評から郡への移行
第189話で、大化二年改新詔が「建郡」の詔勅で、大和朝廷は「廃評建郡」を五年の歳月をかけて周到に準備したという結論に至ったのですが、そうした視点で『続日本紀』を読み直すと、それに対応する記事がありました。
まず『日本書紀』大化二年改新詔の大郡・中郡・小郡の建郡基準記事、郡司選任基準記事は、九州年号の大化二年(696)のこととなりますが、この詔を受けて、『続日本紀』では次の郡制準備記事が見えます。
○文武二年三月(698) 九州年号 大化四年
詔したまはく、「筑前国宗形・出雲国意宇の二郡の司は、並に二等已上の親(しん)を連任することを聴(ゆる)す」とのたまふ。
諸国の郡司を任(ま)けたまふ。因て詔したまはく、「諸国司等は、郡司を詮擬せむに、偏党有らむことなかれ。郡司を任に居たらむに、必ず法の如くにすべし。今より以後は違越せざれ」とのたまふ。
従来、この記事は700年以前のことなので、「郡」は「評」と読み替えられてきましたが、私の説では「郡」のままでよいことになります。すなわち、九州年号大化二年詔(696)の建郡基準・郡司任命基準記事を受けて、九州年号大化四年(698)に諸国司に命じて郡司を任命させたのです。ただし、何らかの事情により、筑前国宗形・出雲国意宇の二郡については、親戚を任命しても良いと特別に許可したのです。恐らくは九州王朝から大和朝廷の政権交代にからむ論功行賞だったのではないでしょうか。天武の妻に宗形の君徳善の娘がいたことにも関係ありそうです。
○文武四年六月(700) 九州年号 大化六年
薩末比売・久売・波豆、衣評督衣君県、助督弖自美、また、肝衝難波、肥人等に従ひて、兵を持ちて覓国使刑部真木らを剽劫(おびやか)す。是に竺志惣領に勅して、犯に准(なず)らへて決罰せしめたまふ。
大和朝廷による建郡も順調ではなかったことがこの記事からうかがえます。九州王朝の官職名「評督」「助督」を名のる薩摩の豪族の抵抗があり、大和朝廷が派遣した覓国使(くにまぎのつかい)が武力による妨害を受けているのです。恐らくは、九州王朝内の徹底抗戦派が薩摩に立てこもり抵抗運動を起こしたものと思われます。
また、ここに見える薩末比売こそ、現地伝承の大宮姫(天智天皇の妃とされる)のことで、九州王朝の天子薩夜麻の后であるという説をわたしは昔発表したことがあります(「最後の九州王朝─鹿児島県「大宮姫伝説」の分析─」『市民の古代』10集、1988、新泉社)。
こうして大和朝廷は九州王朝残存勢力の抵抗を排除しながら、全国に郡制を制定していったのです。そして、701年に大宝律令の公布とともに、全国一斉に評から郡へと変更したのです。出土した木簡はそのことを如実に示しています。(つづく)