九州王朝の筑後遷宮
わたしは「九州王朝の筑後遷宮」というテーマを発表したことがあります(『新・古代学』第4集、1999年)。4世紀後半から6世紀にかけて、九州王朝は筑前から筑後へ遷宮したという仮説です。九州王朝は、高句麗や新羅の北方からの脅威に対して、より安全な筑後地方に首都を移したと思われ、それはちょうど倭の五王や筑紫の君磐井の時代にあたります。また、筑後川南岸の水縄連山に装飾古墳が多数作られる時期とも対応します。そして、輝ける天子多利思北孤の太宰府建都(倭京元年、618年頃)により再び筑前に首都を移すまで、筑後に遷宮していたと考えられるのです。この論証の詳細は「玉垂命と九州王朝の都」(『古田史学会報』24号)、「高良玉垂命と七支刀」(『古田史学会報』25号)をご参照下さい。
しかしながら、この仮説には解決すべき問題がありました。それは九州王朝の王宮に相応しい遺跡が筑後地方になければならないという考古学的な問題でした。一応の目途としては、久留米市にある筑後国府跡(合川町、他)や大善寺玉垂宮(三瀦町)付近にあるのではないかと推定していましたが、やはり5〜6世紀の王宮に相応しい規模の遺跡は発見されていませんでした。ところが、先週、ビッグニュースが飛び込んできたのです。
福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)から毎日新聞(6月22日、地元版)のコピーがファックスされてきました。「筑紫国の役所か」「7世紀後半の建物跡」「九州最大規模、出土」という見出しで、久留米市合川町から、ひさし部分も含めて幅18メートル、奥行き13メートルの建物跡の 柱穴(直径30〜60センチ)40本が出土したことが報じられていました。近くで出土した須恵器から7世紀後半の遺跡とされていますが、この時期の九州北部の編年はC14測定などから、土器編年よりも百年ほど古くなりますから、6世紀後半の遺跡と考えるべきでしょう。そうすると、筑後遷宮期の九州王朝の王宮の有力候補となるのです。なによりも、この時期の九州最大規模の建物という事実は注目されます。
新聞記事からは遺跡の正確な位置や詳しい内容がわかりませんので、これ以上の推測はやめておきますが、わたしの筑後遷宮説にとって、待ちに待ったニュースでした。