第83話 2006/06/10

「元壬子年」木簡の論理

 前話に続いて、「元壬子年」木簡がテーマです。今回はこの木簡の持つ論理性について更に深く考えてみたいと思います。「元壬子年」木簡の記述が直接的に指し示すことは、この時間帯(七世紀中頃)の年号の元年干支が「壬子」であるという事実です。『日本書紀』によれば、この時期の「壬子」の年は、孝徳天皇の時代、「白雉三年」(652年)が相当します。従って、木簡解読時に担当者が「元」の字を「三」と読み誤ったのには、それなりの理由があったわけです。

 一方、『二中歴』などに掲載されている九州年号では、この時期の「壬子」の年が「白雉元年」とされているのです。『日本書紀』と同じ「白雉」という年号が二年ずれて九州年号史料には多数収録されているのですが、この史料状況は九州年号真作説に有利な論理性を有していました。すなわち、もし九州年号が後代の偽作なら、「白雉」という年号名を『日本書紀』から盗用しておきながら、年次は二年ずらしたという、何とも奇妙な偽作方法となるからです。偽作するのに、全く必要のない手法です。従って、逆にこうした史料状況は偽作ではない証拠となるのです。この点を、偽作説論者は全く説明できていません。

 従って九州年号の白雉が偽作でなく、真実であるとなると、事態は逆転し、『日本書紀』の白雉が九州年号からの年次をずらしての盗用となること、当然でしょう。そして、この論理性が正しかったことを、「元壬子年」木簡が無比の物的証拠として証言しているのです。ここに、今回の発見の画期性があります。

 そこで次に問題となるのが、なぜ『日本書紀』編者は九州年号から白雉をわざわざ二年ずらして盗用したのかということです。それには一応の推測が可能です。すなわち、「大化の改新(詔勅)」の5年間を孝徳紀にはめ込みたかった。この可能性です。次の九州年号群を見て下さい。

常色 元(丁未)〜五  647−651
白雉 元(壬子)〜九  652−660
白鳳 元(辛酉)〜二三 661−683
朱雀 元(甲申)〜二  684−685
朱鳥 元(丙戌)〜九  686−694
大化 元(乙未)〜六  695−700

 これは『二中歴』から九州年号の後期部分を抜粋し、西暦等を付記したものです。このように年号は時間軸を表す「記号」として連続していなければ意味がありません。この点からも『日本書紀』の「大化・白雉・朱鳥」の三年号の現れ方は異常だったのです。

 この九州年号に「大化」があることに着目して下さい。『日本書紀』にも「大化」(645〜649)がありますが、既に述べてきましたように、「九州年号」が正しく、『日本書紀』が誤っていた、あるいは盗用していたという事実から見ると、ここでも九州年号の「大化」が『日本書紀』に50年ずらして盗用されていると考えるほかありません。

 そして、わざわざ50年もずらして盗用した理由は、「大化」という年号だけを盗用したかったなどとは考えられず、『日本書紀』の大化年間に散りばめられている、いわゆる「大化の改新(詔勅)」を年号の「大化」と一緒に盗用したとしか考えられないのではないでしょうか。少なくともその可能性が最も大きいと思います。このことから、結論は次のようです。

 七世紀末に九州王朝が発した「大化の詔勅」を大和朝廷は自らが発したものとして歴史を造作した。

 これです。そうでなければ、九州年号の大化を50年も遡らせて、自らの史書『日本書紀』に盗用する必要など全くないのですから。従来から、古代史学会で論争となってきた「大化の改新」の史実性についても、こうした「九州王朝の詔勅からの盗用」という新たな視点により、有効な解決がなされると思われます。

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