2011年10月一覧

第344話 2011/10/22

東アジアの古代象嵌銘文大刀

 10月15日の関西例会も盛沢山の発表で、充実した一日となりました。中でも、正木さんからの四寅剣に関する解説はとても勉強になりました。その時に紹介された西山要一氏の論文「東アジアの古代象嵌銘文大刀」は中国や朝鮮半島、日本の古代象嵌大刀を詳細に調査報告されたもので、優れた研究業績と思われました。同論文はインターネットでも閲覧が可能ですので、是非御覧になられることをお奨めします。
 大下さんの発表は、7世紀以前の大阪上町台地には「難波」地名はなかったというもので、前期難波宮の創建を天武期とされるものです。この問題については質疑応答や討論が行われました。大下さんは会報でも発表予定ですので、活発な論争が期待されます。
 当日の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 反省 ミリアムは二人いた(向日市・西村秀己)
2). 住吉の大神は和珥氏の小戸航海神(大阪市・西井健一郎)
3). 呉寿夢の後裔氏族(木津川市・竹村順弘)
4). 最後の法隆寺見学(豊中市・木村賢司)
5). 元岡古墳群G6号古墳から発掘された鉄剣(刀)について(川西市・正木裕)
6). 小郡飛鳥説からの天智十年十二月の童謡の解釈(川西市・正木裕)
7). 古代大阪湾の新しい地図(難波の地名)(豊中市・大下隆司)
8). 二中歴都督歴と年代歴元稿(木津川市・竹村順弘)
9). 二中歴都督歴と公卿補任(木津川市・竹村順弘)
○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田氏近況・会務報告・法隆寺見学「戊子年銘釈迦三尊像」・磐船神社から富雄真弓塚探訪・『先代旧事本紀大成経』・他(奈良市・水野孝夫)

第343話 2011/10/16

『古田史学会報』106号の紹介

『古田史学会報』106号が発行されましたので御紹介します。105号での上城さんからの論争提起に応えて、正木さ んが小郡のアスカについての関西例会などで発表されてきた自説を詳細に説明されています。読者の皆さんにも関西例会の討論の内容や雰囲気が伝わるのではな いでしょうか。
正木さんのもうひとつの論稿「磐井の冤罪 I」も関西例会で発表されてきたものです。『日本書紀』継体紀の新たな史料批判が展開されており、注目されます。
古谷さんからは、史料紹介として「明王より豊臣秀吉に贈れる冊封」に尚書の「海隅日出 罔不率俾」や「卉服」が見えること、南京市の南朝石碑に全面「鏡文字」があることなどが紹介されました。古谷さんの博識ぶりがうかがえます。
このところ、会報への投稿が増えており、不採用や掲載が後回しになる原稿も少なくありません。早く掲載されるコツとしては、短い論文にされることです。 空いたスペースを埋めるさいに、採用される可能性が高くなります。古田説と異なることを理由に不採用になることはありませんが、その場合、なぜ古田説より も自説が優れているかの説明が不可欠です。御配慮下さい

『古田史学会報』106号の内容
○論争の提起に応えて  川西市 正木裕
○「邪馬一国」と「投馬国」の解明 
ーー倭人伝の日数記事を読む 姫路市 野田利郎
○唐書における7世紀の日本の記述の問題  山東省曲阜市 青木英利
○反論になっていない古賀氏の「反論」  富田林市 内倉武久
○磐井の冤罪 I  川西市 正木裕
○史料紹介  枚方市 古谷弘美
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集

第342話 2011/10/09

「大歳庚寅」銘鉄刀は四寅剣(刀)

昨日行われた古田先生の記念講演会「俾弥呼とは誰か」(主催:ミネルヴァ書房)は大盛況でした。定員350名の会場に約430名が来場されたとのこと。 遠く山形県や九州から来られた人や、90歳の古田史学の会々員の方も、これが最後になるかもしれないと出席されていました。
講演終了後のサイン会には50名近くの人が列を作り、講演でお疲れのはずにもかかわらず古田先生は長時間かけて一人一人丁寧にサインされていました。ファンや読者を大切にされる古田先生のお姿を見て、あらためて本当に立派な先生だなあと感激しました。
会場には正木裕さん(会員)ご夫妻も見えておられ、正木さんから「庚寅鉄刀の正体がわかりましたよ。あれは四寅剣(しいんけん)です。」と貴重な情報をいただきました。正木さんによると、四寅剣は干支が寅の年、寅の月、寅の日、寅の時に作られた剣を四寅剣といい、朝鮮半島古来の伝統の剣とのこと。そして、 570年が庚寅の年で、正月が寅の月、その六日が寅の日になり、もし寅の時(午前3時~5時)に作られたのであれば四寅剣になるとのことでした。これが、 月と日と時だけが寅の場合は三寅剣とよばれるそうです。
わたしは四寅剣のことは全く知らなかったのですが、この話しを聞いてなるほどと納得しました。それは銘文にある「時」という字が不要のように思われ、疑問点として残っていたからです。
わたしは「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」という銘文を「大歳庚寅正月六日庚寅の日の時に、十二本の刀すべてを作り練り果たした。」と第 341話では読んだのですが、この「庚寅の日の時に」という読解にちょっと変な表現だなと感じていたのです。むしろ、「時」の一字がなければ「庚寅の日に」とすっきりした読みが可能となるからです。
ところがこれが四寅剣であれば、「大歳庚寅正月六日庚寅の日と時に」と読んで、四つの寅が重なったことを、すなわち四寅剣であることを示すために「時」の一字が必要不可欠となり、銘文としても過不足ないものとなるのです。
こうした理解から、この鉄刀は四寅剣、正確には「四寅刀」であることわかり、この鉄刀の史料性格がより明らかになったと思われます。朝鮮半島では古代から 中近世にかけて四寅剣が数多く作られたようで、四寅剣は国家の危機を救う「辟邪」として重宝されたようです。この点、正木さんから関西例会や会報で詳細な報告がなされると思います。
今回なお残された問題として、この「大歳庚寅」四寅刀が朝鮮半島で作られたものか、日本列島で作られたものかというテーマがありますが、鉄の成分分析などで明らかになればと期待しています。また四寅剣の様式など、朝鮮半島のものとの比較も必要となるでしょう。引き続き調査検討を深めたいと思います。正木さんの御教示に感謝いたします。


第341話 2011/10/02

「大歳庚寅」銘鉄刀の目的

福岡市西区の元岡古墳群から出土した鉄刀の銘文について検討考察をすすめてきましたが、いよいよ最終段階に入りたいと思います。それは、この鉄刀が作られた目的(史料性格)についてです。
実は、この鉄刀の銘文はちょっとへんなのです。「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」とあるだけで、その前後には銘文はないようですが、これ では鉄刀を作った年月日が記されているだけで、そのことにどんな意味があるのか銘文からは不明なのです。
銘文を持つ古代の鉄刀(剣)はいくつか出土していますが、欠損のため一部しか銘文が残っていないものはともかく、その他は基本的に何のためにその鉄刀 (剣)が作られたかという制作目的や史料性格を銘文からうかがい知ることが可能です。ところが、この「大歳庚寅」銘鉄刀には、それら制作意図や鉄刀を与え る目的などがわからないのです。
一応、わたしは大歳干支表記や九州年号改元年との一致などから、新倭王即位と改元を記念して作られたものとする理解をえましたが、銘文そのものには製作 年 月日ぐらいしか記されていないのです。わたしにはこのことが不思議に思えたのですが、マスコミの発表などを読む限りは、このような点に触れた記事はないよ うです。
そこでわたしは、そうした鉄刀制作者の意図とその授与の目的を銘文から読みとれないかと考え続けてきました。そして、そのキーワードを見つけたのです。 それは、銘文の後半部分「作刀凡十二果(練)」の部分です。新聞などの説明では、この部分を「全てよく練り鍛えた刀」という意味に読んでいますが、この解 釈には納得できません。
通常、鉄刀(剣)などの銘文での常套句は「百練」です。例えば、国内では最も古い後漢の年号を持つ「中平」銘鉄刀は「百練」と記されていますし、有名な 七支刀も「百練」、稲荷山古墳出土鉄剣銘も「百練利刀」、江田船山古墳出土鉄刀でも百練よりは少ないのですが「八十練」です。
これらの銘文が示すように優れた鉄剣・鉄刀を表す常套句(実際そのくらい練ったのかもしれませんが)は「百練」「八十練」であり、「大歳庚寅」銘鉄刀の よ うに「十二果練」では、鉄刀の出来を誉めているのか、けなしているのかわからないような回数ではないでしょうか。そこで、新聞発表などでは「凡十二果 (練)」を「全てよく練り鍛えた刀」などと、苦し紛れの解釈になったのではないかとにらんでいます。
そこでわたしは、「十二」を練った回数ではなく、鉄刀の数と理解しました。次のような読解です。「大歳庚寅正月六日庚寅の日の時に、十二本の刀すべてを作り練り果たした。」
このように「十二」を鉄刀の本数と見れば、数的に無理のない妥当なものとなります。すなわち、新倭王は即位改元にあたり、十二本の鉄刀を作り、その記念 すべき日に作った刀であることを象嵌し、恐らく九州王朝内の有力12氏族の長に与えたのでしょう。そしてその内の1氏族の子孫の墓が元岡古墳群だったので す。
そうすると次に問題となるのが、何故12本なのかということです。もちろん、九州王朝直属の有力氏族の数が12氏族だったという場合もあるかもしれませ んが、それだとちょっと少ないように思われます。従って、逆に積極的に12本(12氏族)が選ばれたと考えた場合、それはどのような場合でしょうか。
わたしには一つのアイデア(作業仮説)があります。それは、藤原宮のように12の門が当時の九州王朝の王宮にあったとすれば、藤原宮と同様にそれら各門 を1氏族で守ることになり、合計12氏族で王宮防衛にあたることになります。このように理解すれば、防衛任務の責任者に武力の象徴でもある「鉄刀」を下賜 することは、充分にあり得ることですし、宮門防衛氏族の象徴(証明)としてこの「大歳庚寅」銘鉄刀が自他共にその役割を認めることになるのです。
従って、王宮防衛氏族としてその任務と名誉は子孫に受け継がれたはずですから、7世紀中頃の古墳から出土したことも肯けます。おそらく、7世紀中頃には 王宮防衛の任務を解かれたため、その時点で古墳に埋納されたものと思われます。あるいは、新たな王宮防衛の「証明」物が与えられたのかもしれませんが、そ れよりもその氏族が任務を解かれたため、子孫に引き継ぐことなく埋納した可能性が高いのではないでしょうか。
更に、この7世紀中頃に王宮防衛の任務を解かれたという仮説に基づくならば、一体何が九州王朝で起こったのでしょうか。これも想像の域を出ませんが、九 州王朝の副都前期難波宮の完成(652年・九州年号の白雉元年)と関係があるのではないかとにらんでいます。難波の副都完成にあたり、王宮防衛の任務の一 部が関西の氏族と交替になったため、元岡古墳群被葬者の氏族が任務から外れたのではないでしょうか。
これらは想像の域を出ませんが、「大歳庚寅」銘鉄刀が大和朝廷から下賜されたとする、大和朝廷一元史観の説よりは説得力があると自負しています。

第340話 2011/10/01

「大歳庚寅」鉄刀銘と「金光」改元

 前話で紹介した「大歳庚寅」鉄刀銘文について、ちょっと気にかかる点がありました。それは「大歳庚寅正月六日庚寅日時作凡十二果(練)」という短い文に年干支と日付干支の両方が記され、しかも共に「庚寅」という点です。
 もちろん、古代金石文において年干支と日付干支の両方が記されている例はあるのですが、鉄刀の背という狭いスペースに象嵌という手の込んだ技術で作刀の時期を記す場合、年干支「大歳庚寅」と「正月六日」という日付表記で事足りるのに、わざわざ「正月六日庚寅」と日付干支まで丁寧に記されていることに、作刀者の強い意志と意図を感じるのです。しかも、年干支と同じ「庚寅」なのですから、これも偶然とは考えにくいと思います。
 日付干支が「庚寅」となる「正月六日」にたまたま作刀したのではなく、年干支と同じ「庚寅」となる「正月六日」を作刀日に選んだ可能性が濃厚なのです。 それほど「庚寅」という干支を意識したのです。その理由をわたしなりに考えてみました。それは九州年号「金光」への改元との関わりです。
 この鉄刀銘の庚寅が570年であることは確実ですが、この同じ年に九州年号が「和僧」から「金光」へと改元されているのです。この「金光」との関係で作刀日を「庚寅」にしたのではないでしょうか。古代中国では陰陽五行説(諸説あります)に基づいて鏡や刀の作成日を選んだり、吉祥句として記したりしている 例が少なくありませんが、この「庚寅」という干支も陰陽五行説によれば、庚は「金」と「陽」に相当し、寅も「陽」に相当するとされています。この「金」と 「陽」に基づいて、あるいは因果関係は逆かもしれませんが、「金光」という年号が制定されたように思われるのです。
 従来わたしは、九州年号の「金光」は九州王朝への金光経伝来を記念して制定された年号ではないかと考えていました。しかし、この推測には弱点がありました。それは『二中歴』年代歴の「金光」年号細注に何も記されていないということでした。ご存じのように、『二中歴』年代歴の九州年号の細注には仏教関連記事が少なからずあり、たとえば、「端政」の細注には「唐より初めて法華経渡る」とあり、「仁王」には「唐より仁王経渡る」、「僧要」には「唐より一切経三 千余巻渡る」などの仏教経典伝来記事がありますが、「金光」にはないのです。
従って、今回の鉄刀銘文の考察のように、一応、金光経伝来とは別に、陰陽五行説との関連で「金光」年号を捉えることができたのは、新たな理解(作業仮説)として有益と思われました。
 こうした仮説が正しければ、この「大歳庚寅」象嵌鉄刀は、前年の倭王崩御に伴い、新倭王が即位し、「大歳庚寅正月六日庚寅」に「和僧」から「金光」へと九州年号が改元されたことを記念して作られたのではないかという考えへと進まざるを得ないのですが、いかがでしょうか。
 なお、「大歳庚寅」(570)に即位した倭王は、多利思北孤の前代の倭王(玉垂命・襲名するため一人ではない)の可能性が濃厚です。『太宰管内志』(筑後国大善寺玉垂宮)によれば、玉垂命は端政元年(589)に崩御したとありますから、金光元年(570)即位の倭王は当時の玉垂命と推定できます。この時、 九州王朝の都となる太宰府条坊都市は未完成で、それ以前の筑後遷宮期の倭王ですから、本拠地は筑後です。
 恐らく、新倭王(玉垂命)の即位と「金光」への改元を記念して作られた「大歳庚寅」象嵌鉄刀が、九州王朝直属の有力者へ配られ、その内の一つが今回出土した鉄刀ではないでしょうか。
 (追補)第339話を読んだ正木裕さんからメールが届き、『善光寺縁起』に「金光元年庚寅歳天下皆熱病」という記事があり、前代の倭王の死因はこの熱病と関係しているのではないかという御指摘を得ました。大変面白い記事です。他の九州年号史料の調査が待たれます。