2010年10月一覧

第288話 2010/10/29

永納山山城を見る

10月23〜24日に四国へ行って来ました。23日は、合田さん(古田史学の会全国世話人)や今井久さん(古田史学の会・四国)のご案内で、永納 山山城を見学しました。四国で発見されたただ一つの神籠石山城とされていますが、今回実見した結果、いわゆる北部九州の神籠石山城との共通点や違いを確認 できました。
考古学界や古代史学界で、神籠石山城の定義が合意形成されているようには思えませんが、おおよそ次のような特徴が指摘できます。
(1)直方体状に加工された列石に囲まれており、その列石上に土塁がある。あるいは、柵なども設置されている。
(2)その列石と土塁の内部に水源があり、列石と水路の交点には石積みの水門がある。
(3)同じく内部に倉庫跡などがあり、「逃げ城」的性格が見て取れる。

永納山山城は列石が切石ではなく自然石であることが、この定義からは外れますが、その他は共通しているようです。従って、あえて定義命名するならば、「自然石利用型」神籠石山城と呼べるかもしれません。しかし、よく考えると「神籠石山城」という名称もあまり学問的論理的名称とは言えないのではないでしょうか。もともと、学界で長く続いた「神域説」と 「山城説」の論争があり、その神域説に基づいた名称が「神籠石」と呼ばれた歴史的背景だったからです(福岡県久留米市の高良山では学界論争以前から「神籠 石」という名称がありました。戦国末期の成立とされる『高良記』に「神籠石」と記されています)。その論争も発掘調査の結果、「山城説」で決着しているの ですから、神籠石山城という名称は論理的に矛盾しているのです。
そこで、より学問的な名称は無いものかと、永納山山城を見ながら考えたのですが、たとえば大野城などのような積石式山城が、「朝鮮式山城」と朝鮮半島の 古代山城との類似から呼ばれていることに倣えば、北部九州式山城と呼ぶのも一案ではないでしょうか。あるいは、九州王朝説の立場を明確にするのであれば、 ズバリ「九州王朝式山城」も良いかも知れません。その形状に着目するのであれば「列石・土塁式山城」というのもイメージしやすくて、考古学的な名称とは言 えないでしょうか。
これらを叩き台にして、まずは古田学派内での合意形成が図れればいいですね。なお、古田先生におたずねしたところ、「神籠石」というのは当て字であり、本来「コウゴイシ」には別の意味があったとされています。いずれ先生から詳しく発表されると思います。


第287話 2010/10/19

『古田史学会報』100号の紹介

記念すべき『古田史学会報』100号が発行されました。古田先生からの記念のご寄稿もいただきました。ページ数も通常の16頁から24頁となり、編集担当の西村さんのご苦労が偲ばれました。
もちろん、内容も充実しています。中でも6月に開催した「禅譲・放伐」シンポジウムの内容を大変要領よくまとめられた大下さんの報告は見事な内容です。 同じく発表の要旨を寄稿された正木稿も好論文です。なお、同シンポジウムのテープ起こしを『古代に真実を求めて』14集に掲載予定です。来春発行されます のでご期待下さい。
『古田史学会報』100号の内容
○忘れ去られた真実ーー100号記念に寄せて  古田武彦
○禅譲・放伐論争シンポジウム・要旨  豊中市 大下隆司
○地名研究と古田史学  京都市 古賀達也
○古代の大動脈・太宰府道を歩く  神戸市 岩永芳明
○「禅譲・放伐」論稿  川西市 正木 裕
○長屋王のタタリ  奈良市 水野孝夫
○越智国に在った「紫宸殿」地名の考察  松山市 合田洋一
○漢音と呉音  富田林市 内倉武久
○新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝  大阪市 西井健一郎
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内


第286話 2010/10/17

卑弥呼は桜井にいたか?

  昨日の関西例会では久しぶりにビデオ鑑賞を行いました。弥生時代の宮殿跡が出土した纏向遺跡の発掘調査担当者である橋本輝彦氏の講演ビデオで、演題は「卑弥呼は桜井にいたか?」(本年9月25日「先人に学ぶ人間学塾」主催)。木村賢司さんが撮影されたものです。
 纏向遺跡が「邪馬台国」ではないことは、第237、238,239話などで指摘しましたし、古田学派内では「邪馬台国」論争はとっくに終わっています。しかし、畿内説論者の言い分も知っておいたほうが良いという木村さんの配慮により、ビデオ鑑賞することになったものです。
 そして、木村さんの意見は正解でした。邪馬台国畿内説の非論理性というものが良く理解できたからです。中でも、纏向遺跡から出土した小規模鍛冶遺構の痕跡とされる鉄くず(カナクソ)の説明には驚きました。橋本氏は畿内と北部九州の勢力は当時友好的であった証拠として説明されたのです。すなわち、武器や農具の材料となる製鉄技術が先進地である北部九州から纏向にもたらされたのは、両者が友好的であった証拠とされたのです。
 北部九州の勢力と纏向遺跡にいた勢力が友好的だったとするのは大賛成ですが、それならば当時の倭国の代表者であった「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)は 製鉄の先進地である北部九州にあったとするのが、学問的論理性というものではないでしょうか。同講演会では最後に参加者からの質問がありました。もしわたしが参加していたら、必ずこの質問をしたと思いますが、「邪馬台国」畿内説の橋本輝彦氏がどう返答されるのか、興味津々です。なお、ビデオで見た橋本氏のお人柄は誠実そうな方でした。だからこそ、正直に製鉄の先進地は北部九州と言われたのでしょう。   
 10月度関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「尊卑・長幼」「近時中国寸評」(豊中市・木村賢司)

(2) ビデオ鑑賞「卑弥呼は桜井にいたか?」橋本輝彦氏講演(撮影・木村賢司)

(3) 磐井の乱の再検討(川西市・正木裕)
 『書紀』継体紀で、古田氏が九州王朝の天子「磐井」だとされる「委意斯移麻岐弥」(『書紀』では「穂積臣押山」)は、任那の四国や伴跛の己文*、加羅の多沙津を百済に割譲する等「親百済」で、これは当時の倭国の立場と一致する。逆に「近江毛臣」は南加羅等の新羅への割譲始め一貫して「親新羅」だ。
 従って毛臣が新羅討伐軍の大将とあるのは不自然だし、新羅から「磐井に」倭国への謀反要請があったとするのも、「磐井に」ではなく「毛臣に」であり、毛臣は新羅を討伐する側ではなく、新羅の要請で謀反を起し討伐される側と考えるのが自然だ。
 また毛臣が帰還の勅命に叛いたため、阿利斯等が謀反を企図し戦となった記事も、本来は毛臣の謀反・叛乱であり、これが「遂に戦ひて受けず」という磐井の叛乱記事として『書紀』に盗用されたと見るべき事を指摘した。
文* は、三水偏に文。JIS第3水準ユニコード6C76

(4) 大和川の水利(木津川市・竹村順弘)
(5) 後漢書・三国志の日付干支(木津川市・竹村順弘)

(6) 『日本書紀』と《『須田鏡』における男弟王の年紀》から割り出される真実(たつの市・永井正範)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・藤原不比等(顕彰)碑・神武東征とは南九州の話・他(奈良市・水野孝夫)


第285話 2010/10/12

「日の丸」の起源

10月9日の久留米地名研究会での講演会は御陰様で盛況でした。するどい質問もいただき、参加者の熱心さが伝わってきました。主催者の皆さまや参加していただいた皆さまにお礼申し上げます。
今回の京都からの往復の新幹線内では、『知っておきたい「日の丸」の話し』吹浦忠正著(学研新書)を読みました。著者はわが国における「国旗」研究の第一人者で、その博識ぶりが随所に記された好著でした。
中でも「日の丸」の起源について触れられた部分は参考になりました。氏の見解は「日の丸」は古代日本における太陽信仰に淵源するものとされていますが、 この点、古田先生と同見解です。更に、通例では「日の丸」の起源を『続日本紀』の文武天皇大宝元年正月朝賀の儀に飾られた日像が初見史料とされているよう ですが、著者はそれよりも早い時期に成立している法隆寺蔵「玉虫厨子」に描かれた日像、あるいは7世紀前半の珍敷塚古墳(福岡県)の壁画に描かれた太陽な どを起源として考えるべきではないかとされています。
いずれも九州王朝に関係しそうな史料・遺跡であることに興味を覚えました。もちろん、日本列島における太陽信仰は九州王朝以前から、恐らくは旧石器縄文 時代にまでさかのぼるものと推測されますが、「日の丸」に対して様々な視点から解説されている同書の読後感はとてもさわやかなものでした。


第284話 2010/10/02

久留米地名研究会 済み

 来る10月9日(土)に久留米地名研究会で講演をします。会場は「えーるピア久留米(久留米生涯学習センター)」(西鉄久留米駅から南徒歩10分)で午後1時半からです。演題は「筑後 地方の九州年号−九州王朝の地名研究とその方法−」で、九州年号を切り口にして九州王朝の実在を論じ、「九州」という地名が持つ論理性について触れます。 後半は具体的な地名研究の歴史学への応用として、『古事記』神武記の史料批判と北部九州の地名との関連を紹介する予定です。
 他方、筑後地方の九州年号や地名・神名調査の協力についてもお願いしたいと考えています。地名研究が歴史研究にどのように貢献できるかを参加者の皆さんと一緒に考える機会になればと楽しみにしています。
 下記に講演レジュメの一部を紹介します。ふるってご参加下さい。

1.九州年号の論理
1) 鶴峯戊申『襲国偽潜考』で古写本「九州年号」より九州年号を紹介。
2) 明治25年『日本史学新説』広池千九郎著 で古写本「九州年号」より九州年号を紹介。
3) 宇佐八幡宮文書『八幡宇佐宮繋三』元和三年(1617)五月、神祇卜部兼従編纂  「文武天皇元年壬辰大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り 給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ、」 ※〔 〕内は細注。
参考
九州年号・九州王朝説 ーー明治二五年 冨川ケイ子(会報68号)
「宇佐八幡宮文書」の九州年号古賀達也(会報五九号)

2.「九州」の論理
古田武彦氏との共著『九州王朝の論理』所収「九州」史料一覧参照

3.筑後地方の九州年号
『耳納』掲載「筑後地方の九州年号」参照

4.『古事記』神武記の地名と神名
○『古事記』「熊野村」「吉野河の河尻」「宇陀」「訶夫羅前」「井氷鹿(井光)」
○『筑後志』三瀦郡  「威光理明神社 同郡六丁原村にあり。」 「威光理明神社 同郡高津村にあり。」
参考
盗まれた降臨神話 『古事記』神武東征説話の新史料批判 古賀達也(会報48号)

5.「元壬子年」木簡の論理と衝撃
芦屋市三条九ノ坪遺跡出土(1996年)『市民タイムズ』(長野県松本市)2006/08/20 参照