九州王朝の造籍事業
評制文書である庚午年籍は九州王朝により、白鳳十年(670)に全国的規模で造籍されたようです。『続日本後紀』の承和六年(839)七月条に中務省が 「左右京職五畿内七道諸国」に庚午年籍を書写して提出するよう命じています。承和十年(843)正月条でも再度書写と提出を諸国に命じていますので、庚午年籍が筑紫諸国だけではなく全国的規模で造籍されていたことがわかります。
こうした史料状況から、白村江の敗戦後、天子の薩夜麻を唐に捉えられていた九州王朝であるにもかかわらず、全国的な造籍が可能な支配力をまだ有していたことがうかがえます。
このような九州王朝の造籍力は大和朝廷の時代の大寶二年造籍でも受け継がれたようで、「用紙・体裁・記載様式における西海道戸籍の高度の統一性」が研究者 (宮本救氏)により指摘されています(『古代の日本9』角川書店)。こうした「西海道戸籍の高度の統一性」も、九州王朝説に立てば良く理解できるところで す。
通説では庚午年籍が全国的な戸籍としては初めてのものとされていますが、これが九州王朝にとって初めての造籍であったかどうかは、今のところ不明です。今後の研究課題と言えます。九州王朝説に立った造籍研究は前人未踏のテーマですが、どなたか挑戦されてみてはいかがでしょうか。