥の木簡は貴重な史料群です。


第443話 2012/07/16

木簡に記された七世紀の位階

今日は祇園祭の宵山です。一年中で京都が最もにぎやかな夜。そして、明日はクライマックスの山鉾巡行です。今朝から御池 通には観覧客用の大量のイスが、車道二車線にびっしりと並べられています。これだけのイスをどこに保管していたのだろうと、疑問に思うほどの数のイスが河 原町通から新町通までの間に並べられるのですが、これも京都の風物詩一つです。
その一方で、北部九州を襲っている記録的豪雨。わたしの久留米市の実家や、うきは市の親戚の安否が心配で、毎日のように電話しています。ところが、京都 市も北区で川が氾濫し、驚いています。拙宅は御所の近くですので、地形的にやや高台になっており、雨水が溢れる心配はないようです。さすがは「千年の都」 だけに、御所のある場所は歩いていても気づかないのですが、微妙に「高台」になっているのです。
 さて、「戸籍」木簡に記されていた「進大弐」という位階の研究を続けていますが、『日本書紀』には、「進大弐」などが制定された天武14年条(685) 以外にも、大化期や天智紀にも位階制定・改訂記事がみえます。それらの位階制定が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるものかは実証的な研究が必要です が、その実在の当否は同時代金石文や木簡などによる検証が可能なケースがあります。
 たとえば、『日本書紀』によれば649~685年まで存在したとされる位階「大乙下」「小乙下」などは、「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記されて おり、一緒に出土した「辛巳年」(681年)と記された木簡から、時代的にも『日本書紀』の記述と一致しており、これらの位階記事が歴史事実であったと考えられるのです。
 したがって残された問題は、これら位階制度が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるのかという点なのですが、これも歴史学という学問の問題ですから、 史料根拠に基づいた実証的な研究と、論理的な検証が不可欠であることは言うまでもありません。もっと出土木簡の勉強を続けたいと思います。


第441話 2012/07/14

「戸籍」木簡の「進大弐」とONライン

 古田史学・九州王朝説にとって、木簡が果たした役割は小さくありません。たとえば、九州王朝から近畿天皇家への王朝交代時期を701年とするONライン(OLD NEW Line)は、木簡により明確になったものです。その根拠は、行政単位が九州王朝の「評」から近畿天皇家の「郡」に替わったのが701年(大宝元年)だったことが紀年銘木簡の「評」「郡」表記でした。このように同時代文字史料としての木簡は、歴史研究にとって第一級史料なのです。
 今回、太宰府市から出土した「戸籍」木簡も同様に貴重なものですが、そこに記された「進大弐」という位階記事も、その年代を特定できる根拠の一つとなりました。この「進大弐」の位階は『日本書紀』天武14年条(685年)に制定記事がありますが、この記事にある48等の位階は他の木簡にも記されていま す。
 第440話で紹介した市 大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』(210ページ)によると、藤原宮から大量出土した8世紀初頭の木簡に、次のような記事がありました。

「本位進第壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部 / 冠」

 山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階「進第壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。
 この木簡から、天武14年(685年)に制定された位階制度から、大宝元年(701年)から大宝二年に制定された律令による新位階制度へ変更されたことがわかるのです。ここにも、位階制度のONラインが存在したことが木簡により決定的となったのです。
 従って、「進大弐」の位階が記された太宰府市出土の「戸籍」木簡も7世紀末頃のものであることがわかるのです。


第440話 2012/07/13

市 大樹著
『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』の紹介

 最近、木簡研究のために関連書籍や論文を読んでいますが、先月、中公新書から刊行された市 大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』(860円+税)は、なかなかの好著でした。著者は奈良文化財研究所の研究員で、木簡の専門家です。東野治之さんのお弟子さんのようで、新進気鋭の日本古代史研究者といえそうです。
 もちろん、旧来の近畿天皇家一元史観による著作ですので、そのために多くの限界も見えますが、それらを割り引いても一読に値する本です。特に、飛鳥出土木簡の最新学説や研究状況を知る上で、多元史観研究者も読んでおくべき内容が随所に含まれています。
 ご存じのように、古代木簡は7世紀後半の「天武期」以降に出土量が急激に増えます。従って、九州王朝と大和朝廷の王朝交代期における九州王朝研究にとっ ても、木簡研究は不可欠のテーマなのです。わたしも、太宰府市出土「戸籍」木簡と同様に、飛鳥出土木簡の勉強を深めなければならないと、同書を読んで痛感 しました。
 なお、九州年号木簡である「元壬子年」木簡について、同書では「このうち、三条九ノ坪遺跡(兵庫県芦屋市)出土の壬子年の木簡は、弥生時代から平安時代 初頭までの遺物を含む流路から出土したもので、六五二年と断定するには一抹の不安が残る。」(26ページ)と、さらりと触れるだけで、読者には「壬子年」 の文字の上に記された「元」(従来は「三」と判読されてきた)の字の存在と意味が知られないよう、周到な「配慮」の跡が残されています。明らかに著者は、 わたしの九州年号の白雉「元壬子年」(652年)説を意識し、その上で九州王朝説・九州年号説はなかったことにしたのです。他の重要木簡については詳細な検討と解説を行っている著者でしたが、この一文を読み、「やはり逃げたな」と、わたしは思いました。近畿天皇家一元史観の限界を露呈する、日本古代史学界 の深い「闇」を、そこに見たのでした。


第432話 2012/06/30

 太宰府「戸籍」木簡の「進大弐」

 今回太宰府市から出土した「戸籍」木簡は、九州王朝末期中枢領域の実体研究において第一級史料なのですが、そこに記された「進大弐」という位階は重要な問題を提起しています。
 この「進大弐」という位階は『日本書紀』天武14年正月条(685年)に制定記事があることから、この「戸籍」木簡の成立時期は685年~700年(あるいは701年)と考えられています。わたしも「進大弐」について二つの問題を検討しました。一つは、この位階制定が九州王朝によるものか、近畿天皇家に よるものかという問題です。二つ目は、この位階制定を『日本書紀』の記述通り685年と考えてよいかという問題でした。
 結論から言うと、一つ目は「不明・要検討」。二つ目は、とりあえず685年として問題ない。このように今のところ考えています。『日本書紀』は九州王朝の事績を盗用している可能性があるので、天武14年の位階制定記事が九州王朝のものである可能性を否定できないのですが、今のところ不明とせざるを得ません。時期については、天武14年(685年)とする『日本書紀』の記事を否定できるほどの根拠がありませんので、とりあえず信用してよいという結論になり ました。
 この点、もう少し学問的に史料根拠に基づいて説明しますと、九州王朝の位階制度がうかがえる史料として『隋書』イ妥国伝があります。それによると九州王朝の官位として、「大徳」「小徳」「大仁」「小仁」「大義」「小義」「大礼」「小礼」「大智」「小智」「大信」「小信」の十二等があると記されています。『隋書』の次代に当たる『旧唐書』倭国伝にも同様に「官を設くること十二等あり」と記されていますから、7世紀前半頃の九州王朝ではこのような位階制度であったことがわかります。
 これに対して、「戸籍」木簡の「進大弐」を含む天武14年条の位階は全く異なっており、両者は別の位階制度と考えざるを得ません。したがって、「進大弐」の位階制度は『日本書紀』天武紀にあるとおり、7世紀後半の制度と考えて問題ないと理解されるのです。文献史学ですから、史料根拠を重視することは当 然でしょう。
 この結果、「戸籍」木簡に記された「進大弐」に残された問題、すなわちこの位階制度が九州王朝のものなのか、近畿天皇家のものなのかというテーマについて、わたしは毎日考え続けています。(つづく)


第268話 2010/06/19

難波宮と難波長柄豊崎宮

 第163話「前期難波宮の名称」で言及しましたように、『日本書紀』に記された孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は前期難波宮ではなく、前期難波宮は九州王朝の副都とする私の仮説から見ると、それでは孝徳天皇の難波長柄豊碕宮はどこにあったのかという問題が残っていました。ところが、この問題を解明できそうな現地伝承を最近見いだしました。
 それは前期難波宮(大阪市中央区)の北方の淀川沿いにある豊崎神社(大阪市北区豊崎)の創建伝承です。『稿本長柄郷土誌』(戸田繁次著、1994)によれば、この豊崎神社は孝徳天皇を祭神として、正暦年間(990-994)に難波長柄豊碕宮旧跡地が湮滅してしまうことを恐れた藤原重治という人物が同地に小祠を建立したことが始まりと伝えています。
 正暦年間といえば聖武天皇が造営した後期難波宮が廃止された延暦12年(793年、『類従三代格』3月9日官符)から二百年しか経っていませんから、当時既に聖武天皇の難波宮跡地(後期難波宮・上町台地)が忘れ去られていたとは考えにくく、むしろ孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と聖武天皇の難波宮は別と考えられていたのではないでしょうか。その上で、北区の豊崎が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されていたからこそ、その地に豊崎神社を建立し、孝徳天皇を主祭神として祀ったものと考えざるを得ないのです。
 その証拠に、『続日本紀』では「難波宮」と一貫して表記されており、難波長柄豊碕宮とはされていません。すなわち、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の跡地に聖武天皇は難波宮を作ったとは述べていないのです。前期難波宮の跡に後期難波宮が造営されていたという考古学の発掘調査結果を知っている現在のわたしたちは、『続日本紀』の表記事実のもつ意味に気づかずにきたようです。
 その点、10世紀末の難波の人々の方が、難波長柄豊碕宮は長柄の豊崎にあったという事実を地名との一致からも素直に信じていたのです。ちなみに、豊崎神社のある「豊崎」の東側に「長柄」地名が現存していますから、この付近に孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があったと、とりあえず推定しておいても良いのではないでしょうか。今後の考古学的調査が待たれます。また、九州王朝の副都前期難波宮が上町台地北端の高台に位置し、近畿天皇家の孝徳の宮殿が淀川沿いの低湿地にあったとすれば、両者の政治的立場を良く表していることにもなり、この点も興味深く感じられます。


第123話2007/02/25

藤原宮の「評」木簡

 この一年間、研究してきたテーマに木簡の史料批判があります。その成果として、「元壬子年木簡」など、九州年号研究にとって画期的な発見もありましたが(第69話、72話、他)、現在わたしが最も注目しているのは藤原宮出土の「評」木簡群です。

 『日本書紀』や『続日本紀』によれば、藤原宮は持統八年(694)から平城京遷都する和銅三年(710)年まで、近畿天皇家の宮殿として機能したのですが、そこから出土する「評」木簡は、九州王朝から近畿天皇家へ権力交代する701年の直前の時期に当たる木簡であることから、権力交代時の研究をするうえでの第一級史料といえます。
  たとえば、多くの木簡は「荷札」の役割を果たしたと思われますが、各地の地名を記した「評」木簡を見てみると、どのような地域から藤原宮へ貢物が届けられたかを知ることができ、当時の近畿天皇家の勢力範囲を推定することができます。
 ちょっと古いデータですが、角川書店の『古代の日本9』(昭和46年)掲載資料によれば、東は安房国の「阿波評」や上野国の「車評」、西は周防国の「熊毛評」などがあり、近畿だけでなく関東や東海、中国地方の諸国の「評」地名を記した木簡が出土しています。したがって、7世紀末時点では大和朝廷は東北を除いた本州全体を支配下に置いていたと考えられます。
  逆に言えば、この時点、九州王朝は九州島や四国ぐらいしか実効支配していなかったのかもしれません。そして、こうした背景(権力実態)があったからこそ、701年になってすぐ近畿天皇家は年号や律令の制定、評から郡への一斉変更をできたのではないでしょうか。藤原宮の「評」木簡を見る限り、このように思わ れるのです。