2009年12月一覧

第239話 2009/12/21

纏向遺跡は

卑弥呼の宮殿ではない(3)

 238話では、漢字文明の痕跡の有無という視点から、纏向遺跡が「邪馬台国」では有り得ないことを説明しましたが、こうした考古学的事実との一致・不一
致という視点からすれば、他にも重要なテーマがあります。それは、弥生時代における二大青銅器文明というテーマです。

 弥生時代の日本列島には、北部九州等を中心とする「銅矛・銅戈」等の武器型青銅器文明圏と近畿等を中心とする「銅鐸」文明圏の二大青銅器文明圏が存在し
ていたこと著名です。従って、「邪馬台国」を中心とする弥生時代の倭国がこのいずれかの文明圏に属していたことは当然です。そして「邪馬台国」はそのいず
れかの中枢領域に位置していたことも当然でしょう。
 そこで問題となるのが、倭国はどちらの文明圏に属していたかということですが、その答えははっきりしています。魏志倭人伝中に記された倭国内の国々の所
在地で、殆どの論者で異議のない国がいくつかあります。たとえば対海国(対馬)、一大国(壱岐)、伊都国(糸島半島)、奴国(福岡県北部)などです。そし
てこの所在地が明確な国はいずれも銅矛・銅戈文明圏に属しています。従って、弥生時代の倭国は銅矛・銅戈文明圏の国なのです。
 ところが、纏向遺跡のある奈良県は銅鐸文明圏に属しています。この一点を見ても、纏向遺跡が「邪馬台国」ではなく、倭国の中枢領域でもないことは明々白
々な考古学的事実なのです。更に言うなら、纏向遺跡は銅鐸圏の中枢領域でさえありません。このような地域が「邪馬台国」であるはずがないのです。一体、
「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者達は、本当にこうした考古学的事実が見えているのでしょうか。
 このように「銅鐸」の視点から、「倭人伝に銅鐸が記述されていない」と指摘されたのは古田先生です。『古田史学会報』95号においても「時の止まった歴史学−岩波書店に告ぐ」という論文で、この問題を取り上げられていますので、ご一読下さい。

〔『古田史学会報』95号の掲載論文・記事〕
○時の止まった歴史学—岩波書店に告ぐ— 古田武彦
○九州年号の改元について(前編) 川西市 正木 裕
○四人の倭建  大阪市 西井健一郎
○梔子2 深津栄美
○エクアドル「文化の家博物館」館報 豊中市 大下隆司
○伊倉11 —天子宮は誰を祀るか— 武雄市 古川清久
○関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング


第238話 2009/12/13

巻向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない(2)

 237話では里程問題から、纏向遺跡が卑弥呼の宮殿では有り得ないことを指摘しましたが、別の視点からも同様のことが導き出されます。それは「漢字文明」の痕跡の有無という視点です。
 魏志倭人伝には当時の倭国の状況が簡潔ではありますが比較的多く記されています。この古代中国での史書編纂という、自国のみならず周辺諸国の文物をも記録するという一大漢字文明の業績により、わたしたちは弥生時代の日本の様子を知りうることができる言っても過言ではありません。
 その倭人伝には次のような重要な情報が記されており、「邪馬台国」を中心とする倭国は、中国の漢字文明圏に属しており、倭国の文字官僚たちは漢字を使用していたことがわかるのです。

 「古より以来、其の史中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。」
 「詔書して倭の女王に報じて曰く、『親魏倭王卑弥呼に制詔す。(以下略)』」

 このように、倭国の使者が古より「大夫」という中国風「官職名」を自称しており、度々詔書を貰っていることなどが随所に記されています。当然のこととし て、詔書は漢字漢文で書かれており、倭国側もそれが読めたはずです。この他にも「伝送の文書」「金印」など漢字が記されている文物の記載もあります。
 こうした史料事実から、倭国は漢字漢文を使用しており、漢字文明圏に属していたことを疑うことができないのです。それでは弥生時代の大和盆地の遺跡遺物 に漢字文明の痕跡はあるでしょうか。纏向遺跡から出土しているのでしょうか。弥生時代の日本列島を代表するほどの出土事実はあるのでしょうか。答えは簡単です。「ノー」です。
 考古学が科学であり、学問であるのならば、考古学者はこの倭人伝と纏向遺跡の「完璧な不一致」から目を背けてはなりません。学問的良心があるのなら、この「完璧な不一致」から逃げてはなりません。
 他方、目を転ずれば、北部九州の弥生遺跡にこそこの漢字文明の痕跡が集中出土していることは天下の公知事実です。たとえば、「漢委奴国王」という漢字が彫られた志賀島の金印を始め、いわゆる漢鏡と呼ばれる弥生の鏡に記された多数の「銘文」などです。これら漢字文明の痕跡が大量かつ集中出土している筑紫こそが倭国の中心であり、「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)がその地に存在していたことを、倭人伝と考古学事実の「完璧な一致」が証言しているのです。(つ づく)


第237話 2009/12/06

巻向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない(1)

 巻向遺跡で発掘された弥生時代の住居跡が「邪馬台国」の女王卑弥呼の宮殿であるかのような報道がテレビや新聞でなされましたが、これは学問的に見れば全 くナンセンスなことです。古田史学をご存じの方には言うもおろかですが、「邪馬台国」(『三国志』魏志倭人伝には邪馬壹国と表記されており「邪馬台国」と するのは誤り)のことが記されている中国の史書『三国志』には、「邪馬台国」の位置を次のように表記しています。

「郡より女王国に至る、万二千余里」

 すなわち、帯方郡(今のソウル付近)から約12000里離れたところに女王卑弥呼の国はあると述べているのです。したがって、『三国志』で使用されている1里が何メートルかを調べれば、女王国の大まかな位置がわかるように記されているのです。
 従来説では漢代の1里435メートルと同じとされてきましたが、古田先生は1里約77メートルとする短里説を唱えられたのは、ご存じの通りです。
 1里約77メートルの短里説にたてば、12000里は北部九州にピッタリですが、435メートルの長里説にたちますと、九州も巻向遺跡のある大和盆地も はるかに通り越し、太平洋の彼方に「邪馬台国」はあったことになるのです。従って、学問的には短里でも長里でも絶対に大和では有り得ないのです。
 「邪馬台国」畿内説論者はこの魏志倭人伝の位置表記を百も知っていながら、この単純明快な史料事実を国民には伏せたまま、巻向遺跡の住居跡を卑弥呼の宮殿であるかのように、大騒ぎしているのです。その手口は学問的態度とはかけ離れており、「醜悪」と言うほか有りません。(つづく)

参考『吉野ヶ里の秘密』光文社
 1章「邪馬台国」にトドメを刺(さ)す 古田武彦